フライトは六時間。ありとあらゆる結末を考え抜くための六時間だ。
これまで飛行機には数えきれないほど乗ってきたが、これほどひどい不安に襲われたのは過去に一度。自分の意思で快適な飛行機からわざわざ飛び降りたときだけだ。あのときは、自分がこれから一生もののスリルを体験するのだということがわかっていた──はるか下に広がる地面に叩きつけられ、とんでもない結末を迎えるかもしれないということも。
今も同じような気分だ。
一分一秒が試練に次ぐ試練だった。優先搭乗が始まると、心臓がばくばく言いだした。自分の座席番号を見つけると、手のひらがじっとり汗ばんだ。離陸したときには、もう後戻りはできないのだ──と、ほとんど過呼吸状態になった。機内サービスでは、プレッツェルをひと袋(ピーナッツの提供は禁止になった)と、氷入りスプライトの小さなコップを渡された。そんなものより必要なのはバリアム(※訳注:精神安定剤)だったが、キャビンアテンダントがガタガタ押している小さなカートの中にバリアムなどあるはずがなかった。
これまでしてきたすべての選択が、俺をここに──この飛行機に導いた。俺が世界に望んでいるものはすべて、この信じられないほど恐ろしい長距離フライトの先にある。
もし、すべてがうまくいかなかったら?
飛行機がいよいよ着陸態勢に入ると、手の震えが止まらなくなり、恐怖が胸の内で寄生生物みたいに増殖し始めた。恐ろしさに、ただただ圧倒される。このまま恐怖で身動きがとれなくなってしまいそうだが、そんな自分を支えているものが一つだけあった。
それがあるから、こんな状況に陥っても耐えられる。とても強靭で、純粋なもの。俺を突き動かしてやまないもの。
──それは希望だった。
一八ヵ月前──
送信日時:4月10日
差出人:ジャレド
宛先:コール
コールへ。何週間か前にラスヴェガスへ行ったんだけど、そこで偶然ザックの友だちと会ったよ。フェニックスに住んでいて、きみと会うことにも乗り気だった。イケメンで、いいヤツそうに見えた。まあ、きみが元カレのデートの相手だったら話は別だろうけどね。きみたち二人は気が合うんじゃないかな。名前はジョナサン・ケッチャー。
ジャレド
送信日時:4月11日
差出人:コール
宛先:ジャレド
ヘイ、スイーツ! 連絡もらえてうれしいよ、たとえ恐ろしく短いメールでもね。ヴェガスで起きようとどこで起きようとそんなことはどうでもいいんだ、ハニー。もっとそそられるような情報をくれてもよかったんじゃない?
で、ジョナサンとかいうヤツを試してみろって? きみがイケメンと言うなら、そこは信じるよ。なんだかんだ言って男の趣味はいいからね。まあ、きみがいま一緒にいるあのむかつくデカい警官は、僕のタイプじゃないけどさ。
「きみが元カレのデートの相手だったら話は別だろう」だって? とても興味を引かれるね。こんな謎めいたことを言うからには、それなりの面白い話があるんだろうな。きみはほんと噂話とかしないやつだから(そっちの方面はもっとがんばったほうがいい)。
これから数日ニューヨークに行ってくるけど、戻ったら彼に電話してもいいかも。確かに、フェニックスは最近ひどく干からびちゃってるんだ──あ、もちろん天気の話じゃないからね、シュガー!
コール
ロスからフェニックスまでのフライトは、だいたい一時間。携帯電話の電源を切っておいても真っ当な言い訳が立つ、貴重な一時間だ。
移動時間が楽しみだなんて、いったい俺の仕事はどうなってる?
ロスでちょうど一週間、直近のクライアントであるホテルの会計データをわが社のソフトウエアに移行するため、サポート作業を行っていたところだ。来週は、ラスヴェガスの別のクライアントを相手に同じことをする。この二つの街とフェニックスで、目下さまざまな移行過程にある六つのクライアントをぐるぐる回っているのだが、どのクライアントも四六時中電話をかけてきたがるのだ。
そして、上司も。
電話攻勢は朝六時に始まり、たいてい夜十時まで続く。たいした機能もついていない携帯電話が、最新の航空機器を本当に脅かすのかどうかは疑わしいところだが、飛行中は電源を切るべし、というFAAの規則には喜んで従った。だが、フェニックスまではあっけないほど早く、一時間の猶予などすぐ終わってしまう。ゲートから荷物受取所に向かう途中で電話の電源を入れると、四件のボイスメールメッセージが来ていた。一時間に四件も?
腹立たしい気分をこらえる。あと一年か二年、このポジションで耐えれば、昇進に手が届くんだ。ものごとのよい面を見ようじゃないか。だが、四通のメッセージが待っているということはすなわち、フェニックスの自宅に戻ったからといって仕事が終わるわけじゃない、ということだ──たとえ金曜日の午後だとしても。
最初のメッセージを聞くより早く着信音が鳴った。くそ。電話攻勢の再開か。
「ジョナサンです」
「ジョナサン! 一体どこにいる?」マーカス・バリー。上司だ。
「空港です。何か問題でも?」
「クリフトン・インの例の担当が、一時間前から連絡を取りたがってる」
クリフトン・インを出たのはたった四時間前だ。そんなわずかな時間で、急を要することがあったっていうのか?
「フライト中だったものですから」不満が声に出ないよう注意して答える。
マーカスはため息をついた。「まあな、彼女のせいでみんな気が変になりそうだよ。返事がほしいそうだ──今すぐ」
「すぐ電話します」
「よかった」と返ってくるなり電話はぶつっと切れた。まあ別にいいけどな。
手荷物受取所に向かうと、俺のバッグはまだコンベアー上に出てきていなかった。荷物の様子をうかがいながら、クリフトン・インのアカウントマネージャー、サラに電話をかける。彼女のボイスメールにつながった。フェニックスに戻ったので折り返し電話をした、と伝言を残す。通話を終えるより早く電話が振動する。
五件目のボイスメール。素晴らしいね。
バッグが受取口からこぼれ出てくるのが見えたので、人ごみをかき分けてコンベアーのそばに寄り、バッグに手を伸ばした──と、まさにそのとき電話が鳴った。
「ジョナサンです」
ごく短い沈黙。そして聞き覚えのない声がこう告げる。「ずいぶん型どおりなんだね、ダーリン。予想外だったよ。コールだ」軽やかで、からかうような口調。間違いなく男の声だが、とても女性的な響きがする。
「失礼。どなた──くそ!」
最後の「くそ!」はこっちのアクシデントのせいだ。電話に出ているあいだにバッグを取りそびれてしまったのだ。バッグがコンベアー上を一周してくるのを待たないと。
「何かまずいことでも?」
「いや」電話が手の中で振動する。六件目のボイスメール。今度は、少なくとも下品な罵り言葉を漏らさないだけの理性は保てた。
「申し訳ない」迷惑な気持ちが伝わらないよう、恐る恐る話す。「どなたですか?」
「ジャレドの友人だよ。きみの番号を教えてくれたんだ、ダーリン」
ダーリン? マジか? 「ジョナサンですが」
「うん、さっき聞いた」コールとやらは明らかに面白がっている。
ため息が聞こえないように答えた。「そうじゃなくて──」
「言いたいことはわかる」と、遮られた。彼の声には軽やかで独特なリズムがあって、そのせいなんだろう、さっきも感じたが、わざわざ女性っぽく振る舞っているようにも聞こえる。「ジャレドの話じゃ、きみが僕からの連絡を待ってるってことだったんだけどな」
