フェア・ゲーム
All`s Fair1
ジョシュ・ラニヨン
■1
携帯電話が震えていた。
教壇のそばに立つエリオットには、机の上をじりじりと動く自分の電話が見えていた。無視する。電話一本で否も応もなく事件に──そして危険に──とびこんだ日々は、もう昔のことだ。今から十七ヶ月前に終わった生活だ。
「……ネズミが収容所中にのさばり、あふれそうな便所からは悪臭がたちこめていた。飢えた収監者たちは蝋燭を食い、靴ひもを食い、しまいには虫やネズミまで食った」
毎度のことだが、教室に並んだ生徒たちの列を、身震いの波が揺らした。何人かはせわしなくノートを取っていた──まったく。収容所での暮らしが生き地獄だったという話を、彼らはノートに書き留めていなければ忘れてしまうとでも?
「南北戦争が終わった時には、四万人以上の兵士が収容所に入っていた。驚くべき人数だろう。北軍と南軍の兵士、ほぼ半分ずつの割合だった」
丁度そこで、一列目に座ったブロンド娘が驚きに顔をしかめると、長くてスリムな足を見せびらかそうと姿勢を整えた。
そう言えば、彼女の名前は何だっただろう。レスリー、……ミラチェック? そう、たしかそうだ。
彼の視線に気付いたレスリー・ミラチェックが、お上品な微笑を向けてきた。エリオットは苦笑を噛み殺す。彼女は獲物をまちがえている。仮にエリオットが生徒と親密な関係になるとしても──予定もないが──、彼女ではまず無理というものだ。レスリーの横に座っている方、肩が広くて赤毛のジョン・サンドスキーの方がまだ可能性がある。
サンドスキーはペンの頭をかじりながら、ぼんやりと宙を見ていた。
エリオットは胸の内で溜息をついて、講義を続けた。
「将校であっても、扱いの悪さは同じだった。エリー湖西に浮かぶジョンソン島では、捕虜キャンプに収容されていた九千人のうち、三百人が死んだ。ほとんどが餓死か病死だった」
エリオットの電話が再びブーンとうなった。
こういう時、いい話だという気がしないのは何故なのだろう。
もっとも、最近のエリオットにかかってくる電話は多くない。腕利きのFBI捜査官だった頃とは比べものにならない数だ。彼を担当している理学療法士、大学のアシスタント、彼の父親……せいぜいそれくらいだ。机上のかすかな振動を無視しがたいのは、そのせいかもしれない。まったく見上げた集中力だ。こんな時、タッカーなら電話など見向きも──いや。
あの名前を思い出すつもりはない。
エリオットは、教室の後ろにある時計をちらりと見る。
残り四分。もう充分だろう。
「よろしい、今日はここまで」
何人かの学生が、夢からさめたかのように──事実その通りか?──まばたきした。あちこちで携帯電話がつかみ出され、メールが一斉に飛び交い始める。近頃は、隣にいる相手にすら直接話しかけてはいけないらしい。ノートパソコン、レポート用紙、本などをバックパックにつめこんで、生徒たちが歴史の教室から続々と出ていく。
エリオットは教壇に背を向けた。
「ミルズ教授、よろしいですか?」
レスリー・ミラチェックだった。退屈顔のジョン・サンドスキーを引きつれている。サンドスキーは、エリオットに向けて微笑みかけてきた。
エリオットは問いただすように眉を上げた。気持ちをくじかれたのか、相手の笑みが曇る。
レスリーに向けては、エリオットはもっと親身な声をかけた。
「レスリー、だったね?」
「そ、レスリー・ミラチェック。先生の "映画と歴史" の授業も取ってますよー。アメリカのウェスタン映画のやつ」
彼女は白い歯並びを笑顔で見せつけながら、愛らしいそばかすの鼻先を彼にまっすぐ向け、青い目で見つめた。エリオットは苛立ちを抑える。何も彼女のせいではないのだ、彼の膝が痛み始めているのも、学校内の色あせた小さな日常が、突如として耐えがたいものに思えてきたのも。
「ふむ、それで?」
連れのサンドスキーは携帯でメールをチェックし始める。レスリーが続けた。
「あの、もし……先生が……よろしければ、あたしの、レポートを見ていただくことはできます? ジョン・フォードの映画について。提出の前に?」
見てもいいのだろうか? エリオットはFBIに入る前に博士号を取得していたたが、教師の経験はなきに等しい。暗闇を手探りしているような気分になるのもしょっちゅうだし、大学出たての若い新米教師にまで遅れを取っているように感じる。
「わかった」
ルール違反だったら、次からやめればいいだろう。
「先生の執務時間は、月曜と水曜と金曜の九時から十一時と火曜と木曜の午後二時から四時でいいですよね?」
それでいい、とエリオットが答えられるまで少しかかった。
確認を取ると、レスリーはふたたび輝くような微笑を彼に向ける。
「オッケーです! それじゃ、また明日!」
エリオットはやや気圧されたまま、礼儀正しくうなずき返した。レスリーが我慢強いサンドスキーをつれて去っていく。エリオットは携帯電話を取り上げると、着信を確認した。
父の番号からだった。
こみあげてきた失望に、エリオットは虚を突かれた。
何の、あるいは誰からの電話だと期待していた?
