(ためし読み)
KJ・チャールズ
一つは哀しみのため
二つは歓びのため
三つは女の子のため
四つは男の子のため
五つは銀のため
六つは金のため
七つは明かしてはいけない秘密のため
八つは海の向こうへの手紙のため
九つはとても誠実な恋人のため
一つは哀しみのため
二つは浮かれ騒ぎのため
三つは葬儀のため
四つは誕生のため
五つは天国のため
六つは地獄のため
七つは悪魔その張本人
第一章
〈灰色のおぞましい苦痛が喉と心臓にまとわりつき、自分という存在の邪悪さに気管が詰まり、ひどい気持ち悪さに襲われた。羞恥心と自己嫌悪はどんなに悔い改めても無駄で、言葉に出来ないほど底なしだった。そこに存在を赦されたのはナイフと、赤く流れ出るものと、その先にある待ち望んだ空白だけ……〉
その声はひどく遠くから聞こえるように思えた。「
閣下? 閣下! ああ、なんてこった。閣下! この大バカヤロウ!」
強く一発、顔を
叩かれた。灰色の苦痛に苛まれる意識の端で、力強い手が体をつかむのを感じ、足を引きずられるようにして部屋の外に連れ出された。手首が痛かった。やり遂げなければ。
よろめきながら再びナイフをつかもうとすると、腕が体の後ろで捻られ、ぐいっと引っ張られてバランスを失った。
「外だ。こっちへ来い」体を押され、引っ張られ、前進させられる中、破滅への祈りが胸の中で繰り返された。考えることができたのは、ただひたすらこれを終わらせること、堪えられない罪と恥の意識を葬って、この世界から自分の醜い魂の
穢れを拭い去ること……。
頭の後ろを強くつかまれたという認識がうっすらとあった。途端、顔が氷のように冷たいヌメヌメした水に突っ込まれ、そこにしばらく容赦ない力で押しつけられた。汚い皿洗い用の水を肺いっぱい吸い込むと、胸の中で何かが弾けた。
クレーン卿は突然弱くなった頭を押さえる力を弾いて水から跳ね上がった。不明瞭な言葉を吐きながらも意識ははっきりしていた。大きく空気を吸い、膝をバネにして足を強く後ろに蹴り上げ、襲撃者の膝を狙って撃退しようとした。白髪混じりの黒衣の男は既に素早く飛んで後ろに下がり、攻撃するつもりはない、というように手を上げていたが、クレーンに警戒を解くつもりはなかった。
ほんの一瞬、攻撃態勢をとったが、そこでようやく自分の従者の手によって台所の
流しで半分溺れさせられかけたのだと気づき、大きく息を吐いて肩を落とした。
「また起きたのか」そう言った。
「ああ」
「
クソったれ!」頭を振ると、髪から灰色の水が飛び散り、瞬きをすると目から水分が流れ出た。
メリックが皿拭き用のタオルを放ってよこした。左手で受け取ると、動かした手首に走る痛みに小さく声をあげ、顔を拭いた。シンクに唾を吐いて濁った水と何かの苦い葉の味を口の中から追い出した。「畜生。またやってしまったのか」
「そうだ」メリックが少し控えめな調子で言った。「
疑いようがない。俺が見つけた時、お前は腐れテーブルナイフで手首を削っていたんだ、閣下。何をしようとしているか、一目瞭然だった」
「そういうことだな」クレーンが椅子を引くと、木でタイルをこする音がした。「頼めるか……?」左手を示した。シャツのカフは外れて、袖が折りめくられていた。こんなことをした覚えはなかった。これまでの時も、やはり何も覚えていなかった。
メリックは既にリント布と包帯を一巻き、そしてかなり香りのきつい揮発性のアルコールを一瓶用意していた。
「注いでくれるなら一杯もらうぞ。
痛っ」
「今夜はもうこれ以上自分を殺すのはやめておけ」メリックは強いアルコールで生傷を軽く叩いた。「ジーザス、傷が深い。もう少し切れ味のいいナイフだったら、成功していたかもしれない。閣下───」
「
何が起きたかはわからん。本を読みながら、そろそろ着替えようと思っていた。こんなことをするとは……」右手を空に所在なげに振っては、古びた机の上に叩きつけた。「クソったれ」
台所は静寂に包まれた。メリックは血まみれの手首に注意深く包帯を巻いた。クレーンはテーブルに右肘をつき、右手で頭を抱えた。
「もう、どうしていいのかわからん」
メリックは太い眉の下からじっと視線を送りつつ、作業を続けた。
「どうしたらいいんだ」クレーンは繰り返した。「もう、これ以上は───無理だ。限界だ」〈もう耐えられない〉 これまでの三十七年間、飢えて屈辱的な日々の中でさえも、こんな弱音を吐いたことはなかった。いまは、降参してしまいそうだった。
メリックが眉をひそめた。「戦うべきだ、閣下」
「戦うって、
何と? 相手を教えてくれれば、戦ってやる。しかしいったいどうやって自分の心と戦うんだ?」