「そう、ジャレドが。じゃなくて、私が。待ってた……いや待ってるってことで」
落ち着け、深呼吸だ。こんなふうにペースを乱されるのは大嫌いなのに、電話の相手がいとも簡単にそれをやってのけたことに少しイラつく。腹の中で五まで数える。十まで数えるほうが効果的なんだろうが、相手がそれほど待ってくれないということはよくわかっている。
「確かにジャレドはフェニックスに友人がいると言っていた」よし、少し落ち着きを取り戻してきたぞ。「だが、きみの名前までは教えてくれなかったんでね」
正直に言えば、四週間以上も前にヴェガスの賑やかなカジノでジャレドと言葉を交わしたことさえ、完全に頭から抜け落ちていた。
「じゃ、電話してもいいわけ?」
「もちろん。今はちょっと不意を突かれたものだから」
「空港にいるんだな」
言い当てられて驚く。「どうしてわかる?」
「聞こえるから。空港の喧騒は独特だからね。よく知ってる」
「ああ」間抜けな言葉だとは思ったが、まともな返事を考えている余裕はなかった。バッグがまたこちらに向かってくる。今度こそつかまえないと。
「間が悪かったかな、ダーリン? 飛行機に乗るところ?」
「降りたんだ。ちょうどフェニックスに戻ってきたところで」
「じゃあ完璧なタイミングか。今夜は忙しい?」
「今夜?」びっくりして聞き返すと、バッグはまた目の前を通り過ぎていってしまう。「くそ!」
「夕食を一緒にどう?」こちらの暴言は聞き流してくれたようだ。
「ああ……その、荷解きをしないといけないし……」時間稼ぎのように言葉を濁した。今夜だと? ブラインドデートに必要な、ゲーム感たっぷりの会話をするエネルギーが残っているだろうか。疲れそうだ。とはいうものの、そのあとに待っていることを考えればもちろん魅力的ではある。ロスではそういう出会いを楽しむ暇もなく、自分の手でするだけだったのだ。実のところかれこれ三週間も、それ以上満足のいくことをしていない。だがまあ、相手が同じように考えている保証はないし、尋ねるのも失礼な気がするし。
そんな胸の内を読みとったかのように電話の声が言った。「ダーリン、イエスかノーかの質問だよ、それにディナーだけだ。あとは交渉次第──ってことにしておこう」
また電話が振動する。七件目のボイスメール。
まったくもう、あとは野となれ、だ。「それはよさそうだな」と答えた。
フェニックスの中心街エリアは、一三〇〇平方キロメートル以上という広大な面積が特長だ。だいたいの都市は摩天楼のように縦へ縦へと伸びていくものだが、フェニックスは横へ横へと広がっている。運のいいことに、コールと俺は街の北側に住んでいた。コールがレストランを指定し、六時にそこで会うことになった。
どんな相手なんだろう。ジャレドの友人らしいが、ジャレドと彼のパートナーのマットは、どちらもよく鍛えた肉体派だ。アメフトのファンで、ビールが好きで、アウトドアを楽しむ連中。コールについてもジャレドたちと似たようなタイプなんだろうと勝手に考えていたが、声を聞いただけで違うとわかった。それに、指定してきたレストラン。行ったことはないけれども、スコッツデール地区では高級な部類に入る店だということは知っている。
仕事のあと、家まで戻って着替える時間はなかったから、約束の時間よりは早いものの、そのままレストランに向かった。スーツは朝の六時からずっと同じものを着ている。せめてもの救いは、四月中旬のフェニックスの最高気温は二十度前半くらいで、それほど暑くはないということか。小さな幸運に感謝だ。
店は小さくて静かで、驚くほど混んでいた。テーブルが空くまで、少なく見ても四十五分はかかると言われた。バーでコールを待つことにする。飲み物を注文しようとしたとき携帯電話が鳴った。コールから「遅くなる」とか「来ない」とかいう電話が来たのかと思ったが、違った。父からだ。父もフェニックスに住んでいる。もともとあまり親しくはなかったけれども、九年前に母を亡くして以来、連絡を取り合うようにはしている。
「やあ、父さん」
「ジョン! 一体全体どこにいる?」
父の第一声はいつもこんな具合だ。俺がしょっちゅう街を離れているのを面白がっているのだ。
「今夜フェニックスに戻ったばかりだよ」
「そりゃよかった! 夕食はどうだ?」
「あいにくだけど、実は……」
続きを言うのをためらった。俺がゲイだということを知らないわけではなかったが、父はそれを手放しで喜ぶ気にはなれないみたいだからだ。「デートがあって」
「デート?」初めて聞いた言葉のように尋ね返してくる。
「そう、デートだよ。知ってるだろ、だれかと食事をして、お酒を飲んで、世間話をして」──運がよければセックスする。父にはそこまで言わないが。
「ああ」父がそこで言葉を切る。相手は女性なのか?──と尋ねたい衝動と戦っているんだろうか。父にはまだそういうところがある。俺が突然、性的指向が変わったと宣言するのではないか、なんていうサプライズを期待しているのだ。父が口を開く前に話を進めないと。
「そうだ父さん、電話してくれてよかったよ。来週また街を離れるんだ。芝居のチケットがあるんだけど。もしよかったらどうかな」
俺は劇場のシーズン券を持っているのだが、今はほとんど使えずにいる。
「さあどうだろうな」父がのろのろと答える。父は演劇好きではない。野球のほうが好みなのだ。それが俺たちの関係を端的に示しているとも言える。「何の芝居だ?」
「『ウエスト・サイド・ストーリー』」
「いや遠慮するよ、ジョン──」
「気に入るかもしれないよ」
「結末はもう知っている。キャピュレットとロミュランが──」
「キャピュレットは『ロミオとジュリエット』だし──」
「同じ話だろう、音楽が違うだけで」
「──それに、どっちの話にもロミュランは出てこないよ」
「そりゃますます残念だ。出ていれば少しは活気が出ただろうに」(※訳注:ロミュランは、SFドラマ「スタートレック」に出てくる異星民族)
ため息をこらえた。まあ父が芝居を見たがるとは期待していなかったが、チケットが無駄になるのは嫌なのだ。隣に住むジュリアにあげてもいいかもしれない。
電話が手の中で震える。別の着信だ。「父さん、もう切らないと」
「ああそうだな、ジョン。デートの成功を祈るよ」
それだけのことを言うのに、父がとても努力していることはわかった。「ありがとう、父さん」と通話を終え、次の相手に切り替えた。
また上司のマーカスからだ。
「ジョナサン、クリフトン・インの件は解決したのか?」
「厳密にはまだです。記録に不備があったんです。クリフトンでは二つのシステムを使っていまして──」
「月曜に現地へ飛んで対処するのがいいんじゃないかな」
「月曜日からはヴェガスですが」まさか忘れたわけじゃないだろうな。「フランクリン・スイートの案件です。ご記憶ですか?」
マーカスはため息をついた。「そっちは短めに済ませたほうがいいかもしれない。今はクリフトンが最優先だ」
深呼吸だ。五つ数えろ。
「水曜日にヴェガスを出て、そのままロスに飛べると思います。もしフランクリンが帳簿を整えているのであれば──」
「調べて折り返し電話する」
電話を切り、時計を確認した。六時ちょうど。コールはまだ現れない。電話をしているあいだに到着したかもしれない。周りに目をやるが、誰かを探しているような人は見当たらなかった。そもそもコールが到着したとしても、どうやって見分ければいいんだ?
