狼を狩る法則
J・L・ラングレー
■プロローグ
「ブーン、ブーン……。マミー、ぼくもダディとおなじオオカミなのに、オオカミにへんしんできないのはなんで?」
レナ・ウィンストンはボウルから顔を上げると、一人息子に微笑んだ。
両手におもちゃの車を一台ずつ持ったチェイが、茶色の目に期待をこめて彼女を見上げている。
「なんでかって言うとね、まだあなたには思春期が来てないからよ、チェイ」
彼女はチョコレートケーキの生地をかき混ぜる作業に戻った。
チェイはまた「ブーンブーン」と口真似をし、おもちゃの車が床でカチャカチャと音をたてた。
「マミー、ししゅんきってなあに?」
おっと。別の言葉を使うべきだったかもしれない。レナは自分のミスに笑いながら、向き直った。チェイは誰よりも知りたがりの子供なのだ。そう、この質問がくるのは当然だった。
「そうねえ、あなたがもっと大きくなったらってことよ。ティーンエージャーになったら」
彼は、小さな額にしわをよせる。少しの間黙って座りこんでいたが、やがてこの四歳児は黒髪の頭をひねった。
「マミー、いつぼくはティーンエージャーになるの?」
彼女は混ぜ合わせた生地をカウンターに置き、下の棚から鍋を取り出した。
「十一年くらいたったらよ。あなたが十五歳ぐらいになる頃に」
「でも十五さいになるまえには十三さいと十四さいになるのに。十三さいと十四さいのときにもぼくはティーンエージャーじゃないの?」
レナは首を振って、ケーキの生地を鍋の中へ流しこんだ。
「チェイ、あなたは将来が不安になるぐらい頭が良すぎるわ。そうよ、十三歳と十四歳の時にもあなたはティーンエージャーよ」
彼女はボウルとスプーンを子供に差し出した。
「ぺろぺろしたい?」
「する、する、する!」
チェイは車を落とし、ジャンプして立つと爪先立ちでぴょんぴょんとはねた。
「やったあ、ボウルぺろぺろ! ボウルぺろぺろ!」
その場で踊り出している。
「床に座って。そうしたらあげるから」
あんまりさっと座り直したので、少年の体はリノリウムの床でバウンドしそうになった。犬のロスコーがぶらぶらとキッチンに入ってくると、子供の顔中をなめてから、横にちょこんと座りこむ。
レナは、チェイがのばした足の間にボウルを置き、スプーンを手渡した。
「あんまり周りを汚さないでね。ケーキをオーブンに入れたら、夕ご飯の仕度を始めるわ」
チェイは大きなプラスチックのスプーンを握ると、すくって、小さな口でスプーンをぱくりとくわえた。唇のはじからこぼれたケーキミックスが鼻と頬を汚していく。
とてもきれいに済みそうにはないと覚悟を決めて、レナはケーキをオーブンに仕掛けると、パントリーへと向かった。取ってきたじゃがいもをシンクで洗い始めた時、何かすするような──なめるような音が聞こえてきた。見るまでもなく、レナには何の音かわかった。
「チェイトン・モンゴメリー・ウィンストン! 犬に食べ物をわけちゃいけないって言ったでしょ?」
「でもでも、マミー。ロスコーもぺろぺろするのだいすきだもん」
「チェイ……」
子供は溜息をついた。
「うー、わかったよ。もうだめだって、ロスコー。マミーにおこられちゃう」
レナの耳に、犬がリノリウムの床で爪音をたてながら去る音が聞こえてきた。頭を振る。子供ときたら、犬になめさせたスプーンを自分の口に入れることを何とも思っていないのだ。何てこと。
「マミー?」
レナは蛇口をしめると、引き出しの中を探し回ってポテトのピーラーを見つけ出した。
「なあに、チェイ?」
「なんでマミーは、ダディがじぶんのメイトだってわかったの? マミーはオオカミじゃないでしょ。ダディは、オオカミなら、メイトにあえばすぐわかるっていってたけど」
「そうね、私にはわからなかったけれど、お父さんにはわかったのよ」
彼女はポテトを剥きはじめた。
「あのね、チェイ。あなたのおじいちゃんも狼だったから、ママは小さい時から狼のことを知ってるの。狼は
伴侶を選べないのよ。神様が相手をお決めになるの。狼は、自分のメイトに出会った瞬間、相手がそうだとただわかるだけなのね。だからあなたのパパに、私があの人のメイトなんだって言われた時、本当のことを言ってるってすぐに信じられたの。この人と一緒になる運命なんだって」
レナは夫ジョーのことを思って、微笑した。
「マミー、ぼくのメイトはたいようみたいなかみと、おそらみたいなめをしてるんだよ。まるでおうじさまみたいなんだ!」
「王女様でしょ、ハニー。王子様じゃないのよ」
レナは反射的にそこを直した。それから目と髪の色についての言葉が浸透してくるにつれ、まるで何かに打たれたような衝撃を受ける。彼女は深く息を吸い込むと、まだ幼いチェイには自分が何を言っているかわからないのだと己に言い聞かせた。
「だめよ、チェイ。あなたの
伴侶は私たちと同じでなきゃ。白人の女の子はだめ! あなたのメイトはきれいな黒髪と茶色の目と、褐色の肌をしているのよ。アパッチ族でなくてもいいわ、私も違うし──ラコタ族だもの──でも、先住民族のひとりでなければいけないの」
スプーンがボウルの中をカチャカチャとこすった。
「でも、メイトはえらべないって、マミーはいったでしょ? かみさまがおえらびになるって。なんでマミーには、ぼくのメイトがたいようのかみとおそらのめをしてないってわかるの?」
レナは目で天井を仰いでから、重い溜息をついた。
「それはね、神様がそんな仕打ちを私たちになさる筈がないからよ、チェイ」
彼女は最後のポテトを剥き終えると、冷蔵庫に向かったが、途中ではっと立ちどまった。
「チェイトン・モンゴメリー・ウィンストン! 動物に食べ物をわけちゃダメって言ったでしょ!」
彼女を見上げたチェイの目はきらきらしていた。彼はヒゲをケーキの生地まみれにしている飼い猫を見下ろし、また母親を見上げる。
「マミーはロスコーがダメっていったでしょ。フラッフィーのことはなにもいってなかったでしょ?」
■1
「ドクター・ウィンストン?」
呼ばれたが、チェイはまずミセス・プレストンの猫、ビッツィの縫合を終わらせる。それからやっとクリニックの受付係を見上げた。
「どうした、シェリル?」
「猟区管理人が来てます。狼を運び入れて、ドクターに話があると。急ぎの話だそうです」
一体全体、フランク・レッドホークが彼に何の用だ? いつもは傷ついた動物を持ちこみ、置いていくだけなのに。
「わかった、すぐ行く」彼はアシスタントのティナへ笑みを向けた。「後はまかせて大丈夫だな?」
ティナの手術用マスクからのぞく茶色の目がきらりと光った。
「まーかせて。ボス!」
はつらつとした彼女に小さな笑みをこぼして、チェイは一歩退いた。ティナはこの仕事を愛しているのだ。もしチェイが許せば、手術をまるごと自分だけでやってのけるだろう。
手を洗うと、チェイはクリニックのロビーへ出た。猟区管理人が、カウンターの向こう側をうろうろと歩き回りながら、心配そうに唇を噛んでいた。
おっと。かなりまずいことがおこったようだ。
チェイはカウンターを回りこむ。フランクは実際、彼の方へ走りよってきた。チェイの肩をつかむや顔をよせ、チェイにだけ聞こえるように囁く。
「チェイ、狼を運んできた。そいつはあんたのアシスタントが部屋に運んでってくれたが、あんたに話があるんだ」
フランクは意味ありげに眉を上げると、周囲を見回した。シェリルに視線をとめ、咳払いをする。
「二人で話ができるか?」
「勿論。こっちだ」
チェイは年上の男をオフィスまでつれていくと、ドアを閉めた。机へ歩みより、マホガニーの大きな表面に尻をもたせかける。
「どうしたんだ、フランク?」
