王たちの蹶起

叛獄の王子3
C・S・パキャット

■第一章


「デイミアノス」
 演壇の階段の足元に立ったデイメンは、中庭に広がる自分の名を、驚愕と衝撃に彩られた声を聞く。眼前ではニカンドロスが、そしてニカンドロスの軍隊が跪いていた。故国に戻ったようだったが、彼の名がアキエロス兵の列の端にたどりつき、その外側で身をのり出した平民たちの耳へ届いた瞬間、空気が変わった。
 その衝撃は異質だった。倍する衝撃、広がるどよめきの波紋。それは怒り、そして恐怖。デイメンは最初の叫びを聞く。暴発の気配をたぎらせ、群衆から上がった異名を。

 飛礫つぶてのように、ざわめきが鋭くとびかう。ニカンドロスが立ち上がって剣を抜こうとした。デイメンは素早く腕で制し、アキエロスの剣身が十数センチのぞいたところでニカンドロスを止めた。
 ニカンドロスの顔にとまどいの色が浮かぶ。周囲は混乱に呑みこまれつつあった。
「デイミアノス?」
「手出しするなと皆に命じろ」
 デイメンはそう言いながら、近くで鋭く鳴った金属音にすぐさま身を翻した。
 灰色の兜のヴェーレ兵が剣を抜き、まるで人生最大の悪夢のようにデイメンを凝視していた。ヒューエットだ——兜の下の青ざめた顔をデイメンは知っている。ヒューエットは、かつて短剣をかまえたジョードを真似るように体の前で剣を握りしめていた。震える両手で。
?」とヒューエットが言った。
「動くな!」
 デイメンは再度命じる。アキエロス側から新たに上がった「大逆だ!」というかすれた叫びを打ち消そうと大声で。王族に刃を向ければ、アキエロスではすなわち死罪。
 手をのばしたままニカンドロスを背後に押しとどめたデイメンは、動きたい衝動をこらえているニカンドロスの緊張を感じる。
 群衆からは叫びと怒号がほとばしり、恐慌に逃げようとする列が波打ち、抑えきれなくなってきていた。アキエロス兵たちから逃れて遁走するか、それとも押しつつみにくるか。デイメンの視界で、グイマールが中庭へ緊迫した視線を走らせた。兵士の目には、一群の農夫たちには見えないことが見えているのだ。アキエロスの軍勢が城壁の中にいると。。人員を切りつめたヴェーレの駐屯部隊の、十五倍もの人数で。
 ヒューエットの隣でまた次の剣が抜かれた。青ざめたヴェーレ兵。一部のヴェーレの守備兵たちの顔には怒りと驚愕があった。ほかの顔には恐怖があり、どうするべきかと周囲にすがるような目をとばしている。
 ついに崩れ出す列、恐慌を増していく人々、すでにデイメンの命令が届かぬヴェーレ兵たち——自分の名が砦の人々にどれほどの衝撃になるか、完全にデイメンは見誤っていたのだ。
 デイミアノス。王子殺し。
 彼の精神、戦地での即断に鍛えられた頭が、中庭の状況を把握し、指揮官の決断を下す。被害を最小限に、流血と混乱を抑えてラヴェネルの砦を確保するのだ。ヴェーレの守備兵たちにはもうデイメンの指揮は及ばないし、ヴェーレの群衆は……その憤激をなだめる手があるとしても、デイメンには無理だ。
 迫りくる事態を避ける方法は一つしかない。押さえ込むのみだ。この砦を手中にし、完全に支配する。
 デイメンはニカンドロスへ命じた。
「砦を制圧せよ」


 六名のアキエロス兵を左右に従え、デイメンは大股に通路を抜けていった。
 廊下ではアキエロス語がとびかい、ラヴェネルの空にアキエロスの旗が舞う。戸口に並ぶアキエロス兵たちは通りすぎるデイメンに踵を打ち合わせて直立した。
 これでラヴェネルの砦は二日で二回、主を変えたことになる。今回は手早く終わった。デイメンはこの砦の制圧手順をすでに心得ていた。人数に劣るヴェーレ兵たちはたちまち中庭で圧倒され、デイメンはその中の二人の指揮官、グイマールとジョードの武装を剝いで見張り付きでつれてこいと命じた。
 デイメンが小さな控え間に入ると、アキエロスの衛兵がその二人の捕虜をつかみ、乱暴に突き倒した。「跪け」と聞きとりづらいヴェーレ語で命じる。ジョードが手足を投げ出すようにのびた。
「いい。立たせてやれ」とデイメンは命じた。
 たちまち言葉どおりにされる。
 グイマールのほうが先に兵の手を払って立ち上がった。もう幾月にわたってデイメンを知るジョードは、もっと慎重に、ゆっくりと立つ。グイマールはデイメンと目を合わせた。アキエロス語を理解している様子などおくびにも出さず、ヴェーレ語で話し出す。
「では、本当なのだな。お前はアキエロスのデイミアノスなのか」
「本当だ」
 グイマールが唾を吐き捨て、アキエロス兵の籠手をつけた手の甲で顔を殴りとばされた。
 父の前で唾を吐けばどうなったか承知しているデイメンはそれをとがめなかった。
