星に願いをかけるには

イーライ・イーストン

■Chapter1 憂鬱なインタビュー


 ドクター・ジェイソン・クーニックはノートの上でペンをかまえて返答を待った。老いたブルドッグ、ガスは、呆然としているようだった。その頬が憤慨に震えていた。
「しかし私は……まさかそんなこと……一体どんな神経で……?」とガスが声を上げる。
「単純な質問だ」ジェイソンは苛々と言った。「きみが単なる犬だった時の、以前の保護者。ミセス――」名前を見ようとノートをずらした。「ミセス・アンダーソン。きみがクイックになる前に彼女に対して抱いていた感情の割合を教えてほしい。選択肢は以下だ。A:親子のような愛情、B:忠義、C:畏敬、D:恋愛感情、E:性的な感情、F:嫌悪感、G:義務感、H:感謝、I:敵意」
 ガスはかつて二十七キロほどの、カウチの虜のブルドッグだった。それが飼い主との深い絆ゆえに“活性クイック”になったのだった。すなわち、人間の姿に変われる能力を手に入れた。今の彼は白髪と青い目のおだやかな年寄りで、丸顔に存在感のある腹をしていた。表情は深い困惑で、ジェイソンからスワヒリ語で話しかけられているかのようだ。ジェイソンはガスの前に置かれた紙を手とペンのほうへ押しやり、ペンを取って何か書けと念じた。何でもいい。
 ガスは動かなかった。
 ジェイソンは歯をくいしばった。
「もし割合で考えるのが難しいのならば、十段階のスケールではどうだろう? たとえばミセス・アンダーソンに平均週三回の嫌悪感を感じたならば、第二段階にチェックを入れる。日に三回であれば第八段階。ああ、それから性的衝動とは、実際の勃起から強迫観念的な舐め回し衝動までを含む。とは言え――」
 ガスが両手で顔を覆い、マッドクリークのダイナーのテーブルから立ち上がると、よろよろとドアへ向かった。
「待つんだ! きみの血液と尿のサンプル採取がまだだ!」
 ジェイソンは席から立ち上がって呼び止めた。
 だがガスは振り向きもしなかった。追い立てられるようにダイナーを出ていく。そして今や店内の全員がジェイソンを、まるで二股しっぽが生えたサタンの十戒の創始者であるかのように凝視していた。低く唸り、ジェイソンは腰を下ろすと、書類とノートをテーブルの縁と平行にきっちりとそろえ直した。それからガスの未記入の用紙を取り上げて、一枚ずつを書類の元の位置に正確に戻し、再度そろえた。
 問題なのは、とジェイソンは考える。このダイナーなのだ。このような公共の場で立ち入ったリサーチを行うなど、馬鹿げている。非効率だ。被験者が、私的な事情についてこんなところで答えてくれるわけがない。もっと悪くしたことに、ジェイソンはここでは何の支配力も持たず、返答を引き出すまで被験者を引きとめておくこともできないのだ。
 残念ながら、マッドクリークで彼が滞在している小さなホテルの部屋は論外だ――広さも足りないし、濡れた猫の異臭が染み付いている。ジェイソンもなるべくあの部屋ですごさないようにしていた。賃貸契約を結んだキャビンはまだ準備が整わないが、それまで研究開始を遅らせてはいられない。だから暫定的にこのダイナーを使おうとしたのだ。
 だがここまでで、有用なデータをひとかけらもよこさずに店を出ていったクイックはガスで四人目となる。マッドクリークで重要な研究を始めようというのに、幸先のいいスタートとはいえない。
「失礼ですが」
 顔を上げると、そばにハンサムな若い男が立っていた。腰のあたりに、黒髪ではっとするほど青い目の女児を抱えている。赤ん坊づれの人間のほうは長い茶色の髪で、額に前髪が斜めに垂れ、ほっそりした顔でヘイゼルの目をしていた。体つきはひょろっとして、ジェイソンは彼から大地の雰囲気を嗅ぎとる。
 いや、嗅ぎとってなどいない。そんなはずがない。ジェイソンは科学者であって、猟犬や何かではないのだ。これは情緒的な印象にすぎない。
「なんだね?」
 まだ機嫌が悪いジェイソンはぴしゃりと聞いていた。
「その……ガスとの話がつい耳に入ってしまったんだけれど。僕が口出しするようなことではないのはわかっているけど、ただ……少しだけお話できませんか? 遅れましたが、僕はティム・ビューフォートです。この子はモリー」
 ティムが赤ん坊の手を馬鹿げた仕種で振ってみせた。ジェイソンは赤ん坊についてはまったく詳しくないが、目の前にいるのがクイックの子供だというのはわかる。一方、ティムは完全なホモ・サピエンスに見えた。
「よろしい」
 ジェイソンは向かいの席を手で示した。どうせ次の約束まであと三十分はある。
「よかった。今、自分の昼ご飯を持ってくるから」
 ティムは固い笑みをちらっと見せると、サラダとハーフのサンドイッチがのった皿を運んできて席にすべりこんだ。赤ん坊を抱えながらなので危なっかしく、皿が不吉に傾いた。ジェイソンはその皿をつかんだ。無為に費やされたこの朝の仕上げに、書類にドレッシングをぶちまけられてはかなわない。
「ありがとう」ティムは自分の不器用さを悪びれもしていない。
「それで」とジェイソンは、テーブルに慎重に皿を下ろしながらうながした。
 ティムが彼に非好意的な目つきを向けた。「それで。あなたは一体――」
「この席にはガスがいたんじゃなかったかしら?」
 やってきたウェイトレスのデイジーが途方に暮れた顔をしていた。
