マーメイド・マーダーズ

(殺しのアート1)
ジョシュ・ラニヨン

■1


 夏の熱気がアスファルトから揺らめきのぼる。湿気たっぷりの、揺れる光の中、金髪の大男が政府支給の銀のセダンにもたれかかっている——腕時計を確認しながら——姿は蜃気楼か何かのようにも思えた。残念ながら違う。FBI上級特別捜査官サム・ケネディの姿は、目の錯覚などではない。
 ケネディが顔を上げ、ジェイソンを認めて、渋い表情になった。笑顔のつもりかもしれない。ケネディの評判からしてそうは思えないが。
「ウエスト捜査官」とケネディが言った。深い声で、どこか母音を引きずる響きがある。「てっきり、ガードナー美術館から盗まれたフェルメール探しにボストンに寄っているかと」
 笑える男だ、ケネディ。ジェイソンはすでにカール・マニング主任捜査官から、ケネディはふたたびパートナーと組まされることにいい顔をしていないと聞いていた。しかも、相手が美術犯罪班からの一時転属ときては。
 重要な捜査をしくじると、それもウィスコンシン州の知事から夜のニュースで名指しの非難を浴びせられると、次はそんな目に遭うということだ。もう少し実績のとぼしい捜査官だったなら当面は“休養中”にされてもおかしくないくらいだが、ケネディはFBIの生きる伝説だった。最高の“狩人”。クビになることはないだろうが、間違いなく、面目はつぶれた。ケネディの栄光は敵を作るタイプのものだ——犯人たちから買う恨みだけでなく。キャリアの成功というのは、事件を解決すればいいというものではない。そしてケネディは、器用なタイプにはとても見えなかった。
「こちらこそ、会えて光栄ですよ」と言い返し、ジェイソンは車へ近づいた。ケネディは握手の手をさし出そうともしなかったので、ジェイソンも自分の右手をポケットへ突っ込んだ。
「説明しておくと、俺はまだ休暇中のはずでした。実際、精一杯急いでここに向かった。ボストンで、ロスに帰る便に乗るところでした」
「覚えておく」
 ケネディは背を向け、陽光にギラつくセダンの運転席側へ回りこんだ。
「荷物はトランクに放りこめ」
 中に手をのばしてトランクのフードを開ける。
 ジェイソンはフードを上げ、肩に掛けていた茶色いレザーのボストンバッグをケネディの黒いトゥミのスーツケースの隣へ下ろした。大層なスーツケースだ。生活すべてを持ち歩く男の荷物だ。人気の捜査ドラマと裏腹に、行動分析課の分析官がクワンティコを離れてあちこち駆け回ることは滅多にないが、ケネディは規範に縛られない例外的な存在だ。
「さっさと行くぞ。少女が消息不明になって八時間以上になる」
 肩ごしにそう投げ、ケネディは運転席に座った。
 言い返しかけてジェイソンはぐっとこらえた。主任のマニングからこの新たな——そして臨時の——パートナーについてすでにいくつか聞かされている。それに明らかに、辺鄙なキングスフィールドの犯罪現場に急ぐその姿勢こそケネディを有能たらしめるものだろう。二人がワン・センター・プラザのFBI支局ではなく、ダイナーの駐車場なんかで落ち合っているのもそんなわけだ。
 ジェイソンはトランクを勢いよく閉め、助手席側へ回って車に乗った。車内に残るエアコンの冷気からしてケネディは長くは待たされなかったはずだ。
 ケネディがイグニッションキーを回した。さらなる冷気がラジオのニュースと一緒に吹き上がる。
「で、この辺りには詳しいんだな? 家族でキングスフィールドの別荘に来ていた?」
「そうです」
「結構な暮らしだな」
 ケネディの口調には、お前にはお似合いだ、という含みがはっきりあった。アフターシェーブローションの匂いがきつすぎる。ケネディ自身と同じく攻撃的な香り。トップノートはサンダルウッド、根っこにあるのは刺々しさ。
「まあ、そうですね」
 駐車場から車を出しながら、ケネディが刺すような目をジェイソンへ向けた。というか、少なくとも口元を皮肉っぽく歪めた。両目はオークリーの黒いサングラスで隠れている。四十代半ばくらいだろう。ハンサムというわけではないが、ある種忘れがたい顔をしている。この捜査が終わったらジェイソンとしては全力で忘れるつもりだが。
