月まで行って、好きだと言って

N・R・ウォーカー

■1


「もう一人じゃ無理よ」
 ギデオンは疲れ果てた溜息をついた。事実あまりにも疲労困憊で、この状態を表す造語がほしい。親友のローレンとジルのほうを見て、うなずいた。
「だよな……」
 ベンソンがもぞもぞする。ベビーモニターごしでもお目覚めのむずかりが伝わってきた。
「私が行ってくる」
 優しく言って、ジルが廊下に出た。
 ギデオンの膝をローレンがぽんぽんと叩く。
「それがいいって」と励ました。「そうしようよ」
 そうするべきだと、渋々ながらギデオンにもわかっていた。
 自力で何とかなると思ったのだ。
 生後六週間の赤ん坊をかかえてシングルの親として一人残されるのは、まさに大惨事だった。何年も連れ添ったパートナーにあっさり去られて人生設計が狂ったことも、惨事だった。そしてすべてを――フルタイムの仕事とフルタイムの父親業を――こなそうと六週間奮闘し、これ以上はもう不可能だ。ローレンとジルは献身的に助けてくれたが、いつまでも甘えてはいられない。ギデオンは目を開けているだけでもやっとだし、このままでは遠からず取り返しのつかないことが起きる。
 働かなくては、この家を維持できない。この家を、ベンソンが育つこの場所を守るのはギデオンにとって大事なことで、できる限りリモートワークで働いてきた。上司は快く協力してくれたが、ギデオンはもう沈没寸前だ。何より、ベンソンの世話が行き届かない。ジルとローレンにはすでに十分助けてもらった。
 根本的な解決策が必要だ。
「で、この男は優秀なのか?」
 ローレンがうなずく。
「子ども発達学の学位を持ってて、イギリスで三年間ナニーとして働いて、今はシドニーに戻ってきてる。うちのボスの評価の厳しさは知ってるよね?」
 ギデオンはうなずいた。辣腕弁護士で、最高のものしか認めない女性だ。
「そのボスの推薦だからさ」ローレンが続けた。「今なら派遣会社を通して雇えるって。どこぞの馬の骨を家に入れたかないんでしょ? 彼なら最高だってセナが言ってた。チャンスだよ」
 ジルが、むずかるベンソンを抱いて戻ってきた。
「オムツを替えて元気そのもの」と、ギデオンに赤ん坊を手渡す。「ダッダパパが恋しいって」
 ギデオンは息子を受け取り、かかえこんで、ベビーパウダーの香りを吸いこんだ。頭にそっとキスをしながら前後に揺れる。
「ダッダはここにいるよ」
 ベンソンが落ちついても揺らすのをやめなかった。命より大切な息子。こんなに誰かを愛せるなんて知らなかった。今の彼には、この子がすべてだ。
 もう、たった二人きり。
 誰かの手を借りるのは、正しい判断だ。自分のため、そしてベンソンのために。
 ベビーシッター……。
 また諦めの溜息をついていた。反論しようにも疲れすぎていた。
「何時に来られるって?」


 トビー・バーロウは緑豊かな郊外のパットニー通りを、Siriのナビに助けられながら車で走っていた。シドニーのこの近辺には詳しくないのだ。シドニーに戻ってきたのも数年ぶりだし、通りすぎる家や車はどれもとても手の届きそうにないお値段だし。
 大樹の木漏れ日でまだらに光る芝生の公園があり、子供や犬をつれた人々が春の日差しの下でのどかに散歩していた。
 こんなところに住んで、仕事もできるとか、本当に?
