月への吠えかた教えます

イーライ・イーストン

■1 あやしいにおい

「ああ、気高いひとだった! まさに聖人! 地上に舞い降りた天使!」
 老いたブルドッグの頬が熱っぽく震えた。大きな茶色い目の悲しみは、見る者を吸いこみそうだ。
「彼女は私を、十年間養ってくれた。自分の皿から丁寧に取り分けたものを食べさせてくれて!」
 保安官ランス・ビューフォートは、テーブルの下でダイナーの床を踏みしめて忍耐を保った。
「素晴らしい女性だったのだろうな」
 ガスは、ぼやけた目でまばたきした。
「そう、まったく! あのひとのベッドの足元で毎晩寝たんだ。離れたことなんてなかった。週に何度かあのひとが、娘につれられて教会に行く時以外。その時だっていつも特別なごほうびを持って帰ってきてくれた。手作りピーナツバターのビスケットとか、そういう。教会でもらったケーキの一切れとか」
「そんなひとを失って、つらかっただろうな。わかるよ」とランスは言った。
 頭では実際わかっている。だが、心からの理解となると。ランスは人間と絆で結ばれたことなど一度もないし、絆の相手に先立たれて悲嘆の日々を送ったこともない。さっさと話を進めようと、コーヒーのおかわりをデイジーに合図をした。転入してくる新入りの相手はいつもは母の担当だが、その母は出産の付き添いに出かけている。
「さて、ガス。このマッドクリークでのきみの状況について話そうか」
「でもどうすれば? 働いたこともないんだ。さんがずっと面倒を見てくれた。なのに……これから家賃を自分で払わなきゃ。食べ物も! 飢え死になんかしたくないよ」
「今は途方に暮れているだろうが、我々が力になる。ひとまずメイブルのところで暮らして、食事はこの店で食べるといい」
「私に何か仕事ができるかな? 子犬の頃みたいに身軽とはいかないけど、耳も吠え声もまだまだ元気だし、すごくいい話相手になれるよ、本当に」
 ガスは誠実、かつ熱心だったが、正直言って仕事よりカウチでの昼寝が似合いそうだ。
「それも何か考えよう。とにかくしばらくは町とここの群れに慣れてくれ。のんびりして」
 ガスがニッコリした。心がシンプルなのだ、きっと。長く悩んだりしない。
 内心、ランスは溜息ものだった。この頃“クイック”となってこの町へたどりついた犬はガスが初めてではなかったし、最後でもないだろう。
ガスの事情は典型的だった。彼は、人間の姿に変身できるように生まれついてはいない。だが飼い主からとても深く愛されたおかげで“スパーク”を得たのだ。その飼い主——年老いた女性が亡くなり、ガスが普通の犬ではないとは思いもしない女性の身内は彼を犬のシェルターへ引き渡した。幸運が重なって、ガスはシェルターを逃げ出し、このマッドクリークの町にたどりついた。
 そして今……。
 ガスを見やり、ランスは本能的な引力を感じる。今や、ガスは群れの一員だ。つまり彼を守るのはランスの責任。
 デイジーがふたりに朝食を運んできた。ランスにはトーストと目玉焼き、ガスには朝食スペシャル——目玉焼き、ソーセージ、ハム、トースト。皿を置くデイジーがランスにウインクし、ガスの分をこっそり大盛りにしたと伝えてくる。ずらりと並んだ料理にガスの顔が輝いた。
「こりゃなんと! 凄い、うまそうだ!」と興奮している。
「ほかに何かほしいものある?」
 予想外に丁寧な手つきで食べ物を口に詰め込みはじめたガスへ、デイジーがたずねた。
「ケチャップかチリソースとか?」
 口いっぱいに頬張ったガスが首を振った。
「あなたはどう、保安官?」デイジーがランスへあたたかく微笑む。
「いや結構、俺は——」
 何かが本能を騒がせて、ランスは言葉を失った。他所者だ、そう感じた二秒後、扉のベルがチリリと鳴る。耳をピンと立て——集中した。
 ダイナーのガラス扉を、ひとりの男が押さえていた。店内を見回し、ランスの鋭いまなざしと目が合うとぎょっと顔をそむけた。男はドアから手を離し、うつむいたままふらふらカウンターへ向かって、席につく。
 他所者は若かった——二十代前半だろう。ひょろっとのっぽで、長くふわふわの髪をして、前髪が目の上に落ち、後ろ髪は襟元でやたらにはねている。顔色が悪く、やつれて、その上……ひどく緊張して見えた。ジーンズとデニムジャケット、Tシャツという格好で、そのどれもすっかり古ぼけて、ランスの腹の底で嫌な予感がざわついた。そもそも他所者は好かない。刺々しく接したい本能をいつも抑えているくらいだ。しかも最近、近くの郡でキナ臭い事件もあり、警戒を強めていた。
