PROFILE
杜康 潤(とこう・じゅん)
11月2日生まれ。マンガ家。
2007年、季刊ウンポコvol.10(新書館)にて、実家のお寺の日常とお坊さんの修行を描いたエッセイ・コミック「坊主DAYS」でデビュー。
主な作品に「坊主DAYS」「中国トツゲキ見聞録」(共に新書館)、「孔明のヨメ。」(芳文社)、「梨花の下で 李白・杜甫物語」(KADOKAWA/中経出版)などのほか、荒川弘との共著「三国志魂」(コーエーテクモゲームス)がある。



荒川弘先生が描く大人気の農業エッセイ・コミック「百姓貴族」第6巻の発売を記念して、ゲストご自身との関連に触れつつ「百姓貴族」の感想を語っていただくインタビュー企画!!
第二弾では荒川先生とはなんと約四半世紀(!)のおつきあいになるというマンガ家・杜康潤先生が前・後篇で登場です!




———杜康先生と荒川先生はお互いのエッセイ・コミックにしばしば登場していらっしゃって、その仲の良さがうかがえるのですが、おふたりの出会いについて教えてください。

もう20年以上前に遡ります。まだSNSがないため手紙とかでやり取りしながら歴史好きが集まって同人誌を作ったり、歴史系のゲーム雑誌に投稿したり、そういうのが盛んな時代だったのですが、私が歴史系のとあるサークルに入った時、そこに荒川さんも所属していらしたんです。

———具体的なジャンルはなんでしょうか。

三国志です。実は私の方は知り合う以前から荒川さんの存在を知っていまして。当時、光栄(現コーエーテクモホールディングス)さんが出していた歴史系ゲーム投稿誌に、荒川さんが三国志のイラストを投稿していらしたんです。ものすごく絵が上手くて面白い人がいるな、とずっと思っていました。そうしたら入ったサークルにそのご本人がいらしたので、本当にびっくりしました。
その後、私の地元でオフ会が開催される事になりまして、荒川さんにお手紙で「よかったらうちの宿を提供しますよ、寺なんですけど」と書いて誘ってみたら、「うん、行くからよろしく」って、即答! 正直、会った事もないのに(笑)。

———フットワークが軽いですね(笑)。その当時、おふたりは何をやっていらっしゃったんですか?

私は学生で、荒川さんはまだ農業をやっている頃でした。

———「百姓貴族」に、農業をやっていた当時の荒川先生の一日のタイムスケジュールが載っていましたが、荒川先生はよくオフ会に来られましたね。


季節が冬だったので……。

———ああ農閑期!

そうなんですよ。
で、空港で初めて会った荒川さんの第一印象は……「デカい人が来た!」。
私は身長が168cmなんですけど、私より背が高い同性は周囲にあまりいなかったので新鮮でした(笑)。その後、うちに泊まっていただいて、一通り楽しいイベントが終わって帰られたあとに、荒川さんから「御礼です、うちの農園で作りました」って、じゃがいも一箱がドカンと届いたんです。おそらくキタアカリだったんじゃないかと思うんですが、それで肉じゃがを作ったら、これがおそろしく美味しくてですね! 
それ以来、年賀状を送り合ったり、荒川さんが上京した時には、逆に私が上京祝いとして家にあるものを詰めて送ったりとか、そんなふうに親睦を深めあって。


———その歴史サークルにはプロになった方はいらっしゃるんですか。

けっこういらっしゃいますね。だいたい皆、投稿したい、絵を描きたい、文章書きたいって人ばかりだったので。

———皆さん、三国志が好きだけれど、それだけにとどまらず、何かを表現したい方々の集まりだったんですね。

そんな感じです。私はその当時、自分がマンガ家になれるなんて全然思いもしなかったんですけど、荒川さんはすごく上手なのでプロになるんじゃないかな、と思っていました。

———そして実際に荒川先生がデビューし、その後はどのようなおつきあいをなさっていたんですか。

荒川さんが「上海妖魔鬼怪」(2000年から不定期で「月刊少年ガンガン」に掲載されているシリーズ読み切り/スクウェア・エニックス)という中国を舞台にした読み切りを描かれたんですが、ちょうど私が大学で中国語をやっていたので、より中国らしい匂いを演出するための看板の表記とか、慣用句を調べたりとか———たとえば日本で「噂をすれば影」という諺がありますが、中国にも曹操の噂をすると曹操がやってくるっていう慣用句があったので、それを中国語で調べたり。あとは当時、私はひとりで中国を旅して写真を撮っていたので、上海の写真の資料提供をしたりしていました。

