すてきな命の救いかた
イーライ・イーストン
■1 サミーとわるいやつ
2017年2月
アラスカ州フラッグスタッフ
サミーは客間のベッドの下で縮こまって、前足で耳をふさいでいた。心がつらくて体が震える。あの
わるいやつが怒鳴るのが嫌でたまらない。大きな音はもとから苦手だが、わるいやつの怒鳴り声は一番ひどい。
「言っとくがな、その口をおとなしく閉じねえなら――」
だって本当は、サミーがこれを止めないといけないのだ。サミーの役目だ。マリー・ママを守るのが。
でも、怖いのだ。サミーは震えていた。体の内側が恐怖と不安に満ち、犬の心が深い罪悪感にさいなまれる。
わるいやつが怒るとその息はツンとにおって、顔がとても醜くなる。マリー・ママをひどい言葉で傷つけた上、きっと押したり叩いたりつねったりして傷つけるのだ。
マリー・ママはシャーロット・ママの妹だ。シャーロット・ママが死んだ後、サミーを引き取ってくれた。サミーは、シャーロット・ママを愛したほどにはマリー・ママを愛してはいなかった。シャーロット・ママに会ったのはまだ子犬の時だったから、心と、自分まるごとと、魂とおなかと、とにかくすべてでシャーロット・ママを愛したのだ。でもマリー・ママはいい人間だ。サミーをなでておいしいものを食べさせてくれる。優しい声もかけてくれる。一緒に暮らしているのだから、マリー・ママを守るのはサミーの役目なのだ。
でもマリー・ママをかばおうとした初めての時、わるいやつは怒鳴り散らし、カウンターから金属の大きな何かを取ってきてサミーを幾度も幾度も殴りつけた。痛かった。とっても。それから何日も、サミーの体の中が痛んだ。息をするのもつらかった。おしっこをするのも。でも一番痛かったのは、わるいやつから向けられた憎しみだ。なんでサミーをそんなに憎むのかはわからないけれど、あの男はこの群れで一番強いから、何だって自分の好きにできるのだ。
今では、サミーはわるいやつが近づいてくるだけで怯えるようになった。もうマリー・ママを守ろうとすらしない。かわりに小さくなってベッドの下に隠れた。
怖がる自分が、何もできない自分が、恥ずかしかった。ちっともいい犬なんかじゃない。シャーロット・ママが階段から落ちたあの日だってママを助けられなかったのだ。ただ階段の下に立って、手遅れになるまでぼうっと見ていただけだった。
本当はママを助けられたのだろうか? 前にとび出して、自分のやわらかな体で受け止めたら? やらなきゃいけなかった。あの日それができてたら!
そして今、マリー・ママを守ることもできやしない。サミーは役立たずだ。
「見てたぞ! あの男に足をちらつかせやがって」
「そんなことしてない、ハンク! それはあなたの思い込みよ」
「口ごたえするな!」
サミーは目をとじた。自分をなだめるために、頭の中で別のところへ行く。シャーロット・ママのことを、彼女のやわらかな灰色の髪を、きらめく目を、愛にあふれた微笑みを思い描いた。夜、ソファでテレビを見ながらサミーを抱きしめてくれたことを、ふたりで行った長い散歩のことを思った。サミーは山にハイキングにつれていってもらうのが大好きだった。でも一番好きだったのは、ベッドでよりそった時、背中に感じるママの心地よい重みだ。あの素敵でやわらかなベッド! もし今――。
「ここにいやがったか、バカ犬!」
サミーはパチッと目を開けた。ベッドの下をのぞきこんだわるいやつの顔は、猛々しく歪んでいた。顎ひげがふさふさして小さな目は意地悪だ。
男が手をのばしてサミーの首輪をひっつかみ、引きずり出した。首輪で喉が詰まり、引かれた激しさで後ろ足が片方絡まる。サミーはキャンと叫んだ。
ベッドの下から出たところで立って逃げようとしたが、途端に首をつかまれていた。
「外だ! 出ろ!」
男がキッチンへサミーを引きずっていく。
サミーはまた悲鳴を上げた。まずいことになっている。きっと殴られる。
「ハンク、その子に何もしないで、お願いよ!」
マリー・ママの目は真っ赤で、全身から負の感情があふれ出しているのがサミーにも伝わってきた。
「俺に文句言おうってのか? ならてめえのかわいい犬っころは家に入れねえぞ!」
「ハンク、やめて! あやまるから! お願い!」
わるいやつが裏口を開けて、サミーを庭に引きずり出した。
(ママ、ママ、たすけて)
サミーはシャーロット・ママの姿に祈った。だがママはもういないし、サミーを今助けられるわけでもない。
朝から雪だったので、地面には白く冷たいものが分厚く積もっていた。四つ足で引きずられるサミーの毛皮にそれがまとわりついてくる。
わるいやつは、木にかかった鎖にサミーの首輪をカチャンとつないだ。男はしょっちゅうサミーをこの庭の鎖にくくりつけるのだ。サミーは外が好きだ。やわらかくて香りの良い草が大好きだし、高い木々が陽をそっとさえぎってくれるのも好きだ。風に嚙みつこうとするのも好きだ。鳥を見るのも、クモを見るのも、野生の生き物を眺めるのも好きだ。雪が積もって、厚いふかふかの毛布になるのだって好きだった。
だがこの鎖は大嫌いだった。動けなくてすごく退屈だし。暖かくて優しい気候の時ですらつらいのだ。それが、こんな寒い日に……。
(やめて。ごめんなさい。ずっとベッドの下にいるから。約束するから。絶対見えないところにいるって。だから、お願いだからここに置いていかないで!)