 まばたきし、ランスはまたガスへと目を戻した。ガスは食事に没頭し、ナイフで切っては一口ずつ、最後の晩餐のように味わっている。自分の皿は手つかずでランスはカウンターの会話に聞き耳を立てた。
「コーヒー、それと……」若者の声は低く、メニューを熟読しているようだ。「……お子様用メニューのグリルドチーズサンド、たのんでも大丈夫?」
「ええ、かまわないわよ」
「具の追加は有料? トマトとかレタスとか?」
「いいえ! ほしいものある?」
「とにかく全部。できるだけたくさん。じゃあ、それでお願いします」
 これは金に困っているに違いない、とランスは注文から判断した。
 ランスがいるのは出入口が見渡せるいつもの席で、カウンターに座ったのっぽの若者を見るためにわざわざ首をひねるのは不自然だ。だが、ジュークボックスの磨かれた表面に、若者の横からの姿が映っていた。長い脚を折り、コンバースのスニーカーの踵でリノリウムの床を神経質に叩いている。コン、コンと。若者の鏡像がちらっとランスのほうをうかがった。踵がさらに早く床を打つ。ランスは肩をいからせて、保安官事務所の上着をはっきり見せつけてやった。
 生野菜を詰めこんだグリルドチーズサンドイッチと、牛乳の入った大きなグラスを、デイジーが運んできた。
「飲み物はたのんでない——」
「牛乳嫌いだった? 駄目になっちゃう分が山ほど出るから、ただでいいのよ」
「じゃあ……どうも……」と若者がもそもそと言う。
「ほかに何かほしいものはあるかしら?」
「ええと……このあたりで園芸用の資材を買えるのはどこかな? 支柱とか、培養土とか。そういうやつ?」
 その質問が終わらないうちに、ランスは立ち上がっていた。アドレナリンが放出され、うなじや腕の毛がピンと立っているのを感じる。だが自分を抑えて、リラックスした態度でカウンターへ歩みより、他所者の隣の空席に座った。
「デイジー、ガスにコーヒーのお代わりを持っていってくれないかな?」
 デイジーにたずねる。デイジーの口は若者に答えようと、あるいは驚いて、開きっぱなしになっていた。
「あら……ええ」
 空気を察したデイジーが去っていく。
 若者は、前髪の房の間からランスを透かし見た。近くで見た瞳はヘイゼルで、顔は細く、少年っぽく、シャイなのにどういうわけか強情そうだった。奇妙に……魅力的な顔だと感じる。ランスがじっと見ていると、若者の喉仏がごくりと動いて唾を呑んだ。冷や汗のにおいが、つんと、かすかに立ちのぼる。なるべくさり気なく、ほんの少し顔を近づけ、ランスはにおいを嗅いだ。
 若者からはガソリンのにおいがした——最近給油したのだ。一、二日ほどシャワーを浴びていない——きっと車中泊。その下にひそんでいたのは心そそる土の豊饒な香りで、それもこの近辺ではなくどこか海近くの土だ。そして……マリファナ。
 甘くベタついたマリファナのにおいは、まだ新しい。デニムというやつは吸いこんだ煙を強欲な弁護士並みに食いついて離さないものだが、このにおいは、ごく最近だ。
 若者は何も言わず、ただサンドイッチの半分を取り、うつむいてかぶりついた。ランスは見つめつづけた。
「フレズノにガーデンセンターがある」と見つめながら言った。
「あ……ありがとう……」
 ぼそぼそ礼を言って、若者はまるで砂が入っていないか慎重にたしかめるようにやたらと嚙みつづけていた。明るい瞳があちこち、ランス以外のところをさまよっている。
「旅行の途中か?」とランスはたずねた。
「う、ううん」
「家族がこのあたりに? それともキャンプか? 長期休暇?」
「僕は、その、この町に引越してきたばかりなんだ」
 これは最悪。ランスはわかったような顔でうなずきながら、まだ相手の顔を見据えていた。鼻の下ににじむ汗、肩のこわばり。明らかな緊張のサイン。
「そうか。いや、新しい顔が増えるのはいつでも歓迎だ」
 口先だけで、一言も本気ではなかった。あたりにひとが住みつくのに反対というわけではない——ただし問題を起こしそうな奴は別だ。町の秘密をかぎ回りそうな奴も。
「何を育てようって気だ?」
 若者が身をこわばらせ、さっと顔を向けて、初めてランスの目をまともに見た。ヘイゼルの瞳がちらっと陰り、瞳孔が縮む。小鼻が広がって、唇の端がピクついた。。ランスの神経がさらに張りつめる。体に力を溜め、戦いか、逃げ出す相手をとらえる身構えになった。
 だが予想は完全に裏切られた。若者はランスの制服を見下ろすと、いきなり笑い出したのだ。
「ああ、そういうこと——お巡りさん! それでわかった! なあんだ、てっきり……でも、じゃあ……これでいい?」
 若者が顔を寄せ、はああっと、強い息をランスの顔面に浴びせた。
 なんだ?
