ロング・ゲイン~君へと続く道~
マリー・セクストン
1
すべてはリジーのジープから始まった。
あのジープがなければ、僕はマットと出会っていなかったかもしれない。マットも、これまでの自分に何の疑問も持たなかったはずだ。そしてたぶん、誰も傷つくことはなかっただろう。
──ちょっと先を急ぎすぎたかもしれない。順に話そう。
最初に言ったとおり、ことの発端はリジーのジープだ。リジーと僕の兄のブライアンは夫婦で、秋には初めての子どもが生まれる予定だった。リジーは大学時代からずっと同じジープ──ラングラーに乗っていたのだけれど、ファミリーカーとしては少々使い勝手が悪かった。それで、車を手放すことにし、僕らの店の前にジープを停め、『売り出し中』のメモを窓に貼っておいたというわけだ。
店は、僕らの祖父が始めたものだ。もともとは金物や工具を扱う店だったけれど、そのうち車の部品なども置くようになった。祖父の死後は父が跡を継ぎ、その父が亡くなると、ブライアンとリジー、そして僕が店を切り盛りすることになった。
その日、僕らの住むコロラド一帯はすばらしい春の陽気に恵まれ、僕はカウンターに足を投げ出して椅子に腰かけ、のんびり外の景色を眺めていた。こんな日は、外で思いきり日差しを浴びたら最高だろうな──なんて考えていた矢先、彼が店に入ってきたのだった。
彼はすぐさま注意を引いた。見たことのない顔だったからだ。僕は生まれたときからずっと、このコーダの町で暮らしているから──正確には、フォートコリンズで過ごした大学の五年間を除いてだけれど──住人のことは全員知っている。彼は、このあたりに住む知り合いを訪ねてきたか、別のどこかに行く途中なのだろう。コーダは観光地というわけではないけれど、四駆でオフロードを楽しむ人や、もう少し山を登ったところにある観光牧場に向かう人たちが、ひょっこり迷い込んでくることも珍しくない。
とはいえ、彼は、観光牧場にしげしげと足を運んでくるような中年男たちとは全然違っていた。たぶん三十代前半だろう。僕より七、八センチ背が高く、百八十五センチくらいといったところだ。黒髪をミリタリー風に短く刈り、だいたい二日分くらいの濃い無精ひげが生えている。黒い無地のTシャツにジーンズ、そしてカウボーイブーツ。広い肩とたくましい腕を見れば、つねに鍛えているのだとわかる。彼は──ものすごく魅力的だった。
「あのジープは、ちゃんと走るのかな?」
声は低く、ほんの少し母音を伸ばすような話し方だ。
最南部の人間ほど間延びした響きではなかったけれど、コロラド人よりはゆったりしている。
「もちろん。よく走るよ」
「ふうん」
彼は窓越しにジープを見た。
「じゃあ、どうして売りに出すんだ?」
「僕のじゃない。兄夫婦の車なんだ。後部席にシートを取り付けるのが難しいから、代わりにチェロキーを買ったんだよ」
彼はわけがわからないという顔をしている。キッズ用シートには縁がない──つまり、子持ちじゃないということだ。
「で、走りはOK?」
「完璧さ。試乗してみる? キーならここにあるから」
彼はくいと眉を上げた。
「ああ、ぜひそうさせてもらいたい。担保か何か必要かな? 免許証を渡しておこうか」
正直、彼がどんな条件を出したところで僕はうなずいていただろう。なぜだか膝に力が入らない。彼のスチールグレイの瞳が、ほのかに緑がかって見える気がするのは──何かの魔法だろうか。軽い調子に聞こえるよう願いながら、口を開く。
「僕も一緒に行くよ。この辺の道には詳しいんだ。わりと楽に登れる山道があるから、そこで運転の感触も試してみたらいい」
「でも、店はどうする? 忙しいときに人手不足にさせちゃ、申し訳ない」
そう言って彼は店内をざっと見渡し、ほかに誰も客がいないことに気づいたようだ。笑みのつもりか、口元が片方だけつり上がる。
「勝手に店を空けたら、店長にどやされるんじゃないか?」
「実は、僕もこの店のオーナーなんだ。好きなときにサボれる」
僕は後ろを向き、店の奥の部屋に声をかけた。
「リンゴ!」
店の唯一の従業員が、奥から用心深く出てきた。リンゴはいつも僕に対してよそよそしい。リジーが店にいないときなど、絶対に僕には近づこうとしない。たぶん、言い寄られるとでも思っているのだろう。歳は十七歳、黒髪はくしゃくしゃで、にきび面だし、どんなに多く見たって五十キロもないはずだ。お世辞にも僕の好みではなかったけれど、そんなことを言って安心させてやる気はなかった。
「はい?」