「あの狼は俺たちと同じだ、チェイ。密猟者がいるって通報がきてな、朝、見回りに出たんだよ。空薬莢をいくつか見つけたあたりでか細い鳴き声が聞こえた。うちの群れがマーキングした土地の北側すぐ外の、細い渓谷に、一頭の狼が横たわってたんだ。そんで、俺はひとっ走りして麻酔銃を取ってきた。撃った後、初めてそいつが人狼だと気付いて……とにかくな、チェイ、そいつはうちの群れのヤツじゃねえんだよ。この狼は白いヤツだ。つまりその──毛皮が白い。しかもやたら小さくて……多分、まだガキじゃないかな」
「密猟者は、何でその狼を残していったんだろうな」
チェイは二本の指で、自分の下唇をつまんだ。フランクが肩をゆする。
「俺は知らねえ。ビビったんだろ」
「傷の状態は?」
「頭を負傷してるがそれほど大した傷じゃねえだろう。
弾丸の痕もない。かすった程度だな、ありゃやたらと血が出るからな。傷はそんな深かねえと思うよ。頭蓋骨もぶち抜かれてない筈だが、変身して戻るにゃ出血しすぎてたんじゃねえか」
チェイはうなずいた。筋は通る。変身できないのは出血だけでなく、混乱によるものだとも考えられる。人間の姿に戻れば傷は癒えるのだが、衝撃で脳震盪をおこしているのかもしれない。変身するには集中力が必要だ。
フランクは机の前の黒革の椅子によりかかり、関節が白くなるほど椅子の革を強く握った。
「今から居留区警察に行ってくるよ。その足で、ジョン・カーターに報告しておく」
チェイはうなずいた。ジョン・カーターは彼らが属する群れのリーダーだ。何かおこった時には、必ず報告する義務がある。
「ああ、そうしてくれ。嫌な感じがするね。俺たちのテリトリーの中を密猟者なんかにうろつかれるのは御免だ。しかも昨日が満月だってのが、気に入らないな」
「ああ、俺もだよ」
「じゃ、俺は新しい患者を見にいくとするか」
チェイは机を押して立つと、保護官に片手を差し出した。フランクがその手を握り返す。
「ありがとな、ドク。あのちっこいのがどうなったか後で教えてくれ」
「わかってるよ、フランク」
チェイはドアを開けてフランクを送り出した。それからロビーのカウンターまで歩いていく。
「シェリル、保護官が運びこんだ狼はどこに?」
「第四診察室です、ドクター。トミーが口輪をはめたけど、すっかり気を失ってる様子だったし、あれはいらないんじゃないかな」
「わかった、今から見に行ってくる」
「ドクター・ウィンストン?」
チェイは振り向いた。「どうした?」
「ボブ・マッキンタイアが電話してきて、新しい雌馬を見に居留区まで来てほしいそうです。どうも、妊娠してるんじゃないかと」
彼はうなずき、腕時計をちらりと見た。もうすぐ正午だ。早じまいの日なので十二時半には体が空く。誰もいないロビーを見やり、シェリルに聞いた。
「今日の予約はこれで全部?」
彼女は目の前にある開いたノートを見下ろした。
「ええ。急患が来なければ、今日はこれで終わりですね」
「OK。じゃあ休診の札を出して、ボブに電話してくれ。家に帰る途中に寄るって」
「わかりました」
チェイはロビーを後にした。狼をチェックしに行かねば。
角を曲がると、ティナが手術室から出てくるところだった。
「あら、チェイ。ビッツィの方はバッチリですよお」
二人はハイタッチを交わした。
「よくやった、ティナ。今日はもう上がっていいよ。ただその前に、ミセス・プレストンに電話をしてビッツィの手術がうまく終わったことと、明日の朝には引き取れるって伝えておいてくれないか?」
ティナはウィンクして、ロビーのほうへ小走りに去っていく。
「やっときます、チェイ。また明日!」
「ちょい待ち、ティナ」
ティナがあんまり素早くターンしたせいで、そのポニーテールが目の上にばさっとぶつかった。彼女はまばたきして髪を後ろに払いのける。「はい?」
「明日の五時と夜中に、動物の見回りシフトが入ってるのを忘れないでくれよ」
「バッチリ。そっちは今夜は? クリニックに戻ります?」
「ああ、三時半と八時に来るよ。今日は三つも手術があったからな。まあ、トミーは一晩宿直だ」
「サイコー。じゃまた、チェイ」
「後でな、ティナ」
去っていく彼女にチェイはニヤッと笑いかけると、第四診察室へ向かった。
歯茎の中で歯がむずむずし始め、犬歯がぬっとのびてくる。何だ、一体……?
診察室へ近づけば近づくだけ、体に奇妙なことがおこりはじめた。昂揚感がこみ上げて幸せを感じ出す。胸の中で無数の蝶がはばたいているような──だがそれともちょっと違うような。胸はざわついていたが、それは不安からくるものではなかった。
ドアノブに手をのばした頃には、彼の股間は頭をもたげはじめ、視界はぼやけていた。白黒の視界にまばたきする。狼の目になっているのだ。
チェイは数秒、そこにたたずんだ。腹の底から沸き上がってくる歓喜の渦を無視して、この奇妙な反応をじっくり検討する。狼の本能を抑えられないなんて、まだ小さな子狼だった時以来だ。
はっとした。
──このドアの向こう側に、俺のメイトがいる。
一体そんなことがありえるのか。女の人狼が存在するなんて、聞いたこともない。人狼の遺伝形質は男に発現するもので、女性は人狼の遺伝子を子供へ受け継ぐことはできるが、彼女たち自身が人狼になることはない。もしかしたら彼の
伴侶は、人狼に噛まれて変化したのだろうか? そんなこと──あるのだろうか。人狼が人を襲うことはまれだし、襲われた女性が人狼に変化したという話も聞いたことはない。だが、聞いたことがないからと言って、不可能だとは限るまい。
彼は目をとじ、ひんやりしたドアに額を押し当てた。期待に胸が激しく高鳴る。三十歳になった今、この瞬間を、待ちかねたなんて言葉だけではとても言い表せない。ありえるかありえないかなんて、彼女に会った後に考えればいい。今はただ興奮が押しよせてくる。
ついに、自分の
伴侶とめぐりあえたのだ。
いくつか深呼吸をして、肉体の興奮をなだめようとした。メイトが──目をさましていたら──気にするからというより、もしクリニックのスタッフがやってきたら仰天させてしまう方が大変だ。
数秒、強く集中していると、のびていた牙がちぢんできた。目を開けてみると、色のある通常の視界に戻っている。とは言っても股間ばかりは完勃ちのままだ。手術用白衣のズボンの上から、少しでも目立たないようにとポジションを直したが、あまりうまくいかなかった。
だがこれ以上待ちきれない。チェイはドアを押し開けた。
白くて小さな狼が、紺色の毛布に包まれて診察台に横たえられている。背はこちらに向けられていた。淡い色の毛皮に、固まりかけた血の色がけばけばしく、悪趣味なほどだ。
血に汚れていない部分の毛は、ほのかに金の光をおびていて、この白い毛皮が人間になった時にはプラチナブロンドになるのだろうとチェイは半ば確信する。
どういうわけか、チェイはずっと、自分のメイトはネイティブアメリカンではないだろうと知っていた。母はその点、ゆずらなかったが。チェイの母は人種に強いこだわりがあるのだが、チェイ自身はいつでも金髪に強く惹かれてきた。
チェイがこのメイトをつれて会いに行ったなら、母はひっくり返ってしまうかもしれない。チェイは笑った。いやいや、母だってノーとは言えないのだ。狼は自分のメイトを選べない、それは生まれついての絆だ。運命なのかもしれないし、神の意思や、ほかの何かであるのかもしれないが、何であれ変えることのできないものだ。まあ幸いにして、彼の父親の方は人種に偏見を持つようなたちではない。
白い毛皮に、口輪の黒いストラップが目立つ。視線を向けたチェイはその無礼な仕打ちに喉の奥で唸ると、診察台の横に上がった。手早く口輪を取り、床に放り捨てる。頚動脈を指先にさぐって脈を調べた。人間の姿をしている時よりは脈が早いが、覚醒して警戒体勢にある狼に比べれば遅い──だが、疲弊しきっていると診断するほどには遅くない。
