フェア・プレイ

All`s Fair2
ジョシュ・ラニヨン

  ■1


 夜中の三時に鳴り出した電話。いい知らせだったためしがない。
「俺が出る」
 タッカーの声は眠そうだ。自分の携帯を手で探している。
「家の電話だよ」
 エリオットは呟いて、顔の上に枕を引き寄せた。教職のありがたさというやつだ。夜中三時の電話は、もはや彼宛ではない。
 タッカーがぶつぶつ言いながら携帯を投げ捨て、次に、家の電話の受話器を叩き落とした。あわてて飛びついたせいでマットレスがはずみ、エリオットは呻いた。
「悪い」受話器をつかまえたタッカーが、かすれ声で名乗った。「ランスだ」
 沈黙。
 タッカーが、口調をあらためて問い返した。
「もう一度、説明してくれますか?」
 エリオットは目を開け、耳をすます。
 ひどく長く思えた沈黙の末、タッカーが言った。
「すぐ、二人でそっちに向かいます」
 ガチャンと受話器を戻し、ベッドサイドのランプをつける。
「エリオット。起きろ」
「もう起きてる」エリオットはすでにベッドカバーを押しやっていた。「どうした? 何だ」
「すぐ出るぞ」
 エリオットの心臓が、アドレナリンと恐れとで凄まじい速さで打ちはじめる。ランプの光にくらむ目でタッカーの表情を読もうとした。
「お前の親父さんはだ」タッカーははっきり、そこを強調した。「だが、家は駄目だった」
「何だって?」
 エリオットの腕にタッカーがふれ、ぐっとつかんだ。
「火事があったんだ。親父さんは無傷で脱出した、何ともない。だがどうやら家はすっかり焼け落ちてしまったらしい」
 ショックのあまり、エリオットは動けなかった。恐怖がはっきりと心に根を張る前にタッカーが簡潔に説明してくれていたが、それでも。生まれ育った家が、焼けた? ある意味で、それも多くの意味で、あの家は今もエリオットにとって帰る場所なのだ。
 エリオットはタッカーの腕を払ってベッドから飛び下り、軽率な動作のせいで再建手術した膝に走った痛みもほとんど意識できなかった。
「この時間じゃもうフェリーはないし——」
「俺の船を出す」
 エリオットはうなずいた。まともな声を出せる気がしなかった。
 タッカーがバスルームに向かうと、エリオットは機械的に室内を動いて着替えを出し、ジーンズとセーターを着ながら、何が要ることになるか、海を渡ってシアトルでこの突然の災難に対処した後の一日の予定を考えようとした。
 島の暮らしは、この点が面倒だ。常に先を見越して動く必要がある。
 今日、仕事には行くだろうか? ローランドに何か必要なものはあるのか——当たり前のもの以外に。
 窓の外は黒々とした夜だ。高い木々のシルエットが、まだ深い闇に溶けている。夜明けの気配は見えない。空気は湿っぽく、冷たい。島の空気はいつでも少し湿気がある。エリオットは身震いした。
 バスルームのドアが開くと、エリオットはたずねた。
「さっき、電話の向こうは父さんだったのか?」
「いや。近所の人からだ。なんて名前だったか——ミセス・マクギリカディ?」
「マクギリヴレイ。じゃあ父さんは——」
「何ともない。彼女の話じゃ、まだ消防と話している最中だと」
 タッカーは顔をしかめた。
「お前の父親のことだ、もっとまともな時間になるまで待って、連絡してくるつもりだったのかもな」
 たしかに。やりかねない。それどころかローランドの性格を思えば、火事についてはすぐ知らせず、明日の夜——もう今夜か——エリオットがディナーのために家へ寄る瞬間まで黙っていたかもしれない。タッカーと暮らすようになってじき六ヵ月だが、今もエリオットは毎週木曜には父親と夕食をするようにしていた。
 ともあれ、エリオットの携帯ではなく家の電話に連絡が来た理由は、これでわかった。
 着替えをすませ、エリオットは、たくましい肩にアイロンの利いた白いシャツをぐいとあげて手早くボタンを留めていくタッカーを見つめた。焦りを抑えこもうとする。タッカーだって、ぐずぐずしているわけではいない。大体、もう起きてしまったことだ。十分やそこら、たとえ半時間遅れたところで、物事を変えられはしない。