 それが本当らしい。
 まあ相手の男に会ってみて、気に食わなければ断るかもしれないが。ロンドンで働いた最後の家族はあまりにも……だった。子供たちはかわいかったが、両親がヤバかったのだ。親としても人間としてもヤバかった。
 今度の相手はそれに比べればマシなはずだ。
 トビーにわかっているのは、ギデオン・エレリーが三十四歳の男性で、有能な企業財務マネージャーであり、十二週間の息子をかかえてシングルになったばかりということだけだ。
 赤ん坊。トビーは赤ちゃんが大好きだ。
 聞いていた住所の前で車を停める。ヴィクトリア様式の家の前に、芝生と木がある素敵な庭が広がって、仕上げに高級車の黒いアウディSUVが停まっていた。
 トビーだって裕福な家で働くのには慣れている。何せ相手は住み込みのベビーシッターを雇える人間なのだ。兄から借りた小ぶりなカローラを見て、あなどられないよう祈った。
 大きく息を吸い、バックミラーで髪を直して歯に何もはさまっていないかさっと確かめると、トビーは降りて、玄関ドアをノックした。短い金髪の女性がほがらかな笑顔で出迎えてくれた。
「はじめまして、トビー・バーロウです」
 トビーは堂々と名乗った。
「ギデオン・エレリーさんと会う約束が」
「うん、入って入って」女性がスクリーンドアを大きく開いてくれた。「私はローレン。上司がセナ・マーデルなの。たしか彼女の妹があなたの……」
 紹介者だ。
「ええそうです、ありがとうございます。ロンドンで、妹さんの子供をお世話しました。紹介状が必要な時はいつでもと言ってくれて……」
 ローレンがますます笑顔になった。
「こっちだよ。紹介するから」
 外観以上に家の中は美しかった。磨かれた木の床、白い壁、高い天井、金線模様の入ったオーダーメイドの木工細工。どれだけ金がかかっているか考えるのも怖い。
 居間へ入っていくと、また別の女性がいた。黒髪、はにかんだ笑顔。
 そしてカウチには、赤ん坊を抱いた男性が座っていた。
「彼女は私の妻のジルだよ」ローレンが紹介した。「ジル、こちらトビー・バーロウさん」
 トビーは彼女と握手を交わした。この二人が同性愛者クィアだとわかってぐっと気が楽になる。お仲間がいる場所はありがたい。ニコッと陽気に笑いかけた。
「はじめまして、よろしく」
「こっちこそ」
「それと、これがギデオン」ローレンが付け加える。「と、赤ちゃんベンソン」
 ギデオンは……ギデオンは、トビーの予想外だった。短い茶色の髪をしていて、『私立探偵マグナム』を演じたトム・セレック並みの口ひげをたくわえている。
 口ひげ。マジで。
 いい。これはアリだな。
 そう思ったところで、トビーは別のことにも気がついた。
 この男は憔悴しきっている。くたくただ。目の下には黒いくまが出ているし、少しむくんで、顔色まで悪い。こんなふうでもまだイケメンに見えるんだなあと、トビーは感心した。口ひげがあっても。
 むしろ口ひげだな。
「はじめまして」
 トビーは挨拶した。ギデオンは握手の手は出さない。もぞもぞする赤ん坊を抱っこして座っているのだからと、トビーは気にしなかった。
「ミルク作ってくるよ」と、ジルがキッチンへ向かった。
「座って少し話したら?」
 ローレンが勧めて、トビーに椅子を示した。彼女自身はギデオンの隣に座って、励ますように笑いかけている。
「来てくれてありがとう」
 ギデオンの声には、どこかざらりとした響きがあった。
 道の混雑について雑談をしていると、やがてジルが哺乳瓶を持ってきたので、トビーはこのチャンスにとびついた。ギデオンに自分の経歴書をさし出す。
「取り替えましょう。あなたがぼくの経歴を確かめる間、ぼくがそのかわいいチキンナゲットを預かりますよ」
 そう言いながらベンソンを抱き取った。ジルから哺乳瓶を受け取る。座って、トビーはベンソンにミルクを飲ませはじめた。
 赤ん坊のくりっとした青い目が見上げてくる。黒くて長い睫毛、ピンクのほっぺた、ちょこんとした小さな鼻。
 これまででも最高にかわいい赤ん坊だった。
 トビーは顔を上げ、見物している大人たちを見回した。ジルとローレンは笑顔を返してくれたが、ギデオンは違った。書類を手にして座ったまま、トビーをまじまじと見ている。
「……チキンナゲット?」
 ミルクを飲んでいる赤ん坊を見下ろして、トビーは満面の笑みになった。ベンソンが見上げながら、ボトルの乳首をくわえてきゃっきゃっと笑った。
 トビーも笑ってうなずく。
「チキンナゲットです」


■2


 たしかに、トビーの経歴書は大したものだった。証明書はすべて最新だし、警察の無犯罪証明書も問題ない。経験豊富で、子ども発達学の学位もあり、当人は明るくほがらかで、要はギデオンが、これなら家に住まわせてもいいと思うような相手だった。
 第一印象も上々だ。ネイビーのズボンと白いボタンダウンのシャツという小ぎれいな身なりで仕事もできそう。短いが整えられた黒髪、焦げ茶の目、見事な歯並び。
 ベンソンを抱き上げ、ミルクを飲ませてゲップをさせ、機嫌よく笑わせている。その手際以上に……ベンソンに向けるトビーの笑顔。見るからに子供の扱いがうまい。そこに疑いはなかった。
 だが、チキンナゲット?
