フェア・チャンス
All`s Fair3
ジョシュ・ラニヨン
■1
「君は来るとわかっていたよ」
アンドリュー・コーリアン、今や“
彫刻家”として知られる男は、昔どおりの微笑を浮かべていた。とてつもない自信と、やや蔑むような。この瞬間まるで彼は、ピュージェットサウンド大学で自分のオフィスに座っているかのようだった——シータックにある連邦拘置所の接見室ではなく。
「そうだろう」とエリオットは答えた。
コーリアンの力強い手は、太い手首に手錠をはめられ、樹脂のテーブルに置かれていた。その指を広げ、手のひらを上に向けて、テーブルをはさんだプラスチックの椅子に座るエリオットへ「くつろいでくれ」と言いたげな仕種をする。
FBIシアトル支局のモンゴメリー支局長の依頼を受けたその瞬間から、エリオットは己の決断を疑ってきたが、コーリアンの態度の傲慢さはその疑いをはっきり裏書きするものだった。この“
彫刻家”から有益な情報が得られるとは思えない。
「君が抗えるわけがないだろう」とコーリアンは言っていた。「この一度、またヒーローを演じるチャンスだ。自分のほうが私より優れていると思いこむチャンス」
「図書館で心理学の本でも読みあさったのか」
エリオットはテーブルの上で両手を組み、何気ない仕種で室内を見回した。
FBIにいた頃、接見室には幾度も入った。無彩色。頑丈な備品。防弾の曇りガラスを覆うステンレスの金網。ドアの外の看守。
透視鏡に至るまで、見慣れた光景だ。
その鏡の向こうに立っているのは、タコマ市警殺人課のパイン刑事と、FBI特別捜査官ケリー・ヤマグチの二人。
パインとヤマグチが何か見逃したとしても、頭上のカメラがこの接見を録画している。
コーリアンは、ヘイゼルの奇妙な色合いの目——業務用ライトの寒々しい光でほとんど黄色に見える目を、エリオットの嫌味に細めたが、大きな笑みは揺らぎもしなかった。複数回の終身刑を目の前にした男にしてはやけにご機嫌だ。
「
君を理解するのに心理学の本を読む必要などない、ミルズ。君の心理は単純きわまりない」
「だが俺のことはもういいだろう」とエリオットは応じた。「あんたが大好きな話をしようじゃないか。あんただ。もっと正確に言うなら、あんたが、俺に会いたがった理由だ」
コーリアンが後ろにもたれると、囚人服の粗いカーキの布地がきしんだ。漫画家が描き出す悪魔っぽい姿だ。つやつやした禿頭、完璧なヴァン・ダイク風の口ひげと顎ひげ。元から大柄だったのが、刑務所でもっと大きくなった。固く鍛えられて、毎食ごとに筋肉増強剤を流しこんでは自由時間に筋トレ三昧といった様子だ。筋トレはあながち的外れでもないか、裁判をじっと待つ間はろくにすることもないだろうし。まさに、血塗られた手で捕らえられたのだから。それも、十五年以上に及ぶ惨殺と人体切断の罪で。
コーリアンが言った。
「会いたかったわけではない。君に訪問の許可を与えただけだ。それだけのことだ」
「二ヵ月で二通の手紙を送りつけて? 文通してるようなものだぞ。よせよ、コーリアン。あんたは俺をここに座らせて、自分がどれだけうまくやったか得々と語りたいんだろ。我々すべてに比べて、今もなお、己がどれだけ卓越した存在か」
コーリアンの笑みが大きくなった。
「それだけが理由ではないがね」
「だが大きな理由だ。あんたには被害者遺族たちの苦しみを終わらせる気なんかさらさらない」