「心なんかじゃない」メリックが淡々と言った。「お前は狂ってなんぞいない」
「そうか。どうしたらそういう結論になるのか」クレーンは笑いに似ているが決してそうではない音をたてた。「こんなに時間が経って、自分が死んでしまってから、あのクソ親父はようやく私を滅ぼすことになるわけだ」
メリックはリント布と包帯を丁寧に仕舞い始めた。「またあの言葉のことを考えているのか」
「
遺伝性」クレーンは自分の手の細長い指を見ながら発音した。「遺伝性の狂気。いっそ恐れずに口にするべきでは?」
「ダメだ」メリックが言った。「なぜなら、俺が考えている言葉を言う」
クレーンは両の眉を近づけた。「何だ?」
メリックのハシバミ色の視線はクレーンのそれを捉え、放さずにいた。わざと音を立ててアルコールの瓶をテーブルの上に戻した。「シャーマン」
一時、静けさが覆った。
「いま、我々は上海にはいない」やがてクレーンが言った。
「その通り、いない。でも、もしいたら、こんな風に急に頭がおかしくなってわけがわからなくなったりしたら、そこで座って悩んでいたりはしねぇんじゃないか? まっすぐ行く先は───」
「ユー・レンに会いに行く」
メリックは同意して頷いた。
「でも、我々は上海にはいない」クレーンは繰り返した。「ここはロンドンだ。ユー・レンは世界の反対側にいるし、この調子では私はあと数日ももちそうもない」
「ならばシャーマンを探すんだ、ここで」メリックはいとも簡単に言った。
「でも───」
「でもじゃねぇ!」声が壁に鳴り響いた。「頭の医者に行って精神病院に投げ込まれるか、そこでじっとして気が狂ってしまうと思って気がおかしくなるか、あるいは何とかシャーマンを見つけて、家にいた時のようにちゃんと見てもらうか、だ。遺伝性など、俺に言わせれば
クソ食らえだ」メリックは前かがみになって、両手を机に置き、主人の顔をにらみつけた。「お前をよく知ってる、ルシアン・ヴォードリー。これまでに何度も死と顔を突き合わせたが、そのたびにお前は一目散に逃げるか、その急所に蹴りを入れて来た。死にたいなんて思うわけがない。お前ほど死にたくないと思っている人間に、俺は会ったことがない。だから、シャーマンを見つけてさっさとカタをつけよう。もちろん他にいい考えがあるなら別だが、ないんだろう?
違うか?」
メリックは少しの間視線を逸らさずにいたが、やがて体を起して片付けを始めた。クレーンは咳払いをした。「イギリス人のシャーマンはいるのか?」
「いるはずだ、違うか?
魔女とか。そういうものが」
「そうなんだろうな」クレーンは懸命に努力して言った。無駄だとわかっていたが、メリックをがっかりさせたくなかった。「そうなんだろう。誰に頼めば……」指をわずかに折り曲げて記憶を辿った。「ラッカム。奴は帰国しているな? 頼めるかもしれん」
「ラッカムさんだな」メリックは同意した。「会いに行こう。シャーマンを探してもらおう。あの人がどこにいるかわかるか?」
「いいや」クレーンは包帯をした手首を動かし、立ち上がった。「社交クラブを探して見つからなかったら、ライムハウスの最低のアヘン窟をしらみ潰しにすれば見つかるだろう」
「ほら」メリックが言った。「もう希望が出てきた」
第二章
クレーンは客間の
旅行用時計をいま一度確認した。まるで時間が止まっているかのようだった。少し前に見た時以来、針は少しも動いていないように見えた。
「何か飲め」部屋の中でやることを見つけては
細々と動きながら、メリックが勧めた。クレーンには従者が自殺を警戒して見張っているのか、自分と同じように、これからやってくるシャーマンが気になって落ち着かないのか、どちらかはわからなかった。
「お前が飲むといい、お前のせいなんだから」不当に言い放った。「どんな奴が来るんだか」〈どうせうまく行かない。お前は死ぬんだ。それがお前にふさわしい〉
「イギリスのシャーマンは何と呼ぶんだ?」メリックが訊ねた。「ラッカムさんは何と?」
「上海語でやりとりしたから、わからない。
魔道士とか、そういったくだらない呼び名だろう」
「しかしラッカムさんは───」
「ああ、そうだ。わかっている。奴は、シャーマンは本物で、実力もあり、七時半に訪ねてくると言っていた。他に何も情報はないんだから、訊くのはやめてくれ」〈乱暴者。恩知らず。お前は従者の人生も台無しにした〉
「落ち着かないのか?」メリックが言った。「
閣下」
「もう黙っていろ」
クレーンは座っていられず、部屋をうろついた。いつだって希望は、絶望より厄介だ。少なくとも絶望は、落胆することがない。何かに希望を持つこと、それは何かを請い願う側になり、藁にもすがることを意味したが、クレーンは懇願が嫌いだった。むしろその反対の性分だ。