 ジェイソンは言った。
「確認していいですか。キングスフィールドの警察署長がわざわざあなたを指名したのは、この事件が昔の事件のコピーキャットかもしれないと思ったからですね?」
「決めつけるにはまだ早いが、ああ、それが懸念だ。そりゃな、ウースター郡で娘が消えれば誰でもまたかとビクつく」
 ケネディは捜査の現状についてジェイソンへ説明しはじめた。
 手早く、簡潔な概要だったが、そもそもわかっている事実が少ないのだ。地元の金持ちの娘、未成年のレベッカ・マディガンが金曜の夜、友達を呼んでパーティをしている最中に自宅から消えた。両親は遠くに出かけていた。家政婦がレベッカの失踪を届けた。捜索が行なわれているが、今に至るまで手がかりはない。
「十代の女の子がいなくなる理由なんて山ほどあるでしょう」とジェイソンは指摘した。
「ああ。だがさっきも言ったように、ウースター郡の住人はまだ忘れていない」
 たしかに。無理もないことだが。ジェイソンは窓の外へ目を向け、歴史のある建物とビル群の景色を見つめた。公園、運動場……そして池。(緑の水にさす目のくらむような太陽の光。少女の笑い声……)サングラスを外し、目の上をさすってから、またかけた。
 ウースターは古い町だが、暮らしは今風だ。こことキングスフィールドの距離は四十キロほどで車でも四十五分とかからないが、別の惑星のように違う。
「昔の事件を覚えています。マーティン・ピンクの逮捕と有罪を主導したのはあなたでしたね」
「一端は担った」
 ケネディは意外な——そして不要な——謙遜を見せた。キングスフィールドの連続殺人を食い止めたのがケネディの尽力だったことには疑いがなく、だからこそ今回も警察署長がすぐさまケネディの助力を乞うたのだ。FBIがこのレベッカ・マディガン失踪の成り行きを様子見しなかったのは少し驚きだが、事件の捜査のほかに、ケネディを厄介払いする意図もあったのかもしれない。とにかく、ジェイソンに休暇切り上げを命じたマニング主任はそんな口ぶりだった。
「どんなパーティだったんですか?」
「どういう意味だ」
「六月ですからね、卒業パーティだったんですか? 誕生パーティ? スウィート・シックスティーン? 秘密の妊娠祝い?」
 ケネディの笑い声は乾いていた。
「週末、両親が留守の間にやるようなパーティだ」
「誰でも参加できた、あるいは限られた友達だけ?」
「細かいことはまだわからん。俺の知っていることは全部話した」
 多分、それは嘘だろう。ケネディは昔気質の一匹狼タイプで“手出し無用”主義に違いない。この世代が、チームになじめない言い訳にどんなマッチョな建前をふりかざしていたにせよ。テレビドラマなら一匹狼も格好いいが、現実の犯罪捜査では協調性のない人間はそのツケを払わされるものだ。
 時には、皆がひとつの目的に集中していても、人は傷つく。ジェイソンの肩がうずき、無意識に手でさすっていた。


 町外れの道路脇に大きなハート型の看板が出ていた。〈永遠に、皆の心に。ハニー・コリガン〉と書かれている。
 ジェイソンがこの道を最後に車で通った時、こんな看板はなかった。ケネディは見慣れているだろうか。遠い夏の日、彼はここを何百回となく通ったに違いない。
 二人とも何も言わず、数分後に車は鬱蒼たる森を抜け、素朴で絵のようなキングスフィールドの町の木陰の道に出た。昔ながらのニューイングランドの景色。愛らしく風情がある。白い羽目板の家を広々とした芝生やバラの庭が取り巻き、赤や黄色い煉瓦づくりの十九世紀の店たちはリノベーションされ、戦争の慰霊碑が建ち——きっと独立戦争のものだ——そして高い尖塔を持つ白い教会の建物が、大きく青々とした公園の芝生を囲んで巧みに配置されている。カリフォルニアとはまるきり違う、それはたしかだ。だからこその避暑地なのだが。
 静かでこぢんまりとした町ではあるが、それにしても土曜の午後にしては人の気配がなさすぎた。