白い毛皮に手のひらをすべらせ、頭の傷をたしかめながら、彼はやわらかな手ざわりを楽しんだ。フランクの言葉通り、頭の傷はそれほど深刻なものではなかったが、洗浄して確かめなければ。背後の棚から、傷を手当てするためのガーゼと消毒薬を取る。
かすめただけの傷だとしっかり確認して、傷をガーゼで覆った。
抗生物質や破傷風の注射の必要はない。人狼は、細菌にもウイルスにも感染しないのだ。発達した免疫システムを持っている。人間の姿に変身しさえすれば、頭の傷も完治するだろう。本来なら狼のままでももう治っているはずなのだが、彼のメイトに関して言えば、出血が多すぎて治癒反応が弱まっているのだ。
チェイは前にかがんで、メイトの首すじに鼻をうずめた。
鋭い匂い、それから……森のような匂い? どこか麝香のような。
奇妙だった。狼の嗅覚にとって大体の女性は甘く、花のような匂いがするものだ。奇妙ではあったが、実にいい匂いだった。酔ったような心地よさを感じる。股間がものほしげに硬くなり、チェイはうなった。立ち上がり、辛抱しろと自分に言い聞かせる。まずはメイトの面倒を見るのが先だ。後からいくらでもお互いを知る時間はある。
間抜けなほどに満面の笑みで、チェイは半歩下がった。
「OK、
ちっこいの、毛布を取ろうな」
毛布のはじをつかむと、優しい手で毛布をめくっていく。
「ほかに傷がないかどうか確かめないと……」
もつれた毛布を、まだ動かない体からうまくはがして脇に放った。
まずは頭から、メイトの姿を観察していく。プラチナの毛皮に微笑し、チェイの視線はほっそりとした体つきに沿って下がっていった。
「その目の色は、賭けてもいいが──」
はっと息を呑み、彼はよろりと下がった。手で口を押さえる。まさか、そんなわけがない。
目の迷いだ……そんなモノがそこにあるわけがない。
チェイはまばたきをして、もう一度見た。
まだそれはそこにあった。
間違っていたということだろうか。彼の体も、感覚も、混乱していただけなのだろうか。これは、彼のメイトではない。彼のメイトではありえない……。
チェイは目をとじて、深々と息をついた。ありえない──だが、間違いではない。この感覚を否定などできるわけがなかった。これは彼のメイトだ。だが、どうしてだろう? つじつまが合わない。
もっとも、最初の疑問は正しかったわけだ。女性の人狼はいない。
彼のメイトは、男だった。
頭が痛い。
チェイはこの白い狼への自分の体の反応について、ありとあらゆる可能性をひっぱり出して説明をつけようとした。だがどの説も理屈が通らず、メイトであるという仮定以上にしっくり当てはまるものはなかった。
それにしても、肉体的反応よりも奇妙なのが彼の気持ちの方で、不快に感じるかと思いきやそうでもないのだ。あの小さな狼には、強くチェイを惹きつけるものがあった。その引力こそが、この雄狼が本当に彼のメイトなのだと、チェイにはっきりと告げている。
男に対して、こんなふうに惹かれたことはこれまでない。男に目がいったことはないでもないが──そんなのは誰だってあることだ。その筈だ。男だろうとキレイなものはキレイなのだし……だろう? ああ、たしかに大学時代、ルームメイトと何回か手でお互いしごいたりはしたが、あんなものただのお遊びだ。そうじゃないか?
重要なのは、男に欲情して勃起したことなどこれまで一度もない、ということだ。それなのに、彼の股間は、白い狼の匂いを嗅いだ時からずっと石のようにガチガチだ。
スタッフが全員仕事を上がると、チェイはクリニックをしめ、手術着から着替えてから、あらかじめ車に行って車内を暖めておくことまでした。秋の始めにしては肌寒い日で、お相手の“彼”に寒い思いをさせたくはなかった。
すべて済ませたところでもなお、相変わらず股間はしっかり欲情したままだった。まあ、いい。ジーンズでうまいこと隠れているし、コートもおよそ膝丈だ。
ボブ・マッキンタイアの家を訪問診察するために鞄に道具をつめてから、チェイは、四ドアの車のバックシートに自分の
伴侶を運びこんだ。毛布で小柄な体を包み、その上からシートベルトをかけてやる。白い毛皮を最後に優しくひと撫でしてから、後部のドアを閉め、運転席に乗りこんだ。
道を走り出したところで、携帯電話で父親に電話をかけた。
ジョー・ウィンストンは二回目の呼び出し音で取った。
『やあ、チェイ。何してる?』
「ほんとそれ、やめてくれよ。気味が悪い」
『何のことだ?』父親の声は心底楽しげだった。
「わかってるくせに」
ジョーは声をたてて笑った。
『発信者通知っていうのが何のためにあると思ってるんだ? 電話を取る前に、どいつがかけてきたか知っておくためなんだよ』
チェイは小さく笑った。もう何度となくくり返したやり取りだ。
「わかってるさ、でもやっぱり不気味だね。今何してる?」
『テレビを見てる。そっちは?』
「ボブ・マッキンタイアのところに行く途中。新しい雌馬がはらんでるかもしれないって」
『ほう。水曜の夕飯にうちに来る予定は大丈夫か?』
「ああ──多分」
わからないのは、彼一人で行くのか、それともこのメイトもディナーにつれていくことになるのかだ。チェイは、自分の考えにドキリとした。
『お前が来なかったらお母さんがガッカリするぞ』
父は言葉の響きから、落胆するのは自分も同じだと匂わせる。
チェイは微笑した。愛されるのは嬉しいことだが、時には一人っ子というプレッシャーを重く感じることもある。バックミラーの角度を直し、後ろにいる──彼の狼をチェックした。
「あのさ、父さん。ひとつ真面目な質問があるんだけど」
『OK、言ってみろ』
「父さんが
伴侶を見つけた時、どうやってそうだとわかったんだ?」
『何でだ?』
「たのむよ、父さん。とにかく答えてくれ」
ジョーは溜息をこぼした。『チェイ、お前にもメイトが見つかるよ。まだまだ若いんだ。父さんが母さんに会ったのは、三十二歳の時だったぞ』
父親が質問の裏を勘ぐらないでいてくれたことが、今は何よりありがたい。両親に言う心の準備は──まだ──できていなかった。悲しいかな、彼のメイトが白人だというだけでもトラブルの元になるのに、今回のことが露見した時にはそれがかすんでしまうくらい新たな騒動がおこりそうな気がした。
『お前もメイトとめぐりあえば、すぐにそうだと感じるよ』
ああ、その点は疑いの余地がない。
「でも、どんなふうに感じるもんなんだ?」
『強い渇望のような……ある意味では、だが。始めのうちはアドレナリン・ハイのようにも感じるな。相手が自分のメイトだと、頭でわかるよりも前に体の方が先に反応するんだ。あれはどう言えばいいもんだろうなあ。ただ、わかる』
チェイは息をついた。父の話は、彼自身の考えを裏付けただけだった。そしてその言葉は正しい──ただ、わかるのだ。
だが、それでもなお……。
「父さん、これまでに誰か、勘違いだったってことはなかったのか? つまりメイトを見つけたと思ったけど違った、みたいな?」
『聞き覚えはないな。何かとまちがえたり勘違いするようなものじゃないんだ。ほとんど、反射的なもんだと言ってもいい』
彼はミラーの中をちらっと眺め、バックシートにいる白い毛皮を視界にとらえた。
「俺はただ……うっかり見のがしたりすることのないように、確かめておきたかったんだ」
『その時になればお前にもわかるさ』
「ああ。ありがとう、父さん」
チェイは深々と息を吸い込み、肩の力を抜こうとした。彼にどうにかできることではない──たとえ誰が反対しようとも。彼がメイトを選んだわけではない。大体メイトとの出会いは喜ぶべきことであって、悪い出来事などではないのだ。それを何故、重荷のように感じなければならない?
