ヒトの世界の歩きかた
イーライ・イーストン
■Chapter1 それは危険なタンジェリン
「いいか、ローマン、よく覚えておくんだ。この会合の間、犬っぽい言動は一切慎まねばならない。誰からも怪しまれないようにな」
「イエス・サー。警戒して当たります」
念を押されるまでもない。ローマンだって、いわゆる“クイック”——人間の姿になれる犬の
変身能力者——の存在が、ヒトに知られてならないことは承知している。
だがランスの不安もわかるし、あれこれ言うのも緊張からだろう。鼻の下に玉の汗を浮かべて車のハンドルを切るランス・ビューフォートを、ローマンができるだけこっそり嗅ぐと、警戒や不信がにおった。ローマンの内なる
犬は、群れのリーダーの落ちつかない様子に「クゥン」と鳴きそうになるが、ローマンはそれを呑みこんだ。犬っぽい言動はなし。
ふたりは保安官事務所の白いSUVで、地域の捜査機関が集まる大きな会議のためにフレズノへ向かっていた。
麻薬取締局からの発表があるという場に、ランスはローマンの同行を求めた。単に長時間のドライブの連れがほしいだけかもしれないが、ローマンはうれしかった。マッドクリークの正式な保安官助手になってから、ローマンにはまた生きる目的ができたし、ランスの役に立ちたい。それに車に乗るのは大好きだ! とりわけ自分で運転せず、開けた窓から片手を垂らし、肌を打つ風を感じるのは最高だった。
窓を開けているので、九月のぬるい風のにおいが鼻に届いた。どこまでも続く針葉樹の中、ローマンは顔を風へ向けた。森の中で何かが死んでいるにおいだ——小さい動物、マーモットとかそんなたぐいの。車でなければ、気晴らしに見にいっただろう。だが、今日は駄目だ。今日は違うのだ。
微笑んで、ローマンは風をつかもうとする自分の手を見つめた。今日の彼はヒトだ。今でも信じがたいが。この、手というやつは凄い。最近の彼は、人間の体の神秘にすっかり心奪われていた。“
活性”になって二年経っても、夢から醒めたようにはっとすることがある——そのたびにこれは現実だと再確認するのだが。
「かなり違うと思うんです」とローマンは指をひらひらさせた。「あなたのような生まれついてのクイックと、後からクイックになった俺のようなものとは。ずっと、犬として生きてきたから」
「違うだろうな。まるきり」とランスがうなずいた。
「俺は、犬でいたことをよかったと思ってます。軍の
特殊訓練犬でいられてよかったと。ジェイムズのそばで」
ランスが無言だったので、ローマンは失敗したかとひやりとした。もしかしたら“ヒトらしくない”話をしすぎただろうか。ランスは群れの仲間だが、ボスでもある。咳払いして、ローマンは車の窓を閉めた。
「そう言えば、今日の会議では、どんな話をするんですか」
「わからん」ランスが眉根を寄せてフロントガラスをにらんだ。「いい話であるよう願うが、しかし——」
「うちの町では騒ぎは何もありませんし。麻薬の売人たちがティムの家を銃撃した、あの夜以来」
「わかっている。だが何か起こりそうな気がするんだ。こう……首筋がヒリつくような。もう何日も、嫌な予感がしてる」
ローマンは特に嫌な予感はしなかったが、黙っていた。ボーダーコリーのクイックであるランスには、自分のテリトリーへの強烈なこだわりがあるのだ。ローマンやほかのクイックがかなわないくらいの。そのランスが何か感じているのなら、きっと正しい。
ローマンの胸が騒いだ。
「銃を身に付けていくほうがいいでしょうか?」
ランスが笑った。
「いや、会議で何かあると思ってるわけじゃない。せいぜいコーヒーとドーナツとゴマすり連中くらいだろう、脅威と言えるものは。だがDEAが何の話をするのか……こんなふうに呼び集められるのは初めてだ。麻薬組織の摘発があまりうまくいっていないのかもな。どんなふうにこじれているにせよ、マッドクリークと関係がないよう祈るだけだ」
「あったら困りますからね」
ランスの哲学はローマンも知っている——目につかないようにひっそりとせよ、人間世界にはできるだけ近づくな。マッドクリークの町が人里離れた山の中にあるのは必然なのだ。
「そうだよ、ローマン。
とても困ることになる」とランスがむっつり言った。
少なくとも百人もの保安官やその助手、そしてほかの捜査機関の面々が集まっていた。ローマンはランスのそばを離れず、紹介されれば「どうも」とだけ言って口をつぐんだ。耳をかいたり、周囲の人間のにおいを嗅ぎたいのも我慢だ。軍にいた頃に見覚えた、武骨な軍人らしく振舞った。ヒトらしい自然な態度はまだ難しくとも、兵隊の真似なら心得たものだ。
それどころか、こうして制服姿の集団に混ざっていると、昔に戻ったようだった。アフガニスタンにいた兵隊たちよりここの人々は年上で、あれほどの活気も陽気さもなかったが。それでもローマンにも理解できるジョークがとびかい、互いに背中を叩きあったりしている。その上そう、コーヒーとドーナツがあった。白いアイシングつきのレーズンのドーナツがローマンのお気に入りだ。そのドーナツを六つ平らげたところでランスににらまれて、ローマンは食べるペースをゆるめた。
ドーナツのあと、報告の時間が来た。
森林局がまず報告を行った。でっぷりした腹と白髪頭の、年嵩の男が口を開く。