しかし、この悲惨な情況の中、一筋の希望の糸が頑固に生き残っていた。もしその男が本当にイギリスのシャーマンならば……もしこれがシャーマンに解決できる問題で、父親の血のせいではないのであれば……自分の心がまだ自分のものであるのなら……。
玄関のベルが鳴った。メリックはほとんど走るように扉に向かった。クレーンは注意して後を追わなかった。客間に立ち、玄関ホールから聞こえる話し声───「ラッカムさんから頼まれて来ました。ルシアン・ヴォードリーに会いに」───を聞きながら、扉が開くのを待った。
「お客様です、サー」メリックはシャーマンを部屋に入れた。
男は信じがたいほど地味だった。まず短身で、かろうじて五フィート(約百五十二センチ)あるだろうか、肩幅が細く、体重もひどく軽そうで、頬がこけていた。赤みがかった茶色の髪は、巻き毛気味な所を不格好に短く刈られていた。着古されたくすんだ黒色のスーツは見るからに安物で、体に合っていなかった。奇妙なことに、安手の綿の手袋をしていた。会計事務所にごまんといる、単調な作業をこなす事務員のように見えたが、ただ一つ目立つのは、黄金のような黄褐色の瞳で、青白くこわばった顔からクレーンをにらむ
双眸には恐ろしいほど憎しみに似た何かが浮かんでいた。
「ルシアン・ヴォードリーだ」クレーンは手を差し出しながら言った。
「あなたはクレーン卿か」客は自分の手を出さずに言った。「確かめたい。あんたはリチデールのヴォードリーか?」
クレーンは男の顔と態度に露骨な憎しみを認め、すぐに事情を理解した。難しい推理ではなかった。
「私の兄を知っていたらしいな。ヘクターを」そう言った。「あるいは父を」
「両方だ」小柄な男は吐き捨てるように言った。「ああ、僕はあんたの家族を知っている。その一員を助けに派遣されることになるとは、皮肉としか思えない」
クレーンは暫し目を閉じた。〈地獄へ落ちろ、父さん、既にそこにいるのかもしれないが。私を破壊し尽くすまで安眠できない、そういうことか?〉 声に怒りが出ないよう、圧倒的な絶望が伝わらないよう、苦労した。「私の一族の一員であれば悪魔に食われろと言いにわざわざやってきた、ということか? よろしい。伝言はしかと受け取ったから、消えてくれ」
「残念ながら、僕にその贅沢な選択肢はない」訪問者は唇を噛みしめ、嘲笑するように口を曲げた結果、うなるように言った。「ご友人のラッカム氏には借りがあって、それを僕からあんたに返すように言われた」
「どうやら大した借りではなさそうだ」クレーンは八代続く伯爵家の血筋と、胸の中の希望があった場所にぽっかり空いた穴から出てくる嘲笑で返した。この男が来るまでの四日の間に、また発作に襲われていた。まさに最後の賭けだったのだ。「シャーマンを派遣すると言われたんだがな、チビっ子店員ではなく」
相手は古ぼけたカーペットバッグを床に叩きつけると、両拳を握った。喧嘩腰で一歩前に出るとクレーンにぐっと近づき、著しく身長差のある相手の顔を下からにらみつける形になった。「僕はスティーヴン・デイだ」クレーンの胸を一本の指で突いた。「そして───」
男はそこで口を開けたままピタリと動きを止めた。クレーンはわざとらしくその手を振り払った。デイは反応せず、手を空にかざしたままだった。クレーンは片眉を上げた。「
そして?」
デイの赤茶けた眉がピクリと動き、真ん中に寄った。黄褐色の瞳はクレーンの目を見ていたが、焦点が定まらず、瞳孔は大きく広がり、真っ黒だった。頭を片側に傾け、もう一度反対側に傾けた。
「
そして? 君がラッカム氏に会ったのは、ひょっとするとアヘン
窟かね?」クレーンは冷たく訊いた。
「なるほど」デイが言った。「手を寄こして」
「何だと?」
デイは手袋をした両手でクレーンの手をつかみ、じっと見た。クレーンは怒って手を引っ込めた。デイは左手でクレーンを離さず、右手を口に持って行き、歯で手袋を外した。床にそれを吐き捨てると、「少し奇妙な感じがするぞ」と言って素手でクレーンの手をつかんだ。
「クライスト!」クレーンは叫び声をあげ、今度は明確な警戒と共に手を引っ込めようとした。デイの手は握りを強めた。クレーンは信じがたい思いで見下ろした。拳の関節の上を走るギザギザの傷跡以外、デイの手は小柄な体にしては大きめだったが、完璧に普通に見えた。まばらに暗い色の毛が生えた手はクレーンのそれを握って裏表させていたが、その手が触れたいたるところにピリピリするような感覚が走り、冷たい針が無数に刺さったかのように、生きているように波打って、電流のように血流に流れ込んだ。クレーンは歯を食いしばった。デイの親指が手首の内側をやさしく撫でると、鳥肌が立つのがわかった。
