恋人までのA to Z

マリー・セクストン

ザック



 レンタルビデオ店を経営しているが、映画は嫌いだ。わかってる。すごくおかしな話だろう。
 なんていうか、なりゆきでそういうことになってしまったのだ。話は大学卒業までさかのぼる。ちなみに出身はコロラド大(CU)だ。両親はフォートコリンズのコロラド州立大(CSU)のほうに行かせたがっていたけれど、俺が譲らなかった。CUのほうがいい大学だからというのが親への言い訳だったが、本当のところは違う。獣医学とか林業、農業を学びたいならCSU、でも馬鹿騒ぎをしたいならCUだったから。いま思えば、親にはひどく申し訳ないことをした。学費はCUのほうが断然高かったのに、在籍した五年間、酔っ払ってるかハイになってるか、その両方だった。どうにか企業経営学の学位は取れたものの、成績評価点平均(GPA)は、せいぜい「2」といったところだろう。悲惨だ。
 もちろん、飲んでハイになっていただけじゃない。セックスも山ほどした。大学四年のとき、ジョナサンと付き合いはじめ、卒業後は彼についてアーバダに移った。デンバーの西にある町だ。ジョナサンは会計士の職が決まっていたけれども、俺は無職。通りにあるレンタルビデオ店で働き口を見つけると、これまでどおり、飲んでハイになってセックスした──ときには、ジョナサン以外の男とも。
 で、あるとき帰ってみたら、ジョナサンが消えていたというわけだ。いいように考えるなら、これは「目を覚ませ」というサインだった。独りになり、くそ真面目に──まあ、そこそこ──奮闘努力した。だが、仕事は変えなかった。同じアパートにも住み続けた。そして店の主人のマーレイさんが引退を決めたとき、ローンを組んでその店を買った。
 いい考えだと思ったんだよな、あのときは。
 で、今に至るというわけ。三十四歳、独身、『AtoZレンタルビデオ店』の、少々やる気のないオーナー。ええと──俺が映画嫌いだってもう言ったっけ?


 春ももうすぐ終わろうとしていて、その日は、これぞコロラドの典型という天気だった。空はきれいに晴れわたり、気温は二十六、七度といったところか。暑さに負けて、しぶしぶ店のエアコンをいれた。
『AtoZ』は、雑居ビルに入っている四つのテナントのうちの一つだ。一階にある三店のうちの真ん中で、ホリスティック系書店──心と体のトータルヘルスとか癒しとか、そういう類の本を扱っている──とドラッグ関連用具の専門店に挟まれている。そのせいか、店はいつも白檀(サンダルウッド)のお香みたいな匂いがする。二階は武術の道場になっていて、オーナーはネロ・センセイといった。ネロが苗字なのか名前なのかよくわからないが、皆はセンセイと呼んでいる。今日も、店の前の駐車場で生徒たちが、揃いの白い道着で一斉に声を発しつつ、汗水たらして武術の稽古に励んでいる。
 金曜の午後で、店の客は一人きりだった。ここのところ何度か見かけるヤツだ。ものすごく痩せていて、肌の色は少し濃いめ、ふさふさした黒髪が顔にかかっている。まだ、髭もろくに生えてない青二才っていう感じだ。ラテン系かもしれない。いや、違うかも。人種的なことには疎いので定かじゃない。棚に沿って歩きながら映画のタイトルを見ている。時おり足を止めてはこちらを向き、頭を振ってみせる。だが、何が言いたいのかちっともわからなかった。
 ヤツが今日返却したのは、『ブルー・ベルベット』という映画だった。つまらなさそうなタイトルを見ながら、棚のどの辺に戻そうかと──棚はかなりとっ散らかっている──考えた。デニス・ホッパーが出ているということは、アクション系か? だが、カバー写真はモノトーン調で、クラシック映画のようにも見える。結局、面倒くさくなって、最初に目についた空きスペースに突っ込んだ。『特におすすめ』というコーナーだったので、まあオーケイだろう。
 そのときだった──理想を絵に描いたような男が店に入ってきたのは。俺と同じくらいの背丈、つまり百八十センチくらいだったが、かなり逞しい。間違いなく鍛えている体だ。ブロンドで青い瞳。濃いグレーのスラックスに白いドレスシャツを合わせ、胸元を開けている。俺はさっと自分のシャツをチェックし、そこそこまともだったので安堵した。よかった、昼飯をこぼした形跡はない。
「トム・サンダーソンだ」彼が手を差し出してきた。「今度、ここの家主になってね」
 豊かなバリトンの声という表現があるけれど、まさにそれだろう。頬にはえくぼがある。彼は、信じられないほどホットで──いや、それ以上で、おまけに俺のことを、興味津々といった感で上から下まで眺め回している。
 急に、仕事がとても面白いものになってきた。
「よろしく」握手しながら俺は言った。「ザック・ミッチェルです」
「ザック」
 握手にしては少しばかり長く握ってないか? そう思ったときトムが俺の手を放し、店内を見回した。
「いい店だな」トムが、皮肉に聞こえないよう苦心しているのがわかった。それもそのはず、店の内装は何年も放ったらかしなのだ。壁のポスターは色褪せ、薄汚れていて、おまけに『新作』と銘打ってあったが、今では旧作もいいところだろう。
「景気はどう?」
「悪くないかな」嘘だった。実のところ、悪かった。利益がゼロということはないにせよ、よくないのは間違いない。今、こうして生意気そうな痩せっぽちの客が一人いるだけでも「混雑タイム」といってよかった。トムを見てもう一度言う。「なんとか耐えてるよ」少なくともこれは嘘ではなかった。「で、うちの家主になったの?」
「まあね。でも誤解しないでくれ、俺は悪いヤツじゃない」トムが悩殺的な笑みを向けてくる。
「ああ、信じる」
 トムの目つきは品定めでもするみたいだった。また笑みを浮かべる。「今夜、夕飯に誘ってもいいかな。悪いヤツじゃない(あかし)に」
 嘘だろ?──こんな魅力的な男に誘われたのか? 自分の幸運が信じられなかった。というのも、俺はいわゆる平均そのものだったから。百八十センチの中肉中背、髪は茶色で目は青。月並み、月並み、どこをとっても月並みだ。まあ、そんなに悪くない外見だとは思うけど、街で振り返られたり、セクシーだと言われたり、ひと目惚れされるようなタイプじゃない。ほら、そういうやつっているだろう? ちょうど目の前のトムみたいな。
「いいね、それ」熱がこもり過ぎて聞こえないといいんだが。
「六時に迎えにくるよ」
 デートなんて、何か月もご無沙汰だ。六時までずっと時計から目が離せないだろう。


 その午後遅く、ルビーが顔を見せた。隣のホリスティック系書店の女主人だ。若くみても六十代といったところで百五十センチそこそこ、体重は四十五キロもないだろう。銀髪を短くしゃれた感じに整え、いつもパンツスーツをすっきりと着こなしていた。今日はチャコールグレーの上下に、アクセントとして首元にスカイブルーのスカーフ。瞳の色にもよく合っている。育ちのよろしい裕福なご婦人みたいないでたちだ。
 だが、そんな幻想は、ルビーが口を開いたとたん見事に砕け散る。あまりまともじゃないってことが、すぐにわかるからだ。
「ハイ、ルビー。新しい家主にはもう会った?」
「もちろんよ」不快そうにルビーが返す。「ほんと嫌な男ね」
「え?」ルビーがあまりにも深刻そうなので、笑わないようにしないと。「どうしてまたそんなことを?」
「あの人には人間味がないわ」
 あたかもこの世でこれほど確かなことはないと言わんばかりだ。
「そう思わない? あらゆる点で邪悪」と身震いする。「きっとトラブルの種になるわよ、ザック」それから、こちらに向かって指を振ってみせる。「いい? 私の言ったこと、よく覚えていてね」
「わかった」と言うしかないよな? こういうとき。
「でも、そのことで来たんじゃないの。ゆうべ、あなたのビジョンを見たのよ」
 ルビーは自称霊能者(サイキック)だ。いつだって何かしらのビジョンを見ている。正直、そういうのを信じるたちじゃないのだが、ルビーに面と向かってそう言う勇気はない。だから「へえ、そう」と、軽く流した。
「本当よ。あなたを見たの。エンジェルと一緒に立ってたわ。あなた、自動車の部品を売ってる店にいてね、チキンアルフレッド〔訳注:鶏のクリームソースのパスタ〕をお客さんに出してた」
 ルビーは期待に満ちた目で俺を見た。
 ビジョンを聞いたあとは、いつだって反応に困ってしまう。ここは拍手をすべきところなのか? それともびっくり仰天するべきか。もしくは、ものすごく怖がってみせるとか?
「ふーん……」結局、もごもご言葉を濁した。「なんか、すごい感じだね」
「私もそう感じたわ」ルビーはまだ目をきらめかせてこちらを見ている。今にも俺がすべてを認め、「そうなんだ、実はこの前の晩、大天使ガブリエルと一緒にバイトしてたんだよね」とか白状するんじゃないかって。
 だが、もちろんしなかった。「エンジェル?」とぼそりとつぶやくと、「そうそう、そうなのよ!」とルビーが輝くような笑みを向けてくる。「ねえ、素敵じゃない? 私、いつもあなたが可愛い女の子と出会えるように祈ってるんだけど、ついに、その日が来るんだわ」
「可愛い女の子」との出会いなんぞ、これっぽっちも興味がないということはまあ、このさい()いておこう。これまでルビーには──少なくとも二十回くらい「ゲイだ」と告げてきたが、いつだって「あら、何か言った?」という態度をとるのだ。俺がゲイなのは今だけで、じきに卒業すると考えているのは間違いない。
「だからこれ、絶対言わなくちゃと思ったの。あなたが知りたいはずだってね」
「もちろんだよ、ルビー。ありがとう」そう言いながら、真面目な顔をしているのはなかなかつらかった。「感謝してる」
 ルビーは訳知り顔で頷くと、戸口に向かった。ルビーがちょうどドアを押し開けたとき、ふと思いついて声をかけた。
「ルビー」うん、これはぜひとも聞いておかなくては。「俺、死んでたの?」
 ルビーは驚いて振り向いた。「まさか、そんなはずないじゃないの。どうして死んでいるなんて?」
「ええと……」なんだか馬鹿みたいだな、俺。でも、いったんそんな疑問が浮かんでしまったら、どうしても聞かずにはいられなかったのだ。
「だって天使がそばにいたんだろう? なら天国にいたってことになるんじゃないかな」
 ルビーが俺に向かって指を振る。「お利口ぶらないの、ザック。だいたい天国に車なんかないわよ」