マリー・ママも懇願していたが、わるいやつは彼女を家の中に押しこんでドアを閉めてしまった。
サミーはひとりぼっちだ。
全身が震えていた。寒さと、体のもっと深いところの冷たさで。シャーロット・ママの家に帰りたい。毎日がただ楽しくて安全であんなに愛されていたところに。あの時は、どれほど恵まれていたのかも知らなかった。生きることがこんなに怖いだなんて。こんなに寂しいだなんて。こんなに悲しいだなんて。
でも、何よりつらいのは罪悪感だ。犬の心が、愛するものを助けたいと鼓動を打つ――ただ虚しく。サミーには誰も助けられない。こんな臆病者だから。
誰も家から出てきて中に入れてくれないとわかると、サミーは前足で雪に穴を掘り、丸くなれる場所を作った。鎖が短すぎてポーチの下とかフェンス脇にはもぐれないのだ。せめてこの木の下なら、雪はそれほど深くない。自分で作った場所に丸まって眠ろうとしたが、あまりにも寒かった。耐えられなくなると立ち上がって木の周りをぐるぐると、一方向へ、それから鎖をほどこうと逆向きに走った。疲れるとまたうずくまる。
自分の奥底、シャーロット・ママへの嘆きと悲しみが息づくところにまだ、愛、愛、愛が残っていた。シャーロット・ママへの愛、マリー・ママへの愛、この世界への愛。その愛は無垢で、何があろうとまばゆく輝いている。そんな感情が溶け混じって、波が、流れが生じ、その波は高く低く、化学的な変化となってサミーのすべての細胞を洗いすすいでいく。
サミーは、賢くなっていった。
わるいやつとマリー・ママが言っている言葉や、その裏にある意味に、段々と理解が追いついていくのを感じる。物への見方が変わりつつあったが、初めての思考や感覚をどうしていいのかわからなかった。
(逃げるんだ)とサミーの頭の中で冷静な声が言う。(逃げ出すんだ。チャンスが来たらすかさず逃げろ。ここは危険だ。ここにいちゃいけない)
でもマリー・ママがひとりになってしまう。あのひとが危ない。
(お前には助けられない。あの男は強すぎる。逃げるんだ。彼女だってお前に逃げて
ほしいんだ。ハンクがお前を痛めつけるたびにつらく思っている。シャーロット・ママだってお前に逃げてほしいと願うさ)
だがマリー・ママを置いていけたとして、どこへ行く? 誰がごはんをくれる? こんな雪の中にいるのもつらいのに、どうやって外でずっと生きていける?
望みなんかない。無力さが、サミーの芯にある感情の
坩堝に流れこんだ。サミーは凍った地面にうずくまったり、走ったりした。寒さが増し、体が震えてたまらない。夜はいつまでも終わらない。
そして誰も迎えに来てはくれなかった。
夜明けが来るまで、永遠にかかったようだった。やっと空がピンク色の目を開けると、家の中で気配が動き出した。わるいやつは大体毎日、朝早く仕事に行くのだ。
平日だ、とサミーの脳の中であの新しい声が教えてくれた。(ヒトが平日と呼ぶ日だ、そしてあの男は五日間続けて仕事に行く。今日は平日だから、もうじき出かける)
サミーには、マリー・ママも起きているのがわかっていた。毎日、わるいやつに朝ごはんを作るのだ。サミーは耳をすませて待った。体の感覚が失せ、もう震えもしない。頭をぐったりと垂れた。
わるいやつの車が、家の向こうで動き出し、走り去っていった。マリー・ママが裏口から駆け出してくる。サミーが見たこともない表情を浮かべていた。彼女はサミーの首輪から鎖を外し、足がほとんど動かないサミーを抱え上げて家へ運び込んだ。
キッチンラグの上でサミーを大きなタオルでさすり、凍った筋肉を起こしていく。ぬるま湯を飲ませてくれた。サミーはとても喉が渇いていた! 彼女はサミーに、詰まったようなおかしな声で、ごめんなさいとあやまり、二度とハンクにひどいことはさせないと語りかけた。サミーはありがたい気持ちでいっぱいになる。彼女の顔をペロペロと、幾度もなめた。
(中に入れてくれてありがとう。ありがとう、うれしい。僕もごめんなさい。ママを守る勇気がなくてごめんなさい。ゆうべあいつに立ち向かえなくてごめんなさい。守れなくて、隠れてばっかりで。ほんとにごめんなさい)
マリー・ママはサミーの茶色の毛皮に顔をうずめ、深い、身のよじれるような嗚咽をこぼした。サミーはどうしたらいいかわからなかった。彼女の体の横を前足でなで、耳をなめる。身震いしながらもっと近づき、自分の冷たい体で慰めようとした。抱っこされるのが本当に気持ちいい。