「思い出どおりか?」
 ケネディの声で、ジェイソンはぎょっと物思いから醒めた。
「あまり変わってはいませんね」
 それは真実だった。時の経過が、奇妙なほど感じられない。タイムマシンにでも乗って過去に戻ったみたいに。ビーキーの居酒屋を通りすぎる。三面の張出窓、吊られた手描きの看板にはかつらの紳士が描かれ、そのわし鼻が車のボンネットオーナメントのように前につき出ている。
「最後に来たのはいつだ?」
「何年も前ですよ」
 ハニーの失踪の後、ジェイソンの両親はすぐに別荘を売り、それ以来ジェイソンがここに戻ったことはない。ケネディにそれを教えるつもりはなかった——たとえその質問が真面目なものでも。
 真面目に聞いちゃいないが。ケネディの注意は、カーナビがきびきびと機械的に並べる情報に向けられていた。その両手は余裕を持ってハンドルを操り、その凝視は愛らしく小ぶりな店やカフェの並びを観察していた。
 警察署は町の中央にあり、元は町役場だった建物を使っていた。褪せた煉瓦の二階建てで、仕上げに時計塔まである。屋根付きのせり出した玄関ポーチを灰色の円柱が支えていた。アーチ型の窓からはクアボーグ川がよく見えるだろう。川は遠く、青い影のようだった。
 ケネディは建物の裏、カエデの木立の下に車を停めた。カエデの葉は、暑さに汗ばむかのように強烈に光っていた。
 ジェイソンはほとんど空の駐車場を眺めた。
「もっと車があってもよさそうですが」
「皆、捜索に参加している」とケネディが答えた。
 含みはない口調だったが、そう、それはそうだろう。当たり前だ、町中が——少なくとも健康で動ける住人は——消えた少女を探して広大な野山をしらみつぶしにかかっているに違いない。この少女は、皆にとって身内なのだ。真っ先にそれが頭に浮かばなかった時点で、ジェイソンが凶悪犯罪の捜査とどれだけ長く無縁だったかよくわかる。
 少なくとも、暴力的な事態を想定して捜査をしていた時から。人間というのは予測不能のものだ。特に、追いつめられた時は。
 ケネディの隣を歩いて建物の表へ回る。足音が無機質なリズムを刻んだ。空気は暑くじめついて、熱された石とデイリリーの花の匂いがした。ケネディは駐車場から建物のポーチまで一言も口をきかなかった。何が待ち受けているのか少しは説明してくれるとありがたいのだが、口のなめらかな男ではない。
 木枠の古いガラス扉の中へ入り、公示ボードがずらりと並ぶ前を抜けていく。貼られているほとんどがチラシや地域のイベントのお知らせだが、指名手配ポスターも数枚混じっていた。ずんぐりした中年の女性警官は、電話の相手で忙しそうだ。二人が示したバッジをろくに見もせず、焦げ茶の板壁の廊下の先へ行けとうなずいてから、落ちつき払って電話の向こうとの会話に戻った。
 一階に設置された捜査本部にたどりつく。折りたたみ椅子が整然と並び、正面の壁には写真が幾枚も貼り付けられている——とてもきれいな少女の写真だ、白人で十六、七歳くらい、金髪、青い目。
 部屋はほぼ無人で、ひとり残った制服警官が大きな脚付きホワイトボードに書かれた何かを消していた。その男がボイド・バクスナーだと気付いて、ジェイソンの心が沈んだ。
 冗談だろう。よりにもよってこの警察署で——この広い世界で……。
 随分と久しぶりになるが、バクスナーはそう変わっていなかった。角張った肩、角張った顎、角張った頭。まあ頭は四角くはないだろうが、薄茶色の刈上げの髪のせいでそう見える。
「FBIのケネディだ」ケネディがふたたびバッジを見せた。「こちらはウエスト捜査官」
「待ってましたよ」
 バクスナーが言った。ジェイソンをちらりと見たが、思い出した様子はなく——バッジとサングラスほどいい擬装はない——ジェイソンとしてもそれで結構。
「ジャーヴァス署長はレベッカ捜索の指揮に出てます。あんたたちを捜索現場まで案内しろって」
「では行こう」とケネディが言った。
 ジェイソンはさっと驚いた目をとばす。