 彼はベンソンを「チキンナゲット」と呼んだのだ。
「ロンドンでは、最初の家族のところで二年間働いているな」
 ギデオンはそう言ったが、それは何の質問でもなかった。
「そうです。二年の契約で、子供は三人。新生児、二歳、四歳でした。かわいかったですよ」
「セナの姪と甥だね」とローレンが口をはさんで、ちらっとギデオンをにらむ。
「そうです」トビーが口元を緩めた。「素敵な一家でした。ネリーは、契約が終わる直前に二歳になったんです。大好きな子たちですよ」
「その次の家族とは一年だけか」
 ギデオンは経歴書の日付に目を落とした。
「そう、契約は十二ヵ月でしたけど、明確にしときましょう――十ヵ月でぼくから切り上げました」
「どうしてだ」
 トビーがギデオンとまっすぐ目を合わせた。
「子供たちは素晴らしかったですよ。四歳と二歳。どえらくかわいらしくて。ただ両親が……そうですね、ぼくには無視できないようなことについて価値観の相違があったと、言っておきましょうか」
「ん?」
 ギデオンは首をかしげた。
「ええ」トビーが冷ややかに言う。「差別主義者だったんです。人種差別と同性愛嫌悪の二本立て。あーあ」
 顔をしかめて首を振った。
「価値観の相違そのものはアリですよ、そこまで文句はつけない。でも価値観の相違っていうのは、パクチーが許せないかどうかとかの話であって、人を人らしく扱うべきかどうかはそこには入らない。そんなのぼくは受け入れませんよ。つまるところ先方はかなり過激な信念をお持ちだったのに対し、ぼくは人間誰でもまともに扱われるべき教なので、当然あれ以上あそこでは働けませんでした。どうせ、帰国期限まで数ヵ月だったし」
 トビーは背中をのばすと、まだ膝の上でベンソンをぽむぽむと上下にあやしながら、強気な目でギデオンを見た。
「ぼくが契約を打ち切るような事態は、まずめったにありません。ここはあなたの家で、この子はあなたの子供で、常にそれが優先されますし、ぼくは雇われの身です。でも、偏見や差別は受け入れられない。問題ありますか? もしあなたが、世界は白人とストレートのものだというタイプなら、これ以上無駄な時間を取っていただく必要はありません。まあ……」
 と、自分の顔のほうへ手を振る。「ぼくは白人ですけど。見てわかるように」
 でもストレートではない? ということか?
「あなたがパクチーを好きでもそれはかまいません」
 トビーがさらにまくし立てた。いつもこんな調子なのか、それとも緊張すると口が止まらなくなるタイプなのか、どちらだろう。
「どうしてもと言われれば、パクチーを使った料理だって作ります。ただぼく自身は洗剤みたいな匂いのする食事はちょっと、ですけど。でもそのことで契約を反故にしたりはしません。ですがこの話が出たついでに、特に開示する義務のないことですが、あらかじめ言っておきたいのは、ぼくがキンゼイ・スケールだとスケール6だということです。この言い方が今時通じないなら、つまりは完全なゲイです。前回の二の舞いはごめんですからね」
 ローレンが笑いすぎをこらえようと唇をぎゅっと締めたが、ジルはけらけら笑ってギデオンをつついた。
「通じている」ギデオンはむっつり言った。「それに、うむ、いいや、それは問題ない。俺のパートナー……」言葉を呑みこむ。「前の恋人ボーイフレンドは、そう言えばわかるだろうが、男性だ。だから、ああ、そこは問題ではない」
 ギデオンのほうも、自分の性的指向を敬遠するベビーシッターがいるかもしれないとは思っていた。ベビーシッターもゲイだ、なんて可能性は浮かびもしなかった。このほうがずっと気楽だろう。ただし……。
「逆にきみにとってもそれが問題にはならない、と思いたいが」
 膝でベンソンを優しくはずませながら、トビーが手を振った。
「まさかあ、ないですって」
 ベビーシッターは契約上必ず、男性だろうが女性だろうが誰かを家に連れこむことは禁止されているから、その点は話し合う必要もない。トビーに異論があればこの仕事には就けない。派遣会社ごしの契約はギデオンにとっても便利だが、この際問題点は洗い出しておこうと、ギデオンは口を開いた。
「契約内容について確認したいことは?」
 トビーが首を振る。
「いいえ、どれも明解でした。派遣会社がどっち側にもしっかり対応してくれているし。ただ、元パートナーとの状況について聞いてもいいですか?」
 ギデオンはさっと身構えていた。