『四歳の時からメイトをずっと探してる奴なんてお前くらいのもんさ、チェイ。必ず彼女にめぐりあえるよ、絶対だ』
彼なのだ、彼女ではなく。チェイは頭の中で訂正した。肩と耳とで電話をはさむと、鼻の根元を指できつくつまむ。まったく、何もこんな厄介な事態にならなくてもよさそうなもんだ。しかも、まだ序の口かもしれない。彼のメイトが目をさましても、こちらに何の興味も示さなかったら? もしこのメイトがまだ──フランクが言ったように──十代の少年だったら? チェイはそうは思わなかったが、事実、彼のメイトは驚くほど小柄だった。
さらに、両親がこのことを知ったらどう反応する?
「……なあ、父さん。そろそろマッキンタイアのところにつきそうだ。また後で」
『ああわかった、頑張れ。水曜どうするか知らせてくれよ』
「ん、そうするよ。じゃあな、父さん」
チェイはボブ・マッキンタイアの駐車スペースに車を入れながら電話を切った。いったんはエンジンを切ろうとしたが、どれくらい時間がかかるかわからないと迷う。エアコンが切れると寒すぎるだろうか? チェイは馬鹿馬鹿しさに目だけで天を仰いだ。毛皮に包まれているのに、そんなに寒がりなわけがない。
イグニッションを切ると、シートベルトを外して体を回し、背もたれにのせた右手に顎をのせた。左手をのばして、後部座席の狼の肩をなでる。
「お前のことをどうすればいいんだろうなあ、リトル・ビット?」
彼のメイトはまだ気を失ったままだった。狼の体は、チェイが置いたところから少しも動いていない。とても愛らしく、安らかに見えた……そして無垢に。
何とも美形な狼だった。かわいらしい、というか。女性っぽい感じがするわけではないが、たくましい体格でもなかった。おそらく人間の姿になっても背丈はチェイの顎に届く程度だろう。チェイは長い鼻面を指でなでながら、目をとじた。その瞳は、淡い空色にちがいない。
その想像だけで、チェイの股間はまた熱を持ちはじめた。喉の奥で呻き、彼は手を引いて自分のポジションを直す。最初から、この小柄な狼の手当てがすんだ段階でフランクに電話して引き取ってもらい、何事もなかったふりをするべきだったのかもしれない。いや今の段階でも、彼が目を覚ましたら、送り出してそのままさよならという手もある。
だがチェイには、自分がそうしないだろうとわかっていた。男のメイトをどうしていいのかはまだ判然としなかったが、それでも、手放したくなどなかった。
ウィンドウを誰かが叩き、考え込んでいたチェイははっとした。ドアを開け、バッグを車の床からつかみ上げる。「やあ、ボブ」
「家にお持ち帰りの仕事か?」
ボブが白髪まじりの頭でバックシートの方を示した。
チェイは自分のメイトへちらっと視線を投げて、微笑する。
「ああ、一緒に家に帰ろうと思ってな。手当てしたばっかりだ。うまくいけば今夜のうちには目を覚ましてくれるだろ」
彼はボブの肩を叩くと、車から離れて歩きはじめた。
「さて、かわいい彼女にお目にかかって、ママになるのかどうかおうかがいしてみるとするか」
■2
今にも頭が割れそうだった。一体全体何をやらかしたのだ?
動いているような感覚があったが、体はたしかに横たわっている。酒はろくに飲まないから、昨夜飲みすぎたわけはないのだが、まさにそんな気分だった。胃がざわつくし、おまけに股間が痛むほど固い。そもそも何だって狼の姿をしたままだ?
おや、ちょっと待った……本当に動いている。何かの乗り物の中にいるのだ。ほほう?
キートンは、まばたきしながら目をあけた。
車の後部座席に横たえられている……いや、ただの車より大きい。バンだ。どうにか体を起こして座ろうと試みた。
いたた、頭が深刻に痛い──そうだ、撃たれたのだ。
「起きたな。もうちょっと我慢してくれ、
ちっこいの。家の中に入ったら変身できるから」
深く魅力的な声に、キートンははっと頭をあげた。痛い。
リトル・ビット? 一体どこのどいつが…?
相手は黒く美しい髪と、高い頬骨に、褐色の肌をした男だった。明らかにネイティブアメリカン、そして若い──だがキートンの位置から見てわかるのはそれだけだ。鼻をあげ、覚えのある匂いかどうか空気を嗅いでみると、たちまち欲望がこみあげてきた──信じられない。何ていい匂いだろう。腹の中がひっくりかえるほど昂ぶったが、かろうじてこの男が狼であることと、知った匂いではないことだけは嗅ぎとった。
シートに頭を戻し、キートンは力を抜いた。危険な状況ではなさそうだ。この男が彼を助けてくれたに違いない。
昨夜は、キートンが新しい部屋に引越してから最初の満月で、このあたりの群れとの顔合わせもまだだった。ちゃんと挨拶しておくべきだったのかもしれない。そうすれば、テリトリー内の安全な土地で狩りをさせてもらえただろうに。
だが、ルールはよく知っている。群れがマーキングしたテリトリーに勝手に踏みこんではならない。キートンはお利口にテリトリーの外側にとどまっていたので、制裁も受けず、こうして救ってもらえたのだ。
バンがとまった。男がエンジンを切り、こちらに向き直る。
キートンが人の姿をしていたらおそらく息を呑んだだろうが、狼の口からこぼれたのは、小さな鳴き声のようなものだった。
魅力的な男だった。大きな目──おそらくは茶色──と豊かな唇、高い頬骨、しかもその笑顔……キートンはまばたきした。信じられない。彼の救い主はまさに理想の男だった。背が高くて肌の濃い、美形の男は、好みど真ん中だ。
「やっぱり青い目だったな」
そう言うと、男は笑みを消して真面目な顔になった。
「ついたよ。中に入るが、いいか?」
返事を待たずに、車を降りる。少ししてから戻ってくると、後ろのドアを開けた。
「よし、いいか。お前はできるだけじっとしてな。俺はできるだけ慎重にして、あんまりお前を揺らさないようにするから」
男はシートベルトを外すと、キートンの脇腹の下に手をすべりこませた。キートンをそっと車から出して抱きかかえ、ドアを蹴りしめる。ありがたい。こう頭と足が痛いと、歩く気すらおきない。
男がキートンを運んでいく先には、こじんまりとした雰囲気のいいランチハウススタイルの家があった。ドアは開いていて、どうやらさっきはこれを開けに行っていたらしい。男は中に歩み入ると、毛布にくるまれたままのキートンを床に横たえ、ドアをしめた。
キートンは寝そべったまま、まずはあたりの様子を確認した──いや、しようとはしたのだが、とにかく男から目を離すことができなかった。
背が高く、肩はがっしりして……しかも、何といういい尻。キートンの股間が反応した。男の髪は肩より少し長く、普通なら女っぽく見えるところだが、見るからにネイティブアメリカンの姿にはよく似合っていた。似合うどころか、とんでもなくセクシーだった。
男は向き直って、キートンの凝視に気付くと、微笑した。
「まったく。何か変なもんだよな。感じてるだろ、そっちも?」
──何を?
