狼と駆ける大地
イーライ・イーストン
■プロローグ 町への帰還
2019年3月
カリフォルニア州マッドクリーク
「駄目よ、ほら、もう」
母親が、くるりと背を向けようとしたジウスの腕をつかんだ。
「ジウス、
行くな!」と父が厳しく言い渡す。それから冗談でも言ったかのようにニヤッとした。
どんな冗談なのか、ジウスにはわからない。ジウスにとどまってほしいわけじゃないのか? ユーモアを理解するのは彼には骨が折れる。
「でも、ひとがあんまりたくさんいるから……」
ジウスは諦め気味にもそもそと言った。
「何週間もずっと言い訳ばっかりじゃないの、あなたは」母親に言い聞かされる。「もう言い訳はなし。みんながあなたに会いたがってるんだから。
せめて顔を見せて挨拶はしてあげて。あなたはこの町と群れの一員なんだから、そう振る舞うのが大事なの」
ジウスと右腕を組み、左腕は父親と組んでジウスの逃げ道をふさいでから、母はリリー・ビューフォートの小ぶりな家まで地獄の行進を始めた。
家には明かりがともり、窓の輝きは冷える三月末の夕焼けにも負けないくらいだ。車やバイク、スクーターが、おもちゃのように散らばって停められている。家の中からは騒音、音、また騒音。大量の会話による不協和音に、時おり「キャン」という吠え声や、唸るような笑い声がはさまる。弾むような音楽が流れ、皿やフォークがガチャガチャ鳴った。おまけに木の床に爪が当たる音までしていて、本物の犬か、犬の姿のクイックたちが歩き回っているようだ。
ジウスの耳は、とりわけ鋭敏だった。犬の姿をしている時は垂れ耳のおかげでいくらか緩和されるが、ヒトの姿ではそうもいかない。だから人混みが苦手だ――空港、バス、都会。そうそう、バーやナイトクラブも。無理無理!
生まれ育ったマッドクリークを、これまでやかましい場所だなんて思ったことはなかった。ただ近頃、住民が一気に増えたせいで、町はロックバンドのコンサートなみになってしまった。
両親がジウスをつれてポーチの階段を上がっていく。母はピーナツバターの香ばしい香りがするマフィンの入ったバスケットを片手でうまく抱え、父はサイダーの六本パックを空いた手に持っている。ジウスが抱えているものなんて恐怖だけだ。できることならこの美しい夜、ただ時間を超越した木々や、野生動物の素敵なにおいや囁きに包まれてすごしていたい。
だがジウスはクイックで、野生動物ではない。だから、こういうヒトっぽいこともしないといけないのだ。
(しっかりしろ。さっさとすませてしまえ)
ジウスの母がドアを開け、三人で順繰りに入った。バークリー家は三人とも大柄だ。母も父もセント・バーナードの血筋だが、ジウスはふたりのどちらよりも大きい。肩幅が広く胸板も厚く、脚も長いし太腿はとてもたくましい。玄関も頭を下げてくぐった。
子供の頃にこの家には何度も来ていたし、においや眺めはなつかしくて、落ちつくものだった。ほとんど昔どおりで、ただ壁の色が空色になり、紺のチェック柄の大きなカウチがあった。焼き菓子の香りが立ちこめて(砂糖の香り)、ビューフォート家っぽい香りもした(スパイシー)。だが、昔とは違っていた。
この夜、家は混み合っていた。あらゆるタイプのクイックたちが(小さいの、大きいの、若いの)いて、子供たちが足元やテーブルの下ではしゃいで駆け回り、白髪交じりの老いたクイックたちはおだやかなまなざしをしている。群れは肌の色も様々で、白、黒、褐色、薄黄色、茶味がかった灰色の肌までいる。全員の髪がふさふさと、ヒトにしては奇妙なくらいに濃い。鼻も長い鷲鼻から、短頭種ならかなりの鼻ぺちゃだ。
この大集団を見ると、人間たちのほとんどが犬
変身能力者の存在すら知らないなんて、とても信じがたい。もっとも、こんなに大勢が一堂に会するのも珍しいのだ。ひとりだけなら、ジウスが大学に行っていた時もそうだが、彼らの特徴はそれほど際立ちはしない。だがこんなふうに何十人も集まると、
人間種とどこか違うのは見るも明らかだった。
じつのところ、ここには幾人かの人間たちもいる。クイックたちの秘密のとばりの内側へ、それぞれのきっかけでたどりついた希少な仲間たち。とは言え、ここにいる大多数は、ジウスにしてみればひたすら見知らぬ顔ばかりだ。
ジウスは床に視線を落として、うっかり誰かを挑発したりじゃれあいに誘ってしまわないようにした。こうしていれば誰にも気付かれずに――。
「ジウス!」
リリーの声だ。彼女は聞き違えようがない。
顔を上げると、小柄な黒髪の女性が両腕をつき出して駆けてきた。ジウスの腕にとびこんできた彼女は、小さいのだが、あふれる活力が感じられた。もう五十代だと思うのだが、長い髪はわずかな白い筋以外は黒々として、昔どおりの鮮やかな青い目は聡明で、好奇心満々の表情も相変わらずだ。
ジウスはリリーを抱きしめて、心からの幸福感に胸をときめかせた。自分の群れ、子供の頃に絆を結んだ群れの仲間。
「ジウス、久しぶりねえ! 六年ぶり? 十年だっけ? お母さんに会うたびにいつも聞いていたから、あなたが森林管理の学位を取って林業会社で働いてることも全部知ってるわよ。なんて会社だったかしら?」
ジウスに下ろされると、リリーは自分の顎をつついて、目をきらめかせた。
「そうよ、カーディフル、そうよね?」
「それは、そうなんだけど、今はもう――」
「もうそこでは働いてないのよね、知ってるわ! そこでの仕事が嫌になったのよね」眉をひそめる。「昔からの森を切り開くなんて。チェンソーでバサバサと! あとから植林したところでかわりになるわけないじゃない。でしょう? あなたが嫌がる気持ちもわかるわ。それに足首を傷めたんでしょ、そう、たしか二年前よね。それに時々おなかの具合が悪くなる。かわいそうに!」
リリーがポンポンとジウスの腕をなでた。
ジウスは母親にむすっとした顔を向けた。たしかに、母はリリーに
全部しゃべっているようだ。
「今はカリフォルニア州の森林局で働いてるのよね」リリーが数え上げるように続けた。「前の仕事より好きなのよね、でしょう? お母さんはそう言ってたわ」
「好きです」
ジウスは恥ずかしくなって肩を丸めた。上目遣いに視線をとばし、駄目な人生の話を皆に聞かれていないかとうかがう。だがほとんどは自分たちの会話に夢中のようだ。助かった。
「そしてこうやって、あなたはマッドクリークに帰ってきてくれた! でももう何ヵ月も前に帰ってきてたわよね、悪い子! 群れの集会にもこれが初めて。どうしてずっと来てくれなかったの?」
「えー、その、パーティーが好きじゃなくて……?」
リリーは悪臭でも払うかのように手を振った。
「バカ言わないの、ジウス! あなたはクイックでしょ。クイックたちはみーんなパーティーが大好き!」
疑いもしない言い方だった。ジウスは眉を寄せる。
「みんな? でも――」
「いたな、ジウス!」
リリーによる『ジウス・バークリーの人生について』の演説から逃れるためならどんな割り込みも歓迎だ。だが、笑顔でやってくるランス・ビューフォートの姿は、とりわけ大歓迎だった。
ランスがそばにやってくると、お互いに肩や上腕を擦り合わせながらすれ違い、反対側もくり返した。こうも本格的な群れの挨拶は久しぶりで、ジウスの胸に、ランスへのなつかしさや感傷がこみ上げた。
やっとランスに会えてうれしい!