「俺たちをここで刃にかける気か?」
 グイマールがデイメンへ顔を戻して問いかけた。デイメンは彼を、それからジョードを眺めやる。二人の顔についた汚れや、疲れて固い表情を。ジョードは、ずっと王子の近衛隊長だった男だ。グイマールについてはそれほど知らない。グイマールはトゥアルス大守の軍の将官であったのが、後にローレントの軍門に下った兵だ。だが二人ともに、軍での地位は高い。ゆえに呼んだ。
「ともに戦ってほしい」とデイメンは語りかけた。「アキエロス軍は、共闘するためにこの地へ来たのだ」
 グイマールが揺れる息を吐いた。
「共闘? 我々の協力につけこんで砦を奪ったくせにか」
「その前から砦は俺のものだった」デイメンはおだやかに答えた。「執政がいかなる相手か、もうわかっているだろう。そちらの兵には選択の自由を与える。ラヴェネルで虜囚となるか、俺とシャルシーへ向かい、共に戦う姿を執政に示すか」
「共闘などせぬ」グイマールが応じた。「お前は王子を裏切った」そしてほとんど口にするのも耐えがたいかのように、「お前はあの方と——」
「つれていけ」
 さえぎって、デイメンは命じた。衛兵たちも引き取らせると、皆が去った小部屋はがらんとして、あとは残留を許された男ひとりだけとなった。
 ほかのヴェーレ兵たちのような不信や恐怖は顔に出さず、ジョードはただ、疲れたように成り行きを見守っていた。
 デイメンは言った。
「俺は、行くと約束したのだ」
「それで、あの人がお前の正体を知ったら?」とジョードが返した。「戦場に立つのがデイミアノスだと悟ったら……」
「その時、俺たちは初めてあいまみえることになる。それもまた、約束だ」


 事が済むと、気付けば足を止め、扉枠に拳を置いて息を整えようとしていた。デイメンは己の名を思う。その名がラヴェネルの外へ広がり、地を駆け、ただ一人に届くことを。今この瞬間だけにしがみついている感覚があった。今はただ、この砦を統制し、シャルシーに着くまで兵たちを掌握できれば、そこから先は——。
 そこから先のことは考えられなかった。果たすべき約束のことしか。扉を開け、小堂へ入った。
 ニカンドロスがデイメンの入室に振り向き、視線が合った。デイメンが何か言うより早くニカンドロスが片膝をつく。中庭でのような思わずという動きではなく、自ら恭順の姿になり、首を垂れた。
「砦はあなたのものです」ニカンドロスが言った。「我が王よ」
 王。
 父親の亡霊に肌がざわめいたようだった。王とは、父の肩書きだ。だがイオスの玉座に坐していた父はもういない。友の垂れた頭を見て、デイメンは初めて悟った。己はもはや、訓練場のおが屑の上で組打ちの鍛練に一日を費やしてからニカンドロスと並んで王宮をそぞろ歩いた若き王子ではないのだと。もはやデイミアノス王子は存在しない。取り戻そうと必死で戦ってきた己の姿は、すでに虚像でしかなかった。
 またたくほどの間にすべてを失い、すべてを得る。それが王位につらなる王子の運命だと、かつてローレントはそう語った。
 デイメンはニカンドロスのなつかしい、典型的なアキエロス人の姿を見つめる。黒髪に黒い眉、褐色の肌、アキエロス人らしいまっすぐな鼻筋。子供の頃、二人して裸足で王宮内を駆け回ったものだった。アキエロスへの帰還を夢見た時、デイメンの心に浮かんでいたのはニカンドロスを出迎え、鎧にかまわず抱きしめ合う光景であった。故郷の大地を手にすくってたしかめるように。
 今、ニカンドロスはヴェーレの砦に跪き、ヴェーレ風の調度に簡素なアキエロスの鎧がひどく不調和で、デイメンは二人を隔てる越えがたい距離を感じた。
「立て」と声をかける。「古き友よ」
 色々なことを話したい。身の内から次々と湧き上がってくる。アキエロスの地を、あの高い崖を、波の色を変えていく海を、そしてニカンドロスをはじめとする友と呼んだ者たちの顔を、再び目にはできないのではないかという恐れを幾度も幾度も、ひたすら押しつぶしてきた。
「亡くなられたものだと……」とニカンドロスが言った。「あなたの死を嘆いた。あなたを失ったと思った日、エクタノスを灯し、夜明けにかけていつまでも歩いた」
 立ち上がりながら、まだニカンドロスの声はどこか圧倒されているようだった。
「デイミアノス、あなたに一体何が起きたのだ?」
 部屋へ押し入ってきた兵士たちの姿が、奴隷風呂に吊るされたことが、ヴェーレへの暗く朦朧とした船旅が、デイメンの脳裏をよぎっていく。虜囚となり、顔に化粧を施され、引きずり出されて見世物にされたこと。そしてヴェーレの王宮で目を覚ましたこと、それに続いて起きたことを。
「お前がカストールについて言ったことは正しかった」
