マジシャン・マーダーズ

(殺しのアート3)
ジョシュ・ラニヨン

■1

 雨が部屋の窓を乱れたリズムで打ち、溶けていく。
 どこか気の休まる音だったし、ジェイソンは昨夜あまり眠れていなかったが、上司との電話中にうとうとするわけにもいかない。
『たよりのウエストの魅力でもアーシュラ・マーティンにフレッチャー=デュランド画廊を起訴させられなかった以上、司法省のほうからぴしゃりとやったほうがいいかもね』
 そうカラン・キャプスーカヴィッチが言っていた。
 カランは犯罪捜査部の窃盗課主任だ。ワシントンDCのオフィスから美術犯罪班ACTの捜査官たちを監督していて、そこからジェイソンに電話をかけてきている。ジェイソンはバージニア州スタッフォード郡にあるサムのマンションで寝そべって携帯電話をかけていた。このマンションは、定期の訓練を受けに来ているアカデミーからもそう離れていない。
「それは、マーティン相手にはあまりかんばしくないやり方かと」ジェイソンは答えた。「最終的に彼女が心を決めて我々についてくれる可能性はまだあると見ていますが、強引に迫ればその目もなくなる。彼女の立場は複雑なんです」
『誰の立場だってそうでは?』
 ジェイソンはおとなしく続きを待った。
 カランが溜息をつく。
『そう言うんじゃないかとは思ってた。だから……よろしい。決断はまかせるとしよう。彼女はあなたの証人だしね。だったし、と言おうか』
 ジェイソンはひるんだ。二ヵ月前、フレッチャー=デュランド画廊の告発が頓挫したことはまだ生々しい傷だ。詐欺、窃盗、贋作での起訴に向けて必死の捜査を重ねていたのに、当時の原告がデュランド兄弟との和解に同意し、それですべての足元が崩れてしまった。
 事態はもっと複雑だが、まとめれば、とにかく連邦地検には今回フレッチャー=デュランド画廊を起訴する気はない。特に、警察やあちこちから探されているデュランドが地上から姿をくらましたような現状では。
 別にジェイソンだって、努力と根気でどんな事件も起訴に持ちこめると夢見ているほど無邪気ではない。常に運がものを言うし、ジェイソンはツキを使い果たしていた。少なくとも、デュランド兄弟に関しては。ほかの部分なら……。
 彼の視線が、向かいの壁にかかったグランヴィル・レドモンドの、荒れ模様の空の下に咲くハナビシソウの絵へと流れた。
 ほかの点では、ジェイソンのツキはきわめて好調で、おかげでこうして行動分析課BAUの主任サム・ケネディのソファに寝そべってサムの帰りを待っている。二ヵ月前、てっきりサムとの関係はもう救いようがないと思ったが、はからずも、今こうしてここにいた。
『よろしい』カランが一層てきぱきと、すでにもっと大きく勝ち目のある事件に注意が移った口調で言った。『進捗は報告するように』
「わかりました」
 明らかに切るタイミングだったが、ジェイソンは彼女の愛弟子でもあったため、カランは唐突に聞いた。
『訓練の調子は? まだクワンティコに?』
「ええ。明日の夜の便で帰ります。訓練は……まあ訓練ですよ」
『お決まりの』カランが重々しく同意した。『じゃあ、気をつけて帰りなさいね』
 そこで電話を切られたが、タイミングは完璧だった。ジェイソンの耳に、サムが玄関のドアの鍵を開ける音が聞こえた。
 携帯を切って立ち上がった時、ドアがバタンと開いた。四月の雨と、薄れていてもやはりどこか刺々しいアフターシェーブの香りが流れこむ。
「おかえりなさい」
 サムの大柄な体が、部屋の入り口をすっかりふさいだ。即座に、静かで少しだけ辛気臭かった部屋がまた息吹を取り戻した。満たされる。よどんだセントラルヒーティングの空気を、冷たく澄み切った突風が吹き散らすかのようだった。
「ああ」