「店番を頼む。一時間くらいで戻るから」
それだけ言うと、僕は来訪者のほうを向いた。
「じゃ、行こう」
僕らは二人してジープに乗り込んだ。彼は運転席におさまるとこちらを向き、右手を差し出してくる。
「マット・リチャーズだ」
「ジャレド・トーマス」
と、僕も右手を差し出す。マットの握手はとても力強かったけれど、自分がいかにマッチョか見せつけようと、相手の手を握りつぶすようなタイプではなかった。
「どっちの方向に?」
「左に曲がって。岩まで登ろう」
「え? 岩?」
「そう。おそろしくでかい岩、としか言いようがない場所なんだ。名所でも何でもないけど、ピクニックにはちょうどいいよ。それに、ティーンエイジャーが車でいちゃついたり、〝ハイ〟になりに行くにもね」
僕がそう答えると、マットは少し眉をひそめた。あまり笑わないタイプみたいだ。それにひきかえ僕は、馬鹿みたいな笑顔を浮かべているはずだ。店から少しでも解放されたばかりか、山に向かっているのだから、かなり気分が上がっている。そのうえ、連れはここ数年お目にかかったこともないような、ものすごいイケメンだなんて、文句のつけようがない。
「なんで、うちの町なんかに?」
「ああ、越してきたばかりなんだ」
「ええっ? どうしてまたそんなことを?」
「いけないか?」
マットは真面目な顔を崩さなかったけれど、声にはからかうような響きがあった。
「きみ、ここに住んでいるんだろう? そんなにひどいのか?」
「いや。いいところだとは思ってるよ。ほかの町に住みたいとは思わない。でも、ひからびかけたような町だからさ。越してくるやつより、出て行くやつのほうが多い。デンバーあたりの町はどこもわりと人気だけど、ここは違う。住みたがるやつはいないよ」
「ふうん。まあ、俺の場合、コーダ署に勤めることになったんでね」
「え、警官?」
マットが面白そうに片方の眉を上げる。
「何か問題でも?」
「ええっと──別に。ただ、子どもたちが山でハイになってるなんて、言わなきゃよかったかな」
彼はまたも眉を上げ、軽い調子で言った。
「気にするな。子どもらには、きみがリークしたなんて言わないから」
お堅い警官にも、少しはユーモアのセンスがあるようだ。
「じゃあ、きみは生まれてからずっとこの町に住んでいるのか」
マットがそう尋ねてきたが、さほど興味があるふうでもなかった。会話の流れで聞いているのだろう。
「大学時代を除けばね」
「で、自分の店を持っている」
「正確には、兄夫婦と僕の店だけどね。すごく儲かるわけじゃないけど、なんとかやってるよ。ブライアン──兄は会計士で、ほかにクライアントを抱えているから、帳簿係ってとこかな。店のほうはリジーと僕とで切り盛りしてる」
「でも、きみは大学に行ったんだろう?」
今度は、純粋に好奇心から聞いているようだった。
「うん。コロラド州立大にね。物理の学位と教員の資格は持ってる」
「なのに、先生にはならないんだ?」
「兄夫婦をがっかりさせたくないからさ」
それはある意味では事実だったけれど、本当の理由はほかにあった。こんな小さな町でゲイが高校教師になると、いろいろ不愉快な思いをする羽目になるのだ。もちろん、初対面の相手にそんなことまで打ち明ける気はない。
「実のところ、店を任せる人がほかにいないんだ。フルタイムの従業員を雇う余裕はないから。今どき、手当てが悪いと誰も働かないしね。それでリンゴをバイトで雇ってるんだけど、リンゴは車の部品をうちの店で買ってるから、ありがたいことに給料の半分は毎月こっちに戻ってくる。リンゴ──ってもちろん本名じゃないけど──あれ、ほんとは何て名前だっけ?」
そこまで言って、自分がべらべらと一人でしゃべっていることに気づいた。
「ごめん、話しすぎた。退屈させちゃったね」
「いや、全然」
マットはいたって真面目な顔だ。
僕らはジープで、山道をあと少しというところまで登ってきていた。
「ああ、このへんでUターンさせて停めて」
車を停めると、マットは疑い深げにあたりを見回した。僕らのほかに、一台の車も停まっていない。
「岩なんて、どこにも見えないな」
「もう少し道を上がったところにあるよ。歩かないか?」
彼の顔が嬉しげに輝く。
「いいね」
僕らは山道を歩き始めた。松やベイマツ、ポプラといった木々が芽吹き、岩場を緑に染めつつあった。このあたりがロッキー山脈と呼ばれるのは、こうした