「ガスは帰ったよ。ごめんね、デイジー」とティムが答える。
「あら、あやまらなくていいのよ、ティム! こちらのドクター・クーニックと会えたのね。ジェイソンと私は一緒に高校に通ってたのよ、ね、ジェイソン? それが今じゃジェイソンは博士号とかまで取って!」
 デイジーの大声に、ジェイソンは周囲の視線を意識した。注目されるのは好きではない。身の内の不安が――身の内のが――騒ぎ出す。神経質な指先でまた紙の山をそろえた。整然と秩序立った周辺環境に集中することで心がなだめられる。
「そうなんだ? それはすごい」
 とは言ったが、ティムは感心した様子ではなかった。
「そうよ、ジェイソン、ティムと会うのは初めて?」とデイジーは続けた。「彼はランスと結婚してるの! 知ってるでしょ、ビューフォート保安官? やっぱり私たちと同じ頃に高校にいた。それにモリーったら最高にかわいくてふかふかもちもちきゃっきゃして……」
 デイジーの言葉は、彼女が赤ん坊の腹をくすぐり、喉元をなでて――扁桃腺の腫れのチェックか?――いるうちに耳ざわりで無意味な呟きと化した。赤ん坊はうれしそうに喉を鳴らす。はしゃいだ子犬の鳴き声のようだ。
 ほう。ジェイソンはその発見を書きとめた。彼の研究対象は、普通の犬として生まれて新たにクイックとなったものに限られている。ジェイソンが“第一原型”と呼ぶ存在だ。なので、クイックの子供たちについてはあまり考えたことがなかった。だがこうしてマッドクリークへ帰ってきた今、多様な研究の機会が目の前に開けている。犬からヒトへの変化の鍵が、幼児の中に観測できるかも――。
「ドクター・クーニック?」
 ノートから顔を上げると、デイジーとティムが彼を見つめていた。
「なんだね? なにか言ったか?」
「何か食べるものを注文するかしら、って聞いたの」とデイジーが答えた。
「いや結構」ジェイソンは腕時計をたしかめた。追加のカフェインを摂取しても問題ないだけの時間が経過している。「ただ、コーヒーのおかわりを頂きたい」
「すぐにね!」
 デイジーがふたりを残して去っていった。ジェイソンとしてはティムとふたりきりになりたいかどうか定かではない。だがティムとランス・ビューフォートの関係に対する興味はそれなりにあった。ランスのことはちゃんと覚えている。いじめっ子とまでは言えないものの、ジェイソンとの仲は友達とも言いがたいものだった。ジェイソンが十二歳の時に母親がマッドクリークへ引っ越してきたのだ。「あなたは仲間と一緒にすごさないと」と母はジェイソンに言ったものだ。馬鹿馬鹿しい! ジェイソンの孤独癖が、ほかのクイックを知らないことに起因しているとでも? 結局のところマッドクリークの若者たちが相手になったところで、同年代の人間相手以上になじめるわけもなかった。
 あの頃、ランスとジェイソンは同じクラスだった。ランスは生真面目でよそよそしく、排他的で、新しい転入生も受け入れようとしなかった。その彼が人間の男と結婚したというのなら、あれから相当変わったのだろう。
「あなたはクイックについてあまりよくご存知じゃないですよね?」
 ティムが抑えた声で、店内の誰にも話を聞かれたくないかのようにたずねた。
「い、今なんと言ったかね?」ジェイソンは唾をとばした。「私はクイックについて世界で一番よく知っている!」
 ティムは疑り深い顔だった。
「そうですか。はい。いいでしょう。まず第一に、あなたがあんな……ガスとしてたような話をダイナーでしているとランスが知ったら、卒倒しますよ」とティムが周囲を見回した。「今ここには、少なくとも見覚えのないカップルが一組いる。きっと観光客だ。僕らは、他所者に……を知られないように、とても用心してるんです」
 ティムの目が店内の向こう側にいる若い、登山者のような格好をしたカップルを見ていた。
「そんな大きな声では話していない」とジェイソンは語気を強めた。
 もちろん、他所者にクイックの話をするほど愚かではない。とはいえジェイソンはティムの存在にも気が付いていなかったし、ティムは人間で、すぐ後ろの席に座っていたのだ。あまりいい兆しではない。もっと慎重にならなければ。ここがマッドクリークだというだけで気がゆるんでいたようだ。誰かとクイックの話をすること自体が数年ぶりだ。この町にいる誰もが事情に通じているわけではないことも忘れていた。それでも、この見知らぬ相手に謝罪するつもりはない。
「第二に」とティムが続けた。「あなたの話の半分も、ガスには理解できていないと思う。彼に理解できたことはかけら程度で……」
「かけら程度?」
 ティムは溜息まじりに背もたれによりかかった。膝の上の赤ん坊を引き寄せ、上下にはずませる。赤ん坊は片方の拳を熱烈にかじっていた。
「ええと……言いすぎでした? ガスは僕のところで働いてくれているので、よく知ってるんです。前の飼い主、ミセス・アンダーソンのことになると彼はとても感傷的で、涙もろい。もう何年も前に亡くなっているのに今でも深く想ってる。あなたの質問が、彼にはショックだったんですよ」
 ジェイソンは苛立ちを覚えた。
「言わせてもらうが、私の質問は論理的で、かつ必要なものだ。本格的な研究のためだ。だがたしかに、クイ――研究対象への聞き取りは順調とは言えない。トラック山盛りの虫を数えるほうがまだ簡単そうなほどだ」
