狼の遠き目覚め

J・L・ラングレー

■1


「お前の口って、ほんと、すげえいい……」
 レミは枕に頭をのけぞらせた。目をとじ、刺激をすみずみまで味わおうとする。
 さらに強く吸い上げられ、巧みな舌で肉茎をちろちろとねぶられた。
「あっ、くそっ、イクって——やめろ、まだっ……」
 指の間に恋人の髪をきつく絡ませ、レミは押しよせてくる絶頂をこらえようとした。相手の甘美な唇を引き離して、どうにか快感を長引かせようとする。まだだ、まだ——。
 だが優しいキスでからかうように腹をくすぐられると、つい相手の髪をつかむ手がゆるんだ。レミの手がぱたりとベッドに落ちると、また相手の口がレミのペニスを呑みこむ。
 腰の奥がうずき、肌に震えが走った。陰嚢がきつく張りつめ、足先までぴんと緊張する。まるで甘い拷問だ。熱い波が、ざわざわと背骨をのぼってくる。まだ——まだ、早すぎる——。
「あっ、ああっ……」
 熱く、巧みな口が、レミのペニスから離れた。
 レミは、半ば笑いながら凄む。
「てめえ、焦らしやがって!」
 鼻で笑われた。次の瞬間、ペニスを手でぐいと握りこまれ、舌で先端から陰嚢までぺろりとなめ上げられた。
 相手の髪をまたつかむと、レミはその顔を股間へ引きつけた。
「それ、凄え、いいっ——」
 両脚がさらに上へ押し上げられて、レミの体を大きくさらけ出す。いたずらな舌が敏感な場所をなぶりながら、ペニスから、尻の割れ目へと下がって……。
 リーン、リーン。
 舌の動きは続いている。
 レミは何とか、後ろの穴へ近づく濡れた舌と、陰嚢にかかる熱い息に意識を集中しようとした。凄く気持ちがいい……。
 リーン、リーン。
 大きな音だ。本当に大きい。まるで耳のそばで鳴り響いているようだ。
 レミは左右を見回しながら、相手の黒髪を離した。電話なんか、近くにない。だがまたベルの音が鳴り、股間の、熱く濡れた愛撫も消え失せていた。
 何だ——?
 まばたきして、目を開け、レミは窓から差しこむ陽光に目を細めた。くそ、またカーテンを——カーテンがわりに吊るしているキルトを——閉め忘れたのだ。今日は何曜日だ? ああ、土曜だ。消防士の二十四時間連続シフトが終わって、二十四時間のオフに入ったところだ。
 朝立ちの、固い屹立がうずいた。下腹部の肌が先走りで濡れている。レミは薄いジョックストラップの上から、自分のものをぐっと握りこんだ。
「くそッ」
 あの夢。そっくり同じ、あの忌々しい夢を何度も見ている。夢の中で電話が鳴ったのはこれが初めてだが。あんな音はこれまで一度も——。
 リーン、リーン。
 携帯電話だ。
 ナイトスタンドの携帯に手をのばしながら、レミは目覚まし時計にちらりと目をとばした。朝の七時二分。もしこれがチェイの「ランニングに行こうぜ」という誘いの電話だったらあいつを絞め殺す、と決心しながらレミは携帯をひっつかみ、次のベルが鳴る前に開いて出た。
「ああ?」
『レミ』
 スターリングの声は、ひび割れていた。
『またなんだ。ダークと母さんが。迎えに来て、ここにはいられないよ。今すぐ、来て……』
 レミは即座にベッドの上で背すじをのばした。息が喉につまり、勃起が一瞬で萎え、胸がずしりと重くなる。
「今どこにいる?」
 ベッドカバーを払いのけてベッドからとび出して、ジーンズを探す。
「スターリング、今どこなんだ! 家か?」
『すぐ来て、レミ、六時からずっと続いてるんだ』
「何? どうしてもっと早く電話してこない!」
 ベッドの足側の床からジーンズを拾い上げた。ポケットから落ちた小銭が灰色のカーペットに散らばる。
『チェイとランニングに行ってると思って』
 レミの全身が硬直した。腹がからっぽになり、全身を寒気がわしづかみにする。
「しっ、スターリング! 家の中でチェイの名前を出すな! ダークに聞かれたら——」
『平気、今、表にいるから』
 とまっていた体を動かし、レミは携帯電話を顎と肩にはさむと、ジーンズを振り広げた。
「スターリング、俺とチェイがまだ友達だって、ダークにバレるわけにはいかないんだ。もしダークが……」
 レミはジーンズに足をつっこんだ。“あのホモ野郎”とレミがまだ友人なのだと、もしあの男に知られたらどんなことになるか、考えたくない。どうにかジーンズに足を通すと腰まで引き上げ、ベッド脇のパソコンチェアの背もたれから黒いTシャツをつかむ。
「歩きで町へ向かえ。今行くから」
『でも二人をとめてよ——』
 ありえない。今、レミにとって大事なことは、スターリングを家から引き離すことだけだ。スターリングまで巻きこまれる前に。
「とにかく言う通りにして、今すぐ歩き出せ」
 慌ててTシャツを頭からかぶると、クローゼットの中から野球チームの黒いパーカーを引っつかんだ。勢いでハンガーが肩をかすめて飛び、ベッドの横にガツンと当たる。パーカーに右腕を通したところで携帯が肩からすべり落ちたが、何とか宙でつかみ取り、また顎ではさんだ。
「歩くんだ、言っただろ。電話を切って家から遠くに離れろ!」
 自分のきつい口調に、思わずたじろいだ。普段はまずスターリングに声を荒げたりはしないが、恐怖にせき立てられていた。もしスターリングに何かあったら——いや、駄目だ。そんなことは考えるな。
『もう離れてるよ。じゃあ切るけど、でも、レミ、もし』
 何だと? ということは——と、レミは携帯をあらためて手に取り、発信者番号をたしかめた。スターリングは携帯電話からかけてきていた。携帯を使っているところをあの男に見つかりでもすれば、スターリングとレミにダークの怒りが降りかかる。レミはスターリングに携帯を買い与えてはならないのだ。ダークの命令だ。そんなものはスターリングに必要ないと、あの男は言った。
 何のジョークだ? スターリング以上に携帯電話が必要な者がどこにいる。携帯なしでどうやってレミに助けを求められる? 家の電話など使えるわけがない。だからレミはこっそりスターリングに携帯電話を買ってやり、緊急事態にだけ使わせていた。
 そして、不幸なことに、すでに幾度か、スターリングはこの携帯を使っていた。
 レミは肩口に電話を戻すと、靴を探して周囲を見回した。ベッドの足元に見つける。靴下はどこだ? まず靴下だ。
「前にも言っただろ、母さんは俺たちの助けなんかいらないんだよ。何度も、俺は助けようとした。でも母さん本人が望まない限り、いくら助けたって結局は無駄なんだ」
 靴下などどうでもいい。レミはベッドのふちに腰かけると、つかんだ靴に素足をねじこんだ。靴紐を結び、もう片方にとりかかる。
 まさかスターリングは……。
「お前、まさか、止めようとしてないだろうな? あいつに殴られてないよな?」
『大丈夫。でも、大声で怒鳴ってて……俺、窓から抜け出して、庭から出てきたんだ』
 靴紐を結び終えたレミは立ち上がり、やっと携帯を手に戻した。
「それでいい。何があっても二人の間に割って入るんじゃないぞ」
 鍵、鍵、鍵——鍵はどこだ。くそっ、何て散らかった部屋だ。ああそうだ、キッチン。昨夜、消防署から帰宅して、キッチンに鍵を置いた。
『うん。早く、レミ……』
 スターリングの声が詰まった。まるで泣いているかのように。
 急いでるよ。レミは通りすぎざまにキッチンのカウンターからキーとヘルメットをつかんだ。また携帯を肩と頬ではさんで、部屋の鍵をかける。携帯を持ち直し、下に置いてあるバイクに向かってアパートの階段を駆け下りた。
 スターリングとの通話を切りたくはなかったが、バイクに乗らなければ。
「じゃあ、切るからな。十分でそっちに着く」
『わかった。後でまた。俺もそっちに向かってる』
「よし。すぐ行く」
 パチンと携帯を閉じ、ポケットへつっこんだ。バイクのエンジンをかけてヘルメットをかぶる。震える手で、やっとストラップを締める。スターリングのところへすぐに行かないと。もしあの男が家から出てきて、歩いているスターリングを見つけたら——。
 レミの喉はこわばって、ほとんど息もできなかった。
 いや、大丈夫だ、うまくいく筈だ。母親がきっとスターリングをかばってくれている。いつものように。この週末はレミのところに泊まりにいっていると、自分が許可したのだと言って。
 だがもし、スターリングが歩いているところを、あの男に見られたら。本当はスターリングがまだ家にいたのだと気付かれたら——。
「畜生!」
 レミは屋根付きの駐車スペースからバイクを引き出すと、ネイティブアメリカンの居留地へと走り出した。


 スターリングはバイクの後ろからひょいと下り、ヘルメットを取った。黒髪のてっぺんがすっかり逆立ってしまっている。
 レミは、その髪をなでて整えてやった。
 すっかり背が高くなったスターリングは、もうレミと並ぶほどだ。成長っぷりにも目を見張るが、相当なハンサムにも育ちつつある。アパッチの父親からは褐色の肌と黒髪、黒い目を、白人の母親からは繊細な顔立ちと、少し鼻先がつんと上がった細い鼻すじを受け継いでいた。アパッチというには顔の輪郭がやわらかく、だが頬骨は父親ゆずりでくっきりと高い。これであと数年経てば、女の子が放ってはおかないだろう——いや、数年待たなくとも。
「ありがとう」
 そう言ったスターリングの唇が小さく震え、彼は深呼吸すると、レミにヘルメットを手渡した。髪を指で幾度かとかして、落ちつこうとしている。
「礼なんか言うな。俺が行くのは当たり前だろ」