 しかしエリオットは、火事が起きたということ自体、まだどうにも腑に落ちずにいた。父親はまだまだヒッピーのように奔放だが、だらしのない人間ではない。寝煙草もしない、そもそも煙草は吸わないのだ。家は古い街並みのバラード地区に建つ昔のバンガローだったが、しっかり丁寧に手入れされていた。大体にして、夜中の三時に、乾燥機に溜まった糸くずや料理中の不手際による失火が起きるとも思えない。
 タッカーが使い終わったバスルームに入ったエリオットは、制汗スプレーを吹いて顔を洗い、ひげ剃りと歯磨きをすませた。今日の仕事に出勤するかどうかはまだ見通しが立たない。父親の家で、何が待ち受けているか次第だ。
 バスルームを出て、声をかけた。
「準備できたか?」
「ああ」
 タッカーがショルダーホルスターを装着し、携帯電話をポケットに入れた。彼はFBIの捜査官だ。シアトル支局所属の。彼とエリオットもそこで出会ったのだった。エリオットもFBI捜査官だったが、職務中に撃たれて、永遠に現場に戻れなくなったことから辞めた。現在、エリオットはピュージェットサウンド大学PSUで歴史を教えている。そういう暮らしに満足していた。大体は。
 まだ夜明けまで一時間を残して、二人はキャビンを後にした。ニッサン350Zのヘッドライトがよぎると、つやつやしたベリーの茂みや、木の幹に誰かが刻んだ内緒の言葉が照らし出され、時おり、ギラッと何かの目が光った。鬱蒼とした静かな森をエリオットは素早く走り抜け、タッカー所有のセーリングクルーザーが係留されたヨットクラブがあるドラド・ベイマリーナへ向かった。タッカーはまだシアトルに部屋を借りているが——FBIの勤務時間を思えば現実的だ——大体の夜にはフェリーで島まで帰ってきた。そしてありがたいことに、本土側に車を残してくる習慣だ。
 マリーナに停めた車から下りると、周囲に人影はなかった。夏の、セーリングシーズン中だというのに、この小さなマリーナに停泊する船の数はそう多くない。車のドアが閉まる音が、無人の駐車場に響きわたった。
 営業時間外のレストランの前に立つ旗竿の滑車と上げ綱が、金属の柱に当たって、幽霊船の鐘のような音を鳴らしていた。海風はねっとりと、魚臭い。頭上では、船に掲げられた色のない三角旗が無秩序にはためき、濡れた石を踏みながら、二人はタッカーのブル・フィッシュ号へ歩みよった。
 出港に、さして時間はかからない。お互いの役回りはすでに定まっている。タッカーより移動に手間どるエリオットは、先に乗船してモーターを始動させる。低くうなり出したエンジンをエリオットが見ている間に、タッカーが係留ロープをほどいた。波が船体をパシャパシャとなめては、波止場に騒がしく打ち寄せる。海藻ケルプの金色の浮袋が、緑がかった波間でゆらゆらと漂っていた。
 艇尾が波止場から離れていくタイミングを見計らって、タッカーがもやい綱を投げ、船上へとび乗った。エリオットは舵の前の位置をタッカーにゆずり、コーヒーを淹れに甲板下へ下りた。インスタントコーヒーでクリームなしだが、たっぷりのアイリッシュ・ウイスキーが利いている。
 苦いブラックコーヒーを、タッカーのところへ運んでいった。
「ありがとう」
 タッカーが礼を言う。熱いコーヒーを一口飲んだ。夜明け前の薄闇の中、その目は青く光っていた。
「大丈夫か?」
「まあね」
 エリオットはそう、笑みを作った。こんな状況下でもほとんど会話がない二人は、他人からは妙に見えるかもしれない。だが二人とも、答えが出ない問いをぐずぐず悩んで気力や体力を空費しないよう訓練されている。タッカーはすでに知る限りの情報をエリオットに伝えたし、現時点ではそれでよしとするほかない。タッカーがここにいてくれるだけで、充分に心強い。
 向き直って、エリオットは近づくケトロン島の光を見つめた。顔を打つ波しぶきの冷たさと塩辛さに身が引き締まる。深く、心を落ちつかせるように息を吸った。