「もしくは」と口をはさんだ。「ここに一旦落ちついて関係者証言に目を通すとか。多くの目撃者証言をたしかめる必要があるでしょうし、彼女が自ら消えた可能性を示す話を見逃していないとも限らない。彼女の自宅にも寄ってみたいが。念のために見ておきたい」
 犯罪現場というのは独特で、繊細なものだ。一度きりしかチャンスはない。続く捜査の手によってその場面は——そして自分の視点も——変化し、変容していくからだ。
 ケネディは、ジェイソンの存在など忘れていたような顔だった。サングラスを外す。彼の目は青かった。極北の青。不動の、何の容赦もない青だ。彼はバクスナーのほうを向いた。
「我々は、ジャーヴァス署長と合流する」
 じつに明快。ケネディのほうが立場は上だし、これはジェイソンの専門分野でもない。それはそれとして、ただのお付きとしてここに来たつもりはなかった。反抗したいわけでもないが、ケネディは地元警察が現場捜査を済ませたと決めてかかっている。ジェイソンは何事も思いこみで動くのには反対だ。
 人前で面子を潰されるのも、好きではない。
 ケネディの無表情な顔と口調に対抗して、同じ調子で応じてやった。
「どうしてです? ボランティアの人数が足りないとでも? 我々がここにいるのは外部から事件を客観視するためでは?」
 ケネディが黙ったままジェイソンをじっくりと眺めた。温かい目つきではなかった。新たな観点を聞けたという顔でもなかった。
「決まるまで、俺はちょっと外しましょうか?」
 バクスナーは今や、ジェイソンをまじまじと見ていた。
「もしよければ、同僚に一言かける時間がほしい」とケネディが不吉な落ちつきで答えた。
「了解です。車回しときます」
 バクスナーは、どちらが勝つか考えるまでもないという態度だった。地雷地帯からそっと距離を取るように彼が離れていくと古い床板がきしんだ。
 バクスナーの姿が廊下の向うへ消えるまで、ケネディは一言も発さなかった。ジェイソンへ向き直る。
「いいだろう、可愛い坊や。ひとつはっきりさせておく」
 その口調は冷たく鋭かった。
「お互い承知だろうが、ここでのお前の役目は周りと俺の緩衝材だ。お前のやるべきことは俺の邪魔をせず、必要なら皆を取りなすことだ。その褒美に、お前にはジャーヴァス署長と並んでカメラの前に立つ役をくれてやる。いい話だろう?」
「ふざけんな」ジェイソンは言い返した。「ああ、たしかにあんたがまた揉めないように気をつけろって言われてるが、あんたのマントを掲げてついてくつもりはないね、バットマン。俺たちは今回の捜査でのパートナーなんだ、好き嫌いに関わらず。念のために言っとくが、俺としちゃ好きじゃない——あんた以上にな」
「ならお互い、楽なやり方で行こう」とケネディが言った。「お前は俺の捜査に首をつっこまない、そうすれば、俺も絵が盗まれた話を聞いたらお前に連絡してやる」
 彼はジェイソンの返事を待たなかった。踵を返し、バクスナーを追って廊下を歩いていった。

■2

「あのタイプは最近流行らないから、あまりその辺でも見なくなったのにね」
 受付デスクの中にいる巡査が、ケネディについて捜査本部から出てきたジェイソンに話しかけてきた。胸の名札はA・コートニーと読めた。
 数歩先んじているケネディは、すでにガラス扉を抜けて消えていくところだ。ケネディはさっき抑えた口調だったが、よく通る声だった。あるいはこのA・コートニー巡査の聴力がコウモリ並みか。
 ジェイソンは答えた。
「エンジンは元気そうだ。だがキャリブレーターの交換パーツはもう手に入らないだろうね」
 巡査はフンと鼻先で笑ったが、電話が鳴るとその笑いがかき消え、受話器に手をのばした。
「いいえ。新しい情報は、何も」と彼女が答えている間、ジェイソンは外へとケネディを追った。
 警察署に置き去りにされていても完全に驚きはしなかっただろう。だが、いいや。白黒の警察車両がポーチの前に停まり、蒸し暑い夏の空気に排気ガスを吐いていた。
