(ためし読み)
KJ・チャールズ
一つは哀しみのため
二つは歓びのため
三つは女の子のため
四つは男の子のため
五つは銀のため
六つは金のため
七つは明かしてはいけない秘密のため
八つは海の向こうへの手紙のため
九つはとても誠実な恋人のため
一つは哀しみのため
二つは悦びのため
三つは女の子のため
四つは男の子のため
五つは富のため
六つは貧困のため
七つは雌犬のため
八つは売女のため
九つは葬儀のため
十はダンスのため
十一は英国のため
十二はフランスのため
第一章
暑い夏の夜、悪臭を放つ川から道を数本隔てたアヘン窟の三軒隣、ライムハウスのがらんとした小さな事務所で、クレーン伯爵ルシアン・ヴォードリーは荷積みの記録を確認していた。決して好みの夜の過ごし方ではなかったが、誰も好みなど気にしてはくれず、仕事は溜まっていたので、選択の余地なく作業していた。
中国の商人らしい偏見を持って推理しながら、不正をされているだろうか? ではなく、いったいどの行程で被害に遭っているのか? 書類を調べていく。もし何も痕跡を見つけることができなかったら、上海で仕事を任せている仲買人が思った以上に賢いか、あるいは誠実かのどちらかだが、クレーンには相手が格別誠実な男とは思えなかった。
鉄のペン先が紙を引っ掻いていく。ペンは実用的な安物で、簡素な事務所の、何の変哲もないデスクも同じだった。実際、部屋の中には富を示すようなものは、クレーンが身につけているスーツを除けば、何もなかった。そのスーツはいま座っている建物そのものより高価なものだ。
貿易商、時には密輸業者として、ルシアン・ヴォードリーは既に十分に満足できる富を築いていたが、思いがけず貴族の地位を相続したことで、伯爵の称号と共に莫大な財産をも継いでいた。中国での評判を聞いていないか、あえて無視することに決めた人々にとっては、いまや英国で最も結婚相手にしたい独身男性の一人であったが、今夜も招待された三つの夜会への出席を断り、クレーン伯爵夫人になることを熱望している若い女性に少なくとも三十人、会う機会を失っていた。自宅の書斎机の上にはさらに数十通の名刺や招待状、借金の申し入れ、面会依頼の手紙が積み重なっていた。それらの束はいわば、この国の最も特権的な上流階級への
通行証だった。
その気になればクレーンは、ロンドンで一番美しい女性たちを相手にし、最上の階級の人々と親しくなり、英国の
最高階層の一万人の中でも最上の数百人の仲間入りをして、人々が憧れ、どんな犠牲を払ってでも手に入れたいと思う者さえいる特権を自分のものにすることができた。それはほんの少しの努力で実現させることができたが、クレーンにとっては頭に銃をつきつけられでもしない限り、興味のないことであった。
クレーンは成人してからの半生を丸々
上海で過ごしており、相手にしてきたのは密輸業者や売春婦、博打打ち、殺し屋、売人、酔っ払い、シャーマン、画家、腐敗した役人、不良官僚、詩人、そしてアヘン中毒者などのロクでもない
輩で、その汗臭く、生き生きとした中毒性のある世界を、こよなく愛していた。生まれた家柄だけで人生のすべてが決まっている人々との礼儀正しい夕べや洗練された夕食会など、退屈極まりない。
そんなわけで、クレーンは数々の招待は断るなり、無視するなりしていた。上流階級とのつきあいに比べれば、四川唐辛子の積荷の一部がどこで盗まれたかを探求する方が、より有意義な時間の使い方だった。
同じ探求するのなら、小柄で滑らかな体で悦びを受け入れ、クレーンの夜の眠りを妨げる琥珀色の瞳の人物を追いかける方がよほど有意義だったが、いまはその選択肢はなかった。当の小悪魔がまたしても任務で姿を消したからだ。
スティーヴンの神出鬼没ぶりは、クレーンには新鮮だった。これまではいつでも、恋人を追いかけるよりも振り切る方だったし、自分よりも仕事に没頭するパートナーを持ったことはなかった。現在、商売がさほど忙しくないのも問題だった。忙しければ、スティーヴンがどこで何をしているのかを考えて過ごすことは少なくなるだろうが、仕事を増やすことは本格的に英国暮らしを始めることを意味し、そこまで自分の気持ちを持っていくことができずにいた。上海の貿易会社の運営は順調だったし、かの地での生活はいまよりよほど気楽で快適、そしてずっと面白かった。
もちろん、上海にはスティーヴンがいないという問題があった。しかし考えてみれば、
件の魔法遣いはロンドンにだっていやしない。二晩前、何も言わずに姿をくらましたまま、本人の都合のよい時に、また現れるのだろう。
そこに理不尽はなかった。スティーヴンは自立した人間だし、抱えている仕事上の責任はクレーンの国際貿易が趣味の暇つぶしに見えるほど重要なものだった。二人ともやるべき仕事があり、過去クレーンは仕事よりも自分たちの楽しみを優先させて欲しいとねだる恋人には我慢ができなかったので、スティーヴンに同じことを望むわけにいかなかった。ただ、明確にいつもと反対の立場にいることが少し苛立たしいだけだ。恋人が予期せぬタイミングで現れるのを待つのはクレーンの方で、不在の理由を聞いたならば、片側の口角を上げる挑発的な微笑みしか返ってこないのはわかっていた。
スティーヴンの極めて魅力的で誘いかけるような笑みを思い浮かべて、クレーンは暫しもっと楽しいデスクの使い方に思いを馳せた。問題の某君の小柄な体に手を触れ次第どんな風に扱うかを考えた時、簡素なデスクは圧力に耐えかねて壊れるだろうと判断を下すと同時に、仲買人の工夫を凝らした帳簿のどこに問題があるのかを発見した。