心配する必要はなかった。
ゲイに関するステレオタイプなイメージは、いま思いつくだけでもさまざまだ──毛むくじゃら、おかま、革でキメたバイカー、フェアリー。数え上げればきりがない。とはいえ、たいていのゲイはそうそう厳密にカテゴライズされているわけでもない。だが、コールがレストランに入ってきたとき、頭に浮かんできた言葉は、まさにそんなカテゴリーのひとつ──「火を見るよりも明らかな──いかにもゲイ」だった。身長は一八〇センチほどだろうか、俺より六、七センチは低い。細身で、少し女性的な顔立ちをしている。髪の色は俺とほぼ同じライトブラウン。よく整えてあるが、前髪が長く目にかかっている。服装はまず間違いなく高価で、少し風変わりだ──スエード風のぴったりした黒いパンツに、おそらく絹であろうラベンダー色のぴったりしたサマーセーター、そして首には薄手のスカーフを巻いている。
女性っぽい男はタイプじゃなかったが、今ここで立ち去るわけにはいかない。それに、一晩だけの相手なら、何もタイプである必要はない。
コールが店の受付に向かうと、係の女性が気づいたようだった。彼女の顔にすぐさま笑みが浮かぶ。それは心からの笑みに見えた。コールが首を少し傾け、瞳が前髪に隠れる。誘うように微笑んでいる。大げさに目をバチバチさせてるんじゃないだろうか。何を言ったかまでは聞こえなかったが、受付の女性は笑い、こっちを指差した。
コールが体を揺らしながら歩いてきた。「僕を待っているのはきみかな」
「ああ、たぶん」手を差し出し、握手を交わす。予想では、握力もなく弱々しいのだろうと思っていたが違った。コールの手は細く、信じられないほど柔らかかったけれども、握手は力強かった。
「ジョナサン・ケッチャーだ」
コールがまた首を傾げる。今度は右に。そのせいで長い前髪が反対側に流れ、瞳が見えた。そして微笑みかけてくる。信じられないほど面白いものを見るみたいに。
「コール・フェントン」その声にはどこか皮肉めいた響きがあった。コールが受付の女性のほうを見やると、彼女はメニューを手に待っている。
「じゃ、行こうか。テーブルの用意ができた」
「時間がかかると言われたが……」驚いて聞き返す。
コールはすでに歩き出していて、肩越しにこちらをちらっと見て微笑んだ。「ダーリン、僕は待つ必要がないんだ。決してね」
席に着くと、コールはメニューを開きもせず係の女性に返した。そして椅子に寄りかかり、こっちを見つめてくる。頭を右に傾けたせいで、また瞳が見えた。コールの肌はキャラメル色に近い──白いと言うには濃すぎるが、ほかの色にたとえるには明るすぎる。店の灯りが暗いせいで、瞳の色まではわからない──茶色だろう──が、瞳に浮かんだ感情は見てとれた。茶目っ気たっぷりで、ほとんどふざけているかのようだ。まるで何も真剣に考えていないみたいに。なぜかわからないが、それが気に障った。
「じゃあ、きみがザックの元カレなのか」
それは質問ですらなかった。驚きを取り繕う余裕もない。
ザックとは別れてもう十年以上たつ。その間ずっとザックに愛想をつかされたのだと思ってきた。それでもザックを愛していた。ヴェガスで偶然再会し、恋人時代のいい思い出がすべて蘇った……よくなかったことも。
「ジャレドがそう言ったのか?」
「正確には違うけど、簡単に予想はつくよ、ダーリン」
コールとジャレドに対する苛立ちをこらえた。「ジョナサンだが」
「知ってる。もう四回も聞いた」
「ダーリン」と呼ぶのをやめてほしい──そうはっきり頼めばやめてくれるだろうか。いや、この男はただ笑い流すだけだろう。
「で、きみはジャレドとマットの友だちなのか? ザックとアンジェロも知っている?」俺は尋ねた。
「マットを友だちだと言ったら、嫌がられるだろうな。本当に知り合いなのはジャレドだけだよ。もう十二年近い付き合いになる。大学時代からの友人だ。ほかのやつらは一、二度会ったことがあるだけだ」
ウェイターがやってきた。「こんばんは、フェントンさん。またお会いできて光栄です。ワインリストをご覧になる必要はないでしょうね」
「また来られてうれしいよ、ヘンリー。きみの言うとおり、リストはもちろん必要ない。何を飲むかはまだわからないけど」コールがこちらを見る。「食事は何にするか決めたかい、ダーリン」
もう一度自分の名前を言いたい気持ちをぐっとこらえる。「ラムチョップを頼もうと思っている」
コールが微笑む。「素晴らしい」そしてウェイターに言った。「私も同じものを。それとテンプラニーリョ・レゼルバを一本」
「承りました」
スペイン産の赤──ザックの好きなワインだ。よりによってコールがそれを選ぶなんて。スペイン産のワインを扱っているレストランは決して多くない。外で食事をするとき、ザックはいつもそのことを嘆いていたものだ。
「何かまずいことでも言ったかな?」突然コールにそう言われ、思考が中断した。どうやらぼんやりテーブルクロスを見つめていたようだ。まずい。
「いや。ただ、きみの選んだワインのせいで──ザックを思い出して」
「ならラムなんか頼むんじゃなかったね、ダーリン」
どう答えるべきなのか、見当もつかなかった。
ウェイターがワインを持ってきた。ワインが注がれているとき、携帯電話が鳴った。静かなダイニングルームではありえないほど大きな音で、周りの客がみなこちらを向く。自分でも赤くなるのがわかった。急いで電話を取り出すと、ボタンを押して呼び出し音を消した。テーブルの向かいでは、コールが少し面白がっている。
「申し訳ない」そう言って電話を指差した。「本当にどうしても──」
「ご自由に」と彼は言い、俺は電話に出た。
「ジョナサンです」
「ジョナサン、サラよ!」
「サラ、かけ直してもいいですか?」
「ジョン、うちで販売しているスパ製品の料金をすべて入力したのだけれど、州税を入力しようとすると──」
「チェックアウトの段階までそれはしないんです」彼女には教えたはずだが、よくある間違いだった。
サラはいらいらして息を吐いた。「こんなの絶対わからないわ!」
「大丈夫ですよ。もう金曜の夜です。帰って少し休んでください。朝まで待って新鮮な目で見れば、もっとうまくいきますから」
「そうかもしれないわね」とは言ったものの、彼女がこちらの忠告を聞くはずがないことはわかっていた。
「今ちょっと忙しいんです、サラ。朝一番に電話してもいいですか?」
彼女はまたため息をついた。「もちろん、わかったわ。じゃあ」
電話を切って、コールに言った。「本当に申し訳ない」
コールは微笑んだ。「仕事の電話か」
「いつものことさ。きみにもわかるだろう」
彼の笑顔が大きくなる。「いや、そうでもない」
「仕事は何を?」
コールの髪型は完璧だった。右に首を傾げれば、前髪が横に流れて視線を合わせることができる。だが下を向いたり、今のように反対側に首を傾げたりすると、髪が目の前に落ちてきて、表情を読み取るのが難しい。
「ありきたりの質問だな、ダーリン。きみこそ仕事は何を?」
「ゲストライン・ソフトウエア社でシニアリエゾン・アカウントディレクターをしている」
コールの口元がほころぶ。「なかなかの肩書きだね。ゲストライン・ソフトウエア社っていうのは、一体何なわけ?」
「大規模なホテルやリゾートのためのソフトウエアを書いている。予約、スパサービス、ルームチャージ、給与計算、人材派遣。すべてを一ヵ所に集めて──」
「僕はホテルのオーナーじゃないよ、ダーリン。セールスは不要だ。ヴェガスには仕事で行って、そこでジャレドに会ったのか」
「ああ。新規のクライアントが三社あるんでね」
「で、シニアリエゾン・アカウントディレクターとは、具体的にどんな仕事をするのかな?」
からかうような響き。イラつく気持ちを抑える。短期間でこの地位を得るまで、大変な努力を要したのだ。「新規クライアントの帳簿関連の記録をわが社に移行するサポートをしている」
「なるほどね。何年勤めているわけ?」
「八年」
「八年か。教えてくれ、ダーリン」コールが反対側に首を傾げ、目が合った。「シニアリエゾン・アカウントディレクターになって幸せ?」
「まあ、ゆくゆくは出張を減らしたいんだが。あと一、二年もすれば、昇進して社内経理をもっと担当できるようになるはず。もっとたてば──」
「目指す地位があるのかな、それともひたすら登り続けるわけ? 登れなくなるまで」
奇妙なことを聞くやつだ。もちろん、昇進は常に目標じゃないか。
「どういう意味だ」