 ルビーが出ていったと思ったら、今度はジェレミーが現れた。両隣のうちもう一軒のほう、ドラッグ用具店の店主だが、こういう店にありがちな、長髪でサンダル履きのヒッピーなんかじゃない。三人のティーンエイジャーの父親で、毎日きっちりネクタイを締めてくる。PTA活動を精力的にこなし、おまけに市議会議員でもある。そのうえ自由党の強力な支持者だ。まあ、たいていの場合、たいして問題じゃないのだが、今年は選挙の年だった。つまりジェレミーは本格的にキャンペーン・モードに入っているということだ。
「ザック、大統領選には誰に投票するか決めてるかい?」
 政治については、情けないほど何も知らない。「誰が立候補するか、もうわかってるんだっけ?」と返した。予備選挙とか、党員集会とか、何かそういうのが最初にあるんじゃなかったか?
 ジェレミーはあきれ顔で頭を振る。「二大政党員(リパブリクラット)どもがどんな口先野郎を候補者に上げるかなんてどうでもいい。どちらを選んだところで、現状維持のための投票だ。でも、本当にそれでいいのかい?」
「ふううむ」
「妊娠中絶の合法化には賛成?」
「まあね」中絶については、ゲイはさほど熱心に考える必要はないんだが。
「同性同士の結婚には賛成だよな?」
「もちろん」でも、その前にまずデートの相手を見つけなきゃ、だよな。
「で、マリファナの非犯罪性も信じてる?」
「ああ」生活の糧としてマリファナ用の水パイプを売っている男と、これについて口論するのは避けたいところだ。
「俺たちは、まったく機能していない現行の福祉国家体制に反対の一票を投じることができるんだ。基本的権利に反することなしでね。基本的権利っていうのはつまり、憲法で守られるべき権利のことだが」
「ええと──」
「もちろん憲法は読んだことがあるだろう? ザック」
 俺は黙って考えた。読んだことがあっただろうか? 覚えていない。公の教育で十二年、おまけに名門大で五年も勉強してきて、一度も憲法を読まずにきたってことか?
「読んでないと思う」自分でも驚きだ。
 ジェレミーはまた頭を振ってみせた。「大統領もだよ、ザック。どう思うね」
 カウンターにどっさりパンフレットを置くと、ジェレミーはルビーの店を目指して出ていった。やれやれ、長い選挙シーズンになりそうだ。


 だらだらと午後が続いていくなか、なじみの客が次々と店に現れた。金曜だからだ。最初が黒髪の痩せたガキ。確かトムが出ていってから、ルビーが天使とパスタのお告げとともに現れるまでの間にあいつも出ていった。お次がジミー・バフェット。もちろんご本人じゃなくて俺が勝手にそう呼んでいるだけだが、本当にあの歌手によく似てるんだな、これが。カウンターにDVDを持ってくるたび、わがバフェット氏は気まずそうな顔をする。思うに、いつも彼が着ているアロハシャツのせいだろう。その次がエディだ。これもまた俺が勝手につけた名前。というのも、アイアン・メイデンのTシャツ(バンドのおどろおどろしいキャラクター「エディ・ザ・ヘッド」がついている)をしょっちゅう着ていて、ボーカルのヤツと同じ髪型をしているからだ。で、なぜかいつも俺にムカついてるようだった。音楽のせいだろう。そしてしんがりが、ゴス・ガール。黒髪に、太く入れた黒のアイライン。化粧のせいでいつも泣きはらしたような顔に見える。下唇にはピアスリングが三つ。レンタル代を支払うときも俺に挑むような視線を向けてくる。ともあれ、これでようやく本日の営業が終了した。
 日暮れが近づくにつれ、トムが来ないのではないかという気がしてきたが、ぴったり六時に車で現れると、感じのいいレストランに連れていってくれた。二人でキャンティを一本空け、とりとめのない話をした。トムが、俺を誘っているのは間違いなかった。食事が済むと俺を『AtoZ』まで送ってくれ、俺が車を停めている場所まで一緒についてきた。
「ビルの前の持ち主が破産寸前でね、俺が安値で買ったんだ。しかしあのオーナー、家主としてはひどいもんだな。今の店、リース契約すら結んでないだろう?」
「ああ。マクブライドさんは契約とか問題にしないんだ。決まった額を払いさえすれば、それでいいって」
 そう言いながら、自分が家主の気分しだいでいつでも()退()きさせられる立場にあることに気づいた。
「すぐにでも新しい賃貸契約書を作るよ。ちょっと悪い知らせだが、これまでと同じ料金で貸せるかどうかわからない。ビルのメンテナンス費用もかかるし、俺にすれば、まあビジネスだからね」
 これは間違いなく悪い知らせだった。今だって精一杯やりくりしているのだ。家賃が上がるとなれば大打撃になる。
「どれくらい上がるのかな?」
「どうだろう。まだ、諸々とりかかってないからなんとも言えないな」
 トムが近づいてきたせいで、心臓の鼓動が早まってしまう。
「家賃が上がってもやっていけるかい」こんな話題でも、彼にかかると信じられないほどセクシーだ。
「いや、無理かも」俺は返事をするのがやっとだ。トムが手を伸ばし、俺の頬を撫でる。
「きみを廃業させたくないな」トムがまた一歩近づき、体をそっと押し付けてくる。
「廃業ならもう会えないしね」
 トムが微笑んだとたん、膝の力が抜けてしまった。体がぴったりと重なり、唇が唇をかすめる。彼の香りでくらくらしそうだ。体を預けると、本格的にキスしてきた。舌が入ってくる。両手で尻をつかまれ、激しく抱きしめられる。服の上からでも、トムの引き締まった体の感触にうっとりする。
「きっと」セクシーで低い声が囁いてくる。「二人で解決できるさ。だろ?」
「もちろん」
「よかった」トムが笑い、体を離した。「また会いたいな」


 家まで古いマスタングで──大学時代から乗ってるやつだ──帰る道すがら、俺はずっと後悔していた──なんでトムを家に誘わなかったんだろう、まったく。
 アパートの階段を上るころには、たった一度のキス、その興奮の名残りくらいではとうてい満足できなくなっていた。この程度じゃ、独り暮らしの慰めにもならない。まあ、寝るまでの暇つぶしは、今夜は数時間で済みそうだけど。
 ワインをグラスに注ぎ、音楽をかけた。ダイニングのテーブルには、ジグソーパズルが半分やりかけのまま放ってある。仕方がないので続きを始めた。これがお決まりの夜の過ごし方なのだ。ジグソーパズルにクロスワード、数独。時間をつぶせるなら何でもいい。
 ジョナサンの飼っていた猫、ゲイシャがふらりと入ってきた。いまだにゲイシャのことを「ジョナサンの猫」だと思ってしまう。彼が出ていき、俺が世話をし出して十年になるというのに、だ。銀色で毛足は長く、瞳は緑色。置き去りにしたのはジョナサンなのだが、俺のせいだと思っているのか、絶対に(なつ)こうとしなかった。今もまた、猫にしかできない独特の目つきでじっとこちらを睨むと、居間の窓にある猫用扉を通って出ていった。
 ジョナサンと二人でゲイシャを家に連れ帰ったとき、どれだけ興奮していたかを思い出す。あのころの俺たちには、たくさんの可能性──将来があった。
 今ではみんな、遠い過去の話だ。
 いったいなぜこんなことになってしまったんだろう? 今でもまだ同じアパートに住み、同じビデオ店で働いてるなんて。「DVD革命」もどうにか生き抜いてきたが、なんのためだ? この仕事には何の愛情もない。かといって、ほかの仕事も考えつかない。店をやめざるを得なくなるのは、時間の問題だとわかっている。もっと前にやめてしまうべきだったのだ。
 でも、ほかに何ができる?──やはり、何も思いつかない。
 俺はただ、暗い波間を漂っているだけ──救命ボートに乗りながら、次に来る嵐にのまれ、溺れ死ぬのを待っているのだ。直視するにはあまりにも憂鬱すぎる。ワインを飲むのをやめ、さっさとベッドに入った。


