ドント・ルックバック
ジョシュ・ラニヨン
■1
月は熟れていた──夜空に低く、金赤の輝きを帯びて巨大に垂れ下がっている。花をつけたジャカランダの枝ではマネシツグミが騒いでいた。
チチチッ、チチッ、チュクッ……
ピーターはよろめきながら煉瓦の道を歩いていた。足が何かに引っかかり、がくりと膝をつく。息が荒い。生温かい煉瓦の上で、自分の手が白くにじんで見えた。何とか集中しようとしたが、その時、血の雫が──彼の血が──顔をつたってぽたぽたと煉瓦に滴りおちていくのに気付いた。
胃がねじれて今にも嘔吐しそうだった。吐き気を飲み下し、ピーターは何とか立ち上がる。コロカシアの黒いベルベットのような葉がざわざわと闇に揺らぎ、囁きかわす中、彼はよろめきながらも歩き続けた。日時計やほの青く光る彫像たちを通りすぎ、弱々しく光るソーラー式のランタンの横を通る。
夏の夜は生温かく、ジャカランダの木が落とす影は黒々と暗く、冷たい。だが深い夜とはまるで別の暗闇が、今にもピーターの視界を呑みこもうとしていた。血が、彼の目をふさぎかかっている。彼はおぼつかない手で目を拭った。
狭く、長い庭園の階段を、ようやくのぼりきった。コンスタンティン美術館の建物が表れる。裏口がピーターの目の前にそびえたつようだ。彼は裏口までよろよろと歩きながら鍵を探った。たどりついたドアにもたれ、塗装された木の表面に額を押し当てて、ポケットの中をまさぐる。
見つけた鍵を、裏口の鍵穴に差しこんだ。回る。
ドアは大きく開いて、ピーターは廊下に転がりこんだ。
血と痛みに半ば目をふさがれたまま、ふらふらとした足取りで、廊下の先の展示室と自分のオフィスへ向かった。東洋の敷物に足が引っかかり、どさっと倒れこむ。
どこか遠く、警報の鳴る音が聞こえた。目を開ける。
まるで望遠鏡をのぞきこんだように朦朧とかすんだ視界に、白い観音像の美貌が浮かび、こちらを見下ろしていた。小さな壺を手にした観音像は、激痛にうずくピーターの頭上から見えない何かを注ぎかけている。透明な、あれは甘露。見えない甘露で飢えた亡霊を養っているのだ。
遠く、遠く、歪む視界の中で、観音の神秘的な顔が小さくなっていく。どんどん、どんどん遠ざかり……ついには暗闇に散った火花のひとかけらのように、消えた。
* * * * *
男は低く、セクシーな笑いを小さくこぼすと、ピーターをサテンのクッションに押し倒した。
ついに本当にこんなことが? このまま──最後まで?
まばたきしながらピーターが見上げているうちに、彼の胸元からネクタイがほどかれて脇に放り出され、シャツのボタンがすべて外され、前が大きく開かれた。夜風が──スモッグとジャスミンの香りがする──熱にほてる肌を涼しくかすめる。まるでかすかな夜の吐息のように。
対して二人の息は熱く、荒く、切羽つまっていた。互いの肌がふれあうだけでこらえきれない喘ぎや呻き声がこぼれる。ほんの一瞬、ピーターの生来の冷静さが目をさまし、自制心や懐疑心がよみがえって現状を分析しようとした。
目を細めながら、夏の闇に沈む男の顔をはっきり見定めようとする。だが男は熱い体を深く倒し、二人の唇が重なった──そして二人の屹立も固く、熱く、擦れ合う。
快感が湧き上がってくる。ただ気持ちがいい。張りつめた固さと、それを包むなめらかで繊細な皮膚と。欲望がピーターの全身に満ち、心臓の鼓動に合わせて腰の奥がうずく。多すぎるほどの快楽が押し寄せていた。あまりにも圧倒的な……だが、凄く、いい。
熱い息と、清潔な肌をつたう汗の鋭い匂い、ピーターの乳首に擦れる相手の胸元の毛の刺激。力強い腕に抱きよせられて互いの体がもつれあい、脚が絡み合う。
ああ、本当のことなのだ。ついに。
もう迷いは感じなかった。迷いも疑心も不安も、今なら喜んで捨てられる。何もかもがただ自然だった。
ピーターはついにためらいを振りきる。この瞬間を、彼はあまりにも長い間待っていたのだ。
長い間。ずっと昔から。
コールのために。コール。胸いっぱいに、温かな幸福が満ちあふれていく。コールがいる。そばにいてくれる。彼らはこうなる運命だったのだ。そしてついに……。
ピーターの睫毛が揺れた。
目を開いて、最初に視界に入ってきたものは、刑事の険しい顔だった。
どうしてベッドの横に立つこの男が刑事だとわかったのか、ピーターには定かではない──知らない男だ。
それとも知り合いか?
大きな男だった。太っているわけではない、ただ大柄なのだ。背が高く、肩幅が広く、たくましい。雄牛のように。それも猛々しく美しい、闘牛に用いられるような牛だ。体つきは見事な彫刻のようだった。顔立ちは鋭く、容赦のない雰囲気をたたえている。くぐもった色の黒髪、挑むようなブルーグレーの目、今にも皮肉の毒を吐きそうな強い口元。
ぼんやりと男を一瞥しただけで、ピーターの中で警戒心が首をもたげ、何かまずい事態に陥っているのだと感じた。彼は口を開けたが、声にならない奇妙な音が出ただけだった。
その時、別の顔がピーターの視界にぬっと出てきた。女性の、落ちついた、いかにも物慣れた顔。看護師だ。彼女はなだめるように言った。
「大丈夫ですよ、ミスター・キリアン。もう何も心配はいりません。大丈夫」
徹底した自信をもって言い切られ、思わずピーターの緊張が解けた。もう大丈夫、そんな気がする。体は温かく、ふわふわとどこかを漂っているかのようだった……あの刺々しい表情の男が姿を消したことにほっとする。幸福感すら湧いてきた。そう、夢を見ていた筈だ──何かの夢を……。
もうその夢も遠く、もつれて、意味を失っていた。彼は思い出すのをあきらめて、夢を手放す。そして、すべてを手放した。
二度目の目覚めは、本当の目覚めだった。
ピーターははっと目を開ける。ベッドの横にはさっきと別の看護師がいて、彼に対して何か、落ちつかせるような優しい言葉をかけていた。ピーターは返事をする。
また意識がぼんやりとかすんだが、やがて焦点が戻ってきた。病室は人でごった返していて、いつのまにか現れた医師が彼に質問を浴びせていた。
ひどく──混乱する。疲労が激しい。頭も痛い。強烈に。
「一体何があったんだ……?」
ピーターは呟く。
「あなたは脳震盪を起こしたんですよ、ミスター・キリアン」
戻ってきた答えを、じっくり考えてみた。いや、それだけでは説明にならないだろう。その筈だ。そうではないだろうか?
彼はたずねた。
「どうして?」
「あなたは盗難に遭遇して負傷したんです」
盗難……つまり強盗に遭ったということか?