キートンは反射的に小首を傾げて、即座に後悔した。悪夢のような頭痛に襲われる。しかし何故、この男にキートンの感じていることがわかるのだろう? ちょっと待った、この男も同じように感じているというのなら、これは撃たれたことによる精神的なショック反応などではないのだろうか。どういうことだ?
キートンは男の体の下の方を眺めた。驚いたことに、この男も勃起している。それを見た途端、キートンの心臓が早鐘のように打ちはじめた。
「そろそろ変身しないか。そしたら話ができる」
キートンの視線は男の顔へひらめき戻る。うなずいたものの、相手を品定めしているのがバレて、いささかきまりが悪かった。そう、変身……いい考えだ。きっと頭痛もとまるだろう。しかし、一体どうやって、この素敵な男の目から勃ったモノを隠そうか?
キートンは変身しながら、どうにか下半身を毛布に隠したまま、のりきった。完全な人間に戻って、座りこむ。相変わらず欲望はカチカチに固いまま、腹の底が緊張にねじれて、鼓動も激しく鳴りつづけていた。
男を見上げる。その瞬間、ひらめいた。
「何てこった。あんたは……俺のメイトだ」
*****
何てこった、はぴったりだった。
リトル・ビットは、チェイが今まで見た中で一番かわいらしい男だった。男、というのも少し違うかもしれない。法的にOKな年齢には見えたが、それもギリギリな感じだった。
スリムな体つきだけがその印象の元ではない。顔立ちが愛らしかった。細くまっすぐな鼻すじの、先端がわずかに上を向いている。肌は完璧で、これまでピンと来たことがなかった“桃のような肌”という表現に、チェイは初めて納得したほどだ。短めのプラチナブロンドは、血で固まったところ以外はウェーブにくるんと巻いている。
チェイは自分の
伴侶のそばにしゃがみこむと、太陽のように明るい髪からガーゼを外した。はらりと落ちた一房が、大きな空色の目に影を落とす。傷は完全に治っていて、白い肌にはかすり傷ひとつ残っていなかった。
彼は、チェイを驚きに満ちた目で見つめながら、華奢な手で髪を後ろにかきあげた。
「何て名前?」
濃い南部訛りの質問に、チェイはニヤッとした。
「チェイ……チェイトン・ウィンストン。そっちは何て名前だ、リトル・ビット?」
明るい茶色の眉がきりっと吊った。
「リトル・ビットじゃないことだけは確かだね」
おや、小さくても、牙をお持ちだ。
チェイは自分の眉を上げてみせる。
リトル・ビットの頬が赤くなって、彼は咳払いをした。
「悪い。年とか体格のこと、色々言われるのに飽き飽きしてるだけなんだ。それで、ちょっと過剰反応したかも。俺はキートン」
手を出して、チェイがその手を握り返すと、彼はつけ足した。
「ドクター・キートン・レイノルズ」
チェイは驚いてぽかんと口を開けた。
「何歳だ?」
キートンは溜息をつく。
「二十五歳。聞かれる前に言っとくと、歴史の博士号を持ってる」
凄い。大したものだ。どうやら、彼のメイトはとても利口な上、見た目よりずっと年上らしい。チェイはにっこりして、床に座りこんだ。
「このへんの出身じゃないだろう。何でニューメキシコへ?」
「仕事だよ。ニューメキシコ州立大学で古代文明史を教えてる」
キートンも微笑を返すと、木の床をすべるようにしてにじりよってきた。
「そっちは? 仕事は何を?」
「獣医だよ」
「そうなんだ? 助けてくれてありがとう、ドクター・ウィンストン」
「助けたのは俺じゃない、猟区管理人だよ。麻酔の矢でお前を撃ってから、うちのクリニックへ運んできた。俺は傷を洗っただけ」
キートンはさらに動いて、ほとんどチェイの膝の上にのりあげてくる。
「ありがとう」
そう囁いた。
見つめ返しながら、チェイは鼻梁の脇に散ったそばかすを発見し、魅了されていた。
「……どういたしまして」
キートンの息が顔にかかっても、チェイは動かなかった。まさか、そばかすに色気を感じる日が来るだなんて、誰が思っただろう?
キートンはまばたきした。どんな女でもうらやむような、長くて先端がカールした睫毛をしている。間近からだと、彼はさらに美しく見えた。
キートンが身を傾けて、自分の唇をチェイの唇に押し当てた。
チェイは何も考えずにキスを返していた。
キートンの唇は温かく、ひどく自然に感じられた。チェイの唇を舌がからかうようになめ、内に入ってこようとしている。女性たちとのキスと比べても、何ら変わったものには感じられなかった。
チェイは体を引く。
「ええと……俺は、ゲイじゃないんだ」
キートンた、まるで誰かにひっぱたかれたような顔になった。何回かまばたきして顔をそらし、へたりと座りこむ。
「悪い、俺は……てっきり……その、何でもない」
キートンは毛布を腰回りにたぐり寄せながら立ち上がった。
「何か着るもの借りてもいいかな? 電話も。誰かに迎えに来てもらうよ。そしたら、その、すぐ消えるから」
その声はうろたえていて、きまり悪そうだ。チェイは自分がひどい悪者になったような気がした。
「いや、俺の方こそ悪かった。出ていく必要はないから、とりあえず着るものを探してくる。いいな?」
立ち上がった彼は自分の部屋へ向かう。キートンが後ろを追ってきた。
「あのさ、チェイ。多分俺がこのまま出てくのが一番いいんだと思う。タクシーを呼ぶよ」
チェイはハンガーからスウェットのパンツを取り、Tシャツを引っぱり出す。向き直った時、キートンは寝室の真ん中に立って、体に巻き付けた毛布を握りしめ、蹴とばされた犬のようにすっかりしょげかえっていた。自己嫌悪を覚えながら、チェイは溜息をついて、キートンに歩みよると服を手渡した。
「これを使って。バスルームはすぐ後ろだ。シャワーを浴びるといい。その後で話をしよう。トイレの上の棚にタオルが入ってる」
キートンは服を受け取ると、チェイに見向きもせずにバスルームの中へ行進していった。
チェイは壁に身をもたせかけた。どうしたらいいのだろう? キートンをこのまま行かせて、別々の人生を歩んでいくべきだろうか。それがいいのかもしれない。そうすればきっとお互い、自分に似合いのメイトを見つけ出せる。