「これはいったい、
何だ?」
「僕だ」デイは再び歯を使ってもう片方の手袋を外す間だけクレーンの手を離すと、再び握った。「どうやら、誰かがあんたの死を願っている。この状態はどのくらい続いている?」
「二ヵ月ほどだ」クレーンは相手の言葉の意味を追求するのをやめた。発泡するような感覚はさらに強まり、指から手首へ、そして包帯の下の傷にチクチク響いた。
「
二ヵ月? 何度自殺を試みた?」
「四回」クレーンは応えた。「ここ二週間で三回だ。もうすぐ成功しそうだがな」
「いままで失敗していることが驚きだ」デイはしかめっ面をした。「わかった。僕が対処する。ラッカム氏には借りがあるし、こんなことは誰に起きてもいけないからだ。たとえヴォードリーであろうとも。料金は十ギニーだが―――あんたには二十だ。値切ろうと思うなよ、あんたの余命は現時点で数日ではなく数時間単位だ。僕を怒らすな。怒らなくても、ここを立ち去りたい気持ちでいっぱいだからだ。僕の質問にはすべてを正直に応えること、僕の言う通りにすること。以上、わかったか?」
クレーンは張り詰めた顔を見つめた。「君に、私に起きていることを止められるのか?」
「そうでなければここにはいない」
「ならば、条件を呑もう」クレーンは言った。「君は本当にシャーマンなのか?」灰色の絶望は心の中で響き続けていて、本当は無礼な男を階下に蹴落としたかったし、小柄な男の明らかな怒りはとても助けてくれる気持ちがあるようには思えなかったが、クレーンの手はデイの指先からの流れ出る電気を帯びて、デイの黄褐色の虹彩はいまや拡大した黒い瞳孔だけになっていた。クレーンはユー・レンの瞳孔が同じようになっているのを見たことがあり、暗闇の中から恐ろしくもほのかな本物の希望が再び芽を出しつつあった。
「シャーマンが何なのかは、知らない」デイはクレーンを上から下へ眺めて、目を細めて少し首を傾げた。「座って、話を聞かせてくれ」
クレーンは座った。デイは足乗せ台を引き寄せると上に跪き、クレーンの頭───の中?───を、じっと見つめた。
「四ヵ月前、父が死んだというのでイングランドに戻った」クレーンは話し始めた。
デイは一瞬目を合わせた。「あんたの父親は二年前に死んでいる」
「そうだ。私が帰国したのは四ヵ月前だ。最初の二ヵ月ほどは父の資産のグチャグチャを紐解いていた。特に問題は起きなかった」デイは指を奇妙に動かしながら、顔のすぐ横に手を伸ばし、クレーンはそれを避けて頭を引きそうになるのを意識して堪えた。「二ヵ月前、とうとうパイパーに行かなければならなくなった。私の家族を知っているのであれば、パイパーの屋敷を知っているか?」
「行ったことはない」デイの視線と口調は少し上の空で、クレーンの顔のそばで空気に触れてこねるかのようにピクピクと指を動かしていた。
「まぁいい。パイパーの図書室で経理の記録を調べていた時、急に激しい惨めさと恥ずかしさと自己嫌悪の波に襲われた。恐怖、絶望。ひどい感覚だった。しかしその感覚は訪れたのと同じくらい急に無くなった。パイパーは元々幸せな気分になるような家ではないので、気のせいだと思うことにした。次の日の夜、ウィスキーと本を持って座ったら、次の瞬間、従者のメリックが私に向かって叫んでいた。私が引き綱で首を吊ろうとしていたからだ。まったくそんなことをした記憶はなく、ただメリックが私を引きずり下ろしていた」
デイが再びクレーンと目を合わせた。「それで?」
「屋敷を離れた」クレーンは唇に冷笑を浮かべながら言った。「ロンドンに逃げ帰った。そして───信じがたいことに、ほとんどそのことを忘れていた。誰か他の人間に起きたことのように思えて、完全に自分を取り戻した。ところが数週間前にまたパイパーに行く用事ができた。最初の二日はよかった。しかし次の夜……また同じことが起きた。その時は手首を切ろうとした」
「それはどこ?」
クレーンは手首を指差した。デイは鼻から息を吐いた。「
屋敷のどこで?」
「あ。図書室だ」
「最初の時も図書室だったんだな?」
「そうだ」
「図書室の外で何か起きたことは?」
「パイパーでは何も。でもここに戻ってから、先週、同じことが起きた。六日前に手首を切ろうとして、昨夜も同じことをした」
「場所は?」
「この部屋だ」
デイは尻を踵に乗せて座った。「事件が起きたのは何時だったか覚えているか?」
「夜だ。常に。時間の感覚が少しおかしくなるようだ」
「ふーむ。それでは、よく考えて欲しい。中国から戻って以来、
発作を起こさずにパイパーの図書室で夕べを過ごしたことはあるか?」