ほぼ無意識のまま、彼はブルックスブラザーズの褐色のレインコートとブリーフケースを手に取った。執務時間と言えば、もう隠れ家にこもる時間である。歩きながら父の電話番号を押した。
彼のオフィスは中庭を渡った向かい側のハンビーホールにあり、大学構内の樹木苑にも近い。雨は上がっていた。刈り込まれた芝生、古風なレンガの建築、天にすらりとのびた白樺とブナの木。その大学の景色はつかの間の陽光に輝いている。サングラスをかけてもいいぐらいのまぶしさだった。
「こんちは、教授!」
自転車にまたがった生徒が、巨大な鳥のように脇をかすめて走り去った。
エリオットはぎょっとする。だが少なくとも、かつてショルダー・ホルスターがあった場所に手をのばすことはなかった。改善のきざしだ。
呼び出し音が鳴り続けていた電話の向こうに、相手が出た。
「もーしもし」
父の声はいつも通り、くつろいで、陽気だった。どうやら勤務中のエリオットに電話をかけてきたのは、家庭の緊急事態からではないようだ。無論、家族が二人だけという今、本当の”緊急事態”があった時に父親本人が電話をかけてくるとも思えないが。
「やあ、父さん。電話した?」
「ああ。調子はどうだ。明日のディナーには来られるだろうな?」
毎週木曜の夜は二人で食事をすることになっていた。エリオットがFBIを辞めた後、この
ピュージェットサウンド大学で教鞭を取るために戻ってきてから始まった習慣だ。
週に一度、父親の家での夕食。それが今のエリオットの社交生活におけるもっとも華やかなイベントである。
「ああ」答えてから、ふっと嫌な予感がよぎった。「何で聞くんだ?」
父親の声の調子が、どこか微妙に変化した。
「夕食に友人を招待しようかと思ってなあ。トム・ベイカーと奥さんのポーリンを覚えてるか?」
「何となく」
歩いてきた二人の女子高生をよける。ブーツとマフラー姿の二人は猛烈な勢いでメールを打ちながら、互いにぶつぶつと呟き合っていた。
「夫婦の息子のテリーは、お前の大学に通ってる。少なくとも三週間前までは、通っていた」
「三週間前に何が?」
「テリーが姿を消した」
「男の子だからな。たまにはやらかすさ」
「この子はそういうタイプではないんだよ。テリーは、本当に真面目な子だ。成績もいい。品行方正だ」
エリオットは素っ気なく言った。「じゃあ、そろそろはじけてもおかしくないな」
「とにかく、トムとポーリンは、息子が自由意志で失踪したんじゃないと信じているのさ」
エリオットは細い階段にたどりついた。階段の上には、上部が弧を描く、弾丸のような形のオークの扉があり、その向こうがハンビーホールだ。ここに限らず、階段を前にするたびにエリオットは不安に胸をつかまれる。
膝の再建手術の後、彼がくぐり抜けなければならなかった痛みの凄まじさは、それまで経験したこともなければ想像も及ばなかったもので、実際に膝を撃たれた記憶すらかすませるほどだった。だが、ここまでの回復は順調だし、今では階段にわずらわされることもほとんどなくなっている。
階段をきびきびと上りきって、エリオットは学舎へ足を踏み入れた。次の授業時間に入っているので建物内は静かだ。重い足取りで道具のカートを押していくメンテナンススタッフのレイへ、エリオットは挨拶代わりにうなずいた。レイはいつも通り、彼を無視する。
エリオットの耳は、アン・ゴールドの教室からこもった笑い声を拾った。そう言えば、アンにそのうち夕食を一緒にと誘われていたが、まだ返事をしていない。社交生活を怠けてばかりいると、いつのまにかつむじ曲がりの老教授になって、ぶつぶつ独り言をこぼしながらインコの世話をしているかもしれない。
閉じたドアの列の前を歩きすぎながら、エリオットは声をひそめた。
「事件だと思っているなら、思うだけの充分な根拠があるなら、警察に行けばいいだろ」