ランスは、ジウスの仲良しの幼なじみだ。ずらりといるビューフォート兄弟のひとりで、その全員が黒髪と青い目、白い肌をして、平均的な身長と引き締まった体つきをしているのだ。ジウスはひとりっ子だ。ランスと彼は相手に必要なものを与えあった――ジウスは群れへの所属感を、ランスは家の狂騒から逃れる避難先を得た。自転車を何時間も乗り回したり、川辺や森の中を延々と歩いた。義兄弟として、子供っぽい儀式で誓い合ったこともある。映画で見たように手のひらをナイフで切るのではなく、犬の姿になって、相手のうなじを慎重に血が少し出るくらい嚙み合ったのだ。犬シフター同士だからできたことだ。ずっとクールだし!
思い出の中のランスは、初めての変身に緊張し、自制を失ってしまうことを恐れていた。ジウスが寄り添って、そばでずっと励ましてやったのだ。ふたりはそれぞれ得意なことが違っていて、それでうまく補い合っていた。
たとえばランスは、とにかく群れのことで頭がいっぱいだ。その群れに、まるで当然のように新入りをどんどん受け入れている。一方のジウスは……一匹狼というわけではないが、心を許す相手はほんの一握り。両親、大学にいたわずかな友人、ランスとビューフォート一家。ランスのためなら何だってできる。子供の頃からどれだけ時間が経とうが、この友のためなら、何だろうと。
ランスは群れ風の挨拶を終えて、下がった。だがジウスは背をかがめてハグで抱きこむ。ランスを宙に持ち上げることだってできたが、あまり威圧的に見られたくないのでやめておく。ただ自分のでかい体にあふれてくるぬくもりを、ハグにこめずにはどうしてもいられなかった。
ランスもハグを返し、ジウスの広い肩を叩いた。少しの後、ふたりは離れる。ランスがやや気まずそうな顔をしていたので、やり過ぎだったのかもしれないが、ジウスはうれしくて気にするどころではなかった。
「まったく、ジウス、いい加減会える頃だと思ってたよ。町に戻ったって聞いてたぞ、何だ、数ヵ月前か?」
「クリスマスに」
「クリスマス! なのに今日やっと会えたときた。何だってんだ、駄目だろ」ランスがジウスの母親に向けてウインクをした。「まだ人混みが苦手なのか」
「大勢いるところは好きじゃないんだ」
ジウスは本音を言った。リリーの言葉がよぎる。『クイックたちはみーんなパーティーが大好き』。またもや、はぐれものの疎外感を覚える。
「せめて事務所には寄れよな。顔を見せに」
「そのつもりだったんだけど」ジウスはジーンズに両手を突っ込んだ。「ただどうも……車で通るたび、いつも忙しそうだったから。邪魔をしたくなくて」
マッドクリークの変化は、ジウスにとってありがたいものではなかった。のどかでのんびりしていたメイン通りは、自転車に乗ってたって一、二台の車とすれ違うくらいだったのだ。それが今や、町の中心部に車で行くたびに、公園やデイジーのダイナー周りに何十人ものクイックたちがたむろしている。母の話だと、配送センターが建設されて大勢が仕事に就くまでははるかにたくさんの、何百人もがうろうろしていたという。想像だけでゾッとする。
ランスが苦い顔になった。
「まあな、ここんとこ忙しい。でも俺のオフィスの中は静かだから大丈夫だ。
肉汁やコーヒーもある。お前が帰ってきてくれてうれしいんだよ」
ランスのまなざしはやわらかく、瞳は明るく、心からの笑顔にジウスの心がパタパタと尻尾を振った。
「わかったよ、行く。仕事場を見せてもらいたいしね? 保安官の友達なんて、なかなか持てるもんじゃないし」
ランスと一緒にオフィスでのんびり、というのはいい。ランスがマッドクリークの保安官になっていたことに驚きはなかった。前代の保安官を務めたのはランスの父親だったし、子供の頃からランスが町に抱いていた猛々しいほどの愛とひたむきな忠誠は、歳に似つかわしくないほどのものだった。
「なあ」とランスは言った。「前と変わったことといえばだ、俺の夫と娘を紹介させてくれ。こっちだ。怖い相手じゃないから、本当に」
ランスはジウスの手をつかみ、人ごみの中に入っていった。
ジウスは友人だけに集中し、すれ違うにおいや声に気を取られまいとがんばった。大変だった。犬の本能が、においを嗅いで記録したいと騒いでいる。ジウスはぐっと口を結んでランスの手を握りしめた。
ランスの足が止まった。
「ジウス、彼がティムだ」
ティムは人間だった。ひょろっとして背が高く、優しい顔立ちで、もさもさとした前髪が目の上にかかっている。とてもいいにおいがした。大地や何かが育つにおいのような、太陽のような。曇りのない目だ。ジウスは一目でティムが気に入った。
「はじめまして、ジウス!」ティムが温かな笑顔で手を差し出した。「ランスがあなたのことをよく話してくれて。高校の頃のいろいろ楽しかった話とか。やっと会えてうれしい」
ジウスはその手を握り返す。自分の前足がティムのものに比べて巨大で、ほてっているように感じられた。
「はじめまして、ティム。母さんから、ランスが結婚したって聞いたよ。ランスがそこまで気に入ったならいい人だろうって思ってた」
「それはありがとう」
ティムの笑みが広がる。
「モリー、ちょっとダディのところにおいで」
ランスがビュッフェテーブルの下でかくれんぼ中の幼い少女を呼んだ。少女は豊かにカールした肩までの黒髪で、小さなジーンズとブーツ、〈犬のおきて〉と書かれた赤いウエスタン調のTシャツを着ている。遊び相手の少年たちと同じく、見るからにビューフォート一家の血筋だ。髪は夜のような漆黒で、目はコマドリの卵のように青い。ビューフォート一族はボーダーコリーが先祖で、それを示す聡明さが顔にも現れていた。ジウスが母から聞いた話だと、このモリーはランスの兄とその妻の子で、ランスとティムが養女にしたのだという。
幼いクイックの少女がやってくると、ランスはさっと彼女を抱え上げた。あまりにも慈しむような表情が、別人のようだ。
「このひとはダディのお友達だよ。ジウスだ。ご挨拶できるかな?」
モリーが大きな目でジウスを見上げた。ジウスに怯える子供もいるのだが、モリーはまるきり動じていない。
「よろしく、ジウス! ふしぎなおなまえ。あなたからは、木のにおいがするね」
ジウスの顔が熱くなった。
「それは、ええと、一日中森にいたからだね。きみは素敵な鼻をしているんだな、モリー」
「だれにもまけないおはなだよ!」モリーは鼻をこすってみせた。「ダディ、もうあそびにいっていい?」
