還流

 ドラッグ・チェイス1

 エデン・ウィンターズ


■1


「週末はどうすんだ? なんかオイシイ予定でもあんのか?」
 同僚に声をかけられて、ラッキーは笑顔でうなずいた。どんなデカい予定か、こいつらには想像もつかないだろう。
 休憩所の同僚たちに、彼は背を向ける。あと十五分ほど、倉庫の中はラッキーの独り占めのようなものだ。カツ、カツ、カツと、規則的な靴音がだだっ広い建物内に響く。天井近くまで積み上げられている段ボール箱の中身は、市販の頭痛薬から、処方箋が必要な向精神薬までのありとあらゆるお薬。中でも金目のモノは部屋の中央、固く鍵のかかった鉄網のケージの中。
「ほーら、ほら……」
 積荷リストをチェック中の女性上司が顔をしかめ、ラッキーに警告の指を振った。
「あ、ども、すいやせん」
 倉庫内飲食禁止の規則をうっかり忘れていたような顔で、ラッキーは飲みかけのコーヒーカップをゴミ箱に投げ捨てた。だらしなく間抜けなふりをチラつかせておけば、上司は彼を皆と同じ、時給でこき使われるただの奴隷としか見ない。いつもの日常、いつも通りの光景。
 ハンドリフトの錆びついた赤いハンドルをつかむと、適当な荷物パレットを持ち上げたりしながら、ラッキーは上司がオフィスへ引き上げる時間までやりすごした。今日も彼女の動きは壁の時計通りだ。丁度、子供たちが学校から帰ってくる時間なのだ。子供たちに家事を命じたり宿題をやれと叱ったり、しばらくは長電話で忙しい。心得たスタッフたちは、そこにつけこんで十五分の休憩を勝手に延長している。十分くらい、時にはもっと。
 通勤中にカーラジオから流れていたポップなメロディを口笛で吹き吹き、ラッキーはオフィスのドアが閉じているのを確かめた。ハンドリフトに背を向け、裏手のドアをするりと抜けて、荷積み用ターミナルに出る。
 ターミナルでは五十代のドライバーが一人、安全柵に片足をのせ、自分のトレーラーを眺めて煙草をふかしていた。ラッキーの目の前で、ドライバーは両目を指でごしごし擦った。やった。かなりの寝不足。
「お疲れだなァ」
 ノースカロライナの農場育ちの訛りを濃くして、ラッキーはドライバーに声をかけた。ほーら、ただの無害な田舎者だよ俺は。
「まったくさ、疲れる一日でね」
 ドライバーが応じる。この一月で四回以上もここリージェンシー製薬に荷物を受け取りにきているせいで、倉庫のスタッフに気を許してしまっている。間違った信頼感。
 この手のお人よしが、ラッキーは大好きだ。おかげで仕事が楽になる。さらにラッキー自身の見た目──薄茶がかったブロンドに二日はのびっぱなしの無精ひげ、ネルシャツとジーンズという姿は、人に警戒心を起こさせない。危険のない男だと、誰もがラッキーを見くびる。しかも背丈は一六七センチ。体格まで無害だ。
 ほら、寄ってこい──いい子だからどんどん寄ってこい。釣ってやる。
「こっからどこまで行くんだい?」
 何の気なしに、ただの世間話で答えなどどうでもいいかのように、ラッキーはたずねた。
 さすがにドライバーはすぐには答えなかった。頬の内側を嚙む仕種をして、唇を歪ませる。
 だがすでに釣り糸は放たれ、釣り餌の虫はケツを振っている。魚がガブリと食いつくのを待って。
 ラッキーは深く息を吸いこみ、あくまで笑顔を保った。
「どうせまたフロリダの方に下りてくんだろ?」
「まあな」ドライバーはうなずいた。ふっと溜息をつき、肩の力が抜ける。正解を当てられて言ってもいい気になったのだろう。「オーランドのあたりまでさ」
 ラッキーは完璧なタイミングでぞっと身を震わせ、偽の同情を示す。優しいな、と思ってくれればいいが。
「じゃあ皆も休憩を切り上げてさっさと仕事にかからねえとな。あんたをこんなとこで待たせちゃ、95号線に乗る頃にゃ渋滞にかかっちまうだろ。あそこの渋滞はキツいよなァ」
「まったくさ! もう今日は、85号線の道路工事でひでえ目に遭った」
 ラッキーの知る限り、85号線北でやってる工事はリッチモンドだけだ。何事もない日でもリッチモンドからここまで二時間半はかかる。路面補修の工事やら誘導の警備員やらをくぐり抜けて来たとすれば、今日は四時間以上かかっただろう。ますます理想的だ。
 ずばり「どこで南に折れるんだ?」とたずねてしまいたかったが、さすがに怪しすぎる。特にラッキーが「そろそろ十六時間になるんじゃないか?」と続けた日には。実際、一日の運転時間制限いっぱいだろう。疲弊した人間は注意散漫になり、口が軽くなって、ラッキーのいいカモだ。
 またドライバーが、充血した目をこすった。これでは、荷を受け取ってもオーランドまで走るのは不可能だ。パーフェクト!
「ジャクソンビルに妹が住んでんだけどよ」ラッキーはゆっくりと言葉を続けた。「たまにゃ足をのばして顔を見せにいきてェなって思っててな」
 ドライバーはラッキーの言葉の意味を──真意はともかく──読み取って、気まずそうに笑った。
「悪い。ジャクソンビル近くは通るけどな、人を乗っけちゃいけねえんだ。会社から禁止されてるからな。クビになっちまう」ラッキーの体をなめるように見た茶色の目には、どんよりと落胆が漂っていた。「まったく、つまんねえ話じゃねえか。運転中は一人じゃ淋しいこともあるってのに」
 素早いウインクは明らかに誘いだった。はっきりそうとは言わず、指には結婚指輪が光っていたが。
「わかってるよ。んじゃまた今度、あんたがこの辺に来た時に?」とラッキーは恥ずかしそうな笑みを浮かべ、青い目の一瞥を投げた。
「あんたみたいな可愛いのがいるなら、次にはどうにかひと休みできる時間を作ってこないとな」
 おっと、口がうまいことで。
 休憩が終わったらしく倉庫がざわついてきて、ラッキーは未来のないお誘いをかわさずにすんだ。「んじゃ俺はもう行かねェと。お互いお仕事だ」と未練の笑みをドライバーに向けてから、ラッキーは倉庫に戻り、トレーラーへの荷積みを手伝いにかかった。
 一時間後、閉めたトレーラーのドアを封印シールのコードで固定し、積荷リストをリーダーに渡すと、ラッキーは同僚たちの間をすり抜けてタイムカードを押しに行く。人づきあいの悪い男というイメージを貫いたおかげで、仕事上がりの一杯につき合うとは誰からも期待されてない。「家に帰らねえと。ちょっとすることがあってさ」というラッキーの言い訳に慣れきっていた。
 いい週末を、と何人かがラッキーに声をかけ、また月曜にな、というような挨拶もいくつか受けた。
「いいや、これきりさ」
 ラッキーはそう呟く。皆から離れた後で。
 会社の駐車場には、ひときわくたびれた黄色のオールズモバイル車が、平凡な車の中に埋没して停まっていた。会社がどれくらい儲かっているか、社員の車を見れば一発でわかる。リージェンシー製薬の正面駐車場には重役が乗り回すピカピカの最新モデルの車がずらりと並んでいるが、裏のこの従業員用駐車場はどうだ? まるで別世界。下っ端のスタッフがいい加減な仕事をするのも当然だ、会社の損益などどうでもいいに決まっている。
 ラッキーは車の運転席に乗りこむと、北に向かい、ローリーの町の中でもややさびれた地区の路肩、かつてのお屋敷が改装されたアパートの前に車を停めた。ドアの前に溜まった落ち葉を足で押しやり、建て付けの悪いドアを開ける。
 大家の女性のテレビの音が特大ボリュームで玄関ホールに響き、階段を上るラッキーの背まで追ってくる。いやいや、誤魔化されるな。あの女はラッキーの出入りを正確に把握しているのだ。彼女の野次馬根性も、ラッキーは作戦に織りこみ済みだった。
 自分の部屋に入って鍵をしめ、パソコンに近づいて電源を入れた。パソコンが立ち上がるまでの間、必要なものを次々とドア脇に山積みにしていく。メールをチェックすると、ボスからの〈作戦開始〉という号令、クレジットカード会社のDM、バイアグラを売りつけてくる二通のスパムメール──残念、必要ない──そして妹からのメールが届いていた。ラッキーの妹はジャクソンビルなどではなく、ワシントン州のスポケーンに住んでいる。
 妹の心配は、後だ。キーボードを軽やかに叩いて、音楽アプリのタイマーを設定した。
 次に濃いコーヒーを淹れて二つの魔法瓶に注ぐと、シュガーボウルの中の砂糖を適当に半分ずつぶちこんでおいた。カフェイン、正に〈出かける時は忘れずに〉だ。二つの水筒を、道具と一緒にバックパックに詰めこんだ。ほかに用がありそうなものは全部ダッフルバッグに押しこむ。残りはそのうち誰かが回収しに来るだろう。
 バックパックを斜めに背負ってダッフルを手に下げ、シャワー中の自分の鼻歌の録音を流しながら、ラッキーはドアから廊下へすべり出した。大家に見つかるので階段は下りず、誰も住んでいない階に上がると、空室の鍵を二十秒もかからずにピッキングで開けた。部屋の中から鍵をしめ、四十秒後には建物外側の非常階段を下りていた。
 最後の陽光が地面を這い、世界に夕暮れがしのびよっている。とぼとぼと通りを行くラッキーの一歩ごとに、魔法瓶の中でコーヒーがパシャパシャと波立った。ニットキャップに手袋、フード付きのパーカー、十月下旬のノースカロライナではありふれた格好でレンタカー屋に到着。
 閉店五分前にやってきた客に苛ついて、受付はラッキーの顔もろくに見ず、書類の点線の上にサインをしたラッキーへ新モデルのシボレー・マリブのキーをよこしてくれた。
 夕方の渋滞は、あらかた消えた。あの気の毒なトラックドライバーはどんぴしゃで渋滞に巻きこまれただろうが。ラッキーはニヤッとした。本当にお気の毒なのはこれからさ。
 州間高速道95号線に合流すると、アクセルを踏みこんで一気に距離を稼いだ。運送会社の規則は把握済みだ、荷積みターミナルから八十キロ以内での休憩は禁止。あの疲れ果てた様子からして、ドライバーは八十キロすぎたらすぐ休憩に入るだろう。いや、その八十キロだって走りきれたかどうか。網は近くから張った方がいい。トレーラーに発信器をつけられればもっと楽なのだが、機械にたよらず、知恵と腕前だけでやってみせろとのボスからのお達しだ。面倒。
 ファイエットビル手前三十キロ地点のトラック休憩所で、ついにターゲットを発見した。例の黒いトレーラーが、駐車場に停まっている。ドライバーの姿は見えない。
 駐車場の端、二台のトラックの間に車を停めると、ラッキーはダッフルバッグを肩にかけた。バックパックからお役立ちツール“貴様の物は俺の物”セットをつかみ出す。キーを運転席のシートに放って、車のドアをロックした。
 アスファルトの駐車場をぶらぶら歩きながら、時おり、他のドライバーと挨拶を交わした。標的のトレーラーが、車内後部で仮眠できるタイプでなかったのは幸いだ。手早く一周してみたが、やはり運転席にドライバーの姿はなかった。
 ラッキーは、気のない足取りでトレーラーに近づき、運転席を鋭くノックして、ドライバーがハンドルにつっぷして寝ていないかとたしかめた。反応なし。やった。
 次に、近くで、目的におあつらえ向きのトレーラーを見つけた。車体にテレビやモニターの絵が描かれていて、積荷は電化製品のようだ。牽引車の運転席をノックしたが、こちらもドライバーの返事はなし。
 お役立ちキットに手をのばしたところで、ラッキーはふと、運転席のドアを引いてみた。どこかのお馬鹿さんたら鍵をかけ忘れていやがる。泥棒がうろついているというのに、何たる不用心。
 車内にあった積荷リストによれば、こっちの荷物は本命のトレーラーの積荷よりはるかに安い。さもなければラッキーの中に棲みついた悪党魂はこの車をくすねる誘惑に屈してしまったかもしれない。かわりにラッキーはナンバープレートと車内の書類だけを頂いていく。何かの時のための保険だ。
 標的の黒いトレーラーへ戻ると、たった今頂いてきたナンバープレートと付け替えた。四十秒。くそ、かかりすぎだ。
 腕が鈍ったか? いやまさか。指がかじかんでいるせいだ。ラッキーはスウェットのフードを引き下ろしてさらに顔を隠した。急に冷えてきた夜の中に、息が白く、丸く曇った。
 トレーラーの運転席に乗りこんでしまえば、スライドハンマーを使ってイグニッションシリンダーを取り外すのなど朝飯前だった。三ドルのドライバーをイグニッションにつっこみ、エンジンをかける。車はブルッと身を震わせて唸り出し、エンジンの息吹の音が甘い音楽のようにラッキーの耳を満たした。
 シボレー・マリブでトラック休憩所に乗りつけてほんの五分後、ラッキーは積荷満載のトレーラーを運転して駐車場を出て行く。彼のキャリアの中でも、最高額の強奪だ。しかもグリースよりもなめらかな仕事ぶり。
 たかだか五分程度のトレーラー強奪で、平均的な銀行強盗の百倍も儲かるのだ。しかも銀行強盗と違い、車盗難事件にはFBIが乗り出してくることもない。地元警察が捜査するだけだ。ラッキーが警戒しなければならないのは地元警察の夜間パトロールだけで、そっちもじきシフト交替の時間だ。
 三十キロほど走ったところで95号線を外れ、野山をつっきる二車線の道を走り、さらに鋪装されていない林道を十キロ少々走った。やっと、ハイビームのヘッドライトの中に、木々に埋もれかかったケンウォース社のパールブルーの牽引車が浮かび上がる。
 乗ってきた車から降りると、荷を積んだトレーラー部分と牽引車を切り離した。それから、用意しておいた新しい牽引車にトレーラーをつなぎ直す。一人では面倒な作業だが、共犯者などそれ以上の面倒を生むだけだ。トラブルはいらない。作業に必要なだけの時間をきっちり計画に組みこめばすむことで、案の定、作業をすませてみれば予定より早かった。
 トレーラーの車体のロゴを、少々のスプレーペイントと二枚のマグネットステッカーで消す。いつものようにGPS発信器の対処に少し時間をかける筈だったが、何と、このトレーラーには発信器が付いていなかった。
 間抜けどもめ。頭ついてんのか?
 土をひとすくいして、乾きたてのペイントの上に軽くまぶし、手早くなじませた。
 林道を走り抜け、その土煙もおさまらぬうちにアクセルを踏みこむと、ラッキーは95号線に戻って南に向かった。三五〇万ドルの医薬品を山積みにしたトレーラーを引いて。


