一つは哀しみのため
二つは悦びのため
三つは女の子のため
四つは男の子のため
五つは富のため
六つは貧困のため
七つは雌犬のため
八つは売女のため
九つは葬儀のため
十はダンスのため
十一は英国のため
十二はフランスのため
一つは哀しみのため
二つは浮かれ騒ぎのため
三つは結婚のため
四つは誕生のため
五つは富のため
六つは貧困のため
七つは魔女のため、それ以上は言えない。
八つは土に埋められた赤子のため
九つは饗宴のため
十は欠乏のため
クレーン卿ルシアンはアスコットタイを整えると鏡の中の自分を眺めた。シャツの前面は絹とリネンの淡い白と純白が混じる完璧な仕上がりだった。ホークス・アンド・チェイニーにて驚異的な金額で手作りされた新しいスーツは、体にピタリと合い、仕立て仕事の傑作だった。クレーンは灰色の布にわずかに走る銀色の光沢に懐疑的で、人には言いたくないほど長く悩んだ末に発注をしたのだが、いまやホークス氏の意見が全面的に正しかったと認めざるを得なかった。アスコットの状態には完全には満足できなかったし、太陽の下で過ごした年数が長すぎて、英国人らしい赤や白の顔に溶け込むには肌が灼けすぎていたが、くすんだ金髪は滑らかで、身のこなしは非の打ち所がなく、貴族的な顔立ちは落ち着いていた。実際、正しき英国紳士の見本のような姿だった。
「あんたって本当に洒落者だな」クレーンが先ほど場所を空けた後ろのベッドから、裸でシーツに絡まった男が言った。
クレーンは鏡越しに非難の視線を送った。「そんなことはない。洒落者は目立つために服を着る。私は自分のために服を選ぶ。君のために着飾ってもいいが……」つけ加えた。「それは豚に真珠というものだ」
スティーヴンはニヤリとして見上げた。「それがあんたとメリックが心配していたスーツ? 派手すぎるんじゃないかって言ってた?」
「そうだ。どう思う? 訊いても無駄なことはわかっているが」
「灰色だね」スティーヴンは言った。「そもそも灰色以外の色を着ているのを見たことがないから驚きはしないけど、二人の話ぶりから、もっと目が覚めるような青とか、黄色を想像してた。とてもいい色だけど、基本的には灰色だ。あんたにはショックかもしれないけど、別の色を着てみることを考えたことはないの? たとえば黒とか、茶色とか?」
「もうひと眠りしたらどうだ?」クレーンが提案した。
「それにはもう遅い」スティーヴンはあくびをして体を伸ばし、クレーンはその小さく柔軟な体の動きを目で楽しんだ。身長が五フィート(約百五十二センチ)しかない小さな体だったが、細く敏捷かつ柔軟で、扱うのにちょうどよい大きさだった。「目が覚めちゃったから、もう起き上がらないと。きょうの日がどんな恵みを与えたもうか、準備だ。十一時に協議会に呼ばれてるんだ、救いたまえ」
「興味本位で聞くんだが、昨夜は何があった?」
スティーヴンは真夜中に現れ、髪も服も何やら気色悪くねっとりとした刺激臭のする液体にまみれていたが、体の汚れをしっかりと洗い落とした後、一日の不快さをぬぐい去るためにベッドに飛び込んだのだった。朝になるまでの時間で、浴室の床に放置した衣類は黄色っぽい樹脂のような光沢を放って固まっていた。クレーンは従者が安物の衣類とおぞましい物体の塊を解こうと火かき棒を使うのを目撃したが、後で燃やすために捨て置く方がいいと断固提案した。
やってきた時には何も説明をしなかったし、クレーンはスティーヴンの琥珀色の目の横に疲れた小さなしわが見えている時に無理やり答えを聞き出すことが得策でないことを知っていたが、昨夜自分の知っている唯一の方法でスティーヴンの心配を追いやったことで、恋人はすっかり満足して今朝は眠っている猫のように骨無しになっていた。
「かなり気持ち悪かったよ」再びあくびをしながらスティーヴンが言った。「ある男がいて、こういうのができて……」手振りで体の上に片手ほどの大きさの腫れを複数、表現して見せた。「それがこういう感じになって……」手を開いて爆発を表した。「死んでしまったよ、もちろん」
「それは恐ろしく不快だったな。魔法───いや、能力というべきか───が使われた結果、なのか?」
「残念ながらそうだ。いったいどうやってやったのかまるで見当もつかないけどね。どこから手をつけていいのかさえわからなかった。きっと突き止めるけどね」体を伸ばして背骨を動かした。「というか、どうあっても解決しないといけない、被害者は引退した警視だったから。リッカビー刑事は動揺してた」
クレーンは顔をしかめた。「そうだろうな。幸運を祈る。コーヒー飲むか?」
「是非。それできょうは何? 何か特別なことのためのスーツ?」
クレーンはコーヒーのベルを鳴らし、アスコットをまたいじっては、その収まり具合に眉をひそめた。「レオノーラとブレイドンと昼食だ。結婚式の前にブレイドンの一族と会う」
「それは先週じゃなかった?」
「その通り」クレーンは気持ちをこめて言った。「たぶん来週もそういうことになる。ブレイドンには嘆かわしいほど大勢の親族がいて、私の推測では、その三分の二が若い娘とその期待に満ちた親だ。種馬として売り出されている気分だよ」
「かわいそうに」スティーヴンは気持ちがこもっていないのを隠そうとせずに言った。「英国社交界の最上階層との懇親か。地獄だろうな」
クレーンは鏡の中から脅かすような身振りをした。スティーヴンもよく知っているように、クレーンの英国社交界に対する興味は、旧友のレオノーラ・ハートと由緒正しい生まれの新進気鋭の政治家との結婚に際して、親族の代わりに新婦を引き渡す役目だけに限定されていた。それさえ終われば、独身の境遇を変えるつもりはないという頑固な意志に必要以上の注目が集まる前に、参加を強制されている夜会やパーティから身を引く気で満々だった。
クレーンには身分にふさわしい結婚をするつもりなど毛頭なかったし、英国のくだらない法律に行動を制限されるつもりもなかったが、裕福で称号持ち、ハンサムで未婚という事実は今回の友人の結婚騒ぎで大いに注目されていた。この国で引き受けるつもりだった以上の注目だ。
そもそも当初は英国に住み着く予定などまったくなかった。すべてはスティーヴンにかかっていた。クレーンは恋人を残して国を出ることはないと約束し、そこに偽りはなかったが、いまや気持ちはどうやってここで暮らすかより、どうやってスティーヴンを説得して英国を出るかという方にますます傾いていた。
「まぁ、前回ほど退屈じゃないことを祈るよ」スティーヴンはベッドに寝そべって言った。「ハート夫人によろしく」
「あいつには頭の横に軽く一発見舞いたいよ。今度はブレイドンの政治会派に同調してくれと言い出しているんだ」
「あんたは政治に無関心だろ」
「貴族院に議席はある」
「でも、行ったことはないだろ」
「ない」クレーンは認めた。「でもブレイドンのリベラルの一派は貴族院からの賛同が欲しいらしい。だから……」
「何だよ、それ」スティーヴンはベッドの上で起き上がった。首の周りの鎖にかけている太い黄金の指輪が動きに合わせて跳ねた。「ハート夫人の婚約者がそう言うからって、投票するなんておかしいよ!」
クレーンは肩をすくめた。「ブレイドンは常識と良識のある男だ」
明確な急進的指向で貴族院の原理原則に反対しているスティーヴンはしかめっ面を見せたが、応えようとして、コーヒーを持ったメリックが形ばかりのノックをして入ってきたのに阻まれた。スティーヴンは慌ててシーツを膝の上に搔きよせた。自分が主人のベッドに裸でいることに、メリックが驚くわけではないのだが。