 いいスピードだ、およそ十五ノット。追い風だし、どうせ二十分程度の航海だ。
 ついに東の空に訪れた夜明けは、黒い紙を端から燃やす炎のようで、闇のふちが縮み、夜が蒸発していく。
 不意に、重い波がドンと、ブル・フィッシュ号の船首を揺らした。
「嘘だろ——」
 タッカーが呟く。
 暗い物思いからはっと醒めたエリオットは、ギリギリで、コククジラが数メートル先の海面から宙に身を躍らせるのを見ることができた。クジラが海に落ちると、その波と白い泡で船がまた揺れた。金属の手すりをつかんで体を支える。このあたりは海峡の最深部でもないし、水深も平均して一四〇メートルほどしかなく、六月中旬はコククジラのシーズンには遅い。早春のうちにアラスカからバハ・カリフォルニアへと回遊していくクジラだ。
「でかい魚だな」
 エリオットは呟く。
 二人は、薄闇の中で互いを見つめ合った。タッカーの笑みがチラリと白く光る。エリオットの唇も、応じて微笑にゆるんだ。


 ガレージはすっかり焼失していた。家は全焼でこそないが、焼け落ちたも同然だ。青ざめた光の中、エリオットは黒焦げの残骸を見つめたが、あまりにも受けとめきれない光景だった。
 ずらりと並ぶ消防車のまだ稼働中のエンジンが吐く排気ガスと、煙のとがった臭いとで、空気がつんと苦い。庭も、ほとんど焼けていた。大きな年経た藤の木が黒くねじれ、折れている。バラの茂みの残骸に、灰が雪のように積もっていた。芝生はどろどろで、踏み荒らされた沼地のようだ。
 ぼんやりと、肩をぐっとつかんだタッカーの手を感じ、エリオットはその無言の力強さをありがたく思う。
 瓦礫から顔をそむけ、人々の群れに目を走らせる——濡れてくすぶる家の残骸をつつき回る消防士、毎度皆の邪魔ばかりしている野次馬——そしてついに、近所の人々の輪の中に立つ父親の姿を見つけた。隣人たちはバスローブ姿だったり仕事着だったりで、皆が早口に何かしゃべっている。
 ローランドは、ジーンズの上に、エリオットが子供の頃から見慣れた赤と灰色のビーコンのバスローブを羽織っていた。白いものが混じってきた髪はいつもと同じく一つに縛っていたが、いつも以上にまとまりがない。小さな金庫のようなものを抱えていた。
「父さん!」
 ローランドは振り向き、驚いて、二人の方へやってきた。
「エリオット? こんなところで何をしている」
 ローランドが小型の金庫を抱いたままなので、二人はぎこちなく抱き合った。ローランドは背はそれほどないががっちりした体躯だ。頑強な骨格だし、筋肉もしっかりついている。だがこの朝ばかりは、その体もしなんで見え、服と髪からは煙のにおいがした。エリオットは父を両腕でしっかりと抱く。体を引いてから、言い返した。
「どういう意味だ、何をしているって? ミセス・マクギリヴレイが電話をくれて、やっと——」
 声が途切れた。父は憔悴し、そして実に初めて、年老いて見えた。もう一度抱きしめたい衝動をやっとこらえる。
「一体どうして、こんな?」
 ローランドが首を振った。
「電気回線か何かのせいだろ、古い家だ」そこで深く息を吸う。「……だったからな」
 すぐそばに黙って立っているタッカーに気付き、ローランドは疲れた笑みを絞り出した。
「タッカー」
 タッカーがぼそっと答える。
「ご無事で何よりです、ミスター・ミルズ」
 うなずいてから、ローランドは言葉など出ないかのように首を振った。
「どうやって外に出られた?」
 エリオットはたずねた。無理に、また家の方を見る。もし父が目を覚ますのが間に合わなかったら——助かる見込みなどなかっただろう。炎以上に、煙に巻かれて多くの人々が死に至っている。
「火はガレージから広がったんだが、ありがたいことに家の中の火災報知器が鳴ったんでな。どうにか、ギリギリ、ズボンを穿いて、財布を持ち、金庫を取りに行くまで間に合った。外に出て、庭のホースから水を出したが……」
 ガーデニングのホース一本で、たちまち灼熱地獄と化しただろう炎に立ち向かおうと?