ふたりはしばらくそのままでいた。家の暖かさが染みこんできて、サミーはうとうとしていた。
マリー・ママが体を離して顔を拭い、決然とした顔になった。
「わかったわ、サミー。もういい」
大きなボウルでごはんをくれる。ドッグフードの上にちょっとのステーキ肉とポテトとパンがのっている。食べたこともないくらいおいしい! サミーが食べている間、マリー・ママはシャワーを浴びに行った。
キッチンへ戻ってきた彼女は、身仕度をして、サミーのリードを持っていた。
「行きましょう、いい子ね」
その声はどこかおかしかったが、サミーは気にしなかった。出かけられるならどこだろうとうれしい。
車に乗せられて、大きな灰色の建物につれていかれた。はじめ、サミーにはそこが何だかわからなかった。建物の裏に金網のフェンスがあって、たくさんの犬のにおいと音がしていた。いいにおいじゃない。必死のにおいだ。しかもこの建物は、しんとして冷え切った空気の中、よそよそしく不気味に見えた。
そこに入っていきたくなかった。
マリー・ママに急き立てられて車を降り、リードに引っ張られて入り口へ行く。
中へ入る前、マリー・ママがサミーの正面にしゃがみこんだ。サミーの顔を両手で包み、目をのぞきこむ。サミーは彼女の濡れてしょっぱい顔をなめた。彼女から悲しみがあふれ出していた。
「本当にごめんなさい。でも、あなたを家に置いてはおけないわ。あのひとにひどいことをされる。シャーロットに、あなたの面倒を見るって約束したのに。ここで新しい家を見つけてもらえるわ。そこではちゃんとかわいがられて、ずっといいことがあるから。いい? ああ、ごめんね……大好きよ、サミー」
彼女は顔を、ほとんど力まかせに拭うと、サミーを建物の中につれていった。
九〇日間。
それが、この収容施設が犬を保護する期間だった。もし九〇日の最後にまだサミーが引き取られてなければ、サミーは“眠りにつく”ことになる。つまり、覚めることのない眠りに。階段から落ちたシャーロット・ママのように。肉体はそこにあるけれど、からっぽになるのだ。とても怖くて、サミーはそのことを深く考えられないでいた。
その九〇日というのは、もれ聞いた会話や施設で働く人が犬を最後につれていく時の悲しみや哀れみから察したものだった。サミーは、長く並んだケージのひとつに入れられていた。ケージは内側と外側に分かれ、狭い外側部分につながるフラップ扉がある。ワイヤーネットの壁は高くて頑丈だ。寝床がわりの毛布が冷たいコンクリートに敷かれている。たくさんの犬がいて、とてもうるさくて、サミーはベッドの下のような隠れ場所がほしかったが、そんなものはどこにもないのだった。
日に二回ごはんと水がもらえて、日に三回おしっこやウンチのためにリードをつけて草むらで少し散歩させてもらえた。それ以外はひとりぼっち。
はじめ、サミーはこの施設が犬を
眠らせているなんて信じたくなかった。マリー・ママはサミーを助けようとしてくれたのだから。ここにつれてきて死なせるなんてこと、するはずがない!
だが活性化したサミーの脳が、現実逃避をいつまでも許さなかった。施設のスタッフたち同士の、次はどの犬が“おしまいになる”のかという会話を聞かなかったふりはできない。年老いた犬たちが次々といなくなっていることも。
(マリー・ママはここがどんなところか知らなかったんだ。知ってたわけがない)
寒々しい慰めだった。
サミーの残りはあと八〇日。
あと七〇日。
ある日、かわいい娘がサミーをつれ出しに来た。サミーをリードにつなぐと、ほかに五頭の犬と彼らを見にきたカップルのいる部屋へつれていった。女性のほうはマリー・ママと同じくらいの年齢で、黄色い髪でとても痩せていた。男性は真っ赤なキャップを前後逆にかぶっていた。大きくて強そうで、ごつごつしたブーツがサミーに
あの男を思い出させた。
サミーはすくみ上がり、赤い帽子の男から離れていようとした。男のほうは何回かサミーに手をのばし、優しい声をかけてきたが、関わりたくない。いやだ、いやだ、いやだ!
そのカップルはほかの犬をつれて帰った。サミーは檻に戻された。
サミーの頭の中の新しい、利口な声は焦っていた。
(どうして愛想よくできないんだ? お行儀よくかわいらしくして茶目っ気を見せれば、選んでもらえたかも。このままここにいたらそのうち眠らされるんだぞ)
そのとおりなのはサミーもわかっている。だが恐怖にとり憑かれるとどうしようもないのだ。あの赤い帽子の男の家になんて、つれていかれたくない。絶対!