    *


 翌日、トムが電話でまた会いたいと言ってきたが、いつとは言わなかった。それから数日、連絡はなかったが、さほど気にならなかった。忙しすぎてそれどころじゃなかったのだ。店には従業員が一人いる、二十二歳で、トレイシーといった。いや、タミーだったかな? 人の名前を覚えるのは本当にしんどい。いつもハイでお香みたいな匂いがする子だ。もうこれで四回続けてサボっているから、そろそろくびにしても文句は言われないだろう。
 困ったのは、その日は本当に忙しかったのに、誰の助けもなかったことだ。ようやくラッシュアワーが過ぎたと思ったら、あの生意気な痩せっぽち野郎が戻ってきた。今日、返却してきたのは『ブレード・ランナー』。観たことはないが、SFだということくらいはわかる。ヤツは棚から映画を一つ取り出した。それからこちらを見ると、軽く頭を振りながらそれを別の棚に入れた。
 おいおい、あいつ、商品を勝手に動かしてるのか? こういうときはまずどう対処すればいいんだっけ? これ以上棚をめちゃくちゃにされたら、たまらない。
 ヤツに声をかけようとしたとき、トムが店に入ってきた。この間と同じく、パリッとした白いシャツのボタンの外れ加減がなんとも絶妙で、思わず()()れてしまう。
 トムはカウンター越しに身を傾け、俺の瞳をじっと見つめた。今この瞬間、俺は間違いなくこの世でいちばん間抜けな笑みを浮かべ、へらへらしているはずだ。
「やあ」スマートでセクシーな声。「ずっときみのことを考えてたよ」
「それはうれしいな」
 トムは店内を見回し、痩せっぽち野郎がいるのに気づくと俺に囁いた。「あいつ、まだ粘るつもりかな?」
「たぶん」と、肩をすくめてみせる。ちょうどそのとき、ヤツが棚から何か引き抜き、カウンターに持ってきた。『マッド・マックス』。よし。これなら、返却されたとき、どこに戻せばいいかすぐわかる。支払いを受けている間、こちらはもう、気もそぞろだった。
 トムはヤツが出ていくのを入り口までついていき、扉の鍵を閉めた。それから笑顔でこちらに戻ってくる。
「やっと二人きりだ」
 心臓が、突然激しく脈打ちはじめる。手のひらは汗ばみ、俺のものは固くなるあまりジーンズのボタンも弾け飛びそうだ。トムは微笑んだまま近づいてくると、俺の後ろのドアに頭を向ける。「あっちは?」
「事務室」
 トムの笑みがさらに広がる。「完璧だな」
 最初にトムが事務室に入り、俺が続くと彼はドアを閉めた。それから振り返り、やさしく壁に俺を押し付けた。トムの体がぴったり合わさり、首元を唇がかすめる。
「マジな話、ザック、一緒に出かけた晩以来、ずっとお前のことばかり考えてる」
 トムの手が背中を滑り下りていき、俺の尻をしっかりつかんだ。
「お互い、ほとんど知らない同士だっていうのはわかっている。だが何か特別なものを感じるんだ」
 特別なもの? 半端ないほど固くなった二つの以外に何がある?
 もちろん、今ここでそんな話をするつもりはなかった。首筋を唇が這い、股間に股間がぎゅっと押し付けられる。
「もっと互いをよく知ったほうがいいと思わないか?」
「ああ、いいね」
「今夜、夕飯でも?」
「もちろん」
 トムは尻をつかんでいた手に力を込めると、そっと身を離した。
「六時に迎えにくるよ」


 俺たちはこの間と同じレストランに出かけた。トムはまたワインを一本注文した。それから、株やらポートフォリオやら投資利回りについて、べらべら話しまくった。幸い、退屈で死にそうになるのは免れた。その間ずっとトムが俺の腿を撫でまわしていたからだ。
 勘定を済ませると、トムは俺の固くなった股間をそっと撫でた。体を近づけ、耳元に囁いてくる。
「家に寄ってもいいかな」
「もちろん」こちらから誘う手間が省けて、ほっとする。
 アパートのドアを開けたとたん、ゲイシャが寝室から飛び出してきた。トムに向かってシューッと威嚇の声を上げると猛スピードで俺たちの足元を通り抜け、専用の扉から逃走する。
「どうかしたのか? あの猫」
「人間ぎらいなんだ」
 だが、昔の男の飼い猫の話題などでこれ以上時間を無駄にするつもりはなかった。トムの首に腕を回し、唇を重ねる。トムの体は逞しく引き締まっていて、早く脱がせたくてたまらない。壁に押し付けられた。キスは激しく執拗になってくる。舌で口の中をまさぐられ、尻を手でぎゅっとつかまれる。
 欲望で、体が燃えるようだった。生身の相手に触れるのは八ヵ月ぶりだ。あのときは、酔った勢いで寝たというだけで、終わればすぐ忘れてしまうようなお粗末なものだった。今のこれは、まったく違う。俺はもっともっとトムを味わいたかった。シャツの下に両手を入れ、胸に触れる。ごわごわと茂った胸毛を感じる。両親指で両方の乳首に触れると、トムが呻き声を上げた。
 トムのボトムスを脱がせて下ろし、彼のものをつかんだ。トムが俺の口の中で喘ぎ、激しく腰を突き出してくる。トムの両手は俺の両尻をつかみ、指が尻の割れ目に触れる。
「ああ、ザック……いいね」
 俺の手はせわしなくトムのものを(さす)っていたが、彼の手は俺の尻で止まったままだ。仕方なく、自分でジーンズを下ろした。俺のものが彼とぶつかり合い、俺は彼を激しく引き寄せると唇を合わせ、攻めるように腰を回し、突き上げた。二人の体の間で、二つのものがぎゅっと(こす)れ合う、その感覚が最高だった。ひと晩じゅう、こうしていたっていい。トムに体を押し付け、その手で触られるだけでもいい。俺は攻めた。股間と股間をさらにぎゅっと擦り付ける。トムは呻き、俺の手をとって股間のものへと導いた。トムの両手が俺の背に回る。
 俺は二人のものを同時に握り、上下に手を動かしはじめた。
「そう、それだ……もう少し強く」
 トムの指が俺の割れ目をゆっくり辿る。その指が、穴の縁をいじる。
「もっと強く……ああ、もっとだ」
 俺はさらに力をこめ、ペースを速めた。トムはキスをするのもやめ、俺の首元に顔を埋めている。息を荒げ、低い声でつぶやいている。「ああ、そうだ、ザック……それだ。やめないでくれ。そう……そのままいってくれ」
 トムに尻を激しくつかまれ、もう限界だとわかった。トムがいき、手の中で温かなものが噴き出したとき、俺も限界に達した。
 しばらくキスを交わし、それからトムは浴室に向かい、俺はきれいなスウェットに履き替えた。玄関までトムを見送ると、トムは俺を引き寄せ、唇を重ねてきた。
「また会おう」