クレーンは少し考えて、最終的に「たぶん、ない」と言った。
「ではこの部屋での最初の発作より前に、ここで夜を過ごしたことは?」
「ああ、何度かある」
「あと、発作が起きた後、口の中でツタの味がしたか?」
クレーンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。「した」できる限り平静を保って言った。「あるいは、少なくとも苦い緑の葉の味がした。とても強く。それから……最初の時は、部屋からも同じ匂いがした。臭かった」
「そうだろうな。パイパーから何を持ち帰った?」
「持ち帰る?」
「何か物体だ。箱か、家具か。ポケットに何か入ったコートとか。何かがパイパーの図書室からあんたの最後の訪問の時かその後、ここに移動したはずだ。それは何だ?」
ここはストランド通りに新しく建てられた建物群の中にあり、数部屋で構成されたマンションフラットだった。クレーンは生活に必要な家具をそろえさせたが、クレーンというよりメリックが、中国から持ち帰った掛け軸や絵画を壁に飾っていた。そもそも長く英国で暮らすつもりはなかった。倹約家ではなかったが、パイパーには使用されていない家具があり余っており、いまやすべて自分のものなのだから、使えるものは使う方がいいと思ったのだ。
「パイパーから運んだ家具が相当数ある」クレーンは言った。「絵画をいくつかと、木製のチェスト───」
「前回訪問した時に持ち帰った?」デイは遮った。
「幾つかはそうだ。よく覚えていない。こうしたことはあまり気にしない。でもよくわかっている男がいる。そろそろ入ってきたらどうだ」クレーンは声の大きさを変えずに続けた。
メリックはすました顔で「閣下」と扉を開けた。「最近の訪問で色々と家具を持ち帰ってきました、デイさん。あの絵画は確かパイパーの図書室にあったものかと」デイは急いで近づくと、絵画には目もくれず、額縁を手で撫でて調べた。「本もたくさんあります、サー。この書棚に収納されています」
「どこか一ヵ所にか?」壁全体を覆う書棚を見てデイが訊ねた。
「いいえ、サー」
「クソ」
デイは手を延ばし、指先を細かく動かしながら、何冊かの本の背表紙に触れた。「特に何も感じない。クレーン卿、また発作が起きる前にここを離れた方がいい。僕一人で探す」
「
何を探すというんだ? 私に何が起きているのかわかるのか?」
「
ユダの手先だ」デイは両手で厚手の本を持って裏返した。「間違いない。リンゴほどの大きさの物体を探している。木製だ。持って帰ってきたものの中にそれが紛れ込んでいて、この部屋のどこかにあるはずだ。メリックさん、クレーン卿をこの建物の外に連れ出して、二時間ほど目を離さないで欲しい。発見できるまで、夜ここにいては危険だ。もう八時になる」
クレーンとメリックは二人とも思わず時計に目をやった。メリックはためらいながら言った。
「閣下、あれは確かパイパーの図書室の時計じゃ?」
クレーンは眉をひそめた。「そのようだな。醜い品だ。大体、お前が持ってきたんじゃないのか」
「俺じゃない。気がついたらここにあった。お前が持ってきたかと思っていた」
「いや」クレーンは注意深く考えながら言った。「私には覚えはない」
デイはマントルピースの上の
旅行用時計を見た。針は八時一分前を指していた。手の指を曲げ伸ばしした後、デイは時計を手に取った。
「裏に鍵がかかっている」観察して言った。「大きさは十分だ。そして、同じ時間に発作が起きる……。時計ならば……。クレーン卿、ここを離れろ。外に出て。メリックさん、
いますぐ外へ連れ出せ」
「はい、サー。───ああっ、クソ」メリックがそう言うと同時に時計が
正時を告げ、クレーンは恐ろしく苦しげな音を立てて息を吸い込んだ。
第三章
灰色の憂鬱は前回よりも早く激しくクレーンを襲った。口の中でツタの味がして、心が攻撃を受けていること感じ、幻のような囁き声が聞こえる気がした。
〈呪われろ〉
〈生きている価値などない〉
〈死ね〉
ナイフを探していることに、自分では気がつかなかった。うっすらと、デイが「捕まえろ!」と叫ぶのが聞こえた。痛みが走り、なぜか下方、床の上に押さえつけられ、何かの力がナイフ───それは遥かなる忘却、永遠の解放、流されるべき血───をつかむのを阻止した。脚を蹴りながら暴れ、遠くで起きていることのようなどなり声や殴りつける音、耳の近くで警告の叫びを聞いていたが、突然ふっと灰色の苦痛が和らぎ、客間のじゅうたんに顔を向け、両腕を後ろにねじられ、重いものにのしかかられて床に押さえつけられていた。吐くような上海語で囁く悪口がとめどなく聞こえるところを見ると、上にいるのはメリックだ。