わきあがってくる動揺を、心の内で押し戻した。キートンと二度と会えないと考えただけで胸がしめつけられる。無理だ、何か別の方法を考えないと。キートンをこのまま行かせてしまうのはまちがっている。チェイは物心ついた時からメイトを望んできたのだ。そのメイトが女じゃなかったからといって、あきらめるなんてどうかしている。
彼は足で床を軽く叩いた。
「なあ、腹減ってないか?」
「ない」
冷淡で短い返事に、水音が続いた。
チェイは両目をきつくとじた。キートンは腹ぺこの筈だ。峡谷で一晩過ごした後だ。
壁から体を押し離すと、キッチンへ向かった。キートンの好物が何かは知らないが、狼なのだし、肉なら何でも食べるだろう。二人分のボロニアサンドイッチの材料とソーダを二缶取り出す。
キートンがキッチンの入り口に現れた時、チェイは丁度チップスの袋を開けたところだった。濡れた髪のキートンは扉口で立ちどまって、顔をしかめた。
「腹は減ってないって言っただろ。もう行かないと」
チェイは微笑した。服が見るからにぶかぶかで、キートンはさらに子供っぽく見えた。ふっくらとした唇が不機嫌に歪められているのも子供っぽさに拍車をかけている。
「いいから、キートン。さっきのことは大目に見てくれ。気を悪くしたならあやまる。とにかく話し合わないと。こっちに座って、食えよ。腹が減ってるのはわかってるんだ」
キートンは数秒そこに突っ立っていたが、ふっと肩のこわばりがゆるんだ。
「OK。何を話し合いたいのか知らないけど、聞くことは聞くよ」
チェイと差し向かいで小さな木のテーブルに座り、彼はサンドイッチにかぶりつく。
「ん、む、ありがとう。ほんとは腹ぺこぺこなんだ。狩りにかかる前に撃たれたし、その後は朦朧としちゃってさ」
チェイの胸をしめつけていた緊張が、キートンが食べる様子を見て少しだけほどけた。彼は自分のサンドイッチを何口か食べ、ソーダをあおって流しこんだ。
「それで、そっちはゲイなんだよな?」
「そうだよ、何か文句でも?」
キートンは自分のサンドイッチを置いて立ち上がった。
「あのさ、こんなの馬鹿げてるし時間の無駄だ。傷の手当てをしてくれてありがとう。借りた服は明日返す」
そう言ってくるりと踵を返すと、彼はキッチンから出ていった。
チェイは唖然として言葉もなく座っていたが、玄関のドアが開閉する音で我に返った。
「くそっ」
今回は何だ? ゲイかどうか聞いただけだったのに。まったく、デリケートな男らしい。チェイはリビングに走りこむと玄関のドアを開けた。
前庭に立ったキートンは片手を顎に当て、下唇を噛んでいる。左を見て、右を見た。そこでチェイの姿に気付き、手を振って、彼は道をずんずん歩きはじめる。
まぎれもなく、強情そのものだ。自分の現在位置をさっぱりわかっていないのは見るも明らかだし、そもそも靴すら履いていない。チェイは溜息をつくと、小走りで家の中から車のキーを取って返した。
乗りこんだバンでキートンに追いついた時、彼は道のはじまでたどりついていた。チェイはその横につける。
「乗れよ、行きたいところに送るから」
「いらない」
チェイは怒鳴りたい衝動を奥歯を噛んでこらえようとしたが、少々失敗した。
「さっさと乗れ」
にらみ返すキートンの眉は目の上できつくひそめられ、彼も歯をくいしばっていた。
「いやだ」
頭を前へ向け、そのまま歩き続ける。
「キートン。車に乗ってくれ、……たのむから。話し合おう」
キートンは両手をさっと振り上げ、ばたっとおろした。チェイのバンまでつかつかやってくると、窓に身を傾ける。
「俺はゲイ、あんたは違う。それ以上何か話し合うことが? じゃあお互い元気でね、とか? まったく、運命ってやつはムカつくよね」
興味深いことに、怒りが増すにつれ南部訛りが強くなっている。実に魅惑的。
「車に乗ってくれ。大体、自分がどこにいるのか、どこに向かってるのかわかってるのか?」
キートンは溜息をつくと、車のドアを開けて乗りこんだ。
「いいや。ここに来てまだ一月だし。ウォルマートの近くに住んでるんだけど、わかる?」
「ああ、わかる。ところで出身は?」
「バレバレだと思うけど。ジョージアだよ」
チェイはうなずいた。
「かなり南部だろうというのはわかったが、どのあたりかまではわからなくてな」
数分の間、沈黙の内に車を走らせたが、キートンがまた逆毛を立てる前にと、チェイは本題に入った。
「俺たちは、お互いの
伴侶だ」
キートンは額をしかめ、両腕を胸の前で組んだ。
「あのさ、俺が何かしたわけじゃないからね。俺のせいじゃないよ。だろ?」
チェイはまばたきした。何だって?
色々言い返してくるだろうとは思っていたが、これはまったく予想の外だ。
「わかってるさ。俺の家は古くから代々の狼だし、メイトがどういう仕組みのものかはよく知ってる。ただ俺は、男のメイトを持つなんて予想してなかっただけだ。わかるだろ?」
「ふざけんな。そっちこそ、俺の期待通りってわけじゃないよ」
チェイの口がぽかんと開いた。まさに見事な癇癪。すぐにその口をとじた。
「いや、俺はがっかりしたとか、そんなんじゃない。ただ……つまり、驚いた」
「ああ、大体どう思ってるのかはもうよーくわかった。念の為に言っとくけど、俺、うつる病気は何も持ってないからね。キスしたからって狂犬病になったりってこともないよ?」
深い南部訛りの言葉のはしばしから、皮肉の毒がにじみ出していた。
なるほど、つまり彼が刺々しくなっているのは──キスのせい?
「あれは、俺のことを先に言っておいた方がいいと思っただけだ。な? 特にそれ以上のつもりはなかった。いいキスだったし、ただ──」
「うん、わかった、本当、こっちも悪かったよ。俺の態度もひどかったし」
キートンは左をさした。
「そこ曲がって。うちのアパートは次の左。ふたつめの建物」
チェイは曲がると、スピードをゆるめた。
「ここか?」
「うん、ここでいい。管理人に部屋に入れてもらわないと。すぐそこの上だから、ここで待っててくれれば、着替えてきて服を返すよ。管理人は俺のすぐ向かいに住んでるし。それか、洗ってから明日仕事の後に返しにいってもいいけど。どっちがいい?」
チェイは微笑した。そう簡単に逃げられると思うなよ、リトル・ビット?