 ジェイソンは金網で前と区切られたバックシートに乗りこんだ。どうせケネディはそこがジェイソンにぴったりだと思っているだろう。温かすぎるシートは酔っ払いと犬の臭いがした。あるいは酔っ払った犬の臭い。
 とにかく、ケネディとは失踪した子供を無事家に帰すまでなんとか協力して、それが終われば二度と関わらずにすむ。誰に一番苛立っているのか、自分でもわからない。ケネディか、ジェイソンを説き伏せてここによこした主任のマニングか、ろくに役に立てない現場への捜査参加を承知した自分自身にか。「可愛い坊や」の一言が、認めたくないほど突き刺さっていた。
 バクスナーが無線交信を切って、車を出した。
「レベッカはやんちゃだが、自分のパーティの途中でいなくなる娘じゃないですよ。大体、水着しか着てなかったんだし。車はガレージに入れっ放し。家政婦の話じゃ服は一着もなくなってないそうです。財布も家にあった。携帯はテラスのテーブルに置き去り」
 ケネディが、「ああ」とも「いいや」とも「俺が考えている時は話しかけるな」ともとれる声で唸った。
 ジェイソンは問いかける。
「やんちゃって、どのくらい?」
 バクスナーは肩をすくめた。またも彼の褐色の目はバックミラーの中からジェイソンを観察しており、心当たりを探っているようだった。バクスナーとは対照的に、この十六年間はジェイソンを大きく変えた。筋肉が付き、歯の矯正器がなくなり、肩まであった黒髪も切った。かつての彼を知る者は、FBI捜査官になるとは予想だにしていなかっただろう。ジェイソン自身も含めて。
「牢屋に放りこまれるほどのことは、何も」
 マディガン家が地元でも富裕な家である以上、今の言葉にはどんな意味がある? 関係あるか? 一般的な捜査では、被害者の性格に基づいて捜査方針を決める。もしマディガンの娘が——ケネディや地元の人間が見なしているとおり——サイコパスの無作為な毒牙にかかったのなら、彼女の性格は重要ではない。被害者分析は無用だ。レベッカ・マディガンは、ただのおぞましい盤上の駒にすぎないのだから。
「マディガン家は昔からこの辺りに?」
 ジェイソンの記憶にはない名だ。
「ニューヨークからこっちに、四年前くらいに越して来ましたよ。ミスター・マディガンは法人向け不動産業界の大物で」
 つまりレベッカは高校入学の頃、ここキングスフィールドに越してきたことになる。大きな交友関係の変化だ。新たな友人。新たな敵。
「レベッカは地元になじめてましたか」
「そこそこ、うまく」
「一人娘?」
「いいや、弟が一人。サマーキャンプに行ってますよ。姉弟二人ともうまくやってる。姉のほうの問題は、金がありすぎるってことですな」
「悪い問題じゃないように思うが」
「ああ、ちっともね」
 バクスナーが力をこめて言った。


 犯罪現場に混乱はつきものだが、ニュー・ドミニオン住宅地の裏手で捜索ボランティアがうっかりスズメバチの巣に出くわしてしまい、混乱に拍車をかけた。針をかざした虫たちが荒れた地面を土埃のように動き回り、小さくも猛々しい竜巻を避けて、捜索隊はひとまず車や近所の家のポーチに避難した。
 ケネディはその状況を例の無表情で把握すると、署長を探しにかかった。警官の制服の多彩さからして、少なくともほかの二つの町から応援が来ているし、州警察も駆けつけて捜索を手伝っている。
 集まっている人数が——こわばり疲れた多くの顔が——ジェイソンに、十六年前のハニーの捜索を思い起こさせる。ひたすら忘れようとしてきたことが、今や一気に押し寄せてきていた。たしかに彼とケネディはこれを見なくては。自分たちが対処しようとしているものの規模をつかむ必要があった。関係者たちの様子もわかれば、捜査に役立つだろう。さっき警察署で、ジェイソンは余計なことを言うべきではなかったのかもしれない。どうせケネディと角突き合わせるのなら本当に重要なことでぶつかるべきだった。
 十六年前にはなかった豪華な家並みに、ジェイソンは目を走らせた。大量生産のお屋敷。不似合いな大きさだし、コロニアル様式だかスペイン風邸宅の劣化版といったところだ。