    *

 トムとは三日後に会う約束をした。六時にまた迎えにくる予定だったが、四時に店に現れた。予定をキャンセルに来たのだ。
「ベイビー、すまない。急に会議が決まってね。どうしても外せないんだ」
 店にはいつもの生意気そうな客がいたので、トムにはもう少し小さな声で話してほしかった。幸い、ヤツはこちらを見ていない。聞こえていないといいんだが。
「夕方六時から会議?」
 冷静に応えたものの、なんだか疑わしく思えた。
「八時には終わるから」トムは心から申し訳なく思っているようだ。「もしよければ、そのあとで会いたいんだが」
 全然会わないよりはましか。
「ああ、いいよ」
 なるだけ気軽な感じで応えた。本当はかなりへこんでいたのだが。
 トムが出ていくと、俺はまたクロスワードパズルに戻った。気分は落ち込んでいたけれど、最悪の事態じゃないんだから、と自分に言い聞かせた。少なくともトムは俺にまた会いたいとは思っている。食事の約束が飛んだことくらいなんでもない。だろ? とはいえ、六時が近づいてくるのが恐ろしくもあった。店を閉め、誰もいないアパートに一人で帰るのだ。
 ──とそのとき、突然ずけずけした口調で話しかけられ、ブルーな気持ちから現実へと引きずり戻された。
「映画を探してるんだけど、教えてくれない?」喧嘩でも売るような口調だ。
 顔を上げると、例の客が待ちかねるようにこちらを見ていた。俺よりかなり年下で、たぶん二十代前半から半ば、といったところだろう。背丈は百七十センチくらいか。コンバットシューズにかなり着古したTシャツ、だぶだぶのジーンズを腰のあたりまで下げて履いている。もう少しで尻まで見えるんじゃないかという感じだ。
「うーん」
 本当は「もちろん」と言いたいところだが、それでは嘘になる。
「あんたの店のシステムがよくわかんないんだけど」
「アルファベット順に並べてある」
 若い客はひねくれた笑みを浮かべた。見ようによってはキュートともとれるが、今は正直ちょっと(うっ)(とう)しい。
「へえ、どのアルファベットを使ってるわけ?」
 客の言うとおりだった。アルファベット順に並べるのはとっくの昔に諦めてしまっていた。
「ジャンル別になってるよ」俺は棚の上に貼ってある札を指さした。
「一応ね。でもさ、全然めちゃくちゃなんだけど」
 だんだんいらついてきた。こいつの言い分のほうが正しいからなおさらだ。ふん、こんな若僧に商売のやり方を教えてもらいたくなんかない。
「どこが?」
「ここがだよ」
 ヤツはすぐ隣を指さした。『名作』の棚だ。
「『すてきな片想い』は名作じゃない」
「俺たちの世代からすれば名作なんだよ」
「まさか。こいつは『欲望という名の電車』の隣に置くような代物じゃない。あんたが遠い昔の青春を懐かしもうが知ったこっちゃないけどさ。それにこれだ」ヤツは別の棚を指さした。「『トゥルー・ロマンス』。これ、ロマンスじゃないから」
「え、どういうこと?」
「脚本、クエンティン・タランティーノだよ。アクション映画。観たことないの?」
 俺はだんだん気まずくなってきた。「ああ。観てない。ロマンスものは好きじゃないんだ」
 ヤツはあきれ顔になる。「へええ、そうかよ」黒髪をかき上げ、諦めたようにため息をついた。「『戦場にかける橋』を探してるんだけど、ある?」
「うーんと……たぶんあるんじゃないかな。尼さんが橋を爆破するやつだろ?」
 ヤツの顔にひねた笑みがまた浮かぶ。「違うって。それは『真昼の死闘』。シャーリー・マクレーンとクリント・イーストウッド。俺が言ってるのはアレック・ギネスの映画。ほら──オビ=ワン・ケノービだよ」
 俺は頷いた。さすがに、オビ=ワンが何者なのかくらいは知っている。
「あの映画、口笛のテーマソングくらいしか覚えてないから、もう一度観たいんだけど」
「でも、橋は出てくるよね?」
 それが映画を探すのにどう役に立つのか、なんて聞かないでほしい。店主としては、まずとにかく話についていかないと。
 だが、ヤツは頭を振るばかりだ。「いいや。もう忘れてよ」そして脇の棚から『シャイニング』を取るとカウンターまで来て、目の前にぽんと置いた。俺より十センチくらい背が低かったから、顔にかかった長い前髪越しにこっちを見上げてくる。
「映画、ほとんど観ないわけ?」
「大作ものはわりと好きだけどね」言い訳じみて聞こえないといいんだが。
「でも、それじゃ商売はやってけないよね? だって大作はどの店でも扱ってる。よそに勝つには、そこじゃ置いてないようなもんを扱わないと。ほら、カルトの名作とか」
「カルトの名作?」
「そう」
「『ブレックファスト・クラブ』とか?」
 ヤツは瞬きしてこちらを見た。一回、二回。
「あんた、どんだけ高校でお上品だったんだ?」
 キツい物言いだ。
「なんだって?」
 またあきれ顔になる。「いや、忘れて」
『ブレックファスト・クラブ』はカルトの名作じゃないのか? だいたいカルトの名作ってなんだ? そういうジャンルについて聞いたことはあったような気がするが、どういう作品をいうのか、見当もつかなかった。
「ええと、じゃあ、どういうジャンルの作品のことかな?」なるべく友好的な口調で尋ねる。「ぜひとも知りたいね」
 一瞬、ヤツは俺を見た。ちゃんと答えてやろうか適当にはぐらかそうか、考えているのだ。それから、また髪をかき上げた。「『悪魔の毒々モンスター』。店にある?」
「ああ。たぶん──いや、わからないな」
「『エド・ウッド』は?」
「エド、だれ?」
「エド・ウッド。ジョニー・デップの」
「あの髪を切る男の話?」
「それって、エドワード・シザーハンズかスウィーニー・トッドのこと?」
「いや、ジョニー・デップのことだが」
 ヤツはまたまたあきれ果てた顔をする。
「じゃあ、『コックと泥棒、その妻と愛人』は?」
「いまのは四つの映画? それとも一つ?」
「『ZOMBIO/死霊のしたたり』は?『ヘザース/ベロニカの熱い日』は?『ウォリアーズ』は?」
「ヘザース!」俺は勝ち誇って言った。「それなら、そのへんにある」
「おい、ラム、このカフェテリアっておかま出入り禁止だったよな?」
「ええっ?」
「つまり『それにしちゃ、尻穴(くそ)野郎がのさばってるみたいだな』ってこと」
 俺は完全に言葉に窮してしまった──目の前の生意気な野郎は、今、俺をおかま呼ばわりしたのか、尻の穴呼ばわりしたのか、その両方なのか? だが、ヤツはまたあきれ顔で俺を見た。
「『ヘザース』の中の台詞だってば。忘れてくれ、あんたが知ってるわけないよな」
 いったい俺たちは、同じ言語を話してるんだろうか? 俺の困惑ぶりが手にとるようにわかったのだろう、ヤツはため息をつくと、ポケットに手を突っ込んで財布を取り出した。
「もう少し、映画を観たほうがいいんじゃない? 店主なのによくそれでやってけるな」
 俺もちょうど、同じことを考えていたところだった。トレイシーもくびにしたことだし、ここはチャンスなんじゃないか?
「ええと──きみ、仕事したくない?」
「してるけど」
「そうか」なぜ、こいつが無職だと勝手に思い込んだんだろう。「わかった」
「いいよ」
「何が?」
「仕事したい」
「だって今、してるって言ったじゃないか」
「まあね、二つかけもちしてる。でも、もしここで雇ってくれるんなら、そのうちの一つは辞める。どスカな仕事だから」
『ドスカナ』というのが何なのかよくわからなかったが、聞き返す勇気はなかった。「ここの映画、全部任せられるかな?」
「もちろん」
「で、いつから働ける?」
 彼は笑顔を見せた。「今から」
「なんて名前?」
 彼の顔から笑みが消えた。「ちょっとさあ、ここ三週間ほとんど毎晩来てるってのに、なに、俺の名前も知らないわけ?」
 確かにそのとおりだ。本当に、物覚えが悪くて困る。口を開きかけたが遮られた。彼は頭を振りふり答える。
「アンジェロ。アンジェロ・グリーン」