「行ったとも。二人はFBIにまで行ったんだ」
FBIという言葉を聞くだけで、どうしてこれほど胸が痛むのか。
──馬鹿馬鹿しい。
「大学でそんな話は耳にしてないよ」
「シャーロッテ・オッペンハイマーにたのまれて、今はまだ内密にしている」
シャーロッテはPSUの学長だ。犯罪やいかがわしい行為を匂わせるような噂は、野放しにしない信条の女性である。
「俺に何をしろって?」
オフィスにたどりつく。エリオットはブリーフケースを床に置き、鍵を取り出しながら、父らしくもない沈黙が続く電話に耳をすました。
「──ベイカー夫妻と話してやってくれんか」
これには、意表を突かれた。「話せば、何かの役に立つとでも?」
嘆き悲しむ両親との会話なら、散々経験した。愛する仕事を失ったことに何かいい面があるとするならば、おののき、恐怖にうろたえている親や恋人たちの相手をもうしなくてすむことだ。
「話をしてやってくれるだけでいい。彼女を安心させてやってほしい。あの夫婦を、な」
執務室に歩み入ってドアをしめ、エリオットは静かに答えた。
「どうやっても、安心しないだろ」
「そいつはわかっているさ。だけどな、お前はこの手のことに関しては経験が豊富だろ。その経験で、あの二人が事態を切り抜ける手助けができるんじゃないか」
皮肉、ここにきわまれり、だ。
「父さんは、俺がFBIで働くのを忌み嫌ってたろ。腐りきった政府の独裁的な組織で働くなんて俺の人生の浪費だ!と、口をすっぱくして言ってたじゃないか」
「実際、浪費だったろうが」
父、ローランド・ミルズの攻撃的なアナーキスト気質は、歳月を経てなお健在であった。かつては、反戦デモで逮捕されたアビー・ホフマンや左翼の活動家のジェリー・ルービンと肩を並べ、髪に花を挿して革命を叫んでいた男だ。後には、西海岸のかなりリベラルな芸術大学のかなりリベラルな教授となり、前に比べれば平穏で退屈な人生に落ちついている。エリオットは彼の一人息子で、父にとっては三人目の──そして最後の──妻の子供だった。
「違うか?」父がたたみかけた。「万物がお前に与えたすべての素質も才能も、あんなところで空費しおって。しかし今こそ、圧政側で得たその経験を活かす時だ。あの夫婦は友達だし、助けてやらねばならん」
「勘弁してくれ、父さん」
エリオットは窓の外を見つめたが、彼の目はうっすらと光る白っぽい木の幹を見てもいなければ、木々の中に見えるシルバーピンクのつつじの花を見てもいなかった。樹木苑にはまるで木の展覧会のように様々な木が植えられている。
彼が見ているのは、雨の日の風景──木々に囲まれて花崗岩のレンガがひろがる公園の風景だった。オレゴン州ポートランド、パイオニア・コートハウス・スクウェアの一画。弾丸と血に汚れた水たまりの中に失われた日。
……やれやれ。この天気のせいだろう。薄暗く雨がちなワシントン州の冬に、時おり気持ちが負ける。
エリオットは、予兆めいた暗い感覚を振り払った。
「わかった。でもわざわざ夕食に来てもらうこともないよ。すぐ向こうに電話をかける。番号を教えてくれ」
■2
午後遅くになってから、テリー・ベイカーの母親に会いに行こうと部屋を出たエリオットの耳に、アンドリュー・コーリアンの深い声が廊下を反響してきた。
「私の言いたいことがご理解頂けるだろうかな? これは、リアリズムに基づく一元論の話なのだよ。それこそ生そのもの哲学だ。古ぼけたリアリズム、既存の学者が使い古して手あかのついたリアリズムなどではなく、ここで語られるべきは、むき出しの、澱みなき過去からこそ生まれてきた、本質的な理論とその芸術的具現化なんだ。忘れるべきでないのは、芸術は小手先の折衷ではなく……」
まったく──こんな御託を真剣に傾聴する人間がいるのは、大学だけだろう。
エリオットは、オフィスの鍵を締めながら顔をしかめた。