何も思い出せなかった。そんな目に遭ったのなら簡単に忘れるとも思いづらいが。気持ちがひどく落ちつかなかった。今はただ眠りに戻りたい。
「思い出せない……」
ピーターは呟き、重い瞼が落ちていった。
その次に目を開けた時には、あの雄牛──いや刑事──がまたそばに立っていた。
引き結ばれた唇が、親しみのない笑みを浮かべる。
「やあ、ピーター。また会ったな」
「ああ」
ピーターは答えを返しながら、どうにか意識を集中させようとした。目がぼんやりとかすんでいる。
「前に会ったことがあるか?」
たずねると、沈黙が落ちた。刑事のブルーグレーの目が──青みよりもグレーの色味が強い──きりりと細められる。
「会ったことがないと言うつもりか?」
ピーターの心臓が激しく高鳴りはじめた。
「……ああ」
「俺を──?」
「知らない」
また次の沈黙。そして刑事はふたたび微笑を浮かべた──前よりもさらに冷ややかな笑みを。
「ほう、そうかな?」
「違うのか?」
ピーターは弱々しい問いを絞り出した。今やこめかみも、心臓の鼓動に合わせてズキズキと脈打っている。一瞬にしてひどく気分が悪くなっていた。
「お前が覚えてることは?」
「俺は……」ピーターは口ごもった。まるで足元の砂が崩れて呑みこまれていくようだった。「君は、一体誰だ?」
その問いは自分の耳にすらひどくか細く、遠く響いた。
男が笑い声を立てる。それから、その顔が嘲りに歪んだ。
「勘弁しろよ、本気か? まさかな。そんなデタラメが通用すると、お前は本気で思ってるのか?」
ピーターはただ相手を見つめることしかできなかった。激しく動揺していたが、たとえ何とか言葉を出せたとしても何を言えばいいのかまるで見当もつかなかった。自分の身に今何がおこっているのか、まるで理解できない。信じられない。何か──何かがいびつだった。
とにかく目の前の男が誰であれ、今、この男にピーターの動揺や弱みを見透かされるわけにはいかない、それだけは本能的にわかった。
口を開く。
「出ていってもらえないか」
「ほう、どうして?」
ピーターの要求など意に介さず、男は冷たい目で見つめ返した。
「俺が誰かも知らないのに何でそんなことを言うんだ?」
「あなたが気に入らないからだ」
ピーターは正直に答えた。
男はまた乾いた笑い声を立てた。「どうやら、覚えていることもあるじゃないか。ほかには? 何か思い出せないか?」
ピーターは口を開けたが、何も思い浮かばなかった。何一つ。ありえない。
いや、わかっていることもある──看護師は彼を“ミスター・キリアン”と呼んでいたし、目の前のこの態度の悪い男は彼を“ピーター”と呼んだ。そして医者は何か──そう、盗難があったとか言っていた。
「……自分の名前はわかっている。だが後のことは──まだ、ぼんやりしているんだ」
「随分と都合がいいな」敵意のこもった嘲りだった。「さて、それならおさらいといこうか。俺はマイケル・グリフィン。ロサンゼルス市警の、強盗殺人課の刑事だ」
グリフィンは平たい財布のようなものを取り出すと、大きく、やたらと大仰に見える警察バッジを示した。
ピーターは目を細めた。ある程度、理屈は通る。彼は殴られて気を失った──おそらく強盗に──のだから、刑事が事情を聞きにやってくるのは当然だ。その筈だ。
だがグリフィン刑事の態度は、証人というより容疑者に対するもののようだった。しかも、明らかに彼ら二人には過去の確執がありそうだ。
だが二人の間にどんな接点がありえるのか、ピーターにはまるで見当もつかなかったし、あるとも思えなかった。彼は疑念の目でグリフィンの顔を眺める。ピーターは法を遵守するタイプの人間だ──何故かその確信には揺るぎがない。ろくに何も思い出せないが、自分が警察の厄介になるような人間でないことだけははっきりしている。
だろう?
それ以外の、個人的なつきあいがこの刑事との間にあるわけがない。
ひとつ、ピーターが自分について思い出せたことがあった。彼は男が好きだ──つまり、ゲイだ。そのことを受け入れてもいる。
もしかしたらグリフィンはゲイが嫌いなのだろうか? この刑事の敵意はそこから来ているのかもしれない。だがどうして、彼がピーターの性的指向を知っているのか。そんな個人的なことをピーターが誰かれかまわず話して回っていたとも思えないし……それにグリフィンは話しやすい相手には見えない。もしこの男がピーターの好みだったならまた話は別だが──いやそれでも無理だ。そもそも好みではない。自分の好みのタイプがどんな男なのかは思い出せないが、とにかく目の前のマイケル・グリフィンは、絶対にピーターのタイプではありえない。
「何か思い出したか?」
グリフィンが問いつめる。
「……俺は、殴られて、気絶したんだ」
「成程、それで記憶喪失になったと。そういうお話か?」
グリフィンの方でもピーターを嫌っているのがあからさまだった。この男の刺々しい態度にこれ以上付き合う気力が、今のピーターにはない。
彼は一瞬、目をとじた。それから開き、刑事に話しかける。
「その話は……できれば、後にしてもらえないか?」
「ほう、自分に何が起こったのか知りたくないっていうのか? てっきり知りたくてたまらんもんだと思ったがな──何たって何一つ覚えてないんだろ。違うのか?」
ピーターはグリフィンをじっと見つめた。
「俺は……誰かに、襲われたんじゃないか?」
「誰に?」
「俺は……強盗に遭ったのか?」
と、ピーターはもう一度たずねる。
グリフィンが強盗殺人課の刑事である以上、それはきわめて確率の高い予測と言えた。だがその思考回路を読まれた様子で、グリフィンがゆっくりと言った。
「あてずっぽうで言ってるな。でなきゃ、あてずっぽうに見せかけようとしているのか」
うんざりだった。こんな嫌な男の相手はしていられない。ピーターは目を閉じた。今の彼にはとてもこれ以上耐えられそうにない。
沈黙。
その沈黙はただ長くのび──それでもグリフィンは立ち去ろうとしない。
目を開けたピーターは、刑事の顔に浮かんでいる奇妙な表情を見て驚いた。固く、猜疑に満ちた表情ではあったが、そこには何か、はっきりと読みとれない不思議な感情が混ざっていた。
ピーターが見ていることにグリフィンが気付いた瞬間、その表情は霧散して消えてしまう。
「じゃあ思い出す手伝いでもしてやろうか。あんたの名前はピーター・キリアン。“ピート”と縮めて呼ばれるのは嫌いだ。三十五歳、独身、ロス生まれのロス育ち。コンスタンティン美術館のキュレーターをしている。どうだ、少しは聞き覚えがないか?」