「閣下。おはようございます、デイさん」スティーヴンにカップを渡した。「残念ながら着ていたスーツはもうダメなようです。燃やしてしまってもいいですか?」
「ポケットから物を取り出さないと」
「十ポンド札が入っていたりしますか? そうでなければ燃やしてしまった方がいい。また同じようなベトベトした物体が付着する可能性はありますか?」
「あり得る。でも次回は早めに身を引くようにする」
「それがいいです、サー。魔法を使うのはよしとして、ホークス・アンド・チェイニーのスーツから、あなたのつけてくる類の汚れを落とすのは大仕事です」
スティーヴンは笑った。「心配しないで、メリックさん。仕事にいいスーツを着ていくようなことがあったら───」
「それはメリックがついに君と敵対する時だな」クレーンが言葉を継いだ。
「やめておくよ」スティーヴンは同意した。「そうだメリックさん、少し、いいかな……」
「はい?」
「ジェニー・セイントに何か、中国の武闘術を教えているというのは、本当?」
クレーン鏡にコーヒーを噴いた。悪態を吐きながら、新しいスーツに飛んだかもしれない染みを拭うため、ハンカチを探した。メリックは〝完璧なる従者〟の無表情をまとっていた。「南拳流の基本技術を幾つかです、サー。何か問題はありますか?」
「問題があるのかどうかはわからない」スティーヴンは言った。「僕が知っているのはいまやあの子がダルウィーシュの修行者のように空中で回転して、着地するまでの間に人の顔に三発蹴りを入れられるってことだ。それがいいことなのか悪いことなのか」
「空中に飛び上がって、降りてくることができる能力があるんです、サー」メリックは淡々と言った。「使わないのはもったいない」
ジェニー・セイントはスティーヴンの庇護下にいる若い審犯者の一人で、にやけた笑みを顔に貼りつけた浮浪児のような少女で、重力の法則を軽やかに無視する能力の持ち主だった。クレーンは少女とメリックがジンのボトル一本を挟んで何やら胡散臭い絆を結んだことは知っていたが、この展開は予想していなかったし、恋人も従者もまず自分にひと言もなかったことが気になった。壁に寄りかかり、くれぐれも二人の邪魔にならないようにした。
「セイントには時間をかけるべき学業がある。能力の訓練と読み書きを習う必要もある」スティーヴンもメリックと同様の淡々とした話し方だった。「それらの時間を奪うことは許されない」
「そういう事実はありましたか、サー?」明確に挑戦的とは言い難かったが、単なる質問とも取れなかった。
「いいや、ない」
「ではその状況は今後も変わらない」
「そうして欲しい」スティーヴンが同意した。「セイントが自分の時間を使って人の顔を蹴るのは構わない、メリックさん。僕の課題をきちんとこなしている限りは」
二人は数秒視線を絡ませたままでいたが、やがてメリックが小さく頷いた。対等な者同士、スティーヴンも小さく会釈した。
メリックがクレーンに向いた。「他に何かありますか、閣下?」
「このスーツだ。どう思う?」
メリックは高級衣裳に身を包んだ主人を上から下へ眺め、歯の間から空気を吸った。「前にも伝えた通りだ。派手すぎる」
二人の間の序列をはっきりさせたところで、従者は去った。
「クソったれ」クレーンはつぶやいた。「セイント嬢に武術を教えているとは。まったく知らなかったよ」
「教えているのが武術だけならば、いい」スティーヴンはほんの少し苦々しさをにじませて言った。「僕にはセイントの面倒を見る義務がある。あの子の純潔は守る」
「純潔に手を出すのはメリックの常ではない」クレーンは請け負った。心の底からそう言えることに感謝した。もしメリックとスティーヴンがぶつかるようなことがあったらどうするか、考えたくもなかった。「奴の専門は良家の未亡人で、処女の趣味はないし、何より愚か者ではない。セイント嬢に手を出すことがあるとすれば、誰が自分のハラワタを取り出すかに金が賭かった時くらいだろう。君か、私か、ゴールド夫人か」
「処女の趣味?」スティーヴンは繰り返した。「勘弁して、ルシアン」
「言いたいことは伝わるだろ?」
「そんなことは知らない。僕には訊く義務があった。でも正直言って、そういう興味があるのでなければ、セイントに構ってくれるのは嫌じゃない」クレーンは訊ねるように片眉を上げた。スティーヴンはため息をついた。「あの子は不幸な境遇だ。家族はいない、審犯機構の外に友人もいない。生まれた身分が低い、というか、何も謂れがないことから、周りから蔑まれることもある」
「どこかで聞いたような話だな」
「僕には家族がいた」スティーヴンは指摘した。「セイントは孤児院で育って、その意味するところは窃盗と物乞いの人生だ。数年前、果物を盗んで逃げる途中、屋根と屋根の間の二十フィート(約六メートル)の隙間を飛び越えるのを誰かが目撃したことから、僕らが引き取った。審犯機構の中でも知られた話だし、そんなコソ泥に審犯者としての地位を与えることを快く思わない者がたくさんいるから、あの子に自分の生まれを思い知らせるようとする連中もしょっちゅういる。あの子が果たして自由意志で審犯機構を選んだと言えるかどうかは疑わしいが、金も家族もなく、訓練をさせてくれると言われたら……」
「君に選択の余地があったら、どうしていた?」クレーンが訊ねた。先代のクレーン卿が両親を死に追いやった時、スティーヴンは十二歳だった。無一文で天涯孤独となり、クレーンから見ると年季奉公に近い形で審犯機構で働き始め、二十九になったいまも同じ仕事を続けていた。その頑固な忠誠はクレーンに恋人を仕事から引き離すのは無理なのではないかと思わせるほどだった。
スティーヴンが仕事を愛していて、幸せになれる類のものだったら、あるいはもっと単純な仕事だったら、問題はなかった。しかしスティーヴンを、ひいてはクレーンを英国に縛りつけているその仕事は、感謝されることなく、危険で、完全なる献身を求めるものだった。実際、クレーンは恋人の人生からこの強力なライバルを葬り去る決心をしていた。
スティーヴンは顔をしかめた。「そうだなぁ。仕組みとして考えると、これが最良の方法なんだと思う。少なくとも家族や遺産のない子供が借金をすることなく訓練を受けられる。それに、セイントの能力は無駄にすべきではない。風駆けはそれ自体驚くほど稀で、とても貴重な能力だ。メリックさんの指導でどんなことができるようになるか恐ろしいよ。つまりさ、あの人があんたにしたことを見ろよ」
「奴は私の持って生まれた能力の介添え役にすぎない。ちなみに君は結局私の質問に応えてはいないな。もう慣れたが」クレーンが傷ついたような表情をして見せると、スティーヴンは少し照れたような笑みを浮かべた。まったく、誤魔化すのが得意な小悪魔だ。「きょうは遅くなるのか?」
「さほど遅くならないと思うけど。ちなみに、今夜は暇?」スティーヴンは何かを企んでいるかのように片眉を上げた。
「さあな。今夜はやるべきことが山ほどある。君を第一候補に押し上げるべき理由はあるかな?」
スティーヴンはわざとらしく伸びをして滑らかな胴体をひねって見せた。「何もないよ。あんたを待ってここで横になって、ブレイドン一族との昼食会とか決算書より面白いことがあるかどうかを考えているよ。忙しいのなら、気にしないで。自分で自分の面倒は見られるから」片手をシーツの下に入れて見せた。
「私は多忙な身だ」クレーンは言った。「でも、たぶん、無理をしてここに戻ってきて、私のモノを懇願するまで君を舐めまわして、通りに声が聞こえるほど激しくファックすることもできる。どうしてもと言うのなら」
