モニュメンツメン・マーダーズ
(殺しのアート4)
ジョシュ・ラニヨン
■1
恐怖は人をすり減らす。
怒りのほうがまだいい。
どちらも疲弊するが。
別に四六時中恐れているわけでもない――大体の日は、身に迫る危険のことなど考える隙もなく忙殺されている。だが時々、夜になると、そう。愛しい我が家にいない時のほうがマシというのが皮肉なところだ。
FBI美術犯罪班所属の特別捜査官、ジェイソン・ウエストは一、二分じっと横たわり、モンタナ州ボズウィンにあるホテルの薄闇に目を凝らして、ぼんやりと周囲の音を聞き分けていた――近くの製氷機がガラガラと中身を落とす音、駐車場で水浸しのエンジンをふかす音、ナイトスタンドの時計の光る文字盤がカチカチ鳴る音。
3時
43分。
44分になった。
何時でも、サムに電話はできる。たとえ、珍しいことに行動分析課主任のサム・ケネディが眠っていようとも、ジェイソンの電話には出るはずだ。
どうせ起きているのだろうし。
国の反対側にいるにもかかわらず、サムを思うとジェイソンの心が安らぐ。サムの、端整というのとは少し違う骨張った顔が、パソコンの画面の光に照らされているところを思い描けた。幅広い肩、体にぴったり仕立てられた白いシャツが包む張り詰めた固い筋肉。こんな夜中ならボタンを外し、袖もまくり上げているだろう。あの金縁の、ジェイソンが奇妙に心ときめく眼鏡をかけ、一歩引いた深遠な表情で今日一日の悪いニュースを読んでいる。
明日、サムはこのモンタナに来る。
明日、三週間ぶりに会える。この前は
戦没将兵追悼記念日に思いがけずに(ジェイソンにとっては)会って、短い時間をすごした。その前は二ヵ月間、同じところに居合わせたことがない。
長距離交際は一般的に楽なものではないし、中でもサムとジェイソンの交際は複雑だ。それでも、存在すらしないよりはるかにいい。あまりに幾度も失う寸前までいったので、当たり前のように今を享受することはできなかった。
もしサムが眠っているなら、休息が必要なはずだと、ジェイソンは声が聞きたい衝動をしばらくこらえた。今週はすでに一度電話している。緊張で神経が参っていると思われたくない。
だがもちろん、神経は参っている。
昼間は大したことはない。仕事中は大丈夫だ。
だがドクター・ジェレミー・カイザーはジェイソンの夢の入り口を見つけており、多くの夜に無意識の扉からずかずか入ってくるのだ。大体はぼんやりとした不安感や胸騒ぎ程度。夢の中のジェイソンは、多くの時間を費やして、紛失したカイザーの事件調書や行方不明者ファイルを探し回っていた――精神科医でなくとも意味するところは明らか。
そうでない夜は――まさに今夜とか――あやうく拉致を逃れた時のことが様々に再現され、ジェイソンは汗まみれで、打ち上げられた魚のように喘ぎながら目を覚ますのだった。
あの拉致の細部の記憶は曖昧で、おかげでこの悪夢のどれが実際の事件を反映しているのか、どこかに真実が含まれているのかすらわからない。ただ恐怖と怒りをかかえて目覚めるだけだ。終わりも見えないまま。
ベッドスタンドのリモコンに手をのばして、テレビをつけた。深夜番組は最近の友だ。夫婦生活の危機を迎えたマジシャンのおかしな白黒映画が放送されていたので、ジェイソンは楽な体勢になって後頭部で手を組むと、眠れぬ数時間をつぶしにかかった。
その映画『永遠に貴方を』を見ていると、この前サムと一緒にした仕事のことを思い出す。いや、一緒にしたとは言えないが。ジェイソンはカイザーから逃げようとして負った傷の療養中で、サムはその経過を見張る気満々だった。
ともあれ、サムの母の住居での滞在はいい思い出で、映画はちょうどよく馬鹿げており、ワイオミングの一件の結末もジェイソンには納得いくものだった。シャイアン地方支部がなんとか捜索令状を手に入れた時には、マジシャンたちの一群はすでに消失マジックをやりおおせていたのだ。もしかしたら、これであるべき形に落ちついたのかもしれない。