ピーターは唇をなめた。乾いた口の中が奇妙に苦く、頭に鈍痛が脈打つ。この先は聞きたくない、そう何かが告げている。だが──聞かねばならない。それもわかっていた。
「あんたは、あの美術館のキュレーターとして三年あまり勤めている。その三年の間にな、美術館から十万ドルを上回るほどの骨董品や美術品が消えている」
グリフィンが返事を待つように間を置いた。ピーターは自分は無実だとかすかに首を振る。何と言えばいいのかわからなかったし、わかっていてもとても声が出せる気がしなかった。心臓は猟犬に追い立てられているかのように激しく鳴っていた──思えば、今の状況も似たようなものだ。グリフィンは牙こそ剥き出しにしていなかったが、獰猛にピーターを追いつめにかかっていた。
「二日前の夜、どういうわけか、あんたは美術館の庭園の奥にある
岩窟へ行って、そこで──状況から推察されるに──十世紀の貴重な壁画を運び出そうとしていた最中の泥棒とはち合わせた」
十世紀。悲惨な世紀だった──そのすべての一年に至るまで。カエサル・バロニウスが“鉛の時代”と呼んだ、暗黒時代の中でも特に暗い闇の時代。
「どうして庭園の奥にそんな貴重品が放ったらかされていたんだ?」
ピーターの弱々しい反問を、グリフィンは無視した。
「どうやらあんたはそこで頭を殴られて気絶し、その間に強盗犯は壁画を盗んでまんまと逃げおおせたらしい──そしてあんたは意識を取り戻して、美術館へ戻り、セキュリティを解除せずに裏口から中へ入って警報を鳴らしたというわけだ」
グリフィンの説明を聞きながら、ピーターの脳裏を朦朧とにじんだ映像がかすめる。狭い洞窟……閃く影……言い争う声のこだま……褪せた色で繊細に描き出された絵……その絵に描かれた、馬にまたがった二人の男──唐の男たち、そう、これは墓に描かれた壁画だ。ああ、たしかに覚えている──。
覚えている……何かを。
グリフィンは淡々とした口調だったが、数秒後、やっとピーターはグリフィンがその話を信じていないような言い回しを使っているのに気づいた。
「君は、本当はそうじゃないと疑ってるのか?」
「いかにも都合のいい話だと思ってな。あんたの記憶喪失とご同様に」
その返事はピーターにずっしりとのしかかる。まるで出口を探して霧の中をさまよっているような、得体の知れない不安感がこみ上げてきた。
やっと、たずねる。
「まさか、俺をその壁画強盗の一味だと疑ってるんじゃないだろう?」
「そうなのか?」
「違う! 勿論、そんなことはしてない──」
「ほう、何も覚えてないんじゃなかったか」
ピーターはベッドに起き上がろうとした。
いい判断とは言えなかった──それどころか最悪だった。ベッドの左右に柵はあったが、それでもピーターの体は病院の狭いベッドからあやうく転げ落ちかかる。まるで内臓も逆さまになり、脳が頭蓋の内側に叩きつけられたかのようだった。意識のすみで、ピーターはグリフィンに抱えられてベッドに寝かせられるのをぼんやりと感じる。グリフィンは何か言っているようだったが、まるで内容が聞き取れなかった。
グリフィンがナースコールを鳴らしたのか、遠くブザーのような音が聞こえた。めまいと吐き気がこみあげ、全身が凍るように冷たい。グリフィンに言わなければ──自分は無実だと、この男に伝えて理解してもらわなければ。だが伝える前から、ピーターはもはや望みはないとわかっていた。グリフィンはピーターが有罪だと、はなから決めつけているのだ。
病室にあっというまに人があふれた。騒々しく、慌ただしい。その音の向こうから遠くグリフィンが言いつのる声がした──だが誰かにきっぱりと説き伏せられる。ピーターが額にのばした手は、包帯にふれた。頭が割れそうなほど激しくガンガンと痛む。誰かが彼の上に身を屈めたかと思うと、腕にチクリと刺激が走り、突如として周囲の喧騒が遠ざかりはじめた。
静けさが戻ってくる。温かく、暗い。漆黒が大波のように四方から押しよせ、ピーターは喜んでその中に沈みこんでいった。
* * * * *
唇が重なる。
腰を寄せ、切羽つまるほど固くはりつめた互いの屹立を擦り合わせる。ゆるい動きは、だがすぐに荒々しくなって──どこかぎこちなく、ためらいがちにではあったが──それもまたゆっくりに戻ると、二人の体は心地よいリズムを見つけ出す。少しずつ早く、早くと追い上げていきながら、夢中で求めあう。
とまどいも、ぎこちなさもすでに消えていた。ただ求めながら、互いに与え、互いを満たしていく。激しい鼓動を打つピーターの胸に相手の胸が重なり合い、二つの心臓の音が聞こえてきそうだった。
ハスキーな声がピーターの耳元に何かを囁く……言葉は聞きとれない。だが大丈夫だ。言葉など、なくとも。この瞬間こそ彼がずっと求めてきた、あまりに長い間待ち望んできた瞬間なのだから。
どうして怖がっていたのだろう? この一瞬を。何故、決してありえないと信じこんでいたのだろう──。
「……コール?」
ピーターは、はっと眠りから覚める。
冷えきった沈黙が答えた。
今、実際に声に出して呼んだのか?
「さて、教授、どうやら記憶が戻りつつあるようだな?」
教授? ピーターは目を開けた。
青空と雲。悪くない。どこか奇妙な感じはするが、いい景色だ──いや、色の付いた散光パネルの向こうで蛍光灯が光っているだけだった。
ピーターは頭を回して横を見た。きわめて慎重に。目に入ってきたのは医療装置と……そして、グリフィン刑事の顔。あれはすべて夢だと思いたかったが違うようだ。まあ近頃の夢の内容からして、グリフィンが夢に出てこないのは救いかもしれない。
グリフィンが、またもピーターのベッドの横に立っている、まるで忠実な恋人のごとく。
たしかに、いつまでも見逃してはくれないだろうと思っていた。昨夜はさすがにグリフィンも病室に姿を見せなかったが、今朝はこうして早々と、ピーターの家族や恋人でもあるかのような顔をして押しかけている。
その考えに、ピーターの気持ちが騒いだ。そう言えば、どうして誰もこない? 思わずグリフィンにたずねていた。
「何で……誰ひとり見舞いに来ないんだ?」
「つまり俺は数に入らないと言っているのか」
「そうじゃない──つまり、俺の……」
「あんたの?」
だが答えを聞くまでもなく、ピーターは答えを悟っていた。来ないのは、誰もいないからだ。彼には家族がいないのだ。友人も──。
そこでピーターはグリフィンに疑いのまなざしを向ける。グリフィンのブルーグレーの目は何一つ見逃しそうになかった。たとえ廊下にピーターの友人たちが見舞いの列を為していたとしても、グリフィンは目当ての答えをピーターから得るまで誰ひとり病室に入れようとしないだろう。
だが、その答えとは何だ? ピーターに罪の自白か?