「昨年、カリフォルニア州では四百以上もの違法マリファナ農場が発見された。そのうち三百ほどが、シエラネバダ山脈にあった」
森を切り開いて土がむき出しになった一帯の写真が表示された。ビニールシートで作った巨大な溜め池もある。
「最大の問題は、公共の地と動物の棲息地への広範囲の損壊だ。これらの違法農場は大量の殺虫剤を使用しており、樹木を切り倒し、獣に毒の罠を仕掛けている。耕作用の貯水池を作り、何百ガロンという地下水を吸い上げて地域の水を涸らし、下流の水を横取りしている」
ランスの言ったとおりだ。いい話ではなかった。次々と続くスライドを見つめ、ローマンのうなじの毛が逆立つ。ローマンは自分のキャビンを取り囲む深い森を愛していたし、そこを駆け回るのが大好きだ。ヒトの姿でも、犬の姿でも。森は美しくて、生命にあふれている。こんなことを
彼の森にされたらただではおかない。
「環境への影響のみならず、知らずに行き合わせたハイカーやキャンパーの身も危険だ。まさに去年、それが原因の殺人が十二件起きている。森林局の局員の身も危険にさらされている。局員はこうした訓練を受けていないし、そんな高度な捜査体制もない。よって我々から州知事に、そして知事から大統領に、DEA捜査官の派遣を要請した」
続いてDEA——麻薬取締局——の男が話し出した。ディクソンという名の男だ。茶色の髪には白いものが混ざっていたが、体は締まっていて威圧感があった。ブルージーンズに金の〈DEA〉のロゴが入った黒いTシャツを着ていた。
「切迫した事態であることはあらためて言う必要もないだろう」とディクソンが切り出した。「カリフォルニアにあるのはほとんどがマリファナ畑だが、アリゾナやテキサスでは阿片や覚醒剤精製ラボがこのような森林公園内に増加している。幸い我々には、このカリフォルニア山中で合同作戦を行うだけの予算が与えられた」
ディクソンが町名のリストを表示した。マリポサ、オークハースト、ブライスバーグ、コールターヴィルなどの名がその中にある。その上、白黒のリストの中にはマッドクリークの名まであった。ローマンの隣に座るランスの体が張りつめて震え出していた。
「この新オペレーションを〈グリーン・ゴースト作戦〉と呼ぶ。今後十二ヵ月かそれ以上、これらの町へ、常駐の捜査官を派遣する。このDEA捜査官はきみらのオフィスに駐屯し、DEAの指揮下で地元との協力体制を構築する。我々には——」
「少しよろしいでしょうか!」とランスが勢いよく立った。
ディクソンがランスをじろじろ見る。
「何か?」
「リストにある町の保安官として、我々にも発言の権利はあると存じます。我々は余分な人材など要してはいない。現状で人手は余っておりますし、はっきり言ってマッドクリークの周囲にはいかなる麻薬取引の懸念も存在しない」
ランスは最大出力モードだ。響きわたる声に、自分に言われたわけでもないのにローマンは椅子でもぞもぞしてしまう。だがディクソンは目を細めただけだった。
「マッドクリーク? ではきみは、ビューフォート保安官か」
「まぎれもなくそうです」
ディクソンがうなずいた。
「そうか、保安官、残念ながらきみらに発言権はない。これは連邦政府による作戦であり、実行に当たっては分析に基づいて場所を決定している」
スライドが切り替わると、リストにある町がシエラネバダ山脈上に点で表示され、それを線がつないでいた。マッドクリークはほかのどの町とも遠く離れ、重要な位置にあるのがローマンの目にもよくわかる。ランスにもわかったのか、腰を下ろし、青い目を不安げにギラつかせていた。ローマンは本能的に腕や肩をさすってなだめてやりたくなる。だがそれは、犬の作法だ。なのでじっとしていた。
ディクソンが続けていた。
「私はここから作戦指揮を取り、森林局との調整をする。町に派遣されたDEAの現地捜査官はここへ報告を入れる。彼らは基本的に独立して行動するが、きみらの協力を要する時もあるだろう。怪しい地域の捜査などに。きみらにはなるべく——」
ランスがまたぴょんととび上がった。
「一言よろしいですか? この〈グリーン・ゴースト作戦〉に当たる人員の追加が必要だというのなら、我々が自分で選んで雇うことはできませんか? 幾人かいい候補が——」
「ビューフォート保安官、派遣されるのは専門の訓練を受けたDEAのエージェントであり、
我々が雇用している。いいや、きみに雇ってもらう必要もないし、その人選にも服装にも、いちいちきみの口出しはいらん。我々が、捜査官を、きみたちの町に派遣させてもらう。きみらの好意に甘えてオフィスに間借りさせてもらうことになるが、彼らの上司はきみではない。これでわかったかね?」
ディクソンは忍耐の限界にきていたし、周囲の人々もご同様だった。何人かが体をひねってランスに刺々しい目を向けた。もしかしたら——とローマンは思う——みんなあの白いアイシングのレーズン入りドーナツがもっとほしくて、さっさと切り上げて一刻も早く食べに行きたいのだろうか。
だがランスは意にも介さなかった。濃い黒髪、ターコイズブルーの瞳、絞った体つきと整った顔のランスは、迫力満点だ。ランスは肩を威圧的にいからせ、そのままずっと、DEAの男を見据えていた。ディクソンが視線を返す。ランスとのにらみ合いに勝てる人類は存在しない以上、先にディクソンが目をそらした。ランスのことを無視してスライドの説明に戻り、話を続ける。ランスは腰を下ろした。