 ランスは仰天してまばたきする。
「ほらね? 酔ってなんかいないから。ラリってもないし。そう見える? 徹夜で運転してきたからたしかにへろへろだけど。それに臭うかも。さっき嗅いでたよね。でも僕は何も……」
 そこでやっと、ランスの唖然とした顔に気づいたらしい。若者は見事なくらい真っ赤になった。
「うわ、しまった、今、もしかして僕、顔に息を吐きかけたりした? よね? ふつうはしないよね……鼻が飲酒検知器になるわけじゃあるまいし。今の本当に失礼だったかも? ああ、えっと、もう……ごめんなさい」
 ランスはまだ状況を分析中だ。若者の息の、深いにおいが鼻の中に残っている——煙草や類似品の気配は一切なし、あるのはチーズとバターとパンの食欲そそるにおいだけ。その下には人間の、何だか甘い、まるで泥遊び中の幼い子供のようなにおいがあった。ありえないくらい心騒ぐ香り。今もまだ鼻が誘われて、相手の口に鼻を突っこんで嗅ぎ回りたいくらいだった。純粋な犬の本能をなだめすかして、この若者の行動を論理的に分析しようとした。
 こんなに間抜けな人間がいてたまるか。ランスを惑わそうとしてるのか? 馬鹿みたいな振舞いで? 田舎町の保安官くらい簡単に丸めこめると思って。
 ランスは目をほそめた。その声は険しくなっていた。
「名前は?」
「ティ……えーと、ティ、ティモシー……トレイナー。あっ、まずい、もうこんな時間だ!」
 若者はサンドイッチの残りを口に詰めこむと、指一本でデニムの袖を上げて、何もはまっていない手首を眺めた。そばかすと産毛の時計? 口がいっぱいの若者は窮した様子で手をパタパタ振ると、ジャケットのポケットからくくった札を引っぱり出し、五ドル札と一ドル札をカウンターに放って出ていった。
 一連の挙動を、ランスは身じろぎもせず見届けた。まずは若者の顔に、次はその車——ボロボロの古いピックアップトラック——に目を据えて。“ティ、ティモシー”がその車でメイン通りに出て、はじめはスピード出しすぎで、それからランスの視線に気付いたように不自然にのろのろと去っていくまでずっと。
 若者のいた空間にのり出して嗅いでいると、デイジーがやってきた。
「なによ、保安官、あの可哀想な子に何言ったの? いい子そうだったじゃないの」
「そうだな、口からでたらめばかり言ってなければな」
 それと、マリファナがにおってなければ。
 デイジーは、生来の人懐っこさとランスへの忠義心の板挟みになっている様子だった。デイジーは第二世代のクイックで、元はレトリーバーの血筋だ。他所者を警戒するような犬種ではない。どんな相手も大好きになる。だからこそデイジーがこのダイナーのウェイトレスを、そしてランスが町の保安官をやっているわけだ。
「あの男がまた店に来たら、連絡をくれ。いいな?」
 デイジーはしぶしぶとうなずいた。
「あの子にケーキをおごってあげようと思ってたのに。一文無しなのは嘘じゃないと思うわ。本人はそうは言わなかったけど、そういうのって見ればわかるものよ」
 そう。ランスもそこは間違いないと思っている。だが金のない人間は、時に追いつめられて道を踏み外すものなのだ。


 ティムは、リンダの家へと続く長い引込み道に車を入れ、木々の間をくねるように抜けてから、丸太作りのキャビンの正面に停めた。ひびの入った赤いダッシュボードをしみじみとなでる。
「お前はこの広い世界で一番のトラックだよ、ベッシィ。いざって時によくがんばってくれたね」
この車がサンタバーバラからマッドクリークの町まで走りきるなんて思いもしなかった——まさしく山のてっぺんまで。オドメーターに表示された車の合計走行距離は12万マイル、それも楽観的な見方をすれば、だ。どうせ99万9999マイルをひと回りして再カウント中に違いない。整備とオイル交換の頃合いもとっくにすぎている。ティムに(1)金(2)時間、が足りないせいで。なので、何の準備もなく急いで逃げ出そうとした時、車は長旅に出られるような状態ではなかった。
 ティム自身も。
 それでも、一緒にここまでたどりついた。
 人里離れたところで立ち往生する不安のあまり、旅の道連れに若いヒッチハイカーを拾ったりもした。特に害のない若者だったが、ラリっていて、マリファナをぷんぷん匂わせながら一言ごとにティムを「マブダチ」と呼んだ。フレズノで彼を降ろした時、別れを惜しむ気にはなれなかった。
 ティムは溜息をつき、冷めていくベッシィのエンジンが脱力してきしむのを聞いていた。車から下りて、後ろに積んだ袋を引っぱり出しにかかる。六つの大きなゴミ袋にティムの全財産がおさまっていた。プラス、昔のガーデニング用具箱。用具はどれもティムの私物だった。個人でガーデニングサービスをしていた頃の物だ。
(枝一本、種一粒、植木鉢一つくすねてみろ、必ず後悔させてやるぞ!)