ランスに下ろされて彼女は即座に走り去った。
「きみは幸せそうだね」
ジウスはランスに言った。ジウスだって、ランスが幸せでうれしいと思う。つがいと子供を持つ――とても大人なことに思えたし、人生に“意味”を与えるようなことでもあると思う。おかげで、自分がとても老いたような、それでいて半人前のような気持ちになっていた。胸が重く痛む。ランスとは同い年で、三十四歳なのだが、ジウスはつがいへの衝動を感じたことがなかったし、これからもきっと縁がない。
「幸せだよ」ランスの声には深い充足があった。「こんな暮らしを想像したこともなかったが、ありがたくもツキに恵まれたんだ。さて、ほかの皆にも紹介させてくれ。わかってる、ちゃんとわかってるさ、知らない相手は苦手なんだろ。でもこいつらには会っていってくれ。この町にはすごくいい奴らがいるんだよ」
ランスは、ジウスを保安官助手のローマンに紹介した。ローマンは軍用犬上がりのジャーマンシェパードだ。ローマンのパートナー、マットにも会った。マットはジウスと同じ森林局で働いていて、ジウスはマットのことは聞いていたが会うのは初めてだった。
ラヴという人間にも会った。新しい大規模な配送センターの責任者で、大勢のクイックを雇っているのだ。そしてラヴのパートナーのサミー。驚くほど美しいクイックだ。ふさふさしたチョコレート色の髪とやわらかな褐色の肌、金色の瞳、とても甘い微笑み。チョコレート色のラブラドールは、クイックとしては初めて見た。
さらにジェイソン・クーニック博士、クイックを研究している遺伝学者で生まれついてのハスキーのクイック。ジウスも学生時代の彼を覚えてはいたが、親しかったことはない。
そのジェイソンのパートナー、マイロ。ラブラドゥードルのクイックで、とりわけふさふさした金茶色の巻き毛だった。
ジウスは、においを覚えるのをあきらめた。情報が多すぎる。ランスはうれしそうにジウスを皆に紹介していたし、水をさしたくはなかった。ランスの言うとおり皆とても素敵な相手なのだろうが、ジウスは追いついていけなかったし、いたたまれなかった。どうしようもなく不器用な相槌しか打てない自分がいた。舌が、何百キロもあるように重い。肌がチクチクして、口が渇く。腰がひけて、耳がしょんぼりと少し下がっていた。犬の姿をしていたならすっかりしっぽを垂れ下げていたはずだ。
やっと――やっとランスが、疲れきったジウスに気付いた。ビュッフェテーブルのほうへつれていき、顔をじっとのぞきこむ。
「ごめんな、俺ばっかり先走っちまったな。何か食ったらどうだ? ビールを取ってくる。ビール飲むだろ? 少し気が楽になるぞ」とランスがジウスの腕をさする。
「いいね。ビールはいい。二本?」
唇が鈍く、ランスが歩き去ると、つい目で逃亡経路を探していた。ビュッフェテーブルのそばに窓があって、夜気を取り入れるために開いている。だがジウスの肩幅では狭すぎるかもしれない。
皿を前にためらった。料理はいいにおいだったし、彼の
犬はかぶりつきたがっている。だが食べるべきか、チャンスがあるうちに逃げ出すべきだろうか?
つらい決断だ。とても悩ましい。
「トリの手羽はうまいけど、俺なら卵のディップはつけないかな。
親子だし」
声をかけてきたのはマットだった。ローマン保安官助手のパートナーだ。後半は声をひそめて、思わせぶりに眉を上下させながら囁く。
何が親子だって? これはジョークか? あまりにストレスがかかりすぎていて解き明かす気にもなれない。
「そうか。うん」と、バカになった気分で答えた。
「マットだ。俺の名前はマット」肘でつついてくる。「気にするな。名前をまともに覚えるまで何ヵ月もかかるよ」
「名前は覚えてるよ、マット。忘れていない」
「そうか?」マットがジウスの顔をのぞきこんだ。「ずいぶん背が高いんだな! きみのことはよく聞いてるよ、ジウス」
「よく?」
「そうなんだよ。一緒の森林局に勤めてるからってだけじゃなく。でも同じ職場なのは……イケてるよな、ホント」
拳を出されて、ジウスはひるんでから拳を合わせた。
「うん。……イケてる」
「ただ、それだけじゃなくてさ。もう聞いたかはわからないけど――」マットが親指で鼻をかく。「俺たちは捜索救助隊の活動を始めてるんだ。フルタイムじゃない、どっちかと言うと有志での消防団に近いやつ。伝わるかな? 災害現場に出向いて、救助活動をする。いずれはいろいろなタイプの災害に対応できるよう訓練したいけど、今のところは市街地の捜索救助だけだ。地震やハリケーンの犠牲者は市街地に集中しやすいしね。都市部や郊外の」
「捜索救助?」
ジウスの背がのび、頭の両側で耳がピンと立った。
「そうだよ。メンバーは何人か選考済みだけど、スキルをうまく補い合える組み合わせとか、この仕事に向いたメンバーをじっくり選んでいきたいんだ。それで、ランスが言ってたけど、きみは……」
マットが咳払いをした。
「セント・バーナードの血を引いてるそうだけど。合ってるかな?」
ジウスを上から下まで眺めて、小さく首を振る。その畏敬のまなざしがジウスの心をくすぐった。
ジウスはきっぱりうなずいた。
「そのとおり! 母方の曽祖父はスイスで、アルプスにあるセントバーナード
救護宿で生まれたんだ。とてもすごかった。雪崩に埋もれた人々を探し出せた。六メートル下からだろうとね。僕も物を探すのは得意なんだ。森によくいるだろ、何だって探し出せるよ。つまり、においがわかるもので、大まかな場所がわかってれば」
あまり勢いよく首を振ったものだから、頭がもげそうになった。先祖がしていた仕事についてよく思いめぐらせたものだ。森で遊んでいた子供の頃、行方不明の旅人を探すふりをしたこともあった。ウサギにその役をさせて。ネズミとか。
父は、先祖の仕事を誇らしげに語った。曽祖父――やはりジウスという名だった――の銅像がスイスのどこかのホテルにあるのだという。その曽祖父が、一族で初めての“
種火”を得て、ヒトの姿になれる能力を手に入れたのだ。三世代前のことだが、バークリー家は今でも血統に誇りを持っていた。父方のほうの先祖もそこまで有名ではないにせよ、同じく能力に秀でていた。
マットがニヤッとした。
「そいつは凄い! しかもめっぽう強そうだ」ジウスの腕をつかんで、ギュッと力をこめながらおどけた顔になる。「こいつはまさに動かぬ
物的証拠だね」
ジウスには意味がよくわからなかった。ブツって何だ?