悪くないやり方だし、うまいかすめとり方だ、そう評価した。仲買人にとっては細心の手間をかけるだけの利益をもたらし、クレーンにとっては取引を順調に進めてもらう見返りとして認めてもいい程度だった。満足して、頷いた。この男に任せておいて問題はなさそうだ。
次の書類に手を伸ばすと、大きく扉を叩く音がした。
夜八時に建物内にいるのは一人だけだったので、面倒に思って無視をした。さらにしつこいノックの音、そして、鉄格子の開き窓に向かって呼び声がした。
「ヴォードリー! ヴォードリー! いや、クレーンか」訪問者は窓から中を覗き込んだ。「ほら、いるじゃないか。ノンハオ」
「
ノンハオ、ラッカム」そう言うとクレーンは扉を開けに立った。
テオ・ラッカムは上海での友人に近い存在で、クレーンと同様、同郷出身者と群れるよりも現地の社会を好む英国人だった。ラッカムは、力は弱いものの魔法の
能力者であり、数ヵ月前にスティーヴン・デイをクレーンに紹介したのもこの男だった。
「思いがけない訪問だな。調子はどうだ?」
ラッカムはすぐには応えなかった。部屋の中をうろつき、塗壁に貼り付けられた地図類を見て回った。「ここが本当にお前のオフィスか? てっきりもっといい場所にいるものだと思ったよ」憤慨しているかのような言い方だった。
「ここではダメか?」
「ライムハウスだぞ、ここは」
「私はライムハウスが好きだ」クレーンは言った。「お前だってそうだろう?」
「好きなんかじゃないさ。こんなところ、誰だって耐えられない。汚れた場所だ」クレーンは片眉を上げたが、何も言わなかった。「泥棒と荒くれ者と狂人たちの薄汚い溜まり場さ」ラッカムはそう続けた。「俺が金持ちだったら、こんな街には足を踏み入れないね」
〈では、どこでお前の大事なアヘンを手に入れるんだ?〉 クレーンは胸の中で訊ねた。ラッカムの瞳孔はわずかに収縮していたが、それはアヘン常習者の症状であると共に、能力者が力を使っている状態を示すこともあり、実のところどちらなのかは気にならなかったので、あえて判断するのをやめた。
ラッカムは恨みがましく続けた。「お前は金持ちだ。どうして金持ちらしくしない? どうしてウェストエンドの豪勢なパーティに出席しないで、ライムハウスくんだりで、あくせく働いている?」
「たまには、それらしくすることもあるさ。このスーツは
下町の商店街で作ったものではないぞ。でも私のビジネスはこの場所で動いている。シティでもない。ましてウェストエンドなど、縁もゆかりもない」
「だいたい、お前は商売をする必要なんてないじゃないか。これ以上金は要らないだろうに」ラッカムの口調はまぎれもなく非難めいていた。
クレーンは肩をすくめた。「正直を言うと、私は退屈している。ウェストエンドでは退屈はまぎれない。何かをしていなければ気がすまないし、私が得意なのは、貿易だ」
「ではなぜ中国に戻らない?」ラッカムは訊いた。「そんなに
英国が退屈なら、どうしてまだここにいる?」
「法務上の問題だ。父は資産をひどい状況で放置して死んだ。整理をするのに気が遠くなるほど時間がかかっていて、そうこうしている内に存在も知らなかった遠い親戚が何人も現れて、遺産分与を主張し始めた。なぜそんなことを気にする?」
「気にしているわけではない」ラッカムは履き古した革靴の先で壁のすそ板をなぞった。「例の問題はすっかり解決したのか?」
「春のアレか? ああ、もう大丈夫だ」
「デイが解決した」
「その通り」
クレーンは父親と兄を殺した呪いに悩まされ、ラッカムの紹介で、不正な魔法使用を取り締まる
審犯者、スティーヴン・デイと出会ったのだ。クレーンとスティーヴンは二人そろって殺される一歩手前まで追い詰められたが、最終的にはスティーヴンが凄まじい力を行使して事態を収拾した。その日、五人の命が失われたが、この事件が能力者の間でよく知られた話なのか、スティーヴンが秘密にしておきたい事柄なのか、クレーンには判断がつかなかったので、一言だけ加えた。「とてもよくやってくれたよ」
ラッカムは鼻を鳴らした。「そうだな。奴は優秀だと言える」
「一週間に三度、命を救われた」クレーンは言った。「とても優秀、と呼べると思う」
「奴が好きなんだろう?」
「デイのことか? いい青年だと思うよ。どうして訊く?」
ラッカムはクレーンのデスクの上の書類束の角をそろえることに集中していた。「つまりさ。お前は先週、奴とシェンズに行った」
「行ったさ」クレーンは認めた。「私があの店の権利を三割ほど所有しているのを知っているか? また一緒に行こうじゃないか。他に予定がないなら、今夜でもいいぞ」
おごりの誘いを断ることのないラッカムだったが、これに応えなかった。「デイはシェンズの料理を何と?」
初めての四川唐辛子にスティーヴンが示した反応を思い出して浮かびそうになった笑みを、クレーンは噛み殺した。「びっくりした様子だったよ。でもよく食べた。あんなによく食べる人間には会ったことがない」
「よく一緒に食事に行くのか?」
「礼に何度か夕食をおごった。何か質問に意図はあるのか? 実際、何か情報を求めているのであれば、彼のことはお前の方がよく知っていると思うがね」
「俺が知っているのは、奴がお前と同類だってことだ」ラッカムは言った。
「同類ね」クレーンは軽い口調を崩さなかった。「そうだな、二人は実によく似ている。まるで鏡を見ているかのようさ」