ランスからあふれる怒りの波動がローマンにも伝わってくる。ランスの反発はよくわかった。マッドクリークの町に他所者が来るのが嫌なのだ。それもこんな、裏道のすみずみまでのぞきこみ、保安官事務所に居座るような捜査官など。ローマンもうなりを呑みこんだ。彼だって嫌だ。マッドクリーク保安官事務所が大好きなのだ。チャーリーと一緒のオフィスにはローマンの机もある。机や、ほかの持ち物にまでローマンの名前が小さく入っている! 事務所で働くのはクイックばかりだし、他所者にうろつかれたら常に気を使うことになる。
ディクソンは〈グリーン・ゴースト作戦〉についてさらに細かな説明を続けた。ローマンもなるべく聞こうとしたが、ランスの怒気に気を取られていたし、この作戦が彼の大事な皆や大事な町をスパイするようなものだと思うと不安で仕方ない。心がキリキリした。
マッドクリークの町は、多くのものたちの安息の地なのだ——善良で純粋な、時には迷える魂の。ローマンにはよくわかる。迷えるひとりとして。
会議が終わると、ランスは廊下の端にローマンを引っぱっていった。
「ここで待っててくれ。俺は担当者と話して、どうにかならないかたのんでくる」
ランスの青い目は激しく燃えて、見るだけでこちらの目が痛みそうだった。声はローマンにやっと届くほど低い。
「もっとも、あまり強くは言えないけどな、マッドクリークに変に注目されたくはない。畜生が。とにかく誰とも話さないでくれ、それに何も——おかしなことはするんじゃないぞ。いいな? すぐ戻る」
ローマンは廊下で待った。
フレズノの郡保安官事務所は背の低い石の建物だ。壁に設置された木の厚板は写真や証明書、地図などで埋まっていた。ローマンは壁に背を向け、軍隊式“休め”の体勢を取っていた。保安官助手の服装——緑色のズボンとネクタイ、カーキ色のシャツにバッジ姿の彼を、人々はろくに目もくれず、ガードマンか置物であるかのように通りすぎていく。
皆、好き放題しゃべっていた。ローマンの耳に、何人かがランスについて洩らす文句が聞こえてくる。何が不満なのかただの仕切り屋なのか、それとも「何かやましいことでもある町なのか」と。ランスの言っていたとおりだ、あまり反発しすぎると怪しまれてしまう。制服姿の年嵩の女が自分の地区の薬物事件の話をしていて、ほかの人々は予算や痛む膝の話をしていた。皆、飲みすぎのコーヒーとファストフードのにおいを漂わせている——それと少し鼻につくオイルのにおい。ローマンはじっと立って待ちつづけた。
人々が出ていくと、廊下は無人になった。ランスはまだ戻らない。ローマンの目が男子トイレのほうへ動いた。マッドクリークまでの長時間ドライブの前に、やはりトイレへ寄っておきたい。ランスの許可を求めるべきだろうか。
本物のヒトなら許可を待つだろうか? 多分、違う。ランスは彼の上司であって飼い主ではないのだ。それにローマンはここで何かの番をしているわけでもない。待っているだけだ。
さっと踵を返し、ローマンはトイレへ向かった。
ドアを押して入り、角を曲がる。白タイルの壁に三つの小便器が並び、二つの個室にシンクが数個。すでに男が一人いた。まさに小便をしているところだ。
ローマンはさっと目をそらしたが、DEAの黒いTシャツがたくましい肩や引き締まった腰に張り付いているところはもう見た後だった。若く鍛えられた体はまるで兵士で、褐色の髪は後ろが短く、頭頂部では少し長めだ。その男の小便のにおいがねっとりと立ちのぼる中、ローマンは出入口に近い便器の前に立った。男から一番遠くに。近づくのはまずいとわかっていた。内心近づきたくて、クンクンとにおいを嗅いでみたくて、うずうずしていたが。
ヒトというやつは、時々やたらと面倒だ。犬の本能では、見知らぬ相手はまずにおいを嗅げばいい。はるかにわかりやすい! ローマンは色々なにおいをしっかり分類して覚えこんでいるのだ。便器や木や草にかかった小便のにおいから、前に嗅いだ相手ならすぐわかるし、体調が悪いとか最近何を食ったかまで当てられる。
だが人間は、犬に股間を嗅がれるのを嫌がる。こっちもヒトの姿をしてる時となると、それはもう論外な行動で、喧嘩になってもおかしくない。ローマンはよく知っていた。まだちゃんとわかっていなかった頃、まさにそれで幾度も揉めたのだ。
ローマンはじっと下を向き、自分のモノをつかみ出して便器へ向けた。一瞬、つい時間を使って、もう一度宙に漂う尿の純粋なにおいを嗅いでしまう。そこから読みとれたのは……男、健康そのもの、繁殖期の盛り、しばらく砂糖は摂取していない、少しのビールの香り。男自身のにおいも嗅ぎとれた——温かく、かすかに汗ばんでいて、それも何か嫌なことがあったばかりのような刺々しい汗だ。
状況を把握して満足すると、ローマンは小便を始めた。顔は上げない。すませてズボンのファスナーを上げた時、まだ男が便器の前に立っていたので驚いた。男は、右手だけでズボンの一番上のボタンを穴に通そうと苦心していた。左手がスリングで吊られている。途端にローマンの心に、うなだれて足を引きずっていく犬とヒトの姿が浮かび、同情の思いがこみ上げた。
アフガニスタン。