 あのガーデニングサービスの仕事はティムがまだ十二歳の頃に始めたもので、芝刈り機や落ち葉のブロワーなど大型の道具は、後にルーツ・オブ・ライフ社で働き出した十八の時に売ってしまったが、小さなものはいつか家でガーデニングをしようと取ってあった。いつか、家を持てたらと。
 ビニール袋と箱を玄関ポーチに置くと、ティムは周囲をゆっくり見回し、すがすがしく木々が香る空気を吸いこんだ。
 ちょっとボロい小屋、というリンダの言葉は謙遜ではなかったようだ。話だと地元の男性に手入れをまかせてあって、月に一度庭の手入れや家の点検をしてもらっているはずだった。だが、その便利屋さんが近ごろ訪れた気配はない。芝生ももう刈り込み時だ。この三月に、初めて実感した春の息吹。嵐が残した枯れ枝も散らかっている。砂利の引込み道はでこぼこで、雑草が一面にはびこっている。建物のほうは……。
 ティムは手をのばして、扉横の古びた丸太壁へ、軽く手のひらを這わせた。
 この小屋が、家になるのだ。とりあえずこれから六ヵ月は。頬もゆるむし、同時に不安にドキドキする。六ヵ月しかない。リンダからの家賃免除のお返しに、その間にこれまで誰も成功しなかった新種のバラを作り出し、六ヵ月のうちに育てたものを売って利益を上げ、猶予期間が切れても家賃を払えるところまでいかないと。しかも、何もないところからのスタートだ。古い箱の中にあるいくつかの軍手とタオルと小さな草抜き器、ほかのあれこれだけで。口座には残り一五〇〇ドル。それで全部。
(お前が何か育てて売ろうとしてると耳にしようもんなら、一息も置かず、間髪入れずにお前を訴えてやるからな! 自分ひとりで何かできるとでも思うのか? 虫けら同然の対人スキルしかないくせに。たとえドナルド・トランプから手とり足とり教わったって、お前にビジネスができるもんか)
 痛みと怒りが胸につまって、ティムは強くまばたきした。マーシャルのためにあれだけのことをして……二人はビジネスパートナーだと思ってきた。それなのにそのパートナーシップの実態が、ティムが働いて、利益はマーシャルがひとりじめ、おまけにすべての新種がマーシャルの名前で品種登録されていたと知ったのだ。ティムは深く息を吸いこんで、また周囲を見回し、高い松の木やその向こうの青い山脈を見やった。シエラネバダ山脈の絶景。
 今ここに、マッドクリークの町に、この美しい場所にこうして立っている。とりあえずの寝床と仕事もある。きっとうまくいく。それ以上に、この場所を楽しむ気だった。自分の居場所と呼べるところに住むのはこれが初めてだ。存分に味わいたい。
 身震いとともに、ふっとダイナーでの出来事を思い出していた。あの男にまた出くわさなければ、きっと大丈夫だ。あれは一体? あの……あの黒髪で青い目のイケメンはティムのパーソナルスペースを侵害し、彼のにおいを嗅いで、奇妙に強烈な目でじっとこっちを見据えたのだ。あんな目つきは初めてだ。誘いじゃない。むしろあれは——「ここを去れ、今すぐ。ふわははははは!」って感じ。なんなんだ? ほんの一瞬被害妄想に駆られたティムは、あの男がマーシャルから差し向けられたのかと疑ったくらいだ。そんな馬鹿な、マーシャルはティムがここにいることすら知らないのに。だろう? 町に着いたばかりで? マッドクリークにいることはリンダしか知らない。
 そしてあのダイナーで、案の定、ティムは赤っ恥をかいた。人間相手だといつもああなる。とんだ笑いものだ。
 はあっと、溜息をついた。まあいい。どうせまた会うこともないだろうし。
 リンダから教わった隠し場所から鍵を取ると、家の中に袋を放りこみ、ティムは温室を探しに向かった。


■2 温室の秘密


「ねえランス! 明日行ってきなさいよ、あの子のにおいを覚えに。見たこともないくらい愛らしい黒毛の子よ! 目がね、もうあなたと同じくらい青くってね!」
 ランスは相づちをうなって、ビーフシチューをもう一口食べた。一日中マクガーバー家でジェインの出産を手伝っていたはずの母にどうしてシチューを作る時間があったのかは謎だ。もっとも、泉から水が湧くごとく、彼の母は料理をもたらすのだ。それはただ周囲に溢れ出す。
「サマンサはまだ生まれて一日たらずだ」とランスは反論した。「においを覚える時間はたっぷりある」
「まあ、まあ!」
 母はやっとキッチン歩き回るのをやめて、自分のシチューの皿を手に腰を下ろした。
「一目でわかったのよ、あの子も“クイック”だって。指先が広くてふっくらと盛り上がってて——なんて可愛いのかしら!」
「そりゃクイックだろう。片親がクイックなんだから、何の不思議もない」
「クイックの赤ちゃんほど可愛らしいものはないわよ」母が言いつのる。「赤ちゃんと子犬をひとまとめにしたみたいで」
 お得意の言い回しだ。赤ん坊のクイックを見ると、母は必ずそう言う。だがランスから見るとどれも人間の赤ん坊と同じだ。そう思って見れば鼻が少し丸っこく、生まれもった小さな歯を隠した唇が少しぷっくりしているかもしれないが。たしかに典型的なクイックの手をして、指が太く、角張った指球が盛り上がってもいるし。だがその程度だ。大体のクイックの子供は五、六歳とか、時には思春期になるまで変身もできないし、子犬っぽいところなどかけらもない。