ピーターが黙っていると、グリフィンが口を開いた。
「コールがどうして来ないのかと思ってるのか?」
「コール……?」
グリフィンは無表情のままだったが、一瞬、隠しきれない苛立ちがその顔をよぎった。たしかに。
「起きる時、コールの名前を呼んでいただろう。それでもコールが誰だか覚えてないふりをする気か?」
どう答えるか、とにかくここは用心深く対処するべきだ。
「寝ぼけていたからな」
「お前は本気で、コールを覚えていないと言いたいのか?」
コール。コールが誰なのか、果たして自分は覚えているだろうか? コールの顔もまったく思い出せない。それなのに呼んだところをみると、コールの名前はピーターの意識のどこかに刻みこまれていたようだ。忘れ去るにはあまりにも大事な名前なのか。
それなのに、忘れてしまったのだ。
ピーターの胃が不意にねじれた。薄氷の上に踏み出してしまったかのような危機感──氷の冷たさがひえびえと伝わってくるようだ。グリフィンはどこに所属していると名乗った? ロサンゼルス市警、強盗殺人課……そこは強盗と──殺人を扱う部署だ。グリフィンはほかに何か言っただろうか、思い出せない。だがとにかく、コールという人物がこの一件に関係しているのは確かだ。ピーターの勘がそう告げている。
しかも何か悪いことに。それもわかった。耐えられないほどひどいことが起こったに違いない。
「コールは、誰なんだ?」
「コール・コンスタンティン。マクブライド・コンスタンティンの孫の孫だ」
ピーターはぽかんとしていたのだろう、グリフィンは嘲るように口元を歪めて笑い、続けた。
「マクブライド・コンスタンティン艦長だよ。コンスタンティン美術館の創設者でもある。海の向こうの国のお宝をまとめてかっさらって南カリフォルニアに持ち帰ってきた、昔々の船乗りさ」
「それで、そのコールと俺の関係は?」
グリフィンは斜めに眉を持ち上げた。
「いい質問だな。まず第一に、コールはお前の雇い主だ。ま、雇い主の一人と言うか、彼は美術館を取り仕切る理事会のメンバーだ。そして」
続けながら、グリフィンの目はくいいるようにピーターの表情を見つめていた。
「コールとお前は、大学時代のルームメイトであり、親友だった」
「それだけか?」
「どうだかな」
ピーターはじっとグリフィンの顔を見つめ返した。鋭く、残酷な顔だ、と思う。グリフィンの目はまるで凍てついた冬の氷のようで、永遠に溶けそうにない。
「コールに……何かあったんだな?」
「たとえば何が?」
全身の筋肉が緊張のあまりきつくねじれそうだった。恐怖がこみあげてくる──ピーターの体は震え出していた。
「たとえば何か……悪いことが──」
ピーターは思いきってたずねる。
「コールは、死んだのか?」
グリフィンが声を立てて笑った。
「いや、それより悪い。コールは結婚したよ」
■2
「ほんっとにほんとになーんにも覚えてないの?」
ロマがそう怒鳴った。
彼女は四十歳前後のすらりとした小柄な女性で、ヘイゼルの目と、いわゆる“ピクシー・カット”と呼ばれたショートヘアの黒髪をしていた。
どうやら、この女性はピーターの大親友らしい──そして突如としてピーターを迎えに病院に姿を現した彼女は、現在、クラシックな緑色のMGをとばしてピーターの家に向かっている最中だ。運転は上手だったが、あまりにもとばしすぎである。
「記憶はそのうち戻るらしいよ」
ピーターはゴウゴウとうなる風ごしに、どっちつかずの返事を返した。
「じゃあ、私のことは覚えてんの?」
「何となくは」
本音を言ってしまえば、覚えていない。
だがどうやら自分にも友人がいたらしいとわかって、ピーターは安堵していた。数日足らずの入院ではあったが、ひどく孤独で気持ちのふさぐ日々だったのだ。そこにロマが突然現れて、長年の友人だと言い張りはじめるまでは。
その言葉が本当かどうかは、ロマを信じるしかない。だがピーターは彼女が気に入った。裏表のないまっすぐな態度も気に入ったし、記憶がないというピーターの現状を大騒ぎもせず受け入れてくれたのもありがたかった。彼女のことは一向に思い出せないものの、たしかに友達でもおかしくないという気がする。
ロマは、もごもごとごまかすピーターに声を立てて笑った。
「ありゃりゃ。じゃあ私を信用してついてきてくれたってこと? そりゃ光栄だわ」
ちらりと横目でピーターを眺める──心底、やめてほしかった。猛スピードで二一〇号線を突っ走っている最中なのだ。やっと病院から解放されたというのに、すぐ逆戻りという事態はなるべく避けたい。
──成程。
自分はそういう人間なのだと、またひとつわかった。慎重。危険は好まない。
「途中でどこか寄りたいとこある? とりあえず何日かは困らないように、ジェシカが買い出しに行ってくれてるけど」
ピーターがつなぎ合わせた情報によれば、ジェシカはロマのパートナー、つまり恋人である。ジェシカについてもやはり何も思い出せなかった。
もっとも医者によれば、ピーターの脳には何ら器質的な損傷はないらしい。実際、今が何年の何月なのかもわかっていたし、現大統領の名前も思い出すことができた。ウィンブルドンのベスト8に勝ち上がった選手の名前も覚えていた。デュプリシティという映画の内容も思い出せたし──いつどこでその映画を見たかの記憶は失われていたが──
紛失美術品目録に記された内容も覚えている。
ほぼ何もかも思い出せるのだ。ピーター自身に関わる、個人的な物事以外であれば。
そうした事実から判断した結果、病院の精神科医に言わせれば、ピーターの記憶の欠落は心因性のものだろうということだった。型通りの記憶喪失なんてものは、映画や小説の中以外ではそうそうおこらないものらしい。ピーターが思い出せないのも、頭を打った衝撃からではなく、彼が思い出したくないからなのだった。
それとも──グリフィンがあからさまにほのめかしているように──ピーターの“芝居”であるかだ。
「今はとにかく家に戻りたいよ」
ピーターはそう答えた。食欲はない。充分な鎮痛剤を飲んでいる筈なのに、夏の熱っぽい風が顔に吹きつけて、頭がズキズキした。
「すぐつけるわよ!」
ロマがアクセルをさらに踏みこみ、ピーターは目をとじた。
コンスタンティン美術館は、ロサンゼルス郊外の富裕層の住むラカナダ・フリントリッジにあった。二一〇号線と州道二号線の間のジャンクションからほど近いところだ。元は引退した船乗りマックブライド・コンスタンティンによって一八八〇年に建てられたヴィクトリア様式の豪邸で、十エーカーものオークの森と、丁寧に手入れされた数々の庭園に囲まれていた。
美術館の建物を見れば何かの記憶がよみがえるのではないかと、期待していた。だが、色々な様式や雰囲気をうまく寄せ集めた豪奢な建物だな、と感心しただけで、知っている場所だという気すらしなかった。装飾的な煉瓦の煙突にも見覚えはないし、鱗状の外壁、ステンドグラスの窓、屋根の下に張り出した腕木の彫刻、どれも初めて見たという気しかしない。建物の角から突き出た小塔の、古いヴィクトリア様式独特の大きな百合型の銅屋根に至るまで。
「俺が住んでるのはこの中じゃないよな?」
ピーターはたずねた。カメリアがずらりと植えられた道をMGが突っ走っていく。
ロマが首を振った。
「裏手にあるコテージに住んでるんだよ。本館に寄っていきたい?」
そうするべきだ、とはわかっていた。まず美術館へ立ちよるべきだろう。少なくとも、壁画の盗難の捜査状況がどうなっているのか、自分以外の視点からの情報が必要だ。
だがそんな情報よりも何よりも、とにかく今は、静かなところで一人になりたかった。病室で目が覚めた瞬間からここまで、常に人から注視され、虫眼鏡でじろじろと観察されてきたようなものだ。自分がどんな性格であれ、注目を集めて喜ぶタイプでないことはすでに実感していた。
「後で気分がいい時に行くよ」
ロマはうなずき、車は、ステンドグラスの窓が宝石のようにきらめく淡い色の館を通りすぎた。ジャカランダの木々には紫の花が咲き乱れ、まさしく童話のような景色だった。
不思議なほど、人の気配がない。
「美術館は休みか?」
「九時から五時、クリスマス以外は休みなしで開いてるよ。駐車場料金は二ドル」
「盗難の捜査が終わるまで休館してるんじゃないか?」
「違うと思うけど」
ロマはけげんな顔をした。
「いや、何と言うか……こう、さびれてる感じがして」
「そりゃディズニーランドってわけにはいかないわよ」
「まあたしかに」
だが、疑問は残った。果たしてこの様子で、美術館の経営は順調なのだろうか?