 レミはヘルメットのストラップをパチンとはめ、ハンドルバーにぶら下げた。弟を助けに行くだけで頭が一杯で、予備のヘルメットを忘れたのだ。幸いヘルメットの着用義務があるのは十八歳までだ。レミからすれば馬鹿な法律だが——何歳だろうとヘルメットは必要だ——今回ばかりはレミもヘルメットなしでバイクを走らせるしかなかった。
 弟の肩を抱いてうながし、一緒にレストランへ歩き出す。スターリングの首に腕を回し、引きよせて、レミは互いの頭をコツンと合わせた。レミの乱れた鼓動は一向におさまらない。スターリングからの電話を受けると、いつもこうだ。
 スターリングはレミの腰に腕を回してぎゅっと抱きしめてから、肩をそびやかし、足取りを早めた。
「勘弁しろよ、髪形が崩れるだろ、もうガキじゃあるまいし」
 レミはクスッと笑って、生意気な弟の肩に自分の肩をぶつけた。スターリングが十四歳の少年らしく振る舞い出すのを見て、やっとレミ自身の緊張もゆるむ。
「お前な。朝飯をおごってやろうって兄貴に向かって、そんな口を叩くか」
 レストランのドアを開けたスターリングが、レミのためにそのドアを押さえて、うなずいてみせた。
「どーぞ、お入り下さい?」
 様々な匂いが洪水のように押しよせてくる——レミは鼻をうごめかせた。まったく。この強烈な匂いにもいつか慣れるのだろうか。人狼の感覚は鋭敏すぎるのだ。
 レジの後ろから出てきたウェイトレスが二人を出迎えた。ニコニコしながら、まるで演説でも始めそうな勢いで胸をつんと張る。スタンドからメニューを、サイドポケットからナプキンに包まれたフォークセットをつかんで、彼女はレミにたずねた。
「二人?」
「ああ」
 レミは答えて、むせ返るような芳香を無視しようとしながら弟を見つめていた。スターリングは何事もなかったように振る舞っているが、レミはごまかされない、怯えて当然の状況だ。スターリングは虚勢を張っている。家から離れた今、落ちつきを取り戻したようには見えるが、簡単に気持ちを切り替えられるような生易しい出来事ではない。レミ自身、身にしみて知っていた。ずっとあの中で生きてきたのだ。
 溜息をつき、レミはウェイトレスが示したブースに弟と向かい合わせで座った。
 ウェイトレスはテーブルにメニューをのせると、皿を置こうとして、不自然なほど低く体をのばした。
 これだ——この女が、強烈な花の匂いの元凶だ。香水風呂にでも浸かったのか? さっきから妙な態度ばかり取っているし。
 ちらと目を上げた瞬間、レミの目の前に彼女の胸が迫っていた。おっと。白いワンピースの胸元から、今にも中身がポロリといきそうだ。レミは女の胸から目をそらし、彼女と視線を合わせた。
「サリーよ。今日のあなたのウェイトレス」彼女がウインクした。「もしお望みのものがあれば、遠慮なく、あたしに言ってね。何でも」
 入口で出迎えた時もこんな媚びるような声だったか? レミはうなずき、社交辞令の笑みを返した。いつもならこなれた返事のひとつもして遊ぶところだが、今日はそんな気になれない。それに、彼女の匂いも気に入らなかった。
 匂いで女を判断するなんて変な話だ。深く考えたくない。人狼になってからというもの、とまどうことばかりだった。
 スターリングが顔中でニヤつきながら、ぱちぱちと彼女に向けてまばたきした。
「うん、わかった。その時は兄貴を是非よろしく」
 思わず笑いそうになる口元を引きしめて、レミは弟をにらんだ。
 ウェイトレスはスターリングに微笑んでから、レミに名残り惜しそうな一瞥を残して去っていった。彼女が充分遠ざかってから、レミは問いただす。
「どういうつもりだ?」
 スターリングは知らん顔で肩をすくめたが、その両目は子供っぽく輝いていた。
「デートのお手伝い。あの人、すっかりレミにのぼせてるし? 大体、前はよく俺をダシにして女を引っかけてたじゃないか、今日も援護してあげようかと思ってさ。そろそろ、彼女作ったら?」
 言いながら、彼は皿にかぶさっていたダークグリーンのナプキンを取って広げる。
「あれはお前をダシにしてたわけじゃない。女が勝手にお前に寄ってきただけだろ」
 真実だ。女を釣ろうとしてスターリングと出かけていたわけではない。もっとも、幼児と少年の二人連れには女がどんどん群がるものだと、十代のレミがすぐ悟ったのも本当だった。レミが二十代、スターリングが小学生になってもそれは変わらず、レミはスターリングに寄ってきた女たちに電話番号をもらったり、スターリングの耳を手でふさがなければならないほど露骨な誘い文句をかけられたものだ。
「それにな、俺は別に彼女なんかいらないんだよ」
 特に、香水を浴びるようにつける女は。
「でも最近デートもしてないだろ」
「俺のお目付け役気取りか?」
「そうじゃないけど——」スターリングは肩を揺らした。「ごめん。何かしたかっただけだよ。だってレミ、淋しいだろ。チェイとももう遊べないし、このところいつも一人だし。俺といる時以外は。それに、あのウェイトレスかわいいよね?」
 レミは手をのばし、テーブルの向こうのスターリングの手を握った。弟が暴走する前にやめさせないと。今は人狼の生き方に慣れるだけで精一杯で、女とつき合う余裕はゼロだ。
「悪くないよ。でもな、本当にいいから。彼女がほしけりゃ自分で探す」
「チェイのアシスタントを誘ってみたら? ティナ、いい感じじゃん」
 スターリングがニヤッとした。
 どういうわけか、ティナのかわりに彼女の兄——ジェイクの顔が脳裏にぽんと浮かんだ。背が高くて、褐色の肌の、いい男——粗削りな魅力をたたえている。おまけにいい匂いもする。
 ふいにレミの股間が熱を帯びはじめた上に、どうしてかジェイクの匂いまで鼻先に漂ってきたが、どう考えても勘違いだ。ジェイクがこのレストランにいるわけはないし、いてもこれだけ大勢の匂いの中からレミに嗅ぎ分けられる筈がない。
 にしても、ジェイクのことを考えるたびに勃起しかかるのはどういうわけだ? ジェイクは男なのだ。レミはうなった。今は弟の恋のキューピッド気取りをやめさせるのが最優先で、ジェイクへのおかしな体のリアクションに悩まされている場合ではない。
「スターリング……」
「ん、何? さーて、何食おっかな」
 スターリングは視線をそらしたが、まだニヤついたまま、取り上げたメニューを開いた。
 その拍子に、袖口からのぞいた手首に、紫色の痕が見えた。まるで——。
 一度はおさまっていたどす黒い恐怖が、レミの心を凄まじい勢いで食い尽くしていく。心臓にナイフをねじこまれたような衝撃。
 スターリングの手首をつかむ。メニューがカタンと落ちた。
「ちょっと——」
 邪魔な袖をまくり上げ、レミは手首についた痣を凝視した。見間違えようもない、指の痕がついていた。誰かがスターリングの手首をつかんだのだ。強く。腕の上部にはもっと大きな痕まで残っていた。
 吐き気が喉元で渦巻いて、レミはごくりと唾を呑みこんだ。歯をくいしばる。視界が曇ってきた。もしあの男が、スターリングを傷付けでもしたら……。
「いつだ? いつ、こんなことをされた? ダークに殴られたのか? ほかに傷は?」
 レミはその問いを絞り出した。声に怒りを出すまいとしても、まるで無駄だった。かつて自分が殴られた、あの拳の記憶がよみがえってくる——恐怖も、痛みも、怒りも。年月はすぎても、すべて鮮やかなままだ。
 母親が——時にはレミまでもが——父親の暴力の犠牲になっているところを見なければならなかっただけで、スターリングには充分つらい思いをさせたのだ。この弟までもが殴られるのを、レミは決して許すつもりはなかった。
「答えろ」
 問いつめると、スターリングの目が驚いたように見開かれ、それからゆっくりと首を振る。
「殴られてないよ」
 ——まだ。
 まだ、父親はスターリングを殴ってはいないが、このままではいずれその時が来る。レミは吐きそうだった。こうして月日が経った今でさえ、自分の父親に立ち向かうのが恐ろしく、そんな臆病な己が憎い。どうしてか思いこんでいたのだ。レミが理想的な息子を演じつづけさえすれば、すべてが丸く収まると。
 父親がスターリングを傷つけない限り、レミは、彼が命じる通りに生きていく。そう、約束した筈だった。
 だが今や、そのレミの臆病さが、スターリングを危険にさらしている。もう何年も前に、スターリングをつれてあの家を逃げ出していればよかったのだ。あの男がレミとの約束など守るわけがなかったのだから……。
 目をとじて、レミは深く息を吸いこんだ。温かく、鮮やかな匂いが鼻腔を満たして、ふいに安らぎに包まれた。いや、安らぎなどではない——そんなものを感じる余裕はない。だが、守られているという奇妙な安心感が広がり、体の緊張がふっとゆるんだ。きっと、心の緊張も。
 誰かの手が肩にふれた。
「レミ、会えてよかった。用があったんだ。少しあっちで話せるか?」
 レミが視線を上げると、凛々しい顔の、ほとんど黒に近い焦茶の瞳が彼を見つめていた。
「……ジェイク。やあ、その——」
 さっきの匂いは、本当にジェイクのものだったのか。
 ジェイクはちらっとスターリングを見やって、レミの二の腕に手をかけ、軽く引いた。
「少しの間、いいかな」
 スターリングが何かぼそぼそ答えていたが、レミはどうしてジェイクがここにいて自分を店の外へつれ出そうとしているのか理解できず、ただ混乱していた。頭がまとまらない。何が何だかわからない。熟練した消防士としてはありえないほどの動揺っぷりだったが、朝からの騒動の上に、ジェイクの存在感がこうひしひしと迫ってきては、落ちつけるわけがない。誰でも同意してくれるだろう。いや勿論、ジェイクにどれほど心を揺さぶられるのかなど、他人に話せるわけがないが。