「大丈夫だ」床に向かって、むせながら言った。「大丈夫だから、どかないか、このデカブツ」
「ダメだ」部屋の隅からデイが言った。「押さえつけていろ」
クレーンは無理やり首をひねってそちらを見た。デイは暖炉横の床に跪いていた。左手は床のすぐ上で、固く、かぎ爪のように広げられていた。その下にクレーンにはよく見えない何かがあった。デイはまたしても虚ろな目をして、唇が少しだけ歯から離れ、その両目はクレーンの視点からは白い円に縁取られた純粋な暗闇のように見えた。
「起こしてくれ」クレーンは鋭く言った。
「離してはダメだ」デイが繰り返した。「動かすな。何なら腕を折ってもいい」
「
デイ───」
「抑えるのがかなり難しい」デイの声には緊迫した震えが少し混じっていた。「抑えていないとまずいが、
波節が……。いや、どうも僕は難しく考えすぎているようだ。これは
術策だ。木と、血と、鳥の唾液。僕のバッグはどこ?」
「扉のところだ」
デイは数フィート離れたところにあるバッグに目をやり、不満げなうなり声をあげた。少し体を上げ、右手を伸ばすと、何かがバッグから飛び出し、金物のような音を立てて床に打ちつけられ、事務員のような男に向かって転がり、手の届くところで止まった。
「なんてこった」メリックが言った。
デイはそれを持ち上げた。金属製の編み針の束だった。口で一本を引き出すと残りの束を放り、空いた手で針を持った。顔が険しくなり、イライラするパズルを解こうとしているような表情だった。編み針の尖った方を再び唇の間に挟み、片手で反対側を引くと金属が伸び、数段階に飛び出てトフィー飴が延びるように細く長くなっていき、くるくるとねじ曲がった。
「
クソったれ」メリックとクレーンは唖然として同時に言った。
片方の手を床の上でクモのように広げたまま、デイは真剣な表情で作業を続けた。ようやく、曲がりくねった針の先端を口から離した。針は歪んだらせん状に捻れ、その先は当然のように尖っていた。
「鉄だ」メリックが囁いた。
デイは手の甲で口を拭った。辺りにかすかに焦げた金属の匂いがした。「ブリキだ。僕に鉄でこれができたら、相当なものだ。さて、これからこいつを無力化する。あまり気持ちよくはないぞ」デイが少し姿勢を変えると、またしてもあの感覚がクレーンに戻った。それは頭蓋に響き、全身を惨めさで包んだ。隅で丸くなり、泣きわめいて死にたかった。
「問題は」憎いほど冷静な声でデイは言った。「これをあんたのそばに持って行き、やっていることが正しいかをまず確かめるために、僕がこれを抑えている力を弱めなければならない。そうする過程で、情況はひどくなる。耐えられるか?」
クレーンは目を閉じてじゅうたんを噛んだ。ダメだ。これ以上悪くなるなど、無理だ。ひどくなるのなら、死んだ方がマシだ。もうすべてを終わりにしたい。
「耐えられる」メリックが言った。
「クレーン卿?」デイは訊いた。
「大丈夫だ。俺にはわかる」メリックが有無を言わせない口調で言った。「さあやって、いまだ。サー」
「さっさとやりやがれ、クソ」クレーンは吐き捨てるように言った。声を出すため、喉を覆う惨めさを突き破るのに必死だった。
「よろしい。メリックさん、彼を押さえておけますね」
「ああ」
「わかった。動かないようにしていてくれ」デイは一息ついて、こわばった声でつけ足した。「なるべく時間がかからないよう、努力することを約束する」
シャーマンは立ち上がることなく、ゆっくりと這うように進み始めた。クレーンの目にはデイが直接物体に触ることなくそれを押し動かしているように見えた。その上に鉤のように手をかざしたままだった。
近づいてくると、クレーンの腕の毛が逆立った。部屋の空気は汚れた羊毛のように油っぽく乾いて、汚らしく腐ったような臭いがした。避けて顔を動かそうとして、床に強く押し付けられた。
「動くんじゃない」メリックがうなるように言った。
デイは物体をクレーンの顔の前に運んできた。
それはいびつな木片で、粗雑な人型に削られ、穴だらけだった。ほんの少し律動しているように見え、触ったら油っぽいのではないかと思われた。想像を越える不愉快さが襲い、クレーンは苦痛と恐怖に圧倒された。頭を退いた。
「じっとしてろ」メリックが囁いた。「しっかりしろ、ヴォードリー、もっとひどい目にだって遭っただろうが」