「つまり、今あるものに満足し、腰を落ち着けてくつろげるときは来るのかってこと」
どう答えようか迷ったが、携帯電話が鳴ったので、答えはうやむやになった。またか。そして周りのテーブルの客もまた、みんなこっちを見ていた。なるべく早く済ませよう。
「ジョナサンです」
「ジョナサン!」またマーカス・バリーからだ。「フランクリン・スイーツのほうはライルが担当するよう手配した。きみは日曜の夜、LA行きの飛行機に乗ってくれ」
「了解です」
「我々が酒に溺れちまう前に片づけよう」
まったくもって同感だ。電話を切りながら、「すまない」とコールに謝る。「新しいクライアントで──」彼は興味なさそうに手を振った。さすがに二度目ともなると、面白がる気はないようだ。「もう電話はかかってこないと思う」
そのとき、食事が運ばれてきた。携帯電話をマナーモードにし、テーブルに置く。しばらくのあいだ、黙って食事をした。ワインがラムチョップの味を素晴らしく引き立てている。沈黙を破って尋ねてみた。
「きみは何の仕事を?」
コールは皿から顔を上げ、また髪が目にかかるように首を傾げた。こっちの質問に苛立っているのだろうか、面白がっているのだろうか──わからない。
「そんなに重要なことかな」
「いや」と答えつつ、コールが答えたくなさそうなそぶりなのが気になった。「ちょっと興味があっただけだ」
「きみが興味津々なのは、僕が何者かってことと、僕が何をしているかってことは深く結びついてるから?」
「まあ……」そうだよな?「そうだ」
「僕が街娼だと言ったら?」
「そうだな──ええと──」
言葉に詰まり、黙った。本気で言ってるのか? ジャレドは街娼に俺の番号を教えたのか? ここはどう反応するべきなんだ?「もしそうなら、今夜きみには何も払うつもりはないと言いたいね」ようやくそう返す。つまり、デートはこれで打ち切りということだ。
「そうなのか?」俺は尋ねた。
「もちろん違う」コールがニヤリと笑い、自分がホッとしていることに気づいて気持ちが明るくなる。「でも、そうかもしれないと思ったことで、すべてが変わってしまった。だよね?」
何と返せばいいのかまったくわからなかった。「二〇の質問」みたいに奇妙なゲームに巻き込まれた気分だ。コールはこっちを見て笑っている。苛立たしさをこらえた。
「きみはまだ知りたくてたまらないんだろう?」コールが前髪をかき上げ、尋ねてくる。
そのとおりだった。コールが答えようとしないことに、ますます興味をそそられていた。「ああ、簡単な質問だろう。きみは何の仕事を?」
コールはワインを飲みながらしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「旅をしている」
「旅を?」と聞き返す。一体何を言っている? 理解しようと懸命に頭を働かせる。「よくわからないんだが」
「きみには馴染みのない言葉だったかな」コールが応じる。その瞳を見れば、コールがどれだけこの会話を面白がっているかがわかった。最初に言葉を交わしてからずっと、静かに笑われているような気がして、よくも悪くも気になってしかたない。
「旅ならもちろんよく知っているが、そこからどうキャリアを積んでいけるのかわからないね」
「キャリアを積んでるなんて言わなかったよ、ダーリン」
「でもさっき──」
「料理も好きだ」
「じゃ、シェフとか?」
「そう言ってもいいかもね。でも、それを生業にしているわけでもない、もしそういう意味なら」
「もちろん、そういう意味だ!」自分の声が、驚くほど怒っているように響いた。近くのテーブルにいた何人かがこちらを見る。自分がまた赤くなるのを感じた。目を閉じて、五つ数える。
「何かきみの気に障ったかい、ダーリン?」
「いいや!」まだ苛立ってはいたものの、気持ちはずいぶん落ち着いてきた。
「些細なことについて謝るには早すぎるね」コールの声が軽く響く。ようやく目を開けると、コールはまだ微笑んでいた。だが、その表情からはさっきまでのからかうような色がずいぶん消えている。
「ザックとはどれくらい付き合ってたの?」
話題が突然変わり、完全に意表を突かれた。こちらはまだ、それまでの会話のせいで混乱し、イラついていた。だがコールの表情には見下したところはなく、率直で誠実な感じがした。「三年」と答える。
「何年くらい前の話?」
「十年前に終わっている。なぜ聞く?」
コールが申し訳なさそうに微笑みかけてくる。「単に会話をしたいだけだよ。でも、まずい話題を振っちゃったみたいだな。本当に知りたかったのは、きみが誰かと付き合っているかということなんだと思う」
「明らかにノーだ、だからここにいる」
「明らかなの? 恋人がいるかどうかは曖昧にしておきたいって男とたくさん会ってきたけどね」
確かに一理ある。「誰とも付き合ってない、どんな意味でも」
たまにクラブでナンパしたり、バスハウスに行ったりすることはあったが、実際に誰かとデートしたことは何ヵ月もなかった。「きみはどうなんだ?」
「友人は多いけど、縛られるような関係じゃあないね」
それを聞いて思わず少し笑ってしまった。「きみこそ曖昧さを選ぶようじゃないか」
コールがかすかに微笑み返す。「こう言っては何だけど、長い間、誰とも食事を一緒にしていない」
そのとき、「ジョナサン!」という聞き覚えのある声が聞こえ、会話が中断した。顔を上げると、ジュリアがそばに立っていた。隣に住んでいて、俺より何歳か年上だ。夫のビルは不動産業を営んでおり、ジュリアは三人の子どもたちを車であちこち送り迎えするのが日課だった。
「やあ、ジュリア」
ジュリアは意味ありげにコールのほうを向いた。紹介しようとしたら、また携帯が鳴った。少なくとも今回は着信音が鳴っていなかったから、気づいたのはコールとジュリアだけだ。
俺の助けなどなくても、コールはすでに席から立ち上がり、ジュリアの手を握っていた。あまりに親しげで、一瞬、キスでもするんじゃないかと思ったほどだ。電話の相手はまたしてもサラで、今度は別のソフトウエアの不具合についてだった。コールとジュリアが何を話しているのかはわからなかったが、二人から目を離さなかった。コールの態度はとても礼儀正しく、それでいてどこか誘うようで、ジュリアはそれを楽しんで受け入れていた。
電話をちょうど終えたとき、ジュリアの夫が現れた。
「テーブルの準備ができたようだわ」とジュリアは言った。「会えてよかった、コール」それからこちらを鋭い目で見た。「またあとでね、ジョナサン」
ジュリアが去るとコールは座り直し、いたずらっぽい目を向けてくる。
「何だ?」思わず微笑み返しながら尋ねる。
「あとで噂話されるような気がするんだけど」
笑うしかなかった。「多分そうなるだろうね」
「彼女とはどういう知り合い?」
「隣人だ。俺が仕事で留守の間、家のことをやってくれている。魚に餌をやったり、郵便物を保管しておいてくれたり。彼女の兄のトニーとは、数年付き合ったこともある。もうカリフォルニアに引っ越したが」
「きみと彼女は親しいの?」
「そうだと思うが、どうだろう。一緒に白ワインを一本飲空けるくらいには親しい。いや、二本かな」コールがさらに面白そうな顔をしたので、もう一度尋ねる。「何だ?」
「別に何でもないよ、ダーリン──」
「ジョナサンだ」
「──ただ、考えてたんだ、それってすごくありきたりじゃない? ゲイの男がストレートの女と友だちになるなんてさ」
「ゲイの友人しかいないっていうのも、ありきたりじゃないか?」
コールがこちらを見て笑う。本物の笑顔だ。今夜二度目だが、からかうような感じが消えていた。「言えてる」
テーブルの上で携帯がまた鳴り出した。
「くそ!」
「いつもこうなのかい、ダーリン」コールの声は、今度は明らかに苛立ちを含んでいた。
「いつもじゃない。ただ──」バズ、バズ、バズ。「すまない。本当に大事な案件なんだ」彼は目をそらし、電話に出ればいい、とばかりに手をひらひらとさせる。
「ジョナサンです」
「ジョナサン!」またもマーカスだ。「例のクリフトンの女のせいで俺は死にそうだ。日曜のことは忘れろ。今夜の飛行機で飛んでくれ」
「今夜? マーカス、帰宅して四時間もたってないんですよ」
「わかっている。だが、彼女が週末に休まないというなら、お前も休めないぞ。現地で作業するのがいい、そのほうがずっと効率的だ」
俺は五つ数えてから言った。「明日の朝六時に出発します。それでいいですよね」おお神よ、どうか今夜だけは自分のベッドで寝かせてください!