 よろめきながら、レミはジェイクに引っぱられるまま歩きつづけるしかなかった。どういうつもりだ、何だって店の外なんかにつれていこうとする? 出口まで半分ほどのところで、レミはどうにか気力をかき集めてジェイクの腕を振りほどいた。
「あのな——」
「お前の目だよ。外に出よう」
 目? しまった、いつのまにかすべてが白黒に見えている。ジェイクのせいか。こんなそばにいると——いや待て、もしスターリングにこの目を見られていたら。
 ジェイクを追ってレストランの外へ、そして彼のSUV車へ歩きながら、レミはキートンに教わったとおり、集中して、物の色彩を見ようとした。
 ジェイクが車のドアを開け、乗れと手で示す。
 レミはシートに座り、すぐそばの友人——だろう——をじっと見つめた。レミが人狼に変えられて数ヵ月だが、その間に二人は友人になっていた。レミの方ではできるだけジェイクを避けようとしているのだが、どうしてか満月の夜は、いつも彼と一緒に狩りをして終わる。
「お前、最初からあの店にいたのか?」
 レミがそうたずねると、ジェイクはドアの上に手をのせたままレミを見つめ返した。髪に差しているミラーサングラスを取って、レミへ渡してくる。それにしても本当に背の高い男だ。レミは受け取ったサングラスをかけると、頭を振って平静を取り戻そうとした。
「ああ。お前が入ってきた時、すぐに匂いでわかった。帰り際にテーブルに寄って挨拶していくつもりだったんだが、お前の匂いがいきなり変わったんでな。何か力になれないかどうか、見に来たんだ」
 眉を寄せ、ジェイクはちらっとレストランを見てから、レミへ視線を戻した。
「大丈夫か?」
 いいや。
 何も、大丈夫などではない。怒りをかき立てていたアドレナリンはおさまってきたが、今やレミはこみ上げてくる欲情を抑えるのに必死だった。レミはうなって、両手に顔をうずめる。チェイのくそったれが。人狼にされたおかげで、元からややこしい人生がさらに面倒臭くなった。
 レミは頭を上げた。
「大丈夫だ、何もねえよ」
「お前は何もないのにいきなりカッとなって、次の瞬間には恐怖の底に叩きこまれたりするのか? いいね、人を担ぐつもりならもっとうまい嘘を言えよ。一体何があった、レミ?」
 別にジェイクを担ぎたいわけではない、むしろ彼に担ぎ上げられて——ちょっと待て、どこからそんな発想が?
 レミはふう、と息を吐き出した。一瞬、ジェイクにすべてを打ち明けてしまおうかという思いがよぎったが、そうはしなかった。ダークの話は、誰にもしない。友人たちにさえ。誰だろうと、いや友人であれば尚更、こんな泥沼に巻きこみたくなかった。
 レミはジェイクの目をまっすぐ見つめた。このまま、この話題を流してくれないかと願いながら、
「今、店の中にいるのは俺の弟なんだ」
「だろうと思った。かわいい子だな。お前によく似てる」
 ジェイクが頭をめぐらせて、レストランの中へ視線を投げた。
 つられてそっちを向くと、慌てたようにレストランの窓から身を引いてテーブルへ駆け戻っていくスターリングの姿が見えた。レミは思わず、ニヤッとする。そう、スターリングとレミはよく似ている。目だけは別だが。スターリングはダークと同じ目をしている——いや違う、同じ茶色の目をしているというだけだ。あの男のように、冷たく残酷な、死人のような目などではない。
「だがな、レミ、それは質問の答えになってないぞ」
 レミは溜息をついた。やはり。ジェイクはあっさりごまかされてくれるような男ではなかった。
「その話はしたくないね」
 早く平静さを取り戻して、席に戻らないと。父親にビクビクしている情けない己のことなど、どうしてジェイクに話せるだろう。自分のあやまちは、自分一人で背負っていくしかない。これは誰の力も借りられない問題なのだ。どうにかするためにも、スターリングと話の続きをしなければ。
 色。まずは色に集中だ。
「……青」
「え?」
「お前が着てるの、青いシャツだろ」
 ぴったりしたダークブルーのシャツだった。ジェイクのたくましい胸元がちらりと見える——しまった、また視界が白黒に戻る。ジェイク以外の何かに集中しよう。
 ジェイクが、喉の奥で笑った。低い響きの、セクシーな笑い声。ラジオのDJでもやれば一儲けできそうだ。
「また戻ったな」
「匂いでわかんのか?」
「ああ」
 人狼の嗅覚は、欲情も嗅ぎとれるのだろうか。
 違うと信じたい。レミには嗅ぎとれないし——というか、色々と嗅いではいるが、まるで嗅ぎ分けができていない。今は狩りの時の周囲や獲物の匂いを勉強している最中で、それがすめばキートンに手伝ってもらって人の匂いの識別に取りかかることになっていた。とにかくそれまでは注意して振る舞うしかない。男相手に欲情しているなんてバレたら、気まずいだけじゃすまない。ゲイでもないのに。くそったれ。
 レミは、背の高いジェイクの肩の向こうへ目をやって、隣の車へ視線を据えた。あの車は何色だ?
「話してくれ、レミ」ジェイクの声が、ふっと優しくなった。「俺は、力になりたいんだ」
 その真摯さに、レミの気持ちが崩れそうになる。目をとじて、うつむいた。信じられない。ありえない。誰かにちょっと優しい言葉をかけられただけで、こんなに自分が脆くなるなんて。
 いや。ジェイクが相手だからだ。
 これまでレミは、友人たちがいくら救いの手をのばそうとしても、平気な顔を装って無視してきた。皆の助けが、事態をより悪化させるだけだとわかっていたからだ。レミだけでなく、全員を巻きこんで。だがジェイクは……どうしてか、ジェイクだけは事態がどれほど悪くなろうとも決して彼を見捨てない、そんな気がしてならなかった。
 レミの肩に、ジェイクの手がのせられた。
「深呼吸だ。思いつめても目は戻せないぞ」
 うなずき、レミはジェイクの向こうにまた視線を据えると、深く息を吸いこんだ。
 何かが頬をそっとかすめ、レミははっとした。
 ジェイクが目を見開き、彼を見つめながら、一歩下がるところだった。
 しまった。いつの間にかジェイクの手に頬を擦りよせていたのだ。何だってそんな馬鹿なことをしてしまったのか。レミは視線を下げて、軽くごまかそうとした。
「悪い、その、うっかり——」
「いいんだ、少し驚いただけだ。家族の話を聞かせてくれるか? スターリングに何があったんだ?」
 家族の話? レミはぎょっと顔を上げた。スターリングに関することだとどうして見抜かれたのだろう。だが、忘れていたが、ジェイクは私立探偵だった筈だ。もしかしたら、本当に彼の力を借りられるだろうか?
「ジェイク。もし俺がたのめば、ある人物を尾行したり情報を集めることはできるか?」
 父親は絶対に後ろ暗いことをしている、レミにはその確信があった。悪徳警官。だからこそ危険な男だったが、逆に、その尻尾をつかんでうまいところに証拠を持ち込めれば、レミやジェイクが表立つことなくあの男を片付けられる。
 ジェイクは小首を傾げた。
「もう少し詳しく聞かせてもらう必要はあるが、ああ。できる」
 レミは、肩からほっと力を抜いた。具体的な道が見えたおかげで、気分が少しだけ上向いていた。ジェイクに払う報酬の当てはなかったが、金のことなど後からどうとでもなる。スターリングの未来を、レミのような人生にしないためなら。
 シートからレミが立ち上がると、ジェイクが一歩後ろに引いたが、充分な残り香がレミに届いていた。濃密で生々しい、雄の匂い、そして……いや、こんなことはやめないと。ジェイクの力を借りる気なら、この誘惑も振り切らなければ。
 レミは車をドアをしめ、ミラーサングラスをジェイクに返そうとしたが、ジェイクは首を振った。
「持っておけ。また必要になるかもしれない」
 うなずき、レミはサングラスを髪に差しこんだ。たしかに持っておいた方がよさそうだ。ジェイクがそばにいると、どうも不安定になる。
「じゃあ来いよ、弟に紹介する。朝飯をこっちに持ってきて、一緒に食おうぜ」

 
■2
 
 
 パンケーキを口につめこみながら、レミはジェイクの表情に笑いをこらえていた。
 可哀想に、ジェイクはスターリングにたちまち気に入られてしまった。そしてひとたびスターリングが打ち解けると……さすがにここまでよくしゃべるスターリングはレミも久々に見たが、ジェイクはその際限ないおしゃべりによくつき合っていた。しかも、次々と浴びせられる質問にもまるで苛立ちを見せない。
「保釈金を踏み倒した犯人を追っかけたことある?」
 スターリングが身をのり出して、テーブルに両肘をのせた。
「いわゆる賞金稼ぎか?」うなずきながら、ジェイクはオレンジジュースを一口飲んだ。「何回か。逃亡者の追跡は、リースの方が経験豊富だ」
「リース?」
 レミは眉を寄せた。初めて聞いた名前だった。思えば、ジェイクのことはあまり知らない。三度ほど満月の夜を一緒にすごしたが、二人とも狼だったし、会話向きの姿とは言えない。
「俺の仕事のパートナーだ。一度、会ってるぞ」
「覚えがないな」
 いつだろう。リースはあまりよくある名前ではないし、忘れるとは思えないが。
「三週間前、狩りの時に」
「ああ……」
 成程、リースも狼なのだ。未明に顔をつき合わせただけの狼の名前など知るか。ジェイクやチェイにそっくりの、黒くて大きな狼だった。まあレミも似たようなものだが。皆、黒くてでかくて、見分けづらい。
 そりゃないな、とレミは思わず自分で吹き出していた。黒いから見分けられないなんて、人間相手なら大変な差別発言だ。レミとしても差別は不本意だが、狼相手であってもやはりここは反省……するべきか?