 ティムがニコッとした。温かく、心のこもった笑顔だった。
「うん、ここに住むク――ひとびとは手に負えないことがありますね、たしかに。だよね、パンプキンちゃん?」
 赤ん坊を上下にはずませる。彼女の小さな足がティムの太腿を踏んで伸び縮みした。口にくわえていた拳で今度はティムの顎をつかもうとしたので、涎の線がだらりとのびる。だがティムは気にした様子もなかった。
 ジェイソンの怒りは、発生と同じくらい急激にしぼんだ。ティムの言うことにも一理ある。対人スキルというのは昔からジェイソンにとって苦手な分野だった。試験管やコンピューター、顕微鏡を相手にしているほうがずっと気が楽だ。だがこうして個別のデータ採集にとりかかれる機会がやってきたのだし、この重要な研究を自分のコミュニケーション不全のせいで失敗するわけにはいかない。
 もう何百回目かのことだが、ひとりきりで研究するしかない環境を嘆いた。多くの研究者たちがこの手の作業をスタッフにまかせているというのに。ただ、研究の秘匿性ゆえにそんな手段はジェイソンにはありえない。マッドクリークのクイックたちの中に才気あふれる若い科学者の卵が出てこない限り、ジェイソンは新たな種族という未開の地を孤独にさまよう探求者なのだった。控えめに言っても、気が重い。
 デイジーがやってきてコーヒーのおかわりを入れてくれた。ティムにも新しい水のグラスを出す。そしてまた赤ん坊の喉元をくすぐって去っていった。
 ジェイソンはふたたび書類を揃えた。コーヒーを飲むと、沈んだ溜息をカップに漏らした。
「じゃあ、またはじめからやりましょう」とティムがうながした。テーブルごしに身をのり出して、にっこりと右手を差し出す。「どうも、僕はティム・ビューフォート。ビューフォート保安官は僕の夫で、このかわいい天使ちゃんはモリー。僕らの娘」
 ジェイソンはその手を短く握り返した。多くのクイックたちと異なり、彼は接触を好まない。
「よろしく、ティム。私はジェイソンだ」
「どうも、ジェイソン」
 ティムは何か聞きたそうなそぶりだったが、ジェイソンのほうもいくらか質問がある。
「その乳児」と彼は赤ん坊を示した。「彼女はクイ――」
「うん!」ティムは神経質に周囲を見回した。「そう。この子は、その……ご存知の
「そして、きみは違うな」
「そのとおり」
「さらに、きみはランス・ビューフォートと結婚している。子宮の要素がどちらにもない」
 ティムはくすっと笑った。子供が楽しげな声を立て、その笑いを感じとろうというように喉元に手をのばす。
「まさにね。カップルとして、僕らには子宮の持ち合わせがない。モリーの親はランスの兄のロニーとその妻トゥリーで、ふたりとも……その、アレだから」ティムの目がいたずらにきらめいた。「トゥリーは二度目の妊娠で。一度目の時には三つ子で、今回は四つ子だとわかってね。それで彼女は途方に暮れた。かなり控えめに言っても」
 ほう。興味深い。ジェイソンはその話を書きとめた。ティムに言われてあらためて思い出すと、この町の学校に行っていたころ、たしかに双子や三つ子が周囲に大勢いた。多胎出産はイヌ科の特性でもあり、遺伝学者の興味の対象でもある。もし“種火スパーク”を得てクイックになった犬のDNAを、通常の犬のままのきょうだいのDNAと比較できたなら、変容によって影響を受けた遺伝子を突き止める手がかりになるかもしれない。多胎児は一卵性双生児とは違うが、そうであっても、血縁のない犬同士よりはるかに近いDNAを持つ。
 ティムはまだしゃべりつづけていた。
「もちろん僕らだって『うわ、四つ子!? そんなにいらないでしょ、大学の学費がえらいことになるし』なんて言ったわけじゃない。ただとにかく、この子たちが生まれる前にはもうこういう成り行きになってた。まあ。決められたというか」
 苦笑いの口調だった。顔を上げてジェイソンを見る。
「リリー・ビューフォートのことは知ってる?」
 ジェイソンは彼女のことを思い出そうとした。
「……あまり?」
 ティムが鼻で笑う。
「すぐ知ることになるよ。間違いない。リリーは、ランスとロニーの母親でね。なんにせよ、子供たちが生まれるより先に、そのひとりをランスと僕が育てるっていうのは決定事項にされてたわけ。あなたにとっては奇妙に映るかもしれないけど、僕らはどうせ同じ町に住んでるから、モリーはきょうだいと遊べるしね。そうだよね、パンプキンちゃん? それにロニーとトゥリーはほんとに優しくて。ランスと僕が家族を作れるようにって本心から願ってくれてる。それと、そうそう、ランス! “仕事以外のことに割く時間は無駄”のランスがさ、モリーと目が合った瞬間からありえないくらい骨抜きでめろめろのパパになっちゃって」
「それは……そうか、おめでとう。だが私は次の準備が――」
「そしてこの小悪魔ちゃん登場ってわけ」とティムはまたモリーを上下にはねさせ、満面の笑みを彼女に向けた。「この子が僕らを親に選んだんだよ、病院で、まさに一日目に」
 ジェイソンはつい口を出していた。
「新生児がきみらを選んだ。『そなたらが待ち望んでいた子は我だ』とでも言ったのかね?」
「ううん」ティムが笑った。「この子はきれいな青い目を開けて、ランスと僕を見上げると、抱き上げてくれってするように両腕をさし出したんだ。ほかの子たちは僕らの存在なんか気にもしてなかったのに」