岩が多く見られるせいだ。コロラドの山々は巨大岩がたくさん集まってできたといってもよく、岩の表面はどこもかしこも、灰色がかった緑、あるいは錆のように赤い地衣類でこんもり覆われていた。
この岩は、高さ六メートルくらいだろうか。このまま登っていけば、すぐ頂上に出られる。それのどこが楽しいのかって? 岩が登ってくれって言うから登るだけだ。
頂上に着くと、僕らは腰を下ろした。眺めは、これまでの道のりとさほど変わらなかった。道を降りた先に僕らのジープが停めてあるのが見えるが、あとは木と岩と、山ばかりだ。僕はコロラドが好きだけれど、この程度の景色ならどこに行っても見られる。だから、すぐ横で満足げなため息が聞こえてきたときには、正直少し驚いた。見ると、マットは目の前の風景に心を奪われているようだった。
「いやあ、気に入ったよ。これまでオクラホマに住んでいたんだが、コロラドのほうがずっといい。本当だ」
マットがふっとこちらを向き──その瞬間、息が止まりそうになった。輝く春の日差しを受け、マットはまぶしそうに少し目を細めている。日に焼けた肌。そして、きらめく瞳──ああ、やっぱり緑を帯びていて、きれいだ。
「ありがとう。ここまで案内してくれて」
「また、いつでも声をかけてくれよ」
心の底から僕はそう応じていた。
2
翌日、マットが店にやってきた。ジープの代金を支払いに来たのだ。土曜で客が多い日だったから、僕はリジーと二人で店に出ていた。
「あとでビールでも飲みに行かないか?」
マットは、今朝はひげを剃ったらしく、昨日より少し若く見える。わあ、なんだかキュートだ。
「ぜひ行きたいところだけど、今度でもいいかな? 今日は家族で食事をする予定なんだ」
「ああ」
マットは残念そうだった。
「それなら、別の機会にでも……」
「待って!」
と、リジーが割り込んでくる。それも満面の笑みを浮かべて。
「よければあなたも一緒にどう? といっても、うちに集まって食べるだけなんだけれど、来てくれると嬉しいわ」
マットはすんなりリジーの申し出を受け、夕方五時すぎ、店が閉まるころにまた寄ると言って、出て行った。
彼が行ってしまうと、僕はリジーとなるべく目を合わせないようにした。リジーはすぐ横で、馬鹿みたいな笑みを浮かべている。こんな顔を見るのはいつ以来だろう。歩くたびにふわふわと揺れ動く、やわらかなブロンドの髪を今も揺らし、青い瞳を楽しげに輝かせている。リジーは、言うなら「美人」と「とってもキュート」の中間あたりで、その気になれば、夜空の星を全部落とせるくらいにチャーミングだ。
「で?」
にやにや顔のリジーが、ようやく尋ねてきた。
「で、って何が?」
平静を装いながらも、自分が赤面していることはわかっていた。まったくいやになる。
「とぼけないの!」
と、腕をぴしゃりと叩かれる。
「彼、すごくセクシーね! 飲みに誘われたんだから、もっと喜んでもいいんじゃない?」
実をいうと、僕には友人があまりいない。高校時代から付き合いのある連中は、結婚して、今は子ども中心の生活を送っている。結婚していないのはトラブルメーカーばかりで、しょっちゅうバーで飲んだくれている。だから、一番親しい友だちはたぶんリジーだ。そしてリジーはいつも、僕に恋人ができることを願ってくれている。
「……別に、デートっていう意味で誘ってきたんじゃないと思うけど」
そう答えると、リジーの笑みが少ししぼんだ。
「そうなの?」
「だって彼、ゲイに見えた?」
「うーん……。そうは見えなかった。でも、あなたもゲイっぽくないもの、そんなのあてにならないわ。彼、あなたと飲みに出かけたいと思ってたのに、二人きりになれないとわかって、がっかりしてた。きっと気があるのよ」
リジーの笑みは、いつの間にやらまた自信満々になっている。
つられて僕もつい、にやけてしまう。
「そうかなあ? でもまあ、あんまり期待しないでおくよ。もちろん、きみが正しくても全然構わないけどね」
*
僕がよく聞かれるのは、いつ自分がゲイだと知ったのか、ということだ。たいていの人は、神のお告げか何かを──まばゆい光に包まれ、ラッパが鳴り響くみたいな──受け取ったかのように想像するらしい。けれども僕の場合、全然そんなものではなかった。ちょっとした出来事が積み重なって、ゲイだと確信した──と言ったほうが当たっている。
最初の〝事件〟は思春期に入りたてのころだ。二歳年上のブライアンと比べて、自分には少し違うところがあるな、と気づいたのだ。