■2


 パトカーのランプの青い閃光と、ウウウウ!というサイレンに、疲労で朦朧としていたラッキーははっとした。もうジョージア州に入り、サバンナの町を通りすぎる頃だ。スピードメーターに目をやる。違う、スピード違反ではない。ラッキーの心臓はともかく、車は安全速度を守っている。
 よれよれのネルシャツの下で、乱れた鼓動が激しく鳴っていた。落ちつけ落ちつけ、大丈夫だ、怪しまれやしない。ラッキーがヘタを打たなければ、何も怪しまれたりするわけがない。何千回とくぐり抜けてきたことだ。
 トレーラーのスピードを落とすと、停車場所を探して、高速道の出口標識近くに停めた。積荷リストと車の登録証、牽引免許証を準備し、じっとサイドミラーを見つめて待つ。
 パトカーから降りた警官は一人だけだった。いいきざしだ。
 おなじみの、ジョージア州警察の白いリボンが巻かれた帽子が近づいてくる。警官が手の届く距離まで来たところで、ラッキーは窓から書類を手渡した。さあ、気楽にいこうぜ坊や、ここには何もおかしなことはない、書類を確認し、帽子のふちに指をのせて「お気をつけて」と送り出すんだ──。
 映画みたいに、人を操るテレパシーが使えりゃいいのだが。
「お疲れさんっす、お巡りさん!」なつかしの田舎のお人よし、という仮面をまた顔に貼り付けて、ラッキーは声をかけた。「何かあったんスか?」
 あくびをしてみせ、体をのばし、くたびれきった筋肉をゆるめる。箱の積み下ろし業務を八時間、加えて夜通しの運転だ、そりゃ疲れていた。
 警官はフラッシュライトで書類を照らして積荷リストにざっと目を通し、免許証に視線を据えた。「ミスター・マーフィ?」
「そうっす」
「目的地は?」
 積荷リストに行き先が明記してあるくせに。
「デイトナでさ。DVDプレーヤーやらでっかいテレビやら、クリスマスに間に合うように届けてやらなァな。クリスマスのためにみんなせっせと働いてんだからよ」
 堂々と振舞え。鼻の効く警官は、どんなに遠くからでも嘘の匂いを嗅ぎつける。今、目の前のこの警官──左右に目を配り、ラッキーの免許証をじっくり見ているこの男は、決して間抜けには見えなかった。
「成程。何分か、少し免許証を借りるよ」
 警官は書類をラッキーに返し、免許証を持ったままパトロールカーへ戻っていった。その途中でトレーラーの車体のロゴを眺めたが、真新しい塗装の跡や磁石で貼ってあるステッカーの偽装を見破った様子はなかった。
「いくらでも確認してくれや。かまわねぇよ」
 ラッキーは遠ざかっていく広い背中に向けてもごもごと言った。警官の姿は死角に入り、どうやらトレーラーの封印シール番号を確認しているようだ。封印シールを破って積荷を確認するには公式な手続きが必要だが、封印シール番号と積荷リストの書類に記載された番号を照らし合わされれば、番号の不一致がバレる。積荷リストも偽造したいところだが、それにはまた別のリスクが伴う。
 ラッキーは百から一までひとつずつカウントダウンし、それでも警官が戻ってこないので、もう一度数え直した。息をつめ、心臓は早鐘のように鳴っている。これだけ手間取っているということは、ヤバい事態になっているか、応援を呼んで時間を稼ごうとしているのか。それとも、何でもないか。
 戻ってきた警官の、申し訳なさそうな笑みを目にして少しだけほっとするまで、少なくとも三年は年をとった気がした。
「待たせてすまない、ミスター・マーフィ。どうやらノースカロライナでトレーラーごと医薬品を強奪した奴がいてね。もう一晩中トレーラーを確認して回ってるんだ」
 疲労で重く沈んだ肩と疲れきった溜息から、この警官の「神よ我がシフトを早く終わらせたまえ」という祈りが聞こえてきそうだった。
 ラッキーはぼりぼりと頭をかきながら、同情の表情を作った。
「ひっでえな、またそんな事件が? 近頃じゃマジメに生きてる奴がワリを食う世の中さ。ドライバーは大丈夫かい?」
「無事だよ。動転しているし、後でこってり絞られるだろうけどな。どうやら規則を完全には守っていなかったらしい。じゃ、デイトナまで安全運転でな。少しはゆっくりできるのか? 戻ってくる前に、南の温かい空気を楽しんでくるといいよ」
「ああ、ポート・オレンジに妹が住んでてね。甥っ子の顔でものぞきに行ってくるつもりさ」
 最初はジャクソンビル、今度はポート・オレンジ。妹のシャーロットは、自分がどれほど色々な場所に住んでいるか知るよしもあるまい。何しろ当人は、この何年もワシントン州のスポケーンから一歩も出ていない。
「それじゃ、気をつけて」
 別れの合図に車のドアを軽く叩き、警官は肩をすぼめて、重い足取りでパトカーへ戻っていった。
 くそ、危なかった。ラッキーがほうっと吐いた息でダッシュボードに散らかるレシートが揺れた。犯人が逃げおおせたと知った時、あの警官の立場にはいたくないものだ。何かの時のためにと、警官の名前とパトカーのナンバーを書き留めた。
 ジャクソンビルを通りすぎる頃には空のふちがうっすらとピンクに明らみ、4号線への標識が見えた時には眠くて仕方なかったが、ラッキーはコーヒーに口をつけなかった。二十分後に通過するサービスエリアのトイレで無駄な時間を使いたくない。後、もう少し。
 オーランドが近づくにつれ、緊張が極限まで高まってきた。ゴールが目の前だと浮かれるわけにはいかない。しくじるきっかけなんて、そこら中に山ほどある。
 ラッキーの焦りと警戒とは裏腹に、残りの道のりは平穏無事にすぎ、予定より三十分早く目的地に到着した。荷物搬入予定の時刻まで、運転席で仮眠する。
 それから荷物を他人の手に引き渡すと、荷卸しの様子に目を光らせて、トレーラー内部に設置された温度計が定温に保たれていたことも確認し、荷物が保管場所にきちんとしまわれるところまで見届けた。普通の泥棒は荷物のクオリティなど気にしないが、ラッキーは普通の泥棒ではない。ほんのわずかな温度の上下動だけで、命を救う筈の薬が致死の毒に変質してしまうこともあるのだ。商品の価値に傷をつけたら、ボスに吊るし上げられる。
 構内にトレーラーを停めて、荷台と牽引車を切り離した。ラッキーはすっかり短くなった牽引車を運転し、セキュリティゲートを抜けていった。
 さて、ここからがヤマ場だ。週末の間、何とか逃げのびなければ。リージェンシー製薬会社のお偉いさんはその間、冷や汗をたっぷりかいて慌てふためくがいいさ。