———「中国トツゲキ見聞録」の2巻で荒川先生から中国での資料写真の撮影を頼まれたというエピソードがありましたね。

元々私、文章で生きていけたらいいな、とずっと思っていたので、ひたすら旅行して、文章書いて、記録に残してということをやっておりまして。そのために写真の学校に通って一眼レフの基本的な使い方とか習っていたので、荒川さんから取材写真を撮ってきてほしいと頼まれた時に、よっしゃあ好きに撮って来るぞ、と。

———すばらしい信頼関係ですよね。杜康先生に頼めば、中国に詳しいし第一級の資料写真を撮ってくるぞ、という。

ありがたいですよね、丸投げしてくれるんですから。
それで作品のネームを読んではいなかったものの、アクションは描くだろうと予測してました。だから、東方明珠(とうほうめいしゅ/上海のテレビ塔。代表的なランドマークのひとつ)という場所があるんですけど、普通は観光客が撮らない内部構造、エレベーターの構造、あとは上から見える景色のほかに、荒川さんが本当に物を壊す展開が大好きなので(笑)、工事している所とか、鉄骨なんかもあったらいいのかな、とか。昼の明るい所から夜景まで全部撮りました。ついでに周囲の空き地の具合はどうだとか、道路の幅が歩測で何mくらいかとかも、全部メモしてきまして。何が資料になるかわからないし、多ければ多いほどいいやと思って。私自身もオタクなのでこういう作業が好きなんですが、任せてもらえたことがすごく嬉しかったです。

———当時は荒川先生のアシスタントもなさっていたので、実際の執筆作業も手伝われていたと思うのですが、資料はちゃんと使われていましたか?

はい! 原稿を見た時、欲しい構図にちゃんと撮れたんだなあ、ハマッたんだな、よかったよかったって思いました。

———頑張った甲斐がありましたね。

それでも荒川さんは絶対に頼りっぱなしじゃないんですよね。会った事もない私の家にひょいっと泊まりに来たり、資料写真を丸投げしてくれたりするんですけど、一定ライン以上にお互い依存しちゃ駄目なんだってラインがちゃんとありまして。私がうっかり踏み越える事があれば、荒川さんは「そうじゃないよ、もうちょいこの辺でいいよ」って線を引いてくださっていたので、私も自分の生きる道を見失わないで済みました。もっと言うと、私が物書きとしてひとりでやっていけるように考えてくださってるんですよね。
荒川さんは目の前にいる人間を大事にしてくれる、その後の人生も考えてくれて大事にしてくれる、ただ優しいだけじゃなくて、線を引く所は引くけれども、それぞれの個性があったら、個性も大事にしてくれる方で。それが両立出来る人はなかなかいないよなと思います。
まさに「大将」ですね。

———杜康先生は荒川先生を「大将」と呼ばれる事がありますけれど、それはいつ頃から?