「ああ、えっと、体が大きいのは遺伝で」
「その遺伝子に万歳三唱だ」とマットがウインクをした。
突然ローマンがその場に現れ、マットのそばに立ってジウスをじろりとにらみつけた。
マットが手を下ろす。
「よお、ベイブ。ジウスが、捜索救助チームに興味あるかもって言ってくれたぞ」
ローマンがジウスを冷たく値踏みした。
「そうなのか? まずは試験コースに合格してからだな」とても低い声で、うなるような響きがあった。「障害物コースもある。時間内での周回、嗅ぎ当て試験、体力テスト、持久力テスト。軍用犬が受ける訓練を元にしたものだ。だがヒトの姿で受けることになるぞ、捜索チームは大体の場合ヒトの姿で働くからな」
「今週来て、試してみないか?」マットがジウスを誘う。それからローマンへ向き直って軽くにらんだ。「何曜日ならいい、ベイブ?」
ローマンはふんと息をついたが、肩から力を抜いたようだった。
「水曜なら、多分。ああ、水曜だったら」
「水曜は空いてるかな、ジウス?」
マットに期待の目を向けられる。
ジウスはまばたきした。
「僕は……六時まで仕事だ」
「完璧だ!」マットが両手を打ち合わせた。「保安官事務所で六時半に会おう、それからやろうじゃないか。じゃあまた!
ぶっち禁止な」
マットとローマンが去っていく。
ぶっち? どういう意味だろう? 宙ぶらりんのわからない状態が、ジウスは苦手だ。どうして皆、言いたいことをもっとはっきり言わないのだろう。どうして地雷原のように噓や言い訳を散りばめたり、ジウスには理解できない裏の含みやジョークを使うのか。
混乱したあまり、自分が町の中心部にある保安官事務所に行く約束をしたばかりか、捜索救助隊の入隊テストを受けることになった事実に頭が追いつくまで少しかかった。いや、興味はある――とりわけ内なる
犬にとっては――だがじっくり考える余裕もなくこんなことになってしまった。ジウスはじっくり、ゆっくり、とことん考えるのが好きなのだ。とりわけ、人生を変えたり多くの時間をとられるような物事については。
戻ってきたランスが、ビールを二本手渡してきた。
「どうしたんだ? 顔がプードルみたいに白いぞ」
「ああ……」ジウスはうなった。「捜索救助隊のテストを受けると言ってしまった。何も知らないのに。最初そんなつもりはなかったんだけど、気がついた時には――」
「わかるぞ」ランスが笑いをこぼした。「相手はマットだろ」
「うん、マットだった」
「俺のせいだ。マットに、お前なら隊にぴったりだと言ったんだ。本気だぞ。お前もきっと気に入るよ。いや絶対気に入る。保証するよ。凄くいいじゃないか。もし向いてないと思ったらいつでも手を引いていいから」
ジウスはランスの顔をじっと見つめた。
「本当に?」
「かまわないよ。絶対だ」
それで少し、追い詰められていた気分がやわらいだ。
「ならいいよ。うん」
「よし。庭に行ってみないか。外の空気を吸いに。お前の仕事の話をたっぷり聞かせてもらいたいし、近況も聞かせてほしい。それでいいか?」
ジウスはこの人だかりから出られるなら何でも飛びつく気分だったし、旧友がちゃんとそれをわかっていてくれることがうれしかった。
ふたりは外に座って何時間も話しこんだ。優しい夜の風と、遠い虫や鳥の声に包まれて。
『それでいい』なんて言葉じゃとても足りない時間だった。これこそ故郷だ。
パートⅠ アラスカ
■1 断層線
8月
アラスカ州アンカレジ
ジウス
「よーしみんな、忘れるな。自分の担当区域を外れず、パートナーと一緒に動け。
何が起ころうとだぞ。無線をオンにしておくんだ、連絡が取れるように。チェックしてみてくれ、ちゃんとオンになっているな?」
スイッチは間違いなく入れてあるが、ジウスはマットの言うとおりに自分の無線をチェックした。ほかの八人のクイックたち、マッドクリーク捜索救助隊の皆も同じようにする。よし、赤いランプがついている。
「スイッチ入ってるよ!」
サミーが、ほとんど興奮を抑えきれずに声を上げた。ほかからも声が上がる。チームは一刻も早く始めたくてうずうずしているのだ。ジウスだってそうだ。走って嗅いで見つけたい、その衝動で肌がチクチクする。
だが隊長のマットが、まだ彼らを行かせてはくれない。腰に手を当て、全員をいかめしく見回した。険しい顔はただの見せかけだとジウスにはわかる。隠れた誇りが透けて見えるし、何なら表に出てきそうだ。
マットはいい隊長だった。純血の人間なので、ほかのクイックたちのように仕事に熱中しすぎてしまうこともないし、災害現場にいるほかの救助チームの人間たちの相手もうまい。もし誰かにマッドクリークのチームが奇妙だと思われたら、マットがどうにかして対応し、クイックたちの
秘密を、そう、秘密のままに保ってくれるのだ。
「よし、マッドクリークチーム」マットがサミーの背中を叩いた。「命を救ってこい!」
皆は散った。全員走っている。オレンジのキャンディみたいだ、とジウスは思った。捜索救助隊のユニフォームを着込んでいるからだ――蛍光オレンジの分厚い帆布のズボン、オレンジ色のTシャツ、黒くてゴツいハイキングブーツ、小さな灰色のベスト。それに応急手当セットや道具の入った袋を持っている。
血が荒く騒いだ。マッドクリーク捜索救助隊に加わってから、チームと一緒に三回派遣された。洪水が一回、山火事が二回。加わってからまだ短いが、ジウスは体験したことのない目的意識とやりがいを感じていた。
このために生まれてきたのだ! 自分の潜在能力を発揮できるのはとても気分がいい。
ジウスと、パートナーを組んでいるサミーは、マットに指定された区域へ向かった。デラニー・パークにある本部から、G通りを北へ。南北は3丁目から9丁目まで、東西はH通りからC通りまでが彼らの担当だ。通りの標識は折れたり瓦礫に埋もれていたが、ジウスの脳内には地図が浮かんで、どっちに行くべきかわかっていた。
マグニチュード7・5の地震がアンカレジを襲ったのは八時間前のことだ。朝の九時すぎ、街なかの建物や通りに人があふれている時だった。それからも大きな余震がいくつかあった。街路はひび割れ、あちこちに段ができている。ビルのたわみで窓が割れて、ガラスの破片が至るところに散らばっていた。うずたかい瓦礫が道にまでなだれこんでいる。れんが造りの高い建物たちはぽっかりと歯抜けになって穴が開いたように見え、頭がもげた建物もあった。風景はちぐはぐで、こちらで建物が倒壊していたかと思えば、まったく無事か窓が何枚か割れただけの建物もある。