 牽引車を地元の修理工場に隠し、自分の荷物をひっつかんで、ラッキーは手近なモーテルに入った。ペンシルバニアから来たリロイド・マーフィーとしてチェックインする。
 シャワー、ひげ剃りの後でベッドにとびこみ、睡魔と戦った。布団の間でごろごろ転げ回り、整ったベッドを乱す。誰かが眠ったように見えるまで存分に荒らし、これなら追手もごまかせるだろうと満足すると、起き上がって服を着込み、ラッキーは裏口からひっそりとモーテルを脱け出した。
 タクシーに乗って十五分、その先にもう少しだけマシなモーテルがある。ここでも裏口を使った。裏口のドアが少し開けたまま石で固定してあったので鍵も使わずに中へ入り、石を蹴りやる。携帯を眺めた。ボスからのメッセージ、〈317号室〉。
 317号室のドアはうっすら開いていて、ラッキーは警戒心丸出しでにじりよった。ドアをもう少しだけ開き、待つ。それからまた、もう少し開いた。
 部屋の中は暗く、きっちりと閉ざされたカーテンが昼の陽光をさえぎっていた。まずバスルームの中を確認し、クローゼットの中、カーテンの裏側、ベッドの下などを確かめて回った。疲労と猜疑心が重なると、相互作用でどちらも倍になるようだ。
 クローゼットの中にスーツが一着、ドレッサーの上にノートパソコン。ビックリ箱も、ベッドの下で待ち伏せする斧男の姿もなし。
 やった──やっと、これで寝られる。クローゼットに荷物を放りこんで、服を脱ぎ捨て、ラッキーはベッドに倒れこむと、引きずり出されるか最終戦争の日が来るまでもうベッドから動くまいと決めた。どちらが先に来るかはともかく。
 これで、どうにか日曜までぐっすり眠れさえすれば。第二幕の幕開けにそなえて。
 そのまま気絶するように眠りこんだ。
 だが五分後、目が覚める。それからさらに、二十分後にも。それから次も……。ついにラッキーはあきらめて起き上がり、パソコンを立ち上げるとボス向けにぞんざいな報告書を打ちこんだ。それが片付くと、次は妹に向けたメールに、いくつかの優しい嘘と一つのでかい真実を書きつらねる。
〈やあ元気か?
 俺は元気にやってるよ。久しぶりのメールでごめんな、最近やたら忙しくてな。甥どもに愛してるって伝えてくれ。近いうちにみんなに会いに行きたいよ〉
 ラッキーは目を閉じ、十二歳のシャーロットと、十三歳だった自分の姿を思い浮かべた。シャーロットが成長して結婚するまで、彼らは誰よりも仲がよく、ほかの三人の弟たちにいつも一緒に対抗したものだった──。

「あたし、大きくなったら看護師になって、みんなを助けるの」とシャーロットが言った。
「看護師? ヘンテコな帽子かぶって朝から晩まで病院の中にいんのか?」とラッキーが答える。「なんかつまんなさそうだな」
 その時二人は、一家のタバコ畑を見下ろす丘の上でごろんと寝転がっていたのだった。ふっくらと丸い雲が頭上を回っていた。
 しばらく考えこんでから、ラッキーは宣言した。
「俺はトラックの運転手になって、国じゅうを旅して回るんだ! がっぽりカネを稼いで、もうこんな農場には戻らねえ」
「でも、でも、お兄ちゃんが戻ってこなかったら、あたしはどうなるの? 一人だけここに残んなきゃならないの?」
 シャーロットの声は涙っぽく、今にもパニックを起こしそうだった。
 ラッキーはトウワタの茎を噛みながら、額にのせた腕で陽光をさえぎり、じっくりと考え込んだ。
「お前も一緒にくりゃいいよ。看護師になんかならなくてもいいさ。お前の分も俺が稼いでやる、お前は働かなくていい」
「でも、結婚はどうするの? いつかは兄さんも結婚しちゃうでしょ?」
 返事は、今さら考えるまでもなかった。ラッキーは腕の下からシャーロットに目を向け、はっきり答えた。
「しねえよ」
 シャーロットは唇をとがらせた。
「でも、あたしはするかも。結婚したり、子供を産んだり?」
「いいヤツを探せよ。お前を大切にしないようなヤツだったら俺がぶん殴ってやるからな」
 ラッキーが即答した過保護な返事に、シャーロットは顔をほころばせてクスクス笑った。
「わかってるわよ、リッチー。いつだって最高のお兄ちゃんだもんね!」

 ラッキーは両手に顔をうずめ、自由で楽しかったあの日々と、シャーロットと二人で夢見ていた未来を思った。
 ある意味、二人の夢はどちらもかなった。ラッキーはトラックを運転し、シャーロットは看護助手として人々を助けている。彼女は言葉通り結婚もして子供も産んだが、どういうわけか、現実の人生は二人が描いた夢とはかけ離れていた。
 くそ。シャーロットにつらい思いをさせたのはラッキー自身だ。家族は皆、ラッキーを見捨てて縁を切ったというのに、シャーロットだけが堂々とラッキーを家族だと呼んでくれる。昔から、頭より心で動いてしまう娘だった。
 メールの送信ボタンを押す前に、ラッキーは一行書きくわえた。
〈甥っ子に、俺からのハグをあげといてくれ〉
 最後には〈リッチー〉とサインした。シャーロットと甥っ子たち以外、もう誰も呼ぶことを許されない名を。