「そんなに幼いのに腕を持ち上げられるものなのかね?」ジェイソンは納得していない。
「神に誓ってね」
 まるで今の物語がギルガメシュ叙事詩に匹敵する神話や伝説であり、それを疑うなんてひどい冒涜だというようにティムが不吉な目つきをよこした。
「あるいはちょうど放屁のタイミングだったか」とジェイソンは推論する。
 ティムは小首をかしげて、じっとジェイソンの顔を見た。
「なるほど。科学者だね。運命や魔法は信じないというわけ?」
「わずかたりとも」
「それでもあなたは、あなた自身……なんでしょう。そうですよね?」
 自分がクイックであることをジェイソンは否定しようがない。町の住人のほとんどが彼の母とその来歴を知っているのだから。だが口に出してそれを認めるのはあまりにも久しぶりのことだった。彼は素早くまばたきをした。
「ああ。そうだ」と固く答える。
「ならどうして魔法を信じないでいられるんです? 僕はいつも、この町は魔法みたいだって感じてるんだけど」
 ジェイソンは憤慨の息をついた。
「クイ――我々が話題にしている状態は、魔法などではない。遺伝学的なものだ。DNA。すべてに論理的な説明がつく」
「そうかな?」
「もちろんだ! うまく説明がつかないからと言って魔法であるとは言えない」ジェイソンは身をのり出した。この話題になると熱がこもるのだ。「答えはDNAの中にある」
「ほんとに? すごい。どういう仕組みなんです?」
 ティムは本気で興味津々に見えたし、こうして研究の話をできる機会は滅多にない。ジェイソンは力強く答えた。
「正確なメカニズムはまだつかめていないが、有力な仮説はある」
「ふうん……?」
「遺伝子の発現を切り替えるスイッチがあり、それによってオンオフがなされることはわかっている。一例を挙げると、発現したなら、胎児の退化した尾を成長させることができる遺伝子は誰しもに存在する。だがそれをオンにできる特定のスイッチはごく一部の人間にしか存在しない」
「へえ! つまりそれって、もしかしたらどの犬のDNAの中にも、犬が、その……になれる能力はあって、でもそのためのスイッチを持ってる犬だけが実際の――になれるのかもしれないってこと?」
「スイッチを持っているかどうかが問題なのではない。賢いカニス・サピエンス――あるいはクイックと言ってもいいが――として生まれついた場合、そこのモリーのように、はじめからスイッチを持ち合わせている。だが通常の犬として生まれた場合、極端な状況下において進化するか作り出すかしてスイッチを得るのではないかと思う」
 ティムが首を振った。
「それで、あなたはそれをどうやってつき止めるんです? わお、こいつは途方もない話だ」と子供に微笑みかける。「わお、ってのは使っていいよね、汚い言葉じゃないもんね? よしよし」
「途方もないが、その意味を考えてみてくれ! これほどに強力な突然変異のスイッチを解明できたならば、ほかのスイッチを発見する手がかりになるかもしれないんだ。老化を食い止めたり失われた手足の再生を可能にするような強力なスイッチを。祖先である古代の両生類のように」
「じゃあどのような“極端な状況”が犬を……それ以上のものに変えるんです?」
「それを突き止めようとしているんだ」ジェイソンは書類をそろえながら、研究について考えるといつも湧き上がる気ぜわしい興奮を感じていた。「この町の第一世代全員から聞き取り調査を行いたい。彼らがその――を起こした共通の因子があるはずなんだ。感情が化学反応を引き起こすことは知られている。たとえば、母と子などの間で安心感やつながりを感じると、オキシトシンという化学物質が生成される。そのほかにもホルモン、フェロモン、ストレス反応、アドレナリン……特定の遺伝子を目覚めさせてスイッチを入れる特定の組み合わせカクテルがあるのかもしれない」
 通りすぎたデイジーが、くるりと引き返してきた。
「あら、ジェイソン! カクテルがほしいって言った? ごめんなさいね、うちにはアルコール類の販売ライセンスがないのよ。ランスが駄目だって」ここで身を乗り出してわざとらしくひそひそ囁いた。「他所者が町で酒を飲むのを嫌がってるの。でも正直、勘弁してほしいけど。ランチでビール飲んだって何も起きやしないわよ!」
 ジェイソンは鼻の上に眼鏡を押し上げた。
「いや、デイジー。私がしていた話は……いいや、カクテルはいらない」
「あら、そうなの」
 デイジーは立ち去ろうともせず赤ん坊をくすぐり、下らない言葉を浴びせた。ティムは子育てのコツをつかんでいるらしく、モリーを左腕でかかえてデイジーと遊べるようにすると、まるであと二分しか命がないように右手で食事を口につめこみはじめた。二分後にはデイジーが歩き去り、モリーが退屈してまた奇声を上げ出した。幼児が放つ音は、黒板をかきむしる音、空襲サイレン、オウムの鳴き声を一緒くたに混ぜ合わせたかのようだった。人間の声とも犬の声 とも思えない。
「潮時みたいだね」ティムがジェイソンに笑いかけて口元をナプキンで拭った。「家に帰ってお昼寝の時間だ。僕じゃなくてこの子がね。僕だって昼寝したいのは山々だけど。じゃ、ジェイソン、会えてよかった。研究がんばって。もし僕にできることがあれば……ああ、毎週金曜は群れの食事会で、月末の土曜は月吠えの夜だから。逃すのはもったいないよ! そこでまた会える?」