「ごめん、どういう意味なのかよくわからないな」スティーヴンはシーツを蹴って払いのけた。「見せてもらう時間はある?」話しながら誘うように横になり、自分の器官を撫でながら顔を上気させる姿は苦しいほど劣情をかき立て、クレーンはスティーヴンの意志の力でシャツのボタンが幾つか外れるのを感じた。
一息でカフリンクを外した。「少しの時間ならある」
「やさしいね。あんなに長い時間をかけて服を着たのに、また裸にするのは気がひけるけど」
「いいさ」クレーンは無造作にスティーヴンを仰向けにして、小柄な体の上にまたがった。「どうせアスコットの結び目が気に入らなかった」
クレーンの行為は約束の少しの時間では終わらず、時計が十時を知らせる頃二人はまだベッドにいて、メリックはいま朝食を摂らなければ自分で作ってもらうとほのめかした。食事をし、服を着て、協議会で無用な注目を集めないようカササギ王の指輪をクレーンの引き出しに残し、二人は正面玄関から外に出た。
不用心であることは承知していたが、クレーンは気にすることを拒んだ。この二週間で初めて愉しくファックしてゆっくりと話もできたのはスティーヴンの注文の多い仕事のせいだったが、かろうじて勝ち取った愉悦の時間を、スティーヴンをまるで汚れた愛人のようにこそこそと使用人の階段から出して終わらせたくはなかった。クレーンは自分の部屋の入っている建物のドアマンにはいつも存分にチップを弾んで、来客の出入りについて問題にするのは得策ではないと知らしめていた。それに恋人と一緒に階段を下りたくらいで逮捕の心配をするなどバカげている。成人してからを過ごした中国では自分が誰と寝ていようが気にする者はいなかったし、ずっとそれが普通のことだと思ってきたのに、英国の法律と常識が密かに意識に浸透してきていることが気に障った。そういうわけで、裏の階段へ向かおうとしたスティーヴンの体を正面玄関に押し出すようにして、二人はそろって寒い表通りに出た。
凍える冬だったが、青い空に太陽が出ていたので、呼気を冷たい大気に吐きながら、歩いて協議会の開催されるリンカーンズ・イン・フィールズに向かった。
「雪になると思うか?」何気なくクレーンが訊いた。
「まだだな。たぶん。雪になったらロスウェルに行けない?」
「しっかり備えておこう。メリックに任せればいい」クリスマスと新年の時期に二週間ほど、ノーサンプトンシャー州ロスウェルの近く、人里離れた場所にあるクレーンの狩り小屋に行く予定にしていた。狩りといっても、短身のシャーマン以外の獲物を狙うつもりはクレーンにはなかったが。
「メリックさんに少し申し訳ないと思ってしまうよ」スティーヴンが言った。「あんたが、えーと、忙しくしている間、あそこにいるのはものすごく退屈じゃない?」
「ロマンチックな旅行で、いの一番に使用人が退屈しないかを気にする男は君くらいだよ。メリックのことは気にするな。奴には奴なりの楽しみがある」
「田舎にも未亡人がいるの?」
「あまり深く立ち入らない方がいい。私はそうしている。協議会は君に何の用なんだ?」
「わからない」寒い冬を過ごすためにクレーンがどうしてもと買い与えたトップコートのポケットに手を入れた。贈り物を受け取るのが苦手なスティーヴンが望んだよりかなり高額の品だったが、クレーンが買いたいと思っていた物よりかなり安価だったので、どちらも納得をしていなかった。「昨夜エスターから、今朝二人で行くことになったと知らせがあった」
クレーンは眉をひそめた。「能力についての話か?」
「いいや。それは違うと思う。くよくよしないで」
「私はくよくよなどしない」気に障ったクレーンは言い返した。「それは君の方だ」
「僕が協議会の名前を出すたびに母鳥みたいに騒ぐのはあんただ」
「私は君たちの協議会を、嫌悪と不信と落胆とをもって見ている。常識的な人間なら誰でもそうするようにな。私の合理的な注意喚起がくよくよしているなどと思われるのは心外だ」
スティーヴンは愛情のこもった視線で見上げた。「大丈夫さ、ルシアン。僕はバカバカしいほど用心している。僕に言わせれば、春が来るまでにすべて忘れ去られているよ」
「君がそう言ってくれるのは嬉しいな」クレーンは乾いた声で言った。スティーヴンは自信をもって発言しているように聞こえたが、熟練の嘘つきなのだから、それはいつものことだ。
スティーヴンの協議会との問題はすべてクレーンが元凶だった。それはわかっていたし、そのことを嫌悪していたが、何ひとつできることがなかった。クレーンはカササギ王と呼ばれる強大な力を持った魔法遣いの子孫で、ヴォードリーの血筋はいまなおその力を受け継いでいた。本人は何の魔法も使えなかったが、その血と骨と精に宿った力は、スティーヴンの体と一体になった時、望んだわけでもないのに止めようのない魔法が発現するのだ。
この事実と、クレーンがカササギ王から受け継いだ旧い黄金の指輪の力とが合わさって、スティーヴンは二人の命を救う力を得たが、同時に疑いの目に晒されることになった。魔法の能力者の中には、能力を得るために罪を犯す者もいる。スティーヴンの仕事の大部分はまさにそれを防ぐことだったが、急に強大な能力を得た者はもれなく犯罪の疑いをかけられる。仕事のパートナーのエスター・ゴールドでさえ、一時はスティーヴンが他人の命を奪って能力を高め、魔道士になりつつあるのではないかと恐れた。エスターはいまや真実を知っていたが、スティーヴンには他の誰にもクレーンとの違法な関係を知られる覚悟はできていなかった。ましてや協議会に知られるつもりは毛頭ない。それ以上に、ヴォードリーの血統に隠された恐るべき能力は秘密にされるべきだと頑固なまでに言い張った。その血を利用しようとする者たちからクレーンを守るためだ。二度に渡ってその能力を狙った輩の手で死の危険あるいはそれ以上に悲惨な運命に直面したクレーンは、この意見に全面的に賛同していた。
協議会の疑いをそらせたというスティーヴンの言葉が真実かどうかはまったくわからなかったが、ある意味ではあまり気にしていなかった。仕事を追われ、不名誉に職を解かれるのはスティーヴンにとっては屈辱的かもしれない。でもクレーンにとって重要なのはどう仕事を辞めるかではなく、どうやったら頑固で天の邪鬼な小男を雨ばかり降って人に意見してばかりいる国から連れ出し、いまよりずっと快適でずっと脅威の少ない生活を始められるかだった。
その目的がすぐには実現しそうもないことを悟って、ため息をついた。「君が引き回されて晒し者になるのでさえなければ、いい」
「それはない」スティーヴンは心ここに在らずの様子だった。その意識は道の反対側に注がれていた。クレーンが視線を追うと、一人の大道芸人を観察していることがわかった。男は古びたシルクハットから小さなヒナギクの花束を取り出し、大げさに見せびらかしているところだった。道行く買い物客や通りすがりの事務員らが嘲りの声をあげた。芸人はわざとらしく傷ついた素振りを見せると、再度帽子の中を探り、今度は色とりどりの花が盛られた巨大なブーケを取り出して見せた。男は〝これではいかが?〟と媚びるような表情で観客に見せて回り、さざめくような笑いと感嘆の声を勝ち取った。
「問題か?」相手を見下ろしてクレーンは訊ねた。
「確認しているだけ」スティーヴンは何気なく道路の方に動き、馬車の後ろに体を隠した。クレーンも注意しながら後に続いた。冬の道路の泥や汚れがズボンに跳ねては困る。