キートンが車から降りてドアを閉める。
「なあ、待ってるか、後で持ってくか、どっちにする?」
「明日、何時に仕事が終わるんだ?」
「最後のクラスが三時だよ」
「家に帰るのは何時だ?」
「四時十五分ぐらい。何で?」
「明日取りに来るよ。六時に来るから、ディナーをしよう。何か好きなピザのトッピングは?」
キートンは眉を寄せた。
「あのさ、ここでさっぱり別れた方がお互いのためだと思うよ。そっちは俺をいらないんだし、俺だって金輪際──」
「OK、じゃあペパロニでいいな。明日また会おう、リトル・ビット」
チェイは満足げな笑みと共に車を出し、バックミラーに映るキートンの唖然とした顔をちらりと眺めた。そのうちキートンも思い知るだろう。チェイもまた、彼に負けない頑固者だということを。
■3
キートンはずり落ちてきた眼鏡を押し上げ、本に目を戻して、同じ文章をまた読み返した。
もう三度、同じ文章を読んでいる。馬鹿馬鹿しい。本を叩きつけるようにとじると眼鏡をむしり取り、教科書の上にのせた。電子レンジの時刻表示は午後五時四十五分。
チェイが現れるか現れないかなんて、気にしてなどいない。勿論、気にしてない。大体あの男は、キートンのことなんか好きでもない。
キートンは喉の奥でうなって、キッチンテーブルから立ち上がった。ムカつく男だ、何にしても。ストレートだってだけで充分最低なのに、何だってキートンの好みのタイプでなきゃならなかったのか。ゴージャスで、頭が良い。親切な上に思いやりのある男なのも昨日でよくわかった。
キートンは目で天井を仰ぐ。キートンがキスした時のチェイの反応ときたら、悲鳴を上げて逃げ出したと言ってやりたいほどのものだったが──言いすぎか──、その後でも彼は哀れなキートンに食事をさせた上、家まで安全に帰れるよう気を配ってくれたのだ。
最低なのは、何の望みもないとわかりきっているのに、それでも、昨夜キートンはチェイのことを思い浮かべながらいたしてしまったということだった。ああ、あの男にあれもこれもしてやりたい……あの筋肉質の引き締まった体の重みと動きを、リアルに感じられそうなくらい──。
だが、あの男はストレートだ。そんなのはもう御免だ。ジョナサンのことがあったというのに……しかもジョナサンは彼のメイトですらなかったのだし、あの時よりも今回の方が悲惨なことになりかねない。
キートンは呻いて、うろうろとキッチンに戻った。完全に袋小路だ。物事が転がり出す前に何としてもとめなくては。その方がいい。チェイのためにもその方がいいし、無論、キートン自身のためにも。
ノックの音が鳴るより先に、キートンはチェイの匂いに気付いていた。天井を目で仰ぐ。匂いまでもが、彼をチェイに惹きつける。腹立たしいことに馬鹿な股間がぴょんと頭をもたげてチェイの到着を歓迎した。
敏感な嗅覚なんて邪魔だ。フェロモンなんてムカつく。
キートンは溜息をつき、どすどすとドアへ向かった。開け放って、にらみつける。
チェイは微笑して──ああムカつく──ピザの箱とビールの六本パックを差し出した。
「俺飲まないんだけど?」
チェイがくすっと笑った。
「やあビット。こっちこそ会えて嬉しいよ。ああ、ありがとう。お言葉に甘えて上がらせてもらうよ」
キートンはうなって、横に一歩のき、チェイを招き入れた。
「俺の名前はビットじゃない!」
ピザの箱がまた押しつけられて、今回は受け取るよりほかになかった。
チェイはキッチンのカウンターにビールのパックを置くと、部屋を次々とのぞいている。
キートンの唇がぴくっと動いた。いい根性をした男だ、それはまちがいない。普通の男なら、今ごろ尻尾を巻いて逃げ出している頃だ。
「何でこんなところに来た、チェイ?」
「何でかって言うとな、お前は俺のものだからだよ。お前をどうしたもんかはまだ俺にもよくわからないが、まちがいなくお前は俺のメイトだし、俺のものだ」
「あんたが今すぐここから出てって、俺たちは最初から会わなかったふりをするってのはどう? そっちはかわいい女の子見つけて、つきあって、結婚して、子供を作ればいい。俺たち以外は誰も、彼女があんたの本物のメイトじゃないとは気がつかないさ」
キートンの寝室を観察していたチェイがくるりと振り返る。真正面からキートンの目を見つめる視線は、くい入るようだった。
「いやだ」
その目が狼のものに変化し、白目の部分がほとんどなくなる。
キートンの全身がぞくりとした。彼自身の目も変化しかかるが、その反応を押さえつける。ちらっと下を見ると、チェイのスクラブパンツの前が盛り上がっているのが見えた。少なくともチェイの体と狼の本能は、キートンの存在に反応しているのだ──心は別でも。
キートンはこの反応に喜ぶべきなのか、腹を立てるべきなのか、よくわからなかった。
どちらにも未来のない状況だ。それなのにチェイと一緒いる時間が長くなるだけ、キートンは彼に惹かれる部分を見つけてしまう。本能的な磁力とはまた別に。見た目がいいのはまちがいないが、それだけでなく、腹立たしいことに実に好きになれそうな相手なのだ。
キートンに立ち向かうような相手は、滅多にいない。キートンは威圧的な筋肉ムキムキタイプではないが、人狼の中でもとびぬけた力をそなえているのだ。結果、狼たちはキートンの意志を尊重し、いちいちわずらわせてきたりはしない。
だがチェイは違った。この男はわずかもキートンに怯まない。相手が何であれ、たしかに簡単に引き下がるような男ではなさそうだが。
キートンは、チェイを好きになってしまうかもしれない。もし自分自身に許せば。
だが許したとして、その行きつく先は?「ずっといい友達でいよう」か、「お前は俺の親友だ」か? あまり嬉しくはない。キートンにとって、チェイへの気持ちは“友達”以上の感情に育ちかねないものだ、それはわかっている。だがチェイの方は、一体いつか──せめて、スタート地点に立ってくれる日がくるのだろうか?
「来いよビット、食おう。腹が減ったよ。でかいペパロニピザを持ってきたんだ」
チェイが彼の横を通り抜けざまに、キートンの手からピザの箱を取ってキッチンへ向かった。カウンターに箱を置き、食器棚をあさりはじめる。
素晴らしい。キートンはキッチンにどすどす歩いていくと、二枚の皿を引っぱり出し、チェイに手渡した。キートンも腹が減っている。まあ、腹ごしらえの後にでも、この状況がいかに駄目かを説明すればいいか。
「テーブルで食うか? カウチの方に移るか? テーブルの上に何か色々出てるが」
「カウチで。ビールのグラスいる?」
「いや、大丈夫」
チェイはカウチに腰を落ちつけると、ピザをコーヒーテーブルに置き、自分の皿に一切れ取った。ビールの缶をあけ、長々と一口飲む。強靭な首がきれいだった。牙を食いこませたり、舐めるのにもよさそうな……。
「食わないのか、ビット? それともそこにグラスを持って突っ立ったまま俺を眺めてたいか?」
得意げなチェイの言葉よりも、見つめていた自分の方に腹が立って、キートンはぎゅっと目をつぶった。自分のグラスにアイスティーを注ぎ、チェイのいるカウチに加わる。
二人は黙々と食べた。食べ終わるとすぐ、キートンは空の皿と箱をキッチンに片付ける。
戻ってみると、チェイはカウチの背もたれの後ろへ腕を垂らし、足をのばして、すっかりくつろいでいた。実に長い足だ。少なくともキートンより十五センチは背が高いにちがいない。キートンは、昔から背の高い男に弱かった。
キートンはチェイと逆のはじに座った。彼は、チェイをここから追い出さなければならないのだ、見とれている場合ではない。
「あのな、チェイ。あんたが何とかしようと努力してるのはえらいと思うよ。でもうまくいくわけがないんだ。もう、俺たちは会わないのが一番だと思う」
チェイが身を乗り出してキートンの顎を手のひらに包んだ。驚きのあまり、キートンは麻痺したように座ったままだ。
肌に息がかかるほど、チェイが顔を近づける。
「キスの時のこと、まだ怒ってるんだろ? 悪かった。驚いただけなんだ。これまで、男とキスしたことがなかったんでな」
キートンは、チェイに顎をつかまれたままうなずいた。
「それはわかった、でもそっちじゃなくて──」
チェイが彼にキスをした。キートンの唇に自分の唇を重ねて。
こんなことをしてはいけない。とめなくては。
だが、キートンの体はまるで言うことを聞かなかった。気付いた時にはチェイの舌に唇をまさぐられていて、キートンは呻いて口を開けると、チェイを迎え入れながら自分も舌で応えた。チェイの犬歯が舌先にふれる。歯茎がずきりとして、自分の牙ものびているのがわかった。
チェイは最後にキートンの下唇をもてあそんでから、わずかに身を引いた。その目はふたたび狼の目になっていた。
「悪くないな。全然、悪いなんてもんじゃない」
視界がモノクロに変化して、キートンはまたたいた。小さな呻きを洩らし、彼は前に身をのり出して、半ば続きをねだる。何て不毛なことを。
「そうだ、ビット。逆らうな」
チェイの笑みが獰猛さを帯び、彼はキートンの唇の上に斜めに唇を重ねた。
こんなのは駄目だ、望んでもいない。今すぐやめないと……でももしかしたら、チェイの中にわずかでも、彼への気持ちが芽生える可能性があるとか──?