 デイメンはそう答えた。
 それだけを。
「私はカストールがキングスミートで戴冠するのを見た」ニカンドロスは重い目だった。「彼は王の石に立ち、〈この二重の悲劇が我らに教えた、この世ではいかなることもありえるのだと〉と告げた」
 いかにもカストールが言いそうなことだ。そしてジョカステの。アキエロスでのその光景をデイメンは想像する。首長キロイたちがキングスミートの古き石を囲んで立ち、カストールがジョカステを横にともなって即位する。彼女の髪は完璧に整えられ、ふくらんだ腹は布襞で隠されて、こもる熱気を奴隷が扇いでいたのだろう。
「すべて聞かせてくれ」
 ニカンドロスへそう告げ、耳を傾けた。すべてに。デイメンの骸が布に巻かれて、城塞都市の中を葬列が練り歩き、それから父の隣に埋葬されたことを。デイメンは自らの近衛に殺されたのだというカストールの宣言を。その報復にデイメンの近衛兵たちが処刑されたことを。デイメンの古い剣の師であったハエモンも、従僕も、奴隷も処刑された。ニカンドロスは、宮殿内を荒れ狂った虐殺と混沌を語った。そしてカストールの兵がのさばり、自分たちこそが惨事を鎮圧している側だという名分で権力を握った。
 デイメンは夕暮れの鐘の音を思い出す。テオメデス王は亡くなられた。カストール陛下万歳。
 ニカンドロスが言った。
「まだお話せねばならぬことが」
 一瞬ためらい、デイメンの表情をうかがう。それから、革の胸甲の内から一通の手紙を抜きとった。それはぼろぼろで、保管場所のせいもあってひどい有様だったが、受けとって開いたデイメンは、ニカンドロスがこれを肌身離さずたずさえていた理由を悟る。
〈デルファの首長キロイニカンドロスへ
 ヴェーレの王子ローレントより〉
 総毛立つのを感じた。古い手紙だった。随分前に書かれたものだ。ローレントはこれを、アーレスの王宮で書いたに違いなかった。孤立し、政治的な窮地で、机に向かって書き出したのだろう。ローレントの澄んだ声が耳によみがえる——デルファのニカンドロスと俺は気が合うかな?
 戦略としては——なんとも不気味な形で——筋が通っている。ニカンドロスと手を結ぶというのは。ローレントは、常に非情な現実主義者であった。私情を排して勝利に必要な手を選択する。恐ろしいほど徹底的に人の心というものを捨てて。
 ニカンドロスの助力と引き替えに——とその手紙には綴られていた。その代償に、カストールと執政が共謀してアキエロスのテオメデス王を謀殺した証拠を渡すと。それは、昨夜ローレントがデイメンにつきつけてきた話と同じだった。〈この間抜けで愚かなけだものめ、カストールが王を殺したのだ、そして叔父の兵を使って都を奪った——〉
「疑いの声はありました」とニカンドロスが言った。「だがすべての疑問にカストールは答えを用意していた。しかも王の息子だ。そしてあなたは死んだ筈だった。ほかに世継ぎはいない。シクヨンのメニアドスがまず最初に忠誠を誓った。それにそもそも——」
「南部はカストールを支持している」
 デイメンはそう答えた。
 待ち受けるものの覚悟はできている。カストールの裏切りなどなくすべては誤解だったと聞けるとも、自分の生還と帰国を兄が喜んでくれるとも思ってはいなかった。
 ニカンドロスが言い切った。
「北部はあなたに忠実です」
「俺が戦えと命じたなら?」
「ならば戦うのみ」ニカンドロスが答える。「ともに」
 迷いひとつない明快さに、デイメンは言葉がなかった。故国がどんなふうなのか忘れていたのだ。信頼を、忠節を、絆を忘れていた。友誼を。
 ニカンドロスは服の間から何かを取り出し、デイメンの手へ押しつけた。
「あなたのものだ。俺が隠し持っていた……愚かな、思い出のよすがとして。大逆だとわかっていたが。あなたの形見にしたかった」
 そう、ニカンドロスは歪んだ笑みをよぎらせた。
「あなたの友は、思い出のために王宮に背叛するような愚か者だ」
 デイメンは手を開いた。
 たてがみの渦と弧を描く尾——手渡されたのは、王の印である獅子の留め針だった。デイメンが十七歳となった日にテオメデス王が彼にこれを与え、世継ぎと定めたものだ。肩に留めてくれた父の手を今も覚えている。これを持ち出し、私有したことで、ニカンドロスは処刑される恐れさえあった。
 拳の中に、固くまばゆいその形をはっきりと感じる。
「お前は俺にたやすく忠誠を誓いすぎだ」
「あなたが俺の王だ」
 それがニカンドロスの答えだった。
 ニカンドロスの目に映るものが、その姿が、デイメンにはわかる。兵たちの目にも映っていたものが。ニカンドロスからの態度の変化にそれを感じていた。
 王。