あと五〇日。
あと四〇日。
さらに二度、施設のスタッフがサミーをお見合い部屋につれ出した。そして毎回、サミーはそこにいる男への怯えを隠せなかった。二度ともケージに戻される。
それからは、もう誰もサミーをつれに来なくなった。
あと三〇日。
あと二〇日。
そんな時、新しい犬がつれられてきてサミーの向かいの檻に入れられた。サミーと同じくらい体高があってもっと太った犬だ。長い毛は白と黒と茶。元気にあふれ、施設のスタッフへ苛々と吠え立てた。職員たちがいなくなるとケージの中をうろつき回る。それからぐるりと見回して、サミーに視線を据えた。
それまでちょっと気にしていた程度だったサミーは、ぎょっとした。さっと座り直して、クンと鳴く。相手の犬の目つきや小首のかしげ方は、どこか普通と違って見えた。この犬はとても……本当に、賢そうだ。サミーはワイヤーネットに鼻を押し付け、においを嗅ごうとした。
何か嗅ぎとれる――知らないにおいだ。ヒト=犬? 一度に両方のにおい。
サミーは興奮して吠え立てた。
そのおかしな犬はサミーに向かって目を細め、それから――それから、一度も犬がやるのを見たことがない仕種をした。もったいぶった動きで首を振ったのだ。
いや、
今は駄目だ、と。片目でサミーにウインク(!)まですると、その犬は自分のケージの外側部分の探検に取りかかった。
その夜、サミーは急かす声で目を覚ました。
「なあなあ。ほら。お前だよ、わんこ!」
サミーは目を開けた。向かいのケージに人間がいる。裸の人間が。犬小屋の中にしゃがみこんだ姿は滑稽といってもよかったが、サミーは何か重大なことが起きていると感じ取った。男は膝を曲げて、そのヒト型の大きな足の裏はぺたりと檻の床に着き、膝はワイヤーフェンスに押し付けられて、頭は檻の天井すれすれだ。彼はまっすぐにサミーを見つめていた。
「そうそう。起きろ!」と抑えた、だが焦った声で言う。
サミーはさっと体を起こした。ワンと吠える。
「駄目、駄目!」男が両手で押さえるような仕種をする。「しーっ! 静かに!」
吠えるのはやめたが、サミーはこらえきれずに不安げな声をクンとこぼしていた。
「よしよし」男は唇をなめ、片耳を搔いた。「お前は
クイックだよな?」
サミーはハッハッと息をついた。よくわからない。
「僕と同じってことさ。お前にもできるよ。ヒトの姿になれる」
男が手で自分の体を示した。
驚きと恐怖に押し包まれる。
向かいの檻にいた犬がヒトに変身したのだ。とんでもない話だ。でもサミーだって、ずっとそれを感じてたんじゃなかったか? 言葉を発したがる喉のうずき、背中をもっとまっすぐのばしたい激しい衝動、立ちたくてたまらないこの気持ち!
サミーは両方の前足を檻の戸にかけ、クンクン鳴いた。
「ああ、なりたてなんだね?」男が優しい顔をした。「大丈夫さ。みんなそうだ。ま、僕の話が理解できてるなら――この鼻がいつもどおりたしかなら」とやけに大きな自分の鼻をつついた。「それなら、きみは僕と
同じさ」
誰にも聞かれまいとするように周囲を見回す。でももう真夜中で、あたりには犬しかいない。
「“
種火を得る”って言うんだよ。
活性になる。きみはクイックだ。つまり犬からヒトになれるってこと。また犬にも戻れる。すげえだろ?」
男の目は優しくて輝いていた。サミーはじっくり男を見て、念入りに観察する。とってもリアルだ! すごく人間らしい! 髪は白い筋の入った茶色で、もつれるような巻き毛が肩まである。目は鮮やかな青。胸と脚にはやけにもじゃもじゃの毛。だがそれでも何も知らなければ、サミーはこの犬男を普通の人間だと思ったはずだ。
しかもこの男は言葉がしゃべれて、手振りとかまで、全部できている。すごい!
サミーはどんなヒトの姿になるんだろう? どんな気分なんだろう?