接見室の中は静かだった。分厚い防音扉の向こうの不協和音がけたたましく聞こえるほどに。看守の怒鳴り声、テレビの大音量、囚人の叫び声、業務用の配管の絶え間ない轟き、無線機の雑音、鍵が鳴る音、鉄扉が叩きつけられる音。
「君には決して私は理解できんよ、ミルズ」
「それは間違いない」
「だが君は、私を恐れている」
エリオットは溜息をついた。
「いいやアンドリュー、恐れてはいないよ」
お互いファーストネームで呼び合う仲であったことなどない。コーリアンが答えた。
「恐れるべきだぞ、
エリオット」
「下らない」
飽きたような、関心のない口調をあえて保った。どれだけ緊張しているか、コーリアンに決して嗅ぎつけられてはならない。
「俺をここに呼んだのが狼少年ごっこの練習台がわりなら、お互い時間の無駄だったな」
エリオットは立とうとするように椅子を引いた。
コーリアンが背をのばし、憤慨の息をついた。
「まったく君は。人を口説きたければ、まず一杯奢るのがせめてもの礼儀だと知らんのか」
ある意味で笑えそうなぐらいの立腹ぶりだ。
「いいか、手紙を書いてきたのはあんただろう。俺のほうはあんたとの
関係を——そう呼びたいならな——続けたいわけじゃない。今さら終止符など必要ない。檻が閉まった時、俺にとっても事件は終わったんだ」
完全な真実ではない。捜査に関わった全ての人間と同じくエリオットも、コーリアンが裁かれて有罪が決するまで心底から安らげはしないのだ。最高の警備の刑務所にコーリアンが時の終わりまで閉じこめられるという確証がほしい。繰り返される裁判の延期は、誰もの神経をすり減らしていた。
コーリアンは厚かましくも、傷ついたような顔をしてみせた。一部は演技だが、全部ではない。サイコパスの彼にとって、自分自身の痛みや不満はとてもリアルなものなのだ。他人の苦しみにまるで共感しないだけで。
「君は、私から欲しいものがあるだろう。すなわちそういうことだ、少しは礼節というものを見せたまえ。数分間の知的な会話。せめて、君に可能な範囲でな」
エリオットは冷たくコーリアンを見つめ返した。
「いいだろう。だが時間はあまりない。何か言いたいことがあるならさっさと言ったほうがいい」
コーリアンがニコッとして、椅子にもたれた。
「秋の学期はどうだ? 大学は、私の代役に誰か雇ったのか?」
「そんな、まさか。あんたの代役は誰にもつとまらないさ」
「まさしくね」その嫌味にもコーリアンは微笑んだだけだった。「ローリーはどうしてる? 彼の本、読んだよ。思えば皮肉な話じゃないか、六十年代の名高い過激派の一人息子が、FBIに入るなんてね」
「ああ、皮肉な話だ。世間話はそろそろいいか?」
コーリアンの笑みが消えた。
「いいとも。聞きたまえ」
「今日までに、ブラック・ダイヤモンドにあるあんたの家の地下室から十六体の死体が発見され、被害者の総数は二十三人になった。これですべてか? 頭数は合っているか? それともほかにもいるのか?」
「
頭数ねえ」
コーリアンの微笑はまさにメフィストフェレスのようだ。一部は演技。一部は、ただ彼の持つ……邪悪。
古い言い方だ。だが基本的に正気——少なくとも法的には——なのに残酷非情な殺人者を、ほかに何と呼ぶ? 問題は、法が狂気を測る方法にあるのかもしれない。だが、より大きな問題は、コーリアンのような怪物を見つけて捕らえた後の社会の対応なのだ。エリオットは、死刑は野蛮な手段だと信じて育ってきた。文明社会にそぐわないものだと。だが怪物を大事に飼っておくことがより良い答えなのだろうか?