そのジェイソンの価値観にサムはどうせ賛同しないだろうし、ここモンタナでジェイソンが成し遂げようとしていることを知ったら、やはりいい顔はすまい。だからジェイソンはこの捜査を片付けてしまいたいのだ、まだ――。
携帯電話がいきなり元気に震え出し――ジェイソンの体もぎょっとはねる。たちまち自分の反応に腹を立てた。悪態をついて携帯電話をつかむ。うなるように言った。
「ウエスト」
『ウエスト特別捜査官』サムがなめらかに言った。深い声は、かすかな西部訛りで少し甘い。『起こしたか?』
いつしか『ウエスト』という呼びかけは、二人の時には愛称のようになっていた。
ジェイソンはほっと枕に沈みこんだ。
「いいえ。あなたのことを考えていた」
『ほう』
「背中の下のほうがぞくぞくしませんでした?」
サムの笑い声は静かで、親しげなものだった。
『やけに浮わついているな』
「そうですよ。明日の夜が楽しみで」
『俺もだ』
ジェイソンは一瞬目をとじ、嚙みしめた。サムと同じ場所に居合わせられれば時を惜しんで一緒にすごせる、そんなことがとても当たり前ではない頃もあったのだ。
電話の向こうで、サムが何かを口に含んだ。ジェイソンはうっすらと微笑んで、待つ。
サムが思案含みの口調で聞いた。
『話したいか?』
「正直、あまり」とジェイソンは認めた。
『なら聞くほうは?』
「いいですね。あなたにヤらしいことを言われてみたいな」
もちろん冗談だ。半分は。セックスがくれる解放や脱力感がほしくないなんて嘘をつくつもりはない。この際電話ごしでもいい。サムはあまりきわどいことを言うたちではないし、電話ではとりわけそうだが、言ってみるだけなら駄目元だ。
サムが酒を飲み、考えこんで、重々しく言った。
『自分のモノをさわっているのか?』
ジェイソンは笑いを呑みこみ、自分のボクサーパンツを一気に下げ――(
成長中につき注意だ、いてて)――自分のペニスをつかんだ。
「さわってます。あなたの手だったらもっといいのにって思う」
はね返ってきた沈黙に、あやうくおかしな笑いを洩らすところだった。サムはつまみでも作りに行ってしまったか。そう思うと喉から細い声がこぼれた。
サムがいきなり、そっと言った。
『お前とヤるのが好きだ。お前と愛し合うのも好きだ。お前と一緒にいると両方ともできるのが、好きだ』
固い屹立の先端に親指をすべらせて、ジェイソンはわずかなぬめりをしごく助けにする。
「俺もあなたを愛してますよ」とかすれ声で答えた。
サムの声は、誘惑というよりも正確な情報伝達を試みているようだった。
『お前といるのは、いつもいい。自然だ。しっくりくる』
ジェイソンは唇を嚙み、手でしごいた。サムが不器用で、愛しくて、おかしい――だがここで笑えばサムはジェイソンに笑われていると思うだろう。実際にジェイソンが笑いたいのは自分自身とこの状況、そしてサムとの関係がある意味で自分のすべてだという事実だ。
サムが言った。
『それと、お前の笑い声も好きだし、今、お前が笑うまいと必死なところも好きだ』
つまり――バレてる。そういうことだ、ウエスト。いつものことだがサムのほうが数段
上手。
ジェイソンの呻き声は、効果音としての狙いもあったが、同時にパチパチとはぜるような刺激が股間から脳天へと、あらゆる脇道に響きながら甘くのぼってきたせいもあった。
枕の上、頭のそばに置かれた携帯電話が肩に滑り落ちて、続くサムの言葉を聞きそびれた。さらに数度、もっと強く、タイミングを合わせて――サムと一緒にいる明日の自分を思い描きながら――しごき上げると、獰猛にはりつめた力が至高の解放感へとはじける。
ジェイソンは喘ぎ、喉からこぼれそうな声の残りを呑みこむと(なにしろ仕事上のパートナー、J・J・ラッセル特別捜査官が隣室にいる)、脈打ちながら全身を満たす絶頂に身をまかせた。