コーリアンは傲慢でむかつく男だが、芸術的才能に恵まれていることは確かだし、どういうわけかこの大学でも人気の高い講師ときてる。コーリアンの政治的スタンス、特に彼いわくの”全体主義的”組織──CIAやFBI──への偏見と皮肉は、当然、エリオットを苛立たせたが、思えば近ごろの自分は何にでも苛立つのだった。
かつては健全なユーモアを持ち合わせていたつもりが、この一年半で、ユーモアセンスまですっかり枯れ果ててしまったのだろうか。一番必要な時に枯れるとは、残念だ。自分の皮肉な立場を笑う気力すらない──父の期待に背を向け、決意も固くFBIでの人生を選んだ筈が、ぐるっと回って、人生の振り出し地点に逆戻りだ。しかも壊れた膝とともに。
その膝が、今や猛烈に痛み出していた。
ぴかぴかの長い廊下を歩き出したエリオットは、あやうく、三人の信者を引きつれて教室から颯爽と出てきたコーリアンとぶつかるところだった。偉大な教授様は授業をしていたわけではなく、ご立派な講釈を垂れていただけらしい。彼の一言一句に目を輝かせているのは、ジーンズ姿のお嬢様たちだ。
「芸術の一貫性というものは、正しく世界を認識してこそ具現化される──さて、錯覚の世界に生きている男がいいところに来た。やあ、ミルズ」
ふざけた奴だ。
エリオットは、挨拶代わりにうなずいた。
「やあ、コーリアン」
アンドリュー・コーリアンは五十代半ばをすぎ、がっしりした大柄な男で、さすがに寄る年波の影響はうかがえるものの、見目もよく、体つきもまだ締まっている。年に先走って薄くなってきた髪の毛をばっさり剃り上げてスキンヘッドにしていたが、この男にはよく似合っていた。両目ははっとするような琥珀色。先端をぴんととがらせた顎ひげは、よく手入れされて誇らしげだ。
片耳に金のイヤリングを光らせてはいたが、これは芸術家気取りからつけているもので、ゲイではない。かけらも。神の恵みだ。
「父上はどうだね?」
お互いに当たりさわりのない共通の話題で、コーリアンがたずねる。
「元気ですよ。とっても。執筆に専念している」
コーリアンはそれを聞いて笑いをこぼした。エリオットの父が書いている”闘争についての回顧録”は、大学内では伝説のシロモノであった。建前上、ローランド・エリオットはこの十年、ずっとその本を書き続けているのだ。とは言え今や出版エージェントもついており、エリオットはあのシロモノが本当に出版される日も遠くないかもしれないと疑っていた。
「ローランドによろしく言ってくれたまえよ」
「了解」
コーリアンは、盛りのつくお年ごろの小娘たちを付き従えながら颯爽と立ち去り、エリオットは苦々しい笑いを噛み殺した。
彼はそのまま建物から出ると、木々の茂る樹木苑の中を抜けていった。
濡れ光る木々の天蓋が細い雨をさえぎり、キャンパスの物音を遠ざけている。やわらかな地面を踏みしめて近道を取るエリオットの耳に届くのは、時おりぽたりと落ちる、雨垂れの音ばかりだった。湿った大地の匂い、杉の匂いや、ゴムの木がまとうレモンのような涼しい香り。
エリオットの車はいつものように、ケンブリッジ・メモリアルチャペルの後ろに停めてある。斜面を問題なく歩けるほど膝が回復してからは、ずっとそうしていた。小さな駐車スペースは、ほとんど使う者がいないため、誰かと顔を合わせる心配もない。学部の駐車場のように、生徒や同僚たちと顔を合わせたり、世間話に付き合う必要もない。
いつものごとく、雨に濡れたニッサン350Zだけがしっとりと光るアスファルトの上で彼を待っていた。ロックを外し、運転席にすべりこむと、エリオットは溜息をつく。ミラーから、疲れたような灰色の目が自分を見つめ返した。
「本気か?」彼は鏡に問いかける。「何でそんなことに首を突っ込む?」
失った人生をまだ手放せないでいるからか。それとも、父親に逆らうのが面倒だからか?