道は館の裏側へ回りこみ、彫像や時代がかった仕立ての庭園、ツゲの迷路などを通りすぎた。脇道へ折れると、車は細い道の先へと走っていく。すぐにピーターの目にも小ぶりな二階建ての、伝統的なクラフトマンスタイルのコテージが見えてきた。焦茶の木の壁と、格子窓、傾斜のある屋根、淡い石の煙突、玄関ポーチを支える丸い柱。
「ついたよ。無傷でお届け──まあ、少なくとも傷ひとつ増やさずにお届けしたわ」
ロマはコテージ前の半円形の空き地に巧みに車を停めて、ピーターへニッコリした。
「本当に助かったよ。ありがとう。ただ何て言うか、今はちょっと……」
「調子が出ないんでしょ」
ロマはピーターの膝を軽く叩き、運転席のドアを開けて下りた。
ピーターは彼女よりも重い足取りで、ロマの後ろについて玄関への石段をのぼった。玄関のドアは鍵がかかっておらず、二人はコテージの中へ足を踏み入れる。
まず感じたのは、レモンオイルと花の香り。入ってすぐは小さなリビングで、格子の天井、床はフローリングで、大きな石の暖炉が据え付けられていた。家具は趣味がよく快適そうな揃えで、アースカラーとチェリーウッドの木目を合わせてあった。数枚の植物の細密画が洒落た雰囲気で壁に飾られている。腰高の棚には銀縁のフォトフレームがずらりと並べられ、見知らぬ人々が写った記念写真の中に、ロマの顔もあった。
インテリアはどれも、丁寧に選び抜かれているように思えた。アールヌーヴォーの壁掛け燭台、鋳物作りの傘立て、額装されたエドワード・ウェストンの写真。ピーターは何か記憶を呼び覚ますものはないかと周囲を見回した。いい家だった──実に洗練されている。だが、自分の部屋という感じは何ひとつしてこなかった。
アーチ状の入り口の向こうのキッチンでは、ジェシカが食料を棚にしまいこんでいるところだった。ジェシカはウェーブのある赤毛、豹柄のフレームの眼鏡をかけたひょろ長い女性で、二人を出迎えるとロマに軽くキスしてからピーターをきつくハグした。
「お帰りなさい!」
ピーターはジェシカにハグを返した──ジェシカのハグには本当の気持ちがこもっていて、とまどいつつも、ありがたかった。
「気分はどう?」
「元気だよ」
ピーターは彼女を安心させようとそう答える。くり返し言い続けていれば、いつか真実になるかもしれない。
ジェシカはロマと意味あり気な視線を交わす。ロマが答えた。
「まだ何も思い出せないんだって」
「何も?」
何もというわけではない、とピーターは弁解しようとする。二人は彼をよく知っているようだが、彼の方は二人についてほとんど知らないという状況がどうにもやりにくくて仕方ない。
「思い出せないというのとは違うんだ。何と言うか……まるで、記憶の整理がついてないとか、そういう感じで」
とどのつまりは何も思い出せないわけだが。
「大変ねえ」ジェシカが同情する。「壁画が盗まれた夜に何があったのか、まだ思い出せないの?」
ピーターはうなずいた。
「何も?」
またうなずく。
「あらららら」とジェシカが呻き、「マジでねえ」とロマが同意した。
二人はまた意味ありげな──どんな意味かはまったく読めなかったが──視線を交わした。ピーターは落ちつかない気分になってくる。すでに充分以上に動揺しているというのに、ここにもまた何かあるようだ。
「ちょっと失礼してもいいかな? 服を着替えてこようと思うんだ」
何故この二人に許可を求めているのかは自分でも謎だった。自分の家に戻ってきたのに、まるで他人の家に押しかけているような気分しかしないなんておかしいだろう。だが正に、今のピーターはそんな気分だった。
ピーターはリビングを出たが、抑えた声の二人の会話が廊下までぼんやり聞こえてきた。内容は聞きとれない。その方が幸いかもしれない。
オリーブをモチーフにしたウィリアム・モリスの壁紙、スティックレーの書斎用テーブル、ニューヘブンの古時計。家の至るところに値の張るアンティーク家具が置かれている。ピーターの私物か、それとも美術館が所有している物なのだろうか。こんな芸術的価値のある家具がコテージの付属品だとすれば、コンスタンティン美術館はキュレーターを随分と厚遇していることになる。
それにしても、何故そのアンティーク時計が一九〇四年に製造されたことや時計のメーカー名は思い出せるのに、親友の名前ひとつ思い出すことができないのだろう?
ここはピーターの家だ。そうである以上、彼の好みや性格もどこかに反映されている筈である。ピーターの目に、この家はそれなりに居心地よく、すごしやすそうに映った──そして隙がない。テーブルやシンクは完璧に片付けられ、放置された新聞や空のマグカップなどひとつもない。ピーター本人が几帳面なのか、入院中に誰かが片付けてくれたのか、どちらなのだろう?