 留め針は今やデイメンの手中にあり、そして、じきに旗頭たちが彼を王と仰いで忠誠を誓いに来る。もはやすべてが変わる。またたくほどの間にすべてを失いすべてを得る、それが王位につらなる王子の運命。
 デイメンはニカンドロスの肩をぐっとつかみ、言えぬ思いを、せめてそこにこめた。
「まるで壁のタペストリーのような姿ですな」
 ニカンドロスはデイメンの袖をつまみ、赤い天鵞絨ビロウドや紅玉の留め金、精緻に縫い付けられた襞をおもしろがっている。その時、凍りついた。
「デイメン……」
 そう、奇妙な声で彼を呼んだ。デイメンは見下ろす。そして見た。
 袖口がずり上がって、ずっしりと重い金の手枷があらわになっていた。
 火や刃にふれたかのようにニカンドロスが下がろうとするが、デイメンがその腕をつかんで引き止めた。ニカンドロスの頭の中をありえない思いが千々に駆けめぐっているのがわかる。
 乱れる鼓動の中、この流れを食い止め、立て直そうとした。
「そうだ」とデイメンは答えた。「カストールは俺を奴隷にした。ローレントが俺を解放してくれた。彼がこの砦の指揮権と兵を俺に預け、重用する義理などなかったアキエロス人を信じて託した。俺が何者かも知らずに」
「ヴェーレの王子があなたを解放した……」ニカンドロスが言った。「あの男の奴隷だったと?」
 その声はこもって、ごく低かった。
「ヴェーレの王子に、というのか?」
 またも一歩後退する。戸口から息を呑む音がした。デイメンはニカンドロスの腕を離し、身を翻した。
 戸口にマケドンが立ち、顔におののきを浮かべていた。その後ろにはストラトンと、ニカンドロスの兵が二人立っている。マケドンはニカンドロスに従う軍将であり、もっとも力ある旗頭だ。デイメンの父にかつて忠誠を誓ったように、ここにもまたデイミアノスへの忠誠を誓いに来ていた。全員の前で、デイメンはさらけ出され、立ちつくした。
 激しく赤面する。黄金の手枷にはひとつの意味しかない。。それももっとも親密な形で。
 彼らの見ているものがわかる——何百人もの奴隷たちの、己をさし出し、腰を曲げて足を開いた姿。それぞれの家中で奴隷を用いる際のなじみの光景。鍛冶職人に求めたデイメン自身の言葉がよみがえる。、こ。胸が苦しかった。
 意識を集中させて袖口の結い紐をほどき、袖をさらに押し上げた。
「何を驚く。俺は、ヴェーレの王子への贈り物であったのだ」
 肘から先を完全に剝き出しにした。
 ニカンドロスがマケドンへ向き直り、険しい口調で命じた。
「このことは他言ならぬ。この部屋の外に洩らしては——」
 デイメンがさえぎった。
「いや、これは隠せぬ」とマケドンへ告げた。
 父王の治世に仕えたマケドンは、北方の属州でも最大の軍勢を抱える将である。その後ろに立つストラトンはほとんど嘔吐しそうな嫌悪感を浮かべていた。さらに下級の二人の兵士は、己の身分では王の前で何をすることも——特にこの状況では——できず、床へ目を据えていた。
「あの王子の奴隷だったと?」
 拒否感が刻みこまれたマケドンの顔は青ざめていた。
「そうだ」
「あの男と——」
 マケドンの言葉は、ニカンドロスの目にある無言の問いを映していた。誰ひとり王に問うことのできぬ問いを。
「それを問うてみるか」
 デイメンの顔の紅潮が、その色を変える。
 マケドンがこもった声で言った。
「あなたは、我らの王だ。これはアキエロスにとって耐えがたき屈辱だ」
「耐えるがいい」デイメンはマケドンの視線を受けとめる。「俺は耐えたのだからな。よもや己は王より上だと?」
 、マケドンの目の中に抗いが見えた。当然マケドンは身辺に奴隷を抱え、自ら用いてもいるだろう。彼の思い描く王子と奴隷の関係というのは、なんの情緒もない単純な支配と屈服の図にすぎない。そんなことが王の身にあったならば、それは己の身に起きたも同然だと、自尊心が猛っていた。
「もしこのことが洩れれば、兵たちを御せるか、俺にはわからぬ」とニカンドロスが言った。
「すでに皆知っていることだ」
 デイメンは告げた。その返事にニカンドロスがたじろぎ、事態をはかりかねているのを見る。
 ニカンドロスが言葉を絞り出した。
「では我々は、どうすれば?」
「忠誠を誓うがいい」デイメンは答えた。「そして俺に仕えるならば、兵たちに戦仕度をさせよ」 


 ローレントと練った作戦は単純なもので、タイミングが肝心だ。シャルシーの地はヘレーのような平地ではなく、あのような見晴らしもない。シャルシーは盆地で、斜面に囲まれた罠の地であり、半ば森を背後にし、巧みに部隊を配したなら攻めてきた軍勢をたちまち押しつつむことができる。執政が甥と戦う地にシャルシーを選んだのもそのためだ。公平な戦いの名のもとにローレントをシャルシーへ招くのは、笑顔で流砂の向こうから手招きするようなものだった。