「何」
 と、スターリングがくるりとレミへ顔を向けた。ジェイクは唇の端を持ち上げたが、当惑気味だ。レミはまだ笑いながら肩を揺らした。
「気にすんな。ちょっと面白いことを考えてただけだ」
「一人で笑うほど? それヤバいと思うよ、医者に行った方がいいんじゃない」
 スターリングがからかう。レミはコーヒーを一口飲みながら、カップのふちごしにジェイクと目を見交わした。
「たしかにな。こりゃ家系かもなあ、弟も医者につれてった方がいいかな?」
 そのレミの返しに、ジェイクがオムレツを食べながら「ふうむ」と納得の相槌を打った。
「その方がいいな。下の世代の方が危険らしいからな」
「やっぱり、だよな。俺の聞いたところ、過剰なおしゃべりは情緒不安定のサインだとか……」
 レミはジェイクから視線を引きはがし、隣のスターリングを見ながらコーヒーカップを口元に寄せた。スターリングがぐるっと目を回し、肩でレミをこづく。
 笑い出したレミのカップからコーヒーがこぼれた。カップを置いて腕にかかった生ぬるい液体を拭うと、彼はそのナプキンをスターリングに投げつけた。虚を衝かれたスターリングがバタバタと腕を振り回す。何とかナプキンを宙でつかみ取ったが、次の瞬間、ジェイクの投げたナプキンがばさっとその顔を覆った。
「うっわ、ずるい!」
 スターリングは顔から緑色のナプキンをむしり取り、二人をにらみつけるふりをした。
「二人がかりで! 大体、いつから狩猟なんて行くようになったんだよ、レミ?」言いながらジェイクへナプキンを投げ返す。「俺もつれてってよ」
「う」
 まずい。レミはまばたきした。どうやってごまかそう。
 ジェイクが、受けとめたナプキンを膝の上に戻しながら答えた。
「じゃあ一緒に行こう。いつがいい?」
 助け船はありがたいが、喜んでいいのかは微妙だ。後でスターリングの、どんな狩りだとか、いつつれて行くんだという質問をかわさねばならないのはレミなのだ。
「獲物は何?」とスターリングがたずねた。
 今、何のシーズンかなど知るわけない。シカ? カモ? ウズラ? 見当もつかない。ライフルだの何だのを抱えての狩りには縁がない。
「キツネ」
「シカ」
 レミの答えに、ジェイクの答えが重なった。
 うげ。思わず、レミは呻きそうになる。
 スターリングが眉を寄せた。
「どっちだよ」
 ジェイクがスターリングをまっすぐ見つめる。答える彼の目はいたずらに光っていた。
「シケたシーズンでな」
 おっと、そうきたか。レミの唇がピクッと笑いに引きつる。「キツイね」
「まったくだ」
 スターリングがうんざりと、
「何だよ、どうせ狩りなんて行ってないんだろ」
「行ってるさ。ただ滅多に獲物を撃たないだけだ」
 レミの答えは嘘ではない。いつもは獲物を走って追いかけ、首を噛みちぎるだけだ。彼はニヤッとジェイクに笑いかけた。ジェイクも笑みを返す。
 スターリングがたずねた。
「次の時、本当につれてってくれる?」
「勿論」ジェイクがレミへ、片眉を上げた。「ただし君は、それはそれは静かにしてなきゃならないけどな。うるさいと怖い狼が寄ってくるかもしれないぞ」
 レミは思わず笑い出していた。もういい、スターリングの質問をどうかわすかについてはまた後で考えよう。ジェイクといると楽しい——少なくとも、彼への欲情に悩まされていない時は。
 思えば、最近のレミの数少ない楽しみと言えば、満月の夜の狩りくらいのものだった。狼の姿でジェイクと分かち合う沈黙は心地よかった。人間の姿でも、互いに気が合うのは当然か。ただ、人の姿で会っている時はいつもレミの方が、自分の中の狼を制御しようと必死だっただけである。今はくつろいで、いい気分だった。
「ああそうだな、狼が来たら、全力で逃げなきゃな」
 レミの冗談に、ジェイクが笑みを浮かべた。大きな、楽しげな笑みに顔が輝き、焦茶の瞳に光がきらめいた。
 レミの欲情がドクンとうずく。目の焦点がぼやけ出し、犬歯がむずむずとのびそうになる。ヤバい。
 髪に差してあるジェイクのサングラスを取って、レミはそれで目を隠した。
 

 笑いながら、スターリングはレミの背中をこづくと、はずむような足取りで追い越してレストランから出ていく。
「次はどこ?」
 そう言いながら、少年は駐車場を横切ってレミのバイクへ駆けよった。くるりとジェイクとレミを振り向いた顔は満面の笑みだった。
「ねえ運転していい?」
 ジェイクは笑いをこぼした。まさに弟とはこうあるべき、と言うくらいスターリングは生き生きとして、仔犬のように楽しげで元気溌剌だ。頭も回るし顔もかわいいが、それ以上に人を惹きつける少年だった。誰の心でも溶かしてしまうような。
 レミが、ジェイクにサングラスを返しながら、むっつりと首を振った。
「町なかでは駄目だ」
 半歩ほどジェイクに遅れて、レミがバイクに着く。キーをイグニッションに挿し、彼は細めた目をジェイクへ向けた。陽光がその目をまっすぐ照らし、独特な緑色の瞳をきらめかせていた。
「明日、ビールでも一緒に飲みながら、さっきの話の続きをするか?」
 実に、息を呑むような美しい瞳だ。初めてレミの目を見た時、ジェイクはてっきりカラーコンタクトだと思ったのだった。だが違った。狼の姿になった時でさえ、レミの目は宝石のように淡く澄んだ緑色で——いや、考えるのはよそう。
 ジェイクはサングラスをかけた。ここで彼が昂ぶると、その欲情の匂いが引き金となってレミまでもが欲情する。そしてレミは、目や牙を押さえるのがまだ不慣れだ。
 答えようと、ジェイクは緑にきらめく目から視線をそらした。
「ああ、いいな。俺の電話番号は知ってるか?」
「ああ。キートンの護衛についてた時にくれたろ?」
 ハンドルにぶら下げてあるヘルメットをつかみながら、レミはひょいとバイクをまたいで座る。後ろのシートにスターリングが収まると、レミは弟にヘルメットを手渡した。
 ヘルメットを受け取ったスターリングが、ジェイクをがばっと振り向く。
「キートンの護衛をしてたの? ボディガードってこと? 凄え! どうしてキートンにボディガードが? 大学でなんかあったの? 学生を落第させたとか? あ、もしかして」スターリングが目を見開く。「キートンがゲイだから?」
 レミが眉をしかめてスターリングの太腿をつねった。
「いてッ」悲鳴を上げ、スターリングは兄をにらんだ。「何すんだよ」
「いいから」レミはジェイクへ顔を向ける。「悪い、ジェイク、こいつのことは無視して——」
「何が悪いんだよ、気になるじゃないか。俺だって将来私立探偵を目指すかもしれないし、そうしたら参考に話を聞いといた方がいいだろ」
 スターリングがまくしたてた。
 ジェイクは二人から目が離せない。
 レミはうんざりとうなって、スターリングを肩ごしにぎろっとにらんだ。体をねじったせいでパーカーが肩からすべり落ち、黒いTシャツの胸元がのびて、引き締まった胸筋が見えた。
「お前は人のことにうるさく鼻をつっこんでるだけだし、ジェイクはお前の質問に永遠に答えつづけるほどヒマじゃない。それにな、お前、たしか消防士になりたいんじゃなかったのか?」
 兄弟が仲良く言い争うのを聞き流しながら、ジェイクはクスッと笑った。気を抜くとレミの胸板に目が吸いよせられそうになる。狼への変身の時に服を脱いだ姿は見たことがあるのだが、それでもTシャツごしに浮かび上がる引き締まったラインにひどくそそられていた。さわりたくてたまらない。レミの乳首をつまみ上げて、彼が身をよじり、しまいには乞うまで追いつめて——レミの、鍛えられた筋肉が汗に濡れて光り——。
 ジェイクは首を振った。レミはゲイではないのだ、彼がジェイクの伴侶メイトとなることは、きっとないだろう。ましてや、もっと深い、ジェイクの支配欲を満たす相手になることなどありえない。
 スターリングが肩をすくめた仕種で、ジェイクは我に返った。
「まあたしかにね、でも知りたいんだよ」スターリングはヘルメットをかぶった。「俺だって、キートンが好きだし。ダークが何と言おうと——」
 レミがエンジンを吹かして、弟の言葉をかき消した。
 ほう、興味深い。どんな事情があるのだろうか。
「後で電話する」
 少しバイクを傾け、レミはスタンドを蹴った。彼はヘルメットを着けていない。その腰にスターリングが抱きついた。
「じゃね、ジェイク!」
「待て」
 ジェイクはレミの腕をつかんだ。ヘルメットなしで行かせるわけにはいかない。たとえ人狼であっても頭部への衝撃で死に至ることもあるのだ。人狼の治癒能力がいかに高くとも、死は治せない。
 しまった。ジェイクの手がふれた瞬間、レミの匂いが変化した。濃密な——情欲を帯びた香りが、今度はジェイクの本能を刺激する。
 レミは黒い眉をぐっと寄せた。瞳の緑色が広がって、白目の部分を呑みこもうとする。ジェイクの指に、レミの腕の筋肉のこわばりとぬくもりが伝わってきた。
「何だよ」
 咳払いして、ジェイクはレミの腕を離した。「ヘルメットはどうした?」
 たずねながらまたサングラスをレミに手渡し、目のはしでスターリングの様子をうかがう。
 ごくりと、喉仏が上下するほど大きく生唾を呑みこみ、まばたきして、レミはサングラスをかけた。親指で、ぐいと肩ごしに指す。
「急いでたんで、こいつの分のヘルメットを忘れたんだ。だから俺のを貸してる」
 ここは、慎重にいかないと。安全に気をつけろ、と上から言おうものなら、レミは反発するだけだ。