    *

 夜、八時をまわってもトムは現れず、何の連絡もなかった。それでもようやく、九時を過ぎたころにうちのドアベルが鳴った。
「遅かったね」非難がましくないように、気軽な感じを装う。たぶんうまくいったはず。
「本当にすまない、ベイビー」トムは俺を壁に押し付け、唇を重ねてきた。舌が俺の口の中をまさぐり、トムのものはすでに固く当たってくる。
 俺は怒りたかったのだが、うまくいきそうになかった。なんといってもこんなゴージャスな男が俺の尻をつかみ、股間を俺のそれにねじ込もうとしているんだから。ああ、トムがほしくてたまらない。
「ワインがあるけど」どうにか息をつぎ、俺は言った。
「あとだ」キスはますます激しくなる。トムが呻いた。
「ザック。今夜はお前をたい。お前がほしくてたまらないんだ。お前だってそうしてほしいだろう?」
 そのとおりだった。トムの言葉を聞いて俺のものはさらに固くなり、痛いほどだ。
「ああ」
 二人で寝室に向かった。唇を貪り、体をまさぐり合い、服を脱ぎ捨てながら。
 引き出しからコンドームとルーベを出し、トムに渡す。トムは俺をベッドに押し倒すと、俺の尻をつかんで体を引き寄せた。次の瞬間、トムのしなやかな指が俺の中に入り込む。俺は呻き、さらに体を寄せた。
「気持ちいいか?」指を差し入れては、俺の中のスイートスポットをかすめる。快感が波のように押し寄せてくる。
「ああ」
「なんてぴっちりしてるんだ、ベイビー。いつからだ?」
 指で絶えず攻められ、まともに返事もできない。「もうずっとだ」トムに体を激しく押し付ける。
「ああ、いいね。どれだけ気持ちいい?」
「死ぬほど」俺は喘いだ。
「いますぐやりたい、ザック」指が抜かれ、トムの先端が当たる。「もう、待てない」
 トムのものがぐっと入ってくる。あまりに激しかったせいで、叫ばないようにと唇を噛んだ。
「ああ、ベイビー……思った以上だ。相当締まってるな……くそ……最高だよ」
 俺は少しばかり水を差されたような気分だった。トムがコンドームをつけていないのだ。さっき手渡したのをなんだと思ったんだ? 「つけてくれ」っていう意味に決まってるだろう? だがもう手遅れだ。まあ、ここは許してやってトムの感触を味わい尽くそう。トムはぐいぐいと突っ込みながら、意味のない言葉をずっとぶつぶつ呟いている。「すげえ、最高だ……締まってる、そう、これだ、ああ……これだ」
 セックスの間、意味もない(たわ)(ごと)を聞かされるのは俺の趣味じゃなかったが、さすがに「黙れ」とは言えなかった。
 だんだんとスピードが速まり、トムはそろそろ限界に達しかけていた。俺は片手でベッドのヘッドをつかむと、もう片方で自分のそれを握って擦りはじめた。トムの動きは手荒くて、明日になったらずきずき痛みそうだ。両手で尻をつかまれる。「もっとだ……もっと奥だ」そのときトムが限界に達し、俺の中で激しく痙攣した。俺はまだこれからだったが、トムはお構いなしで、俺の中にずっぽり入ったまま、尻をぎゅっとつかんでいる。俺が達してようやくトムは体を滑らせ、隣に横たわった。
「最高だよ、ザック」
 俺も同じように言えたらいいんだが。でも、どんなセックスでもしないよりはましだ。それに、何度か試すうちによくなっていくだろう。
「こんなに遅くまで働かないといけないのかい?」俺は尋ねた。
「会議が長引いたんだ。ほら、わかるだろ? 誰もかれもが喋りまくって、誰も聞いちゃいない」
 正直、全然わからなかったので、返事はしなかった。
「会議ってやつは本当に厄介だよ」
「でも、終わってよかった」
「ああ。本当に会いたかったよ」トムはこちらに転がってくると俺にキスし、それから体を起こして服を着はじめた。
「ワインをもらおうかな」
 俺もスウェットとTシャツを身につけ、ワインをグラスに注いだ。居間に向かうと、トムもあとをついてくる。音楽をかけ、振り返る。居間の入り口でトムが俺をじっと見ていた。互いに突っ立ったまま見つめ合う。ぎこちない空気が流れた。妙な具合だった。体を開いた相手なのに、話題が何も見つからないのだ。
 トムはダイニングを覗き、テーブルにジグソーパズルが出ているのに気づいた。テーブルに近づいていく。俺もあとに続いた。
「パズルは好き?」と俺。
「もちろん」トムが笑みを浮かべる。
 椅子に腰を下ろすと、トムも隣に座った。
「これ、思った以上に手ごわいんだよね」言いながら、何度挑戦しても()めることができないでいるピースを探した。「すごい微妙な形でさ」
 トムが熱のない相槌をうった。構わずにピースを探し続ける。トムはそわそわしながら、適当にピースをつまみ上げ、嵌めようとした。それから何分もしないうちに立ち上がると、居間のほうへ行った。突然、音楽がやみ、ラジオがかかった。つまみを回しているのか、ガーガーと耳障りな音がする。なかなかステーションが見つからないのだろう、細切れな音がしたかと思うと止まり、またひどいノイズがし、こっちまでいらいらしてしまう。だいたい、俺のかけた音楽のどこが気に入らないんだ? せめて、「別のが聞きたい」とか、何か言えばいいのに。
 ようやく好みのステーションを見つけたのか、トムが戻ってきた。そのまま座りもせず、テーブルの傍らでワインを飲み干す。「もう行かないと。明日も仕事で早いんだ」
「わかった」どうにか平気そうに振る舞うと玄関まで見送り、軽く別れのキスを交わした。
 結局また、一人でワインを飲むことになってしまった。

    *

 翌朝はアンジェロの初出勤日だった。正直、すっぽかすのではと思っていたのだが、時間どおりに現れた。
「車はどこに停めた?」アンジェロが入ってくるなりそう尋ねた。「センセイの道場のテラス下はお勧めできないよ。生徒が柵から身を乗り出して吐くんだよね。年に二度くらいだけど」
 アンジェロは面白そうな顔をしたが、首を横に振った。「車は持ってない」
「え? 運転しないの?」驚いて聞き返す。
「車は持ってないって言ったんだけど」あたかもその違いが重要だといわんばかりに繰り返す。「だって、いらないから。うちはここから二ブロック先だし、別の勤め先も四ブロックしか離れてない。食料品店も近いしね」と、肩をすくめる。「買い物だって歩いていける」
「でも、冬はどうする?」
 アンジェロは例の不機嫌そうでキュートなしかめ面をした。「だから、歩いていけるって言っただろ」
 ドアが開き、急にルビーが入ってきた。アンジェロはドアのすぐそばに立っていたのだが、ルビーは両手を広げ、ずんずんと彼に向かっていく──さあ、ハグするわよ、とでもいうみたいに。アンジェロの反応はまったく意外だった。あわてて後ずさりしたのだ。えらくあたふたしたせいで、自分の足にけつまずきながらDVDの陳列棚にぶつかってしまう。一瞬、棚自体がひっくり返るんじゃないかと思えた。どうにか持ちこたえたものの、パッケージが十かそこら、ばらばらと床に落ちた。棚にびったりと張り付き、これ以上逃げ場がなくなってしまい、結局ルビーにハグされたアンジェロは、さながら車のヘッドライトの前で硬直している鹿のようだ。あんまりにも恐怖におびえているので、笑わないようにするのが大変だった。
「あなた、体じゅうからポジティブなエネルギーが出てる」ルビーは当たり前のように言い放った。「お店の外にいても、壁を突き抜けてあなたの光を感じたわ! あなたは命に活力をもたらす人ね」
 ショックのせいか、アンジェロは口もきけず、ただルビーを見ている。ルビーは皺の寄った手でアンジェロの頬をぽんぽんと叩くと、何事もなかったかのように出ていった。
 アンジェロは恐ろしく見開いた目でこちらを向くと、息も絶え絶えに言った。
「あれ──何なんだ?」
「ご近所さん。隣で本屋をしてる」
「頭がいかれてるとか?」冗談で言ってるのではなさそうだ。
「その可能性は高いね」つい微笑んでしまったが、アンジェロはいたって深刻だ。
 態度に問題ありの生意気な若僧が、あんな小さなご婦人を怖がるとはねえ。何とも傑作だ。しばらくしてようやく落ち着いたようだった。背筋をしゃんと伸ばし、深呼吸を数回繰り返すと、頭を振り振り、棚から落ちたパッケージを拾いはじめる。
「テラスから吐く生徒やら、サイコなおばさんやら、ドラッグの店やら。まったく変人たちに囲まれてるよな、ザック」
 なんだ、まるで俺がそのことに気づいてないみたいに聞こえるじゃないか。

アンジェロ


 なんで俺があのビデオ店で働くことになったんだか──。いや、文句を言ってるわけじゃない。ただ、おかしいってだけ。あいつの気を引こうとするのはもう諦めよう、そう思ったとたん、なぜか一緒に働くことになったんだから。
 ザック──それがあいつの名前だ。
 あいつに惹かれてしまう理由はいくつもある。まずはあの店、『AtoZレンタルビデオ店』。ああいう個人経営の店は、このごろじゃどこもつぶれてるっていうのに、どうにか営業できてるのが驚きだ。えらく商売のセンスがあるのか、単にラッキーなだけなのか、わかんないけど。もっと驚きなのは、映画のことなんかまったく知らないくせに店をやってるってこと。きっと、『ビリージーンの伝説(レジェンド・オブ・ビリー・ジーン)』と『レジェンド・オブ・フォール』の区別もつかないだろうに。まったく、笑っちゃうね。
 二つめの理由はもっと単純。つまり、ザックが死ぬほどキュートだってこと。といっても、正直、俺の好みとはちょっと違う。くそいまいましいほどプレッピーで、いいとこの出って感じで、肩に白いスポーツセーターを引っかけてないのが不思議なくらい。もちろんジーンズには穴ひとつありゃしない。髪もちゃんと切って小奇麗にしてる。着ているシャツはいつだって、胸に小さい馬の刺繍がついているやつだ。おまけにローファーまで履いている。ぶっちゃけ、ローファーなんか履いてる男、初めて見た。それが似合ってるんだよな、まったく。
 髪の色はダークブラウンで、睫毛なんか、ふさふさ。で、これまで見た中でもぴか一の、ものすごい青い瞳をしてる。ザックがあと十歳若かったら、美少年(トゥインク)って呼んでただろう。今の歳だとなんて言えばいいんだ──さすがに三十過ぎたやつには使えないだろ? この言葉。といっても容姿が衰えてるわけじゃない。歳のわりにはスタイルもいいし。暇つぶしにウエイトトレーニングしてるようなマッチョ系じゃないけど、腹まわりに余分な肉が全然ついてないところを見ると、何かしら運動はしてるはず。たいてい三十過ぎると、たるみ出すからな。
 ザックがキュートだってことよりもっと重要なのは、自分じゃそれに気づいてないってことだ。男たちが誘いをかけても全然気がつかないのだ。そういう場面を何度か目撃したことがある。俺自身、気を引こうとしてみた。でも反応はゼロ。最初、俺の読みが間違ってるのかと思った──もしかしてこいつ、ストレートかも──それから思い直した──ほかに付き合ってる男がいるのかもって。だけど、あの体育会系のマッチョ野郎が食事に誘ったときに、ようやく気づいた──そう、ザックは単に(にぶ)いんだ。自分のことをつまらないやつだと思い込んでるせいで、誰かがまったく逆の反応を示すなんて想像もしてない。それって、とんでもなくセクシーっていうか、かなりそそられるよな?
 でも、もう手遅れか。あの筋肉野郎のトムにかっ攫われちまったんだから。俺たちが失敗したのになぜあいつがうまくいったかって? それとなく誘うなんて地味な作戦で時間を無駄にしなかったせいだ。もちろんこうして一緒に働くことになったからには、ザックはもう、「立ち入り禁止区域」だ。深い関係になるつもりなんかない。今、ザックと寝たりなんかしたら、仕事を辞めなきゃなんないし、ビデオを借りる店もほかに探さないといけなくなる。それって、考えるだけで気が滅入る。
 仕事は簡単。あのぼんくらトレイシーがしていることを見てたからな。ちっとも働かないで、ただ椅子に座ってるだけ。あれで給料がもらえたとはね。俺はそんなふうにザックにつけ込むつもりはない。だいたい店の棚だってもっとまともにできるし、ほんといえば、すごく面白い。ザックときたら、よくもまあ、ありとあらゆる妙なもんを集めたものだ。俺でさえ観たことのない古い映画やB級ものがいっぱいある。おまけにこれからは、ただで貸してくれるっていうし。
 俺が口説こうとしたってこと、全然気づいてなくてよかった。もし気づいてたら、きっと今みたいに店で働けなかったから。