ラッカムは思わず笑いを浮かべた。スティーヴン・デイの赤みがかった栗色の巻き毛に対しクレーンはわずかに灰色を帯びつつある明るいブロンドで、肌は長年外気にさらされた赤銅色。魔法遣いは青白い皮膚をして、年齢は二十九だったがそれよりも若く見え、クレーンは三十七歳、何よりも、六フィート三インチ(約百九十センチ)の堂々たる長身で、スティーヴンより少なくとも十五インチ(約三八センチ)は背が高かった。
「外見が似ていると言っているわけではない」ラッカムは無用な説明をした。「俺が言いたいのは……お前と同じだってこと。お仲間さ」明確に意味が伝わるよう、上海語に切り替えた。「
断袖の愛、さ。隠すなよ、ヴォードリー。奴が
男色家なのは知っている」
「そうなのか?」相手がラッカムだろうが誰だろうが、クレーンにはこんな会話をするつもりはなかった。ここは英国で、
男色は不名誉であり、長く投獄される土地だ。「デイの指向に対する意見を聞いているのか? 私にもお前にも、まったく無関係のことだと思うが」
「シェンズで一緒に食事をしていた」意味ありげな視線を向けて、ラッカムは繰り返した。
「シェンズでは何人もと一緒に食事をしている。数週間前にはレオノーラ・ハートを連れて行ったが、そこに裏の意味があるようなことを言ったら、お前を断じて許さない。そういえば、
お前とも一緒に行ったが、握手以上のことはなかったと思うが」
ラッカムは怒って顔を赤くした。「もちろん、あるわけがない。俺はお前と同類ではない」
「それに私の好みでもない」クレーンはわざと性的な含みのある口調で言い、ラッカムが歯を噛みしめるのを見た。「まぁたとえ好みだったとしても、世間にそのことを公表するような真似はしないさ。それで、いったい何の用だ?」
ラッカムは気を取り直して言った。「お前を知っている、ヴォードリー。俺の前で聖人ぶったって無駄だ」
「私は誰に対しても聖人ぶったりしない。しかしスティーヴン・デイの私生活は私には関係ないので───」
「それは嘘だ」ラッカムは言った。
「私を嘘つきだと言うのか? もう応えなくていい。私は忙しいんだ、ラッカム。山ほどの船積み記録の確認と仲買人の尻尾をつかむ必要がある。ここに来たのは共通の知人に関してあらぬ話をするためではあるまい。何が目的だ?」
ラッカムは視線を外した。薄茶色の髪の毛には灰色が混じり、細い顔はむくれて疲れていたが、その様子はクレーンに拗ねた未成年を思い起こさせた。
「金を、貸して欲しい」窓の外を見ながら言った。
「借金か。わかった。いくらくらいの話だ?」
「五千ポンド」ラッカムの声はケンカ腰だった。視線を戻すことはしなかった。
クレーンは一瞬、言葉を失った。「五千ポンド」ようやく、繰り返した。
「そうだ」
「なるほど」クレーンは注意深く言った。「確かに、お前に借りがあることは認めるが、しかし───」
「では、返してくれ」
「現金で返すような類いの話ではない」その天文学的な数字は、給料のいい事務員の十年分の稼ぎに匹敵する額だった。「どんな条件での話だ? 保証はあるのか?」
「条件は考えていなかった」ラッカムは向き直り、視線が一瞬クレーンの顔を捉えたが、再びすぐに横に逸れた。「無条件の……借金をさせてもらいたいと思っていた。利子もなしで」
クレーンは表立って顔色を変えたり動いたりはしなかったが、皮膚の下の神経が燃え上り、この先の展開の予感に、怒りの発作の前兆と共に冷たい塊が腹の中に生まれるのを感じた。
「返すつもりもなく、五千ポンドの借金をしたいというのか? どうして私が同意すると思う、ラッカム?」
ラッカムは、今度は視線を合わせた。「貸しがある。俺が命を助けた」
「ずいぶん大きく出たな。お前は紹介をしただけだ」
「お前にデイを紹介した。貸しがある」
「五千ポンドに値する借りではない」
「デイとの関係を黙っていることに対しての貸しだ」ラッカムの唇は青白くなり、肌はじっとりとして見えた。「ここは中国ではない」
「はっきりさせよう。お前は私を脅迫しようとしているのか?」
「醜い言い方をするな」ラッカムは予想通りに返した。
「まさにお前にピッタリの言葉だな、このなまっちょろ顔のクソビョーキ野郎が」クレーンはつかつかと前進した。ラッカムより六インチ(約十五センチ)ほど背が高く、細身と言われることが多かったが、それは上背の高さから生まれる錯覚で、人々は怖いほど近くに迫るまでクレーンの体の大きさを実感することはない。
いまさらそれに気づいたラッカムは一歩退いた。「俺を脅かすな! 後悔するぞ!」
「お前を脅迫などしていない、この役立たずの臆病者。そうするつもりもない。脅かすのではなくただ両腕をへし折るだけだ」
ラッカムはさらに二歩下がって、片手を前に出した。「俺がお前を先に痛めつけるぞ。デイを破滅させる」震える指先を一本向けた。「二年の強制労働だ。お前は金を使って逃れることもできるだろうが、奴は終わりだ。恥辱にまみれ、不名誉に仕事を追われる。俺が滅ぼしてやる」
「何を証拠に? シェンズでの夕食か? 地獄へ落ちろ」
「奴はお前の部屋に通っている」ラッカムは自分とクレーンの間に椅子を挟むように移動した。「夜にだ。シェンズでの夕食の後、一緒に戻って、翌朝十時まで建物から出て来なかった。それに───」
「私を
監視していたのか」クレーンは信じられないままに言った。「この見下げ果てた野郎が」
「俺に触るな! 俺は奴を破滅させられるし、お前が少しでも乱暴したら、本当にそうする」
「できるものか。お前はあいつが恐いんだ。だから、このバカげた話を私に持ってきた。スティーヴンを脅かしたら、お前はあいつにドッグフードになるくらい細かくちぎられるからな、この間抜けで絶望的な