「そこにこだわりたいなら」とエリオットは言った。「被害者の頭を、一体どこにやった?」
「興味深い問いだ。どうしていくつかの肉体は埋められ、いくつかは彫刻の中に使われたのだと思うかね?」
コーリアンもエリオットと同じく、観客の目があることをよく承知している。人間と機械の目の双方が。
「さっぱりだ。あんたも言ったように、俺にはあんたが理解できないからな。どうして若い男だけを狙った? あんたはゲイじゃない、どうして女を狙わなかった?」
「それじゃ何の歯ごたえもないだろ。それに、女性は好きだしね」コーリアンはエリオットの返事を待たずに続けた。「私の番だ。どうしてすべての死体に頭部が欠けていると思う?」
ゲーム。コーリアンにとってはすべてがゲームだ。これもまた、新たな。
「被害者の身元をわかりづらくするためだろう」
その言葉を熟考するように、コーリアンは首を傾けた。
「ふうむ。かもな。たしかに、それも一理あるだろう。だが君は、歴史を学んだ学問の徒だ。前例と可能性にもよく通じているんじゃないか?」
儀式的な
人肉食いという仮説には、すでにエリオットも思い至っていたが、それでも胃が嫌悪感にねじれた。
彼を見つめて、コーリアンが言った。
「おぞましく思っているな、ああ。だが同時に、魅了されてもいる」
「何よりも気が重いよ。俺が大事なのは、行方不明の我が子がお前の毒牙にかかったのではないかと知りたい、知る権利のある、家族たちのことだ」
「権利などわずかもあるものかどうか。結局のところ彼らが親として失格だったから、子供たちが行方不明になっているのだからね」
「まったくだ」とエリオットは返した。「若者たちがさらわれてお前の……芸術のために切り刻まれたのは、すべて両親のせいというわけだ。何か、記録や分類の手段はあったのか? 時間が経った今からでも、残った遺体の身元がわかるような?」
「残ったって? 残りなんかあると考えてるのか」コーリアンはニヤニヤしていた。「無駄は出さないのが節約の秘訣さ」
たやすくはなかったが、エリオットは視線をまっすぐ、無表情を保った。
「今問題にしているのは、お前の地下室から発見された十六体の死体についてだ。身元を知る方法は何かしらあるのか?」
「それはもう取引の領域だな。まあお互い、君に取引を申し出る権限などないことはよく知っているがね」
「なら俺がここにいる理由は?」エリオットは鉄網に覆われた窓を手ぶりで示した。「これにどんな意味がある?」
コーリアンは、深々と考えこむふりをしてみせた。
「いくつか理由があるねえ。まず何よりも第一に、君を呼ぶと君の恋人をカッカさせられる。特別捜査官タッカー・ランスを」
この男は、それに関しては正しい。
「そうか」エリオットは淡々と応じた。「今はさぞや楽しいだろうな。だが陪審がすべての証言を聞き届けた後では、笑いものはお前のほうだ。その時に取引しようとしてももう遅い」
コーリアンの目がギラリと光った。
「何故、と聞きたくはないのかい? どうして私があんなことをしたか。どうして殺したか」
「理由などわかっている。貴様がイカれた病気野郎だからだ」
それは真実。間違いではない。だが、コーリアンのような人間を理解できる可能性はないと知っているエリオットですら、ふと問いかけてしまう時がある。どうしてなのか、と。遺族となればなおさら知りたいだろう。教えてほしいと、この数々の惨劇の理由を解き明かしたいと願うだろう。
どうして、あんなことが起こり得るのか——。
愛するものを気ままな凶行で奪われることほど悲惨なことがあるだろうか。
きっとない。だがたとえ、ある殺人鬼の異常心理を解き明かせたところで、次の相手に同じ理屈は通じない。少なくとも、彼らの犯行を止める役には立たない。
それでも何らかの理屈がつく、ということはありえる。だが今回はそれすら無意味だ。
コーリアンの唇が嘲りに歪んだ。
「つまらぬことを言うものだな」
「そうか? でも事実だろう。だから、どうでもいい」
立ち上がったエリオットの椅子がキキッと擦れた。
「帰る気か?」コーリアンは驚きの色を隠せずにいた。
すでに背を向けていたが、エリオットはちらりと後ろを見た。
「ああ。することも、行くところもあるんでね。お前の、責任能力なしの申し立てリハーサルにつき合ってやるつもりはない。それに、お前にはこっちの知らないことを何も話す気がない以上……」と肩をすくめる。
コーリアンは立ち去られることに慣れていない。少し引きつった笑みで言った。
「それはどうかな?」
エリオットは微笑した。ドアへ向かう。
ブザーに手をのばした時、コーリアンが言った。
「ミルズ。さっきの話だが。恐れるべきは私という個人だと、君に言ったつもりはない」