ザック


 トムとは次の週、また一緒に食事をする約束をしていた。六時に店まで迎えにくることになっていたが、現れないので電話をしようかと考えた。
 だが待てよ──電話番号、教えてもらってなかったよな?
 番号を聞くなんて全然思いつかなかったのが、自分でもなんともおかしかった。それにしても、トムは新しい家主だ。挨拶に来たら、せめて名刺くらい置いていくのが筋ってもんじゃないのか? 店で七時まで待ったが、来る気配がないので、仕方なく家に帰った。
 二日後、アンジェロと二人で店じまいしていると、トムがいきなり現れた。
「やあベイビー」まるで何もなかったような口ぶりだ。
「二日の遅刻だね」俺は責めるように返した。
「ベイビー、すまな──」
「俺の名前はベイビーじゃない。ザックだ」
 アンジェロはちょうど入り口に提げてある札をひっくり返し、『閉店』にしたところだった。何がおかしいのか、にやりと笑みを浮かべている。
 トムのほうは笑みをひきつらせ、一瞬たじろいだ。「ザック──本当にすまなかった」
 トムの背後でアンジェロが手を振り、そのまま出ていった。トムの腕が俺の腰に回り、抱き寄せられる。
「本当に悪かった。会議があってどうしても抜けられなかったんだ。おまけに携帯は電池切れで。昨日電話すりゃよかったんだが、死ぬほど忙しくてね」
 トムが俺の尻をつかみ、首に唇を這わせる。「この埋め合わせはするよ、ザック。今夜、出かけないか」トムのものが固くなりはじめ、俺の腰に当たる。トムは俺の目をじっと見つめた。「そんなふうに怒らないでくれ。なあ、許してくれよ」
 正直、まだ怒ってはいたものの、仕方がないなという気持ちにかなり傾きかけていた。
 重なる唇どうしが徐々に熱を帯びていく。あっという間に頭がショートし、とろけそうだった。もう、トムがほしくてたまらない。
 つかの間、彼が顔を離して俺の目を覗き込んだ。「で、答えは?」
「ああ、許すよ」つい微笑んでしまう。「今回はね」
 トムの顔にも笑みが浮かび──うわ、なんてセクシーなんだ──見ているだけで、膝から力が抜けていく。
「よかった」


 二人で食事に出かけ、それから部屋に戻った。もう一瞬も時間を無駄にはしなかった。トムのシャツのボタンを外し、一気に脱がせる。茶色い胸毛が露わになった。右側の鎖骨の少し下に、丸い(あざ)が見える。二十五セント硬貨くらいの大きさだ。生まれつきのものかもしれないが、この前見たときはなかったような気がする。これって、キスマークだろう?
「誰につけられたんだい?」軽い調子で尋ねた。
「もちろんお前だろ、ベイビー」俺のボトムスを脱がせながら、トムが答える。まったく、もう「ベイビー」に逆戻りか。
「俺がつけたんなら覚えてるって」と笑う。
「ほかに誰とも付き合っちゃいないよ」
 仮にトムがほかのヤツとも寝ているとしても、別に気にはしない。だが、嘘をつかれるのは嫌だった。二人の関係は、まだそれほど特別なものじゃない。俺だって、状況が許せば──あいにくそんなチャンスは今のところないけど──ほかのヤツとデートくらいするだろう。だが、二日前に俺との約束を()()にしたのがほかの男と会うためだったとしたら? あまりにも誠実さに欠けやしないか?
 今回は、コンドームをつけるようにときっぱり言った。
「でも、この間はつけなかったじゃないか、ザック。もう遅いよ」
 苛立ちを抑えながら俺は繰り返した。「いや、それでもつけてもらいたいね」
「おいおい、ベイビー」トムは呻いた。「つけないほうがずっと気持ちいいだろ」
「俺はゴムをつけても全然構わないけど? なんなら下になるかい?」
 トムの顔に何かがさっと走った──恐怖、それとも嫌悪? よくわからないが、すぐにいつもの表情に戻る。頭を振り振り、ゴムを受け取った。
「そんなに言うなら、わかったよ。ベイビー」
 最初の晩よりはましだった。少なくとも一分以上はトムも持ちこたえた。だが、大地を揺るがすほどの快感には程遠かった。
 ことが済むと、二人してベッドに並んで天井を見上げた。
「今週、また会えるかな」俺は尋ねた。
「明日の晩なら寄れるよ」
 そういう意味で言ったんじゃない。「食事とか、一緒に出かけるとか、そういう話なんだけど」
「ううーん、どうかな。今、本当に忙しい時期でね」俺が落胆するのがわかったのだろう、トムはこちらを向くとキスしてきた。
「確かに、俺たちはもっと会う時間を増やさないとな。明日いちばんでスケジュールを確認したら電話するよ。それでいいかな?」
「ああ」
 その言葉を信じていいのやら、正直、疑わしかったが。