無能が」クレーンはありったけの侮蔑を込めて能力者に対する最悪の侮辱だと思われる言葉を投げつけた。
ラッカムの頰が色づいて、クレーンは一瞬相手が能力を使うと思って身構えたが、ラッカムは明らかに努力をして自分を押しとどめた。
「お前が何を考えているかはわかっている」相手の声は怒りで震えていた。「そうはさせない。お前が襲ってきたら、俺には身を守る権利がある。そうでない限り、俺からお前に能力を使ったりはしない。何と呼ばれてもな。お前の小さな男友だちは俺に触ることはできない。知っての通り、審犯者だって世間一般の法を守る義務があるし、
男色は犯罪だから、俺が言いたいことを言うのを奴には止められないし、黙っていて欲しいのなら、俺の金を渡してもらう!」
「お前の金ではない。私のものだ。お前に一ペニーでも渡すくらいならすべて弁護士にくれてやる方がマシだ。さぁ、出て行け」
ラッカムの目つきは狂暴になっていた。「
協議会に訴えてやる。デイのことを話す。警察にも話す。つい先月、準男爵が逮捕されたから、お前だって捕まる。奴らはお前の家名や称号なんて気にしやしない」
「私も気にはしていない」クレーンは言った。「なので、脅迫するならお前の言うことをサルのタマほど気にする相手を選ぶことを提案する。出て行け。あと、メリックに会ったらよろしく伝えてくれ」
「メリック?」
「メリックだ。知っているだろう? 私の従者だ」
「なぜ俺がメリックに会う?」困惑した様子でラッカムが言った。
「まぁ、実際に
会うことはないかもしれない。ただ近日中に、暗い路地裏か、深い
溝か、アヘン窟の隠し部屋で、奴の方がお前を見つける。それだけは間違いない。さぁ、出て行きやがれ、扉を閉じろ」
ラッカムの顔は当然ながら土気色になっていた。クレーンの片腕として知られる男は、上海の裏社会でも恐れられている存在だからだ。相手は何か言おうとしていたが、クレーンはイライラしたように片手を振って、デスクに戻った。数秒後、ラッカムは絞り出すように言った。「三日の猶予をやる。金曜日までに金を渡さなければ、協議会と警察に行く。もしメリックに会ったら、ど、どうするかというと……」
「ズボンにチビって情けを求めるだろうよ」クレーンは書類を一枚手にすると、注意をそちらに向けた。「だが心配するな。お前が気づかないようにするよう、言い聞かせておくよ」
ラッカムは何かブツブツ言うと、逃げるように立ち去った。クレーンは数秒待って扉がバタンと閉じる音を聞くと、大きく深呼吸した。
人生で脅迫を受けたことは一度もなかった。
確かに猥褻行為を理由に学校を三つ放校になり、法に反する性的指向のせいで十七歳にして国を追われたが、それは父親との戦争の一環で、常に自分を偽ることなく戦ってきた。以来、中国で、人の法も神の掟も、クレーンが誰とベッドを共にしようと一切気にすることのない場所で生きてきた。英国に戻って八ヵ月、ラッカムの脅しに屈するほど、暴露への警戒や迫害への恐れが身に染み込んではいない。
もちろん、英国に戻る時にこの問題について考えたが、船がポーツマスに着く前から、もし捕まるようなことがあったら必要な人間はすべて買収し、保釈金を払って、その足で中国行きの船に乗ろうと決めていた。無理なく可能だろうし、逃亡することに後ろめたさもなく、正直なところ、家に帰れて嬉しいだろう。
だがそれはスティーヴンと出会う前の話だ。たまらなく魅力的で、驚きに満ちていて、独善的なほど自立しているスティーヴン。その鉄壁の正義感で、敵も大勢いる男。
道義的に見て、スティーヴンを残して逃げるわけにはいかなかった。責任があった。
クレーンは眉をひそめて、これがどの程度の問題になるのかを考えた。この国で同性愛者の男が皆そうであるように、スティーヴンは慎重で用心深く、自分には危害は及ばないと言っていた。皆と同じように、自分もとりわけ問題を起こすことを好まなかったが、能力者の協議会は、魔法に関わらない些細な罪や誰も傷つくことのない個人の風変わりな嗜好は黙認している、と語っていた。一般の法律の問題は、自分の能力で何とでも対処できる、とも。
しかし残念ながらクレーンは、スティーヴンが躊躇なくかつ流暢に嘘をつくことも知っていた。自分の身に及ぶ危険については良心の呵責なく嘘をついただろうし、一方でラッカムは十分脅迫に足る確証をつかんだと信じている話しぶりだった。
一刻も早くスティーヴンにこのことを知らせる必要があった。
クレーンは怪しまれない内容の呼び出しの文言をメモに書き綴り、スティーヴンの住むオルドゲートの北の小さな下宿屋の住所を表に記した。下宿を訪れたことはなかったし、無用な疑いを避けてこれからも足を踏み入れる機会はないだろう。このメモがスティーヴンの人生を破滅させるとは思えない。だが、もしそうなる可能性があるのであれば、ラッカムの問題はさらに緊急性を増すことになる。居所不明の恋人との連絡方法は他になかったので、クレーンはとりあえずすべてを胸の奥に押しやり、事務所の戸締りをすると、辻馬車と気晴らしを探しに外に出た。
メリックがたぶんライムハウスにいるだろう。そうでなければ中国人の友人たちがきっといるが、探し出すにはパブや賭博場を訪ねて回らなければならず、今夜のクレーンは独りで、身なりが良すぎるため、その危険は冒せなかった。英国の友人たちは学生時代か社交的つき合いの知り合いだけだが、クレーンが嫌悪するエレガントな催し物を楽しんでいることだろう。そんなわけで、他にすることもなかったので、