 家の間にはうまいこと四角い空間がとってあり、土地を節約しながらプライバシーの幻想も演出している。住宅地の東側は大きな草地で、その向こうは森だ。キングスフィールドは州公園と原生林に囲まれており、ニュー・ドミニオン住宅地の高級そうな顔とは裏腹に、ここはマサチューセッツ州の田舎町で、人口の一割が貧困ライン以下の収入で暮らしている。辺鄙な場所なら丸一週間誰の顔も見ずに暮らすこともある。鬱蒼とした森は鹿、ヤマネコ、アライグマ、時には熊やヘラジカというもっと大きな生き物の棲み家となっている。ジェイソンの記憶にも、ある秋に地元のハンターが大猪を仕留めた話が残っていた。
だがこの木々の中にひそむもっとも恐るべきけだものは、四つ足ではない。
「ジャーヴァス署長」とケネディが呼びかけた。
 制服姿の男——中背で本職の兵士のように鍛えた体の——が記章を着けた人々と話しこんでいたが、振り向いた。疲れて固い表情がさっと、驚きと安堵にやわらいだ。
「ケネディ特別捜査官。来てくれたか」
 この瞬間まで、ジェイソンに覚えのある顔はバクスナーのものだけだったが、このジャーヴァス署長のことも思い出していた。
 あの頃はジャーヴァス巡査で、署長ではなかった。当時のキングスフィールドの署長はぼってり太ったルディ・コワルスキで、押し出しがよく、町内の父親たちをなだめて反抗的な青少年をどやしつける役にはぴったりだった。あの殺戮が始まると、彼は完全に役立たずになった。もっとも最初は誰も気付かなかったが。ハニーが殺された時は、皆が、稲妻の直撃のようなものだと信じた——二度は起きないことだと。
 やがてテレサ・ノーランが殺された。そしてジニー・チャピンに、ジョディ・エスコバーも。さらにもっとが。全部で七人の少女が死んだ。ジェイソンの記憶通りならコワルスキ署長は自ら辞職し、町議会はすぐさまその後釜に能力もやる気もあったジャーヴァス巡査を据えた。それから十六年後、ジャーヴァスはまだ若々しい六十代となり、自身の引退も視野に入る頃合いだ。灰色の目で、洒落たヴァン・ダイクスタイルに鼻の下と顎のひげを整え、ずっと屋外にいる人間特有の褪せることのない日焼けの肌をしていた。
 二人のほうへやってきて、ジャーヴァスが手をさし出した。
「来てくれてよかった、ケネディ」それから苦笑いで付け加える。「まったく、きみは全然変わらないな」
「こんな状況で来るのは残念だ」
 ケネディはきびきびと、感傷などない口調だった。彼の専門分野からして、正気を保つにはそうするしかないのだろう。
「こちらはウエスト捜査官だ」
「よろしく、ウエスト捜査官」ジャーヴァスが手早く握手を交わし、礼儀正しく頭を傾けた。「来てくれて助かるよ」
「どうも、署長」
 ふらっと寄ってきたスズメバチを手で払って、ジャーヴァスがケネディに言った。
「どんな様か、見ればわかるだろう。東はイーデン池から西の森まで。近隣には通知し、直近エリアは捜索も終えたが、とにかくだだっ広いしマディガンの娘の気配ひとつない。何もないんだよ、地上からかき消えたみたいに」
 そして乾いた声で「昔と同じだ」とつけ足した。
 同じというわけではない。以前の被害者たちの誰ひとりとして、人の多いイベントや場所からつれ去られたことはなかったのだから。ハニーは早朝のホルヨーク池でさらわれた。テレサ・ノーランは夜遅く、水泳の練習を終えたところで高校の人気のない駐車場で拉致された。被害者の全員がそれぞれに人目のない場所、あるいは私有地など目撃される危険が低く、手遅れになるまで誰も気付かないところでさらわれた。
 犯罪現場について揉めたばかりなので、ジェイソンはひとまず様子見に徹した。自分の立場への——そしてケネディへの——反発絡みの態度だったし、褒められた話ではなかった。誰の得にもならない。
「ざっと現状を聞かせてもらえるか?」とケネディが聞いた。
 ジャーヴァスはうなずいたが、そこに州警察の隊長が深刻な顔で近づいてきた。キングスフィールドの警察署は小さい。刑事課もないし、所属警官は二十名に満たない。署長も含めて。州警察に応援を求めるのは当然だった。