 ランスはもう一口食べ、さらなる赤ちゃんトークにそなえた。助産婦役をやると母はいつもそうなる。
 母がスプーンを下ろして、ランスを見つめた。
「ランス、どうしてリジーをデートに誘わないの? お似合いよ、あなたたち」
 こっちに来たか。予知スキルプラス1、忍耐力マイナス2。
「母さん、これまで五万回は聞かれてきたが、答えは変わらない。俺は結婚にも家庭にも興味はない。ほかにできた孫で満足してくれ」
 ランスには合計六人の姪と甥がいるし、四人の兄や姉が今後もっと増やしてくれるに違いなかった。
 母が目をほそめた。ランスをどう言いくるめようか計算している顔だ。諦めてはくれないだろうし、この先何年もランスを悩ませられるくらい健康だ。
 リリー・ビューフォートは、五十五歳にしては若い。ランスの兄のロニーとロウニーを生んだ時、彼女はまだ十九歳だった。今でも溌剌として、体も引き締まり、同年代の人間十人分の活力にあふれていた。髪は黒々と豊かで、夜闇の銀のリボンのようにわずかに銀色の筋が入っている。クイックらしく、やはり化粧はまったくせず、派手さのない実用的な服を好んだが、見る者の目を奪った。何の手間もかけずにそのままできれいだ。
 同時に、最高に面倒臭い存在だった。ランスは、人間たちがユダヤ系の母親たちの強情さを愚痴っているのを耳にしたことがある。実情は知らないが、もし彼の母に比肩できる存在がいるというならまさに驚異だ。両親ともからボーダーコリーの血統を受け継ぎ、群れをまとめる本能を持つクイックの母に。
 ランスは目を合わせず、反論もしなかった。話がこじれるだけだ。食欲は失せていたが、シチューに集中した。
「もう三十一歳でしょ、ランス。いくつになったら身を固めるの?」
「一生ないかもしれない」ランスはきっぱり言った。「俺の気持ちは言っただろう。この町が、俺の家族なんだ。俺の群れだ。それで手一杯だよ。それに、危険だ。俺には妻や子に何かを与えられるような余裕はないし、半端にやるならやらないほうがいい」
「お父さんにそっくりなんだから!」リリーの息には後悔と愛情がこもっていた。「何でもそう考えつめて。いつかあのひとみたいに心臓発作起こしちゃうわよ」
 その声の悲しみに、ランスの胸もぐっと締めつけられた。父は、たしかに働きすぎで死んだ。皆が知っている。しかし立派な男だった。
「それでもお父さんには、私たちという支えがいた。あなたも自分のためだけの絆を見つけなきゃ」とリリーは言いつのった。「町は心を満たしてはくれないのよ、ダーリン」
「絆はある。母さんとも、ロニーやロウニー、サリーとサム、それに皆の子供も。友達もいる」
「それとは違うの。よく聞きなさい! あなたが絆を選ぶか、でなきゃ絆のほうからやってくるわよ。私はね、あなたが欲求を無視してたせいでどこかの適当な誰かさんにコロリといっちゃうようなことにはなってほしくないの! いいから、素敵なクイックのお嬢さんと絆を結べるチャンスを自分にあげなさいって」
 この話は、新しい。ランスはわけもわからずまばたきして母を見つめ、意味不明な理屈だと片付けた。シチューを一口食べる。
「とにかく、別にこのあたりでギャングが縄張り争いしてるとか、犬の捕獲人が大挙して押し寄せてきてるわけでもないでしょ」フン、と母が息をついた。「二十四時間年中無休で保安官をやる必要ってあるの? あの素敵なローマン・チャーズガードだって町に住むようになったんだし、あのひとが仕事を少し助けてくれるかも。トラブルの扱いには慣れてるみたいよ。トラブルなんかここにあればね。ないけどもね!」
 だがランスの耳は、母の声におかしな響きを聞きとっていた。口ではなんと言おうと、彼女もランスに負けない心配性だ。そういう家系なのだ。マッドクリークの町が心配でならない。常に。
 ランスは、昼にダイナーで行き合った若者を思い出し、顔をしかめた。
「何?」とリリーがさっと背をのばす。
「マリポサで先月起きた発砲事件、話したよな?」
「ドラッグ絡みの?」
 ランスはうなずいた。
「マリポサ郡じゃ、マリファナの栽培業者に手を焼いている。マリファナ農場同士で戦争まで起きている。しかもどうやら、メキシコの麻薬カルテルまでもがシエラネバダ山脈への進出を狙っているらしい。数年のうちにカリフォルニアでマリファナが合法化されると見越してどいつも足場を作ろうとしている。ここでそんなことを許すわけにはいかないんだ」
 ランスの声が段々と固くなり、母はそわそわ身じろいだ。
「それは……この町には縁のないことよね? マリポサとは一五〇キロ以上離れてるんだし! マッドクリークでこれまでマリファナの問題なんかなかったもの」
「これまでは。決して許すわけにはいかない。人目が集まったらここは終わりだ。わかってるだろ」
 マッドクリークの町は、どこに行くでもない道の途中にある小さく静かな町だ。ヨセミテ国立公園やマンモス・レイクスなどの観光地と直線距離では近くとも、人気の場所からは何時間もかかる。それに山を越えてネバダ州に行くのなら、マッドクリークを抜けるたよりない山道よりもっと早くて楽な道がほかにある。