極東貿易クラブ、通称トレーダーズへ向かうことにした。
第二章
トレーダーズを訪れるのは旅行好き、商売人、それに一握りの探検家や学者たち───インドより東へ旅をしたことがあって、そのことについて話し合いたい者たちだった。さほど賑わってはいなかったが、旧知の中国貿易の関係者が何人かいたので、クレーンはその仲間に入ると、革張りのゆったりとした肘掛け椅子を引き寄せて、上等のウィスキーを楽しみながら、〝タウン〟・クライヤーの語る最新の話題に耳を傾けた。
その本名はとうの昔に忘れていたが、タウンがマカオの輸出入法に関連した三者取引について話し終えると、一同が納得して頷いた。そして今度はクレーンに水を向けてきたので、シェンズの所有権の一部をとある経緯で買い取った話を面白おかしく話して聞かせた。
「それはいい話だな、ヴォードリー!」ジャワの貿易商人、シェイコットが言った。「というか、クレーンだったな。お前の話はいつでも面白い。もっと顔を出せよ、最近来ていなかったじゃないか」
「家族の関係でクソ忙しかった」クレーンは同調する面々に感謝しながら言った。「最近の様子はどうだ、タウン? 聞かせてくれ」
「そうだな」タウンは考え深げに言った。「マートンのことは聞いたか?」
クレーンは一瞬不快げに唇をひねった。「奴がどうした? 船に乗って、旅立ったか?」
「最後の旅路さ」シェイコットが重々しく言った。「死んだんだ、先週」
少し酔っ払った様子の年若の日焼けした男が、つぶやいた。「なんと、気の毒に。えーと、献杯を……?」そう言って、グラスを掲げようとした。
「俺はマートンのためになど飲まない」抑揚のない声でハンフリスが言った。上海の商人の一人で、クレーンが仕方なく我慢するのではなく、前向きに好ましいと思う数少ない商売仲間だった。
「死んだことを祝って一杯やってもいいぞ」クレーンはつけ加えた「事故か、それとも怒り狂った親の一人がとうとう奴に復讐したのか?」
「事故だ、銃の手入れをしていて」タウンは意味ありげに咳をした。
「クソ野郎というだけではなく、臆病者だな」ハンフリスは侮蔑を込めて言うと、急にクレーンの方に目をやって顔色を変えた。クレーンの父と兄が揃って自殺したことを思い出したのだ。「すまない、ヴォードリー、悪かった。俺が言いたいのは───」
「まったく気にする必要はない」クレーンは手を振った。「どうであれ、お前と同感だ」
「いや、本当に済まなかった」ハンフリスは話題を変えようと話を振った。「そうだ、ウィレッツについては聞いたか? ほら、コプラ(訳注:ヤシ油の原料)の取引をしている。新聞を読んだか?」
「いや、何があった?」
「殺された」
「なんと」クレーンは椅子の上で体を起こした。「本当のことか? 犯人は捕まったのか?」
「いや、誰も。ポプラー地区の川沿いで発見された。ナイフで刺されたらしい。追いはぎだ」
「災難だな。かわいそうに」
「二週間の内に、ウィレッツとマートン」シェイコットは引き続きもったいぶった口調だった。
「そうだな、この調子ではトレーダーズのメンバーリストは薄くなってしまいそうだ」クレーンは無感情に同意し、そこにタウンが言い添えた。「トレーダーズの呪いだな」
「笑い事にするな、諸君。俺の聞いた話によれば、だな───」シェイコットはこうした発言が招くイライラした反応を無視して、話を始めた。死んだ男の一人、ウィレッツのよくしていた、犬ほどの大きさのネズミが登場する長々とした奇譚で、クレーンはこれまでに何度か聞いたことがあったが、面白い話をしている時でさえもシェイコットはつまらないという感想を持った。そのまま、帰宅したらベッドにスティーヴンが丸くなって眠っているのではないか、その時はどんなことをしてやろうか、と一人夢想に
耽った。ハンフリスがタイムズ紙を目の前で振りかざして初めて、現実に引き戻された。
「聞けよ、ヴォードリー! これを知っていたか? 婚約のコラムを見たか?」
「残念なことに、まだきょうは読んでいないよ。お祝いをして欲しいのか、モンク?」
〝モンク〟・ハンフリスはクレーン同様〝結婚しない男〟で、それはクレーンと違って生来の独身主義によるものだったが、ムッとした動作を見せて否定した。「俺じゃない、このバカ。レオノーラ・ハートが結婚するぞ」
「まさか!」
「お前、聞いていないのか?」タウンが言った。「少し前に噂を聞いたぞ。どうやら相手はぞっこんだそうだ」
クレーンは新聞をつかみ取ると問題の記事を調べた。「
イードワード・ブレイドン? そもそもこの名前はどうやって発音するんだ?」
「エドワードと読むのさ。政治家で、議員。改革主義者。汚職を嫌悪している。名誉の売買や聖職者特権やあくどい買収の横行を許さない。善良な官僚だ」
この一言に不穏な囁きが交わされた。そこにいるほぼ全員、買収は便利な道具か税金の一種と考えていて、全員が国籍を問わず役人が嫌いだった。
「彼女はハートについて話したと思うか?」ペイトンという名の嫌われ者が、鼻で笑いながら言った。「上海で奴が買収しなかった官僚は一人もいないくらいだった」
「ハートはいい男だった」クレーンは言った。「比べられるブレイドンは大変だ」
「ハート夫人が再婚しなかったのはそのせいか? ハートの素晴らしい思い出のためか?」ペイトンの声はせせら笑いだった。「
俺の聞いた話では、シンガポールの男とスキャンダルがあったらしい。タウン、お前は知らないか───」