その考えが、サミーの脳内でつっかえていた歯車の潤滑油となり、一瞬で、この数週間の不安や恐怖、正体不明の渇望が腑に落ちた。これがほしい。そうしたい、心からそう
なりたい! 肌がざわつき、小さな稲妻が駆け抜けて筋肉が震えた。サミーは目をとじ、ざわめきに身をゆだね、その中に自分を投じようと――。
「駄目だ! ほら、おい、やめるんだ。たのむよ!」
渋々、かなり苦労しながら、サミーはその感覚を押し戻した。くしゃみをこらえるくらい大変だったが、どうにかやり遂げる。目を開けた。
「ここじゃ駄目だよ!」犬男は困り顔で見回した。「しーっ、よしたほうがいいよ、なっ。初めての時はきついし、それに……それに騒がしいんだ。絶対見つかっちゃう! ルールその1だ――人間には絶対に僕らのことを知られちゃいけない。絶対! 何があってもだ。僕らは群れを守らなきゃ。わかるかい?」
あまりに必死で鋭い囁き声に、サミーはあらためて考えこんだ。もし人間たちがこの向かいの檻にいる犬がヒトになれると知ったら、何をするだろう? 本能的に、悪いことが起きるとわかった。
群れを守れ。それは、時の始まりくらいに古い先祖からの記憶、子犬たちのいる巣から捕食者を遠ざけてきた本能。巣を守るためなら死もいとわない。
サミーは頭を下げ、しおらしくクンと鳴いた。
犬男はうなずいた。
「よし、じゃ、聞いてくれ。“イエス”ならうなずくんだ、こうやって」と首を上下に動かす。「で、“ノー”の時はこうする」と首を横に振った。「わかった?」
少し力をこめ、サミーは頭をうなずかせた。
「オーケー」犬男が長いため息をつく。「僕の名前はレックス。最後にXがつくレックスさ! それでさ、僕ときみと、一緒にここから逃げないと。いいかい?」
サミーは勢いよくうなずいた。イエス! この犬男、レックスなら、檻から出る方法がわかるはずだ。やった! サミーは助かったのだ!
「うん、お安い御用さ。僕はあちこち旅をしながら、きみみたいな新しいクイックを探してるんだ。だから会えてうれしいよ!」
レックスが目を輝かせた。
「ここを出て北へ向かおう。いいと思わないか?」
サミーは檻の戸に前足をかけた。今すぐ出たい。
「でもまずはこの戸をどうやって開けるか考えないとね」レックスの人間の指が、自分の檻についた鉄の箱をまさぐった。「まったく、こいつは鍵がないと駄目そうだな」
サミーは施設のスタッフたちが檻の戸を開けるのを幾度も見てきた。スタッフは首から提げているカードを使うのだ。だがレックスはカードを持っていない。見ていると、レックスはその箱をゆすったり押したり探ったりしていたが、それでも檻は開かなかった。
サミーはだんだん不安になってきた。クゥンと鳴く。
「いやいや、平気さ。僕らはただ、ほら、チャンスを待てばいい。だろ? 向こうもそのうち檻を開けなきゃならないんだし。ごはんの時とかね。それか散歩。何とかなるさ。心配ないよ! ちっともね」
サミーは喉の奥で低くうなった。この犬男に伝えたい、もうサミーの残り時間はあまりないのだ!
「ビビるなって。僕がついてるさ」
レックスが歯を見せてにっこりしたが、サミーの心にまた広がり出す恐怖は鎮まらない。
檻に背中をもたせかけ、レックスはぐにゃりとくつろいだ。
「わかってるって。楽しいぞ! すぐわかる。最高の経験さ、クイックになるってのは。僕らはマッドクリーク目指して北西に向かうんだ。カリフォルニアにある町だよ。僕らみたいなのがたくさんいる。世界中で一番素敵なすみかさ! 森があって山があってウサギがいて転がってひなたぼっこできる公園があって……想像できないくらい最高のハンバーガーとフライドポテトを出すダイナーがあってさ――本当に! それに誰もが優しい! タダで住むところをくれるよ。あの町がすごく好きになるはずさ。最高の最高で最高だよ! ここから出たらすぐ向かおう。ただ、はぐれてしまった場合のために行き方を教えておくよ。いいね?」
レックスはどうやってマッドクリークを探せばいいか、サミーに教えた――大きな川の上でどの方向に日が昇るか、青々とした山がどんなふうに輝くか。どんなにおいをたどればいいか。マッドクリークはヨ・セミ・ナントカという広い公園の近くにあって、もし迷えばサミーはヒトの声で道を聞けるのだ。うわあ!