    *


「じゃあ、『カサブランカ』は?」
 アンジェロが働きはじめて三週目に入った。こうやって映画のタイトルを言ってよこしては、観たことがあるか聞いてくる。これまで八十作くらい聞かれただろうか。観たことがあったのは三本くらいだったが。
「観てない」
「あれはなかなかいいよ。名言もいっぱいあるしね。『君の瞳に乾杯』とか、『世界に星の数ほど店はあるのに』とか、あと、『あれを弾いて、サム』とかね。でもまあ、映画じゃホントはそんなふうには言ってないんだけどさ」
 俺はアンジェロが作ってくれた在庫表をチェックしていた。意外にも、アンジェロはこれまで雇った誰よりも優秀だった。まったく、俺より優秀なくらいだ。在庫表は彼のアイディアで、通常の仕事をこなしつつ、店内の在庫を整理しながらリストを作っていた。それはものすごい熱中ぶりで、掘り出しものを見つけては、クリスマスの子どもみたいに大はしゃぎしている。そんな作品あったっけ? と、俺すら覚えていないような作品ばかり見つけ出してきた。
 アンジェロの職業意識以上に驚いたのは、こう見えてなかなか気のいいやつだということだ。お互いすぐに打ち解けてしまった。共通点があるようには思えないのだが、なぜかうまが合った。ただ、俺がゲイだということはまだ打ち明けていなかった。それについては少しばかり気になってはいた。
「じゃ、『オリバー!』は?」
「それって、犬やら猫やらが出てくるディズニーアニメ?」と俺。
 アンジェロが笑う。「違うってば。でもたぶん同じ原作だと思う。ミュージカルのほうだよ。六十九年にアカデミー賞をとったやつ」
「ミュージカルは好みじゃないんだ」
「なら『サウンド・オブ・ミュージック』なんて絶対観てないよね」
「もちろん」
「やっぱり。まあミュージカルが苦手なヤツ、多いからな。じゃあ西部劇(ウエスタン)は? クリント・イーストウッドは嫌い? 確か若いころのやつは観たことあったよね? この間話してた『真昼の死闘』は、少しくらい観たってことでしょ」
「ああ、あの橋が出てくるやつか」
「うん」
「橋しか覚えてないけどな」
「『続・夕陽のガンマン』は観た?」
「ええと、クリントが『それでも賭けてみるか?』って言うやつ?」
「違う。それは『ダーティハリー』」
「たぶんどっちも観てないな」
「そいつは残念だな」アンジェロが口笛を吹く。「あのころのクリントときたら、死ぬほどイケてるってのに。ハリーはそれほどじゃないけど、『ガンマン』のブロンディときたら最高だね。あんなの絶対反則だよ」
 俺は顔を上げ、アンジェロを見た。こちらに背を向け、DVDのケースを山ほど抱えている。
「今、なんて言った?」
「ブロンディはめちゃくちゃカッコいいってこと。むらむらするほど超セクシー。マジで一戦交えたいくらい。もちろんトップは譲るけどさ。あのブロンディがボトムを許すとは思えないから」
 ええっ、なんだって──?
 アンジェロがこちらを振り向く。目が合った。きっと俺は、硬直してものすごい形相をしていたに違いない──うちの従業員が狼男に変身するところを目撃している、みたいな。驚いたのか、アンジェロの手からDVDがこぼれ落ちる。
「どうしたんだよ? ザック」
「もしかして、ゲイなのか?」
「うん」アンジェロは明らかに面白がっていた。「知らなかったとか?」
「どうして知ってるわけがある?」
 アンジェロがいつものあきれ顔で頭を振る。「くそあり得ねえよ、ザック」そして笑い出した。まるでたった今、俺が面白いことでも言ったみたいに。それからまた背中を向け、DVDを整理しはじめる。「ほんと、笑わせてくれるね」
 俺のどこがそんなに面白いのか、聞く勇気はなかった。まあ、どうでもいいことか。アンジェロはもう映画の話題に戻っている。
「『欲望という名の電車』も観てないんだよね? ブランドも若いときはかなりホットだよ。なんたって強姦男だしね。ブランドが、じゃなくて役柄がさ。ブランチときたらとんでもないくそ女だし。まあ、いちばん印象に残るのはブランドが叫ぶところかな──ステラ!って」
 閉店間際だったが、店を閉めるのをためらっている自分に気づき、驚いた。アンジェロと話しているのが楽しいのだ。今から誰もいない部屋に戻ると思うと、よけい名残惜しくなる。
「これから何か予定はあるのか?」気づいたときにはそんな言葉が口をついてしまっていた。
 アンジェロが驚いてこちらを見上げる。「夜勤があるけど、それまではヒマ」
 そうだった、彼はすぐそこのガソリンスタンドで夜も働いているのだった。平日の夜十一時から朝の五時まで。で、朝十一時から閉店まで、うちの店で働いている──平日は夕方六時まで。土曜は八時まで。そんなに働いたら、俺ならノイローゼになるところだが、アンジェロは平気らしい。
「少し遊びたくないか?」
「へえ。俺がホモだとわかったとたん、さっそくやろうってわけか」生意気な口調だ。
「違う!」
「いいよ」
「何が『いいよ』だ!?」
「だから、遊びたいってこと」アンジェロが顔をほころばせる。「あのボーイフレンドも一緒?」
 トムはボーフレンドなんかじゃない、と言いかけてやめた。そもそもボーイフレンドといえばもっと緊密でよく知っている相手のことだろう。トムとの会話なんて、セックスのときに戯言を聞かされる程度だ。そんな相手じゃ、よく知ってるとは言えまい。
「いや、一緒じゃない」
「なんで?」
「なんでって、どうでもいいだろう」思わず、きつい言い方になってしまった。アンジェロはにやにやしている。
「まあね。じゃ、何するの」
 それはいい質問だった。さて、どうしようか。店内を見回し──思いついた。
「映画を観るとか?」
 アンジェロの笑みがさらに広がる。「いいよ。俺が選んでいいならね」
「よし、乗った」
 そのとき、常連客の一人が現れた。例のアイアン・メイデンのTシャツを着たヤツ──通称エディだ。
 アンジェロはすぐさまカウンターに戻るとエディに声をかけた。
「おいジャスティン。あれ、ここにあるよ」言いながら、カウンターの下からパッケージを取り出す。「今夜あたり来ると思ったんだ」
 エディは──どうやら本名はジャスティンらしいが──笑みを浮かべた。これは驚きだ。俺の前では笑顔どころか歯も見せないくせに。
「悪いね」
 エディが出ていくや、アンジェロに尋ねた。
「あいつの借りたいものがどうしてわかったんだ?」
 アンジェロがあきれ顔で見返してくる。「おいおいザック、それマジ? いつも同じ映画ばっか借りてるじゃないか。ほら、『ヘビー・メタル』。全然気づいてなかったとか?」
 俺は黙って頷くしかなかった。
「もっと常連客のことを、見といたほうがいいんじゃないの」
「でも、借りる映画が決まってるなら、なんであんなにずっと店にいるんだ?」
 ついむきになって聞き返すと、アンジェロはにやりとする。
「そりゃ見つからないからだよ。言ったろ? あんた、いつだって映画をめちゃくちゃなとこに戻すじゃないか。ジャスティン、嫌がらせされてると思ってたぜ。ま、フォローしといたけどね。あれは何も考えちゃいないせいだって」
 どうしてエディ=ジャスティンがいつも俺にむかっ腹を立てていたのか、ようやく()(てん)がいった。だが、考えなしの馬鹿と思われるのと、どっちがましなんだ?


 帰りがけに店に寄って、スシとテリヤキチキン、日本酒を買った。スシは俺、テリヤキはアンジェロにだ(どうやらアンジェロは生魚が苦手らしい)。
 部屋に戻ると床に腰を落ち着け、アンジェロが選んだ映画を観た──ブラッド・ピットの『セブン』。まあ、少なくともカラー映画だったし、ブラッド・ピットも見られた。
「かなり心理的に堪えたよ」それが観終わったときの率直な感想だった。アンジェロは笑って応じる。「悪役をやるときのケビン・スペイシーときたらハンパじゃないからね」
 残りの酒を二つのグラスに注ぎ分け、ふと気づいた。そうだ、アンジェロはこれから仕事があるんだった。
「仕事の前に酒を飲んだらまずかったな?」
 アンジェロは肩をすくめる。「顔に出てなきゃ大丈夫だろ。誰も気づきゃしないよ。だいたい俺しかいないんだ。客だってそんなによく見てないよ」
「しんどくないのか? そんなに働いて」
「だって、ほかに何すりゃいい?」軽い口調だ。
「近くに家族は?」
 少し間があり、ようやく返事があった。「いいや。家族はいない」
「近くにいない、ってことだよな」
「違う」アンジェロの声が、少しばかり苛立っている。「家族なんかいないってこと」
「いないってことはないだろ。じゃあ、孤児とかそういうやつなのか?」
「とかそういうやつ、のほうだけど」
 アンジェロはじっとテレビ画面を見つめていた。といっても映画のエンドロールが流れているだけだったが。それからようやく俺が返事を待ってることに気づいたのか、ため息をついた。
「お袋はインディアン。インド人じゃなくて、アメリカ大陸のほうの。親父とはニューメキシコで結婚したって話。イタリア人らしいよ」
「へえ、グリーンって苗字のイタリア人ねえ」なんとも怪しげな話だ。
 アンジェロが例のひねた笑みを浮かべた。「そういうことになってるんだからしょうがないだろ。一度も会ったことないけどね。俺が生まれる前にデンバーに移ってきて、一年して親父が出ていったらしい。俺が六歳だか七歳だかのとき、お袋は俺を近所のやつに預け、そのまま帰ってこなかった。それからは里親のところを転々としてさ、十六で学校をやめて独り立ちしたってとこかな」
 アンジェロと目が合った。ショックが顔に出ないようにするので精一杯だ。
「ねえちょっとさあ、それほどひどい話じゃないだろ? そんなお涙ちょうだい番組でも見たような顔、しないでほしいよな」
「ああ」そう言いつつ、そっと顔を伏せた。嘘がつけないたちなのだ。うちの家族はいわゆるホームドラマの典型みたいな一家だ。いちばんの大事件といえば、俺がホモセクシュアルだったことだが、それでさえ大騒動にはならなかった。親の懐でしっかり守られている──そんな安心感のない子ども時代なんて、想像がつかなかった。
 アンジェロは手にしていたグラスに視線を落とす。
「この酒、思った以上に強いんだな。でなきゃこんな話、しやしないし」
「そう、日本酒は用心しないとヤバいんだ」
 アンジェロが時計に目をやり、ため息をついた。「行かないと」
「アンジェロ」戸口で俺は呼び止めた。
「なに?」
「また遊びたくないか? こんなふうに」
「ふん、どうせ俺にはほかにすることがないとでも思ってんだろ?」あの小生意気な口調が戻ってくる。ここは年長者らしくムカつくべきなんだろうか?
「いや、ただ思いついただけだ」言い訳じみて聞こえないように応じた。「気にしないでくれ」
「いいよ」
「いいよって──何が?」
「だから、また遊びたいってこと。こんなふうに」
 こんな、なぞなぞみたいな会話に慣れるときが来るのか? 俺。
「また明日。ザック」