ピーターは塵ひとつないテーブルの表面を見つめて、果たして警察はこのコテージを捜索したのだろうかと考えた。だとすればその痕跡も見当たらず、指紋採取用の粉がとび散っていたり引き出しやキャビネットが荒らされた様子もない。もしかしたら、それもロマやジェシカが片付けてくれたのだろうか。
階段の足元近くの壁には、このコテージの写真が額に入って飾られていた。見取り図と、その横には一九〇八年に撮影された初期の白黒写真。コテージは今とそれほど変わっていなかったが、庭の木は当時から随分と育ったようだ。ピーターは見取り図を確認する。一階には部屋が四つ──ダイニング、リビング、書斎、キッチン。二階にはベッドルームが二つ。よくまとまっていて、ドールハウスか、さもなければ模型の家でも見ているような感じだった。
ピーターは二階のベッドルームへ行き、シャツを脱ぎはじめた。寝室も家のほかの部分と同じく隙なく片付けられていて、住んでいる人間の個性をうかがわせるような物はない。真鍮の柱のベッド、洒落た照明と一体型の天井のファン。折り畳み式の衝立には、用心深く空を見上げるカエルとその視線の先にいる
鷺の姿が描かれていた。ここにもまた、脱ぎ捨てられた靴もしまい忘れたブラシもなく、すべてが完璧だ。
脱いだシャツは洗濯室に放りこみ、クローゼットを開けて、ピーターはぎょっとまばたきした。クローゼットの中には洗濯され、プレスされた服がきっちりと二列に並べて吊り下げられていた──しかもデザインと色で分類されて。
自分はここまで几帳面な男だったのか?
それにしてもこれはいささか……行きすぎているようにも思える。
ピーターは、下がった服の中から茶色のポロシャツとグレーのチノパンを選び出す。ジーンズは見当たらず、どうやら彼は一本も持っていないようだ。
ベッドの向こう側の窓は、コンスタンティン美術館の方角を向いていた。半分上がったブラインドがそよ風に揺らいでいる。開いた窓の向こうには美術館の建物の装飾的な煙突や切妻屋根が見え、その手前ではジャカランダの木が紫の花をつけていた。
突如として、強い疲労感がピーターを襲う。虚脱感と言ってもよかった。
寝心地のよさそうなベッドを見て、しばらく横になろうかとちらりと考えた。あまりにも知らなければならないこと、考えなければならないことが多すぎて、それなのにどのピースもちぐはぐで噛み合わない。少なくとも、知れば知るほど気が滅入るのは確かだった。どれだけ自分についての情報が溜まっても──まるで自分のことのようには感じられない。自分は一体何者なのか。それがわからない。
ベッドの誘惑を払いのけて身を翻すと、ドレッサーの鏡にちらりと影が動いた。ピーターは動きをとめ、鏡の中にいる姿を凝視する。
もしかしたら、自宅に帰ってきた今、そこにいる自分を見た瞬間にすべての記憶がよみがえってくると少しは期待していたのかもしれない。だがそんな期待は無駄に終わった。もし何か、心に動いた感情があるとすれば……いつもと同じ軽い違和感。もう少し若い姿を予期してしまう。もう少し背が高い姿を。とにかく──もう少し、どこか違う、という感覚が抜けない。何故だろう。何か、そう思いたい理由があるのか?
鏡の中にいるのは、まあまあ背が高く、それなりの体つきで、癖のある茶色の髪を短めに切った緑色の目の男だった。その男は……平凡に見えた。どこにでもいそうな誰か──ただ多少堅苦しい感じの。例えば司書か何かのような──それも現実の司書ではなく、いかにも映画に出てきそうな絵に描いたような司書だ。
自分のような気がしない。とにかくこれほど……隙のない姿は。確かにひげは多少のびすぎているが、鏡の中の姿はとにかく無難に整っている。今のピーターの気分は、そんな隙のなさとはほど遠いのだが。
楕円形の鏡をぐいと押しやり、ピーターは一階へ降りた。リビングで足をとめ、磨かれたテーブルにずらりと並ぶ小洒落たフォトフレームをしげしげと眺める。ここに写っている人々は、一体全体どこの誰なのだろう?
ひそひそと会話を交わしていたロマとジェシカは、ピーターを見た途端にさっと口をつぐんだ。
「大丈夫? 問題ない?」
ロマがわざとらしい陽気さでたずねてくる。
「ああ……問題ないよ」
彼女たちが、お互いに目を見交わさないようにこらえているのがひしひしと伝わってきた。ジェシカが口を開く。
「冷蔵庫にチキンとワイルドライスのキャセロールが入れてあるから、温めればすぐに食べられるわよ」
「ありがとう」
ピーターは、救いを求める目を二人へ向けた。
「それでその、本当に、こんなことを言うのは変だと思うんだが……リビングに写真があるだろ。よければ、写っているのが誰なのか教えてもらえないかな?」
「いいわよ!」
ロマが即座にうなずいた。
「あなたの友達ならほとんど知ってるしね」
二人について、ピーターはリビングに戻った。ジェシカがまず一番大きなフォトフレームを手に取る。時代遅れのウェディング正装に身を包んだカップルが写った、プロの撮った写真だった。
「あなたのご両親よ」
ロマが説明し、申し訳なさそうにつけ加えた。
「二人とももう亡くなっていてね……」
気を使って告げられたが、すでにピーターにはわかっていたことだった。病院にいた時から。身内はもう、誰もいないと。
なおも写真の説明が続いた。
「これがレイ・スティーブンスとポール・チェニー、ドイツ村でのオクトーバフェストの時の写真ね。これはボブ・ロドリゲスとジェシカとあたし、それとあなた。二年前のアボット・キニー・フェスティバルの時ね。こっちは……」
ロマとジェシカ以外、写っているのはどれも見知らぬ顔だった。かと言って、警戒心のようなものも感じない。次々と聞かされる名前はどこかなつかしくすらあった──たとえばもう顔も思い出せない、遠い昔に知っていた人々の名前のように。
つまり、どういうことだろう? やはり本当に心因性の記憶喪失──ピーター自身が思い出したくないから思い出せない、そういうことなのだろうか?
ロマが別の写真を取り上げ、彼に見せた。その写真にはピーターと黒い馬が一緒に写っていた。大きく、不細工なサラブレッドだ。
「この子はソーティリーグ。あなたのよ」
「俺の、何だって?」
「あなたの馬。グリフィス・パークの厩舎に預けてあるよ」
ロマの言葉に、さらにジェシカがつけ足した。
「元々は競走馬だったんだけど、人目のあるところでは走れない性格なのよ」
ピーターは思わず吹き出した。
「本当なんだってば! 本気になればロケットみたいなスピードで走れる馬なの──観客席がからっぽの時ならね」
「致命的でしょ」ロマがうなずいた。「だから、あなたがこの子を買い取ったの」
「サラブレッドを買えるような大金が一体どこから?」
「飼い主が友達だったのよ。南カリフォルニア大学の同窓生」
ロマは肩をすくめて答えた。続けながら、その目はじっとピーターの反応を見ている。
「あなたはプライベートの乗馬クラブに入って、毎週木曜の夕方、グリフィス・パークまで行っちゃあ日暮れの乗馬を楽しんでた。乗馬の後は、メキシカン料理の店に行き、チップスをつまみにマルガリータを何杯かひっかける」
ピーターは目をとじてその光景を思い浮かべようとした──自分の中に、感じようとした。
何も感じない。何ひとつ。
目を開けると、二人が心配そうに彼を見つめていた。ピーターは次の写真に向けてうなずく。そこには今より若い自分と、背の高い同年代の金髪の男が写っていた。
ロマが無感情な声で告げた。
「その人はコール」
成程、これがコールか。
ピーターはじっと、魅入られたようにその姿を見つめた。コールはどの基準から見ても美しい男だと言えた。きらびやかな昼メロの主役を演じてもおかしくないような顔だ。コールはくつろいだ笑顔で、白い歯が見事だったが、その顔をいくら見つめてもピーターは何も感じなかった。
「コールと俺とは、昔からの知り合いみたいだな?」
ロマが、答える前に一瞬たじろいだように見えた。
「そうね。大学でルームメイトだったし。あなたがコンスタンティン美術館に勤めるようになったのも、コールが後押ししたから」
「コールはマックブライド・コンスタンティンのひ孫の息子?」
「ん」
やはりそうだ。ロマの返事はぶっきらぼうで、抑揚がない。彼女はコールを嫌っているか、それとも──コールとピーターの仲が気に入らないかだ。
だがどんな仲だ? どうしてコールの名を聞いてもピーターは何も感じない? こんなふうに心が凍りついたような状態が、一体いつまで続くのだろう?