それに、においがあまりにも多い! 油や煙のような危険なものから、血や恐怖のような悲しいもの――時には死のにおいまでも。
ジウスは少しためらいながらG通りを見やった。どこから始めようか。いっぺんに全部取りかかりたいのに。鳴りわたるサイレンで敏感な耳が痛んだが、集中していて気にもならなかった。
サミーがそばにやってくると、右側にある、高い二つの建物にはさまれた瓦礫の山を指した。大きなコンクリートの塊や、骨のように突き出した鉄筋。その瓦礫の前には三角形の厚い板が、先端をアスファルトにめりこませて碑のように立っていた。
「見て、ジウス! あれは駐車場の建物だったんじゃないかな。きっと誰か、埋もれてるひとがいるよ。助けられないか見てみよう」
「わかった!」
ジウスもうなずき、ふたりは瓦礫に駆け寄った。耳の中で血流が騒ぐ。見つけるんだ、見つけるんだ――。
コンクリートと砂塵の上へよじ登る。ジウスはヒトのにおいを嗅ぎ取った。崩れた立体駐車場の下に閉じこめられた人間たち――一、二、少なくとも四人はいる。においから脳内に地図を描いた。どこにいるのか、どのくらい深くに、どれほど遠くにいるのか、立体的に把握して。においをくり返し嗅ぎ、弧を描きながら移動していく。肌がざわつき、すべての神経が研ぎ澄まされた。よし、ここだ。そしてここ、とても深いところ。
ジウスは指さして、何があるのかサミーににおいの分布を説明し、距離や人数を教えた。サミーは小さな旗に数字を書きこむと、ジウスが指示した場所にそれを設置し、無線でマットに連絡を入れた。高齢者がふたり、男性と女性の組み合わせで一緒に、おそらく車の中に閉じこめられている。出血しているようだが多量ではないし、ふたりとも心音はしっかりしている。お互いを励まし合っているのだとジウスは思ったが、やってきたその思いは、ほかのたくさんのにおいや助けなければいけない相手の前に、さっと飛び去っていった。
少し先、三メートル下に死体を二つ見つけた。そばには外階段にあるような古い尿のにおいがかすかにしていた。サミーが悲しい顔で〈2〉と書かれた黒い旗をその上に置く。
ジウスは自分で設定した区域内を嗅いで回り、三回、四回とたしかめて、嗅ぎもらしているものがないか、置かれた小旗が脳内のマップと違っていないか確認した。
サミーが無線連絡を終わらせた。
「マットが消防に連絡するって。大きい機械を持ってきてくれる。悲しいね。生きてるひとたちは怖がってるよね? 怖いに違いないもの」
ツールベルトからバールを抜くと、黄色い〈2〉の旗のそばのコンクリートから突き出た鉄筋を叩いた。
「僕らが来たよ! ここにいるよ。助けに行くよ! 怖がらないで!」
(怖がらないで)その言葉がジウスの中でこだまする。(怖がらないで)
「ああ、なんてかわいそうなんだろう。僕らが掘れればいいのに! 今すぐ掘りたいよ! そんなに深いところなのは確か?」
サミーが旗まで頭を下げてにおいを嗅ぎ、耳をすました。
ジウスは「ん」とだけ唸る。たしかだ。
彼はマッドクリーク捜索救助隊の、いろんなところが好きだった。
チームの全員が――リーダーのマットを除いて――クイックで、鋭い嗅覚と聴覚、そして動物的直感をそなえている点が好きだ。
メンバーたちの尽きない情熱とエネルギーが好きだ。
彼らの情の深さと、粘り強さが好きだ。決して苛々しないし不平も言わない。ジウスは生まれついてのクイックではあるが、人間たちと何年も働いてきた経験があるので、そういう前向きさを高く買っていた。
そして、この捜索救助隊の仲間との間に感じる、群れの絆が強まっていく感覚が好きだ。マッドクリーク捜索救助隊は、サミー(チョコレート色の若いラブラドール)、ゴールディ(愛らしくてはつらつとしたゴールデン・レトリーバーの女性、二〇代というところか)、ベーコンという名の中年のジャーマンシェパード、陰気な若いブラッドハウンドのワトソン、そして強そうなピットブルのローラ=ブルー(がっしりと角ばった顔に小さな黄色い目、灰褐色の肌、犬の時の毛並みと同じ見事な色合いのブルーグレーの髪)、さらに両方ともミックス犬であるジョージアとロスコーがメンバーだった。隊で唯一の人間がマットだ。全部で九名。
要するに、ジウスはこの仕事が気に入っていた。マッドクリークの住民がしんどいほど増えてしまった今、この捜索救助隊くらいがジウスにとっては丁度いい。たとえ時々、自分はマッドクリークの一員という気がしなくとも。
捜索を続け、瓦礫を越え、足場の悪いところは手をついて進んだ。大きな足を包む爪先に金属入りのどっしりした靴のおかげでどこにでも踏みこめるので、一歩ごとに慎重に足場を確かめながら体重をかけていく。体躯の大きさと裏腹に、血管を駆けめぐるアドレナリンのせいで体が軽く敏捷に感じられた。
サミーに、さらに数本の黄色い旗を立ててもらう。
そして――。
「ここだ!」サミーを呼びながら、ジウスは濃いにおいをくんくん嗅いだ。「ここに男が埋まっている。僕らでも届く範囲だ。浅いところだよ」
サミーが地面を嗅ぎ、顔をぱっと輝かせた。
「このひと、生きてるね」
「生きてる」
ジウスもうなずく。膝をつき、手袋の両手で掘りはじめた。
砂利と粉々になったコンクリートが、崩れた壁の前に山を作っていた。こういう小さなかけらだと道具より手のほうが早いし、分厚い手袋は犬の肉球に劣らず手を守ってくれる。サミーも加わって、ふたりで細かなものをすくい取ったり、コンクリートや金属の破片を引き抜いたりしていると、ついに倒れた壁の下にぽっかりと穴が開いた。
その数秒、砂塵が雲のように舞いとんで穴は暗かった。指がぬっと出てくる。男の手で、ザラザラして、灰色の埃にまみれていた。
「あ……」声がして、それから咳きこむ。「ハ、ハロー? 誰かいるのか? 助けてくれないか? どうか……」
その声にはジウスが初めて聞く訛りがあった。
「ハロー!」サミーがうれしそうに呼びかける。「うん、僕らが助けてあげる。怪我はしてない?」
さらに咳をしていた。
「ああ、助かった! 元気とは言えないけど、怪我はなさそうだが、もうこんなところから出たいんだ」