肩口のあたりからサムの声がした。
『それと、ああ、俺も愛してるよ、ウエスト』
声が出せるようになると、ジェイソンは問いかけた。
「明日は何時着の便です?」
答えはもう知っている。変更がないかたしかめたいだけだ。それだけ明日を楽しみにしている。楽しみすぎるくらいに。
『昼前には支部に行けるだろう』
「わかりました。そっちで、適当に会いましょう」
『ああ、そうだな。ラストダンスはとっておけよ』
ジェイソンは暗がりへ向けてニヤッとした。明滅するテレビ画面では、デヴィッド・ニーヴンが夫婦仲の危機を切り抜けるという究極のマジックを成し遂げるところだった。
「いい旅を」とジェイソンは言った。電話を切りたくない。この細いつながりを保っていたい。
『いい夢を、ウエスト』とサムが答えた。
「おっ、あれってマルティネスじゃないか?」とJ・Jが聞いた。
二人はホリデイ・イン近くのレストランで朝食を取りながら、担当している告発人――盗難美術品を専門に調査するオランダ人を、待っていた。情報交換の後、隣の郡で観光牧場を経営するバート・トンプソンの話を聞きに行く予定だ。バートの最近他界した叔父、ロイ・トンプソンには、第二次世界大戦末期に貴重な美術品を盗んだ嫌疑がかかっていた。
「ん?」
ジェイソンはコーヒーマグから顔を上げた。もう一杯コーヒーを飲めばなんとか人間らしくなれそうだ。少なくとも目は覚めるだろう。眠れぬ夜の蓄積がずしりと重い。ただし昨夜ばかりは不眠症にも利点があったが。
J・Jの視線をウェイトレスの立つ位置まで追うと、まさに捜査官という、お手頃価格のビジネスウェア姿の男女が席に案内されるのを待っていた。
ジェイソンは、これから会うはずのハンス・デ・ハーンのことに気が行っていた。ボズウィンFBI駐在支部のマルティネス捜査官には、昨日紹介されたような記憶がぼんやりある。小柄な女性でおそらく三十代前半、かなり短い黒髪と大きな茶色の目をしていた。魅力的なのは間違いないが、J・Jのいつものタイプとは違う。常ならJ・Jはスポーツ・イラストレイテッド誌の水着特集号で単独ページを飾るのが夢、というような見事な体つきの金髪美女に食いつく。
「そうか?」
「そうだよ」J・Jが席を立った。「相席しないか、聞いてくる」
ジェイソンの返事も待たず、挨拶に向かってしまう。
内心でジェイソンは溜息をついた。J・Jはまだ青い。新人ではないが未熟で――ただ彼にとっては大変な一年目だった。ジェイソンと組む前までですら。J・Jとジェイソンは二月からパートナーを組んできた。長い四ヵ月。はじめのうちは確実にどちらかが相棒殺しで刑務所行きになるだろうと思ったが、そのうちそこそこまともで火花の散らない仲に落ちついた。二人の性格は正反対で、J・Jは、LA支局所属の美術犯罪班の捜査官と組まされたのは自分の才能の無駄遣いだと信じていた。ジェイソンとしてもそこは心から同意したい――理由は違うが。
こちらを見た二人の捜査官へ、ジェイソンは挨拶の手を上げた。
J・Jが、混んだ店の奥までマルティネスと相棒をつれてくる。ジェイソンは立ち上がった。ヴェラ・ウォンの香水を(姉ソフィーと同じ香水なのだ)つけたマルティネスが空席へ腰を下ろし、彼女の相棒がその隣に座ると、ジェイソンはJ・Jが狙った相手の向かいに座れるまで待ってやった。
男の捜査官は、特別捜査官のトラヴィス・ペティと名乗った。ジェイソンより少し若く、背が高い筋肉質の金髪男だ。まさにスポーツ・イラストレイテッド誌で特集を組めそうな男前だった。
「会えてよかった、ウエスト」とペティは言った。「きみは、マサチューセッツでサム・ケネディと一緒だったろ」と続ける。
ジェイソンは彼を見つめ返した。
「そうだったね」
まさしく、ペティは美男子だった。青い目、芯の強い顎、少年っぽい癖毛の淡い金髪。一九五〇年代の〈男が憧れる職業〉のポスター各種を飾れそうな好男子ぶりだ。