二人は数分間、奇術師を観察した。男は腕がいい方で、それが奇術であるとすれば、手先が非常に器用だった。能力者の中には当代の熱狂的奇術人気に乗って技を利用する者がいて、協議会はおおいに問題視しており、審犯機構も目を光らせていた。二ヵ月ほど前には、超絶技で人気を集めていたナイフ投げの術者が肝心な時に集中力を切らして事故を起こすという不幸な事件があったばかりだ。その結果、この頃スティーヴンは奇術を見に劇場に通っており、クレーンがからかい半分で見守る中、明らかにそれを気に入っていた。二人はエジプシャン・ホールでの主な演目はもれなく見ていて、ベッドで本物の魔法を目の当たりにしているクレーンはどうにも昂奮することができなかったが、スティーヴンが熱心にトリックに見惚れる様子は、いつまで見ていても飽きなかった。
スティーヴンの体から緊張が解ける様子を見て、クレーンは眼前の芸は超常能力ではなく単なる技術の披露であることを悟り、懐中時計を一瞥してまだスティーヴンが予定通りにリンカーンズ・イン・フィールズに着ける時間であることを確認すると、仕方なく芸人と恋人と交互に目をやりながら、演し物の鑑賞に戻った。
奇術師はシルクのハンカチを指先に巻いたり被せたりしながら、ビリヤードの玉を幾つも増やして見せた。象牙色の球体が現れては消える。クレーンは技を眺めながらも、誰かの視線を感じた。辺りを見回すと、白いマフラーを巻いたボサボサの髪の男が画板に素早くスケッチを描いているのが見えた。
絵描きが顔を上げると、クレーンと目が合った。相手は一瞬目を見開くと、紙を返して描きかけの鉛筆画を見せた。クレーンの形のよい眉と高い頬骨を捉えた素描だった。
「似顔絵は、サー?」西部訛りの声で言った。「半クラウン」
一シリングくれてやってもよかったが、バカげた行為に思えた。鼻を鳴らした。最初から断られるのがわかっていたかのように、画家は紙を戻して描き続けた。
最後にひと盛り上がりあって、奇術師の演し物は終わった。スティーヴンは路上作家の傍に寄り、スケッチを続ける肩越しからしばらく覗き込んだ。
「よく描けていたよ」再び歩き出してから、そう告げた。「肖像を描いてもらったことは?」
「ない。やるべきなのかもしれないが、どうにもバカバカしい」
「あんたのような立場の人にとっては、義務なのかと思っていた」スティーヴンは一拍間を置くと、小さくつけ加えた。「描いてもらったらいいと僕は思う」
「では、描かせよう。なぜだ?」
「いや、どうしてかな。あんたを見るのは好きだ」
「私は直に見てもらった方がいいがな───」毎日のように死と隣り合わせで、失うことが日常になっているスティーヴンは、誰よりもそれを望んでいるはず。クレーンは心の中で自分に蹴りを入れ、軽やかに続けた。「そうだな。君は正しい。私にはこの美しい姿を後世に残す義務がある」
「僕はそうは言っていない」
「調べてみよう。でも、その時は君も描いてもらうのが条件だ」
「あ。えっ───」
「それが条件だ、可愛い人。私だって君を見るのが好きだ。君のことをちゃんと描いてくれる画家を探すさ」
スティーヴンは目を細めた。「それ、ミニチュア画家に関する冗談なんだったら……」
クレーンの大笑いにカササギが数羽路上から飛び立ち、二人は協議会までの道を共に歩き続けた。
サルディニア通りに出るとスティーヴンは笑顔で軽く手と手を触れ合わせてクレーンと別れた。それ以上は怖くてできなかったし、それさえも危うさを感じる行為だった。上海では、街中でキスをすることだってできる、そうクレーンは言っていた。あまりに常識外れな話で、スティーヴンにはにわかに信じられなかったが、想像せずにいられなかった。そんなことができたら、どんな風に感じるだろう。もしそんな場所に行ったら、自分にそんなことができるんだろうか。
〈そこまでだ、スティーヴン〉 意識を仕事に戻し、リンカーンズ・イン・フィールズの片隅にある赤煉瓦造りのこれといって特徴のない建物に向かった。英国の能力者を統治し、スティーヴンの安月給の供給元でもある協議会の本部のある場所だ。
到着するとパートナーのエスター・ゴールドが扉に向かっているところだった。挨拶に片手を上げると、疲れた様子の頷きが返ってきた。
「大丈夫、エス? 疲れているみたいだけど」実際ひどく顔色が悪かったが、相手をよく知っているスティーヴンはあえて正直に言うことはしなかった。肌は土気色で、疲労しきっており、髪の毛も弱々しくしなだれていた。「家で休んでいた方がよかったんじゃない? また吐き気がしそう?」
エスターはギロリとにらむような視線を向けると、唇をきつく結んで、大きく息を吸い込んだ。「その話はしないで。いったい何で呼び出されたか、心当たりはある?」
「ない。そっちが知っているかと思っていた」
「知らない」
「素晴らしいね」スティーヴンはつぶやいた。
目立たないながらも厳重に守られた扉を抜け、歴代の偉大な能力者たちの肖像が飾られた狭い廊下を進んだ。スティーヴンは、いつもそうするように、カササギ王を描いた彫版に目をやった。二百年前のスタイルの衣裳をまとったハンサムで高貴な男は、その貴族的な顔が明らかにクレーンに似ていた。エスターはからかうような一瞥を向けたが、何も言わなかった。
二人の審犯者はその後、前室でイライラと二十分間待たされることになった。ようやく入室を許されても、あまり気分は変わらなかった。出迎えた三人の協議会委員の姿を目にしてスティーヴンは気分が萎えるのを感じ、エスターは低いうなり声を漏らした。
テーブルの中央にいたジョン・スリーはスティーヴンが協議会、いやおそらく世界で最も嫌悪している人物だった。攻撃的で強気、口うるさく、言い争いが大好き、多様な意見は浮わついたナンセンスもしくは弱さの現れでしかなく、自分以外の専門知識を持つ者たちを残らず脅威とみなす男。審犯機構が能力者の自由を侵食していると信じ、すべての事件は協議会の俎上に載せられるべきで、目撃証言の一つ一つを疑ってみるべきだと主張し、新しい審犯者の任命には常に反対だった。
ジョン・スリーを嫌悪しているとすれば、二人目の協議会委員ジョージ・フェアリーは軽蔑の対象だった。生まれ育ちのいい腑抜けで、青白い唇の、自分自身の価値に不正当な自信の持ち主だった。この春、スティーヴンがクレーンの事件を託す能力者を探した時、高貴な生まれの自分こそが貴族の事件を扱うにふさわしい、と申し出てきた。「同類相求むだ」、失脚した弁護士の息子であるスティーヴンを見下して言った。フェアリーは訓練を積んだ審犯者でもなければ、感覚や技術面でスティーヴンが尊敬できるような男でもなかった。そして結局のところスティーヴンは、頑固なまでの義務感に突き動かされて、事件を手放すのを拒否したのだった。この拒絶は男を公然と辱めることになり、フェアリーはそのことを許したわけでも忘れたわけでもなかった。しかしその決断はクレーンの命を救って二人を結びつけたので、スティーヴンはもっと高額の代償を支払っても惜しくはなかった。しかし、フェアリーの敵意は時として障壁となり得る。どうやら今回はそうなりそうな雲行きだ。
三人目の協議会委員もあまり期待できる相手ではなかった。唇をすぼめ、半月型の眼鏡で二人を見つめるバロン=ショー夫人は、フェアリーと同じくらい家柄はよいが実務的にはよほど優秀で、完璧なる公平性を期待できる相手だったが、それは自分たちに非がない時の話で、その表情から、きょうはそうではないのが感じ取れた。
ここ数日の行動を思い起こし、どんな行為が協議会の注意を引いたのかと思案した。カササギ王の力、ではあり得ない。それなら一人で呼ばれたはずだ。とはいえ、少し体が凍えるように感じた。恐れに満ちたスティーヴンの人生の中で、クレーンとの恋愛関係をエスターとその夫に伝えた時ほど、怖いと思った瞬間はなかった。自分できちんと言葉にすることすらできず、臆病者の自分はルシアンの後ろに逃げ込んだ。協議会にそのことを説明するなんて……。絶対にありえない。