 それでいいのだ。マッドクリークには世間に知られるわけにはいかない秘密があって、その秘密と、クイックの群れの仲間を守らねばならないランスには、私生活にかまっている暇などない。
「下らない——ドラッグ? そんなのここではあるわけないわ。大体ねえ、縄張りに入ろうとするなんて相手に同情しちゃうわよ」
 母は脅威をあっさりいなして、また赤ん坊のことをランスに売りこもうとする。だが見るからに安心しきれてはいなかった。
 ふっと、ランスの頭の中にダイナーで会った若者の姿がはっきり浮かんだ。ヘイゼルの瞳の輝き。ジーンズに包まれた長く不器用な脚。額でバサバサともつれた前髪。ひどく逃げ腰だった彼が、ぱっと勢いづいて、その勢いのままランスの顔に息を吐きかけてから慌てふためいていた様子。
「何を笑っているの?」とリリーが驚き顔で聞いた。
 ランスは真顔になる。
「何も」
「へええええ?」
 母は鷹のような目でランスを見ていた。もしくはボーダーコリーのような目で。
 大した話じゃない。あの男を見れば母にもわかる。怪しい男だ、たしかに。だが後から思えば妙に可愛らしかった。多分、赤ん坊のサマンサよりずっと。
 おかしなことを考えている自分に、ランスは眉をひそめた。
「何かあったのね、まだ話してないことが。何よ?」
 リリーから問いつめられる。
 ふとそんな気になった。ランスが母に隠しごとをするのは珍しい。珍しいというか、これまでなかったことだ。彼はテーブルに手のひらを当てて、さり気ないふりでのびをすると、だらりと椅子にもたれてニヤッと母に笑いかけた。眉を上げてみせる。
「ランス!」
 つまらないことで母をキリキリさせるのは利口ではないが。だがいたずらな気分になるのはランスには滅多にないことで、調子に乗らずにはいられなかった。
「何も特別なことのない一日だった」
 真っ赤な嘘を言いきった。
 母は鼻をクンクンとうごめかせ、威厳に満ちた「ふん!」という反応を返した。


 並べたトレイの前に立ち、ティムは深呼吸した。時は来た。これまでの努力が実を結ぶのかためされる時が。
 この三日間働きづめで、温室をまともな状態まで持ってきた。温室の中はクモやネズミや干からびた植物、汚れた鉢の山であふれ、バンダナをマスクがわりにしないと掃き出せないくらい分厚い埃に覆われていたのだ。窓のひび割れを補修し、作業台の脚を直し、フレズノまで行って種蒔き用にわずかな資材を買いこんできた。
 そしてついに、温室が手に入った。見るべきほどのものもないし、情けないほど何もかも足りない。だが日の出から木の影が窓にかかる午後三時までの間、温室は素晴らしい陽光に恵まれていた。それにここは、ティムのものだ。
 ナイフを取り上げると、ティムは〈A〉の袋から出したローズヒップのひとつを慎重に切り、傷つけないようそっと中の種を絞り出した。〈A〉の実はワイルド・ブルー・ヨンダーとノスタルジーとの交配だ。実の中にしっかり膨らんだ種が十個ほどもあったのでほっとした。中でも大きな種を選り抜き、木製の園芸ラベルの先を使ってトレイの一インチ四方の土へと注意深く押しこんでいった。最初のトレイが〈A〉の種でいっぱいになると、次のバラの実の袋を開けた。
 バラの実は二十組あって、それぞれ別の交配から採種したものだ。去年の九月に父種のバラの雄しべと母種の雌しべをそっと擦り合わせ、実が成熟すると氷温で保存した。それきり私物の冷蔵庫内、マーシャルのガレージ二階にあるティムのワンルームの住み家に置きっぱなしだった。サンタバーバラを逃げ出すあの夜まで。ティムの部屋に置かれていたのは、単にケチなマーシャルが会社の温室に冷蔵庫を置いてなかったからだ。
 ケチでよかった。なにせ六ヶ月で新種のバラの交配なんて無理だし、素敵なバラを作ってあげるという約束なしではティムは今ごろホームレスだったのだ。
「美しく育てよ」
 黒土に埋まった小さな種へ囁きかけた。土の表面を霧吹きで湿らせ、おまじないをかける。
「愛らしく強く育て。そしてもし、紫の覆輪入りのアイボリーの花がひとつでもできてくれたら、一生恩に着る」
 もう後は、待つしかない。分が悪いのはわかっている。二百回の交配の末にやっと育てるに足るバラが一輪生まれるかどうかだし、賞を取ったりまったく新しいバラとなると……だが本当によい親株を選んで交配させたのだ、ならひょっとして……。
 いや、もう待つしかない。バラの苗が育つのを待って、その間にほかの種を何百枚ものトレイに植えてこの温室いっぱいにするのだ。そっちは平凡なよくある種で、その野菜で小規模な菜園を作れたらと思っていた。
 ティムは、候補落ちした残りの種を袋に入れ、それと残ったバラの実を大きなステンレスボウルに入れた。家に持ち帰ろうと振り返ると、そこに……。
 ——温室のガラスごしにじっと彼を見つめる顔があった。
 悲鳴を上げ、ティムは両手を振り上げた。パニックで、ボウルが宙にとぶ。耳が割れるような音を立てて落ちた。