看守がドアを開ける。エリオットはコーリアンへ最後の一瞥をくれた。
「ああ、そうだろうとも。俺の
因果応報の心配をしてくれてるんだろ?」
「いいや」ニヤッとしたコーリアンは、いつも以上に悪魔的に見えた。「違うよ、君は恐れる
べきだ。ただ、私をではない。
私の仕事はもうすんでいる」
「そこに異論はないね」とエリオットは返した。「我々からの退職祝いを楽しみに待っていてくれ」
「あいつは上機嫌のようだ」
接見室のドアが重い、断ち切るような音を立てて閉まると、看守がそんな感想を言った。
その看守は見たところ二十代の半ば——から後半。中背、筋肉質、どこか少年っぽい。コーリアンの好みのタイプ、と当人は知るまいが。
「最高に」エリオットもうなずく。「だが誰でも来客は好きだろう?」
隣りの見学室に入ると、ヤマグチ特別捜査官——複数の捜査機関が組んだコーリアンの裁判対策チーム内のタッカーの次席——はすでにいなかった。どうせシアトル支局に帰ってモンゴメリー支局長に「案の定でした!」と言いたくてたまらないのだろう。
彼女だけの意見、というわけでもない。
「時間のムダだったな」とパイン刑事が結論づけた。
彼とエリオットの関係はいい時ばかりでもなかったが、今回ばかりは協力関係だ。パインは背が低く、黒髪で、そして出世欲にあふれ、エリオットより数年若い。自分にはすべてが把握できていると信じこむくらいに若い。すべての把握なんてものが可能だと信じられるくらいに若い。
「そう言っていいね」とエリオットも同意した。
「どうしてあいつは、あんたにあそこまで会いたがったんだろうな?」
「一人で寂しかったとか?」
パインが苦い笑い声を立てた。「あんたの素敵な話術のおかげかもな。俺も、あんたが出てこうとした時にはコーヒーを口から噴き出しそうになったよ」
「出ていったほうがマシだったかもな、あの程度の話しか聞けないようじゃ」
パインが肩をすくめた。
「話の糸口にはなったんだ、役に立つかもしれないさ」とは言ったが、口調からするとパイン自身信じてはいないようだ。
「そうかもな」
エリオットも信じていない。
少しして、駐車場へ向かう途中でパインがたずねた。
「どう思う、あいつ、本気で共犯者がいると言おうとしてたのかね?」
外に出ると、ほっとした。胸に新鮮な空気を満たし、顔に陽光を浴びる。刑務所のよどんだ、金属的な、消毒臭のする空気をすっかり忘れていたのだ。うっすら漂う薬品のにおいは、汗や小便、多すぎる人数を狭いところに長時間詰めこんだ場所につきものの臭気をごまかすためのものだ。
パインが続けた。
「“
私の仕事はもうすんでいる”ってのは、そういう意味だよな? どうして今さら共犯者のカードなんか切る」
エリオットは首を振った。たしかに共犯者の話を持ち出すには今さらすぎるタイミングだ。だがコーリアンがやっているのは自分だけのゲームなのだ。気まぐれにルールが変わる。
「弟子か、助手か。誰にわかる?」
「まあな。殺人狂野郎めが」とパインがぼやいた。
コーリアンは異常者だ、異論の余地なく。そしてあの奇妙な虚無の瞳をまた見つめなくてすむなら、エリオットはこの上なく満足だったのだが。それでもコーリアンからの招待を蹴るという選択は自分には許されていない気がしたのだった。これほど多くの、悲嘆に暮れた人々が答えを求めている時に。
水曜というのはこの刑務所にとって通常の面会日ではなく、ゆるい斜度のついた広い駐車場は空っぽに近かった。エリオットの車は、ひょろっとしたカエデの木陰に駐車してあった。カエデの葉は九月の陽の下で早くも黄色に変わりはじめていた。
「無実の申し立ては無理だろ」とパインが言った。「山と積み上げた証拠があっちゃ、さすがに。あいつだってまさか——」
「いやもちろん、無実を主張するさ」
パインの無邪気さに、エリオットはほとんど感心した。
「誰もが無実を主張するんだよ。弁護士はもう心神喪失による無実の主張の叩き台を作っているし、どれだけ頭のタガが外れているか証言させようと証人を引っ張ってくる気だ。実際、あの男は異常者だがね。ただ法的には違うだけで。今のところは。だから、そうだ、きっと無実のカードを切りにくるだろうよ。今さらそれで失うものがあるか?」
何もない。誰もがわかっている。コーリアン自身も。
パインがぼそっと「じゃあ、また午後の会議でな」と言った。
エリオットは別れの手を上げてパインと離れ、自分の銀のニッサン350Zへ大股に向かった。
パインが足を止める。振り返った。
「ミルズ」
車の鍵を開けていたエリオットは顔を上げた。
「もし、あの野郎が言ってた共犯者の話がでたらめじゃなかったら……」
エリオットはうなずいた。
「ああ。そのことは考えた」