「じゃあ、スターリングは俺の車に乗ったらどうだ? 家まで送るよ。それでヘルメットも足りるだろ」
 レミは首を振った。「いや——」
「来いよ、スターリング。あっちで、探偵の仕事をもっと詳しく話してやる」
 ジェイクはスターリングを手で招いた。レミに拒否させる気などない。
 狙い通り、スターリングはにっこりしてヘルメットのバックルを外した。
「いいね! 今日一緒に遊ばない? なあレミ、ボール投げしに行こ?」
「スターリング……」
 レミが弟を振り向く。スターリングはひょいと足を回してバイクからはね下り、ヘルメットをレミへ押しつけた。レミが溜息まじりにそれを受け取る。
「ジェイク、本当にいいのかよ? もし仕事があるなら——」
「まったくかまわない」
 ジェイクは笑みを返した。少々卑怯だとは思うが、ついにメイトの弱みを見つけた今、それを利用する気満々だった。ジェイクの視線の先では、スターリングがわくわくした様子でとび跳ねている。スターリングを釣れば、レミがついてくるというのなら……そうするだけだ。
 幸い、ジェイクはこの少年が気に入っていたし、利用するという以上に面倒を見てやりたかった。それに先刻、レミをレストランからつれ出す前に漏れ聞いた二人の会話からして、スターリングにはあらゆる助力が必要そうだ。
 スターリングの肩にぽんと手をのせ、ジェイクは彼を自分のシボレー・タホへとつれて行く。
「ボール投げって?」
「うん、フットボール。俺、来年、代表チームに入りたくて」
 ヘルメットをかぶったレミが二人の横にバイクをつけると、スターリングに指をつきつけた。
「お行儀よくな!」それからジェイクに手を振る。「じゃ、俺のアパートの前で」
 思惑通りにいきそうだ。ジェイクはうなずくと、リモコンキーを押して黒い車体のシボレー・タホのロックを開けた。
 スターリングが助手席に乗りこんでシートベルトを締める。
 ドアを開けて運転席に乗りこむジェイクを、スターリングは小首を傾げてじいっと見つめていた。エンジンをかけ、車をバックで駐車場から出す間も、ずっと黙っている。あれだけおしゃべりだったのが、何とも不吉だ。
「どうかしたか? いきなりやけに静かになったじゃないか。探偵稼業の話を聞きたいんじゃなかったのか?」
「誰からキートンを守ってたの?」
 頭のイカれた人狼からだが。
「知りたいなら、キートンに聞くことだ。依頼には守秘義務があってね」
「あんまりキートンに会えないんだよ。レミが、もう俺をチェイの家につれてってくれないからさ」
「何故」
 スターリングが、ぱちぱちとまばたきした。
「ダークが——ええとつまり、俺たちの父さんが——」
 言葉を切って、少年は窓の方を向いてしまう。
 どうして父親を「ダーク」と名前で呼ぶのかも気になったが、まずその父親のことと、どうして彼がキートンを嫌っているのかを聞く方が優先だ。
「君の父さんが、どうした?」
「ジェイクはゲイ?」
「何だって?」
 必要以上に強くブレーキを踏みこんだせいで、車がガタンと前に揺れた。
「ゲイなの?」
 おっと、この質問は予想できていなかった。その上どう答えていいのかもわからない。ギアを入れて車を駐車場から出すと、ジェイクはレミのアパートへと向かった。
 スターリングに嘘はつきたくないが、真実を告げるには迷いがあった。この少年は、レミにあまりに近い。チェイによれば、レミには同性愛嫌悪ホモフォビアの側面があるから、ジェイクがゲイだと知れば距離を置かれるかもしれない。それにしても、何たる事態だろう。メイトが異性愛者ストレートで、一生手が届かないかもしれないとは。
「別に、答えなくてもいいよ」スターリングは肩をすくめた。「ちょっと聞いてみたかっただけ。でも、さっきレミを見てた目つきはそうだよね」
 大したものだ。あれだけおしゃべりなのに、目ざとい。
「それで? つまりこれは君からの、兄さんには近づくなっていう遠回しの警告かな?」
 スターリングはクスクス笑って首を振った。
「ううん。近づいてほしくなければ、はっきりそう言ってる。レミはさ、俺にとって兄貴っていうより父親みたいな存在だし、大好きなんだ。幸せになってほしいし。けど、このところ心配でさ。レミには友達が必要だよ」
「それでゲイ・チェックか? 友達になるのに、俺がゲイかどうかが何故関係する?」チェイもゲイだが、もうレミは気にしていない様子だ。「俺の知る限り、レミはストレートだしな」
「あんたに対してはなんか態度が違うんだよね」
 スターリングは何か知っているのか? それともただジェイクを揺さぶっているだけなのか。ジェイクはちらりと視線を向け、助手席のスターリングの雰囲気を読みとろうとする。
 スターリングは窓の外を見つめていた。静かな姿だった。
「……兄貴はさ。もうずっと、デートもしてないんだよ」
「それは質問の答えになってない。レミは、チェイとキートンが一緒に暮らしているのはもう気にしてないんだろ」
「うん。兄貴が最初にパニくったのだって、ダークに知られるのが心配だったからだよ。チェイは一番の親友だから、ダークにつき合いを禁止されるのが怖かったんだ。レミは、キートンのことだって好きだし——態度は逆だけどさ」
 スターリングはそのまま黙りこんだ。
 強い視線を感じる。ジェイクが顔を向けると、スターリングと目が合った。
 間を置いて、スターリングは深く息を吸い、うなずいた。
「うん。とにかく、今日のレミは楽しそうにしてた。あんたがそばにいるとレミの態度が自然だし、なんか、無防備になってる。そんなの俺にだけなのに」
 ジェイクもそのレミの変化には気付いていたが、てっきりスターリングの存在のおかげだと思っていた。だが、そうでもないのだろうか。スターリングがいたからではなく、スターリング二人のそばにいなかったから? 今日のレミはたしかにいつもと違う。普段の彼はもっと人をつき放した感じで、高飛車だ。ジェイクは前々から、あれは演技ではないかと疑っていたが。
「そうか。まあ、もう大人のレミが、親友のチェイとつき合うのにどうして父親の許可がいるのかは、俺には理解できないがな」
 とは言え、この話が聞けてよかった。あの同性愛嫌悪ホモフォビアがレミ自身のものでないのなら、ジェイクにも一縷の望みが残る。
「しかし、どうして父親のことを名前で呼ぶ? 実の父親なんだろ?」
「うん」
「じゃあ何故なんだ」
 スターリングは肩を揺らした。「俺たちから“父さん”って呼ばれたくないんだってさ」


■3


 ジェイクはシボレー・タホから下りると、積んできた小さなクーラーボックスを取りに後部へ回った。車のドアを閉めると、校庭に向かって校舎をぐるりと回りこむ。
 レミのアパートでスターリングを下ろしたてグラウンドで会おうと告げた後、ジェイクは動きやすい服に着替えに、一旦家へ戻ったのだった。さて、今度は二人を見つけないと。
 すぐにわかった。ジョギングしている女性と、ブランコ脇の木陰で茶色い紙袋に隠した酒瓶をちびちび傾けている老人以外、グラウンドにいるのはレミとスターリングだけだった。
 歩みよっていくジェイクの前で、レミが見事な回転のかかったパスを投げた。楕円形のフットボールが、スターリングめがけて一直線に飛んでいく。
 ジェイクは思わず小さな口笛を鳴らした。大したパスだった。スターリングの走りは一歩も乱れない。その手の中へ、ボールはすっぽりと収まった。
 レミめがけて全力で走ってくると、スターリングはボールを投げ渡し、レミの後ろにポジションを取る。レミが左手で、スターリングに走り出せと指示した。それから後ろに短いステップを踏み、ボールを宙に放る。またもやきっちりとスパイラルのかかったボールが、走るスターリングめがけて一線に飛んでいった。
 スターリングの方も、なかなかだ。パスを受け止める手つきも慣れたものだった。もっともこれほど完璧なパス相手では、実戦的な練習には欠けるかもしれない。今度の週末にでも、ジェイクの友人を呼び集めてチーム練習といくか。スターリングにとって、ディフェンスを鍛えるいい機会にもなる。
 レミから数メートルのところにクーラーボックスを下ろし、ジェイクは駆け戻ってくるスターリングへ視線を投げた。
「大したもんだ。凄いパスだな」
 どうやらジェイクに気付いていなかったらしく、レミはぎょっと身をこわばらせた。サングラスが少しずり落ちる。
「ああ……まだ、腕はなまってないみたいでね」
 ジェイクは口角を上げた。そろそろレミには、人狼の感覚の使いこなし方を教えていかないと。「ミネラルウォーターを持ってきた」
 レミがかけているサングラスはいつものオークレーで、ジェイクがやったミラータイプのレイバンではない。そのレイバンは、レミのタンクトップの襟元から下がっていた。ジェイクはそれを取り、かけた。
「まだなまってない、ってのは?」
「前にな。高校の時、プレイしてた」
 ハアハアと息を荒げて、スターリングが二人の前に走りこんだ。彼もタンクトップ姿だったが、その両腕の至るところには黒い痣がついていた。ボールをレミへ放り、スターリングは体を折って膝に両手をつく。
「兄貴がクォーターバックだった年にさ、チームは州大会まで勝ち進んだんだよ」
 その痣を、ジェイクは見ないふりをした。後でレミに聞くとしよう。しかし——レミが高校でフットボールを? それもクォーターバック?