ブライアンは当時、自分の部屋にシンディー・クロフォードとサマンサ・フォックスのポスターを貼っていたのだが、僕はといえば、車とデンバー・ブロンコスのポスターだった。ブライアンが女の子たちにそそられているのは知っていたけれど、僕には今ひとつその心情が理解できず、とはいえ、たいして気にもとめていなかった。
十五歳のころだったか、週末に父がブロンコスの試合を見に行って、僕へのお土産にと、チームのポスターを買ってきてくれたことがあった。ポスターにはチームのメンバー全員が写っていて、その傍らでは派手な衣装のチアリーダーたちが、それぞれに挑発的なポーズを決めていた。ブライアンに手伝ってもらって部屋にポスターを貼ると、二人してしばらくそれを眺めた。
「誰がいちばんイケてると思う?」
と、ブライアンに聞かれ、
「スティーヴ・アトウォーター」
僕は何のためらいもなくそう答えていた。
ブライアンは笑ったけれど、どこかぎこちなかった。僕がからかっているのかどうか、判断がつかなかったせいだ。顔を上げると、ブライアンがこちらを見ていた──笑っていいのか心配したほうがいいのか、よくわからないといった顔で(ちなみに、この先何度も、ブライアンはこんな顔をするようになる)。僕はそわそわと落ち着かなくなった。間違ったことを言ってしまったようだけれど、どこがまずかったか、わからなかったのだ。
「そうじゃない。チアリーダーの中で誰がイケてるかって話だよ」
実のところ、チアリーダーなど眼中にもなかった。
それからじきに、学校ではクラスメイトたちがこっそりヌード雑誌を交換し合うようになった。みんながヌードを見てどう思っていたのか、正直なところよくわからない。けれども、少なくとも僕が感じていたような、微妙な居心地悪さじゃなかっただろう。
自分が周りの男たちと違うとはっきりわかったのは、トムと出会ってからだ。トムはブライアンとはフットボール仲間で、二人は親友同士だった。当時、僕は十六歳で、ブライアンとトムは十八歳だった。トムがブライアンに連れられ、わが家にやってきた日以来、僕はトムにすっかりのぼせあがってしまった。ほとんど何も話せなかったけれど、彼から目が離せなかった。トムが笑うだけで体が反応してしまい、そのせいで彼が家に来ると僕はいつも教科書を持ち歩くようになった。勉強のためなんかじゃなく、敏感に反応してしまう股間をすぐに隠すためだ。
できるだけトムのことを見ていたいという思いと、なるたけ彼の視野に入らないようにしたいという思いの間で、僕は揺れた。ブライアンがまた、例の顔つきで僕を見ていることには気づいていた──うっかりスティーヴ・アトウォーターの名を口走ってしまったあの日と同じ、心配や困惑、気まずさの混じった表情。二人が高校を卒業して大学へと進んだとき、何やらほっとした気分になったことをよく覚えている。
トムの一件を機に、自分がゲイだと確信したけれど、誰にも打ち明けたりしなかった。高校時代は、ほとんど自分を偽って過ごした。フットボールクラブに入るのもあきらめた。ロッカールームで何かしらまずいことが起きそうな気がして──あくまで僕の想像だったけれど──勇気が出なかったのだ。その代わり、僕は女の子たちとデートをした。といっても、いわゆるグループ交際だ。手をつないだことくらいはあるし、女の子のほうからキスをしてきたこともある。そうしたキスは、少なくとも僕にとっては、ちっとも心躍る経験ではなく、むしろ迷惑なくらいだった。もちろん、それ以上の関係に発展することなど決してなかった。
大学に進み、家を離れて初めて、僕はゲイとして
デビューすることになった。クラブやジムで出会った男たちと、体だけの味気ない関係を交わした。愛と呼べるような代物ではなかったけれど、経験を積んだことで、間違いなく自分はゲイなんだと納得できた。
もちろん、自分が三十代になって、まだ独り身でいるなんて考えてもいなかった。コーダみたいな小さな町でゲイとして暮らすのは、決して楽じゃない。コロラドがゲイの聖地でないのは確かだ。
熱烈なキリスト教地帯でもないけれど、サンフランシスコのようにオープンでもない。町に住む人たちの多くは僕がゲイだと知っていて、それを受け入れてくれてもいる。それでも、中には、たとえば買い物の途中ですれ違ったときに目をそらしたり、うちの店に来ても僕とは話したがらない人もいる。コーダで人生のパートナーを見つけるなんてことは、ほとんど不可能であり、僕がこのまま孤独に人生を終える確率は、哀しくなるほど高いのだった。
--続きは本編で--