■2
シートベルトを締めていると携帯電話が鳴った。タッカーから電話が来るだろうと思っていたが、表示された写真は父のものだった。
何年も前の写真だ。ローランドの髪とひげが白くなりはじめるより前の。写真のローランドは丸眼鏡越しにこちらを威圧的に睨み、まるで人権問題についての革新的なエッセイの執筆に邪魔でも入ったような顔をしている。実のところ、単に写真を撮られるのが嫌いなのだ。
エリオットは携帯をつかみ、受信を押した。
「やあ、父さん。電話しようと思ってたんだ。明日のディナーはちょっと都合がつきそうになくて」
今でも二人は、毎週木曜にディナーを共にしていた。エリオットがFBIを辞めて
ピュージェットサウンド大学での教職に就くべく帰ってきた時からの二人の習わしだ。だがこの週末、タッカーが再会したばかりの実の母に会いに行くことになっていて、その旅行の前にエリオットは二人きりの静かな時間を持ちたかった。そういうくつろいだ時間は貴重なのだ、今の二人のスケジュールでは。
『気にするな』とローランドが言った。『俺がかけたのは月曜の審理のことでだ』
「審理……」
上の空で返しながら、エリオットの頭はまだコーリアンとの対面のことでいっぱいだった。
(恐れるべきだ)
子供の脅しみたいなものだろう。お化けだ、逃げろ! コーリアンは嘘をついている。でたらめのはずだ。どんな証拠も、物理的にも行動原理的にも、共犯者の存在をうかがわせるものはない。その上、コーリアンは他人とうまくやっていける性格ではない。彼が己の秘密を誰かと分かち合うところなど想像もできない。
ただし……観客なら、コーリアンは大好きだ。
『ノビーの審理だ』
ローランドが、彼らしからぬ冷ややかな言葉で、エリオットの思考を破った。
あるいは、かつては珍しかった冷ややかさか。夏の出来事以来、エリオットと父の関係はまだ張りつめたものだった。週に一度のディナーは続いたが、それだけで——そしてそのディナーも、一度と言わずエリオットに深刻な胃もたれをもたらすことになった。ローランドの手料理のせいではなく。
「そうだった。ごめん。審理か」
『お前はノブのために証言するのかしないのか、どっちだ?』
エリオットの心が沈んだ。ローランドは前にも一度この話を持ち出したし、その時エリオットは自分にはオスカー・ノブ——父の昔の革命仲間——を弁護する情状証言はできそうにない、と言ったのだ。ローランドはそれに反論しなかったが、単にタイミングをうかがっていただけだとエリオットも覚悟するべきだった。ローランド・ミルズがおとなしく引き下がるわけなどなかったのだから。
「父さん、俺の気持ちはもう言ったはずだ」
エリオットの言葉がろくに終わらないうちにローランドが嚙みついた。
『どれだけ重要なことかお前もわかってるだろ。お前がちょっとしゃべって情状を求めるだけで、ノビーが執行猶予になるか、この先まだまだ檻の中ですごすかを分けるかもしれないんだぞ』
エリオットは目をとじ、ぐっとこらえた。
「また後で話さないか? 今、ちょっと忙しくて」
『要するに、逃げる気か』
「いいや、ただ単に——今あれこれ議論をしたくないんだ」
自分の口から出た言葉にひるんだ。この話が
議論になるということは、オスカー・ノブのための証言をエリオットが拒むという意味だ。
ローランドもそれを見抜いていた。
『お前には思いやりの心がないのか?』
「父さん」
『刑務所行きなら、あいつは死ぬぞ。なじめるわけがない。お前もわかってるだろう』
たしかにわかっていた。この場合、刑務所というのは正しい答えではないのだ。コーリアンにもそれが答えにならないように。ここにいい解決法はない。父が打ち出した計画にエリオットは猛反対していた——ローランドがノビーの農場に滞在し、自分の家が再建されるまでノビーが立ち直るのを助ける、という計画に。
エリオットは、地平線を大きく占めるコンクリートの灰色の壁を見つめた。五百名以上の囚人が、このコンクリートの砦に投獄されている。
「禁固刑になる可能性は低いだろ。トム・ベイカーの見事な弁護ぶりもあるし——それに実刑になるとしたって、ノビーはもうそのかなりの期間を拘留されてる。どこかに入れられるとしてもずっと——」
『マジで言ってんのか?』
ローランドは気が立つと——まあそうでなくとも——昔のしゃべり方が顔を出す。
『お前は随分と司法のシステムを信用してるもんだな。だがな、年をくって健康に不安があるってのに、逃亡の恐れありとして連邦政府から保釈を拒否されたのはお前じゃないんだぞ』
いつだろうとローランドはひたむきに声を上げつづける。四十年経ってもなお友に愛され、なお敵に憎まれつづけるだけのことはある。
「わかってるよ。別に俺は——」