 スクワット、そこから両手を床につき、両足を後ろに蹴り出し、腕立て、腕立て、スクワット、ジャンプアップ、前屈して両手を床に……。
 一連の動きをくり返し、ラッキーは体のポジションとポーズの正確さに意識を向けた。深い呼吸、最後まで吐き出し、筋肉の熱と負荷を感じる。立ち、屈み、立ち、スクワット、ジャンプアップ……。
 三セット終えるごとに時計に目をやり、さっさと終わってくれと願った。ついに分数表示がぺらっとめくれて、五分間のフルセットの終了を告げる。ラッキーは立ったまま膝に手を置き、酸素を求めて喘いだ。ここのところ、音にうるさい階下のおせっかい女が気になってトレーニングを削っていた。そのせいでやたら息が切れる。
 次は縄跳びの代替トレーニングだ。部屋の鍵をポケットにしまって、ホテルそなえつけのミニ冷蔵庫から水のボトルを一本取り、ドアの隙間から廊下が無人なのを確かめてから、手近な階段へ急いだ。
 階段の一番上に水を置き、まずは太腿とふくらはぎのウォームアップに階段を二往復走る。気分がノッてくると、下の階までの往復走に取りかかった。ジョギングシューズの底がコンクリートにくぐもった音を立て、踊り場の固い壁を蹴って次の一周に入る。
 ホテルにもそなえつけのジムがあるが、人目を集めてしまうだろう。ラッキー自身にも、いささか型破りなトレーニングにも、注目されたくはなかった。狭いところに押しこめられていた二年の間に、必要に迫られて編み出したトレーニング法だ。彼のように小柄な男は、あんなところでは工夫がなければ生き延びられない。
 二周目にかかる時には体も精神もルーティンに没頭し、ラッキーは無心で走った。頭はからっぽになり、意識が足と呼吸のリズムだけに満たされる。階の間を何回往復したのかもわからない。やがて疲れ果てて水のボトルの横に崩れ落ち、キャップをひねって水をごくごくと飲み干した。
 息を吸い、吐く。荒々しい心臓の鼓動で、自分が生きていると実感できる。
 いったん落ちつくと、今度はのばした手で手すりをつかんで、変形の腕立てを始めた。吸い、吐き、体を持ち上げ、止まる。
 二十回の腕立てを三セットこなすと、また階段ダッシュをくり返し、へとへとになるまで自分を追いこんだ。
 部屋に戻り、背中の皮がはがれそうなほどのシャワーで汚れと汗を流した。お手頃なマッサージの代用品だ。それから湯温を少しずつ下げ、ほてった体を冷ましていく。
 つるつるしたタイルに背中をもたせかけ、ラッキーは片手でペニスをなでて、体に溜まるテンションを解消しようとした。リージェンシー製薬で会ったあのドライバーの姿を思い描いたが、男の目の中にあった欲望にもラッキーの体は反応しなかった。仕方なく、倉庫で一緒に働いていた若いイケメンを思い浮かべるが、頭上から落ちるシャワーの水よりもさらにひえびえとした気分になった。
 目をきつくとじ、架空の男を思い浮かべる──たくましい肩、無駄なく絞りこまれた体、丸く締まった尻、陽の光に愛された健康な肌、シャワーで濡れた黒髪。よしよし、これならイケる。
 ラッキーは左手で陰嚢をつかみ、右手でさらに早くペニスをしごく。夢の男はラッキーに尻を突き出し、なめらかな肌と筋肉に水をつたわせながら、見え隠れする奥の穴を指で慣らしている。
 想像の中で、ラッキーはその穴に狙いを定めて、熱い体を一気に貫いた。ドクドクと血がうずいて、呻きをこぼす。手を前後に動かして自分を追い上げる。きつく握った手の速度を上げ、のばした左手の指で後孔をぐっと押した。
 首をのけぞらせ、呻きをたてて、ラッキーは手の中に射精する。精液は人工の雨に流され、拳をつたって、彼の幻想と共に消えていった。
 膝から力が抜けかかって、ラッキーはタイルの壁に手を置きながら、見えない相手へと囁く。
「お前もよかっただろ?」
 体を拭くとベッドへ倒れこみ、楽な体勢に転がった。だがあらゆる手を尽くしたにもかかわらず、それでもまだ、ひとかけらも眠れないままだった。