男はちらっと、情けなさそうな目でローマンを見た。
「案の定、俺は左利きときてね。ズボンなんてくそくらえさ」
何も考えず、ローマンは大股に一歩寄ると「やろう」と膝をついた。
ズボンの両側をつかんで寄せ、前を合わせてボタンを穴に通した。頭上で男が身をこわばらせ、右手をゆっくりとズボンから離した。ローマンはつまみをつかみ、ズボンを指で中から押さえながらジッパーを上げた。
「ほら」
手を引く時、ズボンごしに少し膨らんできた張りのある何かに指がかすった。同時に、雄くさいにおいが上がり、ローマンをとまどわせる。膝をついたまま眉間に皺を寄せた。やめられない——小鼻を広げて、もうひと嗅ぎしようと布ごしの膨らみを見つめた。このにおいは……麝香っぽい。そしてタンジェリンのような——オレンジが熟して饐えていくまさにその瞬間のようなにおい。いいにおいだ。すごくいい。
男が一歩下がった。
「どうも。俺は……えっと、今のは、うまいもんだな」
ローマンは立ち上がって男の顔を見た。表情を読むことには自信があるが、目の前の顔には当惑した。相手の唇はかすかに開き、ローマンには経験のない熱っぽい好奇のまなざしでこちらをうかがっている。
その表情が、ぱっと驚きに変わった。
「えっ、あんたはあの時の!」
ローマンも気付いて、一気に思い出していた。この男は、数ヵ月前の麻薬組織摘発作戦の最中にローマンが救出した男だ。アジト強襲の緊張と混乱の中——彼とランスがただ
傍観しているべきだったあの時——遠くでこの男が撃たれるのを見て、ローマンは自制を失ったのだった。薄明かりで見えた、がっしりした顎と鼻の形がどうしてか……あの刹那、ローマンは彼をジェイムズだと信じた。そして銃火の中に突っ込み、自分の身だけでなくランスの身まで危険にさらし、作戦を台無しにしかかった。
二人とも無傷ですんだし、この男を安全なところまで担ぎ出せたが、運が良かっただけだ。あの失態はローマンの経験の中でも一番の恥だった——ヒトとしても犬としても。
どう反応したものかわからず、ローマンはひょいと首をすくめるとシンクの前に立った。水を出し、手から男の、そして自分のにおいを洗い流す。
「コアースゴールドで、俺を銃撃から救い出してくれたのはあんただろ」
男が隣まで来ていた。ほんの一歩先に。ローマンは鏡ごしに目を合わせた。男の茶色い目は大きく、睫毛が長く、張りのある顎が少しジェイムズを思わせる。熱心な表情だった。
「あそこで俺は——この腕をね。ひどく撃たれてさ」
「大変だったな」
スリングに吊られて胸元にたたまれた腕に、ローマンの目が行く。
「そこはまあ、ほら、現代の医学ってやつがあるから。リハビリとかなんとか。段々よくなってるよ。それにあんたに助け出されなかったら死んでたかも。でもあれは危険もいいところだよ、撃たれてたかもしれない!」
「わかってる」
自責の念で胸がうずいた。水を止め、ペーパータオルをつかむ。しばらくあの夜のことは考えていなかった。いい思い出じゃない。ペーパータオルを捨てて、ほかにどうしようもなく、振り向いた。男はそこに立ってローマンを見ていた。そのまなざしは鋭く深い。ローマンは落ちつかなくなってきた。
「ちょっと待ってくれ」男がローマンごしにのばした右手をシンクで洗い、拭いた。「これでよし」と照れたように笑って右手をさし出す。「握手したかったけどそのままじゃね。あんたの手はもう俺のをさわったようなもんだけど、せめてもの礼儀」
一瞬の尖った抑揚が、ユーモアなのだということまではわかったが、どこが笑いどころかローマンにはわからなかった。彼は男の手を握り返した。
「俺はマット。マット・バークレイだ。あんたのことを何度も考えてたんだよ。探し出して礼を言いたいとも思ったけど、てっきり民間人なんだろうと。保安官助手だったのか」
ローマンのバッジを眺めて、マットは彼の手を握ったままだった。ローマンも手を引かない。強くてやわらかいマットの手に握られているといい気分だ。誰かの手の感触が恋しい。
「今は。そうだ。保安官助手、ローマン・チャーズガード。マッドクリークの」
マットの顔を複雑な表情が次々とかすめ、ローマンの手を離した。
「あんたは……マッドクリークだったのか。ふうん」
「イエス・サー」
マットが横を向いた。「そりゃそうだよな」とひとりごちる。無事な右手で髪をぐしゃっとかき混ぜ、困ったように笑ったが、ローマンには意味がわからなかった。
「そうか、ローマン……あんたも、あの保安官みたいに非友好的な姿勢なのかな?」
どう答えればいいのだろう。人間の言葉の裏を読むのはあまり得意ではないローマンでも、この男がランスに好意を持っていないのは感じる。ランスを悪く言うようなことはしたくないローマンは、ただ黙っていた。
マットが首を振り、出口へ向かった。
「わかったよ。まあ、いい。とにかく。さっきも言ったけど——ありがとう」
がっかりさせてしまったのがわかったし、残念だった。マットのことは嫌いじゃない。それどころか軍人風の動きかたや短髪がとてもよかった。なつかしい日々を思い出す。それに、見ていたい顔だ。
「さよなら、マット・バークレイ」とローマンは声をかけた。「きっと、また」
「ああ、また会えるよ」
マットが不思議な笑みを返した。
■chapter2 誰が見張りに鈴をつける?