 いや待て。知ってる顔だ。ダイナーにいた保安官事務所の男だ。男は一瞬ニヤッとしてから、すぐに例の渋面に戻った。その一瞬で充分だ。笑われるのは不愉快。ティムは目をほそめ、つかつか歩いていくと、ドアを一気に引き開けた。
「びっくりしたじゃないか!」
「それは失礼した」
 男は、すっかり権力の空気をまとっていた。晴れた空の下でミラーサングラスをかけている。『白バイ野郎ジョン&パンチ』のエリック・エストラーダのコスプレのようでもあるが、もっとイケてる。ヤバいくらい。がっしりした顎にセクシーなひげの痕、肉感的な唇。鼻は大きめだが男っぽい顔によく合っている。しかもなんて見事な肉体だろう。全身が締まった筋肉で、下腹に脂肪なんかなきに等しい。その上ぴったりした制服のズボンごしでもわかる見事な太腿、さらに……さらに、とにかく全身、凄い。
 ティムの、状況的には正当な怒りが、一瞬で蒸発した。気まずさにひしひしと包まれる。
「うん」と弱々しく返した。
「ここは温室かな?」
 男は行儀よくたずねたが、礼儀などかけらも感じられない。ティムを押しのけて中へ入っていこうというようにこちらへ踏み出した。ティムが入り口に立っている以上、入るにはそうなるだろう。肩ごしに振り返ったティムは、ボウルが落ちたあたりに散乱しているバラの実に気付いた。まずい。
「駄目だ!」
 ティムは怒鳴った。温室から出て、きっぱりとドアを閉める。
「ここは……ええと、あれだ、その、無菌室にしてるんだ! 今は誰も入れない、悪いけど」
 男はティムを上から下までじっくりと眺め、小鼻をふくらませて、においを嗅いだ。サングラスで目は隠れているが、どんな目つきかは想像がつく。ティムはひどい格好で、温室掃除の埃と土にまみれ、その上きっと臭うだろう。
 無菌室? もっとマシな言い訳はなかったのか。
「ねえ! 喉が乾いてきたよね、そっちはどう、何か飲む? ほらたとえば……なにか飲みたい? 水があるけど。いや、水じゃあんまりだよね。じゃあコーヒー? コーヒー好き? だって好きじゃない人もいるから。ビールとかは何もないんだ、いやあってもかまわないんだけどね、僕は二十一はすぎてるから合法だし、そうでなくとも家の中の飲酒はかまわないし。つまりほら、車の中でボトル開けてるとかそういうのでなければ。いやでもやっぱり勤務中にビール飲んだりはしないよね? そういうことはまずしそうにないもんね、お巡りさんは」
 ティムは自分の口を手でふさいだ。
 男はサングラスを外し、そのレンズのせいでティムが調子っぱずれに見えるのかとたしかめるようにティムをじっと凝視した。
 うわあ。目が青い。それはそれは明るい青だ。最高の秋の日の、浅い空の色のような青。その上、この目つきときたら……ティムはこれまでこんなふうに見つめられたことはない。心の深くに入りこんで、暗い隅っこにあるクモの巣まで全部暴いて回ろうというような。ティムはぶるっと身震いした。
 男は、未練がましくもう一度温室をのぞきこむと、ティムへ一歩寄った。
「いいだろう。コーヒー。飲もうか」
 男が迫ってくるので、ティムは家のほうへ動き出すしかなかった。わかった、どう、どう。パーソナルスペースの尊重をよろしく。
「そうしよう!」
 ティムは明るく言うと、ぴったり寄ってくる男をつれて、家へと向かった。


 ランスは段々と、この男、“ティ・ティモシー”には二つの会話モードがあるのだとつかんできた。ぼそぼそモードと、ハイテンションモード。ランスを家に案内していく今のティムはぼそぼそモードで、中に入るとキッチンでコーヒーまわりをガタガタやりはじめた。まずカップを落とし、安っぽい白い陶器のマグが粉々に砕け散る。次は難敵に挑むようにコーヒーフィルターに取りかかった。ランスは一言も言わずにそれを見ていた。可愛いなんて、絶対に思ってやるものか。全然思わないからな。
 コーヒーが沸く間、少し家の中をうろついてすべて見て回った。大して見るものもない。古びた家具はあきらかにこの小屋にそなえつけの家具で、現在の住人の所有物はほとんどなく、空に近い本棚に並ぶ一列の本だけ。ランスはタイトルをじっくり眺めた。園芸や作物に関する本、いくつか植物学の専門的な本もあった。
 マリファナ栽培についての本はない。だがいくらこの男が間抜けでも、人目につく場所にそんな本は置かないだろう。部屋にはマリファナのにおいもしなかった。今日のところは、この男からも。だが、この間のにおいは勘違いではない。
 自分の意図が見え見えなのはわかっていたが、隠すつもりもない。はっきりとつきつけてやりたかった。お前がどんな違法行為をする気かしらんが、隠しおおせると思うな。この町には俺がいるんだぞ。
 あの温室で何をしようとしている? ランスが中へ入るのを——植えているものを見られるのを——あんなにあわてて止めたティモシー……じつに気に入らない。こいつは何かたくらんでる。
 いつもならランスはひとを判断する直感には自信があったが、ティモシーのこととなるとさっぱりわからなかった。何か隠しているのは確実だ。だがその一方、ティモシーはあまりにも純朴で無器用に見えた。その純真さに、ランスの犬の部分がしっぽを振りたくなるくらい。だがこれも芝居に違いないのだ——そのはずだ。ころりとだまされてなるものか。