ペティが歯をきらめかせて、うらやましそうに微笑んだ。
「素晴らしい機会だったね。サムの現場捜査官としての最後の事件で、一緒に働けるとは」
「大いに勉強になったよ」
行動分析課のケネディ主任ではなく、
サム・ケネディ。それどころか単なるサムという呼び方は、FBIでのサムの普段の評判からするといささか意外で、隠れた人間関係を匂わせているかに思えた。それか、とにかく、伝説のBAU主任に対する度を超えた関心を。
「俺は、ディアロッジの壊し屋事件で彼が率いた特別捜査官の一員だったんだ、二年前にね。じつに多くを学べた」
「だろうね」とジェイソンは答えた。
ペティが言及した悲惨な事件が、サムがジェイソンと同じタイミングでモンタナ州にやってくる理由だった。ビーバーヘッド=ディアロッジ国立公園を狩場にしていた連続殺人犯の逮捕は、サムが現場を離れる寸前の仕事で、サムの性格上、その事件の最終段階まで目を配って裁判の帰結まで捜査班を手伝っていたのだった。いついかなる時にも他人まかせにはできないたちだ。
「あなたも美術犯罪班?」とマルティネスがJ・Jに聞いた。可愛い笑顔だ。だが背が高く黒髪でハンサムなラッセルは、老いも若きも、女性からいつも可愛い笑顔を引き出す。
「まさか、勘弁だ」
ジェイソンが「ラッセルはどちらかというと人身御供だから」と口をはさみ、皆が――ラッセルも含めて――笑った。
「冗談を言ってるつもりだろ」とラッセルが言う。
「いいや、本気だよ」
ペティが口を開いた。「これだけは言えるけど、彼の班に空きが出たら俺はそのポジションを取りに行くつもりだよ」
ジェイソンは社交辞令で微笑んだ。サムの話の続きだろう、ジェイソンや美術犯罪班に加わる話をペティがするわけもない。むしろペティには、ジェイソンに対して“サムと長時間すごした誰か”という以上の認識はなさそうだ。
ちらりとマルティネスを見ると、相棒のペティを優しいあきらめの目で見ていた。
J・Jが言い出す。
「今あんたがその話をしてる相手、ケネディのBFFだけどな」
特別な親友には文字どおりの意味だってある――ただの仲良し。だがマルティネスの「えっ」という反応は、意味が正しく伝わったことを示していた。ペティにも伝わったらしい、彼の表情の変化は滑稽なほどだった。
ジェイソンから視線で刺されて、J・Jが「いいだろ、本当のことだ」と言い返す。
ペティの口元が上がったが、笑顔にはなりきれていなかった。
「うらやましいね」と彼は言った。
■2
じつに気まずい。
サムが貞潔なほうだとはジェイソンだって思ったこともないし、口説かれた捜査官が自分だけだと思ったこともない――だがどういうわけか、サムのお相手と出くわす可能性なんて考えたこともなかった。たとえそんなことがあっても、気付くことはないだろうと。こんなややこしい状況になったのは、たまたまジェイソンとサムのスケジュールが一致した偶然のせいだ。
おかしなことに、ペティはサムのタイプですらなかった。サムの好みとは、要するにジェイソンの系統だ。背が高くて細身、黒髪で彫りが深く顎がほっそりしている。イーサンと似た男たち。サムがそのいつものパターンからそれていたことにジェイソンは面食らったが、どうして焦りを感じるのか自分でもわからなかった。
青い制服のウェイトレスが近づいてくると、マルティネスが言った。
「もう行かないと。もともと、さっと食べるだけのつもりだったから」
「まだ注文もしてないだろ」と、このテーブルの微妙な空気に気付きもしないJ・Jが抗議する。
レストランのドアがシュッと開き、モンタナの乾いた夏風が吹き込んで、鋭い顔つきで痩せて背の高い、薄い黒髪と先細りの顎ひげの男が入ってきた。店内を探る目で見回している。
「約束の相手だ」とジェイソンは言った。J・Jへ目をやる。「そのまま朝食を食べててくれ。道すがら後で説明するよ」