〈犬のキオク 1〉
最初のはっきりした記憶は、ジェイムズ・パトソン軍曹に会った日。
ローマンは、犬舎の中にいた。清潔だし広々としていたが、それでも遠くに見える緑の草地に行くのを邪魔する固い金属のワイヤーフェンスが大嫌いだった。走りたくて全身がうずうずした——息の続く限り、肺が焼けて足が動かなくなるまで走りたい。それに淋しかった。人間がやってきては食べ物をくれたし、たまにはなでてもくれたけれど、いつも去っていった。
ジェイムズが来るまでは。
ジェイムズは、誰かと一緒に犬舎まで歩いてきた。二人とも緑色のシャツと、緑と茶色の斑点のズボン姿だった。二人は犬舎の中に入ってきた。
「やあ、いい子だな」とジェイムズが片膝をついた。
「ローマンて名前だ」と連れがくたびれた声で言った。「あんたがまだ見てない犬はこいつだけ。俺としちゃ、こいつが一番いい犬だと思うね」
「よろしく、ローマン」
ローマンの耳と首をなでるジェイムズの手は力強く、とても気持ちが良かった。ジェイムズからはいいにおいもした——明るい光とか温かな毛布とか陽光の下でかくちょっとの汗とか、そんなにおいだ。ジェイムズはローマンをじっくり眺め、大きな手を後ろ脚に這わせた。片脚を上げて、膝で曲げ、肉球にさわってきてもローマンは好きにさせた。
「いい血統だよ」と連れが言った。「純血のジャーマンシェパードだ。父方は三世代続けての軍用犬、母親はドッグショーで優勝してる」
「すごくきれいな犬だな」とジェイムズが呟いた。
「ただ、若いけどな。一から教えこまないとならないぜ、軍曹」
ジェイムズは何も言わず、ローマンの顔を手ではさんでじっとのぞきこんできた。その瞬間、ローマンは見通されているのを感じる。ジェイムズが彼の心までのぞきこんできたように。
「お前はいい子にできるか?」ジェイムズが優しい声で聞いた。「お前は勇敢か?」
ローマンがとび上がってジェイムズの顔を舐めようとすると、鼻がぶつかった。ジェイムズが笑った。
「どうやら一つ目の答えは“ノー”、二つ目は“イエス”だな。この犬には何だか特別なところがあるね。何かはわからないが、間違いなく特別だ」
ジェイムズはローマンの耳をさすり、大きな笑みを浮かべた。不意にローマンはこの人間につれていってほしくてたまらなくなる。そして、かなったのだ! 犬舎を去る時、ジェイムズはローマンの首輪に綱をつけて一緒につれていった。
あの日の、純粋で燃え上がるような喜びを、ローマンは今も思い出せる。あの日、未来が始まったのだと信じていた。自分はジェイムズのもので——そしてジェイムズは彼のもので。行く先は見当もつかなかったが、すごく楽しいだろうとわかっていた。とても待ちきれない!
「父さん、言っただろ、ルーシーは俺と同棲を始めるわけじゃない。住むところがなくなったんで彼女が何週間かうちに泊まるだけだ」
『そんな馬鹿な言い訳は聞いたこともないぞ。これが神の啓示でなければ何だと? まさに結婚のタイミングが来たんだ——お前は新しい町で暮らしはじめ、彼女は家を必要としている。いい加減、マシュー、行動に出ろ! 何を怖じ気づいている?』
「別に怖じ気づいてなんかいないよ、父さん」マットはできる限りおだやかに言い返した。「そんな段階じゃないだけだ。俺の任務がいつまで続くかわからないし、ルーシーは学位の勉強が——」
『結婚したら学位は取れないとでも? 馬鹿を言うな。お前の母親はお前と兄が素っ裸で砂場を走り回ってる間に学位を取ったんだぞ。お前の態度は恋人に不誠実だ。男になれ、いいから——』
父は話しつづけた。マットが借りたばかりのキャビンの居間を、箱をかかえたルーシーが歩いていく。彼女がマットのほうを向き、寄り目になって顔をしかめた。マットは首を縄で吊られる真似をして「うえっ」と音を立ててみせる。ルーシーが笑った。
『何か言ったか?』
父が叱責を止めてたずねた。
「ああ、ご近所の犬だよ。なあ父さん、俺は出かけないと。保安官事務所に行って、月曜の準備が出来てるかたしかめておきたい」
電話の向こうから重い溜息がした。トーマス・バークレイ将軍を黙らせられるものがあるなら、仕事の邪魔はしてはならないという信念だ。仕事優先、いついかなる時も。
『わかった。この件について私の意見はよくわかっただろうしな。考えることだ。お前にとって新たなスタートなんだぞ。しかも、ルーシーと一緒に暮らすんだ。婚前なのにそんないい加減なことでいいのか。そんな扱いは、その娘に失礼だ』
「ルーシーと話し合うから、父さん。いいね? もう行くよ」
『気を引き締めろ』
父は、まだ不機嫌そうな声のまま電話を切った。
「まったく!」とマットは呻いた。「きみが来れば父さんが大騒ぎを始めるって、思ったとおりだよ」
「悪かったわね」ルーシーが口をとがらせた。「でもありがたいとは思ってるのよ。たった二ヵ月で次の部屋を探すのは大変だし、うちのいとこの誰かに泊めてもらったらエルナンデス家のママ連合に頭が上がらなくなっちゃうし」