 サムはくたびれて見えた。近頃ずっとこんな調子だ。短い金髪は濡れて色が沈み、茶色のトレンチコートの広い肩には雨粒の痕が散っていた。いわゆるハンサムではない――頬骨がくっきりしていて鼻筋が長いし、口元もきつい――が、そのすべてが見事に組み合わさった顔からは力強さと知性、そしてたしかにある種の無慈悲さがにじみ出していた。青い目は今は灰色に見えるが、近づくジェイソンを見てその目がやわらいだ。サムはブリーフケースを下ろしてジェイソンを抱きとめ、強烈で呑みこまれそうな情熱でキスをした。
 キスまで疲れたような味がした――飲みすぎのコーヒー、消費しすぎのブレスミント、無残な死についての多すぎる議論。ジェイソンは心からのキスを返し、きっとろくでもなかっただろう一日を、温かな出迎えで埋め合わせようとした。
 とはいえサムにとって殺人、レイプ、誘拐まみれの一日は、ジェイソンにとってほど気の滅入るものではないのだろうが。そんな神経ではこの仕事で今のような腕利きにはなれない。
 いつもながらに、サムの唇のやわらかさに意表を突かれる。石の心臓と噂される男のくせに、キスのやり方をよく心得ているのだ。
 二人は名残惜しげに離れた。サムがじっとジェイソンを眺める。
「いい一日だったか?」
「今、良くなった」
 サムがうっすらと微笑み、部屋に視線を流して、ジェイソンのコーヒーカップや小さなテーブルに広げられたファイルや写真を見てとる。
「生産的だったようだな」淡い眉が寄った。「部屋がやたら暑いな」
 ジェイソンは顔をしかめた。「ごめん。暖房を上げた。帰ってきたら凍りついたみたいだったんで」
 サムは鼻を鳴らし、ジェイソンのジーンズと赤いMoMAのTシャツに顎をしゃくった。
「スウェットを着るという手もあるぞ。せめて靴下を履くとかな」
「まあ、そうなんですけど」
 サムがニヤッとした。
「お前らカリフォルニア育ちのガキときたら」
「大勢知ってるみたいな言い方」
 心にチクリとくる。四十六歳のサムには、ジェイソンより十二年分多い、はるかに豊かな経験がある。
「記憶に残るのはひとりだけだ」
 サムがジェイソンをもう一度、さっきよりは短いキスに引き寄せた。
 ジェイソンは力強いキスの下で微笑む。
 体を離して、サムが言った。
「遅くなって悪かった。夕食に何か食いたいものはあるか?」
 聞きながら無意識にネクタイを引いて緩めていた。多分、その仕種に本心が表われている。ジェイソンも、そこは同感だ。
「出かけなくてもいいでしょう。家で食べませんか?」
 サムがジェイソンを眺めた。
「だがあと一日もないだろう」
「別に夜遊びしに来てるわけじゃないですし。いや、なくはないけど」
 言いながらジェイソンはウインクしたが、それも形だけだ。今夜は静かな夜になりそうだという予感があった。サムは根を詰めすぎなのだ。そこまで追いこんでも、世の中に殺人鬼が尽きることはない。ゴールの存在しないレース。
「どのみち、俺だって外食は飽きるほどしてますから」
 サムの唇の片側が、納得して軽く上がった。
「まあそうだな。しかしわかってるだろうが、ここに食えるものはないぞ」
 ジェイソンは肩をすくめた。サムの冷蔵庫の状況はジェイソンのそれと似たり寄ったりだ――仕事でほとんど家を空けていれば誰でもそんなものだろう。
「わかってますよ。大丈夫。デリバリーをたのんでもいいし、ひとっ走り俺が何か買ってきたっていい」
 サムが口を開け、反論しそうだったが、ジェイソンは続けた。
「夕飯は俺にまかせてくれ、サム。くたくたに見えますよ」
「そうか、そりゃどうも」
 サムの口調にはわずかな棘があった。
 自分はスーパーマンではないとつきつけられるのが嫌いなのだ。ジェイソンはこの十ヵ月でそれを学んでいた。サムは仕事に全力で挑み、そして遊びにも――滅多にない機会には――それ以上の力で臨んだ。半分の年齢にも負けないほどのエネルギーや集中力の持ち主だが、その一部は純粋な意志の力によるものだ。
「俺の言いたいことはわかってるでしょう」
 サムが顔をしかめた。
「ああわかってる。忌々しいが」
「で? なじみの中華料理屋くらいあるでしょう?」