〈集中しろ、ステッフ。集まっているのはそのためではない〉
ジョン・スリーがわざとらしくペラペラとめくっていた書類から顔を上げた。「よろしい、遅くなった。はじめよう」遅れたのがスティーヴンのせいであるかのように煩わしそうな表情だった。「君たちの申し開きは?」
「何について?」エスターが訊ねた。「誰からも呼ばれた理由を聞いていませんが」
ジョージ・フェアリーがうなり声をあげた。「お前たちの浮浪児だ。コソ泥の小娘、何て名前だったか」
スティーヴンは硬くなり、エスターは怒りで息を吸ったが、二人が発言する前にバロン=ショー夫人が遮った。「それを話し合うためにここに集まったはずです、ジョージ。証拠はない。それから、審犯者の名前はセイント。たった五文字が覚えられないのなら、書いてあげましょうか」夫人はフェアリーに作り笑いをして見せ、相手がもごもごと何か言いながら視線をそらすと、眼鏡越しにスティーヴンとエスターを見つめた。「一連の窃盗事件について、聞いていないようですね」
「窃盗事件?」
「幾つかの裕福な住宅からの、比較的少額の窃盗事件」バロン=ショー夫人自身も大変な資産家で、最上流の階級に属していた。夫人は、クレーンがレオノーラ・ハートに引っ張られて参加した幾つかのパーティや政治家のサロンでクレーンと会ったことがあり、違法な魔法が使われた事件の最中、みすぼらしい教会で自分の隣にいる姿を目撃されたことも、スティーヴンは認識していた。二人のことをどう思っているのかが気になった。
夫人は目の前のデスクを指で叩いていた。「現金や宝石など小さな品が、四階や五階の部屋から消える。普通ならば入ることのできない窓からの侵入」
「二人の別々の目撃者が空を駆けて逃げる姿を見ている」フェアリーが湿った唇にいかにも満足げな笑みを浮かべて言った。「犯人は、空を歩いて行ったそうだ。そして、月曜の夜の目撃者は明るい色の髪の若い女を見たと言っている」
スティーヴンは相手をにらみつけた。「ジェニー・セイントが犯人だと言っているのか?」
「他に女性でブロンドの風駆け人を知っているか?」フェアリーは言い返した。
「いいえ」エスターは言った。「でも目撃者が間違えることがあるのはよく知っている。嘘つきもたくさんいる」
「なぜもっと早く知らせてもらえなかった?」スティーヴンが訊いた。「もしセイントが能力を濫用して罪を犯していると疑っていたのなら────」
「マクリディーのチームに知らせた」フェアリーが言った。
「マクリディー」スティーヴンは繰り返した。「審犯者チームに別のチームのメンバーを調べさせたというのか」こみ上げてくる怒りを感じて、両手を後ろ手に組んだ。「我々にひと言もなく、マクリディーにセイントを調べろと言ったのか?」
「だからいま、話している」フェアリーは当然とばかりの様子で応えた。
「これは完全におかしい。抗議します、サー」
「我々は協議会だ」スリーが重々しく告げた。
「私たちはセイントの指導官です!」エスターが言い返した。
「これまでのセイントの懲戒記録はよく知っているだろう?」フェアリーが遮った。「あの娘の規律違反を君たちは幾度となくかばって───」
「衝動的性格なだけだ」スティーヴンは言った。「泥棒ではない」
「泥棒だ。以前からそうだった。そもそも盗みを働いているところを見つけて、連れてきたんじゃないか。いったいどれほどの違反行為を───」
「それは過去のことだ。いまは審犯者だ」スティーヴンは歯を食いしばりながら話し、両手の指を固く絡ませた。協議会の建物の中での能力の使用は禁止されており、極めて厳格で、例外は許されなかった。フェアリーのような人間が壁の染みになってしまわないようにするためには必要な措置だ。「この件に関しては、僕かゴールド夫人以外が対応にあたることについて、断固として抗議する」
「決めるのは君ではない、デイ」ジョン・スリーは椅子に座り直した。「協議会だ。そうでなければ、公正な審犯とは言えない、そうだろう?」あざ笑うように言った。
「私とデイさんとでは、公正な対応できない、そうおっしゃる?」エスターの声は冷たい鉄のように響いた。
バロン=ショー夫人はエスターに片眉をあげた。「教えて欲しい、ゴールド夫人。チームの一員が犯罪者と知ったら、他の誰に対してもするように対応できると私に保証できますか?」
スティーヴンは背筋を冷たいものが走るのを感じた。エスターは自分とクレーンとの関係が犯罪だと知っている。それも何度も繰り返し、積極的に楽しんでいることも。過去数ヵ月の間、自分をかばって嘘をついてくれた回数は数え切れない。夜、自身の小さな部屋にいないことの言い訳、説明のできない能力の増幅。バロン=ショー夫人は、スティーヴンが以前から自分に関して流れていると知っている噂や冗談を聞いたことがあるだろうか? フェアリーのにやけた表情に意味はあるのか?
エスターの表情は驚くほど怒りに満ちていた。「もしセイントが盗みを働くために能力を使ったのだとしたら、審犯を受けさせる。でも、それは公平な捜査によって判断されるべきです」
「だから、それをやっているのだ」フェアリーが満足げに言った。
「いいえ、私が言っているのは〝公平〟な捜査であって、テーブルを囲んでくだらない噂話に耳を傾けることが仕事だと思っている人々による事前の決めつけ、ではない」
「エスター!」スティーヴンが叫んだ。
「何だと───」フェアリーが気色ばんで言った。
「ジェニー・セイントには任務で受けた傷跡がある、フェアリーさん」エスターは敵意をむき出しにして言った。「あの子はちゃんと働いている。あなたはいったいどれほどの仕事をしている?」
クレーンがワインを片手にカウチに寝そべってブラッドン夫人作の通俗小説を読んでいるところへ、疲れ切り、不安な表情のスティーヴンが帰ってきたのは、夜の八時頃だった。
「こんばんは」クレーンは顔を上げず、不満なのがわかるようにゆっくりとページをめくった。「早く帰ると言っていたんじゃなかったか?」
「もっと早く帰りたかったよ」スティーヴンはデスクからカササギ王の指輪を取り出すと首の周りのあるべき場所に留めた。「家に引きこもっていたいくらいだった。ほんっとにひどい一日だったよ、ルシアン」
スティーヴンが酒を注ぎに行くと、クレーンは本を閉じた。「何があった?」
最上のブルゴーニュをなみなみと注いだ。飲まないとやっていられない。「まず最初に、セイントが盗みの容疑をかけられた」
「あのセイントか? セイント嬢が?」
「残念ながらそう。四階や五階の高い所にある部屋から宝石類が盗まれる事件が数件あって、風駆け人を見たという目撃者が数人いて───というか、明るい髪の女が空を逃げていくのを見た、という証言があって。僕らの知る限り、セイントはロンドンにいる唯一のウィンドウォーカーで、ブロンドの女ということで言えば英国に一人しかいないから……」
「ちょっと待て。そんなことができるのか?」驚いた顔で、クレーンは訊ねた。「えらく高く飛び上がるのを見たことはあるが、実際に空中を歩けるのか?」
応えようとしたスティーヴンは、クレーンがセイントの技を見たのは地下室にいる時だけで、外での様子を見たことがないことを思い起こした。「そうだ。ウィンドウォーカーは、えーと、一秒ほどであれば自重を支えるほどの強さでエーテルを一点に集めることができる。ずっと浮かんでいることはできず、動いていなければならないが、その通り、空中を歩くことができる」
「能力者か」クレーンはうなった。「君たちには驚かされてばかりだ」