 だからこそ、ローレントとデイメンは軍勢を分けた。ローレントは二日前に発ち、北から執政の軍の背後に回りこむことで、こちらから逆に包囲を仕掛けるのだ。デイメンの部隊はその囮となる。
 デイメンは長い時間、手首の枷を見つめてから、演壇へと進み出た。枷は鮮やかな黄金色で、褐色の手首との対比でかなり遠くからもよく見えた。
 隠しはしなかった。腕甲も外した。アキエロスの胸甲と短い革の腰巻き、そして丈の長い、膝で留めたアキエロスのサンダルを履いている。両腕は剝き出しのままだ。膝から太腿の半ばまでも同じく。短い赤のマントを、金獅子の留め針で肩に留めていた。
 武装し、戦いに挑む姿で演壇へ進んだデイメンは、前に集った軍勢の一糸乱れぬ列と輝く槍を見やった。すべてがデイメンを待っている。
 手の枷を、皆の目にさらした。己の身をさらしているように。人々の囁きはもはや耳に慣れたものだった——死より蘇った。デイミアノス。デイメンは彼と向き合った軍が静まり返っていくのを見つめた。
 王子としての己を脱ぎ捨て、新たな役割を肌で受けとめ、新たな自分をまとう。
「アキエロスの民よ」
 デイメンの声が中庭へ響きわたった。赤いマントの列を見つめる。この瞬間が、手甲に手を通す一瞬のように、剣を取る一瞬のように感じられた。
「我が名はデイミアノス。テオメデスの真の息子だ。ここに、そなたたちの王として戦うために帰ってきた」
 どよもすような歓声が上がった。槍の石突きが地面を打ち鳴らす支持の音。デイメンは人々の拳が突き上げられ、歓声が上がるのを見た。兜の下で無表情のマケドンの顔もちらりと見えた。
 デイメンは鞍へひらりと飛び乗った。ヘレーで騎乗したのと同じ馬だ。鹿毛の大きな去勢馬でデイメンの重みに充分耐える。馬は丸石敷きの床を前足の蹄で打ち鳴らし、まるで石をめくろうとするかのようにしながら首をそらし、賢い獣の本能でまさに戦争の気配を嗅ぎとっているようだった。
 角笛が鳴りわたる。戦旗が掲げられた。
 不意に、大理石のかけらを階段に蒔くような固い音が鳴って、よれよれのヴェーレの青服姿の小さな一群が馬で中庭へ駆けこんできた。
 グイマールの姿はない。だがそこにはジョードとヒューエットがいた。ラザールも。面々を見回し、デイメンは誰が駆けつけたのか悟る。それは王子の近衛たち、一月以上にわたってデイメンと旅路をともにしてきた男たちだった。そして彼らが監禁を解かれた理由はただひとつ。デイメンが片手を上げてジョードを通させると、二人の馬はぐるりと互いを回った。
「我々も共に戦う」とジョードが告げた。
 中庭の赤い列の前にこうして集った小さな青い一隊を、デイメンは見やる。人数は少なく、たった二十名。ジョードが皆を説得したのは明らかだった。だから馬に乗り、覚悟を決めてここへ来たのだ。
「ならば行こう」とデイメンは答えた。「アキエロスのため、そしてヴェーレのために」


 シャルシーが近づくと周囲の見通しは悪くなり、尖兵や斥候の報告だけが頼りとなった。執政の軍は北と北西から接近してきていた。デイメンたちの軍勢は、囮として、不利な低い位置取りとなる。こんな悪条件での戦いに、切り札がなければ兵を送りこんだりはしない。接近戦となる流れだ。
 ニカンドロスは不服だった。シャルシーに近づくにつれ、アキエロスの将軍たちはどれほど不利な地勢なのかを目の当たりにしていた。仇敵を誘いこんで仕留めるにはぴったりの地だ。
 信じろ——ローレントはそう言い残して発った。
 ラヴェネルの砦で二人で練った策を脳裏へ描く。デイメンの軍勢が執政側の注意を引きつけ、完璧な瞬間を狙ってローレントが北から襲いかかるのだ。デイメンはその時を待ち望んでいる——激しい戦いを、執政を戦場に引きずり出して追いつめる瞬間を。あの男の治政をたったひとつの戦いで打ち砕くのを。それさえできれば、約束を果たしさえすれば。そうすれば——。
 隊列を整えるよう命じた。じきに矢が飛んでくる。まず手始めに、北から矢の雨が降るだろう。
「まだ待て」
 そう命じた。あたりは足元が不安定で先の見えない危険な斜面で、木立にふちどられている。空気には、戦いに臨む寸前のひりつくような予兆がみなぎっていた。
 遠く角笛の音。「抑えよ」とデイメンは、身じろぎする馬上でまた命じた。反撃の前に、まず彼らは執政の部隊を平地に引きずり出し、引きつけて、ローレントの部隊が包囲できるようお膳立てしなければならない。