■3


 まったく、ひでえ顔だぜ。
 ラッキーは湯気のこもるバスルームで鏡を見つめた。週末何もせずにホテルでのらくらしていただけの人間がこんなくたびれきった顔をしているとは、どういうことだ。腫れぼったい両目の下にくっきりと黒い隈が浮き出ている。
 ホテル備え付けの、あまりに量の少ないコーヒーを二杯飲み、それから熱いシャワー。それでやっと生き返ってきた気はしたが、まだ半分は棺桶の中だ。
 ひげを剃ってから、スーツと一緒にクローゼットに用意されていたぱりっとしたターコイズブルーのボタンダウンシャツを着込み、ボスから叱られないよう、せっせと見た目をとりつくろった。「話をまともに聞いてもらおうと思うならまずきちんとした格好をすることだ」とはボスの口癖である。ラッキーは度重なる挑戦の末、ボスの許容範囲がどこまでなのかよく知っていた。
 ネイビーのスーツは彼のサイズにぴったりで、すっかりまともな社会人に見えた。少なくとも、見た目は。ラッキーの中にある、自由になる隙を狙っている小悪党の魂とは大違い。いやいや、今から税金をたんまり払ってくれてる金持ち連中どもに、その税金がどう活用されているのか教えてやりに行くのだ、堂々とした格好で行くべし。
 手荷物をまとめ、ノートパソコンも持って、ラッキーはホテルの裏口から出た。フロリダのギラつく陽光を、サングラスがきっちりさえぎる。足取りをゆるめず、駐車場の端でアイドリングしている黒いレンジローヴァーにまっすぐ向かうと、後部座席のドアを開けて乗りこんだ。座席の後ろに荷物を放りこむ。
 コーヒーの魅惑の香りが鼻腔を満たした。癖のあるウッディなコロンの匂いも一緒に。運転手のコロンか? ボスのウォルターは脇の下に消臭スプレーを一吹きが関の山だ。
 おはよう、とも言わずにラッキーが座席の間からぬっと手を突き出すと、助手席のウォルターが笑って、スターバックスのグランデのラテを手渡してくれた。朝は苦いコーヒーをがぶ飲みしないと始まらない。ラッキーにとって、昼前なんてのは人間の起きる時間ではない。
「おはよう、可愛い子ちゃんサンシャイン
 ボスは母音を長く引きずってラッキーのノースカロライナ訛りの猿真似をしたが、気取ったボストン訛りのせいで台なしになっていた。
「うるせえよ」
 ラッキーは罵り返したが、熱はこもっていなかった。実のところ、かつてこの男に抱いていた憎悪も、今は──まあほとんど──消えている。だが、“邪悪の権化“を卒業して“一目置く男”に昇格しているなんて、このウォルターに知らせてやる必要などない。
「派手に一発ぶちかます準備はできてんだろうな?」
 ラッキーが言う間にも車が発進し、太い道に合流する。ハンドルを握っているのは──こいつ誰だ?
 ああ、そうだ。バートだかブレットだか、とにかく新入りで、どうせすぐ過去になる男だ。ウォルターは「新人をつれていく」とか言っていて、たしかどこぞの大学卒業の高学歴エリートちゃんか何かだったか。どうでもいいが。どれだけ素晴らしく優秀な人間だろうが、現場で役に立つかはこれからだ。
 こいつも俺にかなうわけがねえ──そう思うと、気分が上向いた。少しだけだが。この新入りもどうせ長持ちしやしない。ウォルターがかき集める面子はめまぐるしく入れ替わっていく。失敗が許されないラッキーは例外として。まともじゃない奴だけが生き残れる職場なのだ。
「準備済みだよ」ウォルターはそう答え、つけ加えた。「リージェンシー製薬にとって、我々が歓迎されざる客になる未来が見えるとも」
「よくあることさ。それが人生ってもんだ」ラッキーはもらったコーヒーを飲んだ。ありがとうなんて口が裂けても言いたくないので、凶悪にうなる。「いつからあそこにいたんだよ。コーヒー、冷めてんじゃねえか」
 本当のところ、コーヒーは丁度いい温かさだった。だが残念ながら、口の悪いごろつきとして文句を吐くのがラッキーの仕事だし、仕事には全力で、が彼の流儀だ。
 ウォルターはいつも通り、まったく乗ってこなかった。だが新人が釣れた。おいおい、誰かこいつに「ラッキーは根性悪だからさわるな」と忠告しといてやらなかったのか?
「こっちは定刻に到着しているよ、文句を垂れるのはやめてくれ。それとも次はあんたが自分でコーヒーを買いに行けば、俺はあと十分余計に寝てこられる」
 その口調は、まるで天気の話でもしているかのように愛想がよかった。
 助手席のウォルターがしのび笑いをこぼした。ラッキーは後部座席でムッとする。わざわざ返事をしてやる気にもなれない。どうやらこの新人ちゃんはおとなしくラッキーに鼻っ面を引き回されるつもりはないようだ。挑戦なら受けて立つし、口ごたえしてくる度胸には興味が湧く。とはいえウォルターも、こいつをいい気にさせることもないだろうに。
 窓の外を飛び去っていくヤシの木を眺めながら、ゆっくりとした呼吸を保った。
「なら次はてめえがトレーラーをかっぱらって、弱点を暴いてみせるんだな」
 口の中で呟いたが、どうやら聞こえていたらしい。運転手の鼻先でのせせら笑いがラッキーへの返事なら。
 小学生レベルの当てこすりが暴力に発展する前に、ウォルターが割って入った。
「ボー、きみにリッチモンド・ラックライターを紹介しよう。ひとつ忠告しておくと、彼は“ラッキー”と呼ばないと返事をしない。“リッチモンド”とは決して呼ばない方がいいね、当人にとって好ましい名ではない」
 後部に座ったラッキーからはバックミラーに映る運転手のニヤつきがよく見えていたし、頭をひっぱたいてその笑いを消してやりたかったが、コーヒーをこぼしたくなかったのでこらえた。カフェインを無駄にするなど、あまりに罪深い。
 気取った態度をわずかに崩して、ウォルターがつけ足した。
「ラッキー、紹介しよう。彼はボー・ショーレンバーガーだ」
 ボーだろうとブレットだろうとどうでもいいが、こいつもラッキー並みに馬鹿げたラストネームの持ち主か。とは言え、こっちの勝ちだ。ラッキーは返事がわりにうなって、わざとコーヒーをずるずるすすった。
「こちらこそ会えて嬉しいよ、ミスター・ラックライター。ただ、できれば英語をしゃべってもらえるかな? 残念ながらネアンデルタール語はちょっと苦手なんだ」
 ミラーごしの笑顔の、やたらと白い歯がまぶしい。ラッキーは目をそらした。仲良くなってもいいことはない。この歯医者好き男も、どうせすぐいなくなる。誰も残らない──頭がイカれているか、何かで縛りつけられていて辞められない奴以外は。
「リッチモンドって名前が嫌いなのは、ヤバい叔父さんか何かの名前をもらったからか?」
 小うるさい野郎だ。ラッキーはうなり返してすまそうとしたが、またネアンデルタール語がどうのと言われると癪なので、英語で返事をしてやった。
「知りたきゃ教えてやるが、ウチの親はNASCARナスカーにハマってたもんでね、自分のガキどもにレースコースの名前を付けたんだよ。それで俺はリッチモンドってわけだ」
 ミラーの向こうの笑いが消えた。
「かついでるんだろ?」
「マジさ。弟が三人いるけどな、ブリストルとドーバーとデイトナだよ。な? そう、妹も一人いる──ほら、タラデガ・スーパースピードウェイってのがあるだろ?」
 運転手の口がぽかんと開いた。「まさか、娘にタラデガって名前を?」
「いいや、シャーロットって名前になったよ。あの時は母さんがコイントスで勝ってね」
 シャーロットはNASCARナスカーレース発祥の地だ。使い古したジョークだったが、とにかくラッキーはオチを教えてやった。
 ぷっと、こらえきれない笑いがウォルターの座席あたりから聞こえてきた。何回も耳にした筈のこの古ぼけたジョークにも、この男はいまだに笑ってくれる。ラッキー自身はこのジョークに一度たりとも笑ったことがないし、父親が友人相手に披露するたびにげんなりしていたものだが。まったく、世の中にはどんな冗談でも笑う奴がいる。
「凄いな。俺がボーって呼ばれて育ってきたのも結構ひどい話だと思ってたけど、かなわないね」
 新入りはそう相槌を打ったが、会話が続く前に、やたらと近代的なビルの前に車が停まった。入り口の上部は金属のアーチで、澄んだ青空めがけて尖塔がのび、壁はガラスの寄せ集め。珍奇さだけなら賞でも取れそうなぐらいだが、醜いことこの上ない。ラッキーはガラス作りのビルが、早起きと同じぐらい大嫌いだ。負けないくらい醜い看板の社名が、ここがリージェンシー製薬だと示している。
「何てひどいビルだ」という新入りの呟きに、ラッキーも賛成だった。
「我々の仕事は美的評価ではない」ウォルターがバックシートのブリーフケースへ手をのばした。「とは言え、私も同意するにやぶさかではないが」
 ラッキーはコーヒーを飲み干して空のカップを車の床へ放った。眉をひそめた新入りの「山育ち?」という嫌味を無視する。サングラスが曲がっていないか確かめてから車を降り、悪夢に出そうなビルを見上げた。一番高い屋根は正三角形のガラスが嵌められていて、一瞬ラッキーは、きらめく表面に男の体の幻を見ていた──裸で手足を広げた男を、ラッキーが背後から突き上げている。ファック・ユー。今の気分そのままだ。
 ビルに向かって先を行くウォルターに、新入りがせっせと付き従った。
「ボー、今日はとにかく観察がきみの役目だ。しっかりメモを取れ。相手に気付かれぬよう観察することで、実に多くのことを学べるものだよ」