「そうだね。それで、そうなんだ、セイントなら高い階の窓へ駆けあがって盗みを働き、逃げ去ることも可能だ。可能だし、協議会委員フェアリーは当然行動に移すと信じている。街中で生まれ育った浮浪児だったのだから、いつまでもそうだろうと思われている」
「フェアリー。春に会った、湿った唇とさらに湿った手の持ち主の、あれか?」
「そう。自分より上の者には媚びへつらう男だ」確かクレーンは、おべっか使いのバカ者と言っていたな、とスティーヴンは思い起こした。この的確な表現を今度エスターにも教えなくては、と心に留めた。「僕は嫌われている。セイントも。実はエスターも」
「ゴールド夫人は手強い相手だ」クレーンが指摘した。「で、そのウィンドウォークというのはかなり稀なのか? 君も能力を隠していたりはしない?」
「まさか、そんなわけがない。極めて珍しい能力だ。僕が知っているのはセイント、いまやリュウマチを患っているばあさん、ヨークシャーにいる飲んだくれの男、それに南方の海岸で集中力を切らして断崖から落ちて両脚が粉々になった気の毒な男、そのくらいだ。他にもいるとは思うが、数は多くないし───」
「それに、君の知る限り明るい髪の女性は他にはいない、ということか」クレーンが続けた。「セイント嬢にとっては不利な状況だな」
これがクレーンを愛している理由の一つだ、スティーヴンは思った。他の男だったら慰めの言葉を口にして、スティーヴンは元気が出たふりをしなければならなくなるだろう。クレーンは違った。
ソファの反対端に座り、両脚を上げてクレーンの膝に置いた。「そう、不利な状況だ。贅沢な子ではないし、僕らの給料はあまりにも安いが、それでも……そんなはずはない。確固たる証拠がない限り、有罪にはさせない。一度悪名を取ったら最後などとは言わせない。様子を見守るつもりだ」スティーヴンはため息をついた。「さらに状況を悪化させたのは、エスターが協議会と大げんかになったことだ。フェアリーは既に有罪を決め込んでいたが、ジョン・スリーまで敵に回した。話したよね、審犯機構に文句をつけているバカ男。状況はさらに悪化した。エスターは体調があまりよくなかったみたいなんだ」ワインを一口煽って、勇気を出した。「で、ルシアン……」
クレーンは眉をひそめた。「何だ?」
「エスター。体調が悪い理由。きょう面談の後で教えてくれたんだ。デキちゃったんだ」
「デキたって何が? ああ、そういう意味か。それ自体はいいニュースだろう、違うのか?」
スティーヴンは渋い顔をした。「問題は、僕が知る限り、エスターはこれまで三度流産しているってことなんだ。どうやら、激しく能力を使うことと関係しているらしい。前は昨年の冬のアンダーヒルの事件の後だった。それでダンはエスターに、次回は即座に仕事をやめることを約束させたんだ」
「それがいま、なんだな」
「そう。ひどく辛そうだ」スティーヴンは今朝の面談の後、吐いているエスターの髪を押さえる羽目になったのだ。できればもうそういう状況に居合わせたくなかった。
「それで……?」
「それで、すべてがうまく行ったとしても、どうやら来年いっぱい、僕は一人で持ちこたえないといけない。気分が悪くなくなっても、エスターは能力が使えない。使って、赤ん坊を失うことになったら───その危険は冒すべきじゃない」
「もちろんそうだな。おめでとうと伝えてくれ。代わりに誰が来る?」クレーンは一拍間を置いた。「誰かに助けてもらえるのだろう?」
スティーヴンは、話す必要のない問題点を指摘する鋭さを恋人が持っていなければよかったのにと思った。「誰に? ロンドンには僕とエスを含めて審犯者は七人、四人はまだ格下で、その内の一人がセイントだ。ここ数年、協議会は新たに審犯者を任命するのを拒否してきた。昨年の夏、アーバスノットを失っても、だ。エスターは自分の代わりに誰かを立てて欲しいと依頼していたが、それも時間切れだ。先週は一日四回、吐いていたそうだ」スティーヴンは力なく両手の平を開いて見せた。「僕が肩代わりする以外、方法がない」
「君一人でか?」クレーンは両眉を寄せた。「クリスマスはどうなる? ロスウェルは?」
「えーと、それも、無理かもしれない」
「何だそれは───」クレーンはスティーヴンの脚を押しやると猛然と立ち上がり、ワインをもう一杯注ぎに立った。
「聞いて、僕だって行きたい」スティーヴンはその背中に話しかけた。「あんたと一緒にあそこにいる以外に僕がいたい場所なんてない。でもエスを助けないと」
「そのために自分の人生を犠牲にするのか。またしても」
「エスは僕のために懸命に努力してくれた、それはあんたも知っているはずだ」本当は謝るべきだとわかっていたが、気持ちが高まった。クレーンは上流社会での存在感が高まるにつれてロンドンでの生活の制約に明らかにイライラが嵩じているようだった。ロスウェルへの旅とそれに伴うプライバシー、肩越しに周りを気にしないでいられること、クレーンが過去二十年間楽しんできてスティーヴンが味わったことのない自由、それを切望していることはわかっていた。クレーンと同じくらいスティーヴンもそれを望んでいた。でも、エスターのためなのだ。「僕にかけられた魔道士の疑惑を振り払うため、大嘘をついて協議会を説得してくれたんだ。ここで過ごしているすべての夜について、僕をかばってくれて、セイントやジョスが、僕が自分のベッドにいないことへの疑問をそらしてくれている。僕には借りがある。何もしないで諦めるわけにはいかない」
「それはわかるが、人生すべてを犠牲にするほどの借りではない。それこそ私にはそんな借りはない。私にだって影響がある話なんだぞ、まったく」
「あんたをがっかりさせたくもない」スティーヴンは立ち上がり、なだめるように一歩間合いを詰めた。「二週間出かけることはできないが、仕事に没頭していなくなったりはしない。約束する。できる限り、ここに来る。どうかわかって欲しい。僕に選択肢はないんだ」
「あるね。君は審犯機構の血まみれの祭壇で殉教者になる道を選んでいる。自分の命を賭けて世界を守ることを選んで、そのせいで私まで巻き込まれている」
「そうだけど、僕がやらなかったら───」
「誰かがやる。代理のきかない仕事なんてないし、君がそう思っているのだとしたら、単なる傲慢だ」
スティーヴンは両手を上げた。「それじゃ、どうしたらいいんだ? エスターに仕事に戻って赤ん坊を危険に晒せと言えと? 八時から五時の間だけ働いて、その時間以外に起きることはすべて無視しろと? 魔道士や能力の濫用者や泥棒をただ野放しにしろと? どうして欲しいのさ?」
「私と船に乗って欲しい」クレーンは音を立ててグラスを置いた。「この惨めったらしい島から離れて、どこか暖かいところへ行こう。ギリシャとか。冬をそこで越して、コンスタンティノープルに渡って、そこからシルクロードを陸路で辿って中国に向かえばいい。あるいは君が望む別の場所でもいい。どこへでも。世界地図を開いて、どこか指さしてくれ。このクソったれの、ジメジメして独善的な海に浮かぶ岩の塊の外には、いくらでも広い世界があるんだ。一緒にそこへ行こう」
スティーヴンは自分の口があんぐりと開いていることに気づいた。口を閉じた。クレーンは苦笑いを浮かべた。「まぁ、質問に応えただけだ」
何てこと何てこと何てこと。スティーヴンは胃が締めつけられるのを感じた。「ルシアン……」クレーンが何か言ってくれることを願ったが、意地悪な相手は黙って待っていた。「僕は海外に行ったことがない」かろうじて出た言葉のあまりの情けなさに、動揺した。「そうじゃなくて───行ってみたいけど、本当に行ってみたいけど、でも……」でも何だ? 頭の中は物語本で読んだ漠然としたイメージでいっぱいだった。砂と絹、モザイクのタイルと尖った小塔、海に照り返す太陽。スティーヴンは船に乗ったことさえなく、誘惑があまりにも大きかったので、クレーンの言葉に頷いて冒険の旅に出かけることのできない理由を思い出すのに時間がかかったほどだ。「いきなり仕事を投げ出すわけにはいかない。僕は求められている。あんたにだって、わかるだろう?」