「わかってる。いいって」
ルーシーは一月からロースクールに通うことになっていて、十一月末の感謝祭から新年までは家族のところですごす予定だ。それ以上の“家族団らん”には彼女の神経が参ってしまうだろうと見て、マットはここを避難所に提供したのだった。
「それにこの山の空気はもう最高よね。落ち葉とさわやかな空気! サマーキャンプに来た気分。本当、焼きマシュマロ食べたい!」
マットは揺れる息を吐き出した。父親とのああいう会話が大嫌いだ。嫌でたまらない。
「そりゃよかった。でも俺たちは感謝祭の頃には破局してみせないとな。父さんは結婚の話となるともう頭に血が上っちゃって、今や俺がきみに『不誠実だ』とか『失礼だ』とか叱りつけてくる。まったく」
「あなたのお父さんはカッカするのが仕事みたいなもんよ。そういうひとだもの」
「まあな」
「でも破局はもうちょい早めのほうがいいかもね。うちのママが、結婚式の計画をがっつり立てちゃう前に」
「は?」
ルーシーは申し訳なさそうだった。唇を嚙む。
「うちのパパがどれだけ保守的か知ってるでしょ? 言えるわけないじゃないの、秋の間はあんたと一緒に住むなんて——ほら、その、婚約したとか、そうでも言わない限りはさ……」
「ルーシー! 冗談じゃないぞ!」
時々、マットは自分が
異性愛者だという嘘とごまかしが、まるでブラックホールのようにどんどん周りを呑みこんで拡がりつづけているような気がする。
「大丈夫だよ! 婚約ってだけで結婚じゃないし! 婚約者との破局なんてよくあることだし、なんてことないわ」
「お前の父さんに殺されるよ」
「それより先に自分の父さんに殺される心配をしなさいよ」
ルーシーがにやっとウインクした。このルチアーナ・エルナンデスはマットのとてもいい友人で、かつ、偽装カップルの共犯者でもあった。カリフォルニア大学バークレー校の、司法制度のクラスで出会った一年前から。豊かな黒髪をポニーテールにして眼鏡をかけた彼女はいかにもかわいい秀才娘という感じだった。ルーシーにとっても都合が良かったのだ、マットとつき合っていると皆に思いこませておくほうが。ルーシーの両親はとても保守的で、娘が司法の道を志すことまでは大目に見て、それなりに自慢に思っていたが、夫と子供を持てと毎度口やかましくルーシーに迫っていた。
くそう。婚約だと。どうしてこんな面倒なことに。
(嘘をつくからだ)
とにかく今は考えたくもない。もっと大きな仕事が目の前だ。
「じゃあまあ俺は、さっきも父さんに言ったけど、あれはでまかせじゃないし、保安官事務所に顔を出してくる」
「まだ土曜じゃないの、
ダーリン。仕事は月曜からでしょ?」
「そうだよ、でも俺がどんな穴蔵に押しこまれるのかたしかめて、机がわりの段ボール箱を設置してきたくてね。ほかに喧嘩腰の相手がいるなら先に知っておきたいし」
「それは夢いっぱいの話ねえ」とルーシーがからかった。
ランス・ビューフォート保安官のオフィスで働くと思うと、気が滅入る。そこは否定しようがなかった。どうやらビューフォート保安官の異議申し立てはフレズノのあの会議だけでは終わらず、ぴしゃりと拒絶されるまでかなり度を越したことを言ってきたらしい。そのせいでマットの上司ディーン・ディクソンは、マッドクリークの町で何かうさんくさいことが起きているのではないかと怪しんでいた。マットとしてはそんなことはないと願いたい。赴任先の仲間を密告するのはマットのキャリアにも血圧にもあまりいい影響を与えまい。これはマットがDEA捜査官として初めて単独で当たる任務で、しっかりやりとげようと決心していた。
そっちに比べれば、ルーシーとの状況など他愛もない話だ。
「今日は来てないかもよ、あなたを嫌ってるその保安官さん」
「かもな」
ルーシーが目を細めた。
「あら、違うんだ? 会いたい相手は保安官じゃない、あのイカした助手のほうね、でしょ? あなたの命を救ってくれた?」
マットはもぞもぞと身じろいだ。保安官事務所へ行くのはローマン・チャーズガードに会いたいからではない。絶対に違うとも。
「言っただろ、ルース。あの男はイカしてるけどちょっと風変わりなんだ。何だか変な男だよ」
見知らぬ相手のために銃火の中に走りこんだだけでは甘いと言わんばかりに、ローマンは男子トイレでマットのズボンのジッパーを上げ、誘われてるのかと思ったマットの目をただきょとんと無頓着に見つめていた。あんな行動に出る男がどこにいる。少なくとも、フレズノの保安官事務所のトイレにいるのはおかしい。
風変わりだろうがなかろうが、ローマン・チャーズガードは色気の塊のような男だった。背が高くて一九〇センチ近い上、陽をさえぎるような広い肩で、息を呑むほど鍛えられた体、大きな手、大きな足、長い顔にこの上なく優しい目をしていた。黒っぽい無精ひげ、軍隊風に刈上げた濃い黒髪。耳はぴんと突き出して、しかも榴弾を受けたように右耳の端がちぎれていた。その傷で、マットの心はぐっととらえられた。ちょっと間の抜けた形の耳だが、同時に傷のおかげで不敵な戦士の雰囲気がある。マットは少しばかり軍人に傾倒していて——少しではないか?——ローマン・チャーズガードにはその趣味ど真ん中を撃ち抜かれていた。