 ウォルターが新入りに忠告した。へえ、昔ラッキーがウォルターに教えたのと同じアドバイスだ。彼は二人のスーツ姿の後ろをだらだらと追いながら、ウォルターがぼそぼそ囁いている指示を耳から締め出した。
 さて、ウォルターとラッキーによる新たなショーの幕開けだ。
 しかし何でこんなガキをつれて来た? 打ち上げのビールが飲めるかどうかも怪しいくらいのガキだろう。いやまあ大学卒だとは言ってたが──そう、しかも薬剤師だとか。大学に四年、薬科大学に四年とすれば大学に八年間通った筈で、となればガキっぽい見た目より年はくってるのか。十二歳で大学まで飛び級するような天才ちゃんなら別だが、正直、この新入りはそこまでお利口には見えなかった。そんなに利口なら、ウォルターの下で働くわけがない。
 この男は、前世でよっぽどあくどいことをしたツケをここで払ってるのだろう。それともラッキーのように、現世で犯した罪の償いをしているか──いや。ラッキーは頭をもたげたかすかな良心を押しつぶした。やらかしたことの償いなら、もう充分以上にしてきた筈だ。世間は異論があるだろうが、世間なんかクソくらえ。
 じりじりとした熱気で額に汗が浮かび、ビルにたどりついた時には背中を汗の玉がつたっていた。十月下旬だが、フロリダではまだ残暑がぶりかえす。
 ウォルターがビルのドアを開け、ラッキーは中へ──中もガラスだらけだ!──歩み入る。たちまちひんやりとした空気に包まれた。
 例の新入りがラッキーに向けてニッコリした。何がそんなに楽しい、とラッキーは思わずうなり返すところだったが、きつすぎるスカートを履いた娘が近づいてきたので、凄むのは後回しにした。
「ミスター・スミスですか?」と娘はたずねながら、ラッキーからウォルターへ、そしてボーへと視線をさ迷わせた。
「お出迎えありがとう」
 ウォルターが前へ進み出て、右手をさしのべた。人畜無害そのものの笑みを浮かべる。嘘つきめ。無害という言葉がこれほど似つかわしくない男もいない。気のいい叔父さんの皮をかぶった人食いザメみたいなもんだ。きらきらした茶色の目と白髪まじりの髪に笑い皺と、見た目はのどかだが、その下にある魂はカピカピに干からびて、特に悪党相手には慈悲のカケラも持ってない。ほぼ二メートルの彼の前では案内嬢がちぢんで見え、横幅もデカいので、山がのしのしと二本足で歩いているように見えた。それがウォルターという男だ。
 案内嬢はウォルターと握手を交わした。そこにいるのはスーツを着たピラニアなのだが、きっと素敵なオジサマにしか見えていないのだろう。彼女はニッコリと微笑みながら、ボーのこともチラッと品定めした。ふむ、確かにボーも悪くない。ラッキーが彼女だったとしてもボーを選ぶ。仕事場にのりこんできた三人のうち一番邪悪さが足りないし、ちょっとは目の保養にもなる。
「こちらへどうぞ。皆、揃っておりますので」
 やたらと長い廊下を先導していく彼女のヒールが、大理石の床でカツカツと音を立てた。ウォルターと金魚のフンの新入りが、その後ろをパタパタとついていく。
「何か飲み物をお持ちしましょうか? コーヒーやソーダ、ジュースなどご用意できますが」
「コーヒー、ミルク抜き、砂糖たっっっぷりで」というラッキーの答えに、ボーの「ミネラルウォーターをもらえますか」という言葉と、場をなごませようとしたウォルターの「よければコーラのラム酒割りなどいただけるかな」という貧弱なジョークが重なり合った。堅苦しい言い方のおかげで、ウォルターのはまるで冗談に聞こえない。酒は飲まない男だ。
 案内嬢は肩ごしに困った笑みをウォルターへ向けた。
「コーラだけでしたら、何とか」
「ならコーラでよろしくたのむよ」
 まるでパーティか何かのように、ウォルターが愛想よく笑いかける。
 案内嬢が木目の両開きのドアの前で足を止めた。
「お飲み物はすぐにお持ちします。皆様は、中へお入り下さい」
 ラッキーは深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。
 ショータイム!
「ボー、さっきも言ったように、きみは観察に徹することだ」ウォルターが新入りにそう指示し、続いてラッキーに言った。「始める前に何か聞いておいた方がいいことはあるかね?」
「報告書に全部書いたよ。読んだろ」
 というか、読んどけ。ベッドに倒れて寝たフリしていたい時間を削って、せっせと書いた報告書だ。
 ボーがドアの中へ入って、声が届かなくなったところで、ウォルターが身をかがめてラッキーの耳に囁いた。
「ああ、読んだとも。見事な手際だったと言わせてもらわなくてはな。きみが誇らしいよ」
「……誇らしい?」
 何だと?
 だがすでにウォルターはボーを追って会議室へ入ってしまい、返事はなかった。誇らしいだと? ウォルターにとってラッキーはやむを得ない、“必要悪”の道具でしかない筈が、一体どうした?
 ラッキーが言葉を失うことなど滅多にない。復活まで数秒かかったが、それから彼はビルの内装に合わせて勿体ぶった態度で会議室へと入っていった。
 細長い会議用のテーブルをゆっくりと回りこみながら、席にいるのが六人の女性と八人の男だと数えた。集められた重役連中の中にはラッキーが知っている顔が二つあったが、相手はラッキーのことなどまず覚えてもいないだろう、賭けてもいい。
 たっぷり時間をかけて席に着いた。こいつらは待たせておけばいい。さっきの案内嬢が会議室に入ってくると、きょろきょろ見回してボーを見つけた。テーブルの向こう側を早足で急ぎ、彼女はウォルターの前に水のボトルを、ボーの前にコーラを置いた。
 コーヒーは、ラッキーの肘のそばにあわててガシャンと置き、逃げるように会議室を出ていく。ウォルターとボーが無言で飲み物を交換し、ラッキーはこぼれたコーヒーに指を浸して焦茶のマホガニーに落書きした。コーヒーを粗末に扱うとは、なんて女だ。
 いかにも最高経営責任者CEOという偉そうな態度の男が、口を開き、ずばりと本題に入った。
「本日おいでいただいたウォルター・スミスと部下のお二人は、南東部薬物捜査局SNB薬物転用防止保安部から来られた。理由はすでに皆知っていると思う。さて、ミスター・スミス?」
 ウォルターはもそもそと立ち上がろうとした。部屋の内装とコーディネートされたひどい紫色の椅子に、体が深々と沈みこんでいた。この会社の連中は、紫の部屋は人を情緒不安定にするってことも知らないのか? 立ち上がるウォルターに椅子がきしみを上げる。
「お集まりの皆さん」
 そう切り出しながら、ウォルターは差し出されたマイクを首を振って断った。大きな会議室に、ウォルターの声はマイク無しで朗々と響いた。
「先週の金曜、こちらのリージェンシー製薬のローリー工場から、オーランド行きの医薬品輸送トレーラーが出発した。午後十時、当該トレーラーの運転手が車と積荷の盗難を報告。実際には、盗難は九時から九時半の間に行われたものと思われる」
 どうやら大半の人間は初耳だったらしく、会議室がどよっと驚きの声に揺れた。
「積荷の中身は何だ?」
 そう聞いたのはすっかり青ざめた男で、まぶしいオレンジのネクタイを指先でこねくり回している。CEOは、インテリアとの不調和という罪状で真っ先にこいつをクビにするべきだ。オレンジのネクタイ? ありえない。
 ウォルターは眼鏡をかけ、前にある書類の山の一番上の紙を眺めた。
「明細によれば、積荷には店頭販売薬、処方箋医薬品の両方が含まれ、中にはスケジュールⅢ及びⅣの薬品も含まれる」
 スケジュールとは規制薬品の分類で、ⅠからⅤまでに分かれ、スケジュールⅠ(法律により流通禁止)の薬品が最も危険性が高い。スケジュールⅤ(コデインの咳止めシロップなどもこれだ)は最も害が少ないとされている。スケジュールⅢ、Ⅳの薬品は依存性や毒性は比較的軽いと見なされるものの、法的に厳しく制限された薬品であることに変わりはなかった。
 一斉に苦悶の呻きが上がり、続いて全員が早口でまくしたて始めた。ラッキーとボーとウォルターの三人、そして取り澄ましたCEOは黙ったまま座っていた。このCEOは、どうせ自分はうまいこと泥をかぶらずにすんだと思っているだろうが──残念。
「聞きたまえ!」
 ついにCEOが手のひらをテーブルに叩きつけ、全員ビクッととび上がった。ラッキーは微動だにしなかった。
「起きたことは起きたことだ、どうにもならない。今となっては最善のダメージコントロールを試みるしかない。どう思われますか、ミスター・スミス?」とウォルターの発言を求める。
「先ほど申し上げたように、積荷は、スケジュールⅢとⅣの規制薬品を含む。麻薬取締局DEAにはすでに報告され、正式な捜査が待たれる。本日我々が来たのは、まずは損害のほどを把握し、被害を最小限にくいとめるためでしてな」
 ドラッグ捜査という巨大な仕組みの中にも、ラッキーたちのようなちっぽけな歯車がはまる隙間があるのだ。麻薬取締局DEA食品医薬品局FDAは国全体を管轄とする大組織だし、州ごとにも薬事委員会をはじめとする医薬品管理組織がある。対してラッキーの所属するSNBは、地方を管轄として捜査を行い、しばしば裏で、地味に動いていた。
 一番の急所に嚙みつくのはデカい犬ではない──静かにしのびよる犬だ。
 だぶついたウォルターの顔全体が、汗に光った。