 ジェイソンが微笑んでいるのは、サムの苛立ちを本気には取っていないからだ――そして彼らが初めて一緒に食べたのも中華料理だったから。
 思い出、と言っていいのか。あの頃、彼らは互いをかなり嫌っていた。それがまた二人の間の性的な緊張感を一瞬にして、そしてお互いに、よりいっそう熱く燃え上がらせたのだ。
「あるが。しかしな……」
 サムはその呟きを続けなかった。疲労と、ジェイソンへの申し訳なさが心の内でせめぎあっている。彼らの関係では――二人の仕事の性質上――世間的な“デート”というものに費やせる機会はあまり多くはない。
 ジェイソンだって理解していることだ。捜査機関の人間であれば誰でも。それでもサムは時おりそんな罪悪感を抱くのだ。正体はともかく。仕事へのサムの偏執は、常に彼らの交際の障壁となるのだろう。はじめのうちジェイソンは、それはイーサンを失ったことからくる執着と見ていたが、思えば、サムは元からこうだったのかもしれない。
 そしてその一心不乱の没入ぶりは、イーサンとの関係でも問題だったのかもしれない。イーサンは、若かりし頃のサムの恋の相手だ。一緒に育ち、人生を共にしようと約束していたが、二人がまだ大学生の時にイーサンは殺された。イーサンのことになるとサムの口が重いのでジェイソンが知るのはそれですべてだった。
「俺としても、デリバリーして部屋でのんびりしてたいって気分ですが」とジェイソンは言った。
「そうか?」彼の表情を読んでから、サムは肩の力を抜いた。「まあそういうことなら、ホープ通りのチャイナ・キングはかなり旨いぞ。ただ配達がない。何が食いたいか言ってくれれば――」
「いや、あなた・・・が何を食いたいか教えてくださいよ。俺も何時間も座りっぱなしだし、どのみち足を動かさないと」
「本当にいいのか?」とサムがためらった。
 ジェイソンは半分目をとじて、キングスフィールドでの最初の夜の記憶を呼び起こす。
酢辣湯サンラータン、ロブスターソースのシュリンプ……あと何でした? 蒸しごはん、炒めごはん?」
「蒸したほうだ。いい記憶力だな」
「それが要るお仕事なんで」
 ジェイソンは眉を上下させ、小洒落た肩書きの捜査官ではなく何やらいかがわしい仕事をしているかのような空気感を出した。靴を探し、コーヒーテーブルの下に見つける。レザーのジャケットは隅にあるオータムカラーのひとり用ソファにかけてあった。
 このマンションの部屋は間違いなく家具付きだったに違いない、とジェイソンはにらんでいた。なにしろインテリアが全体に家具のネットカタログのようなのだ。くつろげて洒落ていて無難。リビングとオフィス、寝室の壁を飾る四枚のグランヴィル・レドモンドの絵を除けば上等なホテルの部屋と見まごうばかりだ。
「ホープ通りって言いましたよね?」ジェイソンは時計をたしかめた。
「1号線を北へ向かえ。二キロもない」
 サムはコートを脱いですっかり楽にするつもりのようで、ジェイソンは心の内で微笑した。
「わかりました。すぐ戻ります」
「ウエスト」
「はい?」と振り向く。
 サムがニヤッとした。
「フォーチュンクッキーを忘れるなよ」
「了解」
 指でこめかみにふれて敬礼の真似事をしてから、ジェイソンは部屋を出た。


 楽だとは、とても言えない。明日をすぎれば次いつまたサムに会えるかわからないのは。しばらくは会えない、それだけは確かだ。そしてサムは状況が良くなるという約束はしてくれない――できない。百パーセント、仕事に身を捧げている。それは初めからわかっていたことだし、それでもサムに会えるとわかっているほうがまだ苦しくない。少なくとも今は。そうだ。逆の場合と比べれば。二ヵ月前、そんな事態に直面したが、あれは地獄のようだった。
 今は、手が届くものだけでいい。なにしろ二人でいられる時は、ただ……お互いしっくりくる。