 キッチンへ戻ると、ティモシーがコーヒーを注いでいた。ランスは息をつめたが、それ以上何かが壊れたりひっくり返るような惨事は起きなかった。
 ランスは何気なくたずねる。
「ここを買ったのか?」
「僕が? まさか」とティモシーは小さく、淋しげに笑った。
「借り物か?」
「クリーム入れる? いや、実際は牛乳しかないけど。低脂肪乳。ごめん。砂糖もない、蜂蜜ならあるけどちょっと結晶化しちゃって、体に悪いとかじゃないけど、そのはずだけど、まあコーヒーに蜂蜜もあまり入れないよね普通。たとえ、ほら、採れたての蜜なんかでも。でも紅茶には蜂蜜入れるんだけどね。だからやっぱ、コーヒーだって! 甘いのが好きなのに砂糖がない時とか、特にね。そうは言っても、普通はそもそも砂糖を切らしたりしないものだろうけど……」
 ランスはしゃべりまくるティモシーをしばらく放っておいた。こいつは嘘がド下手か、とてつもない嘘つきのどちらかだ。
 ついにティモシーは言葉が尽きて、期待の目を向けながら、カップを持ってつっ立っていた。
「ブラックで」とランスはカップを受け取る。
「そう……」
 ティモシーが赤くなった。
 この男がもしこれでランスの気をそらせると思っているのなら——なめるな——とんだ思い上がりというものだ。
「で。ここを借りているのか?」
「ええと。まあ、うん、そんな感じ」
「誰から……?」
「リンダ・フィッツギボンズ」
 すらすら答えながらティモシーはまた赤くなった。
 前もって地主を調べておいたので、嘘じゃないのはわかった。少なくとも、勝手に上がりこんだ流れ者ではないということだ。ランスがつかんだ限り、フィッツギボンズ家はこのブロード・イーグル通りのキャビンを二十二年にわたって所有しているが、別荘としてもほとんど使っていない。ランスにも彼らの顔が思い出せなかった。このあたりの全員を把握しているランスですら。
「ほう? それは、どれだけの対価で?」
 ランスはコーヒーを飲んだ。意外なことに、美味しかった。
「ええと……今のところは、な、なにも……なんて言うか、その、いわゆる……」
 ティモシーが不安そうに言葉を途切らせた。
「交換条件?」とランスは水を向ける。
「そうそれ!」とティモシーの顔が輝いた。
「対価として、彼女に収益の一部を渡す?」
「そういうこと!」
 ティモシーは説明せずにわかってもらえてほっとした様子で、ニコニコしていた。ランスはただ彼を見据える。ティモシーの笑みが曇った。
「というか……ええと……どうかした?」
 ランスは背をのばし、コーヒーマグをゆっくりと置いた。右手を腰のそば、拳銃の近くへ添える。
「一体ここで何を育てるつもりだ、ミスター・トレイナー?」
 一瞬、ティモシーは怯えた顔になった。それから不意に気骨を見せる——もしくは軟弱なふりをやめただけか。長身をしゃんと伸ばし、顔に怒りを浮かべ、警戒心をあらわにした。
「失礼、ビューフォート巡査。あなたには関係ないでしょう。礼儀正しく接しようとしてきましたけど、あなたは——」
「ビューフォート保安官だ」
「え——えっ?」
 ティモシーは当惑顔でランスの上着のバッジを見やった。
「たしかに“保安官”て入ってるけど、てっきり保安官事務所のひとってことかと——つまり——」
「俺が保安官だ」ランスはさえぎった。「保安官ランス・ビューフォート」
 ティモシーは感銘を受けるよりも困惑顔だった。
「じゃあ……その保安官がどうして僕につきまとうんだ? 僕みたいな、なんでもない……」
 奇妙な、小さな笑いをこぼしたが、その目には恐怖が粘りついていた。
 ランスは一歩距離をつめ、圧力をかける。
「単純な質問だ。ここで何を育てるつもりだ、ミスター・トレイナー?」
「あなたには関係のないことだ、ビューフォート保安官」
 ティモシーは一歩も引かず、驚いたことにランスの視線を受けとめた。くいと強情に顎まで上げて。
 ヘイゼルの目でじっとにらみ返されて、ランスは不思議な震えを感じた。背骨のつけ根からエネルギーがわき出し、トクトク、トクンというリズムが心臓の上を、ステージ上のタップダンサーのように駆け抜けていく。反抗や拒否というものに、ランスは慣れていない。ランスが跳べと命じれば町の皆は卓球の玉のように飛び跳ねる。
 目は挑戦的だったが、ティモシーの下唇は震えていた。ランスはその口元を見つめた。
「……まだしなきゃならない作業があるから」いきなり、ティモシーがそう言った。「次また来る気なら、令状でも持ってきて」
 ランスはティモシーの目を見つめ返して、無言でいた。
「それに、この町の新入り歓迎会は改善の余地があるよ。優しそうな老婦人たちにおまかせするとか。手土産の果物かごもよろしく!」
 そう言い放つと、ティモシー・トレイナーは玄関まで行進していき、ランスに向けて扉を開け放った。

--続きは本編で--

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