「ミスター・クレイマー」と彼が、気取ったCEOに呼びかける。「積荷リストのコピーをお持ちかと思うが? よろしい。これらの薬品が不確定な環境に置かれた場合、品質保持可能な時間はどれだけかな?」
 ハゲかかった小柄なCEOはくいいるように手元のリストを見つめたが、ラッキーはそんな演技にだまされなかった。この男は口元のゆるんだ笑いをとっとと消した方がいい。部下どもにバレたくなければ。
「当社の品質管理基準に照らし合わせれば、温度や環境が不適切な状態が二十時間以上に及んだ場合、その医薬品は破棄されなければならない。今日は月曜だが、トレーラーの盗難は金曜の夜──つまりは今、奇跡的に積荷が出てきたとしても、もはや廃棄するしかない」
「盗まれた医薬品は……総額いくらですか?」ラッキーの左側で、震える声がたずねた。
「いくらですかな?」とウォルターがCEOに向けて眉を上げる。クレイマーが答えた。
「総額三五〇万ドル」
 どうひっくり返ってもラッキーが数百万ドル単位の話をできる立場になることはないだろうが、そんな彼にも、ほんの短時間で三五〇万ドルがパアになったと聞かされた重役連中が酸欠になる気持ちはよくわかった。
「三五〇万ドル!」
 誰かが、この場にぴったりの恐怖の声で呻いた。
 落ちつき払ったウォルターが、傷口へ塩を擦り込みにかかる。
「三五〇万ドルというのはあくまでも盗まれた品の損害にすぎませんな。盗難された医薬品が発見されていない以上、転売され、最悪、店頭に並ぶ可能性もある。薬局の棚でこのように品質の疑わしい薬が売られる事態だけは、阻止せねばならん」
 ウォルターは言葉を切り、事の重大さが重役たちの頭に染みこむだけの時間を置いた。製薬会社で働いている連中だ、物流のルールの基本くらいは理解しているだろう。
「……何種類の医薬品に、影響が?」
 そうたずねたのは例のオレンジ色のネクタイの男で、首のドギツいオレンジのせいで顔が余計に青く見えた。
 ウォルターは手元の資料に目をこらす。ただのポーズだ、間違いない。どうせ週末で情報を残らず頭に叩き込んできた筈だ。この何年もウォルターとぶつかり続けているラッキーだが、ウォルターの仕事に対する情熱も、こういう時の威厳も認めざるをえない。
 すぐには答えず、ウォルターは最大のインパクトを与えるべくたっぷり間を置いてから、答えた。
「十七種類」
「十七種類の医薬品をリコール!? そんな馬鹿な!」
 オレンジ男が失神しそうに叫んだ。
 嵐のような論争が巻きおこった。似たような騒ぎをここ何年も聞き続けてきたラッキーは全員の声を締め出し、新入りをじっと観察した。育ちのいいボンボンか何かが、金持ちのパパとママのスネをかじりながらパーティ三昧で大学をどうにか卒業し、ついでに資格も取れちゃった、というやつだろうか。服には皺ひとつなく、ガキの頃でさえ砂遊びで手を汚したこともなさそうだった。手と言えば、毎週ネイルサロンに通って爪を磨かせていてもおかしくない感じだ。どんなヘアジェルを使えばこんなにきっちり髪が整えられるのか。毎日せっせと、テレビよりも鏡の前に座りこんでいるに違いない。
 ウォルターは本気でこんなのを部下にするつもりか。ラッキーに首輪をつけて引きずり回すだけじゃ物足りないとでも? まあ、ラッキーもあの新入りの整った髪がぐしゃぐしゃに乱れるところを見たくないわけではないが──セックスで汗まみれになって、キスやフェラで唇がぼってりと赤らみ──。
 はあ? 一体どこからそんな妄想がふって沸いた? くそ、欲求不満だ。早いとこどこかで一発ヤった方がいい。すぐに。
 テーブルを囲んだ重役たちは、まだ法や規制についての熱い議論をくり広げていて、ラッキーの目の前がぼんやりかすんでくる。ついでに脳内の妄想を育ててみた。ほんの数秒で、脳内のラッキーはボーの焦茶の髪を荒れた指でひっつかみ、ヤバいくらいに上手な口で奉仕されていた。こりゃイケる。いいぞ、しゃぶれよ、都会っ子──。
 ラッキーは、ミネラルウォーターのボトルをつかむボーの指に目を走らせた。結婚指輪はなし。だが独り者にしては身なりが清潔で整いすぎてる。ラッキーの知る異性愛者ストレートで独り身の男はどいつも服なんかいい加減で、小綺麗にするのはナンパにでかける時くらいだ。まあラッキーだって、ソーセージ狩りに行く時ぐらいはめかしこむこともある。
 ボーはストレートか、それともゲイか? 「パスタだって茹でるまではお固いストレート」とも言うが。可愛いツラして澄ましているが、ラッキーが本気になればこいつの常識なんかいくらでもひっくり返せる。
 ボーは会議テーブルの左右をうかがっては手元のパッドにメモを書き殴っていた。ラッキーは、何かもっといいエロ妄想のネタがないかとボーの視線を追ってみたが、お話にもならない。コンドームを何十枚重ねたって、ここにいるスーツどもにつっこむのはまっぴら御免だ。まあ、ボーだけは別。
 てめェをヒイヒイ泣かせてやろうか──と、ラッキーは、テーブルの向こうにいるボーへテレパシーを送りつけてみた。どうも今日は電波の調子が悪いようだ。
 もう一度チャレンジしてみた。お前のケツはどうせタマネギみたいにツルツルで真っ白なんだろうな? 気持ちよさそうなケツしやがって……。
 畜生、さっき廊下であいつが前を歩いていた時、じっくりケツを拝んどくべきだったのだ。どうして見そびれたものか。すっかりなまったか、それとも──あり得ないが──仕事に真面目に没頭していたとか? これでもケツは、たとえウォルターのように垂れ下がったケツだろうと、常に忘れずチェックしてきたものだ。
 ラッキーは苛々と座りながら、ボーの、びしっと折り目がついたスーツのパンツの下のケツをあれこれ想像した。さっきボーが水のボトルを口に当てた時、上着ごしに二の腕の盛り上がりは見えた。鍛えているのだろう。ケツ筋も鍛えてんのか? スーツの下にあるのはうまそうな桃尻か?
 妄想が行きすぎているのはわかったが、ブレーキがなかなかかからない。ラッキーの脳内ではついに、桃尻を手で左右にぐいと開くところまで来た。きっとダークチェリー色のケツの穴だろう。下の毛もツルツルに剃ってお手入れしてたりするんだろ、きれい好きちゃん? お前みたいなのが一度ベッドに入れば乱れまくりに──。
 一瞬ボーから視線がそれたラッキーは、ウォルターから非難の表情を向けられているのに気付いた。肩をそびやかす。もう八年のつき合いだ、ウォルターだって慣れてきていい頃だ。ラッキーがところかまわず色目を使うのが気に入らないなら、脅し通り、さっさとクビにすればいい。
 だが、クビにされれば大いなる自由を失う。少々おとなしくしとくか。ケツを見るならこっそりと。どうせあと数ヵ月の我慢だ、ここでヘタを打つことはない。
 案内嬢がまた会議室に入ってきた。ラッキーは性欲をひとまず押しやり、コーヒーカップを掲げておかわりを要求したが、彼女はつかつかと通りすぎてCEOの前に書類の山をドサッと置いた。
 CEOはその山を見やり、一枚取り上げてじっくりと眺めた。
「問題になっている医薬品のうち、まず最初のものは四万七千個製造され、そのうち一万二千個が盗まれ、六千個は倉庫に残っている。現ロット番号での出荷は、六週間前からだ」
 その書類を手渡された隣の男が、次々と忙しく電卓を叩き始めた。
 まるで通夜の席のような重い沈黙の中、カチカチッとキーが鳴りひびき、次々と額を足していく。ついにそれが止まると、男は愕然として結果を見つめた。
「いくらだ、ロバート?」とCEOがうながす。
「もし……盗難された医薬品が発見されなければ、混入を防ぐため、我々は市場に出ている同ロット分をすべてリコール、破棄する必要があります」
「だからそれにはいくらかかる?」
 そう割って入ったのはまた別の男だった。上司の目を引くのに最良のタイミングではないが、そんなこともわからないようだ。
 クレイマーCEOが身をのり出し、計算結果を見つめた。手をのばし、さらにいくつか数字を打ちこむ。
「盗まれた医薬品の損害、リコール費用、リコール品を破棄するコスト……たかがトレーラー一台乗っ取られただけで、会社にとって、ざっと四七〇〇万ドルの損害になる」
 会議室中が沸騰した。「保険! 保険入ってますよね!」だの「警察はまだトレーラーを見つけられないのか!」だの、怒号がとび交う。
 早口の言葉が騒々しくあふれ、しまいに議論は、狼にさし出すいけにえの子羊探しへなだれこんでいく。責任をなすりつける対象を探して。
 ついにラッキーは飽き飽きして、椅子から立ち上がった。そろそろ本物のショーの始まりだ。
「えへん」と咳払いして、混沌が鎮まるのを待つ。罵り合う重役連中は、完全にラッキーを無視した。
「ちょっとこっちを見てくれませんかね、皆さん」
 と、今度はもう少し大きな声でやった。口論と、責任のなすりつけあいがやむ。ラッキーはにんまりした。
「どーも。注目されたかっただけでね!」
 ウォルターがぷっと吹き出した。この困った男は何にでも笑う。
 ラッキーはニヤリと唇の端を上げた。
 この瞬間がたまらない。
「あんたたちのトラブルを、俺なら解決できるよ」
「きみは何者だ?」
 オレンジネクタイの男がぴしりと問いかける。ラッキーは答えた。
「俺は、あんたたちのトレーラーをかっぱらった悪党さ」