 そんなことを考えながら、ジェイソンはチャイナ・キングのガラスドアから外へ出た。七時半なのでもう暗い。雨が強まっていて、首をすくめ、香り立つ料理が入った白い紙袋を脇に抱えて、コートのポケットの鍵を探った。小走りにレンタカーへ向かう。湿った空気は濡れたレンガやコンクリート、木々、そして排気ガスの匂いがした。駐車場は広く、やや田舎町の木曜の夜にしては混んでいた。田舎と言っても、カリフォルニアの人気ビーチに比べればだが。
 とにかく、チャイナ・キングの店内には行列があった。
 ビールを買いに寄るか? サムはウイスキーサワーでいくつもりだろうが、ジェイソンは明日訓練があるし、続いて長い空の帰路も待っている。ビールにしておくほうがよさそうだ。
 当初の予定では週末ずっといられるはずが、仕事が飛びこんできた。より正確には、
サムめがけて。サムは明日の午後、シアトル行きの便に乗る。待ちわびていた二人きりの週末というやつはまた次の機会を待たねばならない。別の街で。
 青いピックアップトラックが、ジェイソンのレンタカーの助手席側に停まったままだった。運転席側には黒いポルシェが停められていて、これだけ近いと車に乗り込みにくそうだ。ポルシェのトランクは大きく開いていた。見たところ運転手の姿はない。
 スペアのタイヤかジャッキの持ち合わせがないのに土壇場で気付いたとか?
 ジェイソンがサムの部屋を出た時、同時に道に出た黒いスポーツカーがあったが、ジェイソンがホープ通りに折れた際にハイウェイを直進していったのだった。
 レンタカーの助手席ドアを開けてテイクアウトの袋をしまいながら、ジェイソンは何とはなしにそのことを思い出していた。警戒していたとは言えない。どうして警戒など? 世の中には黒いスポーツカーはたくさんある――スペアタイヤを持ち合わせていない運転手が珍しくないように。身を屈めて、シートに袋を置いた。
「ウエスト捜査官?」
 その声は男のもので、少し高く、少し張り詰めていた。どこからともなく降ってきたような声に、ジェイソンは車内から体を引き、背すじをのばす。
 見回す時間すらなかった。素早い――激しい?――動きを目の隅でとらえ、ジェイソンは反射的に銃へ手をのばしたが、サムの寝室のナイトスタンドに置きっ放しだと気付く。訓練から帰ってすぐ、一眠りしようと外したのだった。
 いったい何が――。
 レンタカーの鼻先の木々の壁をこじ開けるように黒っぽい人影が飛び出すと、助手席のドアをジェイソンに叩きつけ、肝心のその一瞬、身動きを封じた。
 首の付け根にチクリと焼けるような痛み。驚きと苦痛に声が出ていた。まさか、刺されたのか?
(そんなまさか。こんなことが起きるはずが――)
 だが現実だ。あまりの速さと凶暴さで、ほとんど何もできないでいるうちに。こういうものだ。誰にだってこうやって起きるのだ。「襲う側には常に計画がある」、頭の隅をサムの言葉がよぎる。
 襲撃者の顔に車のキーを突きこんだが、何もかもがおかしかった。凄まじく。電源コードが抜かれたように急激に体の力が失せていく。力が出ない。まったく。視界がぼやけ、周辺が暗く沈む。パンチには何の力もなかった。膝が崩れる。腐ったタマネギの悪臭に包まれて、息ができなくなる。
 力を振り絞って、突然の虚脱感に抗い、ジェイソンは重い車のドアをやっと押し返して転がり出た。もつれる足でレンタカーを離れ、アスファルトの上をよろめき進む。
 水の中を走っているようだった。踏ん張りがまるで効かない。雨と、レストランの窓からこぼれる明かりの先が見通せない。Bokeh……そう、Bokehと、文字が書いてある。赤、青、白い筋。ピントのぼやけた目のくらみ……。
 営業中、とネオンサインが光った。
 。大。人の中なら。
 あのレストランへたどりつかなければ。何の店でも。人のいるところまで。
 よろよろと進んだ。たった何歩かなのに、何マイルあるのかと思える。一歩たりとも進めてないような。背後に足音が迫る。走ってはいない。コツコツと、狙い定めた足音。
「ウエスト捜査官」
 またあの声が呼んだ。奇妙にくぐもっている。折れた鼻を手で押さえているとか? なら、いい気味だ。
 聞いたことのある声か?