『そりゃ、お前の人生や暮らしが邪魔されたわけではないしな』
こらえようとしていたにもかかわらず、エリオットの声が大きくなった。
「そんな、忘れてるんじゃないか——」
『何ひとつ忘れるもんか。あれは俺のところから始まったんだ、だろう? お前じゃない。ノビーが俺たちのどちらかでも殺したかったなら、俺たちは死んでた。お前とお前の
ボーイフレンドが事態をあそこまでこじらせたんだ』
ボーイフレンド、という言葉を刺々しく強調したのはエリオットの性的指向への当てつけではない。この言葉はローランドの妥協の産物なのだ。本当は「ストームトルーパー」だの「ナチの手先」だの昔なつかしの「ポリ公」だのと言いたいところを。どういうわけか、夏の一件でのローランドの怒りの大部分はタッカーに向けられていた。タッカーはほぼ傍観者のようなものだったのだが。最後の対決にまでこじらせたのはエリオットのほうだった——そういう視点であの出来事を断じるならば。
エリオットは鋭く息を吸い、怒りの言葉を呑みこんだ。父を愛している。タコマに戻ってきての最高の役得は、父との関係を築き直せたことでもあった。あの夏の出来事まで、二人の仲はここ数年で一番親密だったのだ。この重苦しい数ヵ月はエリオットの心にものしかかっていて、ここで二人の間の亀裂をさらに広げるような言葉を吐いて事態をこれ以上悪化させる気はなかった。
静かに、言葉を選んだ。
「父さん、この話は平行線だ。俺は、正直言って、今回父さんのたのみには応えられない。ごめん。ほかに力になれることがあるなら協力するから」
『それはお優しいことだな』とローランドが言った。『残念ながら、お前は唯一可能な方法を拒否したんだ』
電話が切れた。
エリオットは一瞬携帯を見つめてから、それをシートに放り投げ、車のキーを回した。
アンドリュー・コーリアンがかつて住んでいた住居は、英国のチューダー様式の“コテージ”で、ブラック・ダイヤモンドの田舎町にある十二エーカーの広さの鬱蒼と茂る森の中にあった。
ソーヤー湖にも近く、レニエ山とカスケード山脈の心洗われるような景色が見える、贅沢きわまりない立地だ。コーリアンは残念なことに、心を清められることもなく殺人という行為に手を染め、おそらく湖は、幾人かの犠牲者を捨てる格好の場所ともなったのだろう。
エリオットは並木にはさまれた広い引き込み道に車を停め、降りた。時刻は昼下がり。秋の陽は強かったが、刈り立ての芝生と松の匂いがして空気はさわやかだった。木の優美な両開きドアへ続くレンガの小道の横に、赤と青の“売家”の看板が立てられ、風がいたずらにそれを揺らしていた。この家にエリオットが招かれたことは一度もなかったが、犯罪現場写真で山ほど見たし、鑑識の作業が終わった後でもタッカーについて敷地内をもう一度、ぐるりと見て回った。
今日、エリオットが見に来たのは家そのものではなかった。彼は家の裏へぶらりと向かうと、芝生や花壇、納屋を眺めた。法人類学者たちがレーザースキャナーやほかの観測装置を手にこの敷地をしらみつぶしにしたが、何ひとつ犯罪につながるものは見つからなかった。あるいは有用な証拠は。それでも……。
場所の波動を感じるなんて、エリオット自身真っ先に笑いとばしたいところだが、この場所には不安をかき立てられる何かがあった。
ヤバい空気、と父なら言いそうだ。
たしかに、黒枠つきの白壁の奥での二十件以上の殺人ほど、ヤバい空気を生みそうなものはそうそうあるわけがない。
鳥がさえずり、歌の途中で止まった。エリオットは静寂に耳を澄ませた。
とても静かで、隔絶された場所だ。広大な土地と高々とそびえる木々が、コーリアンの孤高を守ってきた。人でにぎわう都市で血なまぐさい凶行をやってのける
連続殺人犯があれだけいるのだから、コーリアンがここで長年誰にも気づかれずに犯行を続けてこられたのも不思議はない。
一番近い隣人はエディ・ホープとジーナ・ホープ——老齢の夫婦で、東側の木々の壁の向こうに別荘を持っている。それと、道の一キロ半ほど先に居住している中年の未亡人。
何か聞いたり目撃したとすれば、まずはその女性、コニー・フォスターだろう。だが捜査班の聴取では何も出てこなかった。
エリオットは家の方へ向き直った。彼が住みたいと思うタイプの家ではないが——新しすぎるし派手すぎる——ほとんどの人間は美しい建築だと言うだろう。
表面的には、コーリアンはすべてを持っていた。健康まで含めて。金銭的な余裕、楽しんでいたように見える教職の終身在職権、芸術家としての名声を追求するだけの時間、きらびやかな社交生活。一体何が足りなかったというのだ——内的要因だろうと外的要因だろうと——シリアルキラーと化すような、何が?