「冗談だろ」
 また、タッカーの手がエリオットの肩に置かれた。力をくれている。ここにいると。いや、タッカーがたよりになることはエリオットも知っているのだが、ただタッカーがエリオットの先入観以上に情に篤い男なのだと、わかってきたのは最近だ。
「何か俺たちにできることは?」タッカーがたずねた。「何でも言って下さい」
「いや、大丈夫な筈だ。まともな保険に入っているしな」ローランドが陰気に答えた。「今こそあの吸血ヒルどもが保険料に見合う働きをする番だ」
「どうやら、いつもの調子が戻ってきたようだよ」
 エリオットにそう言われて、重々しかったタッカーの口元が淡い微笑にゆるんだ。
 エリオットの視線の先で、消防士たちが黄色く重いホースをたたもうと水と空気を抜きにかかっている。戦いは終わりだ。後処理の段階に入っている。救急車もなし、検死医の車もなし。心の底からほっとしながらも、エリオットの口をついて出たのは、父をいさめる言葉だった。
「金庫なんか放っておいてまず逃げるべきだった。出られなくなっていたかもしれないんだぞ。火事は、一分一秒が勝負なんだ」
「母さんが、こんな時のためにと準備しておいてくれた金庫だ、持たずに逃げられるか」
 エリオットの返事は、消防隊長が近づいてきたせいで途絶えた。隊長はまだ黄色いヘルメットと防護服姿だ。
「ミルズ教授?」
 エリオットとローランドがそろって「ああ」と返事をした。
 隊長は赤ら顔の中年男で、顔の右側に白っぽい傷が走っていた。淡い瞳で、エリオットとローランドを見比べる。
「家の持ち主は私だ」とローランドが言う。
「隊長のバリスです」
 ローランドが握手の手を差し出した。
「今回の働きすべてに感謝したい、バリス隊長」
「あまりお役に立てなくて残念でした。だがもっと早く到着していても我々にできることは大してなかったでしょう」
「それは、つまり?」
 エリオットより早くタッカーがたずねた。
 バリスがローランドへ告げる。
「つまりですね、あくまで非公式な話ですが、我々が放火調査を要請したことを、お知らせしておこうかと」
「放火?」
 エリオットがおうむ返しにした。
 ローランドは無言だった。
「放火かもしれないと思っているんですか?」
 バリスがエリオットを見る。短く答えた。
「放火だと、確信しているんです」


■2


「でも私、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が大好きなんです」
 レスリー・ミラチェックが、ブライアントホールでのエリオットの〈映画と歴史―アメリカ西部〉の授業の最前列から文句を言った。
「あの映画は、インディアンに対する共感を見せたりステレオタイプ以外の描き方をした、初めての映画でしょう?」
 エリオットはおだやかな口調で返した。
「たしかに、ラコタ部族への共感的なまなざしは、映画ファンにとっては驚きや新たな視点への目覚めのきっかけになったかもしれない。だが、いかなる意味でも、あれはネイティブアメリカンを好意的に描いた初めての映画でも、初めてのヒット映画ですらなかった」
 考えてみれば、レスリー・ミラチェックがいたのは二学期前のことだ。今ここにいるのは、リアン・ミラー。若々しい胸と長い脚をした、また別のブロンド娘。少し教職にいるうちに、学生たちは皆同じように見えてくるものだ。一方で、彼らの独創的な発想や深い洞察力に驚かされることもしばしばだが。