アンジェロ


 まったく信じられないね。俺がクィア〔訳注:性的マイノリティーを指す言葉。〕だってザックが気づいてなかったとは。あれほど気を引こうとモーションかけてたってのに。単に、ちょっとなれなれしい客くらいにしか思ってなかったのか。ホントわかっちゃいないな。笑えるよ。
 誘ってくるなんて驚きだ。嬉しいけどさ。おまけにほんとに遊びたいってだけで、寝るのが目的じゃない。こんなのいつ以来だ? でもどうして親のことまで話しちまったんだか。いつもなら絶対話さない。恐怖と憐れみたっぷりの顔をされると、くそイラつくから。あのときザックがしたような顔──うんざりだね。まあ、ザックはなんとか隠そうとはしてくれたけど。
 明後日の晩も誘われた。ザックの部屋でテイクアウトのタイ飯を食いながら、映画を観ることになっている。帰るとき、また誘ってくれないかって思うだろうな。一人で部屋で過ごすより全然いい。
『AtoZ』は、結構ぶっ飛んだ環境だ。まず、近所のおかしな連中。いかれたルビーがいるし、もう一人のお隣さん、ジェレミーもいる。バイトの初日、ルビーには俺のビジョンを見たって、がっつりつかまれた。とっさに浮かんだ下ネタジョークでもかまそうと思ったけど、おばさん、笑わない気がしたんでやめた。ジェレミーは俺を自由党に入れようとしてる。二大政党員(リパブリクラット)は、大企業主たちのカモなんだって。何言ってんだかよくわかんないけど。ネロ・センセイは会うたび栄養剤を売りつけようとするし、生徒たちときたら、しょっちゅう道着で駐車場を走り回っては、木を蹴りつけたり妖怪みたいに叫んでる。
 それからおかしな客たち。アロハシャツのおっさんは元弁護士で、いまはバーテンダーだ。ジェレミーの店にもしょっちゅう通ってきていて、映画の好みはお涙ちょうだいもの。最初は借りるとき恥ずかしそうにしてたけど、おっさんが女向けの映画を観るからってどうだってんだ? ジャスティンが借りるのは『ヘビー・メタル』だけ。あんまり面白くない映画だけどな。こんなに何度も借りるくらいなら、いっそ買っちまえばいいのに。それからキャリー。唇にピアスしてる子だ。見た感じ、ヴァンパイアおたくなんじゃないかと思ってた。ところがまあ、チェロが弾けて、教会の聖歌隊でも歌ってるなんてね。ものすごいミュージカル好きだし。
 こんなに面白い仕事は初めてだ。おまけにザックと一緒にいられる。毎日、顔を見るのが楽しみでたまらない。これほどあっさり打ち解けられるなんて正直びっくりだ。でも、ザックがあの能なしトムから連絡がくるのを待ってるのを見てると、気の毒になる。間違いなく、ザックはもっとちゃんとした関係を望んでる。でもって間違いなく、トムには全然その気はない。いつだってザックは次に会える日を指折り数えて焦がれてるってのに。トムは約束の半分はドタキャンするし、残りの半分だってかなり遅刻してくるのだ。
 でもまあ、こんな偉そうなことを言う権利はないか。正直、俺もちゃんとした関係なんてごめんだから。そういうやり方がずるいとも思ってない。たとえばザックにとことんいい思いをさせて、で、もうそれきり会わないだけってこと。トムのやり口みたいに、いかにも付き合ってるように見せかけて、相手を騙すなんてことはしない。それって嘘っぱちのズルだし、考えただけでむかつくね。
 ああ、でも、よおく覚えておかなきゃな──俺には関係ないことだって。


 一、二週間たったころ、朝、ザックが電話してきた。俺に店を開けてほしい、走ってて遅刻しそうだって。「遅刻して走ってる」って意味じゃない。ランニングしてるのだ。二、三キロくらいのときもあれば、もっと短いときもある。走るなんて、俺からすれば面白くもなんともない。でも、ザックがどうしてあんなにいい体をしてるのか、これでわかった。とにかくその日もザックは走ってて遅れてて、シャワーを浴びてから店に来たいと言ってきた。だから俺は「ゆっくり来れば?」って言ってやった。なにせ水曜の朝だ。二人そろって店番する必要もない。
 だから、トムが現れたとき、店には俺しかいなかった。
 正直に言おう。トムを見ると(むし)()が走る。うまく説明できないんだけど、たぶん十代のガキのころ、トムみたいな体育会系にえらくひどい目に遭わされたせいだろう。それか、四年前、こういうマッチョ野郎に危うくレイプされそうになったからかも。トムにはあの男と同じような、嫌な根性を感じる。だからトムに無視されていて、心底ハッピーだったわけだ──今までは。
 トムは店を見回し、明らかにザックを探していたが、代わりに俺を見つけた。その目つきがなんとも妙な具合に変わる。思わずぞっとした。
「やあ」トムが近づいてくる。俺は隅の棚のDVDを並べ替えているところだった。
「ザックは?」
「いない」俺はトムを見ずに言った。目の前の作業に集中する。「あんたが来たって伝えとくよ」
 俺の返事を聞いて、このクソ男が出ていってくれたらよかったんだが、そううまくはいかなかった。嫌な視線を感じ、仕方なく見返すと、トムはにやにや笑いを浮かべていた。見るだけで脈拍が上がってしまう。いい意味でじゃない。もっとまずいことに、店の隅に追い詰められた。
「ザックのやつ、思った以上にお利口なんだな」ふいにトムが言った。「お前みたいな可愛いペットをはべらしているとはね」
 トムの言葉のどの部分にムカついているのか、自分でもよくわからなかった──可愛いペットと呼ばれたことか? それとも、ザックをこけにするような言い草か?
「おい、どうなんだい? ザックはお前にのか? それともふだんは逆なのか?」
「そんなんじゃない」俺は用心深く答えた。トムなど怖くはなかった。こんなデカいアホ、どうやってぶちのめせばいいのか、わかってる。問題は、そんなことをしたらどんなトラブルになるかってことだ。ここは時間稼ぎをして、クールに振る舞い、ザックが来るまで何も起きないよう祈るだけだ。
「おいおい、まさかザックがお前の洗練された管理スキルを見込んで傍に置いてる、なんていうんじゃないだろうな」トムが皮肉たっぷりに言った。
 俺は肩をすくめた。「ザックに聞いてみないと」
 トムが近寄ってくるが、後に引く気はなかった。ここで()じけづいたところを見せたら、やつの思うつぼだ。「なあ」トムが口説くように囁く。「仲良くしようぜ。確かにお前、傍に置くだけの価値はある。ザックにしてやってることを、俺にもちょっとしてくれよ。俺のほうがザックより楽しめるって」
「ザックに何もしてないし、あんたにするつもりもないね」
「むきになって否定しなくていいさ。ザックが別のやつと遊んでたって俺は気にしないから」
「あんたの妄想だよ」
 トムは笑った。すべてがゲームだといわんばかりだ。こいつにすれば、本当にそうなんだろう。トムの手が伸び、俺の顔にかかった髪に触れようとした。反射的にその手を押しやり、トムを睨みつける。
「俺に触るな」
 トムがぞっとするような目で睨み返し、声を低めた。「気をつけるんだな、可愛い子ちゃん」明らかに脅しだった。
 でも、負けるわけにはいかない。トムの目をじっと見据え、冷静に答えた。
「何がだ」
「ザックにこう言ってもいいんだぜ。お前の可愛いペットが、小遣い稼ぎに俺のを(くわ)えてもいい、そう持ちかけてきたってな。俺はザックを誰かとシェアしても構わない。だが、ザックはどうだろう。俺と同じように考えるとは思えないね」
 やれるもんならやってみろ──そう言ってやりたかった。ザックはトムの言うことなんか信用しないはず。でも、そのときちょうどザックが現れた。トムを見たときの、ザックのうれしそうな顔──ああ、こんなの絶対見たくなかった。
 もちろんトムは抜かりなかった。すぐさま俺から離れると、笑顔を作ってザックのほうを向く。「ヘイ、ベイビー。ずっと待ってたんだ」そしてザックに近寄り、腕を伸ばす。
 こんなの、見ていたくない。
「ザック、二十分くらい出てくよ」俺は言った。
 俺はザックを見もしなかった。俯き、戸口へと急ぐ。ザックがダメだと言うはずない。案の定、ドアが開いたところで声がした。「問題ないよ」
 行くあてはどこにもなかった。ただ、店から出たかったのだ。トムに言われたことをザックに話すべきなんだろうか? そうだ、話すべきだ。俺たちは友だちなんだし、それが俺の仕事でもある。だろ?
 でも、考えてみればみるほど、馬鹿なことはよせ、という気持ちが強くなってきた。ザックは大人だ。俺がおせっかいを焼くことじゃない。だいたい、なんて言えばいい?「あんたのデカいボーイフレンドは虫唾が走るやつだ」って? でなけりゃ「トムに迫られた」とか? ダメだ。そんなことを言えば、ザックは俺とトムのどちら側に立つべきか、悩んでしまう。そんなふうに追い込みたくはない。トムがどう思ってるにせよ、ザックは馬鹿なんかじゃない。何もわかっちゃいない世間知らずだけど、馬鹿とは違う。時間がたてば、トムがくそ野郎だってわかるはずだ。俺たちのせっかくの友情を壊す必要はない。

--続きは本編で--

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