主導、支配、捜査。それがキーワードだ。あらゆる暴力犯罪者が求め、衝動的に手に入れようとするのは、己の欠落を埋める何かなのだ。だが表層的にはコーリアンには何の欠落もない。これが欠けている、とたくましい胸板に名指しでタトゥーが入っていようとコーリアン自身も認めはすまい。
なら、どういうことだ?
赤ん坊の時のスキンシップ不充分? 小学校でのいじめ? 思春期の虐待?
遺伝か環境か、というのは昔からある議論だ。何が怪物を作り出してしまうのか、誰も本当には知らない。
それに結局のところ、何の意味がある? 二十人以上もを虐殺した動機が、まともな人間にとって納得いくものであるわけがないのに。
エリオットは敷地の周囲を歩きつづけた。空の高いところでは飛行機が音もなく、どこまでも澄んだ青さを横切っていく。
興味深いのは、あるいはとにかく嫌な気分にさせられるのは、コーリアンがわざわざ近隣の森ではなく自宅の地下に死体を埋めていたことだ。森に埋めていれば、まだ無実を主張することだって——。
エリオットの思考は、左手の藪を何かが動き回る音で破られた。心臓がぎょっと跳ね、どれだけ身構えていたのか示すようにグロックに手をのばし——そして、銃は家の床下金庫にしまったままだと悟る。元連邦捜査官で、それも高評価で職を去ったエリオットは、拳銃携帯の許可を特別に与えられていたが、武装して家を出る習慣はない。大学と銃というのはあまり好ましい組み合わせではないだろう。全米ライフル協会がどんな綺麗事をぶち上げようが。
だが、コーリアンに共犯者がいたかもしれないという今日の暴露を思うと、拳銃携帯を考えたほうがいいかもしれない。
すべての事態を銃で片付けられるわけではないが——その証拠に、びしょ濡れの犬が茂みをかき分けて出てくると、警戒心丸出しで数メートルの距離からエリオットを見つめた。
エリオットは肩の力を抜いた。少し馬鹿みたいな気分で、まだ鼓動が跳ねている。
「やあ、ワンちゃん」
犬はか細く鳴き、そろそろと前へ出たが、耳をぺたりと伏せてまた下がった。ボーダーコリーの一種だ。淡い灰青色と白黒の毛皮。澄んだ水色の目。たしかこんなぶち模様には名前があった。ブルー・マール。
野良のようだった。泥だらけになった毛皮ごしでも、すっかり痩せているのがよくわかる。
コーリアンは犬を飼っていただろうか? その犬がはぐれ、捜査関係者や支援団体の人間がぞろぞろ家をうろつく間、独力で生き延びてきたとか?