 ふらつきながら、黒く浮かび上がる建物のほうへ、力ない一歩をなんとか踏み出した。
 白い閃光が雨を裂いてジェイソンに迫った。ヘッドライト。車。まっすぐ突っ込んでくる。
 ジェイソンは止まれなかった。止まりたくなかった。後ろにいるもののほうが恐ろしい。どのみちもう立っていられない。体の中ですべてがバラバラに砕ける。
 二つの光が、双子の太陽のように巨大に迫りくる。一瞬、その超新星に呑みこまれ、ジェイソンの体が燃え立った。
 衝突は遠く、鈍いものだった。
 体が浮き上がるのを感じ――そしてすべてが消えた。

■2

 目を開ける前から、病院だとわかった。子供の頃よく入院したものだ。喘息で。成長するうちに治ったが。それでも――この消毒臭、ピッピッと静かな音を鳴らすモニター類、管理された室温の部屋に染み付いたヒリつくような緊張感は、間違いない。マイアミで撃たれて入院したが、あの時も同じだった。
 また撃たれたのか?
 病院のベッドにいる理由などそれくらいしかないだろう。
 撃たれた記憶はないが。
 何の記憶も……。
 いや。クワンティコに戻って、研修を受けていたのだ。サムの部屋に泊まって。それで――。
 それで。
 何があった?
 突然の記憶の閃きに鼓動がはね上がった。濡れ葉と枯れ枝の壁からとび出してきた黒い影。
「……あれ、は……?」
 目がぱちりと開いた。何回かまばたきする。
 やはり。病室だ、案の定。中間色の壁、照明、吸音板の天井……いくつものモニターは一部使用中で一部はオフで……そして、サム。
 サムは窓際の椅子から立ち上がって近づくと、ベッドの手すりごしに身をかがめた。ジーンズと黒いセーター姿だ。笑みはあったが、目の光の冬のような冷ややかさがゆるむことも、ほとんど険しいほどの表情の硬さがやわらぐこともなかった。これは励ましの笑みではない。
「気分はどうだ?」
「どう……」
 気分? いい気分ではない。ざっと、不安に駆られて体をチェックした。指、爪先、手、足、両腕、両脚……すべて揃っていてまともに動くように思える。節々は痛むが。
「お前は大丈夫だ」サムが告げた。「問題ない」
 そうなのか? サムは、安心させるというより値踏みしているような目つきだった。疑っているわけではないが。本当のことだろう。自分が死にかかっていないことくらいわかる。マイアミの時はあやうく死にかけたが、あの時とは全然違う。とはいえ調子は上々とはいかないし、おそらく最悪の部分はまだ鎮痛剤でごまかされているのだろうが。
「何があったんです?」とサムの表情を読み取ろうとした。
 どうしてサムはキスしようともしない? たとえキスが無理でも――これまでそんなことがあったか――手を軽くポンと撫でるくらいのことすら? もはやトレードマークの、肩をぐっとつかむ仕種とか、何か。どうして二人は――サムは――こんなに堅苦しいのだ。一秒ごとにジェイソンの混乱が増していく。
 サムの顎がピクリと動いた。
「まさにそれを確認する必要がある。質問に答えられる状態か?」
 気遣いはあるが、事務的だ。犯罪被害者に接しているように。単刀直入。ベッドサイドで付き添いの番をしていたのはそれが目的なのだろうか。ジェイソンの聴取。
 本気か?