 だがリアン・ミラーやその他の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』がリアルなアメリカ西部の描写だと信じる者は、その枠には入らない。映画内の髪形からして、どうだ。ステレオタイプからの脱却? むしろ、古くさいステレオタイプを受けのいい新たなステレオタイプで上塗りした、というところだ。だがミラーは悪い子ではないし、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を古典映画だと思ってしまうほどに若い。
 まったく、夏の休暇が始まる日がじつに待ち遠しい。二度と夏学期の担当など引き受けるものか。
「ですけど、歴史っていうのも、ただの物語でしょう?」
 ミラ・イーガンが口をはさんだ。
 何だと。それは駄目だ。エリオットの中にいる元法執行官の部分が、その言葉に食いつく。
「そうとは言えない」彼はミラ・イーガンに言った。「事実はあくまで事実だ。インディアン移住法の調印は一八三〇年、これは重要かつ動かせない事実だ。一八六三年、この映画の舞台となった年には、スー族と白人との間にはすでに相当の交流があった。事実をどう解釈するかは分かれることもあるだろうが、事実それ自体は、主観で曲げてはならない」
 ミラ・イーガンの顔は恥ずかしさと反発心とで赤く染まっていた。リアン・ミラーと、ほらね、というような視線を交わす。エリオットは内心で溜息をついた。この二人の学生たちの耳に自分の言い方がどう聞こえているかはわかっている。それに、完全にフェアな態度でもなかった。そもそも歴史とは何だ? 過去の事実の積み重ね? 過去の事実をつなぎ合わせた物語? その物語に対しての解釈?
 学生たちというのは、自分の考えに反論されるのを嫌がるものだ。実際、その点は昔から時代を超えて変わっていない、とすら言えるかもしれない。ある種、その点だけは。大学生だった時のエリオットも、その態度や信念で父親と衝突したものだ。あれはおそらく、この学生たちと同年代だった頃のローランドが、ワシントン大学のベトナム反戦運動において、傑出したリーダーだったせいもあるだろう。
 そんな過去があるせいか、今朝、放火だろうと聞かされてもローランドは至って平然としていた。
「こんなことになるかと心配はしていた」
 そう、消防隊長のバリスに向かって答えたものだ。
 そしてエリオットが舌をもつれさせているうちに、ローランドは冷静に説明した——少し前、過激派としての若き日々を書いた回想録の出版をやめろという、脅迫の手紙を受け取っていたと。
「多分『マザー・ジョーンズ』誌に載った本の予告を見たんだろうな」
 考えこみながら、ローランドはそう結んだ。
 エリオットの忍耐もそこで切れた。
「その話、俺に知らせておくべきだとは思わなかったのか?」やっとそう吐き出す。「誰かに脅迫されてるって、せめて一言言っておこうと?」
「それは連邦法に反している」
 タッカーも口をはさむ。ローランドがエリオット相手に黙っていたことを指しているわけではない。
 勿論、その言葉はローランドの引き金になって、彼は言論の自由に対する数々の、そして様々な連邦政府の介入や曲解について、政府への長年の不信をぶちまけはじめた。タッカーにとっては、まさしく雄牛の前で振られた赤い布。実に楽しくなりそうだ——家の再建までの間、グース島の家で三人一緒に暮らすのは。エリオットは本心から、タッカーとローランドが朝のコーヒーを飲みながら挨拶を交わす光景が楽しみでならなかった。
 と言っても、ほとんどの朝、彼にもタッカーにもコーヒーの暇などないのだが。
 気持ちをきっぱり切り替え、エリオットは学生たちへと意識を戻した。