たぶん「鋼の錬金術師」(スクウェア・エニックス)連載中の頃だと思います。私が歴史好きなこともあり、頼れる荒川さんと一緒にいるうちに親しみを込めてつい「大将」と言い始めてしまい、それがうっかり定着しちゃったかなって(笑)。

———杜康先生は2007年にウンポコに掲載された「坊主DAYS」でデビューされましたが、その頃はまだアシスタントをされていたんでしょうか。

まだその頃はしていましたね。後半の仕上げと、ご飯を作ったり、それから経理の仕事をちょっとやったりしていましたが、2010年くらいから次第に自分のマンガの仕事一本になっていきました。

———アシスタントを卒業される際、荒川先生の反応はいかがでしたか。

それはもうひどく寛容で、ありがたい限り(笑)。私が自分の連載でいっぱいいっぱいになってきたら「うん、もういいよー」って。こういう対応が、自分がプロになってみると尚更、尊敬の念が湧いてきちゃう。自分の都合だけで動かないという事は、なかなか出来る事ではないなと思います。ただ「鋼の錬金術師」の最終回までは手伝わせてもらいました。いい時に立ち会えてよかったです。本当に荒川さんの仕事場では色々鍛えていただいたし、良い交流とか経験とかもいっぱいさせていただきました。
「百姓貴族」にかかわるネタでいえば、荒川さんの家から野菜が届いたり、ご親戚の方から美味しい物が届くので、仕事場では料理に困りませんでした。たとえば仕事場にご親戚から牡蠣の一斗缶が送られて来たり、またご実家の方からも野菜が届くので、それを使って料理をしていたんですが、元の味がいいので、無理して凝った味付けにしなくていいんです。健康になるなって思いながら料理していましたし、実際にアシスタント仲間も、ここに来ると太るって言ってまして(笑)。それに何が面白いって、全国各地からアシスタントの方たちが来ているので、違う食文化を味わう事が出来るんですよ。正月に集まった時に、関西担当の子が味噌仕立てのお雑煮を作ってくれた、とか。それも楽しかったです。

———荒川先生のお仕事場ではどういった料理を作られていたんですか。

私がよく作ったのは、野菜たっぷりの汁物とちっちゃく握ったおにぎりです。締切手前になると、みんなお腹の減り具合や食べるペースもマチマチになってきちゃうので、好きな時に食べていいよと並べておきました。やっぱり座ってばっかりの仕事で繊維不足になりがちなので。私が出来る事といえば皆の体調を少しでもいいようにとか、できるだけリクエストに応えた料理にするとかでした。

———それが荒川先生のマンガを描く体力の一翼を担っていたんですね。

あんなに忙しいのに荒川さんの身体の管理能力は凄いなあって思ってました。でも普段はきちんとセーブするけど、皆と外食しても残したりせず、人と楽しむ時は楽しむ事を大事にしていて、そういう姿勢が、また格好よくって。
……すごい、荒川さん好き好きトークが炸裂しちゃってますね(笑)。

———料理をよく作られていたという事は、1巻に出て来た冷凍庫部分は肉でみっしりで、それ以外は空っぽの冷蔵庫の目撃もされて……。


時代によって違うんですけど、荒川さんがデビューしたての頃は古いアパートに暮らしていたので、それこそあの冷蔵庫のようにスカスカで、むしろ食事を私が作って持って行っていたくらい。でもそれが楽しかったですね。その頃「鋼の錬金術師」の連載が始まったんですが、1話目の扉は今まで描かれていたものとは迫力が違ってて、こんなすごいカラー描くんだ!って。新たな荒川さんの世界がここにあるのかという事に感動しましたし、「これ映画になるんじゃないかな」って本気で思いました。
そもそもデビュー作の「STRAY DOG」(「月刊少年ガンガン」1999年8月号掲載の読み切り/スクウェア・エニックス)を読んだ時にも、「こんな話を描く人だったんだ」って驚いたんです。それまで、格好いいイラストや面白い4コマは読んでいたのでその感じに親しみがあったんですけど、荒川さんの知らない一面を見た、という感じでした。

———荒川先生のデビュー前後の時期は、おふたりにとって「青春」、という感じがしますね。

そうですね。あの頃があるから、今があるという感じで。
後に「鋼の錬金術師」の原画展に行った時、「あそこのトーン貼った」「ここのホワイトかけた」「ここベタ塗った」っていう思い出が、すごい湧きましたね。

———インタビュー後篇は明日(11/26)更新予定!! どうぞお楽しみに!


聞き手/ウィングス編集部

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