クレーンは半眼を閉じた。「もちろん、わかるさ。ブレイクの詩にあったな。心が作った手錠、だ。私にはそう思える」
スティーヴンは応えることができなかった。ようやく言った。「そんな風に言うのは不公平だ」
「そうか? 君はクソ審犯機構に身を捧げ、そこで殺されなければ、用済みになるまでこき使われて捨てられるだけだ。仕事は君のことを心配などしてくれない。私はしている」クレーンは片手を頭にやると整った髪型が少し乱れた。「ゴールド夫人を助けたいのはわかる。それは理解する。でも、いつだって理由ができるんだ、スティーヴン。いつだって君が助けるべき誰か、あるいは自分の人生よりも大切な使命が出てくるんだ。私には同意できない」
スティーヴンがさらに一歩前進すると、恐ろしく長い一秒の後、クレーンの両腕がやさしく体に回された。「辞められないよ、ルシアン。エスターが僕を必要としている時には。でも……元気になって戻ってきたら、また話をしてくれないか? どこかへ行こうって。いまこの大変な時期を乗り切れば───」
「その頃にはまた別の問題が出てくるに決まっている。ま、いいさ。また話そう。そういうことにしておこう」
スティーヴンはクレーンの腰に手を回してつかみ、恋人の声に内包された不満に対する深い恐怖を制御しようとした。いま言ったことを全部取り消して、一緒に船に乗る、勇気を出し縛られることなく大胆に、すべてから自由になって見せると言いたかった。クレーンを自分の臆病さで失望をさせたくなかったし、たび重なる不在で怒らせ、憎悪しているこの国に留まることでうんざりさせたくなかった。
でも仕事がある。行くことはできない。クレーンがそう望むのは不公平だ。
自分が行けないのは不公平だ。
「コンスタンティノープルが見てみたい」クレーンのシャツの前面に向かって言った。「たぶん。どんなところかまったく知らないし、地図で示せと言われてもできないけど、きれいな名前だ」
「それなら、シルクロードも気に入る。コンスタンティノープル、アンティオック、トレビゾンド、タイア。ダマスカス、バグダッドに、サマルカンド」クレーンは屈んで頭の上にキスを置いた。「いつかきっとだ、スティーヴン。そう遠くない未来に。いまのところは君をパリに連れて行こう」
クレーンの命令口調はスティーヴンにいまや馴染みとなった震えを呼び起こした。怒りと性的昂奮、その中間に位置する感覚。恋人の支配的傾向は原則としては気に入らなかったが、それを求める時もある。「連れて行ってくれる?」そう訊ねた。
「ああ」クレーンは事実を淡々と告げるように言った。「一日で行ける。三日の旅だ。来月のどこかで三日連続の休みを取ってくれ」
それはかなり疑わしいと思ったが、頷いた。「もちろんだ。できるだけ早くにね。助けも依頼する。協議会に人員増を要求する」
「本当に助けてもらえるのかな?」
その質問には応えたくなかった。十八ヵ月前にライムハウスで起きた事件で審犯者の一人アーバスノットが精神病院送りとなり、マクリディーはパートナーを失ったが、ジョン・スリー率いる協議会は財政難を理由に代理を雇うことを頑なまでに拒否していた。アーバスノットの入院費用と家族への手当が原因だと言い張った。エスターの休みの間、代理の審犯者を雇う費用が出るとはとても思えなかった。だが、いまそんな話はしたくない。
「もちろん、助けてもらえる」再び、力強く請け合った。「人員を補強するから、フランスに行こう」コンスタンティノープルと言っても同じことだったが、クレーンが満足げに小さく頷くのを見られたので嘘をついた甲斐があった。数週間経てば、おそらく何らかの打開策が見つかるだろう。
「約束だからな」クレーンは深呼吸して両肩を回した。「さあ、何か食べに出かけよう。君との時間を無駄にしたくない」
「確かにそうだね。コール・ホールに?」スティーヴンは値段が控えめな店の名前を出した。
「シンプソンズ・ディヴァンだ」クレーンは反対に高級店を提案した。
シンプソンズでの夕食はいつもながら料理もサービスも一流だった。スティーヴンはクレーンと二人でこの店でよく食事をしていることが気になっていたが、他にも二人で食事をしている紳士たちは数多くいて、完璧に普通な友人関係の裏に何かがあると想像する下衆な輩がいることなど、爪の先ほども思ってはいない人々なのだった。仕事の話はせず、レオノーラ・ハートの結婚式や政治関連の催事について話しながらクレーンの銀色の存在感をエーテルから吸収し、スティーヴンは体から緊張が解けるのを感じた。ほんの少しだけ。
やがてクレーンがコーヒーカップを横にやると言った。「では、帰るか?」端正な形の唇に物憂げな笑みが広がるのを見て、スティーヴンは勇気を奮い起こすことにした。何度もやってみたいと想像したことだし、長く、さんざんな一日の後だ。体が何か暴力的な解放を求めていた。そこで、何気なくテーブルに肘をついてエーテルの流れを捉え、クレーンの股間の周りの空気に触れ、手で握るような圧迫を加えた。
クレーンが目を見開いた。スティーヴンは表情を変えることなく相手の睾丸の周りに巻きついてやさしく握っては、みるみるうちに硬くなっていくクレーンのモノを上下するさざ波のような刺激を作り上げた。
「これは君か?」クレーンがかすれた声で訊いた。
「他に誰が?」
クレーンは必死で息を吸い込んだ。スティーヴンは両手の指先を合わせてエーテルの力を増幅し、クレーンの太ももの間を撫で、硬直した棹に血流が集まる脈動と、その震えるような昂奮を感じとった。
「わかった、もうやめろ」クレーンが歯の間から言った。「やりすぎだ」
スティーヴンは一瞬挑戦的な視線を送った。公の場であることは恐ろしかったが、自分が場を支配している感覚を、後で与えられることになる報復を愉しむのと同じくらい、愉しんでいた。
「やめろ」
「やめさせてみて」スティーヴンは囁いた。
「もしもこのスーツをダメにしたら、お前にどんなことをするか言ってやろうか───」給仕が近づいたので言葉を切り、小さく頷いた。「勘定を頼む。───冗談ではないぞ、スティーヴン、この部屋を歩いて通り抜ける必要があるんだ」
「お願いだ、と言って」スティーヴンは安全圏をかなり逸脱するほど大胆になっていた。
瞳に危険な約束を宿してスティーヴンを見ながら、クレーンは誰かに聞かれる恐れのないよう体を前傾させた。「お願いだなどとは言わない。このお返しにお前をバラバラにしてくれる、この売女が、そして十分以内に家に戻っていなかったら、街中でそうするぞ。さあ、もうやめるんだ」
スティーヴンは力を解いた。クレーンは何度か大きく呼吸をしてスーツを整えた。激しい昂りを抑えるのに相当な努力を要しただろう。会話をすることなくレストランを出て、部屋に向かった。冷たい空気が、期待でピリピリと感じられた。
ドアマンに会釈。最上階まで五階分の階段。扉の前でクレーンは今夜がメリックの休日であることを思い出し、扉を自分で開けなければならなかった。玄関ホールに入るとガスランプを灯すまで再度間があった。スティーヴンは思考でガス灯を点けると、少々ぎこちない動きで重いコートとスーツのジャケットを脱いだ。するとクレーンが振り向いて小柄な体を持ち上げて壁に叩きつけ、硬い体が強く押しつけられた。スティーヴンは両脚を恋人のすらりとした腰に回した。