「君らのほとんどは『ソルジャー・ブルー』や『小さな巨人』『夕陽に向って走れ』といった映画を覚えているには若すぎるだろう。だがこれらはすべて、六十年代後半から七十年代初頭にかけて、西部劇の転換点となった映画たちだ」
 先を続け、昔の映画や西部、西部劇についても語りながら、エリオットはその間ずっと、誰が何故、父を殺そうとしたのかと考えていた。
 ローランドは、あの態度ほど根っから無頓着なわけがない。ショックを受けた筈だ。エリオットだってまだ動転しているし、ローランドがまともな反応を見せなくとも不思議ではない。少なくとも、いつも以上にまともでなくとも。
 教室の奥の時計がついに定時になった。ほっとしたエリオットが授業を終わらせると、民族大移動が始まる。ぞろぞろ出ていく学生たちに形式的にうなずきながら、エリオットは来週の期末試験に関する質問に答えた。
 夏学期の第一期は来週の金曜までだ。それがすぎれば、エリオットは夏いっぱい休暇だ。彼はそれを楽しみにしていた。指折り数えているくらいに。ほぼ五年ぶりの本格的な長期休暇だ——撃たれた後の長い回復期を別にすれば。
 教壇に戻ると、ティーチング・アシスタントのカイルが、提出された映画評の残りをまとめているところだった。
 カイルがちらっと顔を上げる。
「何かありました、教授?」
 アーモンド型の目と蜂蜜色の肌をした人目を惹く青年で、あちこちのピアスと緑のモップのような髪がその仕上げだ。
 エリオットは小さく微笑した。
「少し寝不足でね」
 ローランドの家の火事のことはまだ誰にも言っていない。広まれば大学内はざわつくだろう——ローランドはここPSUの、ある種、伝説的存在だ。
「ああ、成程?」
 カイルがニヤつく。彼は、エリオットがタッカーとくっついたのを心底祝福している一人で、夜な夜な二人がローランドいわくの“ぶっちゃけた”行為に励んでいると信じているふしがある。
 現実にはそうはいかない。タッカーの勤務時間からしても。タッカーはまだ例の〈彫刻家スカルプター〉事件の捜査の仕上げに関わりながら、地元の政治家ジョージ・クリフトン・ブルーを狙ったネット上の暗殺依頼未遂事件も捜査していた。
 とは言え、昨夜はなんとかひねり出した時間を一緒にすごした——だから、そう、エリオットが疲労を覚えるのも当然か。早朝の電話で起こされるまで二時間しか眠っていない。
 レポートを集め終えたカイルに礼を言い、ブリーフケースにその束をつっこむと、エリオットは中庭を回りこんだ向こうにあるハンビーホールのオフィスへと向かった。足どりはきびきびしている。ほんの六ヵ月前よりずっと膝の痛みに悩まされなくなり、順調な回復ぶりがありがたい。ほとんど痛みなくすごせるというのは、決して小さなことではないのだ。
 空気はぬるく、花の香りがした。枝を広げたブナの木は花盛りで、灰色がかった枝一面に小さな黄緑色の花が散っている。バラも花を咲かせ、薄桃色、ピンク、紅色と、あらゆる赤の濃淡を集めてきたようだ。眺めのいいキャンパスだった。芝生は整えられ、堂々とした煉瓦の建物は蔦に覆われている。古風な見た目の裏腹に、ここは西海岸でも有数のリベラルな校風の大学だった。
 行き交う学生たちの姿はいつもより少ない。この夏の間、寮に残る学生の数もわずかだ。数人の若者たちが芝生でくつろいで読書やおしゃべりに興じている。三、四人が次の授業に向けて去っていく。可哀想に。屋内にとじこもって机上の空論を学びたい天気ではない。どんな論であれ。どんな概念や理論も。