「何のために」
「その人とは共同親権ですか? 週末に会うとか? ぼくが把握しておくべき調停内容などあります? 契約書には何も書いてなくて」
 それは――。
 ローレンの笑みが消える。ジルは首を振っていたが、話はギデオンにさせてくれた。
「取り決めはない」ギデオンは答えた。「ドリューは俺たちを――俺とベンソンを置いて、一月半前に出ていった。それきりベンソンの顔を見たいとも言わないし、様子を聞いてもこない。一度もだ」
「レコードのコレクションを返せとは言ってきたけどね」と、ジルが言い捨てた。
 トビーが顔をしかめる。「それはひどい」
 この話題が出ただけで、ギデオンは衝動的にベンソンを守りたくなる。立ち上がって部屋を横切るとベンソンを抱き取り、ギュッと抱きしめ、頰に優しいキスをした。
「今は二人きりだな、うちのチビッ子」
 トビーが彼らを笑顔で見上げる。
「でも、そのチビッ子ちゃんは完璧ですからね」
「チキンナゲットとしては?」ギデオンはつい言っていた。
 予想外に笑って、トビーは立ち上がった。
「そのとおり!」
 ローレンも立ち上がる。
「トビーに、彼が使う部屋を見せてあげたら」言ってから、すぐ言い足した。「お互い、契約するつもりならだけど」
 そういえば、そこがまだだった。
「ああ、もちろん。こっちだ」ギデオンは答えた。「家には三つ寝室がある。俺が使っているのとベンソンの部屋、それに客室だ」
 廊下に面したドアを開けて、ダブルベッドと作り付けの洋服ダンスがあるそこそこの広さの部屋を見せた。壁は白、ベッドカバーはネイビーで、ネイビー色の絵が三枚、額入りで壁に飾られている。
「いい部屋ですね」
 トビーの声はやわらかだった。うれしそうだ。どうやら本音あけっ広げのタイプらしい。ベンソンを前にしてもそうだし、こうやって部屋を見てもそう、さらに前の雇用主への発言も。本音がわかりやすい点は、ギデオンにもありがたい。
「ロンドンで最後に住んだ部屋は靴箱サイズで。それも大人用じゃなくて、幼児向けの靴が入ってる箱がありますよね? あんなんでしたよ」
 ギデオンはつい口元をゆるめながらも、廊下を横切った。
「こっちが子供部屋だ」
 トビーが中へ入り、くるりと向きを変えて、ギデオンとベンソンに輝くような笑顔を向けた。
「うっわあ、こんなかわいい子供部屋見たことない!」
 ギデオンもまた笑顔になっていた。このところめったになかったことだ。
「ありがとう。理想どおりになるまで随分とかかったよ」
 本当は少し違う。ドリューがテーマをなかなか承知しなくて、手間取ったのだ。ドリューはギデオンの提案がいちいち気に入らないようだった。テーマ、色、デザイン。
 結局のところ、ドリューは様々なことがもう気に入らなかったのだ。
 今となるとギデオンにもそれがよくわかる。
 しまいにドリューは『くだらないテーマ』なんかどうでもいいと言い放ち、好きにしろと言った。だからギデオンは好きにしたのだった。
 そして、どうやらドリューも自分の好きにした。部屋の飾り付けではない、あの男は何もしやしなかった。ドリューがしたかったのは、出ていくことだ。そのための相手を見つけること。
 まだギデオンには怒りがくすぶっていた。忌々しいし、腹が煮えたぎるようだ。自分が悲嘆の五段階をたどっているのなら、まさに順番どおり。嘆きの段階もあるし。六年間続いたパートナーを失い、夢見た家族は崩壊した。彼らの家庭が壊れた。この先一緒に築くつもりの人生が。
 ドリューが憎かった。それでもまだ愛しているし、絶え間ない痛みの中で心が揺れている。今では怒りに溺れそうになるたび、そのエネルギーをベンソンのために使うようにしていた。
 わめいたり怒鳴ったりするかわりに、ベンソンに子守歌を歌い、いつも以上にたっぷり抱いてあやし、読み聞かせをした。自分の気を散らしてベンソンを楽しませることをしようと。だが加えて、自分がより良き父親になるために。二人分、良い父親になろうと。
 全力で奮闘していたが、超人パパに足りない自分を責めはしなかったし、もちろんベンソンのせいだとも思っていない。赤ん坊には何の責任もないし、まあそもそも手がかかるものだ。
 ドリューのせいだとは思っている。百パーセントあいつが悪い。
「〈月までひとっとびするくらい大好き〉」
 ベビーベッドの上に飾られた言い回しを、トビーが読み上げた。
 ギデオンは、またベンソンの頰にキスをする。