彼はため息をついた。「まあそれでもいいだろう」
「ありがとうございます」電話を切ると同時に、コールに「本当にすまない──」と言いかけ、ふと見ると、彼はポケットから財布を取り出しているところだった。
「帰るのか?」驚いて尋ねた。コールは答えず、財布から百ドル札を四枚取り出すと、テーブルのキャンドルホルダーの下に挟んだ。
「そんな──」
きみが俺の夕食代を払う必要はないし、そんなに巨額のチップを残す必要はない──と言おうとしたが、コールに遮られた。
「ねえダーリン、きみはホントにかっこいいよ。でもはっきり言うとね、僕は注目されていたいんだ。特にデートのときは」
「まだ帰らなくても──」
「まあ、機会があればまた」そう言って一枚の名刺を差し出してくる。名前と電話番号以外は真っ白だ。コールは前髪の奥から瞳を瞬かせた。「連絡して。できれば電話を家に置いておける夜にね」
コールが去り、一人で夕食を済ませることになった。
そのあと、携帯電話は一度も鳴らなかった──翌朝五時十三分までは。そのときすでに、俺は空港に戻っていた。
送信日時:4月17日
差出人:コール
宛先:ジャレド
ああスイーツ、きみにはホント文句を言いたいね! 勧められたとおりジョナサンに電話したけど、僕が誰なのかもわかってなかったぞ。僕をハメるつもりだったにせよ、せめてこっちの名前くらいは教えておいてくれなきゃ。でも、きみを許すしかないんだろうな。ひとつ貸しができたから、きっちり埋め合わせしてもらいたいところだけど、そんなこと、きみのあのワルなボーイフレンドが許さないだろうしね。それも残念だ……。
で、ジョナサンと会って食事をしたんだけど、ハニー、大失敗だったよ。ジョナサンは、僕みたいなのはタイプじゃない。彼はひどくかわいいけど、堅苦しくてユーモアのセンスもないし、自分のキャリアにひどく執着してる。念のため言っておくけど、スイーツ、ブラインドデートをセッティングするときは、そういうことを最初に教えておくものなんだよ。デートはうまくいかなかったし、そんなこんなで、フェニックスでのラブライフは今も絶望的に枯れ果てている。彼に電話番号は教えておいたけど、連絡が来るなんてありえないだろうし。僕が金持ちでよかったよ、このままじゃ、誰かと寝るためにパリまで飛んでいかなきゃならないかもしれないから。
その次の週末、父にアリゾナ・ダイヤモンドバックスの試合に連れて行かれた。野球はあまり好きじゃないのだが、年に何回か、一緒に来るようにとしつこく誘ってくるのだ。法外な値段のホットドッグと、大量生産の安物のくせに一杯八ドルもするビールを買った。父が打点やら打線やらの話をするのを、興味があるふりをして聞いていたが、父も俺も、うわべだけの会話をしていることはよくわかっていた。同じように、俺は試合の半分の時間を会社からの電話対応に費やし、父は気にしていないふりをする。馬鹿馬鹿しい取り決めだが、それで平和が保たれていた。
二回表に入って間もなく、上司との電話を終えたところで、父が突然聞いてきた。
「で、どうだったんだ、お前のデートは?」
まだ電話のことが頭から離れておらず──マーカスから月曜にまたロスに発つよう言われたところだった──つい間の抜けた返事をしてしまう。「俺の何?」
親が子どもをたしなめるときの顔で父がこちらを見る。俺が家の雑事をうまくこなさなかったときによく見た目つきだ。「ほら」父は皮肉っぽく言った。「デートだよ。食事をして、お酒を飲んで、世間話をして。ほかの誰かと」
自分が言った言葉で父に揚げ足をとられてしまった。まったく嫌になる。頬が赤くなっているのがわかった。
「うまくいかなかった」
「どうして?」
詳しいことは父に話したくなかった。いつも「仕事に振り回されている」と叱られているからだ。嘘をついてしまおうか。でも、これまでタイミングよく嘘をつけたためしがなかったし、どうせ顔に出てしまうから、覚悟を決めて事実を認めることにする。父の目を見て話すのは無理そうだから、フィールドへと視線をそらす。「あの晩、俺にたくさん電話がかかってきたせいで、相手は気を悪くしてさ。店を出て行っちゃったんだ」
父がすぐに説教を始めるかと思ったが、違った。しばらくの沈黙。振り向くと、悲しそうな顔でこちらを見ている。「悪かった、ジョン」
「どうってことない」平静を装って言った。本当を言うと、コールにあんなふうに見捨てられたことで、まだ少しもやもやしていた。「どうせ俺のタイプじゃなかったし」
「ほかの誰かとは付き合ってないのか?」
「今のところはね」実際は気の遠くなるほどずっと──ない。
またしばらく沈黙が続いた。そっと目をやると、父が幽霊たちと一緒にいるのが見えた。もちろん文字どおりの幽霊じゃない。映画に出てくるようなものでもない。父の心の中だけに存在している幽霊たち。父が過去に取り憑かれているとき、それを感じることができる。
俺には姉がいた。姉についての記憶はほとんどなかった──ぼんやりとしたイメージはあったものの、姉の写真を見て、あとから形づくられたものだという気がする。姉が死んだのは六歳のときで、俺はまだ二歳にもなっていなかった。家で母と俺が昼寝をしていたある日のこと、姉は庭のプールで溺れ死んだ。父も家にいたが、空調会社と電話中で姉から目を離していた。
事件のあと、父はプールを壊して埋め、我が家で誰かが姉の名前を口にするときはいつも囁くような声になった。あれから三十年以上たった今でも、姉の死に対する罪悪感は、父の周りに影のようにつきまとっていた。いつも見えるわけではないけれども、何かをきっかけに、父の目にそれが映るのだ。
そして母の姿も。父が今でもずっと寂しがっているのは知っている。母は九年前に膵臓がんで亡くなった。母が亡くなるまでの数年間、父と俺はあまり話さなかった。父は俺のセクシュアリティを快く思っていなかったし、俺は俺でまだ若かったせいで、家族がいつでもそこにいるとは限らないという事実に気づいていなかった。母の死は、大きな衝撃だった。あのとき俺たち親子は悟ったのだ。それまでさほど親密ではなかったかもしれないけれども、お互いがお互いのすべてであったことに。俺がコロラドを離れ、フェニックスに戻ってきたのはそのときだ。
俺は父が話すのをまだ待っていた。父には何か言いたいことがあるのがわかった。ただ、どう言えばいいのか迷っているだけなのだ。「ジョン」ようやく、ためらいながら父が口を開いた。「会社にいい娘がいるんだ」
「いや」
「気持ちはわかるが──」
「じゃあどうしてその話をするわけ?」
「何が問題なんだ、ジョン? 今は誰とも付き合ってないんだろう? 彼女と会ってみたっていいじゃないか。どうなるか試してみればいい」
「いやだ」
「私はただ……」父が言葉を濁す。父の上に幽霊が重くのしかかっているのが見えた。肩が落ち込んでいる。父の顔は悲しげだった。もしかしたら涙をこらえているのかもしれない。
「家族は大きくなっていくべきだよ、ジョン」父が静かに言う。「縮んじゃいけないんだ」
そう、それが問題の核心だった。父は俺がゲイであることを否定していたわけではない。ただ、それ以上のものを求めていたのだ。奪われてしまった家族と、決して腕に抱くことのない孫を。それを責めることはできない。
「わかってるよ、父さん」俺はそっと言った。それから、フィールドに視線を戻した──父が気まずい思いをしないで目を拭えるように。
その後、五回裏に進むまで会話はなかった。試合終了まで見ていたものの、どちらが勝ったのか、まったくわからなかった。
それから二週間、コールの電話番号を持ち歩いた。彼にもう一度会いたい──と自分自身に認めるまで、しばらく時間がかかった。
コールは傲慢で、不愉快で、けばけばしいところがあって、何よりまず間違いなく俺のタイプじゃない。が、賢くて面白くてかわいくて、間違いなく魅力的だ。それに、俺に興味を示してくれたという単純な事実も捨て置けない。今のところほかに付き合うあてはないのだから。結局、自分にこう言い聞かせた──少なくとも、やつに詫びを入れるくらいの借りはあるよな。
電話をかけると、フランス語が返ってきた。「アロー?」
「やあ、コール。ジョナサンだ」