J・Jから感謝の目を向けられ、マルティネスとペティへ別れのうなずきを送ってから、ジェイソンは席を立つとオランダ人調査官のハンス・デ・ハーンのところへ向かった。
「ウエスト捜査官?」
ジェイソンが着くより先に、デ・ハーンが気付いた。細い、ストイックな顔が明るくなる。コウノトリっぽい印象をさらに強める丸眼鏡の向こうで、光をたたえた黒い目がやわらいだ。
「色々とお世話をかけた、ありがとう」
彼の手を、ジェイソンは握り返した。
「ついにお会いできてうれしいですよ、ミスター・デ・ハーン。この件でのあなたの仕事ぶりは素晴らしいものだ」
本心からの言葉だった。デ・ハーンには深い敬意を抱いている。たとえその調査によってジェイソン個人に難問が突きつけられることになっていても。旅路の話を聞きながら、ジェイソンはデ・ハーンと並んで、カウンターの隅に見つけた席に落ちついた。
挨拶がわりの会話がすむと、デ・ハーンが言った。
「ミスター・トンプソンはまだ私と話してはくれない。キレッタと話せと言ってくる」
キレッタ・マッコイはバート・トンプソンの姉だ。ほかに又姪もいるが、このキレッタとバートがロイ・トンプソンの主な相続人だった。ロイの価値のある所有物はすべてこの二人に、戦利品も含めて、相続される。ロイの秘蔵の盗難絵画や美術品の中には、所在不明だったフェルメールの伝説の絵が含まれているかもしれないという見すごせない情報があった。一六九六年にオランダのオークション目録に載ったのを最後に消えた、『奥の部屋で手を洗う紳士、
稀覯品とともに』の絵。
フェルメールの絵がある可能性は、なによりジェイソンの胸を高鳴らせ――そして不安にさせた。フェルメールの絵の再発見はいつでもマスコミから大きな注目を浴びる。今回はできるだけ注目を避けたいのだ、様々な理由から。
「ご心配なく、キレッタと話しましょう」ジェイソンは言った。「そしてバート・トンプソンも、もちろん話してくれますよ」
「きみの自信が頼もしいよ、ウエスト捜査官」
ジェイソンは肩をすくめた。証言するのが自分の身のために最善だと、相手を説得する経験は積んできている。
「きみらの政府の中には、そこまで協力的でない人もいるしね」
それは無理もない。
ジェイソンは言った。
「とにかく、トンプソン大尉の行為は弁解の余地がないもので――それは彼の部隊、ひいてはアメリカの占領軍全体の責任でもあります」
「私もそのように思う。あの男は泥棒だ。あの家族は、泥棒の一家だ」
そこは……そう単純な話ではない。トンプソンの遺族たちは、一家に七十年以上も存在してきた品を、自分たちが相続する正当で合法的な権利があると思っている。そしてそのような考え方は彼らだけのものではない。
ジェイソンは答えた。
「少なくともトンプソン大尉は現地におり、とにかく従軍はしていた。戦争を見たでしょう。彼は……多くを見すぎたのかもしれない。動機はそう単純なものではないかもしれない。彼の家族も、自分たちが握りしめようとしているのが盗難美術品であることを理解しているとは限らない」
「ただの盗難美術品ではない――他国の文化遺産だ!」
そのとおり。だがジェイソンとしては、デ・ハーンがそこまで情熱むき出しでないほうがありがたい。とりあえず、声はもう少し抑えてほしい。
デ・ハーンがメリーランド州の公立公文書館で粘り強く調べ上げたところによると、ロイ・トンプソン大尉は第二次世界大戦中、ドイツのバイエルン州南西部に配属されたアメリカ占領軍の一員だった。その地方の城の地下トンネルからは、ナチスによって奪われた美術品や文化財が多量に発見されていた。
ジェイソンはデ・ハーンの調査を疑ってはいない。デ・ハーンの出した結論も。
問題はだ、トンプソン大尉は、自分が城から美術品を持ち出したのは指揮官から許可が出ていたからだと主張していたそうなのだ。その指揮官こそ、エマーソン・ハーレイ。