 心が痛んだ。ジェイソンが今会いたいのは主任捜査官などではない。会いたいのは――認めるのも情けないが本音だ――恋人だった。一度はジェイソンを「かけがえがない」と言ってくれた男。ジェイソンを――ジェイソンだけを――ずっと求めていたと言ってくれた男。ジェイソンを案ずる気持ちを見せてくれる男――行動分析課【BAU】の主任としてのプロの関心ではなく。
「かまいません」
 ジェイソンは固い口調で答えた。プロフェッショナルに徹することくらい、彼にもできる。
 サムの視線がチラッと、ジェイソンの声音の何かに反応して揺れたが、苛烈で重々しい目つきはそのままで、機械を介さずジェイソンの脳波を直接スキャンしようとしているかのようだった。
「どれだけ覚えている?」
 さて、それが問題だ。
 ジェイソンは目をとじ、意識からサムを締め出すと、集中を試みた。
 夜。寒さ。雨と、駐車場の匂いを思い出す。中華料理の匂い……いや。違う、腐ったタマネギ――。
 不意打ちの吐き気に胃がよじれた。ジェイソンは酸い味を飲み下し、目を開けて口ごもった。
「その――水がもらえれば」
「もちろんだ」
 サムはボタンを押してジェイソンのベッドを起こすと、プラスチックのピッチャーからストロー付きのプラスチックのコップに水を注いだ。ジェイソンの口にあてがうつもりだったようだが、ジェイソンはカップを取ると味気ない水を何口か含んだ。
「ゆっくり飲め」
 サムの声はぶっきらぼうだった。気まずそうだ。
 ジェイソンは無視した。
 水は効き目があった。少しの間、落ちつきを取り戻す時間を取れたことも。今さらながらに腕の点滴に気付く。両拳には擦り傷と切り傷。これか? 誰かと争ったのか。強盗にでも襲われた?
 数え切れないうずきと痛みも段々と意識されてきた。背中の下部、膝、肘、右肩――まあ右肩は元々痛む。右足首はテーピングできつく固定されていた。少しは動かせるが、痛い。
 混乱しているし、あちこち痛む。事態を把握する時間がほしかった。サムに質問をやめてほしい。いやサムに一番してほしいのは……まあ、ありえそうにないから考えるだけ無駄だ。
 ちらりと見上げると、サムはまだじっと彼を、例のまばたきもしない強烈な凝視で見つめていた。明らかに、この被害者が証人として信頼に足るか値踏みしている。
 被害者――。
 いや。冗談じゃない。そんな言葉は大嫌いだ。自分を被害者と見なすなんて御免だ。ジェイソンは連邦捜査局FBIの特別捜査官なのだ、一般市民とは違う。被害者などではない。それくらいなら容疑者になるほうがマシだ。
「すみません、平気です」
 ジェイソンがプラスチックのカップを返すと、サムがそれをベッドサイドのテーブルへ置いた。
 ジェイソンの葛藤ぶりはサムにも伝わっていただろうが、ならまた後にしよう、とは言ってくれなかった。どれほどジェイソンがみじめな気持ちだろうとこの聴取は行われるのだ。その理由はジェイソンにもわかっている。犯罪が起きた今、この一秒ずつが物を言う。そして捜査機関は彼のあらゆる証言を必要としている。
 ベッドの向こうにある、メタルフレーム入りの岩場に立つ灯台の写真を見つめた。そう出来のいい写真ではないが、水面にはねる陽光や泡のきらめきをよくとらえていた。海と静寂。心をどうにか鎮めようと長い息を吐き、ジェイソンはもう一度記憶を探った。
 排気ガスまじりの冷たい夜気……近くのレストランの料理……駐車場を囲む木々の濡れた緑の香り。
「あの男は木の間で待ち伏せしてた」とジェイソンは言った。
 そう、思い出していた。妙にぴたりと寄せて停められていた黒いポルシェ、そのせいで車に乗り込みづらくなっていた。トランクのボンネットが上がっていた。どうして怪しいと思わなかったのだろう?
「男?」サムがくり返した。「相手を見たか? 顔は? 特定可能か?」
 ジェイソンは首を否定に振ったが、はっきりとはわからないままでいた。男、というのは正しいと思う。正しいように感じられた。なら相手を見たはずだ。どうして思い出せない?