「トムとレオノーラ・ハートの二人は、私の一番の親友だった」ペイトンと目を合わせて、クレーンが遮った。「トムには何度となく命を救われた。彼の死でレオは深く傷ついた。もし再び結婚する気になったのなら、彼女にとってとても喜ばしく思う。君たちの中にくだらない噂話を広めようと思っている者がいるなら、ぜひとも控えてもらいたい」ペイトンは顔を赤らめた。「もちろんレオには私の庇いだてなど必要ない。自分の評判は自分で守れる」クレーンは部屋の他の会話が途切れるほどの強い声で話し続けた。「ブレイドンも彼女を守るだろう。ただし、これだけははっきり言っておく、レオノーラ・ハートの悪口は私個人への直接的な攻撃と受けとめる。ブーツの先で口の中に押し込んででも、話した奴に言葉を撤回
させる」
「俺も手伝うよ」モンク・ハンフリスが言った。
「サー、叔父に対してその言い方はない」少々乱暴に立ち上がって、若者が言った。
「私も君の叔父の言い方が気に入らないから、おあいこだな」クレーンも立ち上がると、わざと時間をかけて威圧的に若者を見下ろしてから、
酒瓶のスタンドにウィスキーを注ぎ足しに歩いた。この間にモンクと仲間たちが、座って静かにしていろと若者をなだめた。ペイトンの鼻にかかった声で〝恥知らず〟、〝無法者〟といった言葉が聞こえた。他の者が〝怒らせたら怖い〟〝あの恐ろしく乱暴なメリック〟と応えた。それら自分に関するわかりやすい分析が若者の憤りを抑えるのに十分だと判断すると、朝になったらレオに何がどうなっているか訊いてやろうと考えながら、クレーンは椅子に戻った。
スティーヴンは両腕を広げて裸で寝そべっていた。
カササギ王の指輪が淡い光を放ち、かぎ爪の形に曲げられた手指を照らしている。赤みがかった巻き毛の陰部から硬く立つモノは絹のように濡れ、意味のとれない言葉を発しながら許しを乞い、悶えながら身をよじらせる。
「どうか、どうか
閣下」クレーンが小さく柔らかい体の入口に自分自身を押しつけると、スティーヴンは泣き叫んでいた。
「どうか、何だ?」クレーンは訊いた。その先端をスティーヴンの尻の穴に撫でつける。「
何のお願いだ?」
スティーヴンは吠え声をあげ、背を反らせてクレーンに自らを押しつけた。「お願い、閣下!」
クレーンは男の両肩をベッドに強く押さえつけた。「さぁ、言ってごらん、
可愛い子」
「あんたのものにして。僕を飛ばして。カササギを飛ばして」
「飛べるさ」スティーヴンの体の暗い熱さに突き入ると、恋人の肌の上で鳥たちが羽ばたき、黄褐色の目が白と黒に瞬いた。七つの
刺青の鳥が静かに羽を動かし、啼き声をあげると、やがてスティーヴンの広げた腕から羽根が広がり、二人の周りをカササギが騒がしく飛び回った。「
飛べ」もう一度言うと、カササギが啼き叫ぶ中、激しく熱く絶頂に達した。
クレーンが目を覚ますと、一人きりのベッドでシーツに絡まり、汗をかき、一瞬混乱をしたが、腹に間違えようのない粘り気のあるヌルヌルした感触を感じた。
「ファック」声を出して罵ると、夢を振り切るかのように、頭を熱い枕の上に落とした。
最後に会ってからまだほんの数日じゃないか。こんな年になって夢精とは、呆れたものだ。だいたい、カササギたちに関しても、そろそろ我慢がならなくなってきたところだ。
自身には魔法の能力は一切ないのだが、クレーンは強大な力を誇った魔法遣いカササギ王の直系だった。理解のできない何かの力でクレーンの血、そして体は、先祖の持っていた能力とスティーヴンの能力の触媒となるのだ。その最も不可思議な副作用は、クレーンの体の七つのカササギの刺青だ。二人がファックすると、カササギたちはまるで命を持ったかのように飛び跳ね、二人の肌の間を行き来するのだ。その内の一羽はスティーヴンを気に入ったらしく、その背中に棲みついてしまい、クレーンは鏡を見るたびに刺青があるべきところにぽっかりと無傷の肌が覗いているのにギクリとし、一方スティーヴンは刺した覚えのない刺青を背中に抱えることになった。恋人の夢までうるさい鳥たちに奪われたのではたまらない。
逃げ去った刺青が翼を広げていた肩に触ると、カササギと、夢と、不在の恋人に対する罵りを口走りながら、粘り気のないシーツ面に体を動かし、再び眠りについた。
第三章
翌朝、十一時まで待ってもスティーヴンから音沙汰はなく、クレーンはレオノーラ・ハートを訪ねた。
およそ二十年前、初めて出会った頃のレオ・カラスはお転婆な十五歳の少女だった。父親は貿易商で、母親は亡くなって久しかった。幼い頃から上海の街を走り回り、取引所や商人の館に我がもの顔で出入りし、周りの若い男たちと同じくらい流暢に英語、スペイン語そして上海語で悪態をつくことができた。十七歳で突如美女に変異した少女を、父親は大量の資金を後ろ盾にロンドンの社交界へ送り込んで成功させようと準備していた。ところが、ルシアン・ヴォードリーを除くすべての人々が呆気にとられる中、十八歳のレオノーラはトム・ハートと駆け落ちした。怪しい噂があり、父親にとって結婚相手として何の魅力もない四十二歳の絹商人だった。
ルシアン・ヴォードリーが驚かなかったのは本人が駆け落ち計画の相談をしてきていたからで、実際レオが逃げ出した夜、カラス邸の門番たちを黙らせるという型破りな結婚付添人の役目を、メリックと共に果たしていた。
相談されて迷いなく手助けをしたのは、やさしさとほとんど縁のない生活の中、トム・ハートは親切だったからで、当時二十二歳のクレーンには二十三歳まで生き延びられるあてがあまりなかったせいもある。クレーンが、いかにも不釣合いの二人だったと冷静に判断して後悔ができるくらい分別がつく年になった頃には、二人が一つの魂を共有する間柄であることは明らかだった。