 さらに自己紹介が交わされる。
「もうとうに解決済みのことだと思ってたのにな」
 州警察のスウェンソン隊長が言った。ジェイソンの耳は、そこに非難の含みを聞きとっていた。
 ケネディが返す。
「どっちなのかは、すぐにわかる」
 間違った男を逮捕し投獄した張本人ではないかと当てこすりを言われて、それだけ平静でいられるとは大したものだ。
 あるいは、そんな疑惑が人々に広まっていることに気付いてもいないのか。
 とは言え、あの“ハントマン”をいぶり出すために捜査に協力した組織はFBIだけではなかったが。たしかに主にFBIが——そしてケネディが——マーティン・ピンク逮捕の功績を手にしてはいても。逮捕を行なったのは地元警察だし、地元の判事と陪審員たちがピンクを有罪と断じ、刑を決定した。
 ジャーヴァスが何か言っていた。
「私にはレベッカと同じくらいの孫娘がいるんだよ。レベッカより少し年上と、下が一人ずつ。またあんなことが始まったら……」と首を振る。「この十年で、我々にあんな事態に対処する人員も能力も付いたとは言えないね」
「少なくとも応援は大勢来ていますよ」
 ジェイソンが言う間にもウースター郡保安官事務所の車がやってきて、キングスフィールド警察の車に横付けした。
 ジャーヴァスが顔をしかめた。
「たしかにな。州警察学校の学生までやってきて手を貸してくれてるよ。あの時もこうだった。だから、ケネディ特別捜査官にも力を貸してほしいと頼んだんだ」
 ケネディは、だだっ広い草原と野の花の上をジグザグに漂う茶色い昆虫の霞を眺めていた。森の手前に、まるで玄関マットのように広がる草原。
「力は貸す」とケネディが半ば上の空で応じた。まるで……力を必要とされるのが当然で、それを与えるのも当然だというように。
 その一言が驚くばかりの威力を発揮する——少なくともジャーヴァスの様子からはそう見えた。
 同じくらい心強いのは、ケネディが署長から肝心な情報を引き出し整理していく手際の良さだった。
 昨日の夜のパーティは九時半に始まり、十一時には辺りのガキどもが軒並み集まってマディガン家のワインセラーを飲みつくしていた。十一時十五分に近所の住人が騒音の苦情をいれており、バクスナー巡査が立ち寄って注意するとレベッカは「ボリュームを抑える」と約束した。
 十一時半頃レベッカは仲良しのパトリシア・ダグラス相手になにやら揉めていたが、あんなのは大したことじゃないと皆が口をそろえたし、二人もすぐさま仲直りをした。実際、夜中の一時頃、レベッカがいないことに最初に気付いたのはそのパトリシアだった。
 残っていたパーティ客たちは、全員が酔っ払いではあったが、とりあえずすぐレベッカを探しに出た。その捜索も、きっとボーイフレンドの家に行ったのだろうと決めこんで途中で投げ出された。
 翌朝、マディガン家の家政婦アリス・コーンウェルがレベッカのボーイフレンドに電話をしたが、パーティから帰った前夜の十時半くらいにレベッカを見たのが最後だと言われた。事ここに至って、家政婦がキングスフィールド警察に通報したのだった。
 ケネディがたずねた。
「レベッカは親しい友達だけの小さなパーティにするつもりが、噂が回って、彼女のは……予定外のどんちゃん騒ぎになった?」
 彼の声にはいつもの辛辣な響きがまとわりついていて、おかげで「夜会」という言葉もふざけて聞こえなかった。
 輪に加わっていたバクスナーがそれに答えた。
「六十から七十人のガキ。全部じゃないが、ほとんどがこの辺のガキです」
「ろくに大人の目の届かない状態でな。それがあのガキどもの問題だ」とジャーヴァスが言った。「責められるべきは、両親たちだろうな」
「責められるべきは、裏庭から少女をさらった異常者だ」とケネディが言った。まだ無感情に、不動のまま、彼は続けた。「ボーイフレンドは十時半に去っている。まだ夜も早いうちだ。二人の仲はうまく行ってなかった可能性がある」
 ジャーヴァス署長が言った。