「出してあげるよ、心配しないで!」
サミーがすっかりはしゃいでいる横で、ジウスは状況を確認した。慎重にいかないとならない、瓦礫が崩れたらまずい。だが穴の上にかぶさっている壁は力を加えても安定していた。倒れてくることはなさそうだ。
さらに掘り進んで――男も内側から素手で手伝う――穴の入り口を広げた。サミーがライトで中を照らすと、男の顔が見えた。若く、おそらく二〇代で、肌はすっかり日焼けし、目はやや細い一重で、黒髪は埃にまみれ、口元を緩ませていた。イヌイットかもしれないとジウスは思う。
サミーが水のペットボトルを渡すと、男は蓋を開けてごくごくと飲み、水がつたって青いTシャツに泥の筋をつけた。
ジウスはしゃがみこんだ。男は大した怪我はしていない。サミーとふたりがかりなら引っ張り出して病院へつれていけるだろう。それから捜索に戻ってくるのだ。まだまだ、たくさんの仕事が待っている。まだまだ、見つけないとならないひとたちがいる! かなうなら今回のように、生きている相手を見つけられたら。こうやって自分たちで助け出せる相手だとなおさらいい。まるで生まれたての赤ん坊のように地上へ出てくる姿を見られるのは、うれしいものだ。命を救ったと実感できるのは。百万年経ったって、色あせることのない感覚だ。
男が水を飲み終えるのを待ちながら、ジウスは瓦礫が散らばる一帯の向こう側へ視線をとばした。ほとんどの瓦礫はよじ登って越えられそうだし――。
その時、男の姿を見た。
十メートルほど先、小さな建物の平屋根に、ひとりの男が立っている。
太陽を背にし、輪郭が光に浮かび上がっている。身長は中くらいだがじつによく締まった細身の体つきで、色あせたジーンズを腰ばきにし、太いベルトを締め、半袖のTシャツごしでも筋肉の盛り上がりがわかる。茶色の髪が陽光に赤くきらめき、とても密生したまっすぐな髪は腰まで長く垂れていた。ゆるい寒風になびく髪が、その姿を包むようだ。瞳は淡い色に見えたが、この距離では何とも言えない。
ジウスは鼻をうごめかせ、新しいにおいをうっすら嗅ぎとった。ほこりや油のねっとりと鼻につくにおいを切り裂くような、そのにおいは、閉ざされていた部屋に新風が吹きこんだかのようだった。その新しいにおいは新鮮で、氷河から吹きつける風のようでもあり、どこか野生的でもある。野生、そして自由。鹿やヘラジカのような、それか……それか――。
狼のような?
逆光で顔はあまりよく見えなかったが、男にはどこかジウスの息を奪うものがあった。しなやかで誇り高いたたずまい。そして、向こうもジウスを見つめていた。ジウスだけを。体には緊張感がみなぎり、間違いなく彼もジウスのにおいを嗅いでいるに違いない。
どうしてこの光景にこれほど心を奪われるのか、ジウスにはわからなかった。だがその男は救助隊員には見えない。会社員にも見えない。これまで見たことのあるどんな相手にも似ていない。まるで幻のように思える――ジウスの心の奥底に埋もれていた何かが形をとったかのような。
すぐそばで、呻く声とガサガサと這う音がした。向き直ると、もうあのイヌイットの男が服の汚れを払っているところだった。
「怪我はありませんか?」とジウスはたずねる。
「ズボンに血がついてる」サミーは心配そうだった。「足、痛くない? 僕によりかかっていいよ」
男は足を振ってみせ、二度、地面をトントンと踏んだ。
「いや、大丈夫だよ。大したことない」
ジウスはあの不思議な男のいた場所を振り返る――だがもう姿はなかった。何も。ただ無人の屋根と、昼下がりのまばゆい陽光が残るのみ。
「今のを見たか?」
ジウスはサミーと、救出した男にたずねた。屋根を指す。
「あそこに男がいた。すぐそこに」
サミーがきょとんとした。
「そう? 僕には何も見えなかったよ、ジウス」
だが褐色の肌の男は顔をしかめて、心当たりがある様子だった。
「キミッグだ」と呟く。
「何て?」
男は咳き込み、口元を拭った。
「部族の名前だ。このあたりにいる。大きなビルで働いてる。建築の仕事をしてる、ってことだよ。それにしても、俺を見つけてくれてありがとう。俺はアプトだ。ふたりとも命の恩人だよ!」
アプトはサミーをハグし、サミーもうきうきとそれに応じていた。それからアプトはジウスのほうへ、両腕を広げて向き直る。知らない相手とのハグが苦手なジウスも、男の笑顔につられてハグを返していた。
「俺は、村に妻と三人の子供がいるんだよ。みんな礼を言いたいはずだよ! 本当に、あのまま死んでしまうかと」
彼は汗ばむ額を手で拭い、顔に汚れを広げてしまう。言葉は元気がよかったが、手は震えていた。
当然だろう。生き埋めなんて恐ろしい目に、それこそ――とジウスは腕時計を見た――地震から七時間近くも遭っていたのだ。
「あなたが生きててうれしいよ!」サミーが言った。「少し座って休んだら?」
だがジウスは先へ進んでもっと多くのひとを助け出したくてたまらなかった。加えて、あの〈キミッグ〉にもう一度会いたい気持ちも否定できない。
「あっちの展示場の建物で応急手当をしていて、水と食料ももらえます。行き方はわかりますか?」
「ああ、わかるよ。そうだあなたたちはどこから?」男はサミーをしげしげと眺め、それからジウスを見た。「アラスカじゃないだろ?」
「違うよ、マッドクリークから来たんだ!」サミーが胸を張った。「カリフォルニアからだよ。僕らはマッドクリーク捜索救助隊だ」
サミーはくるりと向きを変え、鮮やかなオレンジ色のTシャツの背中に入った黒いロゴを指してみせた。
「僕はサミー。彼はジウスだよ」
「そうか、サミーとジウス。後で会いに行くよ。いいだろ?」
「いいよ!」サミーが答えた。「救護所に着くまで気をつけてね、ガラスが落ちてるから! しりもち突くとお尻がキラキラになっちゃうよ、ハハッ!」
サミーのジョークときたら。ジウスにはそのおもしろさがわからないのだが、これに限っては自分だけではないという自信があった。
ジウスは前へ踏み出し、すべてを心から締め出して、足元の瓦礫に集中した。
■2 驚異との出会い
ティモ
その朝、地面がゴロゴロと唸りはじめた時、まるでそれは狼がウサギを振り回しているかのようだった。
そしてティモは、そのウサギにまたがっていた。