「いいや」
「あ、そうなんだ。うん、わかった。じゃあね」


■Chapter2 マイロとのめぐりあい


 リリー・ビューフォートはこの旅を心の底から恐れていた。マッドクリークの女家長として、そしてビューフォート家の母、かつ祖母として、さらにボーダーコリーの第三世代シフターとして、群れを導くことも他人の事情に首をつっこむこともそれなりにお手のものだ。だが今回は違う。昔の恩師がフレズノのホスピスに入院しているという知らせが来たのだった。リリーは、あの愛しい老婦人に別れを言いに行かなければならない。そうなのだ。
 ソフィー・アンドリュースは、リリーが町の外に持つ数少ない友人のひとりだった。マッドクリークには、なりたてのクイックを教育する学校がどうしても必要だったのだが、町にあった幼稚園から高校までの一貫教育システムでは対応できなかった。そこで自分がクラスを作ると買って出たリリーは、何をすればいいのか知るためにフレズノで開かれた教員資格を取得できるプログラムに参加したのだった。
 ソフィーは長年その手のクラスを受け持っており、リリーとはすっかり親しくなった。何年にもわたってリリーはフレズノへ買い物に出るたびによく彼女とランチを取ってきた。ソフィーはクイックについては何も、その存在すら知らなかったし、リリーがそのひとりだとも知らなかった。だが大人に読み書きを教える方法については熟知していた。
 今、そのソフィーは脳卒中でホスピスに入院している。息子によればそばに誰がいるのかもわからない状態だと言うが、最後の敬意を払いに行くほか、リリーにできることはなかった。
 ホスピスがあるのはリバー・グレンという老人ホームの続き棟だった。リリーは古いスバルのステーションワゴンを駐車場に停め、バックミラーで自分の姿をたしかめた。わずかだけ銀髪混じりの黒く豊かな毛並みはぐったりとしなだれ、毛根まで悲嘆に暮れているようだ。青い目は腫れぼったく赤らんでいる。笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。取り乱すことなくこの訪問を無事終えられればいいのだが。溜息を吐き出し、リリーは車を降りて建物に入った。
 ナースステーションで受付を済ませて、面会者用バッジを受け取った。受付係によればソフィーの部屋は二〇七号室。深々と息を吸い、リリーはホスピスへ続く両開きドアを抜けた。
 廊下の床は艶光るリノリウムで、落ちついた灰青色の壁には夕日や花が描かれていた。安らぎを与えるつもりなのだろうとは思うが、でもなんて退屈なんだろう。憂鬱から気をそらせたいのなら、ウサギとか何か、追いかけられる動物の写真でも飾るべきだ。次のナースステーションを通りすぎ、それから二〇〇号室、二〇一号室……。
 おかしなにおいが鼻をくすぐって、リリーは足を止めて嗅いだ。ホスピス棟には色々なにおいがひしめき、ほとんどどれも不快なにおいだ。レモンの洗剤の強いにおい、塩水、苦い抗生物質、うっすらとした尿や便、ハンドクリーム、そして心騒がす病気のにおい。看護師の誰かがつけている香水の残り香と――。
 犬。犬のにおいがする。雄犬だ。
 周囲を見回すと、ナースステーションのカウンター脇で、毛に包まれた顔がきょろきょろしているのを見た気がした。だが一瞬のことだ。気のせいだろう、嗅いだばかりのこのにおいも。ナースステーションに犬がいるわけない!
 首を振り、リリーは歩き出してまた二〇七号室を探した。部屋に着くと、男が出てくるところだった。ソフィーにそっくりだ。
「ディロン・アンドリュースね?」とリリーはたずねた。
「そうですが?」
「私はソフィーの友人のリリー・ビューフォート。この間、電話で話したわよね?」
「ああ、そうですね。来て下さってありがとう」
 彼があまりにも打ちひしがれて見えたので、リリーは思わず彼をハグした。離れると、ディロンの目元は濡れていた。
「悪いけど、母さんは意識がなくて」
「いいのよ。私がソフィーのそばにいるから、その間ちょっとコーヒーでも飲みに行ってきたら?」
「それが、一、二時間仕事に行ってこないとならなくて。看護師が見回ってるので、あなたは……好きなだけいてもらえれば」
「ありがとう」
「来てくれて感謝します。母さんもあなたに会いたかっただろうと思うので」
 ディロンが去ると、リリーは腹をくくって部屋へ入っていった。肌が不安でちりつく。腕や首の毛が警戒に逆立った。だが、結局のところ、中にいたのはソフィーだけだった。ベッドに横たわった彼女は小さく縮んでしまったかのようで、きりりとしていた顔は前にも増して鷹のように見えた。深々とした眠りに落ち、口元がゆるんでいた。
 リリーは訪問者用の椅子をベッド脇へ引き寄せ、座った。ソフィーの手を取ると、カサカサした紙のような感触を心からしめ出そうとした。ソフィーに自分の家族やマッドクリークのゴシップを話して聞かせる。ゴシップなら山ほどある。
 午前中はたちまちすぎていった。ソフィーは一度も目を開けなかったが、数回、リリーの手を握り返してきた。ランスとティムと赤ん坊のモリーの話を聞きたくてたまらないらしい。そりゃあ聞きたくないひとなんているわけないけど!