「今朝一番にそのトニー・マッケンローから話を聞いてある。パーティから帰ってから一度もレベッカと会っていないそうだ。二人の関係には何の問題もなかったと主張している」
「だろうな」ケネディが答えた。「バクスナー巡査の話ではすでに家政婦、近隣住人、パーティに最初に招かれた子供たちに事情を聞いたそうだが?」
「基礎的な手順だ」ジャーヴァスが答えた。どこか期待するようにたずねる。「調書を読んでみるかね?」
「後で目を通そう」ケネディがうなずいた。「数時間のうちにレベッカの居場所が判明しなければ」
 調書の中身は、色々な発言の無秩序な羅列だろう。ペーパーワークが嫌なわけではないが。盗まれた美術品の追跡は、それこそネットや書類上の痕跡を目を凝らして追っていく作業が大半でもある。ジェイソンは狩りがとても得意だった。だが、これまで成果に人の命が懸かっているようなことはなかった。この場で懸かっているものは信じがたいほどに重すぎる。
 ケネディに向き直られて、ジェイソンの考えが途切れた。
「ご意見は、ウエスト捜査官?」
 乾ききった口調で聞いて、反論や異議を待っている。
「いえ……同意します」
 まるで珍しい相手が譲歩したとでも言いたげに、ケネディの茶色い眉が上がった。ジャーヴァス署長を振り向く。
「パーティに押しかけた客についてはまだ聴取の途中ということだな?」
 ジェイソンは長い、音のない息を吐き出した。ケネディのように、あからさまにこちらを毛嫌いしている相手と働かねばならないのは初めてだ。ジェイソン自身もケネディのファンの一員とは言えないが、ケネディは尊敬の念を抱かざるを得ない相手だった。事実、あの頃マーティン・ピンクを犯人として狩り出したケネディを、ジェイソンもほかの皆と同じくヒーローだと信じたものだった。
 もう、ずっと昔の話だ。
 ジャーヴァス署長がケネディに答えていた。
「全員の名がわかるまでしばらくかかるだろう。客の中にはあそこにいたことを親に知られたくない者もいるしな」
「署長、どうしてレベッカをさらったのがコピーキャットだと強く信じているのか、その理由をうかがっても?」
 ジェイソンはたずねた。ジャーヴァス署長の笑みは疲れきっていた。
「きみは、キングスフィールド殺人事件にあまりなじみはないのかな?」
 ジェイソンはどう答えていいのか迷ったが、どうせ署長も返事など待っていなかった。
「六年間にわたって、マーティン・ピンクという名の地元の男がウースター郡の遊泳場回りで金髪で青い目の娘を七人拉致して殺したんだ。マスコミは彼をハントマンと名付けた」
「事件は覚えてます、だから——」
「なら十年前、きみのこのパートナーのおかげでピンクを逮捕し、牢に放りこんだことも知ってるだろう。それがまた今、プールサイドのパーティから金髪で青い目の女の子が消えたというわけだ。きみはどうか知らんが、私は偶然にしては随分だと思うね」
 ケネディが言った。「偶然は起こり得る。どっちなのか調べるのが我々の仕事だ」
 偶然かもしれない。だが、コピーキャットの犯行かもしれない。“ニュース”番組が残虐な犯罪をセンセーショナルに取り上げ、ソーシャルメディアに情報のかけらがあふれ返っているおかげで、コピーキャットの出現は段々珍しいものではなくなっている。ジェイソンが聞いたところでは、一人と言わず麻薬の売人たちが『ブレイキング・バッド』に憧れて自分の名前をウォルター・ホワイトに正式に改名したという話だし、『ダークナイト』のジョーカーを真似た殺人や襲撃事件の数には本気で気が滅入る。青少年、そして若い成人は特にコピーキャットじみた行為をやりたがる。本能であるかのように。とは言っても、全体から見れば模倣犯罪というのは比較的珍しいと言える。
 三つ目の可能性も、勿論あった。ケネディが監獄に放りこんだのが真犯人ではなかったという可能性。
 ハントマンが、今でも野放しになっているという可能性。

--続きは本編で--

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