両方かもしれない。
エリオットはミラーに向かって頭を振ると、イグニッションキーを回し、カーステレオのスイッチを入れた。南北戦争のテレビドラマの主題歌、ケン・バーンズの”Ashokan Farewell”が哀愁のある響きで車内の沈黙を満たす。ぐいとアクセルを踏んで、駐車場を後にした。
「テリーについて、聞かせて下さい」
エリオットは、ポーリン・ベイカーから金ぶちのコーヒーカップを受け取りながら、そう言った。
「あっ、ごめんなさいね。コーヒーを飲む時にはクッキーがあった方がいいわよね?」
ポーリンはエリオットの向かいの豪奢なソファに腰を下ろしかけたが、あわててぴょこんと立ち上がる。彼女は四十代、小柄、フランス人形のような整った顔立ちで、髪は、コーヒーカップのふちを飾る金色とコーディネートして染めたかのようなブロンドだ。
エリオットのなけなしの記憶によれば、彼女は二人目の”ベイカー夫人”だった。トム・ベイカーはエリオットの父と同世代で、息子のテリーは彼らの一人息子。予期せぬ授かりものだったのかもしれない。
「クッキーは結構。テリーの話を」
エリオットはふたたびうながした。本題に入ろうとしない相手には慣れている。”お客様をもてなす素敵な奥さん”を演じている間はつらい話と向き合わなくてもすむが、腰を落ちつけてテリーの話を始めてしまえば、息子が消えたという現実をつきつけられる。少しでも時間稼ぎをしたい彼女の気持ちもわかったが、無駄な時間だった。
おずおずと、ポーリンはソファに戻る。カップが空になれば、あっという間にまたお代わりに立ち上がるに違いなかった。きちんとセットされた髪の、耳の後ろの房をなでつけながら、彼女は気が進まない様子でエリオットを見た。
「みんな、いい加減なことばかり言ってるの。テリーは自分でいなくなったりなんかしない。絶対に」
エリオットはうなずいた。
「わかりました。それが何故、警察やFBIは家出だと思ったんですか?」
この問いは失敗だった。ぴょんと立ち上がったポーリンは、キッチンを目指す。
「あなた、今日はあまり食べていらっしゃらないんじゃなくて? 今すぐに──」
そのまま彼女は、バーでよく見るような白いスイングドアの向こうに消えてしまい、エリオットは先を聞き逃した。溜息をつき、彼は座り心地の悪いソファに背中を預ける。
夫のトム・ベイカーは、エリオットの父がやんちゃをしていた時代の”お仲間”だった。女を「シャン」だの「スケ」だのと呼んでいたような時代の話だ。現在のベイカーは弁護士として尊敬されていたが、かつての活動の名残りか、無償ボランティアとしてリベラル派の案件をいくつも引き受けていた。
もっとも、資本主義の享受にはすっかり慣れたのか、家はピュージェット湾を見下ろせる高級住宅街の丘に建ち、モノクロを基調にしたモダンなインテリア、ナチュラルな木の床に、壁はアイボリーやクリーム色の濃淡で塗り分けられている。家具はスタイリッシュでよそよそしい。いくつか抽象画が壁に吊され、作り付けの本棚には民族風の置物が飾られていた。窓のそばには仰々しいポーズをとった大理石のヌード女性が立っている。
この部屋は何というか……生気に欠けていた。
もっとも、エリオットがFBIで学んだ物事のひとつは、インテリアから人間を判断はできないということだ。
キッチンのドアが勢いよく開き、チーズと様々なアレンジのクラッカーのプレートを手にしたポーリンがふたたび現れた。元のようにエリオットの向かいに腰を落ちつけると、彼女は伏せていた目でちらっとエリオットを見て、口を開いた。
「お父様が言ってらしたけど。去年、撃たれたんですって?」