その町はまるで天国みたいだ。そんなところが本当にあるのかと不思議になったが、あると信じたかった。レックスがその特別な、彼らのような犬のためにある場所について、そこに行けば守られて愛されると語っているのを聞きながら、サミーは眠りについた。
だが朝目を覚ますと、レックスの檻はからっぽだった。
■2 ラヴの救いの手
アリゾナ州ドレイク
2017年5月
朝六時、ラヴ・ミラーは黒と銀のヘリテイジ・ソフテイル・クラシックのハーレーを〈ホールド・マイ・ポゥ〉の前に停めた。バイクを簡易ガレージに入れると、一日の仕事はまず、すべての犬たちを遊び場に一時間出してやるところから始まる。朝早くにやらないと、砂漠の大気はたちまち目玉焼きが作れるくらい熱されて、人間にも動物にも不向きになる。鼻の短い、ブルドッグのような犬種には危険なくらいだ。なのでラヴは朝型になるしかなかった。
現在、彼の保護シェルターには四十八頭の犬がいる。一頭残らず大切で素晴らしい犬たちだ。たとえブレイニアックのような、三本足でギョロ目のパグとビーグルの雑種だろうと、ラヴにとっては美しい犬なのだ。
犬のいいところは、だましや狡猾さと無縁なところだ。犬たちはただ愛されたいだけなのだ。その純真さにおいて犬は人間にはるかに勝るし、ほかのほぼあらゆる面でも人間より優れている。少なくともそれが、三十三年間をこの地上で生きたラヴの結論だった。
犬舎をすべて開放し、両開きドアの外にある大きな庭へ犬たちを追い出した。およそ百平方メートルの空間はワイヤーフェンスで囲まれ、おもちゃや滑り台、屋根付きの昼寝スペースなどがたっぷり用意されている。前は芝生だったのだが、水不足のせいでスプリンクラーは置物と化し、今ではあたりを取り巻く砂漠と同じ赤茶けた砂が地面に積もっていた。
ラヴはやる気の出ない犬たちが仲間に加わる元気が出るくらいまでじゃれてやる。そばでは山ほどの犬が跳ね回って、ラヴの気を引こうとしていた。分厚いジーンズと黒いバイカーブーツは爪の威力に耐えるし、袖なしの白いTシャツからつき出た腕は筋肉の塊で、犬をなでたりじゃれて押したり抱え上げるたび、両腕を覆うタトゥがひらめいた。
七時になったかどうかは、必ずきっかりわかる。犬たちがシェルターの裏口に、体内時計でもあるように列を作るからだ。餌の時間なのだ。
「フラッカス、押すんじゃない」ラヴは犬にしかめ面をしてからドアへ向かった。「ウィンストンはなるべくスパイデイの頭によだれを垂らさないようにしてやれ。溺れちまうぞ」
マスティフの顎の下にちょこんと座る小さなチワワがよだれまみれになっている光景に、思わずニヤッとする。どちらの犬も気がついてないかどうでもいい様子だ。二頭ともラヴにじっと見入って、念で餌のボウルを引き寄せようとするかのようだった。
キッチンで、ラヴは一度に五個ずつのボウルを支度しながら、日報を見てどの犬がどのフードなのか、加えるサプリメントや薬を確認する。ラウンジに五頭ずつ入れると、指導教諭のように食事が終わるまで見張り、ほかの犬の餌を横取りしていないか、ドッグフードに隠した薬を全部飲みこんだかたしかめた。それが終わると、次のグループの番だ。今保護しているルースターは餌にがめつく、一頭だけパントリーで隔離して餌をやらねばならない。
朝食を食べさせ終え、掃除をして、歳のいった犬たちは犬舎に戻して昼寝をさせ、若い犬たちをエアコンの利いたラウンジで遊ばせる頃には、九時になっていた。ガーティが到着して、入り口のドアベルが鳴る。
「おはよう、ボス」彼女はバックパックをカウンターにのせた。「何か電話やメールは来てた?」
ラヴはうなる。
「ない」
「まだ朝早いしね」
ガーティは、この〈ホールド・マイ・ポゥ〉に必ず誰かが犬を引き取りに来ると、いつも前向きだ。しかしなんせここは
辺鄙で何もない、赤い熱砂に囲まれた小さなアリゾナの町なのだ。SNSでは知られていても、シェルターまでわざわざ来る人間は少ない。
ガーティが自分にコーヒーを注ぎ、眠そうな目をこすった。ラヴはしげしげと彼女の髪型を眺め、どう見ても起き抜けのはずなのに髪だけは念入りにキメられている不思議さに今日も感心していた。ガーティの髪はネオンレッドで、その髪を王冠のようなヘアバンドでいくつもの角にまとめ、角の一つずつがワックスで固められている。自由の女神パンクバージョンというところだ。後頭部は短く刈り上げて、まっすぐ梳かした前髪が片目の上で斜めに切りそろえられている。
「なあに?」とラヴの視線にガーティが気付く。
「どうやれば髪がそんなふうになるのか、まだ全然わからなくてな」
「これ?」
とがった角の先を手のひらでなで、ガーティは得意げな顔をした。
「ああ。型か何か使うのか? きれいにそろってる」
おかしな話題ではあるが、本気で不思議だった。どこかの会社が髪用の独創的な型を発明したなら見てみたい。
「自然に突っ立っちゃうからそのままにしてるだけ、って言ったら信じる?」
ガーティが鋭い茶色の目でラヴを値踏みしていた。