「相手の身長は?」
 その質問に集中を崩される。
 ジェイソンは一連の出来事そのものを思い出そうとしていた。一方のサムは容疑者の有用な特徴を要求している。
「高かった」
 サムは粘り強かった。
「お前より高かったか?」
「俺より……」
「同じくらいの背丈だったか? お前よりも高かったか?」
「背は、高かった」
 ジェイソンはゆっくりとくり返した。まるで濁った水を見通そうとしているかのようだ。闇がのしかかってくるような感覚は覚えている。あれは夜のせいか、それともあれが襲撃者なのか。それどころか正確な記憶なのか、投与されている薬の作用か……何かたっぷり投与されているのは間違いない、ベッドに横たわっているのに頭がふらつく。
「相手の手は見たか? 手袋をしていたかどうか」
 ジェイソンは首を振り、それからという意味でまた首を振った。こうしたことを記憶するよう訓練されているというのに、このていたらくが情けない。
 ふと、あるイメージが浮かんだ。鋭くてぞっとするもの。針のチクリとする痛み。首を、刺された。
 サムを見つめて、反射的に首に手をやった。小さいがヒリヒリする膨らみが、喉元、鎖骨のすぐ上にあった。夢ではなかったのだ。
「何を注射されてました?」とサムに聞いた。
 サムの表情は読み取りにくいものだった。
「チオペンタール」
 ジェイソンは目を見開いた。
「ペントタールナトリウム?」
「ああ、そのとおり」
 おかしな話だ。そうでもないのか。一九七〇年代のテレビドラマで自白剤として知られるようになったペントタールナトリウムは、即効性のバルビツール酸系薬物で、多量の投与でただちに、そして長時間の意識不明を引き起こす。
 では……ジェイソンを殺すつもりはなかった、ということだ。すぐには。つまり、どういうことだ?
 上がっていたトランクのボンネットを思い出す。
 誘拐。
 また吐き気がこみ上げてきて、飲み下した。
「相手は目の前にいたはずだ」サムがまた話を戻した。「思い浮かべてみてくれ。覆面をしていたか?」
 ジェイソンは目をとじた。だが光景が……まったく。思い出せない。
「かもしれない」
「相手は口をきいたか? 何か言っていたか? お前を名前で呼んだか?」
 このクソ野郎、いい加減にしろ。少しは時間をくれたっていいだろう……。
 だがサムの言葉が意識に入ってくると、ジェイソンははっと目を開けた。
「そうだ。あの男に名前を呼ばれた。と。思い出した」
 つまり無差別な襲撃ではなかったということだ。だがそんなことわかっていただろう? そもそも一人前の大人を市中でかどわかすなんてことは滅多にやらないものだ。ギャングは別として。あとCIA。そしてジェイソンはギャングに狙われる覚えはまるでない。CIAからも。違う、彼を狙ったのは民間人の誰かだ。ジェイソンがFBIで働いていると知っている誰か。大胆で、とにかく冷血な野郎。
 怒りと――今さら目をそらしても仕方ない――危機感に鼓動が速まる。サムがチラッとベッド脇のモニターに目をやった。
「お前はよくやっている」と告げる。
 ジェイソンの笑いはこわばっていた。
「でしょうね。何も覚えてないってことを除けば。尾行されているのにも気付かず。銃も携帯せず」
「チオペンタールは即効性で、三十五秒から四十秒のうちに意識を失う。銃を抜いていたら、あるいは自分で自分を撃っていたかもしれない」
「ですね」
「常に銃を携帯する義務もない」
 たまらない。ジェイソンのうかつきわまりない行動をサムがいちいちフォローするということは、本当にジェイソンを被害者として見なしているということだ。
 ジェイソンは口を開けたが、サムのほうが早かった。
「尾行されていたのは間違いないと思うのか?」
 ジェイソンは額をこすって、記憶を呼びさまそうとする。
「されていたはずです。テイクアウトを買いに行く予定なんかなかったんだし」
 口をとじて、さらにこめかみを揉んだ。中華のテイクアウトを買ってサムの家ですごすはずだった夜が、別の人生のことのように遠い。
 サムは何も言わなかった。
 やがて、ジェイソンは顔を上げた。
「たしかだと思います。あなたの家を出た時、黒いスポーツカーが後ろをついてきた記憶がある、と思う」そこで言い直した。「車が後ろにいたのを。ついてきていたかどうかまではわからない」
「それから?」
「レストランから出てくると、黒いポルシェが車の隣に停まっていた。トランクは開いていた。てっきり運転手がスペアタイヤを探しに行ってるのだと思って……」ジェイソンはぼそっとつけ足した。「深く考えたわけじゃないですが」
「そう思っても無理はない状況だ」
「まあ。とにかく、その車が近すぎたので、助手席側に回ってシートに料理を置くほうがいいかと思った。まともに覚えてるのはそれだけです。それと、針で刺されたこと。ほかのことは全部ぼやけてる」
 そしてさらにぼやけていく一方だ。目をとじて眠りに戻りたくてたまらない。気分が悪く、寒くて、動転していた。
 みじめな物思いから、サムの声ではっと引き戻された。
「知っている声だったか?」
 ジェイソンは懸命に思い起こした。
「そういう……感じでは。何か、あった。彼は興奮していた。声が甲高くなってて。神経質で。緊張していたのかも?」
 初心者? 初めての誘拐?