 さらにリリーは、なつかしいジェイソン・クーニックの話もした。昔からひとりだけ毛色が違っていたがとんでもなく頭が切れた彼が、今や研究のためにマッドクリークに戻ってきたのだと。博士にまでなって!
 幾度か、半開きのドアのところに誰かがいるのをはっきり感じた。だがそのたびにリリーが振り向いても、誰の姿も見えなかった。
 しまいに、ついに話題が尽きた。さよならの時が来たのだ。石のように重い心で、リリーはソフィーの額にキスをした。
 帰ろうとしていると、ちょうど看護師が入ってきた。
「あらどうも!」と看護師がリリーに挨拶した。空色の看護服に色とりどりの風船の絵がある、大きな笑顔の大柄な女性だ。名札にはラシーヌとある。「いいから、私のことは気にしないでくださいね! いくつかチェックするだけですから。ソフィーはあなたが会いに来てくれてとっても喜んでると思うわ。そうでしょう、ソフィー?」
「彼女がいないと寂しくなるわ」とだけリリーは答えた。
「でしょうね。とても素敵な人だったんだろうって、私にもわかりますから。最後に会いにくる人たちや家族の雰囲気で、どんな人だったかいつもわかるんですよ。ええ、いつか私たちにもこんな時が来る。悔いのないように生きるのが一番」
「ソフィーは頭が良くて、誠実で、私にとても多くのことを教えてくれたのよ」
 ソフィーについてさらに語ろうとした時、リリーの耳がかすかな蝶番のきしみをとらえた。振り向くと、茶色くて毛むくじゃらの長い顔がドアのそばから彼女を見ていた。
 あら、コソコソしちゃって。さっきからずっとあなただったのね?
 リリーは目を細めてじっと相手を観察した。
「あの犬、ご存知?」とひそひそラシーヌに聞く。
 ラシーヌが扉のほうをちらっと向いた。顔が笑みで明るくなる。
「ええ! あれはマイロよ。うちの“いたわり犬”」
「いたわり犬?」
「そうなのよ。この犬は患者や家族のところへ行って慰めてあげるの。愛のかたまりみたいな犬なのよ。患者さんにとても優しくて! 私たちみんな、この子はちょっとした魔法を持ってると思ってるのよ、いつだって最期の近い人が誰かわかってるんだもの。亡くなったばかりの人にこの子が丸くなって寄り添っているのをよく見るのよ。マイロは、あの人たちをひとりきりで旅立たせまいとしているの」
「へえ。看護師かお医者さんが飼ってる犬なの?」
「いいえ。まあ、私たちみんなの犬、というところね。あのね、二年くらい前、看護師長のミセス・バートンがね? ホスピスで介助犬を使って患者さんたちのストレスや恐れをなだめてるっていう記事を読んだのね。彼女が地元の保護シェルターに電話して、まずためしに何匹か犬を貸してくれないかってたのんだのよ。それで五、六匹の犬が来たんだけど、うまくいったのはマイロだけ。ほかの犬たちは患者に興味がないし、ちょっと騒がしくてね。でもマイロだけは何をすればいいのか心得てて、自分を一番必要としてるのが誰なのかも、慎重な振る舞い方もわかってた」
「あらすごい」
 リリーは犬の愛らしい顔を眺めた。犬はリリーを見つめてまばたきした。体高があり、金の毛がくるりと巻いて、ラブラドールとプードルの混血のラブラドゥードルだ、とリリーは思った。
「ねえ。それでシェルターがこの子を週に一度ここにつれてきてたの。患者さんがみんな夢中になっちゃって『マイロはどこ! どうして今日はいないの?』ってね。そしたらある日シェルターから電話があって、もう長いこと誰も引き取ろうとしないからマイロを処分するって言ったのよ?」
「ひどい!」
 シェルターがそんなことをするなんて、考えるだけでリリーの胸がムカつき、誰かに嚙みつきたいほど憤慨してしまう。
「ほんとひどいの。それでうちで話し合って、マイロをここで飼うことにしたのね? スタッフルームに寝床を置いて、全員でかわりばんこに散歩や餌やりをしてね。でしょ、マイロ?」
 普通の犬なら、名前を呼んだ相手の顔を見るものだ。だが、マイロの視線はリリーの顔から動かなかった。リリーはその目をじっとのぞきこみ、自分の疑惑が正しいのかどうか読み取ろうとする。その目は悲嘆をたたえた温かなシチューのようで、心の痛みが、あきらめが、恐れが、そして好奇心がそこにあった。気味が悪いほど知性的な目だ。リリーはできるだけこっそりとにおいを嗅いだが、空気中のつんとよどんだ薬品のにおいが強すぎて、肝心の犬のにおいがよくわからない。
 まるで何をされているか気付いたかのように、犬がさっとドアの向こうへ下がると、リリーの耳に廊下を遠ざかる小さな足音が聞こえた。
(あら逃がさないわよ、あなた)
「ソフィーの面倒を見てくれてありがとう」リリーはラシーヌへ礼を言った。最後にもう一度、ソフィーの上へ身をかがめる。「さようなら、愛しい友よ」
 

 リリーは二〇七号室からホスピスの広くて静かな廊下にすべり出した。あの犬を探さないと! じっくり話をするまでとても帰れない。廊下に爪が当たる音はもう聞こえなかった。隠れているのだ。あの犬のにおいがとにかく至る所に染みついていて、おかげで今どこにいるのかたどるのが難しい。それに患者や家族がいる部屋がいくつもある。ずかずか入るわけにはいかないし!