そんなことがありえるのか、というような声のおののきだった。裕福さに麻痺して、普段は暴力の存在を忘れているのだ。息子が行方不明になっているという現実を前にしても、まだ実感が持てないでいる。
「任務中のことですよ。もう十七ヶ月になります」
何ヶ月前のことだろうと、ポーリンにはどうでもいいことだが。
エリオットはばっさりと話を変えた。
「テリーの成績はどうでしたか?」
「よかったわ。優等生ランクに入ってるのよ」
「専攻は何ですか」
「法律。父親と同じ道を目指してるわ」最後の言葉を言いながら、彼女の喉が震えた。
「法律専攻では忙しいでしょう。友達について何か知っていることはありますか? どんなつきあいがあったのか」
エリオットはテーブルの上のソーサーに、カップを戻した。
鉄と大理石のコーヒーテーブルの上で、ポーリンはチーズプレートの位置を注意深く整え直している。
「テリーはにぎやかに騒いだり出かけるのは好きじゃなかった。友達は、いるけど。人と問題をおこすようなこともない。とにかく物静かで、真面目な子よ」
そして孤独な子供。エリオットはそう思いながら、たずねた。
「ガールフレンドはいましたか?」
ポーリンは首を振り、なおもチーズプレートをぴったり完璧な位置に置こうといじっている。
「決まった子は、誰も……」
あいまいな言い方だった。
「では、よければ、覚えている名前を書き出していただけませんか。男でも、女でも、思い出せた友達は全員。最近、誰かともめていた様子はありませんか? どんなささいなことでもいいんですが」
「ないわ」今度はきっぱりと答えた。「テリーは誰かともめたりするような子じゃない」
「わかりました。最後に彼と会ったのはいつです?」
ほんのわずか、彼女の緊張がゆるんだ。日常の会話のような、安全な話題だからだろう。
「二週間少し前のことよ。九月の二十七日。夕食をうちで食べたの。大学寮に住んでいるのだけれど、月に何回かはうちにディナーを食べにくるのよ」彼女は悲しげに微笑した。「それと、汚れ物をうちで洗ってもらいにね」
エリオットはうなずいて、先をうながした。
「その日、彼の様子はどうでしたか?」
「別に、何も」
……成程。
「その後、十月の一日に、テリーは姿を消したんですね」
ポーリンはぎくしゃくとうなずいた。
「それから何の連絡もありませんか? 誰からも?」
「ないの。警察やFBIが、テリーが自分で失踪したと考えてるのはそのせいなのよ。誘拐なら、もう誘拐犯から要求が来ている筈だって」
「確かに」
エリオットはなるべくおだやかに言ったつもりだったが、ポーリンはすでに首を振っていた。
「これだけ時間がかかる理由が、何かあるのよ。そうでしょう? テリーが自分から家や家族を捨てて──人生を捨てて消えたなんて、馬鹿げてる。それくらいなら、何だってありえる筈よ」
エリオットをじっと見つめながら、彼女は今にも泣き出してしまいそうだった。
「あの子は自分からいなくなったりしないわ。私がどんなに傷つくか、わかっているもの。どれだけ私が──私と夫が──心を痛めるか知ってる。そんなひどいことはしないわ」
「信じますよ」
この短い一言が持つ力を、エリオットは存分に知っていた。何度も何度も、その威力を目の当たりにしてきた。
今回も変わらず、ポーリンはたちまち落ちつきを取り戻した。
「では、身代金の要求や、書き置きや──」
「遺書もなかったわ」
「遺書もなかった、と」
エリオットはくり返した。たしかにこういうケースでは自殺の可能性は外せないが、それにしてもポーリンの言い方は、まるで誰かに息子は自殺だと断定されたことがあるようだった。誰にだろう。そしてその根拠は?