「寝かしつける時、いつもこの子にそれを言っているんだ」と言った。「この明かりをつけて」と、チェストの上にある小さな箱型スイッチを押す。
 室内が暗くなり、天井と壁に紫や青の光が渦巻いて、部屋中が銀河になった。
「毎晩、寝かせてこれを見せているんだよ。この子にお話を聞かせて、一緒に星を眺めている」
 温かで優しい笑顔になったトビーが、ベンソンの腕をそっとくすぐった。
「パパさんのちびっちょ宇宙飛行士だ」
 ギデオンは鼻から笑いを吐いた。
「まあチキンナゲットよりはいいかな」
 トビーはニッとする。
「どっちにだってなれます。ぴよぴよチキン宇宙飛行士ナゲットならね」
 ギデオンはまじまじとトビーを見た。
 信じられない。さっきより悪化している。
 
 
 ベンソンの子供部屋のあまりの愛らしさに、トビーは萌え死ぬかと思った。壁はコマドリの卵みたいな緑みの青で、部屋中に宇宙モチーフのステッカーが飾られていた。惑星、星、宇宙服。どこか『星の王子様』風味で、でも同じじゃない。輪郭線で描かれていて、とても今風でおしゃれだ。この部屋全体で、目の玉がとび出るような予算がかかったに違いない。
 高級なベビーベッドの上には惑星が回るモビールが吊されて、内装テーマに合った、こっちはフルカラーの写真が額入りで飾られ、長い巻物風の枠に書かれた〈月までひとっとびするくらい大好き〉の言葉を、壁に飾られた星々が囲んでいた。どうやら夜中にミルクを飲ませる用に小さなソファまで完備されていたし、あの銀河の照明にはうっとりした。
 インテリア雑誌から出てきたみたいな部屋だった。
 ギデオンが契約を承知した時、トビーはびっくりしたのだった。何しろこの面接中、トビーはずっと一方的に言葉を垂れ流していたし、どう見てもギデオンは、子供にやたらニックネームをつけるトビーの癖に気を害していたようだったからだ。
 でも、雇ってくれた。
 そんなわけで、二日後、トビーはこの家に移り住んだ。
 と言っても持ち物はスーツケース一つとキャリーバッグ、それにノートパソコンや私物が少々入ったバッグだけ。ここ数年、家具や日用品やらを必要としなかったのは、他人の家を渡り歩いてきた恩恵だ。
 それともむしろ、残念ポイントだろうか。
 知り合いは全員住むところを自分で借り、自分のものに囲まれている。
 契約の頭や終わりに引っ越す時、トビーはあらためてそれを痛感させられるのだが、新しい暮らしに慣れればその気持ちも薄まっていくのだ。
 荷物を解くと午前十時にはすべて片付け終わり、どうせなら初日のぎこちなさを乗りこえておこうと考えた。
 リビングへ向かうと、ギデオンがキッチンをうろうろしているように見えた。トビーに気がついて立ち止まる。
「きみか。問題なく落ちつけたかな」
「ばっちりです」
「ベンソンはお昼寝中だ。夜は五時間寝て、午前二時くらいにおなかを空かせて起きて、また四時間寝る。朝のミルクを飲んで、少し起きていてから短い朝寝をする。四十五分ほど」
 ギデオンからクリアファイル入りの書類を渡された。
「とりあえずあの子の日課を書いておいた……まあ今の、ということだ。来週には変わっているかもしれない。むしろ確実に変わっているだろうな。明日にでも」
 トビーはスケジュール表を受け取った。自力ですぐ把握できることではあるが、気配りはうれしい。
「どうも。ありがたいです」
「そこに家のこともまとめておいた」ギデオンが付け足した。「ルールなどではなく。防犯システムのコード番号、ゴミ回収日、wi-fiとネットフリックスのパスワードとか、そういうものだ」
「ああ、それは助かります。どうも」
「見落としがないといいんだが」
 あまりにギデオンが緊張していて、ぎゅっと抱きしめてあげたくなるくらいだった。
「コーヒーか紅茶を淹れましょうか」
 トビーは申し出る。
「ぼくもキッチンに慣れたいし、お茶飲みながら一緒に座って、食事の献立と買い物の打ち合わせをしましょうよ」
 返事を待たずにやかんに水を入れ、二つ目に開けた戸棚で首尾よくマグカップを見つけた。
「コーヒーと紅茶、どっちにします? ぼくはここのとこ紅茶よりですかね。前は浴びるようにコーヒーを飲んでたけど、イギリス暮らしでいつの間にか紅茶党に」
「いや……」
 ギデオンはためらったが、どちらにせよトビーが勝手に茶を入れると悟ったようだ。「紅茶をもらおう、よければ」