ちょうど新しい高層ビルの三〇階部分の鉄骨をボルトで取り付けていたのだ。足元の太い鉄骨が子供のブランコのように揺れ出した。ティモは驚き、不安な気持ちでしがみついていた。群れのふたりは無事かと見やる――ふたりとも十数メートル先の鉄の梁に必死に張り付いていた。
その時だ。啞然としていたティモの目の前で、街が動き出した。そこかしこで建物が煙を巻き上げて崩れ、うねうねと波打つ道はまるで川のようだった。遠くのほうではC通りの橋が風に吹かれた小枝のように揺れ、その一部が水面へ落下した。車が一台、スローモーションのように転げ落ちる。
警報音が上がり、鳴りひびく。まずは眼下の車から、続いて警察や消防のサイレンが重なった。ティモのいる高所でも、その音はやかましく神経にさわる。
ティモと群れの仲間たち、カプンとヌーキは、足場を滑り下りて建設現場に戻った。工事監督(〈
毛皮なし〉の男だ)のミスター・ジョンソンは焦り、怯えのにおいを放っていた。作業員がそろっているか頭数を数えると、皆に今日はもう「お払い箱」だと告げた。帰れと大声で言い終わるや、もう電話へ必死に話しかけていた。
ティモとしては、早上がりはいつだって歓迎だ。歩き出し、あちこち見て回ろうと気を
逸らせる。だがカプンとヌーキが不安そうな顔で動かなかったので、結局はそっちへ戻った。
「どうして来ない?」とふたりをせっつく。
ヌーキは首をすくめて、神経質に唇を舐めた。
「巣に戻ったほうがいいよ。まだ崩れかけの建物もあるし、あちこちに警察がいる」
「危ないよ」カプンもかぼそく訴える。「やめようぜ、ティモ。巣に戻ろう」
ティモの心は揺らいだ。ユキは遠い里に残っているから、このアンカレジにいる小さな群れのリーダーはティモだ。皆の安全を確保し、ヒッティの様子もたしかめないと。巣に残る彼女がどうしているか。よき
リーダーならそうするべきだ。
だが、リーダーとしての義務感と、膨れ上がる好奇心がせめぎあう。ティモは、町に何が起きたのか見にいきたくてたまらなかった。里に残っている皆だって、地面が揺れた時に何が起きたか知りたいはずだ。それにティモは話を語って聞かせるのが好きだった。今回の土産話はこれまでで一番の話になるかもしれない。自分の目で見にいかなくては。
どうしよう。正しいことをしたいと思っているのだ、ユキのように。だがいつもながら、それがどれほど難しいか! ユキのように振る舞うのは全然楽しくないのだ。だからティモは、喜んで兄に群れのアルファをまかせているのだった。自分がアルファになるのではなく。
「地面がこんなに揺れたことはない」ヌーキがそわそわした。「また揺れるんじゃないか? すごく怖いよ」
カプンがクゥンと同意した。たしかにこんなのは初めてだ。彼らの里でも時々大地が揺れるが、ここまでの揺れはなかったし、こんなに揺れつづけたこともない。それに里には揺れたり崩落するような高い建物も橋もない。ティモ、カプン、そしてヌーキたちがアンカレジに出稼ぎに来るようになってからこれで三度の夏を数えるが、こっちでは一度も地面の揺れを経験したことはない。じつに恐ろしいものだった。
だがティモの中で、怖さより好奇心が勝った。
胸を張る。
「俺が行って、また揺れないかたしかめてくる。とても大事なことだ。お前たちふたりは巣に戻ってヒッティについててやれ。俺は辺りを回って、わかることを全部調べてく」
カプンとヌーキが顔を見合わせた。納得はしていないようだったが、口ごたえはしない。
「そうする」とカプンが頭を下げ、服従を示す。
「行け! 俺もすぐ巣に戻るから」
ふたりは今度は力をこめてうなずくと、去った。
カプンとヌーキのペースに合わせる必要がなくなったので、ティモは影のように街を駆け抜け――
早く、
早く――瓦礫をとび越え、道をふさぐ車もとび越え、地割れを避けたりまたぎながら、すべての光景を目に焼き付けた。
ヌーキが言ったとおりだ。警察がうようよいるし、消防士やほかの〈毛皮なし〉もたくさんいる。煙が上がっていた。一度など派手な爆発が起きたが、ティモのいる場所からは街をはさんだ反対側で、水辺のほうだった。大きな音にティモの肌がビリビリ震え、髪が揺れた。
ユキは、ティモが街なかをうろついていることにいい顔をしないだろう。「危険だ、危険。ティモは戻れ」と命じるはずだ。
だがそもそも、ユキは彼らがアンカレジに行くのも許したがらなかった。ユキは〈毛皮なし〉の連中を信用していない。ティモが生まれてこの方、いやそれよりずっと前から、キミッグたちは〈毛皮なし〉をきっぱりと避けてきた。
それでもティモには興味があった。〈毛皮なし〉について、そして彼らの暮らしぶりについて、何もかも知りたい。
それにティモの群れには欠けているのだ……何かが。必要な何かが。たとえティモが〈毛皮なし〉の間に混じることが解決法にはならなくても、気晴らしにはなったし、〈毛皮なし〉の金で里に何かを買っていくこともできる。
はじめのうち、都会のアンカレジはあまりにも奇妙で、ティモはくじけて帰りたくなったほどだった。だがその時に通りかかった建築現場が作業員を募集中で、里の木登りの要領で鉄骨をするする登ってみせると、たちまち雇われた。その後、カプンとヌーキが街に来るようになり、この夏にはヒッティもついてきた。
だがユキは来ない! はっきり言って、夏の間アンカレジにいる一番の利点がそれだ。好き勝手にできる。そして今この瞬間、ティモはもっと街を歩きたい。
何時間もそうしていた。やっと時刻のことを思い出した時には、空の太陽は白っぽい円盤になり、あまり仰がなくてもよく見えた。日が沈むまでの半分はもう過ぎた。ティモは巣に戻って皆の面倒を見なくては。
だが、まだ答えを手に入れてなかった。非日常的でぞっとするような光景は色々と見たが、大地がまたあんなふうに揺れることがあるのかどうか、それがわからない。何人かの〈毛皮なし〉にもたずねてみたが、馬鹿か、冗談を言っているのかという目を向けられただけだった。彼らはあの揺れを『地震』と呼び、まだ『余震』があるかもしれないと言っていた。だが余震が何であるのか、自分のことで忙しくて誰も説明してくれず、ティモはもどかしくて仕方なかった。とりわけ、大地がまた、前ほどではなくとも幾度か揺れたときては。ずっとこんな揺れが続くのか?