悩ましいのは、そのハーレイがかつて伝説の“モニュメンツ・メン”の一員だったことだ――『戦地での芸術的・歴史的遺産を守る』という特命を帯びていた部隊。それどころか、ハーレイは
建造物・美術品・公文書部隊の副長だったのだ。
そしてさらに悩ましいことに、エマーソン・ハーレイは、ジェイソンの祖父であった。
単なる祖父ではなく、少年時代の崇拝の対象だ。世界の文化遺産を守り後世に残そうとしたエマーソン・ハーレイの勇敢さにふれ、ジェイソンは芸術への愛と歴史への情熱を胸に抱いてFBIの美術犯罪班へ加わったのだ。
その祖父が、略奪にも等しい行為を見逃しただけでなく、自分の手も染めていたかもしれないなど、聞くだけでぞっとする。
信じてなどいない。ありえない話だ。だがだからと言って、
祖父ハーレイが――その名誉が、無傷ですむとは限らない。泥がなすりつけられれば名にこびりついて残るものもあるだろう。それは避けようがないことで、告発が行われるより前に食い止めるしかないのだ。
エマーソン・ハーレイは四年前に他界しており、もはや己の名誉を守れない。ロイ・トンプソンは一年前に他界し、やはり聴取は不可能。証言を得られるとすればトンプソンの遺族からしかない。さらに盗難絵画の行方についても、トンプソンの遺族たちは今のところ指摘の作品は所持していないと主張している。同時に、すでに売却しようとした“戦地から叔父が救った”作品たちについては、法的所有権を主張していた。
「わかっています。解決のために手を尽くしましょう」
デ・ハーンが小さく微笑んだ。「きみは理想主義でいられるほど若いんだな、ウエスト捜査官」
ジェイソンも微笑んだ。
「あなたも大した理想家でしょう、ミスター・デ・ハーン。きっと調査を始めた時、周りの皆から絵は絶対に見つからないと言われたでしょうに」
「きみが想像している以上にね」
デ・ハーンはこの件とジェイソンに個人的な関係があると知らない。誰も知らない。知られるわけにはいかないのだ、関係があると知られれば、たちまちジェイソンは捜査から外されてこの件は別の捜査官に引き継がれる。その捜査官は、紙上の物語を事実としてただ受け入れるだろう。裏の裏まで調べ尽くそうとはしない――エマーソン・ハーレイという人間を直接知る経験をしてないがゆえに。
ジェイソンにしてみれば、今回、自分の客観性のなさこそが利点だ。祖父が世界の至宝である文化財の横奪を見逃したり、あろうことか加担するなど万に一つもありえないとはじめからわかっているのだから。この件には裏があると知っている。真実にたどりつくためにはもっと追及が必要だとも。
「もう、あなたは一番大変な仕事をしたじゃないですか」ジェイソンは言った。「次は矛盾する情報をより分けていけばいい」
そこにJ・Jがやってきた。ポケットをポンと叩き、得意げな笑みを浮かべる。
「さ、行こうか!」
ジェイソンは首を一振りして、紹介した。
「彼は俺のパートナーで、ラッセル特別捜査官。そしてラッセル特別捜査官、こちらはハンス・デ・ハーン氏、アルデンブルク・ファン・アペルドールン美術館に雇われた美術史家かつ私立調査員だ」
J・Jが「ああ、この事件のあなたのレポート、読みましたよ」と言ったので、ジェイソンはほっとした。J・Jにとっては当然のことではないのだ、異動の日を指折り数えて待っているのだから。
二人が握手を交わし、ジェイソンはデ・ハーンに聞いた。
「我々の車について牧場まで来ますか?」
デ・ハーンがうなずき、一行は揃ってレストランを出た。
レンタカーのエンジンをかけたJ・Jが、エアコンの爆音ごしに言った。
「たった今、将来の結婚相手と朝飯を食ったぜ」
「結婚相手?」ジェイソンは聞き返した。「その相手が一五〇〇キロは離れたところに住んでるのはわかってるのか?」