■4


 全員の前へ歩み出す足どりに、ラッキーはたっぷり時間をかけた。ひけらかしすぎか? だがそれだけのことはやってやった。
『ラックライターについてひとつ覚えておくといい。もしあの男に後ろからグサリとやられたとしたなら、彼に標的を与えてしまった自分のミスだということだ』——一度ラッキーは、ウォルターが局の人間にそう言っているのを耳にしたことがある。『もしラッキーの半分でもこの仕事に対して有能だったら、私だって鼻持ちならない男になっていたことだろうよ』とも。
 それを言ったウォルター本人だって、ろくでなしを集めて組織の形に仕立てる天才なのだが。それに、実際に鼻持ちならない男だ。ラッキーと形は違えど。
 ラッキーは、新入りにぴしりと目を据えた。この"チーム”の最新メンバーもウォルターの賢者の言葉を聞かされてきたか? こいつも今日が終わる頃には、自分なんかじゃラッキーの脱けた穴を埋められやしないと、よーく思い知ることだろう。
「我々の積荷に何をした、貴様!」
 オレンジネクタイの男が怒鳴って、荒々しく立った。ラッキーはニヤッとして、自分でローリー工場にラッキーを雇い入れたくせに、この会社の緊急事態でも部下の顔すら思い出せない上司にウインクしてやった。
「ミスター・クレイマー、セキュリティを呼びます!」
 CEOのクレイマーは片手を上げ、男を止めた。
「やめるんだ。座って、話を聞きたまえ」
 男は椅子に戻り、刃のようなまなざしでラッキーを刺す。ラッキーは男の名前を探して記憶を引っかき回したが、まあどうでもいい。ラッキーの見せ場がすむ頃には、この男のクビはほぼ決まりだ。月曜には、あの重役用の駐車場からBMWが一台減っていることだろう。この嫌みったらしい男は自分の統括下で起こった貨物強奪事件についてすらろくに把握してやがらない。
「荷物はバッチリ無事で、あるべき場所にお届けしといたよ——あんた方の、オーランドの倉庫にね」
「ミスター・クレイマー、どういうことなんです! この男が輸送トラックを強奪したなら、どうして逮捕もされずにこんな……」
 クレイマーCEOのぽっちゃりした顔が赤黒くなった。
「彼がおとがめなしなのは、今回は私の許可のもと、我々の製品管理システムの保安性を検証してもらったからだ!」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ取り巻きの声に負けまいと、CEOはそう声を張り上げた。
「我々のセキュリティにはまだまだ改善の余地がある。彼らは——」とCEOはラッキー、ウォルター、ボーに向けてひとつうなずき、「薬品流通ルートにおける盗難防止の専門家で、流通過程での弱点をあぶり出してつぶすのも仕事だ。この週末の検証結果を見るに、彼らが我々の味方で幸いだったな」
 ラッキーは、自分以外の誰の味方でもないが。
 クレイマーは場の主導権を——この瞬間だけは——握ると、一気呵成にたたみかけた。
「いいか、これが本当の緊急事態ではなかったという前提を共有できたところで、私はミスター・スミスと連れの方々にこの場をゆずり、いかにすればこのような事態が防げたか教えていただくとしよう」
 ウォルターが微笑んで、ラッキーへうなずいた。ラッキーはほんの少し、態度を正した。高飛車で短気なクソ野郎の顔はひとまずしまって、鉄のプロフェッショナルの顔を見せてやる時だ。現場で汗水を垂らす労働者階級を当然のように見下してくるスーツ族になめられないように。こいつらはいつもそうだ、相手の手が自分たちのタマを潰せる万力のレバーにかかっている時でさえ。そんなことだから、下から足元をすくわれるんだよ。
「きみは、じゃあ製品を制限時間内に倉庫に届けたんだな? 製品の品質に問題はないと……?」
 おずおずとした声が、静寂を破った。
 まずは一人目だ、来い、そのぬくぬくした群れから出てきやがれ。お前から片付けてやる。待つ苦しみからさっさと解放してやろう。
 ラッキーは見下した目つきで質問者を刺した。
「第一に、そんなことができたこと自体がおかしい。一体どういう了見で、貨物の盗難について倉庫に報告しておかなかった? 一刻も早く知らせるべきだった。俺が偽の薬品をトラック山積みにして運びこんでたらどうなったと思う? あんたたちの倉庫の棚は、この瞬間、毒物で満杯になっててもおかしくねえんだぞ」
 目の前に雲のように渦巻く怒りで、ラッキーの視界がぼやける。
「だがちっとばかり話が飛んだな」と横柄に、室内の面々を見渡した。「俺なら、ここからの話はメモを取りながら聞くね」
 その助言通り、スーツの幾人かがノートに何か書きなぐった。何を書いているやら。ムカつく、死ね!とかかもしれない。前に、会議室のテーブルに似たような文句が書き残されていたことがある。
「あんたらのミス、その1!」
 項目を数えて、指を一本上げた。
「運転手が荷積みに来たのは、十六時間の規定連続運転時間の終わり間際だ。当然、荷物をたっぷり抱えたままルートの途中で休憩に入るわけだ。ミス、その2!」
 二本目の指を上げた。
「会社の規則上では、本来トラックは荷受けの時点でガソリン満タンであるべきだ。荷受け地点八十キロ圏内での駐車は禁止だ、追尾されている場合を考えてな。根拠のないことだと思うな、貨物強奪の多くは荷積み地点の八十キロ圏内で起きてるんだよ」
 昔は、その統計にラッキー自身が大いに寄与していたものだ。
 席のほうにふらりと歩みより、空のカップをチラッと見下ろした。どうでもいいような手つきで、それでもカップを取り上げ、ラッキーは冷えきった最後の一滴とコーヒー滓を味わった。
 怯えた幹部どもは、今日という日の行き着く先がどんな地獄か、まだまだわかっちゃいない。数秒の沈黙で、その予感の片鱗を味わわせてやる。
「ここでひとつ、言っておく。ミスター・クレイマーからはいかなる内部情報の提供も受けていない。俺は、派遣会社を通してこの会社に就職し、あんたたちの工場に潜入した。つまりな、あんたたちの雇用の身元チェックはザルだってことだよ」
 まともに履歴を確認していれば、正気の人間がラッキーを薬品関係の仕事に雇ったりするわけがない。キツネに鶏小屋の番をさせるようなものだ。たしかにウォルターもちょいと記録をいじったんだろうが。
 オレンジネクタイ野郎がはっと息を呑んだ。あのひどいネクタイがついに首根っこを締めてきたか?
「その顔、どこかで見たと思ったぞ——」
 ラッキーはニヤッと、攻撃的に笑い返してやった。
「そりゃそうだろ、あんたが俺を雇った本人なんだからな? ひでえなあ。自分の管轄下で働いてる奴の顔もわからない。つけ足しとくと、俺に予定のルートを教えてくれたのは運転手本人だ。これがミスその3。あいつだって、あんたと同じくらい俺のことはろくに知らなかったってのにな」
「そういうことなら、それは運送会社に説明責任があると言わざるを得ない」
 ラッキーの元上司はそう言ってのけた。
 ほっほう、責任をおっかぶられそうな相手を見つけたか、腰抜けが。ラッキーは目を細め、この男に送りつづけている"うすら間抜け”というメッセージが届くよう念じた。下請け業者がルールを遵守している限り、法的にはリージェンシー製薬にすべての管理責任があるのだ。運送業者も同様。
「ミス、その4」と続けた。「この手の貨物輸送には二人一組で当たるべきだ。いかなる場合でも車を無人にしないように。ミスその5は、運転手が製薬工場を出て八十キロ圏内で休憩を取ったこと。その6? GPS発信器は実際に仕掛けられてない限り、何の役にも立たないのさ。できれば輸送用カートンにくっつけとけ、犯人が荷物を分散した場合にそなえてな」
「カートンごとにだって?」オレンジネクタイ野郎はまだ落ちかけのクビを救おうとしてあがいているようだ。「一体それにどれだけコストがかかるのか、知ってるのか?」
 この男はピカピカのBMWを乗り回し、ランチをたっぷり二時間楽しみ、金曜は休みだというのに。ま、そんな暮らしももう終わりだが。
「いや、知らないね」ラッキーは嘘をついた。「四七〇〇万ドルよりはお安いだろ? 俺は五分とかからずこの会社のふところからそんだけふんだくったけどな。どうせただの芝居だったんだろって安心する前に、この数字をよく聞いとけ。去年一年間で、アメリカ国内で起きた貨物強奪事件は七百件近くにのぼる」
 口を閉じるべき時を知らない男が言い返した。
「いや、こんなのは運送業者を変えれば片付く問題のようにしか思えないね」
「そう先走んなよ」ラッキーは自分の上司に合図した。「ウォルター?」
 ウォルターがリモコンをかまえると、テーブルのど真ん中に鎮座していたプロジェクターが息を吹き返した。映像が再生され、金属網のケージの中にある、様々な寸法の、梱包済みの箱が映し出される。ケージの周囲から、ぐるりと、何度もその様子が撮られていた。
「こいつが何だかわかる人?」
 ラッキーがたずねる。
 クビ目前のオレンジネクタイ野郎がエサに食いついた。
「これは、リージェンシー製薬の工場内の、規制薬物を保管するケージ内のようだが」
「さすがに、自分の工場の中は知ってたか。じゃあ聞こう。この映像のどこがヤバい?」
 いくつか、ぼそぼそと囁きが聞こえたが、誰もはっきりと発言はしなかった。
「なら俺が言ってやろうか」ラッキーの顎がこわばる。この能無しどもがどうやってこんな高い給料の職にありついてる?「この映像はな、ほんの数日前に雇われたばっかりのパート従業員が撮ったもんなんだよ」
 またもや、誰も返事をしなかった。ラッキーはふうっと息をつく。
「そのパートは、規制薬物ケージのそばに監督者抜きでいたんだよ。そんな資格も権限もないのに。俺について来た監督役は、俺を放って電話をかけに出てった。電話をだぞ」
 またここで一つクビが飛んだ、か。
 最低でもあと十人のクビが、ふらついているに違いない。そしてラッキーはまた一つクビを蹴り落としにかかる。
「ケージ内には監視カメラも設置されているが、セキュリティがやってきて俺を連れ出すようなこともなかった」
 ぐるぐる動き回る映像はさらに何人ものスタッフを映し出したが、彼らは立ってしゃべっているばかりで、ろくに仕事をしている様子はなかった。工場の責任者のオレンジネクタイは、両手に顔をうずめていた。映像は暗くなり、四角く切りとられた淡い光だけが映る。
「あれは?」と誰かがたずねた。
「ああ、大したもんじゃない」ラッキーはぞんざいに答える。「ただの明かり取りの窓さ。格子もされてない天窓だ。俺はな、あるランチ休憩の間にこの窓をくぐり抜けて、次の日もちょっとした運動がわりにもう一度やったよ。あの窓はどうにかしたほうがいい。鍵もかかってないし、一発で開く。業界紙を読んでりゃわかるだろうが、近ごろの強奪犯はこの手の入り口から入ることが多いんだよ」
 ラッキーの携帯が振動した。画面が見える程度にポケットからのぞかせると、〈皆、位置についた〉というウォルターからのメッセージが届いていた。ラッキーは重い息を、肺が空になるまで吐き出す。さて、本格的な嵐が来るぞ。
 クレイマーの電話が鳴った。「重要な用件なんだろうな」とクレイマーが相手に凄む。プロジェクターは、さらにいくつかの保安上の欠陥を映し出していた。ラッキーはクレイマーが電話に怒鳴っている声を耳から締め出し、それぞれの問題点を淡々と説明していく。しまいに、クレイマーに割りこまれた。
「一体どういうことだ?」刺すような目でラッキーを睨み、CEOは携帯を握りしめた。「あんたたちもこれに関与しているのか?」
「連邦機関による抜き打ちの査察がローリーの工場に入った、ってことなら、ああ、俺も知ってるよ」
「だが……しかし……」クレイマーの虚勢ははがれ落ち、かわりに驚愕と憤怒がむき出しになる。「きみたちは私のために働いてたんだろ、違うのか? ただのテストだった筈だ。その結果を私以外の誰かに知らせるなど、あっていいわけがない」
 ラッキーがウォルターに向けて問うように片眉を上げると、ウォルターが場を引き継いで答えた。
「我々は企業のプライバシーを尊重するが、業務上の過失を見逃すと連邦法違反に問われるのでね。残念なことに、うちの者が今回の調査過程で数々の違反行為を発見したため、こうして査察という結果に至った」
 クレイマーの口が数回の開閉をくり返したが、意味のある言葉は何も出なかった。すっかり錆びついた応急手当訓練の記憶が必要になるかと、ラッキーが心配したほどだ。
 ウォルターの手の一振りの合図で、ボーとラッキーは上司につき従ってテーブルをぐるりと回ると、会議室を後にした。誰も三人を止めようとしなかった。閉まるドアが、室内にとび交う怒号をほんの少し遠くする。
「それで、どうなるんです?」
 廊下を連れ立って歩き、正面玄関から出ながら、ボーがたずねた。
「ここからの調査は、食品医薬品局FDAの管轄になる」
 ウォルターが、親しみのこもった手でボーの肩を叩いた。
「行政警告書が出るだろうし、保安上の欠陥が是正されるまで出荷停止措置を受けるかもしれんな。我々の今回の役目はセキュリティの弱点をあぶり出すことで、我々は仕事を果たした。昔の格言にも言うだろう、“望みには注意せよ、かないすぎることがあるから”と」
 三人はレンジローバーに乗りこみ、奇形のビルを後にした。ラッキーが言い放つ。
「混乱、騒動、パニック。さ、ひと仕事上がりだ。手近なスターバックスはどこだい?」
 バシッとレイバンをかけ、満足げな笑みをこぼす。
 アメリカ有数の企業を跪かせたばっかりだってのに、望みは一杯のコーヒー。俺ってやつは。

--続きは本編で--

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