 トビーがこれをする目的が、まさにこういうことだ。この家に住むのなら腰を据えて生活したい。もちろん相手は尊重した上でだ。お茶を淹れてその家でくつろげる、そこがトビーには大事だった。それに、大体はこれで相手家族の緊張もほぐせる。
 二人がそれぞれのカップを前にダイニングテーブルに着くと、トビーは携帯電話を取り出した。
「じゃ、大体の食事の予定を立てて、買い物リストを作りましょう」
「いやいや、そんな、そこまでしてもらわなくていい。俺がやる」とギデオンが言った。
 トビーは溜息をぐっとこらえた。ギデオンには、気長に対応しなくては。ベビーシッターを雇うのも初めてなのだし。仕切りたがりなわけでもないだろう。きっと人まかせにするのが心苦しいのだ。
「全然かまいませんよ」
 トビーはほがらかに言った。
「これが仕事ですから。料理、掃除、洗濯とね。必要とあらば何だって。そりゃ、ベンソンがいつでも最優先なので、あの子が一日へちょへちょだったら、晩ごはんはスープの缶詰とトーストサンドイッチだけになりますけど」
 ギデオンがやっと微笑のような表情になる。それにしてもクタクタに見えた。
「ぼくは野菜のパスタと茹で鶏が作れますよ。カレーも得意です」トビーは確認した。「何かアレルギーはありますか?」
 ギデオンが首を振る。「いや、何も」
「苦手な食べ物は? あと好物は?」
「パクチー」と、お茶を飲む。
 トビーはニヤッとした。
「苦手、好物、どっちです?」
 この間は何も言ってなかったが。
「疑問の余地なく、妥協の余地もなく、嫌いだ」
「よかったあ」はあっと息をつく。「あれはひどい代物ですよ。ってかあれとケールのどっちに最悪の栄冠を授けたらいいかは迷いますね。金メダルを分け合ってほしい」
「ケールは好きだが」
 トビーはわざとらしく息を呑んだ。「信じられないいぃ!」
「人権侵害より重罪かな?」
 トビーは目を細めてギデオンを眺めた。
「はるかに軽い罪ですけど、重罪化を請願してもいいくらいですね」
「そうかもな」
 ギデオンが微笑のような表情になる。
 彼をあと少しで笑顔にできそうだと、トビーはうれしくなる。ギデオンは見るからに警戒心が強く、疲労困憊し、生々しい心の痛みをかかえている。パートナーが彼を――いや彼とベンソンを捨てていったのだから。ベンソンがたった生後六週間の時に。
 今この瞬間、この場で、ダイニングテーブルを囲んで紅茶を飲みながらトビーは、ギデオンの暮らしを照らすためにできることは何でもしようと心に誓った。
「今日は仕事はないんですか?」
 ギデオンの顔がこわばる。
「いや、その……初日だから、家にいようかと」
 トビーはうなずいた。
「ベンソンを他人に預けるのだから、不安や心配があるのはとっても自然なことです。かまいませんよ。心配されないほうが、ぼくとしては心配なくらいです」
 ゆっくり息を吸ったギデオンが、その息を吐き出すと、手の中でマグを回して小さくうなずいた。
 トビーは手をのばして、ギデオンの二の腕をぎゅっとつかむ。
「あなたは、立派なパパですよ」
 さっとトビーを見たギデオンの目は、感情が満ちた深い灰色だった。
「ありがとう」
 トビーは手持ちの中で最上級のキラキラ笑顔を返した。それから携帯電話の画面をタップする。
「じゃ、買い物リストを作りましょ。それでベンソンが目を覚ましたら、公園までお散歩に行って、お互いにもっと慣れましょう。帰ってきたら全員でごはんにして、その後あなたとベンソンはお昼寝タイム、ぼくはスーパーに出かけて夕食の材料を買ってくる、と」
 ギデオンから、二つ目の頭でも生えたかのように目を見張って凝視され、トビーはますます笑顔になった。
「夕食は、鶏肉のグリルとサラダでどうですか?」


■3


 トビーのことをどう受け止めていいのか、ギデオンにはわからなかった。てきぱきしているのは間違いない。リスト好きでもある――ToDoリスト、買い物リスト、献立表、スケジュール。だがそれだけではない。そのすべてを、トビーは軽やかに、楽しそうにやってのけていた。ベンソンが目を覚ますと、トビーは赤ん坊に着替えをさせ、ベビーバッグに荷物を詰めて、さっさとベビーカーに全部のっけ、ギデオンを家から追い出した。すべてニコニコと、歌を口ずさみながら。
 まるで流れるように。