「それに、コールは美術館の理事の一人でもある?」
「ん」
明らかにロマはコールを嫌っている。思った通りだ。どうしてそう思ったのかは、今ひとつピーター自身にもつかめなかったが。
「それで、コールと俺は……親しいのかな?」
ロマは、はっきりと口ごもった。
「昔は、ね。今、あの人とあなたがどうなってるのかは私もよく知らない。あなたは最近コールのことをあんまり話さなかったし」一息入れた。「でもまあ、考えてみれば昔からそうだったかもね」
ピーターは考えこみながら唇を噛む。
「じゃあ誰か……その、俺が親しく──つき合ってたような相手はいなかったか? 少しだけでも?」
少しだけでも、というところに願望がにじみ出していた。日頃から親しくデートしているような相手がいないのは、誰ひとり花を持って病室を訪れたりはしなかった時点でよくわかっていた。
「ずっと続いてる相手はいないわね。でもよく出かけてたわよ。相手に困ってるわけじゃなかった」
ロマにの言葉の意味がよくわからなかった。デートの相手はどこから……ブッククラブや友達の紹介からか?
ジェシカが助け船を出した。
「あなたはね、ほら、ああいうサイト、デート相手を探してくれる会員サイトに入ってたのよ。たしか、
Match.comだったと思うけど」
「……会員サイト?」
「よくデートしてたわよ。まあ、ほとんど一回限りだったけどね。同じ相手と続いたことはあんまりないわ」
じわじわと、ピーターの中にジェシカの言葉が染みこんでくる。
「あなたから断ってたんだよ、ほとんどの場合」
とロマがわざわざつけ足してくれた。
言外に何かを言おうとしている感じはあったが、ロマが何を言いたいのかピーターには見当もつかなかった。何だろう。ピーターは相手の好みがうるさかった? 気難しい性格だった? 仕事の虫だった?
何にしても、ピーターの人生は随分と──淋しいものだったのではないだろうか。ひどく、孤独な。
ほかの写真に目を移す。大勢で写っている写真が多く、何枚かには人に混ざってコール──さっきの写真よりも少し年を取ったコール──が写っていた。
いかに動揺しているのか、きっとピーターの顔に表れてしまっていたのだろう。思ったほどは隠せていなかったのか、ジェシカが彼の腕に手をかけた。
「もう休んだ方がいいわ、ピーター」
「そうよ」ロマがうなずく。「しっかり体を休めなきゃ」
ロマも手をのばして彼の背をポンポンと叩いた。二人ともピーターをどう扱っていいのかわからない様子で、心もとないようだ。彼女たちの方が今にも途方にくれそうだった。
「ひと休みしてから、食事を取って、それから……」とジェシカ。
「夜ぐっすり寝るといいわ」ロマがしめくくる。
間違いなく、二人とも心からピーターのことを気遣っている。彼女たちに優しい言葉をかけられるごとにピーターの気持ちがどんどん沈みこんでいくのは、何も二人の罪ではないのだ。
「ああ、そうするよ」
残った気力をかき集めてどうにか愛想を保ち、ピーターは二人に感謝した。この二人にはきっと、今のピーターが把握している以上に様々な面倒をかけている筈で、それを思うとますます申し訳なかった。
ゆっくり休んでね、ちゃんと食べて、とかけられる言葉にひとつひとつうなずき、さらに礼を言って、ピーターは二人を礼儀正しくドアまで、そしてその向こうの小綺麗な前庭へと送り出した。
「何かあったらすぐ電話して」とロマが言う。
「一人だけでこの家にいるなんて、大丈夫かしら?」ジェシカが心配した。「うちならたくさん部屋があいてるわよ、ね?」
「いいわね!」
ロマが素早くうなずく。
よくはないのだ。まったく。
「俺は大丈夫だよ。心配いらない。今はとにかく──こう、少し、一人になりたいんだ」
二人はそれでも安心できない様子だったが、ためらいながらも渋々と引き上げていく。口々に「無理しないで」「あまり心配しないのよ」「休んで」「食べて」と言い残しながら。
ついに彼女たちはロマのMGに乗りこみ、車はカースタントのリハーサルでもやってるような猛烈な勢いで走り去っていった。
ピーターは二人を見送っていたが、車が見えなくなると家の鍵を探した。鍵を手に家を出て、庭を横切り、美術館の方へとゆっくり歩き出した。
コンスタンティン美術館のエントランスロビーには、マックブライド・コンスタンティン艦長の肖像画が飾られていた。おそらく六十代の時に描かれたものだろう。世界のあちこちの海を見て回った船乗り──そんな数々の苦労が姿ににじんでいた。船長帽のつばの下から淡い青の目で
陸上者を見下し、入場券を買わずに中へ入ろうとするような不届きものを見張っている。すっかり白くなった髪、赤みのある頬、白い口ひげ、薄い口元──まるでこの老人は、海賊に転職したサンタクロースのように見えた。
肖像画の下には受付カウンターがあり、その机では受付係の娘が目の前で鳴り出した電話を忌々しそうににらんでいた。二十歳ぐらいの小柄な娘で、艶のある黒髪はボブカット、大きな目は青い。どこかしら人形のような雰囲気があった──あまりにも整いすぎていて、生きた人間がそこにいる感じがしない。
ピーターは娘を見つめていたが、彼女が苛々した手つきで受話器を引ったくった瞬間、突如として名前が浮かんできた。マリーだ。
安堵の波が押し寄せてくる。記憶は戻ってきているのだ。空白を埋めようと、脳はのろのろと、だが確かにもがき続けている。
彼女はマリー・モンテロ。強情っぱりのマリー。
ピーターとしてはあまり好きになれない娘だったが、彼女の父親は美術館の理事の一人なのだ。デニス・モンテロ。娘のマリーはこの夏、
研修生として美術館に雇われたのだったが、結果は惨憺たるもので、ピーターは結局彼女を受付に追い払って電話番をさせることにしたのだった。
その決定を歓迎してない人間も多かったが──。
視界のはじに近づいてきたピーターをとらえ、マリーがチラッと見上げた。ピーターだと気付いてぎょっとしたようだ。喜んではいない。
ピーターはうわべだけの笑みを浮かべて、“そのまま”とマリーにうなずいてみせ、自分のオフィスへと向かった。そう、よみがえった二つ目の記憶。オフィスの場所を思い出していた。
もっとも、そっちの方は記憶というより常識的な判断にすぎないかもしれない。建物の中はさして複雑な構造ではなかった。古い豪邸の一階部分は展示室に改装されており、そこには──何というか、ガラクタが並べられていた。