 樹木苑の“さまよいの小径”を通り抜けたが、この六月の午後、そこはまるで茂みの中にあるアロマテラピーの店を歩き抜けていくようだった。樹冠が落とす緑色の影。キャンパスの刈りこんだ芝生の香りと入り混じる、ハシドイの花や松のスパイシーな香り。金色の花粉が宙をきらきらと漂った。エリオットは胸いっぱいに香りを吸う。朝は、煙のにおいばかり嗅いですごした。
 携帯電話が鳴った。エリオットは相手の番号を見る。
 タッカーからだ。
 エリオットは電話に出た。
「やあ」
『親父さんの様子は?』
「この数時間、新情報はなし。最終確認時には、まだ保険会社や火災調査官とニュースレポーターを相手にしていた」
『レポーター。素晴らしい』
「まさに、俺もそう思ったよ。なあ、父さんに、家に泊まるよう勧めてくれてありがとう。お前からっていうのは、俺が言うよりよかった」
 タッカーはあっさりと流した。
『言うに決まってるだろう。ほかのどこに泊まらせるって言うんだ。それに、俺たちが目を配れるところにいてくれたほうがいい』
「まったくだ」
『お前は、大丈夫か?』
 いつも、驚いてしまう。エリオットにしてみれば意外な、このタッカーの気遣いに。その優しさに心が温まるし、落ちつかずいたたまれなくもなる。自分が勝手に決めつけてきたタッカーの姿とかけ離れすぎているせいか。
「俺? 何ともないよ。ただ、昼寝したくてたまらないけどな」
 タッカーが笑った。
『それは年を取ったってことだな』
「お前よりは若いぞ、この年寄り」
『そう違わないさ。たった二年だ』タッカーはまた笑う。『オフィスの鍵をかけて一時間くらい寝たらどうだ』
「誘惑されるね」エリオットは慎重に切り出した。「火災調査の予備調査報告書を読みたいんだが」
 間があった。
『——俺に、それを手に入れろということか』
「お前の方が手に入れられる可能性は高い、と思っている」
『たのむから言ってくれるなよ、まさかお前まで親父さんのあの政府の陰謀説を本気に——』
「俺のことはわかってるだろ? 陰謀論者は一家に一人で充分だ」
 タッカーが溜息をついた。
『手に入るかどうか見てみるよ』
「悪いな」
 電話口から離れたところで、タッカーが誰かと話している。またその声が戻った。
『オーケー、行かないと。今夜また。気をつけてな』
 気をつけて、というのは仕事中のタッカーの暗号だ。意味は「愛してるよ」。
「そっちもな。じゃあ、後で」
 エリオットは電話を切り、かすかに微笑んだ。
 ハンビーホールにつくと、長く狭い階段を上り、弾丸型のアーチの重厚な木の扉を開け、しんとした建物へ入った。廊下にはカーペットクリーナーや消毒剤の香りがうっすらと漂い、そして多分、かすかにマリファナの匂いもした。非日常的な静けさ。だが夏学期の間というのは、いつも放課後の居残りのような雰囲気がするものだ。
 アン・ゴールドの空の教室のドアが開いていた。アンが教壇のそばに立ち、設計図を丸めている。通りすぎるエリオットにひとつうなずいた。エリオットもうなずき返した。
 アンも、ほかの同僚講師と同様、去年の秋の出来事以降、エリオットに対してよそよそしく礼儀正しい距離を置いていた。別に、誰も学内の連続シリアル殺人犯キラーをつかまえたことでエリオットを非難してはいないが、元FBI捜査官という経歴をあらためてつきつけることになったのは、学内の好感度を上げる役には立たない。警官や捜査官は——たとえでさえ——人々に警戒される。
 エリオットは廊下の先のオフィスへと歩きつづけた。ブリーフケースとキーを持ち替えてドアの鍵を開け、中へ入る。また携帯が鳴った。今度はローランドからの新たな状況報告だった。