「知ってるさ。そんなの大したことじゃない、彼女はこの僻地から逃げ出したくてたまらないはずさ」
「やれやれ」とジェイソンは呟いて、車のGPSに目的地を入力した。
「あのさ、あんたのお相手のケネディはその倍は離れてるんだぜ。でも文句を言ってる様子はねえよな?」
「俺は我慢強いからね」
J・Jが高らかに笑いながら、車を出した。
ビッグ・スカイ観光牧場では、ゲスト向けにイエローストーン国立公園への日帰りの旅、豊富なハイキングコース、釣りのできるきらめく渓流、それにイエローストーン川での急流ラフティングコースを提供している。
「最高の西部のおもてなしですよ」と受付の赤毛の女性が三人に向けてさえずった。短い黒デニムのスカート、黒い星入りのTシャツ、保安官バッジのレプリカを身につけて、バッジには〈ビッグ・スカイ保安官〉と入っていた。
ジェイソンは「どれも素敵だ」と彼女に答えた。彼とJ・Jは自分たちの身分証を見せ、さらにジェイソンはバート・トンプソンに会いたいと告げた。
赤毛娘は顔を曇らせ、トンプソンを内線で呼ぶとFBIが受付に来ていることを告げ、返ってくる怒号を聞きながら申し訳なさそうにジェイソンとJ・Jを見て、スピーカーの音を抑えようとしていた。
『……くそったれの……地獄へ落ちろ……俺の税金をムダに……』
二人の後ろで苛々と待っていたデ・ハーンが呟いた。
「ほらな? とりつく島もない」
ジェイソンは彼にウインクし、重々しく受付係に告げた。
「ミスター・トンプソンによく伝えてほしい。我々は、彼の都合のいい時間までいくらでも喜んでお待ちすると」
彼女は咳払いをし、そのメッセージを伝え、相手の反応にたじろいだ。
「その、ボスは今、かなりストレスがかかってまして」とジェイソンに小声で言う。
ジェイソンはJ・Jのほうを向いた。
「かなりストレスがかかっているそうだ」
「そりゃ大変だ。Wi−Fiのパスワード教えてくれないか?」とJ・Jが受付係に聞いた。「ロビーで待たせてもらう間、どうせなら報告書を仕上げときたいし」
「名案だ」ジェイソンも言った。「俺も保健福祉省の知り合いに、ストレスについて問い合わせてみよう」
二分二十八秒後、ビッグ・スカイ牧場のボスがその姿を現し、長い廊下奥のオフィスのドアを叩きつけると節だらけの松材のロビーまでずかずかやってきた。
「お前ら“ノーコメント”のどこが理解できないんだ?」と言い放つ。
ジェイソンはロイ・トンプソン大尉の写真を数枚見ていたが、甥のバートはロイに似ていた。同じ短い黒髪と鋭く黒い目――ただし甥のほうが背が低くがっしりして、第二次世界大戦中のロイよりもかなり白髪が多い。
「連邦捜査官をマスコミの取材だと勘違いしているところが理解できませんね」とジェイソンは答えた。
バートは、ロビーのテーブルでトランプ遊びをしている客たちに苦々しい目をやった。
「外で話さないか?」
「かまいませんよ。どうぞお先に」とジェイソンは応じた’
一行はバートについて、建物をぐるりと囲んだ広い木製のポーチに出た。
バートがジェイソンに向かって言った。
「あんたたちにはキレッタと話せと言ったろうが。俺からこれ以上何を聞きたいのかわからんね。盗難美術品のことなんか何も知らねえぞ」
「それでもアルデンブルク・ファン・アペルドールン美術館による訴訟で、あなたの名前は、共同被告人としてキレッタと並んでいる」
バートがぐいと胸を張った。
「あんな訴訟に何の意味がある。海外の美術館がアメリカ市民を訴えられるわけないだろ」
「ところがどっこいなんです」とジェイソンは言い返した。「しかもトンプソンと名のつく誰かが協力姿勢を見せはじめなければ、
米国政府までそろそろ首を突っ込んできますよ」
J・Jがご丁寧にそこに付け足す。
「俺のパートナーが言ったのは、“盗品の受領、所有、隠匿、保管、取引、売却、廃棄の共謀罪”もしくは“盗品の受領、所有、隠匿、保管、取引、売却、廃棄の罪”で起訴される可能性がある、ってことだ」