「でしょうねえ。あの軍人さんに会いたいわけじゃない、と。了解。あんたが出かけてるうちにキッチン用品出して片付けとくわ、いい? 優しい友達だよね!」
「自分の昼飯作りたいからだろ?」とマットが返す。ルーシーが笑った。
「疑り深いんだから、マッティ。そこ悪い癖よ。帰りに店に寄ってグラハムクラッカーとチョコレートバーとマシュマロ買ってきてね。あ、カボチャも!」
「まだ十月に入ったばかりだぞ」とマットはぶつぶつ言った。
「いいじゃない、山の中に来たんだもの。秋を目一杯満喫しなきゃ!」
己にもそんな余裕があるようにと、マットは祈った。自分の秋は悲惨なものになりそうだという予感があった。
マットは、自分の赤いジープ・チェロキーをメイン通りの保安官事務所前に停めた。車を降りて周囲を見回す。町のたたずまいは素朴で質素だった。カリフォルニアの山中によくある町のようにウェスタン風の街並みを真似てもおらず、町の中心部にはアイスクリームの店もマクドナルドも、モーテルすらなかった。旅行者お断り、とすら見えるくらいだ。建物はほとんどレンガ造りで、頑丈だが飾り気がない。窓辺を彩る花箱のひとつもない。公園はあって、大通りの右手に四ブロック分の緑地が広がり、どんよりと肌寒い日だというのに住人たちがうろついていた。
飾り気のない町並みであっても、それとも逆にそのせいか、小さな町には心地いい活気があった。どこか……生き生きとしている、とマットは思う。公園でくつろぐ妙に大勢の人々のほかにも、赤いネオンサインで〈デイジーのダイナー〉と表示されたかわいいレストランがあって、ウインドウ越しにほとんどのテーブル席が埋まっているのが見える。歩道にも人がいた。郵便局では、かなり生え際の後退した耳の大きな男性が、小太りの男性相手に熱っぽくしゃべりまくっていた。町のそこかしこで数人のグループがただ立って会話したり——。
いや、ちょっと変だ。眼鏡をかけた若者が、歩道で行き合った男と、互いに体を擦り合わせていた。マットは目を細めてよく見直す。性的な感じはしない。これ以上ないほどそぐわない取り合わせで、眼鏡の若者のほうが二十歳以上年下だろう。だが、彼らは胸や脇などを相手と擦り合わせ——若者はその動きをくり返そうと向きまで変えた——そして立ったまま何事もなかったかのように話し出した。
ハイファイブの新しいバージョンか? しかし、流行りのジェスチャーで挨拶しあうようなタイプにも見えない。仲間同士の秘密の仕種? ふうむ。
とは言っても、マットの当面の問題ではない。時間の無駄だ。首を振り、マットはこれから十二ヵ月の自分の拷問房となる場所へ向かった。マッドクリーク保安官事務所の前には木目調の茶色い看板が出ていた。一階建てのレンガの建物には大きな窓があり、外付けのブラインドは半開きだ。
心を決めると、マットはドアを開けた。頭上で小さくベルが鳴った。
建物の中は肌寒く、暖房はつけていないようだ。真正面の受付机の後ろに女性が座っていた。とてもふわふわの長い金髪で、八十年代なら違和感がないような化粧をしている。二十五歳とも四十歳とも言えるような顔だった。大きな茶色の目と人好きのする顔立ちで、鼻は長く、陽気な笑顔だ。名札には〈リーサ〉とあった。
「いらっしゃい! ご機嫌いかが?」と彼女がはずんだ声でたずねた。
マットは誰かいないかと周囲を見回し、自分が話しかけられているのをたしかめた。
「ええと……いいよ、そっちは?」
「すごくいいわよ! 何かお手伝いできることがあるかしら?」
「こちらにいるかな、その——」ビューフォート保安官だ、ビューフォート保安官。「——チャーズガード保安官助手が。いやそれか、ビューフォート保安官は?」
「いるわよ!」
リーサがただにこにこと微笑みかけてくる。マットはうなずいた。
「そうか。よかった。じゃあ伝えてほしいんだが……」なんなんだ、これは。「ビューフォート保安官に、DEAのマット・バークレイが——」
向こうで同時に二つのドアが開いた。ビューフォート保安官とローマン・チャーズガードが隣り合った戸口に立って、マットをじっと見つめていた。いや、そこまで聞こえるほど大声じゃなかっただろう。
ビューフォート保安官は変わり者だ。かなり若く、見た目もいい。黒髪に青い目、筋肉の形が浮き出しそうなぴったりの制服。どこかの世界で出会っていたらいい男だとそそられたかもしれないが、あの刺々しい態度はありえない。今も彼はマットのことを、窓に描かれたエグい落書きのようににらみつけていた。〈マッドクリーク最低〉とでも書いてあるのか。〈ビューフォート〉と〈マザーファッカー〉を組み合わせたフレーズとか?