トム・ハートは八年ほど前に心臓発作で死んだ。レオノーラは悲しみに気が狂わんばかりになり、何も食べず、浴びるほど酒を飲み、滅多なことでは驚かない人々を驚かせるような奇行に走ったりした。
その時の気がふれたような未亡人の痕跡も、以前の少年のような少女の面影もいまはなく、レオノーラ・ハートは美しい三十四歳の女性になっていた。背が高く女性らしい曲線美のある体格で、豊かな黒髪に印象深い茶色い目、高い頬骨に、肌は出自を噂されることのない程度に、エキゾチックと呼べる濃さだった。きょうは秋色の瞳を引き立てる淡いオレンジのシルク地をまとい、美しく、優雅で、洗練されていた。この二ヵ月滞在しているという、古風で過剰な装飾を施された叔母の家の客間には、不似合いな存在だった。
「レオ、ダーリン、素晴らしく美しいな」クレーンは言って、とった手を唇で素早くなぞった。
レオはクレーンの体を引き寄せて抱きしめた。「この腐れ貴族。称号を受け継いだかと思ったら、今度は紳士気取り? 次は何、クレーン夫人とヒヨッコが何匹か出てくるわけ?」
「そんな言い方をするな、勘弁してくれ。というか、巣を作っているのはそっちじゃないのか? なぜ教えてくれなかった?」
「ああ、天の神よ」レオノーラはぐったりとした様子で言った。「タイムズ紙を見たのね。エドワードには
いくら文句を言っても足りない」
「でも、婚約は本当?」
「ええ。まぁ、そうね。でもまだ公開するつもりはなかった」
「なぜダメなんだ?」
レオノーラは椅子を指し示し二人は隣り合わせに座った。相手が顔を近づけるように身を乗り出したので、クレーンも同じく近づいた。家に住む英国のいとこ達がレオより遥かに格式張っていることを知っていたので、レオノーラが上海語で話し始めた時には驚かなかった。
「エドワードがとても好きなの。結婚したいと思っている。本当よ」レオノーラは両手の指を絡ませた。「私がどうしてヤン・アールと結婚したかは知っているでしょ?」
「あれはトムが死んでちょうど一年目で、その週の君は飲み続けていたし、ほぼ同じくらいの時間アールと一緒にベッドにいて、自殺するよりはマシだと思ったから。最良の選択とは言えなかったが」
「そういうやさしいところが好きよ、ルシアン」レオは皮肉めいた調子で言った。「でもあなたにはわかるわよね。あなたはトムを知っていた。私たちがどんな風だったかも知っていて、私がどう育って、上海がどんなところかも知っている。こことは全然違う」
「違うな」
「それにエドワードはトムと違うの」レオノーラは続けた。「もし似ていたら、愛せなかったと思う。彼は───道義的に正しい人なの。言っている意味がわかる? 嘘をつかない。自分の中にとても高い基準を持っていて、その通りに生きている。私を裏切って、がっかりさせるようなことはきっとない」
「そうか。トムとは違うな」
「ええ」レオは懐かしげに笑顔を作った。「トムは私が会った中で一番の無法者だった。友を裏切ることはないといつも言っていたけど……」
「時々トムを友だと思っていたのに、実は違ったと思い知らされる連中がいたな」
「そう! まさに。私はそんなトムを愛していた。でも、いまはもう年をとって、長い間一人でいたから……。エドワードは心底いい人で、尊敬できる。道義的な正しさについて、私がどういうことが言いたいか、あなたにはわからないかもしれないけど───」
「何があっても変わらない誠実さ。屈服するくらいなら自らを壊してしまうような人間。そこには一種の純粋さがある。魅力的なのはわかるよ」
「そう」レオは言った。「それが問題なの」
「ブレイドンはハートについて知っているんだろう?」
「もちろんよ。でも、あまり詳しい話はしていないの。私と駆け落ちしたことでトムがならず者扱いされたと思っているから、どんなビジネスをしていたかまでは話していない」
「アールについてはどう思っているんだ?」
「話してない」
クレーンは少しの間、言葉の意味を呑み込んだ。「婚約者に、二度目の結婚のことを話していない、と」
「ええ」
「二度目の結婚をしたこと
自体は?」
「話してない」
「なぜなら……?」
「なぜなら、アールとは結婚する前から既に寝ていて、結婚した時、私は酔っ払っていた。彼が私を殴った時、お返しに半殺しにして、行き先も知らない船に放り込んで、いない間に離婚した───から。どの部分を話してもエドワードは怒り狂うでしょうし、細かい話をしなかったとしても……」レオは深呼吸をした。「彼は離婚自体をよしとしない。どんなに正当な理由があって、どんなに合法的に行われていても」
クレーンはそもそもレオの離婚が合法だったかにさえ疑問があった。ご機嫌に酔っ払った判事の二言三言で実行されたからだ。「レオ、君は本当に結婚したいのか?」
「ええ。だから、彼には知る必要もないことよ。そもそも間違いだったんだし、もう終わったことなんだから」
「わかった。ではなぜ新聞の発表を恐れる? アールは君の人生とはもう無縁のはずだ。奴から連絡があったのか?」
「違う、違うの」レオは小さく言った。眉の間に悩みを示す細いシワが寄った。「違う。問題は彼ではないの」
「では、何が?」
レオノーラは顔を背けた。クレーンは、死刑執行の朝が来たかのように、状況を理解した。
「レオ、もしかして最近、テオ・ラッカムの訪問を受けたか?」
顔が途端にクレーンに向いた。「いったい、どうして───神様、まさかあなたも?」
「きのう、会いに来たよ」