 だというのに西側の陣が動き出すのが見えた。早すぎる動きは、マケドンの号令を受けてのことだ。
「呼び戻せ」命じながらデイメンは馬の腹に踵を強く入れた。マケドンの脇で手綱を引き、小さく回頭する。マケドンが、将が子供に向けるような不遜な目をじろりと向けた。
「我々は、西へ動きます」
「待てと命じた筈だ」デイメンは応じた。「我々はまず執政軍を引きつけ、おびき出す」
「それをやって、たよりのヴェーレの奴らが来なければ我々は全滅です」
「彼は来る」
 デイメンは答えた。
 北から、角笛の音。
 執政の軍が近づきすぎている。それもあまりにも早く。斥候からの報告もないうちに。何かがおかしい。
 左手側に動きが生じ、森から何かがとび出してきた。北側からの敵襲が、斜面を駆け下り木々の間から迫りくる。その先頭を駆けているのは単騎の騎手で、全力で草地へ駆けこんだ斥候だった。執政の軍勢が彼を追い、そして、この戦場から届くかぎりの範囲にローレントの軍はいない——ローレントはここへ来るつもりはない——。
 そう叫びを上げる斥候の背に、矢が突き立った。
「これでヴェーレの王子の正体がわかりましたな」とマケドンが言った。
 判断を迫られたデイメンに悩む時間はなかった。号令をとばし、混乱が広がらないよう抑えながら、第一射の矢が降る中、新たな状況での兵数と配置を脳内で再計算する。
 彼は来る、とデイメンは言った。それを信じてもいた。最初の攻撃が襲いかかり、周囲で兵たちが倒れはじめてもなお。
 それはどす黒い疑惑の策——奴隷を言いくるめ、アキエロス軍を執政の軍にぶつけてやればいい、それで自軍のかわりに敵同士が戦ってくれる。死ぬのは憎い連中だけだ。執政の勢力は打ち倒されるか力を削がれ、ニカンドロスの軍勢はほぼ壊滅する……。
 北西から第二陣の猛烈な突撃を受け、やっとデイメンは、自分たちが完全に孤立しているのだと悟った。
 いつの間にかジョードが隣にいた。デイメンは声をかける。
「生きのびたければ東へ向かえ」
 青ざめたジョードが、デイメンの表情を見て言った。
「あの人は来ないんだな」
「我々は数で劣る」デイメンは言った。「だが馬を走らせれば、まだお前は命拾いできるかもしれない」
「数で劣るならお前はどうする気だ?」
 デイメンは前衛で戦うべく腹を決めて馬を一気に走らせた。
「戦う」と言い切って。


■第二章


 ローレントは、ゆっくりと目覚めた。ぼんやりとした薄闇の中、縛られているのを感知しながら。両手が後ろ手にくくられていた。後頭部にうずく痛みから、頭を殴られたのだとわかる。肩にも不都合で厄介な問題があった。関節が外れている。
 睫毛を揺らし、身じろぎしながら、ぼんやりとよどむ臭気に、そして肌寒さに気付いた。この湿気は、地下だろう。知性がさらに状況を分析する——待ち伏せを受け、今いるのは地下、そして幾日も運ばれたような感覚も体に残ってない以上、ここは——。
 目を開くと、ゴヴァートの鼻のつぶれた顔が彼を見つめていた。
「よお、お姫様」
 恐慌に心拍数が勝手にはね上がり、肌の内で血がドクンと脈打つ。そこにとらわれたかのように。ごく慎重に、ローレントは己のあらゆる反応を殺した。
 そこは三メートル四方ほどの独房で、鉄棒のはまった出入口だけで窓はない。縦格子の扉の向こうに石の通路がちらついて見えた。ちらつきは扉横のたいまつの火の揺らぎだ、頭を打ったせいではない。独房の中は、自分が縛りつけられている椅子のほかは何もなかった。その椅子は重い樫材で、どうやらローレントのためにわざわざ持ちこんだらしく、温情ととるか悪意ととるかは解釈次第か。たいまつの灯りで床に厚く積もった汚れが見えていた。
 自分の兵たちの身に何が起きたか、その記憶が押し寄せたが、ローレントは意志の力でその衝撃を心からしめ出した。自分がどこにいるのかはわかっていた。フォーテイヌの砦には地下牢があるのだ。
 己の死がすぐ目の前に迫っていることも、その死が訪れるまで延々と苦痛が続くだろうということもわかっていた。救いの手が来はしないかと子供じみた下らない希望が芽生えたが、丹念に押しつぶした。十三歳の時から、味方などどこにもいなかった。兄が死んでからは。この状況でどこまで尊厳を保ち続けられるだろうかと思い、その迷いも振り捨てた。尊厳などこの先にはない。あまりにも悲惨なことになれば自ら終わりを早めることくらいはできるだろう、と思った。ゴヴァートを挑発し、致命的な一撃を誘うのは難しくなかろう。まったく。
 オーギュステなら恐れまい、と思った。己を殺そうとする男と二人きりで、無力な状態に置かれても。ならば、その弟もここで恐れを抱いてはなるまい。