「ああ、ハロー、シュガー。なんてうれしい驚きだ。どうしてた?」
ほんの一瞬、俺の名前はシュガーじゃないと言い返そうかと思ったが、やめた。ごてごてした呼び名に慣れるしかないような気がしたのだ。
「謝りたかったんだ──」
「気にしないで、シュガー。あの晩は、お互いベストな振る舞いじゃなかった。だろ? もうすんだことだよ、ほんと」
「もう一度試してみるのはどうかと思って」
「ぜひそう願いたいね。今度は二人きりになれるのかな?」
「携帯を持っていかないわけにはいかない。でも、今はどのクライアントも危機的状況じゃないから、前回ほどひどくはならないはずだ」
「それならそれでまあよしとするか」コールは明らかに楽しげだった。「きみの誘いは今夜ってこと?」
「いや、実は今ロスにいるんだ」
「そうなると、もっと大変になりそうだね。いつ戻ってくる?」
「火曜の午後」
「最悪のタイミングだ、シュガー。水曜日にパリに発つんだ」
「本当に? 休暇で行くのか?」
「いや」素っ気ない口調だったので、好奇心をそそられた。「じゃあ、火曜に会うのはどうだろう?」とコールが続ける。
「いいね」
「飛行機は何時ごろに着く?」
「四時だが、そのまま会社に行って上司に会わなきゃいけない。六時少し前には帰れるはず」
「完璧だよ、シュガー。それじゃ、また」
「え──待てよ、え?」だが遅すぎた。回線はすでに切れていた。かけ直そうかと思ったが、馬鹿みたいなのでやめた。
帰りの飛行機が一時間遅れ、マーカス・バリーとのミーティングに間に合うよう、俺は急いだ。
マーカスは四十代で、友人とまでは言わないものの、公平で一緒に仕事をしやすい上司だ。ただ、六十歳にもならないうちに心臓発作で死んでしまいそうなタイプでもある。太りすぎで働きすぎ。タバコは吸いすぎだし酒も飲みすぎ、主食はファストフード。だがとても成功している。CEOの直属の部下で、年収は五十万ドルを超えており、ポルシェを乗り回していた。彼のようになるのが目標でもあった──トランス脂肪酸と心停止を除いて。
「遅くなってすみません」マーカスのオフィスに駆け込み、ドアを閉めた。
「どこにいたんだ?」
「飛行機が遅れて──」
「ずっと電話していたんだが」
「本当ですか?」携帯電話を取り出し、確認する。「しまった。申し訳ありません。飛行機を降りたとき電源を入れ忘れたようです。急いでいたものですから」
「気にしないでいい。そのままオフにしておけ──我々の邪魔にならないように」
「カリフォルニアの話をお聞きになりたいですか?」
マーカスは興味なさそうに手を振った。「いいや、ジョン。きみは仕事をしっかりやってるからな」
マーカスなりの褒め言葉だ。
「ほかに話したいことがある」
俺は向かいの椅子に座った。「お聞きします」
「モンティが昨日、会議を招集した」
モンゴメリー・ブルーウィントン、CEOのことだ。マーカスは社内で唯一、彼を名前で呼べる人間なのだ。
「リストラの話が出た」
「リストラ? どのような?」
「旅費を節約するため、各州にアカウントリエゾンを置きたいと言っている」
「それには納得です。私とどう関係が?」
「ジョン、覚えておいてくれ、これは現時点ではすべて推測だ。まだ何も決定していない。しかし、もし実現した場合」彼は肩をすくめた。「いくつかの可能性がある」
「たとえば?」
「モンティが対処すべきだと考えているのは、大きく分けて七つのエリアだ。アリゾナ、ロス、サンディエゴ、サンフランシスコ、ヴェガス、コロラド、ユタ。問題は、現在その地域を担当しているのが十人だということだ」
「つまり、私たちのうち三人が職を失うということですか?」
突然胸に沸き起こったパニックに抗いながら、そう尋ねていた。
「誰も仕事を失わないさ、ジョン」
「ならどういうことに?」
「その三人はおそらく降格になるだろう」
「何ですって?」
「そんなに動揺しないでくれ。いい知らせもある。きみの業績は十人中五番目だ。三人のうちの一人になることはないだろう」
確かにそれはいい知らせだった。五つ数え、少しリラックスした気分になった。
「いずれにせよ、私はその七つのどこかに異動することになるわけですね?」
「そうだ。私が聞きたいのは、それについてどう思うかだよ」
ちょっと考えさせられた。ここアリゾナに愛着があるわけではない。引っ越しが嫌だと思うのは、単に面倒くさいからだ。それに父はフェニックスに住んでいる。もし引っ越さなければならなくなったら、間違いなく父に会う機会を失う。しかし、ほかに抗う理由はなかった。
「必要とあらば何でもしますよ、マーカス。おわかりだと思いますが」
マーカスは微笑んだ。「よしよし」彼が立ち上がり、ミーティングが終わったことを告げた。俺もそれに従う。「家に帰って少し休め。明日の朝、また会おう」
別の州への異動のこと、そして新ポジションにともなう昇進の可能性で頭がいっぱいになりながら、オフィスを後にした。少しぼんやりとした気持ちで、車で家路につく。何か変だと気づいたのは、玄関に続く私道にサーブが停まっているのを見たときだ。自宅のドアを開けると、ジュリアがソファに座ってワインを飲んでいた。
「出張はどうだった?」ジュリアが聞いてくる。
「何事もなかったよ」ドアのすぐそばに荷物を置いた。「ここで何してるんだい?」
「あなたのボーイフレンドに入れてほしいって頼まれて──」
「俺の──何だって?」
「──最初はそのつもりじゃなかったのよ。でもどういうわけか説得されちゃって──」
「何を言ってるんだ?」
「──だってすごく素敵じゃない、夕食を作ってあなたを驚かそうだなんて──」
残りを聞くまで待たなかった。リビングルームを横切り、キッチンへと続くスイングドアを押して入った。コールはコンロの前にいた。彼に向かって声を荒げる。
「ここで一体何をしているんだ」
コールは俺のほうを見ようともしなかった。「夕食を作ってるんだ、シュガー。見てわかるだろ?」
「家に押し入って、夕食を作ってるだって?」
「そんな芝居がかったことを言わなくてもいいんじゃないかな」コールがこちらに顔を向ける。「だいたい押し入ったりしてないし」
コールはこの前と同じような服装だった。濃い色の細身のボトムスに、淡い緑色の薄手のニット。瞳の色を印象的に見せるような色合いだ。瞳は茶色ではなく鳶色だった。彼は裸足で、なぜかその細い足に見入ってしまう。
「ねえ、気を悪くしたらのなら謝るよ。本当に」コールの言葉はこれまでより誠実に響いた。「でも出張先じゃどんな感じか想像がつくからさ。レストランでの食事が続くだろう? で、家庭料理のほうがきみもうれしいんじゃないかって思ったわけ。そういうことだよ、シュガー。電話したんだけど留守電だったし」
もちろんそうだったろう。五時間前にロスで飛行機に乗ったときから、携帯電話の電源は切ってあったのだから。
「ジュリアに無理やり頼んで家に入ったのは、全然いいやり方じゃないと思う。でも、きみが帰ってくるのを待って料理を始めたら、八時過ぎまで食事ができなくなる。だからいちかばちかやってみることにしたんだ」
正直なところ、怒りは薄れていた。コールの優しさを感じたからだ。だいたい誰かが俺のために何かしてくれたのは、いつ以来だ? 思い出せもしない。ロスでの十日間、朝昼晩と外食が続いたから、家で静かに食事できるのは、混雑したレストランよりはるかに魅力的だ。コールが作っている料理が何にせよ、思わずよだれの出そうな香りが、「コールを許せ」と囁いている。男のハートを落としたいならまずは胃袋を落とせ──とはよく言ったものだ。その瞬間、本当にコールにキスしたいと思っていた。
「ありがとう」俺は静かに言った。コールはすぐさま顔をそむけたが、それでも頬に赤みが差すのが見えた。「何を作っているんだい?」
彼は肩越しに俺をちらっと見てから、すぐまた背を向けた。「ロブスターのソテー・パスタ」
「なんていい匂いだ」
コールが誘いかけるような笑みを浮かべてこちらに向き直る。「そりゃそうでなくちゃ、きみ。料理の腕前は一流だからね」
「何か手伝おうか」
「料理を? いやいい。でもテーブルセッティングはできそうだな。ジュリアが一緒に食べたいなら、たくさんあると言っておいて」
ジュリア!