「加えて国税局の調査が入る可能性もあります」
「あるな」とJ・J。
デ・ハーンまで割り込んだ。
「ファン・エイクの絵を個人コレクターに売りとばそうとして美術館との交渉を打ち切ったくせに、今さら誠意のあるふりをしようとしても遅い!」
ジェイソンはデ・ハーンの腕に手をのせた。体が怒りで震えているのが伝わってくる。これはデ・ハーンにとって個人的な思い入れのあることなのだ。失われた美術品を何年も追ってバイエルン州の城へとたどりつき、さらに年月を費やして、その財宝を守る任務についていたすべてのアメリカ兵の行方をつきとめていった。やっとここまで来たのに信じがたい抵抗に遭っては、頭に血が上ってもおかしくはない。
「それは脅迫だぞ」バートが言った。「俺はお前らに答える義務はない、FBIだろうがなんだろうが」
「それは違う。これは事態が取り返しのつかないことになる前に、あなたに与えられた最後のチャンスなんですよ」ジェイソンは応じた。「誰も大掛かりでややこしい、しかも莫大な金のかかる裁判沙汰などは望んでいない。アメリカ政府も同意見だ」
「でまかせ言うな。お前らは何かありゃ裁判したくてたまらないんだろ。いいか、これだけはただで聞かせてやる。もしロイ叔父がいくつか土産物を頂いてきたとしたって、そんなことはみんながやってたことさ」
時々はジェイソンの話を聞いていたことの証に、それにJ・Jが答えた。
「今回の話は旗だのドイツ兵のヘルメットだの没収した拳銃だのって話じゃねえ。万人に属する、貴重な芸術品の話だ」
「そうさ、
万人にだ」バートが熱っぽく返した。「
俺たちも入れてな。とにかく俺がわからないのはなあ、何だってアメリカ政府がわざわざせっせかとこんなブツを、そもそも戦争おっぱじめた国に返そうとするんだってことだよ」
「せ、戦争を始めただと……!」
デ・ハーンが激昂して声を震わせた。
ジェイソンにしてみれば、前にも聞かされたことのある論理だ。粘り強く話を続けた。
「そのファン・エイクの絵は、そもそもはベルギーの大聖堂から盗まれたものです。そうした絵画や宝石のほとんどがナチスによってオランダの美術館やユダヤ人家族から略奪されたものだ。ベルギーとオランダの人々にはそれらの財産を取り戻す権利が――法的かつ倫理的な権利が、あるんです」
「あいつらはその財産を――財産だと言い張ってるもんを、守れなかったじゃないか。アメリカ兵が、叔父のような人々が救い出してやったんだ。オランダ人どもは何日ともたずに降伏しやがって」
デ・ハーンの顔が紫色に、それから白く変わった。眼鏡の向こうで穏やかだった目が憤怒に燃え上がる。
「オランダでは二十万人もの死者が――」
「ええ、ひとまずはそこまで」ジェイソンはデ・ハーンに警告の目つきをくれた。「議論の余地はないんです、ミスター・トンプソン。我々の聴取を拒否することはできますが、調査は続きますよ。あなたの非協力的な態度は記録され、いずれあなたの不利に――」
バート・トンプソンは話を聞いていなかった。ジェイソンを見てすらいなかった。彼らの向こうを見ている。
「どういうつもりだ?」と呟いた。
反射的にジェイソンは肩ごしに振り返った。
「ふざけてんのか!」バートが叫んで、ポーチの縁まで出る。「あいつイカれちまったのか?」
ボロボロの白いピックアップトラックが、牧場に向かって土の道を突進してくる。はねる車体はもうもうとした土煙に包まれていた。赤いシャツとカウボーイハットの男が助手席側の窓から半身を突き出し、自動小銃らしきものをかまえていた。
ジェイソンが自分の銃へ手をのばした時、J・Jが呟いた。
「あれってマジでそういうやつか?」
そう、マジでそういうやつだ。
白いトラックがそびえ立つ牧場の木製ゲートの看板下を抜けた瞬間、乗っているカウボーイが発砲を始めた。
--続きは本編で--