 それよりも難しいのは、戦いの帰趨を断念することだった——計画半ばで、すでに機は失われて国境で今何が起きようが自分には何もできないと、それを受け入れ、あきらめることが。あのアキエロスの奴隷はヴェーレ軍に裏切られたと——当然——信じ、それでもシャルシーの地で高潔かつ自滅的な突撃に打って出て、しかもおそらく勝ってのけただろう。あきれるほどの兵力差をものともせず。
 ローレントのほうは、負傷して縛られているという点さえ無視すれば、あくまで一対一だからそう悪くはない。ただし、ここにも叔父の見えない操りの手がのびているのを感じていた。わかるのだ、いつも。
 一対一。現実的な選択肢を考えねば。調子が最高の時でもゴヴァートに格闘で勝つのは不可能だ。しかも今は肩の脱臼がある。ここで縛めを振りほどこうと抗っても、何ひとつ益はない。己にもそう言い聞かせる。一度。さらにもう一度、もがきたがる本能をなだめた。
「二人きりになれたなあ」とゴヴァートが言った。「俺と、あんた。見てみろよ。周りをよく見ろ。出口はねえぞ。鍵は俺も持ってないからな。てめえを片付けたら鍵を開けに人がやって来るんだよ。ほら、何か言いたいことはないのか?」
「肩の傷は痛むか?」
 ローレントは言葉を返した。
 一撃に、体が後ろへ揺れた。頭を上げたローレントは、ゴヴァートの顔に引きずり出せた表情を楽しむ。同じ理由でこの一撃すらも——やや被虐的にではあるが——楽しんでいた。それを目から隠し切れなかったせいで、もう一発殴られた。この発作的な衝動を抑えねば、たちまち時間切れになってしまう。
「ずっと、お前が叔父のどんな弱みを握っているのか不思議でならなかった」ローレントは話しかけた。意識して声を平坦に保つ。「血のついたシーツに署名入りの告白あたりか?」
「てめえは俺を馬鹿だと思ってるんだろ」とゴヴァートが言う。
「お前が圧倒的な権力を持つ男の弱みを何かひとつ握っている、とは思っている。そしてあの男のどんな急所をつかんでいたところで、それがもう長くはもつまいとも思っている」
「てめえはそう思いたいんだろ」ゴヴァートはすっかり悦に入った声だった。「てめえがどうしてここにいるのか、教えてやろうか? 俺がたのんだんだよ。俺がたのめば、あの人はくれるのさ。ほしいものは何でもな。たとえ高貴な甥っ子だろうと」
「まあ、叔父にとっては邪魔者だからな」ローレントは応じた。「それはお前も同じだ。だからこうして一緒くたにされたのだ。こうしておけばどちらか片方は片付く」
 声に余分な感情をこめず、ただ事実だけを淡々と指摘するよう努めた。
「問題はだ、叔父が王となったあかつきには、どのような弱みももはや無意味だということだ。ここで俺が死ねば、お前が叔父の何を握っていようがもはや価値はなくなる。残るのはお前と叔父だけで、いつでもお前を暗い独房に放りこんで忘れてしまえる」
 ゴヴァートがニヤリとした。ゆっくりと。
「言われたよ、あんたがそう言い出すだろうって」
 第一のつまずき。それも自ら招いた。心臓の鼓動が自分で感じられる。
「叔父は、ほかにどんなことを言われるだろうと言っていた?」
「言ってたよ、あんたが俺をしゃべらせようとするだろうとな。淫売みたいに口がうまいからってな。言ってたよ、でたらめを並べて俺をそそのかし、おだて上げようとするだろうって」
 ゆっくりとした笑みが、さらに広がった。
「これも言ってたよ、甥が達者な口で縄を解かせようとするのを防ぐには、舌を切り落とすしかないってな」
 そう言いながら、ゴヴァートは短剣を引き抜いた。
 ローレントの周囲で部屋が暗く沈んだ。すべての意識が一点に集中し、思考が狭まっていく。
「それでも、お前は聞きたいのだろう」
 ローレントは応じた。なにしろこれはまだ始まりにすぎない、終わりに向かう、長くねじくれた、血まみれの道の第一歩。
「お前は残らず聞きたい筈だ。最後の一息まで余さず。ひとつ、お前という男のことで、叔父が見落としていることがある」
「ほう? そいつは何だ?」
「お前はいつでも扉の中に、こちら側に来たいと思ってきた」とローレントは答えた。「そして今、ついにそこに来た」


 次の一時間がすぎる頃には——もっと長く感じたが——ローレントはひどい苦痛にさいなまれ、もはや成り行きをどれくらい思いどおりに操り、引きのばせているのか、把握も難しくなってきていた。そもそも操れているのかどうかすら。
 今やシャツは腰まではだけられ、だらりと垂れて、右袖は赤く染まっていた。髪には汗がまとわりついてひどくもつれている。舌は無事だ、短剣の刃は肩に刺さっている。それを勝利と数えたのだった、その時には。