「マジか——ラシター、番号12!」
 どうして今まで思い出さなかった? あれは妹のティナが高校一年生で、応援パフォーマンスを行うドリルチームに入っていた時だ。妹のためにと、ジェイクはフットボールのホーム試合はほぼ必ず見に行っていたが、幾度となく、華麗なクォーターバックの姿に目が吸いよせられたものだった。
 思えば当然だ。もし近くまで行ったなら、そのクォーターバックが自分のメイトだと、あの時すでに気付いた筈だった。
「本当に大したクォーターバックだった」
 ジェイクの称賛を、レミは肩をそびやかして受け流した。注意深く見ていなければ、口元をよぎった小さな笑みを見逃しただろう。ジェイクはたずねた。
「大学では? どこでプレイした?」
 レミは宙にボールを投げ上げ、受けとめた。
「プレイしてないんだ」とスターリングが答えて、立ち上がり、頭上に両腕を上げてストレッチする。
 何だと。あのクォーターバックが大学のチームに進まなかったなど、とても信じられなかった。実にいいプレイをしていたのだ。実際、同じチームの幾人かは、有名大学から声をかけられてフットボール特待生として進学した筈だ。ジェイクはてっきりあのクォーターバック、つまりレミも、その一人だと思っていた。ジェイクの記憶違いでなければ、一緒にプレイしていたラインバッカーの選手は、今、NFLの現役選手になっている。
「そりゃどうしてだ? あのチームにはスカウトが群がってきたって聞いたぞ」
「ほかの選手目当てだったのさ」
 レミが、ボールをジェイクへぽんと投げた。
「こっちにボールをスナップしてくれ」スターリングへ視線を向ける。「もう一度、行けるか?」
 ボールを受けとめ、ジェイクは眉をひそめた。レミの匂いが変化している。どうしてかわからないが、彼は真実を隠している。
「同じパターンで行くぞ、スターリング」
 レミは数歩下がると、ジェイクに、自分の前へポジションを取るよう指示した。
 気にはなったが、たずねてもレミを困らせるだけだろうという気がした。今の会話だけでも、レミの動揺が伝わってくるのだ。メイトを傷つけたくないという保護欲が好奇心に勝って、ジェイクはひとまずこの話題をあきらめると、身を屈めて芝生にボールを置いた。背後のレミへ視線をとばし、目配せを送ると、ポンポンと手を叩いてスターリングの注意を引く。
「オーケー、行こうか。スターリング、位置につけ。レミ、カウントいくつだ?」
 スターリングが自分のポジションへ走っていく。
 頭を下げ、レミがジェイクと目を合わせた。「2カウントで」
 くり返し、三度ほどプレイした頃には、レミの動揺も消えていた。はじめのうちこそジェイクはレミの様子が気になって注視していたのだが、いったんレミがリラックスしてプレイを楽しみ出してからは、しきりにふれてくるレミの手ばかり意識してしまっていた。もっとまずいことに、レミの肌が汗ばみはじめている。信じられないくらい、いい匂いがしてきた。
 ジェイクのすぐ後ろにポジションを取ろうとして、レミの強靭な手がまたジェイクの背中にふれた。ジェイクは思わず呻きそうになる。
「ハット! ハット!」
 レミの掛け声がかかり、ジェイクは背後のレミへボールをスナップする。レミは受けとめたボールを手に後ろへステップを踏むと、大きく振りかぶった。放たれたボールがスターリングめがけて飛んでいく。
 ボールを受けとめたスターリングが、後ろをちらっと見た。猛然とつっこんでくるレミに気付いて、その目が見開かれる。さっと前を向くや、スターリングも一気にスピードを上げて走り出した。速い。このスピードは、レシーバーを目指すならいい武器になる。
 校庭の端まで駆け抜けると、スターリングはドンと地面にボールを突き立てた。
「やりぃ!」
 レミはとまらなかった。彼は、低く下げた肩をスターリングのみぞおちに突っこみ、そのまま宙にすくい上げる。逆さまにされたスターリングが慌てた叫びを立て、レミの背中をどんどんと叩いた。
 やっとレミが弟を地面へ下ろすと、二人して、笑いころげながら地面へ倒れこんだ。
 ジェイクも、満面の笑みを浮かべて歩みよる。レミの、こんな素顔を見られたのが嬉しかった。チェイとふざけ合ったりジョークをとばすところは見たことがあるが、今日の姿は比べものにならない。レミは、実にのびのびとしている。さっき高校時代の話で落ちた暗い影も、もうどこにもない。
「やりやがったな!」
 スターリングが芝生をむしり取って、レミへ投げつけた。頭を傾けてかわし、レミはスターリングの太腿を自分の腿でつつく。「このクソガキ!」
 唇をぺろりとなめ、レミはニヤッとした。見上げたその顔の、サングラスの金に光るレンズに、ジェイクの姿が映りこんでいた。
 その意図に気付く前に、レミの手がジェイクの足首をつかみ、ぐいと引き倒した。
「わっ」
 後ろに倒れかかるのを防ごうと力を入れた反動で、ジェイクの体は逆に前につんのめった。レミの頭の両側に手をついて、どうにか体を支える。顔が、レミの顔からほんの数インチのところでとまった。ジェイクのサングラスが、耳にひっかかったまま頬へずり落ちた。
 スターリングが高らかに笑っている、その笑い声がひどく遠く聞こえた。すぐ自分の下にメイトの肉体がある、その存在だけでジェイクの感覚が満たされる。
 レミの方も無反応ではなかった。喉がごくりと動き、空気に欲情と勃起の匂いが混ざる。はっと息を呑む、その小さな風がジェイクの頬をかすめた。
 一気に血がたぎり、期待感に、ぐっと腹の底がねじれる。ジェイクの視界がモノクロームに変化した。下に横たわる引き締まった体に、このまま覆いかぶさって唇を奪いたい。
 レミが、顎をそっと上げ、唇がかすかに開いた。その間から、牙の先端がちらりとのぞき——。
 次の瞬間、レミは頭を振り、自分を取り戻した様子だった。クスッと笑い、「やった」と言ってジェイクの肩を押しやる。
 やむなく、ジェイクはごろりとレミの横へ転がった。「卑怯だぞ」
 もし、このままキスしていたら? レミはどう反応しただろう。
 スターリングは二人の葛藤にまるで気がつかなかった様子で、げらげらと笑っている。「ナイス!」とレミへ右手を突き出した。笑いながら、レミが弟と手のひらを叩き合わせた。だが彼を包む欲情の匂いはわずかも薄まっていない。
 自分だけでなく、レミも固く勃起している。ジェイクにはそれがよくわかった。レミの、彼を求めてくる反応に安堵する一方、当惑もしていた。
 もしかしたら、このメイトを手に入れるのは、思いこんでいたほど不可能なことではないのだろうか。友人を越えてそれ以上の関係になりたいというジェイクの気持ちを知ったら、レミはどう反応するだろう?