「このクソったれの焦らし野郎が」クレーンは熱い息を耳に吐いて囁いた。「誰が主人なのかを思い知らせてやる」片手がスティーヴンの股間を探り、激しく、程よい痛みを伴う強さで握りしめた。「行って、裸になれ。ベッドで屈んで私を待っていろ」
「ずいぶんとお上品になったんじゃない?」スティーヴンが低い声で言った。「遠いベッドまで行くなんて。僕をファックできる立派な床がここにあるのに」
クレーンの目がスティーヴンのそれを捉えて意図を読み取ると、スティーヴンは一連の素早い動作で玄関ホールのカーペットに顔を押しつけられ、両手を後ろに引っ張られ、クレーンの片膝が背中に当てられた状態で動けなくなっていた。クレーンは前屈みになるとスティーヴンのシャツを乱暴に一気に引き剝がし、ボタンが飛んでいくのもお構いなしに布を腕の方向に引くと、両腕を動かせないようにした。袖を止めているのは誕生プレゼントだった金と琥珀のカフリンクだ。
クレーンはためらうことなくスティーヴンのズボンを引き下げ、テーブルの引き出しに手を伸ばした。と、スティーヴンはオイルに濡れた硬く細い指先が体に侵入してくるのを感じた。片手は慣れた手つきで尻の穴を指で犯し、もう片方の手はスティーヴンの硬直した器官がラグに擦れるよう尾てい骨を上から押した。テキパキとした動きで容赦なく受け入れ準備をさせたクレーンが突然手を離すと、スティーヴンは小さく声をあげた。
クレーンが立ち上がった。「待て」片足でスティーヴンの背中を押して起き上がられないようにしながら、クレーンは注意深くそして丁寧にホークス・アンド・チェイニーのスーツを脱いで、玄関ホールのテーブルに並べた。ジャケット、ウェストコート、ズボン。
「それで」ようやくクレーンが言った。「いま私のことを上品と呼んだか?」
足蹴にされ、昂り、期待感で緊張して、スティーヴンは横たわっていた。両脚を開かされ、間にクレーンが跪いた。腰をつかまれて下半身を持ち上げられると、いよいよもって何一つ抵抗ができない、なすがままの体勢になり、スティーヴンはまた息を呑んだ。クレーンのオイルに濡れた屹立が入口に押しつけられると、スティーヴンは小さな悲鳴をあげた。
「いまのは何だ?」
「お願い」スティーヴンは囁いた。「お願い、閣下……」
「もう遅い。警告はしたはずだ」
そう言いながらクレーンは激しく押入り、侵入される感覚にスティーヴンは背中をくねらせた。無視されるとわかっていてわざとらしく悲鳴をあげると、床からさらに体を持ち上げられた。クレーンは自らの大きさと力を存分に使い、根元まで挿入していた。スティーヴンの感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。挿入の擦れと燃えるような痛み、首で乱暴に揺れる鎖、周囲のエーテルの中に群れ集まってくるカササギの嵐。スティーヴンの魔法によって、クレーンの血の中に潜在する力が呼び覚まされているのだ。
「お前は居場所をわきまえるべきだ」クレーンが吐き出すように言った。「それがどこかはわかるな?」
「跪いているべきです、閣下。あなたの前に。ああ!」クレーンの腰が強く当たり、大きく息を吸った。「神様、お願い。もう十分だ」
「まだ足りない」クレーンはそう言うと、一切の遠慮を捨て、スティーヴンの体に激しく突き入れた。小柄な体は玩具のように床から跳ね上がった。同時にクレーンの片手が焦らされたスティーヴンの硬直を捉えると、それだけで限界を超えるのに十分だった。目眩がするほど激しい絶頂感に大きな悲鳴をあげると、床に倒れ、骨抜きになって震えた。クレーンは弱まっていくスティーヴンの悲鳴に合わせて幾度も突き入れ、自らも絶頂を迎えると、スティーヴンの体をその精が熱く満たし、カササギたちが羽ばたいた。
スティーヴンは熱い氷のように感じられる息を吸い込んだ。全身の毛が逆立ち、大きな流れとなって体を包む魔法を制御しようと努力しながら、一つ目と同じくらい素晴らしい二つ目の絶頂を味わった。胸と床の間に挟まった指輪は、スティーヴンの中と周りに渦巻くクレーンの血と精の力に反応して、熱く脈打っていた。その波動に体が震えた。
クレーンは満足しきったうなり声を上げてスティーヴンの背中に覆いかぶさり、その強力なエーテルの存在感でスティーヴンの視界は一瞬白と黒に染まり、相手の重さに文句を言おうにも息ができなかった。
「ふわぁ、よかった」クレーンはそう言うと、スティーヴンの巻き毛を片手でやさしく撫でた。「息はできているか?」
「できない。どいて」
クレーンが肘をついて体を避けると、スティーヴンは肺に空気を吸い込んだ。体を動かすと、首からするりと細い鎖が落ちるのを感じた。
「なんと」小さくつぶやいた。「切れた」カササギ王の指輪は肌に熱く感じられた。体を横に動かすと、クレーンの手がそれを探り、指輪と鎖を床からつまみ上げた。
「明日直させよう───これは」
「何?」
クレーンは壊れた鎖をスティーヴンの顔の前に垂らした。何が……。鎖の端を見て、焦点を合わせるために目を細めた。「いったい何が起きた?」
「君の方が専門だが、客観的に見る限りは、溶けてしまったようだ」
その通りだった。鎖の両端の小さな留め金は液体化して小さな塊と化していた。「これは……奇妙だ」
「いま、気にしなくてはならないほど、奇妙なことか?」
スティーヴンはこれ以上思考ができるとは思わなかった。ラグに向かって否定的な音を出すとそこに横たわった。筋肉は動かすことができないほど弛緩しきっていた。クレーンは指輪を居間のデスクの引き出しに仕舞うと、玄関ホールに戻ってスティーヴンを立ち上がらせた。「ベッドに来い」
よろめきながら寝室に入ると、スティーヴンはベッドに座った。クレーンが静かに悪態をつきながらカフリンクを取り外してシャツから恋人を解放すべく絡まりを解き始めた。
クレーンが作業をしている間、スティーヴンは鏡に映る自分の姿を眺めた。力の洪水を受けた瞳は黄金色に輝き、片頰はラグに擦れて赤く、全身火照っていて、青白い腰にはクレーンの力強い手の跡が残っていた。両手を後ろに回している姿はまるで売春宿の少年、それも安っぽい類のそれに思えた。その印象は後ろにいる刺青の男の存在によって一層際立った。想像して思わずにやけた笑みが浮かび、クレーンが顔を上げると、二人の視線は鏡の中で絡まった。
「大丈夫か?」
「うん」
「恐ろしいほど男娼っぽいな」
「ありがとう」
「あと、少し奇妙だ」カササギの刺青がスティーヴンの肩から胸に移動するのを見て、クレーンはそうつけ加えた。「その一羽はこちらに戻ってくると思うか?」
「ぜひそうして欲しいけど」スティーヴンは本心からではないながら、そう言った。クレーンの体を彩っていた七羽のカササギのうちの一羽が自分の肩に住処を移した時は正直言ってぞっとしなかったし、この意図せぬ贈り物を受け取るかどうか選択の余地が与えられていたならば、きっと拒否したことだろう。しかし自分の寒い居室で一人の夜を過ごす時、少し体をひねると目に入るクレーンの刻印、白と黒で体に刻まれたインクは、安心感を与えてくれた。ルシアンのものであるという一生の印。
クレーンは二つ目のカフリンクを外すとスティーヴンのシャツを剥いだ。「今夜は残れるのか?」
「六時には出ないと」
「では五時四十五分まではいられるな」クレーンが耳にキスをすると、スティーヴンは後ろにもたれて体を預けた。「妙な時間まで仕事をしているのだから、君の自由な時間には私の言うことを聞いてもらうぞ」
スティーヴンは安堵し、鏡に向かって微笑みかけた。「はい、閣下」
--続きは本編で--