 まあ、いかないことはないか。彼女はリリー・ビューフォートなのだから。入っていきますとも、その必要があれば。だがまずはひっそりとやってみよう。無人の廊下で立ち止まったリリーは大きく息を吸った。低く、人間の耳には数歩離れたら聞き取れないほど小さな声で、語りかける。
「ハロー、マイロ。私はリリーよ。あなたの正体を知ってる。大丈夫よハニー、私もあなたと同じなの。ね、お話ししない? お願いだから?」
 廊下の蛍光灯の下に立ち、反応を聞き逃すまいと息すらつめて待った。そうしていると、考えこまずにはいられない。マイロは自分がどんな存在なのか、どんな能力があるのかわかっているのだろうか? ほかのクイックと会ったことは?
 リリーは“種火スパーク”を得た犬たちをこれまで何十匹も知っていた。そればかりか彼らをマッドクリークへ呼ぶ助力もしたし、身の上話も聞いてきた。彼らが同種に出会えるまで味わわされてきた孤独と混乱に、心が裂けそうな思いをしてきた。ここにいる哀れな子もそうだ。
 マイロみたいな犬が、この世にどれくらいいるのだろう? クイックとなり、しかしたったひとり、同種の存在すら知らずに。なんてこと。想像するだけでたまらない。群れの会合でも、町外での捜索活動を始めようかと幾度も話し合ってきた。だがどこから手をつければ? 迷える魂はどこにいてもおかしくない――犬とそれを愛する飼い主のいるあらゆる場所に。
 しばらく経った頃、廊下の突き当たりの角からマイロが姿を現した。そこに立ち、距離を保ったままリリーを見つめている。
「大丈夫よ、ハニー。ふたりで話せる場所はあるかしら?」とリリーは囁いた。
 マイロはまたしばらくリリーを見つめてから、くるりと向きを変え、ちらちらと肩ごしに振り向きながら歩いていった。リリーはそれを追う。
 マイロは扉の前へリリーをつれていくと、そこで立ち止まった。飛び上がって、前足でドアノブを押し下げる。中はリネン類や掃除用品が詰まった用具室だった。
 リリーも入ると、ドアを閉めた。ぴったり棚につくまでマイロが後ろへ下がる。まだ若い犬に見えた。木の葉のようにぶるぶる震えている。リリーは泣きたくなった。ああ、子犬ちゃん、一体どんなつらい目に遭ってきたの?
 しゃがみこんで目の高さをあわせ、両手をよく見えるようにしておく。マイロの目をじかに見ようとせず胸のあたりへ視線を据えた。敵意はないのだと。
「大丈夫よ、いい子ね。大変だったでしょう。でももう心配いらないわ。私が来たもの。私はわかってる。わかってるのよ」
 マイロがクゥンと鳴く。興奮と、恐怖の混じった声。それから――それから、彼は溶けはじめた。変身とは違う。横倒しに床へ倒れると、毛に包まれた体が波打ち、のびていった。
「あっ、駄目よ! ここじゃ駄目!」
 リリーは必死に囁いてドアをちらちらとうかがった。だがもう手遅れだ。
 マイロはまさに弾けかかったシャボン玉。意志ではきっと止められない。変身を目撃するのは親密な行為だ、誰かの着替えを見るような、ただそれよりはるかにずっと重いものだが。リリー自身何回となく変身し、痛みは一瞬だとわかっていても、自分が耐えるより誰かが耐える姿を見るほうがつらいのだ。
 マイロはこれまで変身してみたことがあるのか、それともこれが初めて? かわいそうに! 何が起きているのかわからないままでは恐ろしいに違いない。リリーは誰かが入ってこないように、そしてマイロに十分なスペースを与えられるようにドアにもたれて座った。そっと囁いて励ます。大丈夫、そういうものなの、と。変化の途中で誰にも見つからないよう祈った。
 ああもう、これを見たらランスの心臓が止まるわね!
 その変化は尋常ではないほど早かった。ラブラドゥードルが消えてしまうまで二分とかからなかっただろう。リリーはまばたきし、さらに目をこすった。用具室の床にはひとりの青年が横たわっていた。暗い金の髪は巻き毛で、短く刈られている。彼は脇腹を下に、膝をかかえて目をとじて横たわり、疲れ果てて喘いでいた。体はすらりと長く、犬だった時のフォルムに似て、肌は黄金色に焼けた色。頭上の光が裸の腿を照らすと産毛が金に輝いた。
 あらあら、まあきれいな男――だがリリーはその考えを振り捨てた。若すぎる相手だし、それにどのみち今のマイロに必要なのはそんな反応ではない。それでも、見るくらいはかまうまい!