 ギデオンには、ベンソンをつれて外出するのが苦痛の日もあった。たかがスーパーに行くために赤ん坊の生活をすべてバッグに詰めて、なのに二十分も経つとベンソンがいきなりミルクをほしがったりして……あまりにも手間がかかりすぎて、家にこもっていたほうが正直楽だった。
 なのに、トビーにかかれば何の苦でもない。ハミングしながら笑顔で六つの作業を一度にこなし、その間ギデオンはやっと靴を履く余力しか絞り出せない。
 トビーがベビーカーと玄関ポーチでニコニコと待つ間、ギデオンは鍵をつかんで戸締まりをして、それから一行は公園へ向かった。
 公園に足を向けたのがいつ以来か、ギデオンには記憶がなかった。通りのほんの先、たかが一ブロックのところだというのに、そんな気力すらなかったのだ。行くつもりはあった、ベンソンが来る前に二人で――いや違う、ギデオン一人で――色々な計画を立てていた。家族らしいことをあれこれやろうと。公園への散歩、動物園へのお出かけ、祝日……。
 現実は、たかがスーパーにすら行けなかった。
 ――トビーが来るまでは。
「このあたりの町並みは素敵ですね」
 トビーがしゃべりながらベビーカーを押した。一体、その顔から笑みが消えることはあるのだろうかと、ギデオンは思う。
「空がこんなに青いなんて忘れてましたよ。イギリスに三年もいたから、もう空は灰色だろって気分になっちゃって」
 ギデオンに返事の隙すらほとんど与えなかった。気まずい沈黙を避けたいのか、いつも際限なくしゃべるだけなのかはわからないが、とにかくひたすらしゃべりつづけている。
「わあ木がいっぱい! はー、すっごい。いいところだなあ。どれもモートン・ベイ・イチジクの木です? めっちゃでっかくて木陰がたくさんだ」
 公園まで一方的にしゃべり倒したトビーだったが、ギデオンは何も気にしなかった。意味のある会話ができる脳は残っていなかったし、だから、一言二言の相槌で足りるのはありがたい。
 トビーのほうも気にしていないようだ。むしろ気付いてもなさそうだった。日陰の芝生に毛布を広げるとベビーカーから抱き上げたベンソンをその中心に優しく下ろし、色鮮やかなイモムシのオモチャを与えて遊ばせた。
 ベンソンははしゃいで小さな足を蹴り上げ、ぶーばーと何か言っている。もっと早くつれてくるんだったと、ギデオンは見ながら悔やんだ。
 トビーは足を投げ出して座り、ベンソンの横の毛布をポンと叩いた。まるで太陽そのもののように見上げてきた彼を、ギデオンは心底、嫌いになりたかった。
 トビーをバカにできたらどんなによかったか。その態度、前向きさ、消えない笑顔、キラキラした目。ギデオンの内なる悲観主義者はそれを見下し、浮かれた楽観主義に小言を言いたがっている。何でも楽々こなすトビーを憎みたがっている。
 だが、できなかった。
 この太陽のぬくもりの前では。その前向きな輝きを前にしては。ギデオンはトビーのことをほとんど知らないが、彼の笑顔にはギデオンを一瞬釘付けにするものがあった。
 だから、ギデオンは腰を下ろした。外の爽やかな空気に包まれて。こういうものの存在を、ほとんど忘れかけていた。
「散歩につれてきてくれてありがとう」と伝えた。
 トビーはうれしそうな息で微笑み、公園を眺めた。その横顔を見ながらギデオンは、忌々しいがかわいい顔だと考えていた。
「お安い御用ですよ」トビーがのどかな笑顔でギデオンを見た。「気に入ってくれてよかった。これからはしょっちゅうやりますからね」


『意味がわからねえぞ、私立探偵マグナムなみのイケメンって何だそれ』
 トビーは携帯電話を逆の耳に当て直しながら、ショッピングカートを操った。いつものごとく車輪が駄目なやつに当たってしまった。
「意味は、」ひそひそと兄に言い返す。「あの人が私立探偵マグナムなみにイケてるってことだよ。そんな難しいこと言ってないだろ、ジョシュ」
『新しいバージョンか古いのか?』
「リメイクされてんの?」
『つまり昔のやつか。ジジイの』
 トビーは足を止めた。まだ果物と野菜エリアすらすんでいない。
「ジジイじゃない」
『いやいや、オリジナルのマグナムはジジイだろうがよ、トブっち。まさかジジ専か、お前?』
「ジジイはどうでもいいってば」
 トビーはぴしゃりと言い返した。セロリを選んでいた老婦人の啞然とした顔へ、仕方なく笑顔を返す。果物コーナーへ進んだ。
「トム・セレックは、私立探偵マグナムをやった時にそんな年齢【トシ】じゃなかったし。めちゃめちゃイケてた」