ティモは〈毛皮なし〉がよく使っている馬鹿らしい代物、たとえばくだらない携帯電話やら車やらにはほぼ縁がない。あの手のモノは〈毛皮なし〉をこの世界から隔ててしまうのだ、現実ではないどこかにいるように。大地のどこかに移動するのに、自分の足でそれを感じないなんてどうかしてる。その場にいない誰か相手にいつもしゃべっているなんて、馬鹿らしい。見えもさわれもしない相手なのに。
〈毛皮なし〉はイカれているのだ。この世のどんな獣とも違っている。時々、彼らに怒りを感じることもあったが、大抵はいい笑いの種になってくれた。からかうとおもしろいのだ。高い塔の上で一緒に働いているのだが、よそ見の隙に忍び寄ったティモはコップや道具の位置を変えてしまい、彼らが振り向いても、知らん顔で何でもないふりをした。物がひとりでに動いたのか、自分が置き場所を間違えたのかと彼らが首をひねる様子は何回見ても愉快だった。すごく笑える! ティモは真顔だと真面目に見えるので、〈毛皮なし〉の連中は彼にいたずらされているなんて疑いもしなかった。ハハハ! 時々は〈毛皮なし〉の弁当をくすね、空っぽになった袋や箱に、花や葉を残しておくこともあった。あれは楽しいイタズラだった。しかも、おいしいというオマケ付き。
里でだって、ティモはイタズラ好きだった。たとえば、ユキは木の上のイカれたリスから頭にどんぐりを投げつけられていると思っていたけれど、本当は木にティモが隠れていたのだ。ティモはニヤッとして、ヌーキとカプンがそのティモの悪ふざけを憧れのまなざしで笑っていたのを思い出す。群れの誰もにとって、ティモは一番の人気者だ。ユキよりも!
地震でできた歩道の大きな亀裂をとび越えた。傷のようにぽっかり空いた裂け目の奥に赤土がのぞいている。低い建物の壁をよじ登り、よく見えるだろうと屋根に上がった。下にオレンジ色の二人組が見えた。今日は制服姿の〈毛皮なし〉をたくさん見た――黄色い制服の消防士、黒い服の警官、そしてこのふたりのようなオレンジも幾人か、瓦礫の中を探して怪我人を助けていた。
もう見慣れていたから、はじめ、ティモはこのふたりを見過ごしそうになった。あやうく。眼下で働くふたりを視線がかすめた。
だがその時――何かが目を引いた。ふたりのうち、でかいほうが周囲を歩き回り、身を少しかがめて、なんと――。
においを
嗅いでいた。
男は円を描くように動きながら、その円を段々縮め、その間も大地を嗅いでいる。
ティモはまたたいた。〈毛皮なし〉がこれをやっているところなど見たことがない。目を細めて凝視し、観察していると、男は作業を続けて、嗅いだり耳をすましたりして、時には四つん這いになって首を傾けていた。全身の感覚を研ぎ澄まして集中しているのがわかる。そしてその男にはどこか、力強さがあった。川でサケを狩る熊のような、生まれついた本能を発揮しているような。
ティモが目を移すと、もうひとりは手に何本もの黄色や黒の旗を持ってついてきていた。数歩離れたところで、やはりにおいを嗅ぎ、耳をすましている。
ティモの喉が苦しくなり、息もできないほどだった。とてもじゃないが、今見ているものが信じられない。
(ああ、星よ――)
大きいほうの体つきは本当に巨大で、ティモの群れの誰よりも大きく、これより大柄な〈毛皮なし〉をティモはほんの数人しか見たことがない。オレンジ色の半袖シャツとオレンジ色のズボンをどっしりした健康的な体にまとっている。腕は太く、たくましい。上着を着ていない事実も――今日はどんな〈毛皮なし〉だって着ているのに――ティモの心で警報を鳴らす。人間にとっては寒いはずだ。
それだけではない。
男の髪は、ティモの髪と同じくらい密でふさふさしていた。色は穏やかな茶色で、肩のあたりで切られて顔のまわりで整えられた髪型は〈毛皮なし〉のスタイルだが、そう思って見ればその髪が〈毛皮なし〉の髪でないことがわかる。男の肌は白っぽい。南寄りから来た人間たちのように。ユキの肌のように。顔は大きく、鼻と顎はしっかりしていた。なじみやすい顔だ、強いけれども荒々しくはない。
だが一番はその男の身のこなしだ――そう、勘違いの
わけがない。
ティモは深く嗅いで、においをとらえようとした。嗅げた、と思う。ひとりぶん、人間のにおいがチリリとしたが、それには汗のにおいが付いていない。目当ての男のとは違って。そして男のにおいの下には……。
犬だ。
ティモは、もうひとりの小さなほうへ凝視を向けた。ふさふさした茶色い髪は、大きいほうの髪より色が暗い。愛嬌のある顔が、ティモにヌーキを連想させる。そして、間違いない、彼の目は金色に光っていた。
金色だ。
金の目をした〈毛皮なし〉なんて、これまでひとりも見たことがない。
ティモは背骨をこわばらせ、めまぐるしく考えた。これはどういうことだ? 人間は、今や〈
二枚皮〉を救助活動に使っているのか? ヒトが犬を使うところは見たことがある。だが〈二枚皮〉を? 南のやつらは、彼らの存在すら知らないんじゃなかったのか。
なのに今、すぐそこにふたりがいる。ティモが見つめていると、大男が何か見つけたようにうれしそうに腕を振った。小さなほうが近づき、ふたりして瓦礫を掘りはじめる。
掘っている――まるで犬がするように、ティモ自身がするだろうように。ただし、手袋をはめた両手で。どうやら誰か、石の下に埋もれている相手を見つけ出したようだ。
突然、ティモが気付いた時には、でかいほうが立ち上がってこちらを見つめていた。
ティモを。
ティモは凍りついた。追いつめられたような、その男が迫ってくるような気持ちに襲われる。どれだけ興味があろうとも、追われると感じた時のティモの反応は一つ――反射的な逃亡。
男がちらりと目をそらした瞬間、ティモは屋根からとび下り、あらん限りの速度で駆け出した。
今日ティモは、まさに驚異的なことを学んだ。それも、大地の鳴動とはまるで関係のないことを。
--続きは本編で--