「もう大丈夫?」とたずねた。
 マイロが目を開けた。両腕を使って起き上がり、自分の体をまじまじと見下ろして、震える息をつく。大きなヘイゼルの目でリリーを見上げた。
「あなた、たすけ、くれま……す……?」
「あら、いい子ね! もちろん助けてあげますとも!」
 リリーは部屋を横切ると、自分の小さな体でかなう限り強く、激励をこめてマイロを抱擁した。
「もう安心して。リリーがついてるわ」
 

 裸の青年を老人ホームからつれ出すのは、世界一楽なお仕事とは言えない。残念ながら用具室の中には着られそうなものは何もなかったので、リリーはマイロを残して偵察に行かねばならなかった。もっとも、ありがたいことにリリーは嗅ぎ回る天才なのだ。
 スタッフのロッカールームを見つけ出し、サイズが合いそうな古い褐色の医療用スクラブの上下を失敬した。別のロッカーからはサンダルをいただく。用具室へ戻ってみるとマイロは部屋の隅に縮こまって震えていた。リリーは彼の着替えを手伝った。ひどくぎくしゃくした動きを見ても、これまで人間の服を着たことがないのだとわかる。
 マイロの震えや伏し目が、なんとも嫌な感じだった。何かのトラウマがありそうな。孤独で怯えていたというだけ? それとも虐待? ここで身の上話を聞く時間はないし、そもそもマイロがうまく言葉で説明できるかも怪しい。
 マイロが服を着ると、その腕をリリーはてきぱきとさすってやった。建物の中の気温は高いが、マイロは凍えているように見える。リリーに比べると相当背が高かった。
 頭を傾げて、リリーは伏し目の視線をとらえようとした。
「マイロ? 一緒に私の家に帰らない? 私はマッドクリークという町に住んでいてね、その町に住んでるのはほとんどが私やあなたみたいなひとたちよ。犬の姿でも人間の姿でいてもかまわない。眠る場所も食事にも困ることはないし、読み書きを教われる学校もあるわ。一緒に来たい?」
 話の中身がマイロに理解できるかはわからなかったが、まずは聞いてみなければ。
 マイロが目を上げ、期待をこめてリリーを見つめた。
「家?」
「そうよ。マッドクリークの家に帰りましょう。ここにはもう戻らない。とにかくしばらくはね。あなたはそれでいい?」
 マイロの顔が悲しげに曇り、じっと考えこんでいる様子だった。ラシーヌとのおしゃべりから、このホスピスでマイロが大事にされてきたのはわかっている。だが彼はクイックなのだ! あんなふうに自分を隠して孤独と混乱の中で生きるなんて、誰だろうとひどい仕打ちだ。大きな可能性があるのに犬の肉体に囚われたままで。マイロをここからつれ出すのが正しいことだと、リリーは確信していた。だが無理強いはできない。
 ランスからは、何でも仕切りたがるといつも文句を言われる。何が最善か知っているだけなのにそれがリリーのせいだとでも? それでもリリーがひとつだけ、固く心に決めていることがある――誰だろうと、自分の意志に反して何も強制されてはならないと。犬だろうとヒトだろうと。この子を無理やりさらっていくつもりはない。たとえ今すぐこの子を抱えて家につれ帰れと、身の内のすべてが叫んでいても。
 しまいにやっと、マイロがうなずいた。
「家。僕、したい――さよならを?」
 リリーは唇を嚙んだが、うなずいた。ホスピスのスタッフに一体どう思われるか不安だが、別れを告げるチャンスをマイロから奪うことはできなかった。
 そこで、ふたりは歩き出した。マイロがドアを開けるのを、リリーが手伝わねばならなかった。マイロの両手は不器用で、歩き方もよろよろと、肩を前に倒してバランスを取るかのようだった。とはいえそのおかしな動き方を見とがめられなかったのは、誰ひとりマイロの顔から目が離せなかったからだ。リリーが施設内を行くマイロについていくと、マイロは看護師から次の看護師へ、部屋から部屋へと移っていった。言葉は発さなかったが、その目は悲しみと慈愛に満ちていた。出会った全員を抱きしめる。やわらかで心地いい全身でのハグを、一回ずつじっくりと。
 その道行きで、マイロは魔法をかけていった。誰ひとり、マイロが何者か聞かなかった。ここで何をしているのか問おうともしなかった。誠実なハグを誰もが同じくらい心から受け止めた。廊下にいた厳格そうな顔の医師すら、手のクリップボードを床に落としてマイロのハグに応え、唇に微笑みを浮かべていた。その上、患者たちときたら! マイロはこの上なく慎重に、だが全員を、意識なくベッドに横たわるひとたちまで抱きしめた。ソフィーのことも。看護師たちはそれを見つめ、いつでも割りこめるようにしていたが、一度も邪魔はしなかった。
 マイロがすべての抱擁を終えた頃には、その後ろに五人ものスタッフたちがぞろぞろつき従っていた。マイロはホスピス棟から出る両開き扉を抜け、振り向いた。その目がリリーを探す。
「家に?」
 おずおずと、だが願いのこもった微笑みで問いかけた。
 ああ、ダーリン。マッドクリークはあなたをどうすればいいのかしら? リリーは自問する。マイロの手を取ると、車へとつれていった。

--続きは本編で--

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