いや、これ以上ひどい目になど遭ったことはない。デイが手をどかすと、物体の悪意がガン細胞のように腐った激流に乗って、クレーンの鼻と口と目を襲った。自分が悲鳴をあげて暴れていて、メリックが肘や膝にさらに重くのしかかるのを感じたが、もはや我慢できない、これ以上は一秒たりとも耐えられなかった。悪意は体の隅々まで侵食し、堪えきれない地点にまで魂を衰弱させた。クレーンは必死にメリックに抵抗していたが、デイはただそこにじっと座り、ねじ曲がった針の先で物体を触っていた。クレーンはすべてを呪った。クソッタレの赤毛のチビめ、いったいお前に何をしたと言うんだ、それからメリック、これは全部お前のせいだ、最後には自分自身をも呪い、知りうる限りの悪口雑言を尽くし、泣きわめき、懇願した。やがて、周りの凄まじい毒気にかき消されそうな声でデイが言った。
「少し痛むよ」
ナイフで刺されたような衝撃が走り、クレーンの胸から背中、腕から太ももの上部を凄まじい炎のように駆け抜け……。
そして、一気に消えた。
******
クレーン卿がぐったりと前のめりに倒れると、スティーヴンは踵に尻を乗せた姿勢で座り込み、額の汗を拭った。従者のメリックは主人の背中にまたがったまま、青白い顔で汗をかいて、クレーンに殴られた鼻から血が流れていた。主人を見下ろした後、殺意のある目つきでスティーヴンをにらみつけた。
スティーヴンはいびつな木片を床に落とし、大きく深呼吸した。
「もう離して大丈夫だ。終わった」
「
閣下?」メリックはクレーンの腕を離した。「閣下?」
じゅうたんの上にうつむいたクレーンの顔からくぐもったむせび泣きのような音が聞こえた。体が震えていた。
メリックは背中から降りると覗き込んだ。「閣下? 大丈夫か?」そして、殺意をこめた目でスティーヴンを見上げた。「いったい何をした?」
クレーンは低いうなり声をあげ、頭を上げ、体を起こして膝立ちになった。目には涙が浮かび、満面の笑みを浮かべていた。
「神よ、何ということだ」そう言った。「神よ、消えた。消えたよ。神様、メリック」仰天している従者に飛びつき、きつく抱き締めた。「お前はクソ天才だ、シャーマンを呼ぶとは。またしても命を救われたよ。愛してるぞ。それから、君」今度はスティーヴンに言った。「君はとんでもない魔法遣いだ。そう
まさに、魔法遣いだ! 神様、シャーマン、上手くいくとは。
素晴らしかった。おお、この部屋がこんなに美しいと初めて気がついた。このじゅうたんを見てみろ! もちろん、近くから見ないと良さはわからないがな。上に寝そべって見る、それが粋というものだ」
「いったいどうなってるんだ?」メリックが訊いた。
スティーヴンは立ち上がった。衰弱しきっていた。「大丈夫だ。
多幸感さ。長い間アレと必死で戦っていたから、今度は反対に振れてしまった。すぐに落ち着く」
クレーンは勢いよく立ち上がると、スティーヴンの手をとって、嬉しそうな悲鳴をあげると、力強く握った。「君は
素晴らしい。この手も素晴らしい。メリック、お前もやってみろ。シュワシュワと……まるで泡のようだ。泡がいっぱい。シャンペン! シャンペンみたいな手だ! 知っているかデイ、上海にシャンペンを輸入している店があって、そこではシャンペンをシュワシュワと、何とどこに注ぐかというと───」
「シャーマンはその話には興味が
ないと思うぞ」メリックが慌てた様子で遮った。「サー───」
「新鮮な空気を」スティーヴンが言った。「庭はあるか?」
二人がかりでクレーンにコートを着せると、目立たないように裏階段を使い、マンション区画占有の庭へ降りた。極めて快適な四月の夜で、まだ暖かく、ロンドンの空には大きな黄色い月がかかっていた。庭には数人、外気を吸いに出てきた住人の影があった。住人たちをまったく気にすることなく、クレーンはベンチに飛び乗ると、スティーヴンには中国語と思われる言葉でと
滔々と演説を始めた。
「これは何?」従者に訊ねた。
「月に関する詩だ。普段は三本目にならないと詩の朗読までは行かないんだが……。こんな状態がどのくらい続くんだ、サー?」
「長くはない」スティーヴンは安心させるように言った。「害にはならない。それどころか、かなり素晴らしい気分のはずだ。これもまだ月について、か?」気になって訊ねた。一言も中身はわからなかったが、クレーンの口調は言語を超えて響いてきた。
「いや、これはもう違う、サー。ああ、この辺に上海語が解る人間がいないことを祈る。さぁ、お前、閣下、そろそろ降りるんだ」
「あそこの綺麗な花をご覧なさい、クレーン卿」スティーヴンが提案した。メリックは何を言うんだという顔で見たが、クレーンはベンチから飛び降りて一心に花壇を調べ始めた。魔法遣いと従者が後に続いた。
「大変なことになるところでした」メリックが言った。「あなたは彼の命を救ったんです、サー」
「たぶんね」スティーヴンは気持ちを反映した浮かない口調で言った。ポケットに手を突っ込んで、肩を丸めた。「メリックさん……あなたはどんな役割でクレーン卿に仕えているんですか? 実際、何をしているんです?」