すっかり忘れていた。さっきのやりとりで、ジュリアは間違いなく俺が怒ったと思ったはずだ。勝手にコールを家に入れたせいで。リビングルームに戻ると、ジュリアは部屋じゅうを行きつ戻りつしていた。
「ジョナサン、ホントにごめんなさい!」俺が部屋に入るなり、ジュリアが言った。「私がいけなかったわ──」
「大丈夫だよ、ジュリア。本当に」
彼女はまだ信じていないようだ。「もうしないって約束する」
「大丈夫だから。不意打ちを食らったけど、問題ない。コールを家に入れてくれてよかった」
「わかった。もしあなたが本当に──」
「本当にそう思ってる。彼はたくさん作ったそうだよ、一緒に食べていく?」
ジュリアが笑顔を見せる。「で、デートをぶち壊すの? まさか」
「ただの夕食だよ」ジュリアが出ていくのを見て、声をかけた。
「ねえ、ジョン」ジュリアはドアを開けながら言った。「彼は手元に留めておくべきだと思う」
「ただの夕食だ」そう繰り返した。だが、彼女はもう行ってしまったあとだった。
コールは夕食を作ってくれただけでなく、白ワインも一本持ってきていた。「いつもは赤を飲むんだが」彼がグラスにワインを注ぐのを見ながら、俺は言った。
コールが頭を傾け、前髪が目にかかる。うちのリビングルームのライトはこの前のレストランよりも明るいから、髪の色がほんのり赤みがかっているのがわかる。シナモンを連想させる。コールはシナモンのような香りがするのだろうか──そんなことを考えている自分に気づいた。
「きみってもしかして、メルローはどんな料理にでも合うと思ってる残念な人種のひとりなのかな、シュガー」コールがそっけなく聞き返してくる。
「ええと」と、言いよどんだ。顔が赤くなるのを感じる。「いつもはキャンティを買っている」
コールが訳あり顔で微笑む。「まあ僕を信じて。このヴィオニエはずっといいから」
ワインについてはよくわからないが、彼の「料理の腕が一流」という言葉は決して口先だけじゃなかった。ディナーは素晴らしかった。「どこでこんな料理を覚えたんだ?」食事を終えたとき、俺は尋ねた。
コールは頭を下げて話す癖があるようで、そういうときは長い前髪と睫毛のせいで、瞳がよく見えなくなる。「自由な時間がたくさんあるからね」
「本当に?」穏やかな雰囲気を壊すのはどうかと一瞬ためらったものの、ついに好奇心に負け、尋ねてしまった。「仕事は何を?」
コールが呆れて目を回す。「またそれかい、シュガー? 聞き飽きないのか?」
「きみが本当に答えてくれるなら、もう聞かない」
彼は気まずそうに体を動かし、テーブルの食器をずらした。「実は何もしていないんだ」
「どこかに雇われてはいるんじゃないか」
「なぜそんなことを言うわけ?」
「きみには金が──」
「ある」
「じゃあ、どうやって稼いでいる?」
「稼いでいないよ」
コールが詳しく説明してくれるのを待ったが、彼にはそのつもりがないようだ。
「それじゃ」俺はゆっくり、あからさまな皮肉をこめて言った。「きみは働くとかいう次元じゃないほど裕福だというのか?」
コールが頭を後ろに倒し──そのせいで髪もさっと後ろに流れ──まっすぐこちらを見る。迷っているような、それでも真剣な面持ちで。
「実は、そうなんだ」
自分がどんな答えを期待していたのかわからないが、少なくともこんな答えじゃなかったことは確かだ。「ああ」馬鹿みたいにそう返す。ほかに何を言うべきかわからなかったのだ。
「あまり早い段階でこのことを話すのは好きじゃないんだ、シュガー。まだすごく若かったころに学んだんだよ、僕が金払いがいいっていうだけで、どれだけの人が一緒にいたがるかって」
確かにそうかもしれない──想像に難くなかった。「宝くじでも当たったのか?」
「いや。相続したんだ。くじみたいな場当たり的なことじゃない。父はとんでもない額の金を持っていた。一族の金もあれば、自分で稼いだ金もある。父は何度か結婚したけど、子どもはいなかった。五十五歳を過ぎたとき、父は自分の行く末──死について考えるようになった。そして、跡継ぎが必要だと考え、妻を見つけた。二十二歳で美しかったけど、頭はあまりよくなかった」
「トロフィーワイフ?」と尋ねると、コールは微笑んだ。
「まさに。もちろん婚前契約書にサインさせたし、相続人が生まれると、たっぷり金を払って彼女を解放した。今、マンハッタンに住んでいる」
「じゃあきみが後継者?」
「もちろんだ、シュガー」コールが立ち上がったので、テーブルを離れるのかと思った。俺も椅子を押しやって立ったが、彼はそのままこちらを見ているだけだったので、座り直した。
「十五歳のときに父が亡くなった。金はすべて信託財産として残されていた。僕はいくつかの要件を満たす必要があった」
「どんな?」
コールがゆっくりとテーブルのこちら側まで回ってくる。
「少なくともGPA評価がB以上の大学を卒業しないといけなかった。愛すべき母を支え続けることに同意しないといけなかった」
コールの口調から、「愛すべき母」などではないことが伝わってくる。
「正確にはいくら持っているんだ?」
そう尋ねたとき、コールは俺の椅子まで来ていた。失礼な質問だとは思ったが、彼は気にしないだろうという気がした。
「正確にはわからない。チェスターが全部やってくれている。でも、彼は引退すると脅し続けていて、そうなったらどうしたらいいのか見当もつかない」
「いくら持ってるか、わかってないのか?」
「そういうわけでもないよ。今の生活を続けるのに十分な財産があって、おまけに相続人にも十分な金を残してやれる──相続人なんて決してできるわけないけどね」
コールが俺の膝をまたいで腿の上に座る。こちら向きで。コールの指が俺のシャツのボタンをはずし、細い指で俺の胸毛をなぞる。突然、会話の内容などどうでもいいことに思えた。コールは美しく豊かな唇をしていて、そこから目を離すことができなかった。
「ねえシュガー。きみは僕の信託基金について一晩中議論したいわけ?」
コールの髪が後ろに流れて瞳があらわになる。邪悪で淫らな笑みを浮かべ──俺の股間を刺激する。「それともデザートの準備はできてる?」
コールが唇にキスされるのがあまり好きでないことはすぐにわかった。そんなことはどうでもよかった。彼の体には、ほかにキスされたがっている部分がたくさんあったから、そっちに集中した。二人は服を次々と脱ぎ捨てながら、ダイニングテーブルからベッドルームまで向かった。コンドームを見つけ、コールに差し出す。
「好みはあるか? 俺は何でもいける」
コールがコンドームを押し戻してくる。「僕は絶対トップはとらないよ、シュガー。いかにも僕みたいなタイプっぽいだろ」
俺は微笑んだ。「構わないよ」
コールの体はスリムで美しかった。数センチ背が低いだけなのに、組み敷いた体はもっと小さく儚げに思えた。だがそう思ったのも一瞬で、彼がそういうタイプじゃないことがすぐにわかった。むしろひどく情熱的だった。
体毛は腕の下だけ。股間さえきれいに剃ってある。髪は絹のように柔らかいが、シナモンのような匂いはまったくしない(もちろんだ)。その代わりイチゴみたいな香りがした。首の後ろ、ちょうど真ん中あたりに少し濃いめの小さな痣があった。三角形をしていて、蝶を連想させた。唇が、何度も何度もその痣に引き寄せられてしまう。
ことが済むと、コールは俺の腕の中で寝ることも、俺に寄り添おうともしなかった。ベッドの反対側に移動し、気だるげに伸びをした──俺に触れることなく。
「まさか、夜中にわざわざ僕を車で帰らせるつもりじゃないよね、シュガー?」
「ああ。いてくれていい」
「やっぱりきみが好きだな」とコールは言った。そのあとで彼が何か言ったとしても、聞こえなかった。もう、熟睡していた。
翌朝、俺がランニングに出かけたときコールはまだ寝ていたが、家に戻るとキッチンにいて、ベーコンエッグを作っていた。服は全部着ていたものの、まだ裸足だった。コールはこちらを見もせずに、シンクにたまっている汚れた皿の山を指差した。
「僕は皿洗いはしない。けど、ダーリン、もしきみがやりたくないなら、誰かに来てもらって片づけさせることはできるよ」
「本気で言ってるのか?」
「当然。よその家を散らかしたりしたときは、ローザに金を払って頼んでる」
「よくあることなんだな?」
コールの顔には笑みが浮かんでいたが、まだこちらを見ようとしない。コンロでジュージューと音を立てているベーコンエッグに視線を落としている。「きみが思うほど頻繁にはないよ」
「食事の前にシャワーを浴びる時間はあるかな」
「早くしてくれたらね」
出勤の準備が整うころには、朝食がテーブルに並んでいた。「こういうことのあと、いつも朝食を作るのか?」俺は尋ねた。
「場合によるね」
「ジャレドにも料理を作った?」彼とジャレドが恋人同士だったかどうかなど、もちろん実際には知らなかったが、興味はあった。
コールが微笑んだ。「もしジャレドの家で料理をする機会があったら、作ってたかもね。あいつはポップタルトとビールだけで生きてるんだから」
食事を終えると、コールがこちらをじっと見ているのにに気づいた。
「失礼なことはしたくないんだが」申し訳ない気持ちで彼に言った。「今日は仕事を休めない。本当に行く必要がある」
「僕のためにスーツを着てくれたとは思ってなかったよ、ダーリン。今すぐ出ていって、キッチンの片づけはきみに任せてもいいし、ローザを待って、彼女が出るときに鍵をかけてもらってもいい。きみしだいだ」
「きみを急かすつもりはない。悪く思わないでくれるといいんだが」