『今ググってる』ジョシュが言った。キーボードの音が聞こえる。『おおー。この短パン、マジ短えな。俺はゲイじゃねえけど、こりゃ……新しいボスもこんな短パンか?』
「短パンって……」トビーはぶつくさ言った。「ひげだろ、まず言うべきは。いーや、こんな短パンじゃない。そうでもお断りはしないけどさ。ぼくとしては」
 ジョシュが笑った。
『花柄シャツと胸毛はどうだよ? 新ボスもそいつを装備済み?』
「今んとこ見てないよ」オレンジを一袋取って、トビーは考え直す。「見る気もないし」
 笑われた。
『見たいくせに』
 桃とリンゴも足して果物コーナーを後にすると、パンの棚へ移った。
「まさか。不適切だし。雇い主だし、今日は要するにぼくの初日なんだぞ、ちょっと誰かに話したかっただけだよ」
『面接の時はそんなこと何も言ってなかったろ。向こうはいい人そうだけど疲れ切ってるとかだけで。八十年代のエロカリスマだなんて聞いてない』
 トビーは鼻を鳴らした。
「意識しないようにしてたんだよ。そうそう、疲れてたから、もうさっさとすませて帰らないと。二人をお昼寝させてきてるから。グズグズする暇はないし、そっちだって仕事だろ」
『お前から電話してきたんだろうが。俺はちゃんとお仕事中だよ。お前が仕事中にかけてきたんだ。なあその買い物、どう払うんだ? クレカ渡されてんのか?』
「専用のチャージカード発行してくれたよ。経費は全部そこから払う」トビーは隣の通路にさっさと進んだ。「まったく、どうしてスーパーって棚の配置を変えたがるんだろ? 三年いなかっただけで何も見つからない」
 ジョシュがからからと笑った。
『楽しんでるみたいだな。お前が休みの時にまた色々と聞かせろよ。夕飯か何か食いながらさ』
「いいね」
『オーストラリアにおかえり、弟くん』
 ジョシュからそう呼ばれるのはムカつくが、帰国は悪くなかった。家族に会いたかったし。イラッとしながらも笑顔になる。
「うん、ただいま。ああもうケチャップマニスソースは一体どこなんだ畜生が」
 笑い声とともに通話は切れた。上等だ。顔を上げると店員とバチッと目が合っていた。箱でいっぱいのケージを押している店員で、汚い言葉をとがめられるかと思ったが、違った。店員は単に一つうなずいた。
「五番通路に」
 五番通路?
 ああ、ソース。
「ありがとう!」
 家にトビーが帰ってもベンソンはまだお昼寝中だったし、ギデオンもろくに目が開かない。このカウチでちゃんと寝られたかは知らないが、十分間のまどろみだけでもゼロよりましだ。
 ギデオンの目の下には見事なくまが居座っている。
 トビーがキッチンの長椅子にトートバッグを二つ置くと、ギデオンがたちまち片付けを手伝いに来た。
「のんびりしててくださいよ」トビーはうながす。「ぼくだけで大丈夫です」
「ベンソンがもう起きるから」
「起きたらぼくが見ますよ」
 大丈夫だと笑顔で伝える。どんな親でも、まず一歩引く、その最初の一歩が難しい。
「紅茶淹れましょうか、その間にベンソンの夜の習慣を教えてもらえます? お風呂、晩ごはん、読み聞かせタイムとか」
 ギデオンがすっかりまごまごしているうちにトビーは彼をテーブルに着かせて、淹れたての紅茶を出した。ベンソンとの夜のすごし方を聞き出しながら買い物を残らず片付ける。さして経たないうちにベンソンが目を覚ました。
「つれてきますよ」とトビーは、ギデオンに立つ隙を与えずキッチンを出た。
 ぐずっていたベンソンは、トビーを見るなりニコニコになった。
「このぴよぴよチキンナゲットは、ぼくを見た途端にオリから出られるって思っちゃって」
 トビーはそう言いながら赤ん坊を優しくギデオンに渡した。
「ほら、ダディのところへお行き、ぼくはミルクの準備をするから」
「えーと、俺は、ダッダと」と、ギデオンがそっと言う。
 ダッダ。よし、了解。
 ベンソンを受け取った瞬間、ギデオンの様子ががらりと変わった。顔中に愛があふれる。銀河中の何より素晴らしいもののようにベンソンを抱いて、心からの畏敬と感嘆をこめて見下ろした。
 一目でわかるほど、ベンソンはギデオンにとってすべてで、その光景にトビーの心がぬくぬくと温まった。まだたった一日目ではあるけれど、ここはとてもいい職場だと思う。

--続きは本編で--

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