「おいで」とエリオットは手をのばした。
犬はクンと鳴き、じりじりと近づきながら熱心にしっぽを振りたくった。甘えたいけれどもひどく警戒してもいる。
「ほら、こっちにおいで………」目を凝らした。「……お嬢ちゃん」
首輪をしているだろうか? よく見えないし、犬が怯えすぎていてつかむのは難しそうだ。
またか細く鳴きながら、犬がエリオットのほうへ鼻を近づけた。
「ああ、いい子だ」
冷えた鼻先が、エリオットの指先を用心深く嗅ぐ。
エリオットが膝をつくと、犬は恐怖でとび離れ、数メートル先の手の届かないところで立ち止まった。
「大丈夫だよ。大丈夫」
犬は彼を見つめた。鼻先から尾まで震えているが、もう近づこうとはしなかった。
「お好きなように」
少し待ってから、エリオットは立ち上がった。
犬は茂みの中へと逃げ戻っていった。エリオットは肩をすくめて踵を返した。
薬品と肥料の匂いが立ちこめる小さな庭の納屋をのぞいてから、古い家に付属していた大きな木製のガレージをたしかめた。その元の家は二十年前に取り壊されていて、後にこの半チューダー様式の新居が建てられた。
隠し部屋や地下トンネルのようなものの存在がなんとなく頭にあったのだが——南部の大農場の設計図や、奴隷制時代に奴隷を逃した秘密組織“地下鉄道”に詳しすぎるとそんな発想をしてしまう——ここの建物には、どうも見た目以上の横道や基礎はなさそうだった。
背の高いゴミバケツが二つあるだけで、ガレージは空だった。コーリアンの車は没収されている。家のメンテナンス用の一般的な道具——ノコギリ、金槌、大鎌——も証拠品として持ち去られた。
ガレージのドアを閉め、エリオットはガレージから家までの距離を目で測った。右手のどこからか、まだあの犬が茂みをごそごそ動き回っている音が聞こえる。
すべてが平和に見えるなんて、何とおかしなことか。家の窓は陽光を受けて輝いていた。芝生は青々として手入れが行き届き、花壇は雑草を抜かれてすっきり整っている。不動産会社が手を尽くして、惨劇の家をさっさと厄介払いしたいという焦りをうまく演出した結果だ。
売値は悪くないが。本来の半値にもならない値付けだ。
人肉食いのほのめかしが、エリオットへの嫌がらせではなく真実だとしたって、コーリアンはこの何年もで大量の物的証拠を処分しなければならなかったはずなのだ。どうして地下室にすべて埋めなかった? 大きな地下室だし、場所は足りていた。
加えて、コーリアンの“ファンタジー”においては
所有が大きな意味を持つ。犠牲者の生命を奪うだけでは飽き足らず、その抜け殻をも支配せずにはいられない。一部の死体はコーリアンの彫刻の芯材として使われた。残りはすべて地下に埋められた。
頭部以外は。犠牲者たちの頭部は切り落とされ、捨てられた。
どうやって、どこに、どうして捨てたのかは未だに謎のままだ。
当初の仮説は、被害者の身元を隠蔽しようとしたというものだ。だがその推論はエリオットにとって納得いくものではなかった。そもそも、逮捕された場合にそなえるにはコーリアンは傲慢すぎる。第二に、歯科記録以外にも被害者の身元確認の手段はあるし、コーリアンだってDNA鑑定のことくらい聞いたことがあるだろう。
そう。何か、ほかにもあるのだ。
もし共犯者がいるのであれば——エリオットからするとかなり怪しいが——その謎の共犯者が頭部を戦利品として持っていったとか? 成し遂げた凶行をたたえてコーリアンが頭部を与えたか?
考えがそこに至ると、昼食抜きにしたのは利口だった。
エリオットが暗い考えに沈みながら、芝生の境界線からほぼすぐにそびえ立つ黒々とした森を見ていた時、キャンという声がした。
ショットガンの音が静寂を打ち砕く——そしていっそ人間のようにも聞こえるけたたましい悲鳴。
それに続く沈黙はなおさら不気味だった。
エリオットは家の正面へと走り出した。再建手術をした膝が、角を曲がる時に不吉にズキリと痛んだ。
だぶついたネルシャツとジーンズでぼってりとしたその人影が、六十代後半の女性だとわかるまで一瞬遅れた。ぼさっとした茶色の髪と険しい横顔とが作る三角形がぱっと目に入る。
エリオットは声をかけた。
「一体どうしたんです?」
道から来たのなら彼の車を見たはずだが、彼の声に飛び上がった女の動きは本心からの驚愕だった。
さっと振り向き、女がエリオットへ向けてショットガンをかまえた。
--続きは本編で--