「わかった」
「今日パリに発つのか?」
「二時のフライトだ」
「あっちにはどのくらい?」
コールは肩をすくめる。「まだわからないな、ダーリン。家に帰りたくなるまで、かな」
「よく行くんだ?」
「年に数回」
「休暇で?」
「あっちにマンションを持ってる」
「本当に?」
畏敬の念と羨望が声に滲むのを抑えきれず、聞き返した。
コールは明らかに面白がって首を傾げた。「ああ。ベイルにもあるし、あとはハンプトンの家──ハンプトン基準ではただのコテージだけど──それにカポホにも家がある」
「うわ」
コールが微笑んだ。「まあね。で、ダーリン、ローザを呼ぶ? どうする?」
「きみの金で誰かに家を掃除してもらうなんて馬鹿げてる気がする」
「どうして?」
「子どもっぽいじゃないか」
コールは肩をすくめた。「お好きにどうぞ」それからしばらく皿に目を落としていたが、顔を上げたとき、その表情には探るような何かがあった。
「聞いてもいいかな。きみはこれを一度だけのことにしたい? それともほかの選択肢を検討したい?」
「ほかの選択肢というと?」
「僕みたいなライフスタイルには、一対一の恋人関係は馴染まない。でも、見知らぬ赤の他人とのセックスに興味をそそられたこともない。その中間がいいんだ」
「ジャレドとのこともそうなのか?」
コールが眉を上げ、面白そうな顔をする。「まさに。楽しくて気軽で、まったく複雑じゃなかった」
「それがきみの提案なんだな?」
「興味があるなら」そう言って、誘いかけるように微笑む。自分のタイプかどうかは別として、コールは本当に、信じられないほどキュートだ。それにベッドルームでの時間はとても楽しいものだった。そもそも楽しくないセックスなんてない。しかも二人の関係は自然で簡単だった。コールの提案に興味が持てないはずないじゃないか。
「完璧だな」俺は言った。
「よかった。じゃあ、フェニックスに戻ったら電話するよ」
送信日時:5月3日
差出人:コール
宛先:ジャレド
ダーリン、地球温暖化は神話に過ぎないって話、聞いたことある? 先週のあの地獄のような寒さは、それしか説明がつかないね。あと、言わせてくれ──やった! 干からびた季節がようやく終わりを告げ、しばらくはハッピーな状態が続きそうだよ。今、パリにいるんだけど、フェニックスに帰ればお楽しみが待っている。きみのおかげだよ、スイーツ。キスしたいくらいだ。きみのあのデカくてワルなボーイフレンドが許してくれるならね。
その日の晩、案の定ジュリアが訪ねてきた。
「それで」ジュリアを招き入れると、からかうように尋ねられた。「ディナーはどうだった?」
「本当によかったよ。コールは素晴らしい料理人だ。「一緒に食べればよかったのに」
「そうね」と言いながら、ジュリアがソファに座る。
「トニーはどうしてる?」と聞いてみた。彼女の兄のトニーがどうしているかなんて正直どうでもいいことで、ジュリアにもそれがわかっていた。話題を変えられるかと思ってちょっと試してみただけだ。もちろんジュリアは食いつかなかった。
「コールとは続きそうなのね!」
「そんなんじゃない。食事とセックスって意味ならイエスだけど、付き合うのとは違う」
「ええと」ジュリアは俺の言葉を無視して言った。「彼は料理をするでしょ。思いやり深いでしょ」ひとつひとつ指を折りながら続ける。「それに超キュート」
「いや本当に俺のタイプじゃないんだ」
「おまけにリッチよ」
「どうしてわかった?」
「ただの推測」ジュリアの言葉に、はいはい、という顔で返す。「三拍子そろっていて、そのうえボーナスがついてるようなものじゃない?」
「それが?」
「彼を逃がしたら馬鹿だってこと」
コールが街を離れていたことは、結果的にはたいした問題ではなかった。その後数週間はとても忙しく、彼が街にいたとしても、会う時間はとれなかっただろう。自分のベッドで過ごせたのはわずか数晩だけ。それ以外の時間はラスヴェガスに赴き、大手カジノのシステムを当社のソフトウエアに変換するという作業にかかりきりだった。ヴェガスにマンションがあるので、モーテルの部屋よりはまあくつろげる。でも、やっぱり家とは違う。
コールから連絡があったのは、ほとんど一ヵ月たってからのことだった。朝の七時、また長い一日が始まるというとき、ヴェガスのマンションから出ようとしたところで電話がかかってきた。
「やあ、マフィン。元気だった?」
思わず笑ってしまう。「マフィン?」
コールは構わず続けた。「きみに会いたい。今週はいつ空いてる?」
ため息が出た。「いやそれが今ヴェガスにいて、身動きがとれないんだ」
「仕事してるの? 週末なのに?」
「ホテル業界には週末なんてないんだよ」
「殺伐としてるな。あとどのくらいそっちにいる?」
「最低でも数日。フェニックスに戻ってるのか?」
「実はそう。でも、きみがいないんじゃ、ひどく退屈になるだろうな」
「こっちもかなりつまらないよ」
コールはしばらく黙っていたが、それから言った。「僕なら変えられるよ」
「会計データの移行をもっと効率的にできるって?」
「まさか。そっちのほうはまったくもって全然ムリ。でも、少なくともきみの夜を有意義なものにすることはできる」
「きみが言ってるのは俺が考えていることと同じかな?」
「それはわからないな、マフィン。同じ部屋にいたってきみの心は読めない。二百マイル離れたところにいたらなおさらだね」
「ヴェガスに来てもいいって言ってくれてるんだろう?」
「うん。邪魔にならなければ」
「日中は仕事をする」
「それはもうわかってる。大丈夫、きみが自由になるまでの間、僕は僕で充分に楽しめるから」
自分が笑みを浮かべていることに気づいた。あと数日ヴェガスで過ごすということに、急にさびしさを感じなくなった。「一緒に過ごせるやつがいると、うれしいものだな」
「よかった」彼の声にも笑みが滲む。「夕食に間に合うように行くよ」
数時間後、飛行機が着いたころに電話があったので、マンションの住所と入室に必要なキーコードを教えた。カジノから出られたのは六時過ぎだった。マンションに戻るとコールが待っていた。裸足に、細身の黒っぽいボトムス。ゆったりとした白いシャツが肌の色を引き立てている。彼はテーブルに料理を並べているところだった。
「料理をする時間がなかったから、寿司を注文した」
混雑したレストランに行かなくてもいいんだと思うと、ものすごくほっとする。「ほんと愛してるよ」
コールがウインクする。「愛さないわけないよね」
「寿司の出前ができることさえ知らなかった」
「ちょっと、ここはヴェガスだよ、ハニー。それに僕くらい金持ちだったら、何でも持ってきてもらえるし」料理をテーブルに並べ終えると、コールが俺を見上げた。そして動きを止める。コールの視線がゆっくりと俺の体を這い上り、気さくな笑みが淫らな熱を帯びてくる。
「何?」
コールはまだ微笑み、首を振っている。「スーツを着た男って、何かそそられるよね」
「そんなに執着するなよ。もう脱ごうと思ってるところなんだから」
コールは目を細め、長い前髪の向こうでウインクした。「そのほうがなおいい」
食事にありついたのは八時過ぎだった。ベッドでは、二人はとても緊密だったが、いったんベッドを離れるとコールに距離を置かれた。誘うようなことを言ったりはするけれど、意味もなく触れてきたり、自分からキスをしてきたりはしない。気軽な付き合いそのものといったところだ。親しさはあってもまだまだぎこちない瞬間もあり、ベタベタしたところは一切なかった。
夕食後、二人でソファに座った。俺はノートパソコンを持って片側に落ち着き、ニュースを見たり、仕事の遅れを取り戻したりした。コールはといえば、毛布にくるまってもう一方の端で丸くなり、本を読んでいた。タイトルは見えなかったがフランス語であることは確かだ。テレビを消すころには、コールはぐっすり眠ってしまっていた。彼を起こすと、一緒に寝室に入ってきた。だがさっきと同じで、恋人のように寄り添ってくる感じでもなかった。何も言わずにベッドの自分の側で体を伸ばし、そのまま寝てしまった。
翌朝、目が覚めたとき、コールはまだ寝ていた。フェニックスの自宅にいるときは毎朝ジョギングをしていたが、ラスヴェガスでジョギングをするのは嫌だった。ヴェガス特有の退廃的な雰囲気の中で運動するのは、何か馬鹿馬鹿しい気がしたのだ。その代わり、ビルのフィットネスルームにあるルームランナーで走った。シャワーを浴びにマンションへ戻り、タオルを腰に巻いて濡れたままバスルームから出る。コールはまだベッドにいたが、目は覚ましていた。
「時間はどのくらいある?」ベッドの縁に腰かけ、コールが聞いてくる。
「四十分後にはここを出ないと」
コールが手を伸ばしてきて腰のタオルをつかむと、そのまま俺を引き寄せた。そしてタオルを床に落とす。俺のものが一気に堅くなる。コールの唇が腹をかすめた。「口でやるか朝食をとるか、どっちかはできるけど、両方は無理だね」コールの舌先がゆっくりと俺を這いのぼる。ぞくぞくと震えがきた。
「誰が朝食なんか選ぶ?」なんとかそう返したが、声はかすれ、息が上がっている。
コールがこちらを見上げて微笑んだ。「いい選択だ、シュガー」
送信日時:6月8日
差出人:コール
宛先:ジャレド
僕がどこにいるかわかる? ジョナサンとヴェガスにいるんだ。奇妙なセレンディピティだろ? ベッドでの様子を詳しく教えてあげたいけど、きみだって教えてくれたことなかったよね。想像力を働かせてみてよ。
--続きは本編で--