チャーズガードのほうはと言えば、この男が何を考えているのかも謎だ。ぴたりと動かず、表情ひとつなくマットを凝視していた。
チャーズガードの目は金褐色だ。敵意はない。好奇の目、と言ってもいいか。まったく、なんてたくましい肩だ。
マットは視線を引きはがし、上司のほうに声をかけた。
「ビューフォート保安官? 俺はマット・バークレイ。ここを担当するDEAの捜査官です。任期は月曜からですが、挨拶しておこうと思って。机の準備も、もし出来るなら」
ビューフォートとはまだ距離がかなりあって、握手を求める義務感は感じずにすんだ。しかも一歩も近づいてこない。
「少し失礼」とビューフォートが低く固い声で言った。「助手と話がある」
彼はローマンを向いて自分のオフィスへ首を傾けると、一緒に入っていってドアを閉めた。
マットはまばたきした。まあ、これは……予想どおりひどいスタートだ。
「
肉汁飲む?」とリーサが陽気に聞いた。
「え?」
「ブロスよ! 牛肉のゆで汁と鶏のゆで汁があるけど。すごく! 美味しいの。コーヒーのほうが好きならそっちもあるわ!」
「その……俺はコーヒーのほうがありがたいな、どうも。でも自分で取ってくるよ」
リーサの機嫌はとにかく損ねたくない、なにしろこのオフィスで唯一マットを歓迎してくれている相手だ。軍とDEAでの経験からいって、お茶汲みを期待されることほど女性を怒らせることはない。
「あら、いいのよ! 手間なんかじゃないから!」
リーサは立ち上がるとスキップを——本当にスキップを——しながら廊下の奥へ向かった。きっとコーヒーと……ブロスのある場所へ。
マットがこの町に来てたった一時間だが、マッドクリークはこれまで訪れたどこよりおかしな町だった。
ランスはオフィスをうろうろと、険しい顔で歩いていた。
「どうにか避けられないかとあらゆる手は尽くしたんだが。どうやら、マット・バークレイと最低一年間はつき合わねばならないようだ」ここで足を止め、ふと考えこんだ。「あの男が尻尾を巻いて逃げ出してくれれば別だが」
その発想もランスの目にともった光も、ローマンは気に入らなかった。
「でも言っていたでしょう、あまり強く言うと逆に怪しまれると」
「もう手遅れだ」とランスがぼやいた。
「マットがここにいるのも悪くないかもしれません。俺とあなたとチャーリーだけでは手が回りきらない。薬物組織対策のパトロールも計画通りにいっていませんし」
ローマンが保安官事務所で働き出したのはこの春のことで、ランスがこの地域にマリファナの栽培人たちが入りこんでくるかもしれないと恐れた時だった。ローマンは群れのボランティアたちで巡回パトロールを組織した。だが正式な保安官助手となって数ヵ月、何かと手が空かない。群れの誰かを助けたり、足りないものはないかと立ち寄ったり、道の崩落や迷いこんだ野生動物ヘの対処があったり、ランスに言われて町に来た他所者を見張ったりで。
定期的に町の皆を見回ったり手を貸すのは好きなのだが、フレズノでのあの会議以来、ローマンはマリファナ栽培業者のことが気にかかっていた。マッドクリークは何千エーカーもの自然に囲まれていて、それを守らねばならないのに、今はろくに手が回らない。
ランスが額をさすった。
「人手がありがたくないわけじゃない。だが訓練された捜査官が四六時中町にいるとなると……馬鹿でなければ、真実に気付かれてしまう。経験の浅い男なのがせめてだが。記録によれば最近までSWATに所属していた。射撃向きで、捜査は苦手なタイプであるよう祈ろう」
「ですが前に、人間は我々の存在をなかなか信じないと言ってましたよね? 変身など、おとぎ話の怪物のすることだと思っているから」
うろつきながらランスが鋭くローマンを見た。
「まさしく。バークレイもその手の堅物だといいが。エキセントリックな住人が多いだけだと言いくるめられるかもしれないな。問題はだ、町には今、若いクイックが大勢いる。群れの集会でどれだけ口酸っぱく言おうが、若いのはどうしてもボロを出す。まだ未熟だからな」
「そのとおりです」
クイックになってすぐの自分がどうだったか、ローマンも覚えている。どれほどの失敗をやらかし、周囲から奇異の目で見られたか。ヒトになるまで気付きもしなかった、数えきれないほどの細かな
人間らしさというやつ。
「俺に何かできることはありますか?」
ランスが足を止め、ローマンの両腕をつかんだ。
「こういうのはどうだ。今日、バークレイの写真を撮る。書類のためだとか言ってな。それで今夜、群れの集会を開くんだ。あの男の顔と、彼と関わらないようにするのがどれだけ重要なことかを、皆に伝える。あの男の前では行動に注意しろと」
「名案です」
「その上でやはり——バークレイを町から遠ざけておければ、そのほうが安心だ。彼は違法なマリファナ畑を探すために来たのだから、
毎日そうするよう仕向けよう」
「どうやって?」
ランスがニヤッと、獰猛に笑った。
「今から、きみの仕事はバークレイのそばについて回ることだ。いいな? 地元の案内役としてバークレイを担当してくれ。車であちこちを案内し、新しい場所へつれていく——誰も住んでいないところにだ。わかるな。できる限りあの男を町から引き離すんだ。このオフィスでは、きみの隣にデスクを置き、背中は窓に向けさせる。しばらくチャーリーには別の部屋に移ってもらおう。こうしておけば、バークレイが誰かに電話したりメールすれば、きみにも大体のことがわかる。彼が怪しみはじめたなら、すぐ気付けるだろう」
ローマンはうなずいた。大きな責任だが、ランスに信頼されているのがうれしい。
「私のほかの任務についてはどうしますか?」
「必要なことはチャーリーと俺で対処する。きみの最優先の仕事はバークレイだ。彼にクイックのことを勘付かれたら……神のみぞ知る、だ」
ランスは苛々と髪をかき回した。
「こんなことをまかせてすまない、ローマン。だがこれが最善の手だと思う。とは言え、用心してくれ。彼と長時間すごしながら自分のことを隠すのは簡単ではないだろう。できると思うか?」
「イエス・サー!」
心から、ローマンは答えた。本気だ。マッドクリークの町は、希望を完全に失っていたローマンに帰る場所と生きる目的をくれたのだ。そして今、この群れをこの手で守らねばならない。マット・バークレイが真実に気づかぬよう、全力を尽くす覚悟だった。
--続きは本編で--