それも山ほどのガラクタだ。
中には比較的価値の高いものも混ざっていて、例えば翡翠の小さなアクセサリーのコレクションや、ワニのミイラなどはノミの市あたりで人気を集めるかもしれない。
大理石の観音像をすぎたところで、ピーターは左に通路を曲がった。丁寧に保存されている体長二・五メートルの巨大なイカ、ボロボロのミイラ、民族仮面の一群などの前を通りすぎる。たしかにどう見ても、ここがロサンゼルスの人気スポットになるのは難しそうな代物ばかりだったが、ピーターの人生が陥った混沌と無秩序を見事に表現している展示物ではあった。
また別の廊下へと折れる。そこにずらりと飾られた絵は──飾るという表現がふさわしいかどうかすら微妙な展示っぷりだったが──ハンス・ホルバーンと同世代、十五世紀に描かれた油絵で、陰気さにかけてはホルバーンをはるかに上回っていた。
彼のオフィス──ドア横の真鍮のプレートに“ピーター・キリアン”という名が刻まれている──は、廊下のつき当たりにあった。ドアノブに手をかけたが、ドアは施錠されていない。ピーター自身が鍵をかけずに出て行ったのか、それともすでに警察が無遠慮に踏みこんで中を調べた後なのだろうか。鍵が開いていると気付いた瞬間にピーターが覚えた不安感からすると、普段の彼は必ず施錠しているように思えた。警察が立ち入った、と考えた方がよさそうだ。
押し開けたドアの向こうには、美しい居間を改装した大きなオフィスがあった。実にいいオフィスだ。アンティークだが、使いやすそうな家具が揃っている。大きな窓からは庭園のカメリアがのぞめた。
そして、その庭園の向こうに草深い小さな丘があるのだと、ここから見えはしなくともピーターにはわかっていた。丘の斜面に沿って石の階段を下った先には、小さな
岩窟がある。盗まれた中国の壁画が置かれていた洞窟だ。
突如として異様な感覚がこみ上げて、ピーターはデスクに歩みより、椅子にドサッと体を沈めた。
少しの間休むと、気分が持ち直してきたので、あらためて室内を見回す。オフィスの壁には大きな写真が数枚掛かっていたが、写っている人物が誰なのか思い出すことはできなかった。美術館のイベントの時に撮られた写真のようだ、とピーターは判断する。何枚かには笑顔のピーターも写っていた。
続いて、目の前のデスクを注意深く観察する。デスクの上には古めかしい青銅の文具類が揃えられ、備え付けのインク壺まであった。よもやインクと羽根ペンで手紙を綴るような変人なのか──いやまさか。片付いたデスクの中央にはちゃんとノートパソコンも置かれている。
ピーターはノートパソコンをしばらくの間眺めていたが、そのうちぼんやりとした不安がこみ上げてきた。何か、不適切なものをこのノートパソコンに保存しておくようなうかつな真似はしていないだろうと思うが、それでも……この三日間、警察が──それどころか誰だろうと──このパソコンに自由にさわって中をのぞけたのだと思うと、とてもいい気持ちはしなかった。
一息つき、ピーターはデスクの引き出しを開けようとしたが、鍵がかかっていた。自分のキーホルダーについた鍵を確認すると、やはり引き出しの鍵もついている。鍵を回して引き出しを開けると、その中もすべてが完璧に整頓されていた。もし警察がここを調べていったとしても、相当お行儀よくやってくれたようだ。
一番上にのっている黒檀のレターオープナーをどけ、ピーターはのろのろとした手つきで手紙の束を確認しはじめた。
数通は求職者からの履歴書、一通はゲティ美術館でのチャリティイベントへの招待状。ほかには展示会のオープニングパーティの告知、そして山ほどのジャンクメール。あらかじめ不要のメールを分けて捨てるのも受付のマリー・モンテロの仕事だった筈だが。
手紙をまとめてレタートレイに戻し、もっと気力のある時に対処することにして、ピーターは今度は引き出しの中をじっくりと見ていく。何か、記憶の引き金になるようなものか、少なくとも彼の疑問のひとつやふたつ解消してくれるようなものがないだろうかと。
蛇腹折りの美術館のパンフレットが出てきた。かなり古びている。思った通り、一九九七年発行のものだった。彼がここのキュレーターとして勤めはじめるよりずっと前だ。パンフレットの中には丘のふもとの
岩窟の小さなカラー写真が載っていた。目を凝らせば、写真の背景に例の盗まれた壁画がどうにか見てとれる。
しばらくの間、ピーターはただその写真を眺めていた。どうして、あの夜の出来事を何も思い出せないのだろう? 脳に何らかのダメージがあったというならまだわかるが、医者によれば、ピーターの記憶の欠落は精神的な原因によるものである。
やがてあきらめて、ピーターはそのパンフレットをハンギングフォルダーの中へ戻した。ふと、そのフォルダーの奥に数枚の写真がばらけて入っているのに気付く。写真を拾い上げ、手に取って見つめた。
コール・コンスタンティンの写真だった。どうやら、彼の結婚式の写真のようだ。シンプルな黒のタキシードに身を包んだ新郎のコールの姿は、見事なほどに凛々しい。上品にウェディングケーキをかじるコール。花嫁にキスするコール。新郎の付添人のピーターと一緒に写真におさまったコール。
ピーターは写真を、そしてそこに写った自分の虚ろな笑顔を、じっと見つめた。ドク、ドク、と心臓がおかしな鼓動を刻みはじめる。吐き気がした。
反射的に写真を元の場所に放りこみ、ぴしゃりと引き出しを閉めた。
どうしてこんな写真を後生大事にとってあるのだ? しかも誰が見るかもわからない場所に置いておくなんて、一体自分は何を考えていたのか……。
両手に顔をうずめた。頭がズキズキ痛む。
ここに来るべきではなかった。まだこれを受けとめるような心の準備ができていない──そもそも、これが何を意味するのかもわからない。
いや、わかっていた。
引き出しの奥にしまいこまれた、結婚した親友の写真。夢に見る、その親友とのエロティックな夜。
みじめな話だ。ピーター自身は何ひとつ覚えていないが、みじめとしか言いようがなかった。
廊下の方から物音がした。ピーターは顔を上げる。部屋の入り口に背の高い男が立っていた。肌はよく陽に焼け、端正な顔立ちでインディゴブルーの目をしている。水色のポロシャツとジーンズ姿だった。
コール。
--続きは本編で--