ポーリンは震える声で続けた。
「FBIの人は、たとえ誘拐犯がテリーを殺したとしても、必ず私たちに何か言ってくる筈だと……」
「ええ」エリオットは彼女の視線を受けとめた。何とも嫌な役回りだ。昔からずっと、この部分が嫌でたまらなかった。「申し訳ないが、そうした可能性は捨てられない。テリーが何らかの事故や、アクシデントに巻きこまれたということも考えなければ──」
「嫌よ」
ポーリンは立ち上がる。エリオットの言葉に背を向けて逃げ出したい衝動を、やっと押さえ込んでいるのがわかった。
「あの子は死んでないわ。私にはわかるもの。もう死んだなら、何か感じる筈よ」
彼女の手は固く握りしめられ、胸元を抑えた。
「絶対に……」
これまで幾度、エリオットが同じような言葉を聞いたことか、それは知らぬ方が彼女の幸せだろう。一日すぎるごとに子供が無事に帰ってくる可能性は下がっていくが、彼らの場合はまだ三週間だ。三年ならまだしも、三週間であきらめる親などどこにもいない。
エリオットは、低くおだやかな調子を保ちながら、続けた。
「ただ、あらゆる可能性を考慮する必要があるんです。どんなものでも」
ポーリンは首を振ったが、とにかくまた腰を下ろす。
「わかってるわ。ただ……警察やFBIからは、そんな話ばかり聞かされてるの。今は、逆側から見てくれる人が必要なのよ。私たちの味方、テリーの味方の側から。あなたがもうFBIで働いていないのは知ってる──ローランドが話してくれた。でもあなたは、こういうことには経験がおありでしょう? 何がしかのものはお支払いできます。コンサルタント料とか何とか、名目はどうとでも……あなたのお好きなように」
「そんな必要はありませんよ」
「お支払いさせて下さい。私から……私たちから」
私たちとは自分と夫か、それとも自分と息子のテリーのことだろうか? どうでもいいことだ。それにエリオットは彼らから金を受け取る気はない。考えるだけで気が重い。
「とにかく、力になります」エリオットは彼女を落ちつかせた。「ただ、わかっていてほしいのですが、何も保証はできません。それに私には、警察やFBIの捜査情報を得るようなツテもありません。実際のところ警察は全力を尽くして捜査しますし、はたから見ると納得できない部分もあるのはわかりますが、充分な能力を持っているんです」
「そうね」ポーリンは、エリオットの意見をあっさりと右から左へ流した。「でもあなたが助けて下されば、私たちも心強いわ。それに私たち、あらゆる助けがなくては……」
彼女の声が崩れた。きつく握り合わせた両手指を見おろす。
こんなことに関わるのは、まちがいだ。
エリオットにははっきりとわかっていた。自分の人生すら、まだ一から組み立て直している最中なのだ。誰かの人生の穴を取り繕ってやるような余裕はどこにもない。わかっていたが、それでも勝手に口が動いていた。
「わかりました。精一杯、やってみましょう。FBIの捜査担当者は誰です?」
「ランス特別捜査官よ」
ポーリンの言葉が切れた後、続く沈黙の中、エリオットは飾り棚の時計が刻む残忍な針の音を聞いていた。
チック、タック。
チック、タック……
心臓がとまったようだった。それでもありがたいことに、時計は時を数えつづけるのをやめない。
エリオットは、そっとたずねた。
「タッカー・ランスですか?」
「上の名前までは……大きい人よ」ポーリンが細い肩幅より大分広げた両手で、幅を示した。「髪は赤かったわね。目は……青?」
「彼だ」
エリオットの口の中は砂漠のように乾いていた。心臓は大きくねじれ、それからやっと鼓動を打ち鳴らし始める。直感を信じるべきだったのだ。この件に関わるのが大間違いだとわかっていた筈だ。案の定、その勘はこれ以上ないタイミングで真実に化けた。
「彼は、どうなの?」
ポーリンが心配そうにたずねる。
それには嘘をつかずにすんだ。
「腕利きですよ」
仕事に関してなら、まちがいなく。人間相手の腕前は……いい時は最高。だが、悪い時は……決して関わり合いになってはいけない相手だ。
──昔の恋人に、聞いてみるがいい。
--続きは本編で--