「ああ、忌々しい。あのクソ男」レオノーラは唇を噛み、心配げな目を見せた。「気をつけて、ルシアン。このバカバカしい国は、何の躊躇もなくあなたを投獄するわ。どうするつもり? お金を払ったの?」
「まさか。地獄へ落ちろと言ってやった。脅迫に屈するくらいなら、いつでもこの島を出て行ってやると常々言ってきた。実際そうするつもりだ……」
レオがじっと顔を見つめた。「でも?」
クレーンはため息をついた。「でも、今回は私一人の問題ではない」
「それはあなたにとっての、道義的に正しい人?」
「どういう意味だ?」
「いやだ、ごまかさないで、ルシアン。話し方でわかるわ」レオは陰鬱な気分を振り払うように頭を振り、クレーンもよく知っている
わけ知りの笑顔を見せた。「言いなさいよ、誰なの? 私も会わせてもらえる? ハンサムなの? いったいいつからの話? まさか妻帯者じゃないわよね? 恋しちゃったわけ?」
「頼むから落ち着いてくれ」クレーンは笑いながら言った。「えーと……説明するのは難しいが、そうだな、特にハンサムというわけではないが、とても魅力的だ。つき合って四ヵ月ほど、結婚はしていない。そして……一緒にいるのが好きなんだ。道義的に正しい男、とは呼ばないな。でも、正しい男だ」
「その区別は面白いわね。メリックはどう思っているの?」
「気に入っているよ。好意を持っているし、尊敬していて、少し恐れているくらいだ」
「
本当に」レオは姿勢を正した。「メリックが恐れるなんて、どんな男?」
「だから、正しい男さ。レオ、きっと君も彼を気に入るよ。ラッカムはそう思っていないらしく、金を払わないと破滅させてやると脅かしてきた」
途端にレオノーラの目からかすかな笑いが消えた。「できるの?」
「可能性はある。話をしないと……。ラッカムとではない、彼とね。君は何を脅かされている?」
「エドワードに何もかも話すと言われている。アールのこと、結婚する前の週のことも、全部。エドワードに私が本当は離婚していないと話すと言われていて、知っての通り離婚を証明するのはとても難しいし、それができたとしても……。エドワードは離婚に反対、あの人は、神の前で誓ったことは人間の手で変えてはいけないと信じている。彼が私を愛しているのは知っているけど、このことがバレたら、私の許を去るわ」
「すべて否定すればいい」
「それもできるけど……。でも、本気で調べ始めたら……すべてが終わるわ。もう二度と信じてもらえない」その可能性を思って、レオの目は怯えに見開かれていた。
「そうだな」クレーンは不在のブレイドンに暫しの間、同情を覚えた。「レオ、一番真っ当な解決方法は、すべてを告白することだ。ブレイドンが君を許せば二人で一生幸せになれるし、許さなかった時でも、少なくとも事実ははっきりさせられる」
「いやよ」レオの声は平坦だった。「それはダメ。だいたい、何人もの人が毎日のようにやっている程度のことで、新しい人生をつかむ機会を逃すなんて、考えられない。七年前に間違いを犯したからって、尼のように生きなければならない理由はないわ。あなただって酔っ払って知らない人のベッドで目を覚ましたことはあるでしょう? ほら、あの将軍は?」
「その話はやめてくれ。反対はしていない。でも、私はブレイドンでもない。結婚してから判明しても、いいことはないぞ」
「だから、少し待ちたかったの」レオは言った。「でもエドワードは待ちたくないって。子供が欲しいのよ。トムとはダメだったと話したけど、それでも諦めたくないって」
「いいじゃないか。いったい、少し待って何をしようと思ったんだ? どうやって解決するつもりだった?」
レオは力なく肩をすくめた。「
わからない。どうしていいのか、わからないのよ」
「ラッカムにいくら払った?」
「三百ポンドよ、先週。もっと欲しいと言ってきた。明日来るって、今朝メモを送ってきた。新聞を見たに違いない」
「ふーむ」クレーンは眉をひそめた。「私には五千ポンドと言ってきた」
「
なんですって?」
「それに……聞いたか? マートンが死んだんだ。先週」
「いいじゃない」
「そうなんだが、レオ、自殺だったんだ。脅迫されるとしたら、まず一番は奴だ」
「そんな」レオノーラはゆっくりと言った。「つまり……ラッカムは金の卵を産むガチョウを殺してしまったので、次なるガチョウを探しているってこと?」
「もしくは、大至急大金が必要になったかだ。五千ポンドを集めるのに、金曜日までと言ってきた」
「誰かに追われている? 賭け事? それともアヘン?」
「私も同じことを考えた」
レオの濃い色の目がクレーンと合った。「誰に追われているか、つきとめられる?」
「午後からメリックが動く」
「どうしようと思っているの?」
「外国行きの船旅と十分な資金を渡す。追い詰められているのであれば、乗ってくるかもしれない」
レオノーラは疑い深げだった。「逃れられないような連中が相手だったら?」
「それもつきとめよう。心配するな、レオ。焦らせるようだったら焦らし、待てないようだったらもっと金を払え。一両日中にきっとどうにかする」
「どうにか……って?」レオノーラが訊ねた。
少しの沈黙があった。クレーンは言った。「わからない」
「トムならどうしたかははっきりしているわ」
「だな。それも考えた。メリックに後を追わせると脅かしもした。でも、私の───正しい男に、私から人を殺させた、とは説明できない。その危険は冒せない」
「脅迫者を殺すのは殺人かしら?」
「違うかもしれない」クレーンは言った。「もし他に打つ手がないのなら。でも、まだそこまでは至っていないさ」
--続きは本編で--