「いや」
ガーティは深い、心からの笑いを立てた。
「なら大体の奴らよりお利口だよ。私がこれを言うと、相手は大抵『ホント?』って言うの」まさか、という表情を真似して目を大きくしてみせる。「それから私に同情すんのよ、変な体質でかわいそうって」
げらげらとさらに笑った。
「きみは悪いヤツだな。とても悪い」とラヴは笑顔でチチッと舌を鳴らした。
「でしょでしょ? マジで努力してるもん」コーヒーをがぶ飲みし、決然とマグを下ろした。「ちょっと待って。モフるケツがない」
犬舎に向かった彼女は、一頭の老犬をかかえて戻ってきた。プードルが混じった灰色渦毛の雑種犬だ。腕の内側にその犬をかかえこみ、カウンターのiPadをタップしてシェルター宛メールのチェックにかかった。
ガーティはシェルターにいる時、つまり週六日間の九時から五時は、いつも犬と一緒だ。お気に入りは決めず、何時間かごとに次の犬に、それも若い犬、老いた犬、かわいい犬、不細工な犬、人なつっこい犬、内気な犬まで分けへだてなく取り替えた。犬たちがちょっとしたふれあいの時間を持てるのは喜ばしい。たとえどれほどきつい犬でもガーティのそばではのどかになって落ちついた。動物保護となると果敢で一歩も引かない娘だ、ガーティは。
彼女は初めての、そして唯一の、〈ホールド・マイ・ポゥ〉のフルタイムの従業員でしかもラヴが自分から雇ったわけではない。ガーティはまずボランティアとして来るようになった、見るからに根っからの動物好きだった。しかもよく働く。
ある日、彼女は断固としてラヴにつめ寄った。
「私、フルタイムでここで働くから。スーパーの仕事は最悪だし、ここの犬には私がついてなきゃ。だから実現するにはどうすればいい?」
「人を雇う余裕はないんだ」とラヴは答えたのだった。「うちは非営利だし」
「そりゃわかってる」ガーティは数枚の書類を取り出した。「私の毎月の出費はそう大したことない。住んでるアパートは吹きだまりみたいなとこだし、アンジーがウェイトレスの仕事でチップを稼いでる。私は、週に四〇時間、最低賃金で働かせてもらえればそれでいいよ。で、これがここの去年の損益表ね。一番の実入りはフラッグスタッフのブルース&ブリュー音楽フェスとフェニックスの独立記念日ピクニックでの譲渡会の募金だね。ほかにも予定に入れられそうな近隣のお祭りが十はあるし、フラッグスタッフ大学にはいいフットボールチームがある。子供の試合を見にくる中に、今犬を飼ってなくて、家族を増やしてもいいかなって家庭もあるんじゃないかと思うんだよね。ホームゲームの時に譲渡会のブースを開こうよ」
ラヴはガーティを雇った。後悔したことは一度もない。人間嫌いのラヴから見ても、ガーティは消費する酸素に値する数少ない人間だった。
ラヴは咳払いをして、ふさふさした顎ひげをなでた。
「何時間かここをまかせていいか? フラッグスタッフの犬を見に行ってこようかと」
「そうなの?」ガーティが意外そうに彼を見た。「こないだ引き取ってきた犬のうち、まだ二頭しか引き取り手が決まってないでしょ。そろそろ制限いっぱいだよ」
ラヴは肩をすくめた。頭数制限は郡の条例だ。犬の最大数は五〇頭まで、それが保護シェルターの決まりだった。だが一度ならず、こっそり制限数を超過したこともある。ガーティに自分の行動を弁解するつもりもないし、そもそもうまい言い訳なんかない。
普段はフラッグスタッフにある郡運営の収容施設には数ヵ月ごとに顔を出す。あそこは犬の処分場で、ラヴにはそれが許せなかった。施設の前で何度も抗議活動をしてきたし、ネットに記事を上げたりもして、しつこく言ってきた。だがそれでも施設は昔ながらのやり方を変えようとしない。
百キロ先まで出かけるのは、少なくとも六頭分の空きがシェルターにある時だけ、というのが自分ルールだ。だが今朝、ラヴはあの場所のことを考えながら目を覚ました。胸にめりこんでくるような、やり場のない罪悪感と焦燥感。今救わねば間に合わない、
今日しかない犬があそこにいる。
無論、毎日がそうなのだが、今日ばかりはその気持ちを振りきれなかった。無視したくもなかった。
ガーティの目は共感でいっぱいで、ラヴの気持ちを理解していた。
「わかったよ、行ってきて。場所を作っとくから」
正午寸前に、〈ホールド・マイ・ポゥ〉のバンで収容施設に着いた。
ラヴは施設に対する根深い怒りを振り払って――今日の目的には邪魔だ――バックミラーで自分の顔をチェックした。茶色いひげにベーグルの食べかすもついていないし、長い睫毛にパンくずもついていない。よしとうなると、バンから降りた。ごつい黒のブーツの靴底が決意をこめて駐車場のアスファルトを踏みしめる。肌を覆うタトゥやひげ、〈
凶運〉とエンボス加工で入ったレザーのバイカーベスト、背中に炎の模様付き、という自分の姿が荒くれ者っぽく、威圧的にすら見えるのは承知の上だ。狙いどおり。のしのしと正面ドアへ向かった。