 こんなに楽しい時間をすごしたのは、ジェイクにとっても久しぶりのことだった。
 フットボールの練習を終えると三人で昼食を食べ、レミの部屋に戻ってシャワーで汗を流した。幸い、ジェイクも車の中に着替えの用意が置いてあった。テレビゲームでスターリングとレミにこてんぱんにされた後は、お互いを打ち負かして勝ち誇る兄弟の様子を見物した。それからピザを注文し、レミのDVDをあさって何か見るものを探す。時は飛ぶようにすぎていった。楽しい時間は、いつもそうだ。
 今、ジェイクはレミと一緒に、小さなリビングルームのカウチにくつろいでいた。それにしても食いすぎた。テレビでは『ハウリング』のラストシーンが流れ、スターリングはもう床で寝ていた。
「何か、今日はすげえ一日だったよ」
 エンドロールが流れ出すと、レミはぐったりと頭をカウチにもたせかけて、両手で顔を覆った。
 その手を下ろし、彼はジェイクを向いて座り直す。
「ありがとう」
「ん?」
「今朝、俺を落ちつかせてくれただろ。それに、一日、一緒につき合って、スターリングの気分を盛り上げるのに手を貸してくれた」
「スターリングは俺がいなくとも自分で元気に盛り上がれそうだがな。金融セミナーの中に放りこまれたって楽しむタイプだろ」
 むしろ、気分を盛り上げる必要があったのはレミの方だろう。
 スターリングを見下ろすレミの顔に、慈しむような微笑が広がった。
「ああ、こいつはいい子だよ」
「本当にな。なあ、スターリングの腕の痣のこと、聞いてもいいか? それが、俺にたのみたいと言っていた調査と関係があるのか?」
 レミは目をとじ、体を丸めて、膝に額を押し当てた。ふう、と大きな息をついてうなずく。
「そうなんだ。まずスターリングをあっちで寝かせてから、話そう」
 勢いをつけて立ち上がると、彼はボロボロのコーヒーテーブルを回りこむ。
 ジェイクも立った。
「俺がやろう。どこに運べばいい?」
「大丈夫だよ。こいつ重くないし」
 身を屈め、レミはスターリングを両腕で抱え上げた。途中で小さな呻きをこぼし、「まあちょっとは重くなってきたかもな」とクスッと笑う。
 抱えられても、スターリングは身じろぎもせず、死んだように眠りつづけていた。当然か。起きている間にあれだけエネルギーを発散しているのだ、眠りは深いだろう。
 ジェイクは腕をのばして手伝おうとしたが、レミが首を振った。
「いいんだ、俺が運ぶ。先にスターリングの部屋のドアを開けて、ベッドカバーをめくっといてくれないか?」
 レミの家にスターリング専用の部屋が用意されていると聞いても、ジェイクはもはや驚かなかった。このメイトは、普段の見せかけよりずっと複雑な素顔を持っている。普通の独身男ならば、余った部屋は仕事場や物置がわりに使うだろうが、レミは違うのだ。彼は、いつも演じているような自己中心的な男などではない。
 ジェイクは、レミの先に立って廊下を急いだ。ドアは三つ、ひとつはトイレ。さっきトイレには行ったから、残りの選択肢は二つ。
 最初のドアを押し開けると、ジェイクはすぐ脇のスイッチでライトをつけて中をのぞきこんだ。
 小さな部屋だった。木製の黒い大きなベッドは、頭と足側に高い側板がついたスレイベッドで、かなり使いこまれている。室内で一番場所を占めているのは、塗装が剥げかけてボロボロの白い洋服ダンスだった。ベッドの横にはノートパソコンが置かれた小さな机と、椅子がある。色あせたキルトが窓に掛かっていた。ベッドサイドにはナイトスタンドがわりの木箱が置かれ、その上に見たこともないほど醜悪なランプがあった。まるで『かわいい魔女ジニー』に出てくるアラビアの魔法のランプを、一度叩き壊してから適当に寄せ集めたようだ。丸く膨らんだ台の部分は茶色で、ジニーのランプによく似ている。台には色味の違うオレンジ色の楕円の飾りがいくつも埋めこまれて、つやつや光っていた。長い支柱の上に、白い、先の尖ったシェードがある。
 その不細工なランプを除けば、そこはいかにも男の部屋だった。家具は中古品の寄せ集めだが、それなりに快適そうだ。
「そこは俺の部屋だよ。スターリングのは左のドア」
 レミに新しいランプをプレゼントしようと心に決めながら、ジェイクは部屋のライトを消した。別の部屋のドアを開け、ライトをつける。
 ざっと見回して、思わず首を振っていた。弟の部屋はレミの部屋よりはるかに上等だった。家具は、高価なものではないにしろ、すべて新品だ。カーテンとベッドカバーはお揃いの柄。ベッドの向かいには、小さなテレビとゲーム機までそなえつけられていた。
 ジェイクはベッドのダークブルーの上掛けをめくって、脇に下がった。
 レミがスターリングをベッドに下ろし、ベッドカバーをかけようと手をのばす。ジェイクの目はその腰に吸いよせられていた。ゆるいジーンズの短パンすら、この男には似合っている——ベッドに身をのり出したレミの尻の形が、布にくっきりと浮き上がっているおかげもあるが。
 スターリングがごろりと寝返りを打ち、横向きになって枕に頭をうずめた。レミは体を起こして、部屋を出ていく。
 明かりとドアはレミにまかせ、ジェイクは先にリビングルームへ戻ると、古ぼけた縞のカウチに座った。レミもすぐ来るだろうと思っていたが、レミはカウチには戻らず、テーブルの上のピザの空き箱とビールの空瓶を取り上げてキッチンへ向かった。
 時間稼ぎだとわかっていたが、ジェイクは放っておいた。レミには考えをまとめる時間が必要だ。家族のトラブルは、他人には話しづらい。虐待や暴力が絡む場合は、特に。
 チェイがひどく曖昧に言っていたことだが、レミは子供の頃、父親から隠れた暴力を受けていたらしい。だがその暴力は、レミが実家を出てからもやまなかったのではないかと、ジェイクは疑いはじめていた。
 そうでもなければ納得いかない。スターリングによれば、チェイとキートンの関係についてレミがあれほど過剰に反応したのは、父親を恐れているからだ。父親がどうやってレミを思い通りにしているのかは、およその見当がついていた。今日ジェイクが見ただけでも、レミは、この弟を守るためならどんなことでもするだろう。
 レミが、二本のビールボトルを手にリビングへ戻ってきた。一本をジェイクに渡すと、彼はカウチに座りこんで、左足だけを下に垂らした。
「ありがとう」
 ジェイクはビールを一口あおって、もっとレミが見やすいように体をひねった。
 うなずいたが、目は合わせないまま、レミはボトルのラベルを指先でいじっていた。心の揺らぎが嗅ぎとれる。平静を失うほどではないが、緊張している。何をだろう。父親の罪で、ジェイクがレミを非難するとでも?
「レミ。必要なら、俺は必ず力になる。だが、はっきりしたいきさつを知りたい」
 レミはふっと顔を上げる。その目は暗かった。
「俺には、あんたに払う金の当てもない」
 金、という単語を聞いた瞬間、ジェイクは首を振っていた。
「そんなことはどうでもいいんだ。お前は俺の——」メイトだ。「……友達なんだ。もしどうしても気が済まないと言うのなら、その時に何か考えよう。俺は、金のために力になりたいわけじゃない。俺の受けた印象だが、お前は、スターリングの身が危険だと感じてるんじゃないか? 俺も、何かできることがあるなら助けたい」
 それに、メイトを助ける——そして守る——のはジェイクの役目だし、ジェイク自身のためでもある。口に出しては言えないが。
「そっか……」
 レミは一口ビールを飲んで、左足もカウチに上げると、立て膝の上に肘をのせた。数秒、指の間からぶら下がるボトルを見つめていたが、ひとつうなずいた。決心を固めたようだった。
「あの痣は、ダークが付けた。あいつはこれまで、スターリングにだけは手を上げなかった。これが最初だ。だが……」
「おそらく、最後ではない」
 ジェイクは言葉尻を引き取った。何てことだ、レミまでが父親のことを「ダーク」と呼ぶのか。どれだけ厄介な男なのだ。自分の息子たちに「父さん」と呼ぶことを許さないなんて、一体どんな父親だ?
「ああ、そうだ。昔一緒に住んでいた時の、俺の経験から言ってもな。ここまでは、俺もスターリングを無事に守ってこられた。あいつは、スターリングが自分の視界に入らない限り、そして俺があいつのルール通りに生きていく限り、スターリングのことは無視してきた」
 ひとつ首を振り、レミは鼻で笑った。
「俺は、あいつの言う通りにしてきたさ。言われた通り、親友の“ホモ野郎”とだってもう会ってないんだぜ」
 レミの声にこめられた毒が、その“ホモ野郎”という言葉が父親のセリフなのだと示していた。
「ま、少なくともあいつの目につくところでは、な。まだチェイとキートンの家には行ってる。ただ、バイクは隠して停めるけど。はっ、情けねえだろ?」
 レミはぐいとビールをあおり、長い一口でボトルを飲み干した。テーブルにゴトッと瓶を置き、両手を膝に戻す。その姿は力なく、ひどく虚ろだった。
「この間、スターリングを家に迎えに行った時、サイモンとボビーが一緒に来たんだ。ところがダークはあの二人を家から蹴り出して、二度と来るなと言いやがった。あいつらがまだチェイと友達でいるからさ。今じゃ、俺はあの二人にも会えやしない」
 レミを膝に抱きよせてもう大丈夫だと言ってやりたくてたまらなかったが、ジェイクは黙ったまま聞いていた。レミの気持ちを思うと、心が痛む。
 今日、目の当たりにした、レミからスターリングへの深い愛情を思えば、父親がそれほど完全にレミの人生を支配していることにも驚くべきではないのだろう。だが、実際に聞くとやはり衝撃的だった。心底憤ってもいた。自分のメイトが誰かに虐げられている、そんなことを許せるわけがない。
 レミの目は潤み、はっきりと涙の匂いもしていたが、彼は泣いていなかった。かわりに彼は、ほとんど残酷に笑い声を立てた。