キートンはがばっと体を引きはがし、チェイからずりずりっと距離を取った。
「わかったわかった! ええと、友達になりたいんだな? 俺と友達として仲良くなりたい? わかった、それもろくな考えだとは思えないけど、でもわかった!」
チェイは微笑を浮かべて、キートンに近づいてくる。キートンは片手をつき出して阻んだ。
「でもキスは駄目だっ。さわるのも駄目だ。とにかく……その……肉体的接触は全部駄目だ」
「何故だ?」
そう、何故だ? 彼の本能も同調する。
「それは……俺たちは、そういう関係にはならないからだよ。俺たちは……ただの友達だ」
チェイの表情は『本気で?』と言うように挑戦的だったが、とにかくうなずいた。
「お前がどうしてもって言うならそれでもいいよ、ビット」
キートンの欲望はすっかりチェイになびいて、ぐずぐず言わずに身をまかせてしまえと同調している。キートンはその声をぴしゃりとふさぎ、チェイに向けて眉をよせた。
「俺の名前はビットじゃない!」
キートンのカウチでくつろいだチェイの姿は、どう見てもしばらく居座るつもりだった。キートンを友達としてしっかり知ろうと、チェイは実際に努力している。そのことに苛立っているのか安堵しているのか、キートンには自分がよくわからなかった。
一皮剥いてみると、彼らには意外と共通点があった。二人ともカントリーミュージックが好きだ。もっともチェイはヘヴィメタルも好きで、キートンにはそっちはまるで理解できず、キートンの好きなクラシックはチェイの苦手分野だった。二人ともフットボールが好きで、しかしお気に入りのチームは別々。キートンはジャガーズ、チェイはしぶといカウボーイズファンだった。食べ物の好みもよく似ている。
両方ともに夏生まれ、そして本好き。チェイの好みはミステリーとエロシーン多めのロマンス、キートンは正統派の伝記ものを好んだ。映画の好みまで共通したものがあって、お互いコメディとアクションが好物だ。もっともチェイは女の子向けの“スイーツ”な映画──キートンが裸足で逃げ出したくなるような──も好きだと打ち明けた。何だかんだで、お互いのことが随分とわかった夜だった。
三時間ほど、情報交換をしながらだらだらとしゃべった後、チェイが腕時計を見た。立ち上がってのびをする。
「行きたくはないんだが、十時に動物を見回るシフトが入っててな」
「動物の見回り?」
チェイが獣医だとは知っていたが、それにしても──。
「ん。クリニックに行って、すべて事もなしと確認してくるんだ。今朝手術をしたばかりのもいるし、生まれたての子犬も何匹かいる。すごくかわいいぞ。飼い主が出かけてるんで、まだうちで預かってるんだ。見てみたいか?」
うわ。キートンは子犬に目がない──そして子猫にも弱い──が、これ以上幸運を使い果たしたくはなかった。何が何でも台無しにしてやろうというキートンの意気込みから始まったにもかかわらず、今夜はいい夜だった。ここまでは。
キートンは首を振る。
喉の奥で笑ったチェイが、キートンの手をつかみ、引っぱり上げた。
「あきらめろ、ビット。子犬って聞いた時に目の色が変わったぞ。来いよ」
「チェイ、ほんとに駄目なんだって。明日は早い授業があるし。それとビットと呼ぶのはやめろ」
チェイは微笑を返しただけだ。ムカつく。この感じだと、チェイが改心するよりキートンがあだ名に慣れる方が先になってしまいそうだ。
「……わかったよ。一緒にクリニックに行くけど、その後は家にまっすぐ帰って寝るからな」
チェイは片方の眉毛を上げ、口元に意味あり気な笑みを浮かべてみせた。
キートンは笑ってしまう。まったく、この男はキートンにとって巨大な災厄になりそうだ。
「一人でだ!」
「俺は何も言ってないぞ?」
チェイはくすっと笑って、キートンを部屋の外まで引っぱっていこうとした。
「待てよ、鍵を取ってくる」
「締め出されたら、うちに泊まってけばいいさ」
「は、は、おもしろいこと言うね。そういうのやめろよな」
キートンは鍵をひっつかむと、チェイを追って部屋の外へ出た。
「また新しいルールか、ビット? さわらない、キスしない、誘いもかけちゃいけない?」
「もうひとつ忘れてる。俺をビットと呼ばない」
「忘れてないが、そのルールはあんまり好きじゃないんでな。誘い禁止のルールもパスだ」
チェイは自分のバンのドアを開け、ボタンを押して助手席のロックを開けてから、中へ乗りこんだ。
本気か? 気に入らないルールは無視するのがチェイのやり方? 先が思いやられる。
キートンはバンに乗りこむと、チェイがエンジンをかけて車をバックで出す間にシートベルトを締めた。
「そんなんでいいのか。自分の気に入らないルールは却下?」
チェイの、色気のある唇が笑みを刻んだ。「まあ、意外と人生うまくいくもんなんだぜ。そりゃあ、ママから怒られてきた回数を勘定に入れたら話にならないが……」
キートンはつい微笑した。おもしろい男だ。あけっぴろげで、冗談めかした楽しげな雰囲気に惹かれそうになる。
「そうだ、ママの話で思い出したが──」
何をだ。
「──明日の夜の予定は?」
答えに気をつけないとまずい展開になりそうだと思いつつ、キートンはチェイに嘘をつきたくなかった。これから二人がどんな仲になるにせよ、お互いに正直でなければ何ひとつ始まらないだろう。実際ここまでは、遠慮なく本音で向きあえている。
「いつもと同じだよ。授業の予定を立てて、採点しなきゃならないテストがあれば点数をつけて、終わったら読書するかテレビを見るか。つまり、予定らしい予定はない。何で?」
答えを聞くのがちょっと怖い。
「明日の夜、家族と食事するんだ。一緒に来いよ。俺の親に会ってくれ」
キートンは心の中で溜息をついた。そうくるだろうと思っていたのだ。
「それ、いい考えかなあ?」
「俺はそう思う」
チェイがうなずき返す。キートンは鼻を鳴らした。
「勿論そうだろうさ。“ハイ、ママ、ダッド。キートンを紹介するよ。俺はゲイじゃないけどこの男が俺のメイトなんだ。これからどうするかは何も考えてないけど、そこんとこだけはよろしく"」
「お前の、何でも悲観的に見る癖はどうにかしないとな、ビット。半分入ったコップを見ても”半分しかない" って考えるたちだろ」
とチェイが笑った。
「友達として紹介するから。な?」
「え……っと。じゃあ、まあいい」
口は災いの元、とはよく言ったもの。一体どうしてうなずいてしまったのだろう?
--続きは本編で--