 エリオットは父の話に耳を傾け、大体は黙っていた。ローランドは取材はすべて断っており、エリオットから見るとそれはいいニュースだ。もし『マザー・ジョーンズ』誌の記事が放火のきっかけになったのであれば、マスコミに騒がれないようおとなしくしておく方が絶対にいい。
 家は建て直せるし、そうなるだろう。だが人生の思い出の品——本、写真、絵など——は永遠に失われたままだ。出生証明書や婚姻証明書、免許証などの重要な書類があの小型金庫の中で無事だったのがせめてもだった。となると、あれを取りに戻ったローランドは正しかったのかもしれないが、あのギリギリの状況で貴重な時間を失うリスクを思うと、エリオットの心臓が苦しくなる。
 とにかく、今はまた説教するような時ではない。ローランドの声は疲れきり、エリオットが聞いたこともないほど打ちのめされる寸前に聞こえた。だが、タイミングがどれほど悪かろうと、エリオットには、朝からどうしても頭を離れない疑問があった。
 口調をさりげなく保ち、非難の響きを持たせまいとする。“容疑者に反感を抱かせない”のがルール。
「父さん、ひとつわからないんだけど、どうして脅迫されていることを俺に黙ってたんだ?」
『大げさなことを言うな。一通の手紙にすぎん。俺が悪意の手紙を受け取ったのが初めてだとでも思うのか?』
「その手の手紙だったのか? ただの悪意の手紙?」
 ローランドの一瞬のためらいが、充分な答えだった。
「正確に、その手紙にはなんて書いてあったんだ」
『正確な文章までは覚えとらん』
「父さん」
 疲れ切っているせいで、ローランドはこらえきれない溜息を洩らした。
『本当だ。だが大体こんな感じだった——息の根を止められたくなければ本は出版するな』
 努力は要ったが、エリオットは口調を抑えた。
「それはメールで来たのか、それとも郵便?」
『普通の郵便に混ざってきた』
「いつ届いた? 文字はパソコン、手書き? 封筒の特徴は思い出せないか? 消印の有無は? どんな切手だった?」
 人生初めてエリオットにも、無事に帰ってきた子供の尻を叩く両親の気持ちがわかった。
『エリオット、もう何ヵ月も前のことだ。覚えちゃいない。ほとんど忘れてたくらいだ』
「そんな手紙のことを一体どうやって忘れられるっていうんだ」
『さっきも言ったろう』今やローランドの口調はつっけんどんだった。『悪意の手紙を受け取るのは初めてじゃないからな』
「手書きだったのか?」エリオットはさらに問いかける。
『白いコピー用紙にオレンジのクレヨンで書かれてたよ。封筒はよくある事務封筒。差出人名なし、切手はフォーエバー切手だ。消印はシアトル。あの手紙について思い出せることなどその程度だ』
 はじめの主張より、随分詳しく覚えていたものだ。
「手がかりにはなる。もうひとつ聞きたい。誰が送ってきたと思う?」
『そいつはどういう質問だ? どうやって俺に相手の正体がわかるって?』
 ローランドがつっぱねる。珍しいくらい苛立っていて、どれほどの疲労とストレスがかかっているのか伝わってくる。
 エリオットは口調をやわらげようとした。
「父さんの回想録の出版をやめさせたがっているのは誰だ?」
『知るか』
「勘弁してくれよ、父さん。誰かが昨夜、父さんの家に火をつけたんだぞ。父さんを殺そうとしたんだ。回想録を出版されたくない誰かだ。相手の心当たりくらいあってもいい筈だろ!」
 ローランドがぴしりと言い返した。
『言ってるだろうが。見当もつかん』
 エリオットの心が沈む。父親の声の刺々しい怒りにひるんだわけではない。その声にあった、聞き間違いようもない嘘の響きのせいだった。

--続きは本編で--

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