「よし」サムが言った。「いいぞ」
「そうですか?」ジェイソンはおざなりに返した。
「ああ。犯人の声に特徴はあったか? 訛りはあったと思うか?」
 ジェイソンは溜息をついた。
「なかったと思います。ただ、今は……」
 突然にもう限界に達していた。心臓が激しく鳴り、全身から汗が噴き出す。プライドだけを支えに、休憩をくれとたのみかかる言葉をこらえたが、段々サムが憎くなってきていた。
「わかっている」サムの口調は、予想外に優しいものだった。「すまない。あといくつか聞くだけだ。恨みを持たれているような相手に心当たりはあるか?」
 ジェイソンはじろりと、刺すような目つきを返した。
 サムは視線を受け止め、たじろぎもしない。
「ああ、FBIで働いてる以上恨みを買うのは仕事のうちだが、これは市中での暴行であり、連邦捜査官の誘拐未遂だ。そこまでしてお前を片付けたいと思っているのは誰だ?」
「誰もいない。俺は美術犯罪班ACTの捜査官ですよ。ACTの一員を誰もそこまで邪魔には思わない」
「お前はマイアミでは撃たれている」
「現場で揉めたからです」
 たしかに、というようにサムもうなった。
「シェパード・デュランドならどうだ? お前が来るまではいい思いができていた。兄のほうは? バーナビーだ」
 それに対する反論をまとめようと、ジェイソンは余力をかき集めた。
「俺を片付けたところでフレッチャー=デュランド画廊に対して進行中の捜査が止まるわけでもないし、どのみち捜査そのものが行き詰まっている。まさにそのせいで、俺を片付けるなんて向こうにとって最悪な手だ。また注目されてしまう」
「わかった。私生活では? 恨まれるようなことは?」
、俺の私生活だ」
 ジェイソンはそう言い捨てた。苦々しさがこもるのを止められなかった。
 その響きに、サムですら間を置いた。唇を引き結んでから、言った。
「お前の家族は政界と関わりがある。あるいは――」
「ありえるかもしれませんが。今回はその手の話だとは思えない――あなただってそうでしょう」
「そうか? ならどういうことだったんだと思う?」
「俺の文通相手ペンパル。ジェレミー・カイザー」
「可能性のひとつではある」とサムが言った。
「こんなことをするなんてイカれてますよ」
「イカれてるのかもしれない」
 この数ヵ月で、カイザー――前年の夏にキングスフィールドで起きた陰鬱な事件の証人――はジェイソンに一連の手書きのグリーティングカードを、不吉さを増すメッセージ付きで送りつけてきていた。はじめ、ジェイソンはその一方的な接触を気にしないようにしていた。サムがそれらの手紙をどれほど深刻に受け取めるか見るまでは。
 もっともサムによれば、あのカードそのものは判断が微妙だという話だが。
 不安になってきて、ジェイソンはサムの無表情な顔を見つめた。
だと、思ってるんですか?」
「仮説を立てられる段階ではない」
「前回連絡が来た時は、カイザーはリッチモンドの辺りにいましたよ。同じ州だ。それにたしか、あの男は黒いポルシェを持っている」
「カイザーは、候補のひとりだ」
「俺に状況を説明する気はないってわけですか――」
 言葉の残りは、身を屈めたサムに素早い――あまりにもあっという間の――キスを開いた唇にされて、途切れた。
「お前はよくやった。いいから少し休め。なるべく早く、また来る」
 まるで、足りなかったアドレナリンが放出されたかのようだった。短いキスだというのに、廊下を遠ざかるサムの足音を聞きながらジェイソンは唇のうずきを感じていた。

--続きは本編で--

もどる