「あのクソ親父、俺がどんな職に就くべきかまで命令してきたんだぜ。ある時、レストランで夕飯を食ってる時、あいつが言ったのさ。“消防隊の願書だ、書きこんで出せ、署長に話は通してある”ってな。俺にその書類をぽんと放ってから、スターリングにたずねやがった。“お前も、レミに消防士になってほしいだろ?”ってな。あれが俺への脅しだったのかどうか、そこは今でも知らねえが、俺は口ごたえひとつしなかったよ。それにスターリングがカッコいい!って喜んでたし。はっ、消防士にあこがれない六歳のガキなんているかよ? 警察官、宇宙飛行士、スポーツ選手……あの年頃の時、俺はダラス・カウボーイズのクォーターバックになりたかったね」
「ああ、それで高校の時に12番をつけてたんだな。ロジャー・ストーバック。だろ?」
 レミがニッと笑った。「ああ」
「お前なら、カウボーイズのクォーターバックにだってなれたかもしれないぞ。ともかく、プロにはなれた筈だ。本当はどうだったんだ? いくつの大学から特待生の誘いが来た?」
「二校だけだよ。スカウトは俺以外の選手を見てたんでね」
 その申し出を受ければ、父親から逃げられただろう。だがどうして断ったのか、あるいは自分の行きたい大学の奨学金を得ようとしなかったのか、ジェイクは聞かなかった。聞く必要などなかった。
 不意に、ジェイクは悟る。レミを自分の伴侶メイトとして手に入れるには、レミにメイトの存在を理解してもらったり、男同士だという性的な壁をのりこえるだけでは駄目だ。障害物はそれだけではない。ジェイクはレミを支え、スターリングを守り、父親の脅威から彼らの人生を解放しなければならないのだ。
 テーブルにビールを置くと、ジェイクは、レミとの距離を少しつめた。
「母親は? いるのか?」
「ああ。俺が家を出てから、ダークは母さんをもっと殴るようになったみたいだ。スターリングが言うには、母さんはスターリングが殴られないように、わざとそうしているんだと」
 ずっとこらえていた涙が、レミの頬をつたい落ちた。テレビへ顔を向け、DVDが終わった青いだけの画面を見つめ、レミは立て膝に頬をのせた。
「俺は、母さんのことはあきらめたよ。助けようとは、したんだ。何度も……でも母さんはあそこから逃げようとしなかった。ダークを愛してるって、あいつには自分がついていないと駄目だって言うんだよ。俺は最初、あいつが怖いからあんなことを言ってるんだと思った。でも、今じゃ……」
 手でぐいと、涙を拭う。
「今じゃ、母さんは俺たちよりダークが大事なんだと思ってる。俺とスターリングには、お互いしかいないんだ。あの子が生まれた時から、ずっとそうだった。もし——もし、スターリングがいなかったら」
 顔を上げたレミの頬はもう濡れてはいなかったが、両目は涙で光っていた。
「スターリングがいなかったら、俺はきっとあの家で生きのびられなかったと思う。スターリングに何か、取り返しのつかないことが起こる前に、あそこから逃がさないと」
 レミの言葉に、ジェイクの喉に大きな塊がせり上がってきたが、何とかそれを呑み下した。出会う前にレミが死んでいたかもしれないなどと、思うだけで腹の底がねじ切れそうだ。メイトかどうかを別にしても、レミは友人として尊敬すべき男だった。メイトであることが、レミをもっと大切で、特別な存在にしている。
 レミが首を振ると、涙がぽろりとこぼれた。
「どうしてなんだろうな。母さんが俺たちを愛しているなら、あの家から一緒に逃げた筈だ。どうして、子供よりあんな男を選ぶ? どうして……。こんなことになる前に、俺はスターリングをつれて逃げるべきだった。俺のせいなんだ、俺のせいでスターリングがあんな——」
「もういい、お前のせいじゃない。いいか、お前は本当によくがんばった。よく弟を守ってきた」
 ジェイクはレミの頬にふれた。拒否されるだろうと、半ば予想していたが、レミは動かなかった。
 レミの頬をなでて、涙を拭ってやる。初めて会った時から、自分より小柄なレミはジェイクの保護欲を刺激したが、今や彼を守りたい思いはもっと強くなっていた。
「お前のせいじゃないんだ、レミ」
 レミが、ジェイクの手へ頬を擦りよせた。顔をそっと傾ける、その目は狼のものに変化している。それから、彼は目をとじた。
 心をつかまれるような眺めだった。ジェイクの目も変化し、思わず低い呻きがこぼれる。たぎった血が、一気に股間の欲望に流れこんでいた。
 レミのうなじをぐいとつかみ、引きよせる。欲情の匂いが強くたちこめ、ジェイクはレミに唇を重ねた。まどろっこしいことはしない。左手でレミの顎をつかむと、舌で深く自分の伴侶メイトの口腔をむさぼった。
 口を開けてジェイクを受け入れ、レミは従順にジェイクの舌に従う。ジェイクの舌の動きに舌で応じながら、ジェイクの肩にしがみついてきた。
 ジェイクはレミの歯列を舌先でなぞる。のびた犬歯の先を感じた瞬間、ジェイクの牙が応じるように、ぬっとのびはじめた。こんなふうに自分の体の制御を失うのは——目も牙も——レミがそばにいる時だけだ。自分が思い通りにならないことに苛立ちもするし、昂揚もさせられる。
 レミを組みしいて、快感に悶える彼が見たい。ジェイクがレミを求めるように、強く彼を求めてくるレミが見たい。
 奪い尽くしたい、その衝動があまりに強烈で、ジェイクの全身は今にも震え出しそうだった。もっと深い、支配的な欲求を抑えこむだけでやっとだ。つらい過去のあるレミに、何も無理強いはしたくない。
 いつのまにか、レミを上にして、キスをしながら二人でカウチに折り重なっていた。レミの勃起はジェイクの腰にくいこみ、はらりと落ちたレミの黒髪が二人の顔を外界から隠した。
 メイトの尻を両手でつかむと、ジェイクは腰をぐいと押し上げて、己の固さもレミに伝えてやる。レミが呻いて、腰を揺すった。首を傾け、キスを中断してジェイクの肩に頬を擦りつける。そのレミの首すじが剥き出しになった。
 くそっ——。ジェイクのペニスがいきりたち、思わずぐいと腰を突き上げていた。レミの、信頼しきった従順な仕種を見て、理性がはじけとびそうになる。レミの頭をさらに傾けさせ、邪魔な黒髪を払うと、ジェイクはすらりとした首すじをなめ上げた。
 レミの鼓動の激しさを舌先で味わう。布ごしに腰へ押しつけられてくるレミの勃起と同じくらい、その鼓動がジェイクを誘う。
 牙でレミの首すじをなぞりながら、ジェイクはそこに噛みつきたい衝動を抑えこむ。首に牙を突き立て、動けぬようにそのままレミを組みしいて、どちらも力尽きるほど激しく抱きたかった。だが、こらえなければ。
 レミがぶるっと身を震わせ、両脚を開いてジェイクをさらに引きよせる。ジェイクの牙へ、レミは自ら首すじを押しつけてきた。
 くそ、無理だ。こんな甘い誘惑に、一体誰が抗えるものか——。
 リーン。
 レミの全身がはっとこわばった。
 くそ、くそ、くそっ! ジェイクは電話をかけてきた相手を叩き殺してやりたいと同時に、感謝の花束を贈りたい気分にも引き裂かれる。どちらなのかは自分でもわからない。
 レミが頭を上げる。その目が——まだ狼の目が——大きく見開かれ、彼はジェイクの上から慌ててどいた。何か言おうと口を開け、のびたままの牙をのぞかせた瞬間、また電話が鳴りひびく。ばっと体を起こして、レミはキッチンへ逃げこんでいった。
 ゴングに救われた、というところか。手遅れになる寸前。
 ジェイクは呻いて、起き上がると、顔を大きくさすった。唇の内側に牙の先がくいこむ。まったく。何を考えていた? あんなところまでやる気はなかった。
 どうにか服を整えている時、ふと目のすみに何かの動きをとらえた。ジェイクが振り向いた瞬間、ぱっと廊下の向こうへ引っこんだ、スターリングの黒髪の頭が見えた。


 何てことだ。
 一体、どうしてあんなことに?
 レミは電話を切った。胃が喉元までせり上がってくるような吐き気をこらえ、目の前のカウンターによりかかる。うなだれた頭を両腕でかかえこんだ。スターリングの無事を確認しに、母親が電話をかけてきてくれて助かった。もしあの時、電話が鳴らなかったら……。
 冷たいカウンターに額を押し当てて前後に頭を揺らしながら、レミは板に頭を打ち付けて理性を叩き直したい衝動をこらえた。あの最中、ジェイクが男だということすら、レミの頭をちらりともかすめなかった。ああするのが何より自然なことのように感じられたのだ。強い衝動、切迫した欲望……畜生。あれは、レミ自身が求めたことだ。
 どうかしてしまったのか? 俺はゲイなんかじゃない——そんなことはありえない。
 どうしよう。ジェイクはゲイなのだろうか? それとも、あのキスはどうやってかレミが引き起こしたものなのか?
「レミ?」
 レミは頭を上げ、背すじをのばした。ジェイクがキッチンへ入ってくる。軽く首を傾け、レミの上から下まで視線を走らせた。
「問題ないか?」
 心を読むような視線に、レミの胃がぐっと重くなった。ジェイクがここにいては、何も考えられない。帰ってもらわなければ。
「ええと、ああ、今のは母さんからの電話だ。スターリングがちゃんと着いてるかって」
 今起きたことを、どう言い訳すればいい。レミはコードレスフォンをカウンターに置いた。何を言っても馬鹿みたいな言い訳に聞こえるだろうとわかっていたが、それでも何か言わねばならなかった。そして、きれいさっぱり忘れ去りたい。
「なあ、ジェイク、本当に悪かっ——」
 ジェイクが首を振って、さえぎった。「あやまることは何もない」
 眉をよせ、ふっとその右手を上げる。一瞬、レミはジェイクがその手をさしのべてくるのではないかと思ったが、結局ジェイクは髪の間に指をくぐらせ、深々と息をついた。
「今日は大変な一日だったろ。そろそろ、俺は退散した方がよさそうだ」
 失望が——いや違う、安堵感がレミの心を抜けていく。ジェイクの言うことももっともだ。スターリングの痣を見て、いつもの自分を失っていたのだ。そうだ、そうに違いない。ストレスのせいでジェイクにキスをしたのだ。心配のあまり、判断力をなくして。
 心の片隅で、それは違う、と何かが囁く。ジェイクに出会った瞬間から、ずっと惹かれてきただろうと。だがレミはその声を振り払った。不安のあまりの行動だ、それだけだ。
「ああ、そうだな」

--続きは本編で--

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