「従者です」メリックが応えた。
「ぜーんぶ!」クレーンが両腕を広げて、くるりと二人の方へ回った。「雑用、何でも屋、ビジネスパートナー、ボディガード。もう一人の私。私の声で話す。それとも、私が彼の声で話すのか? どっちなんだろう?」
「話すのはくだらないことばかりだな」メリックが言った。「さあ、綺麗なお花を見てろ。何が起きたんですか、サー?」
スティーヴンは顎を撫でた。「あのジューダスジャックは偶然ではない。あれを作った者は相手を殺す気だった。殺人の凶器だ」
メリックが冷静な目でじっと見返した。「シャーマンの殺人犯が、閣下を狙っている、と」
「そうだ」
「それは、何とかしないといけない」
「そう。ちょっと考えさせてくれ。それから、本人と話す必要がある。あれほど……昂揚していない時に」
クレーンは振り返り、自分を見つめている二人の男を見て、メリックに上機嫌の笑みを向けた。「シャーマンと話しているのか? そいつ少しは明るくなったか? 私があんな手を持っていたら、
いつでもいい気分だろうな」
「はいはい、まったくその通りだろうよ」メリックが告げた。「黙れ」
「君はもっと笑った方がいい」クレーンはスティーヴンに言った。「そんな悲壮な顔をしてなかったら、きっとずっと可愛い」
メリックがイラっとするようなうなり声をあげて、早口の中国語で話し始めた。
スティーヴンは背中で木の幹にもたれ、両手の指を曲げ伸ばし、体の筋肉を伸ばし、主人と召使いを眺めた。背が高くすらりとしたクレーンは一本足で立ち、喜びいっぱいの顔にあたる月明かりに、青白いブロンドの髪が銀色に反射していた。メリックは主人より背が低く、灰色が混じった髪と明るい瞳で、頭を振りながらもニヤニヤしていた。
多幸感は泥酔状態にいくばくか似ている。〈
酒は人の本性を見せる〉 スティーヴンにはクレーンが何を言っているのかわからなかったが、ヘクター・ヴォードリーが多幸感に包まれた時になるのではないかと想像される姿とは、まったく異なるものだった。そもそもヘクターにそんなことが可能だったとして、だが。
スティーヴンは目を閉じて、内心自分を呪った。ルシアン・ヴォードリーが兄のヘクターと同じ型からできていたならば、立ち去るのは簡単だったろう。実際、心底立ち去りたかった。
気持ちを整理する必要がある。少しの間、中国語の音節に耳を傾けながら呼吸を落ち着かせた。まるきり聞いたことのない音階で上下する母音。やがて、両手を伸ばして、指先で音を聴くようにした。
気の流れが殺到し、神経の末端にまでちりちりと響いた。クレーンの不自然な陽気さと興奮がエーテルを通して発泡し、ジャックの穢れの残滓を拭い去った。メリックはしっかりとした存在感で、クレーンが空気だとしたら、流れを止める大地だった。さほど遠くない所ではテムズ川に潮が満ちていて、スティーヴンは塩水の弾ける音、ボートの往来、湿った木材と帆布、周りの庭の静かな鼓動を感じたが、最も強く感じたのはクレーンの存在で、切れ味の鋭い銀色、木製のスプーンだらけの抽斗の中の一本のナイフのようだった。
〈シャンペンの手か〉 そう考えながら、エーテルに身を任せた。
「ミスター・デイ?」
スティーヴンは目を瞬かせて夢想から覚め、月を見上げた。どのくらいの間そこにいたのか定かではなかったが、エーテルの流れが体に蓄えられ、どちらかというと気分が良かった。夜の空気は明らかに冷たくなり、クレーンが不思議な顔で見つめていた。すっかり酔いは覚めたようだ。
「ああ、すみません。考え事をしていました。気分はどうですか、クレーン卿?」
「普通だ。惨めな気分ではなくなった。気も触れていない。腕はものすごく痛むし、君にひどい口をきいたことを思い出して非常に恥ずかしいが、それ以外はこんなにいい気分だったことはないくらいだ。この二ヵ月はまるで影の中で暮らしていたかのようで、影がなくなって初めて、どんなに暗かったかを実感した。君には、大きな借りができたよ、デイさん。私の家族姓への嫌悪は理解するが、しかし……」
相手は手を差し出した。スティーヴンはためらったが、無理をしてその手をとった。素手が触れる際にクレーンの顔を見ていたが、そこに嫌悪はなく、純粋な興味だけが見て取れた。
「やはりこれはすごい。普通の状態に戻ってもそう思う。いったい、何なんだ?」
「説明は難しい」スティーヴンに説明するつもりはなかった。「僕はこの手で仕事をする」
「魔法……なのか?」
「中へ入らないか? もし疲れていなければ、話し合わなければならないことが色々ある」
--続きは本編で--