これをやるのは初めてでもないし、施設側も彼のことはよく知っている。所長のミズ・マーカムは彼との議論を避けようと、訪問中はオフィスにこもって出てこない。だが若いスタッフのエディスは張り切ってラヴを犬舎まで案内してくれた。この施設から犬が引き取られるのがいつでもうれしいのだ。
「今日は何頭、ラヴ? 六頭?」
「ああ」
そんな数を引き受けてはいけないのだが、ラヴはぶっきらぼうにうなずいた。
「どんな犬がいいか決めてるの?」
「いつもと同じだ。引き取られそうにない犬。時間切れになりそうな犬」
エディスに向けてというより、自分に言い聞かせるための言葉だった。エディスに犬たちを切り捨てるような判断ができるとは思えない。いやラヴ自身だって、どの犬を生きのびさせるかの選択ができる気はしなかったが、やれるだけのことをするしかないのだ。
「それがたくさんいるのよ」
エディスがあきらめまじりに呟いた。
並んだケージにはさまれた通路を進み、ラヴはところどころでケージを指した。どの檻にも名前と日付が掲示されている――ここに収容されてから九〇日後の日付だ。その期日にまだ犬が引き取られていなければ、それは安楽死の日付になる。
そんな犬たちを全部引き取っていきたくなるし、同情で判断力が狂わないようにするのが大変だった。ただまだ残り期間もたっぷりあっていずれ引き取られそうなくらい若くてかわいい犬もいくらかいた。ラヴが指した犬たちを、エディスと、一緒に来たスタッフが檻から出す。ほとんどが老犬で、雑種やピットブルや黒犬だったり、あまりかわいいとは言えない犬たち。ラヴは、放っておけないほど処分日が近い犬に目を配っていた。
一頭の犬にふと目が行く――一目ではっとした。ラヴはそのケージの前で立ち止まって見つめた。ケージの日付までたった二日しか残っていないが、それが意外なほど素敵な犬だった。優しい顔つきの、見事な茶のラブラドール・レトリーバーで、大きな目は金色、めったに見ないほど情が深くて賢い目だ。
たちまち引き取られているべき犬だった。ラブラドールはとても人気がある。
だがその犬は後ずさった。ケージの一番奥に座りこんで、隅を見つめている。
「どういう犬なんだ?」
ラヴは選んだ犬三頭にリードをつけてやってきたエディスにたずねた。
「ああ、サミーね。胸が痛むわ。問題行動があって。とても優しいんだけど、男性を怖がってる」
その言葉を裏付けるように、サミーが横目でおそるおそるラヴを見た。必死の目だった――祈りと絶望、恐怖がせめぎあっている。
ラヴはしゃがみこむ。ベルトの鎖がチャリッと鳴った。サングラスを外してその犬をやわらかなまなざしで見やった。犬は隅を向いたまま、それでも顔を動かして、こちらを盗み見ずにはいられなかった。
それから、まるで意を決したかのように、犬は立ち上がって、一歩、近づいてきた。たったの一歩だが、全身をこわばらせての一歩は、きっと何マイルにも値する。犬はまた、今度はラヴのほうを向いて座りこみ、震えながらも目を合わせたままでいた。
畜生が。その犬の目に、ラヴの息が止まる。あまりにも知性にあふれた目だった。理解している。苦悩している。この犬は、自分がもう処分されると
わかっているのだ。間違いない。そして怯えながらも、ラヴに訴えようと、助けを求めようとしている。大した根性だった。
この施設に入る時に心にまとったはずの鎧が、一瞬のうちに蒸発していた。ありえない。こんな心に焼きつくようなまなざしは一度しか見たことがない――。
白と黒のハスキー犬の記憶がよみがえっていた。
ジェイソン。去年の夏の、あまりにもわけがわからない出来事。四人の男たちが、ウイルスに感染した犬を探して〈ホールド・マイ・ポゥ〉にやってきた。そのうちのひとり、見た目はイカしているが堅物の医者、ジェイソン……たしかドクター・ジェイソン・クーニックとか言ったか。彼らの来訪はとても忘れがたいものだった。ジェイソンは漆黒の髪と氷のように青い目をしていた。
その翌日、四人のうち二人がジェイソンという名の
ハスキー犬をつれて現れた――漆黒の毛並みと氷のように青い目をした犬で、人間たちに何かを訴え、ジープを出せと主張した。そのハスキーが、砂漠のど真ん中、行方不明だったラヴの保護犬たちのところまで導いてくれたのだ。
ハスキー犬のジェイソンの振る舞いは、ラヴが知るどんな犬とも違っていた。あの時もしやと疑ったくらいだ、まさか……。
いやまさか。あれはへんてこりんな出来事だった、それだけだ。イカれてた。焼いたトーストに〈最後の晩餐〉の絵が浮かんでた、みたいな話。ラヴは疑惑を頭から追い出したのだ。あまりにもどうかしてると思って。
だが今、サミーの金色の目には何かがあって……まるで……あのハスキー犬の目のような、
人間らしさ。
背中を寒気が走った。のろのろと立ち上がる。
「この犬も」とラヴはサミーを指した。
「なつきませんよ」
ラヴは鼻を鳴らした。
「うちの家族も俺になついちゃくれないが、だからって処分させたりはしないよ。この犬をとっととケージから出してくれ」
--続きは本編で--