 小さな勝利に大きな達成感を見出していくしかないものだ……短剣の柄が、おかしな角度で突き出ている。右肩だ。すでに脱臼もしている。おかげで呼吸も苦しい。勝利。ここまでたどりつき、叔父を多少なりとも慌てさせ、予定を狂わせて、計画を練り直させた。簡単には思いどおりにさせなかった。
 外界とローレントを分厚い石壁が隔てている。まるで何ひとつ聞こえてこない。こちらの声も届くまい。ただひとつの有利は、左手をなんとか縄から自由にしたということだけだ。悟られてはならない、それでは無意味だ。ただ腕をへし折られて終わる。己の行動を律するのが段々と苦しくなっていく。
 ここに何の音も届かない以上、ローレントの——少なくとも頭が回っていた頃の——推論によれば、彼とゴヴァートをこの独房へとじこめた人間が、いずれ死体を運び出す袋と手押し車を持ってやって来る筈だ。それも、ゴヴァートに合図を送る手だてがないからには、あらかじめ決めた頃合いに。すなわちローレントが目指すものはひとつ、まるで遠ざかる蜃気楼を追うように、その時まで——生きのびるだけ。
 足音。近づいてくる。鉄の蝶番がきしむ金属音。
 グイオンの声がした。
「まだ片付いていないのか」
「血がお嫌いかい?」ゴヴァートが応じた。「まだ始まったばかりさ。何ならそこで見ていけよ」
「グイオンは知ってるのか?」とローレントは言った。
 この時間が始まる前より、声は少しかすれていた。苦痛にありきたりな反応ばかりしてきたせいだ。グイオンは眉をひそめていた。
「知ってるかとは、何を?」
「例の秘密だ。すてきな秘密。お前が握る叔父の弱み」
「黙れ」とゴヴァートがうなった。
「一体何の話をしているのだ?」
「お前は何故かと思ったことはないのか」ローレントはグイオンへ言った。「どうして叔父上がこの男を生かしておくのか。どうしてワインと女に好きに溺れさせているのか」
「その口をとじろと言ってんだよ」
 ゴヴァートが短剣の柄を握り、ぐいとひねった。
 暗黒がはじけるように広がり、ローレントの耳にはその先のやりとりがぼんやりとしか届かなかった。グイオンの、居丈高な声が遠く、小さく聞こえる。「今の話は何だ? お前と陛下の間に何かひそかな取り決めがあるのか?」
「首をつっこむな。あんたにゃ関係ねえよ」
「そのような取り決めがあるならば、ここで私に明らかにせよ。今すぐ」
 ゴヴァートが短剣を離したのを感じた。己の手を持ち上げるのは、ローレントの人生で二番目に困難なことだった。まず頭を上げて。ゴヴァートがグイオンにつかつかと迫り、グイオンの前をふさいでいる。
 ローレントは目をとじ、たよりない左手で短剣の柄を握って、肩から引き抜いた。
 こらえきれず、口から低い呻きがこぼれていた。二人の男たちが振り向いた時、ローレントはおぼつかない両手で縛めをすべて切り払い、よろりと椅子の後ろへ立っていた。左手で短剣を握り、今の体で精一杯できる守りのかまえをとる。部屋が揺れているようだ。短剣の柄がぬるつく。ゴヴァートが愉快そうにニタリと、やっと少しおもしろいものを見たと言いたげな、すれた笑みを浮かべた。
 グイオンはやや苛立ちつつも、まるで焦りの色はない声で命じた。
「さっさと取り押さえろ」
 二人は向き合った。ローレントとしても、自分の左手の短剣使いに期待などしていない。己がゴヴァートにとって、たとえまっすぐに立っていられる日でも、いかにとるに足らぬ脅威かはわかっている。良くて、迫ってくるゴヴァートにかすり傷を浴びせるのがやっと。何の意味もない。ゴヴァートの体はみっしりと筋肉に包まれた上にさらに脂肪がのっている。自分より弱い、しかも衰弱している相手の一撃などものともせずに戦いつづけるだろう。この、自由へのわずかなあがきの結末は明白だ。ローレントはそれをわかっていた。ゴヴァートもわかっていた。
 ローレントは左手でぎこちなく斬りつけ、ゴヴァートは猛然と反撃した。そして事実、経験したことのない激痛に叫びを上げたのはローレントであった。
 まともに動かぬ右腕で椅子を振り上げ、叩きつけながら。
 重い樫の椅子がゴヴァートの耳を直撃し、木槌で木の球を強打したような衝撃音が響いた。ゴヴァートの体がふらりと揺れ、崩れた。ローレントも半ばよろめき、椅子を振り回した勢いのまま房の中でたたらを踏んだ。行く手にいたグイオンが必死で逃げ、壁に背でへばりつく。なけなしの力を振り絞り、ローレントは格子扉へたどりついて外へ出ると、扉を引いて閉じ、鍵穴に刺さったままだった鍵を回した。ゴヴァートは起き上がらない。
 続く静けさの中、どうにか扉から離れて通路へと、向こうの壁へ向かい、その壁にもたれてずるずると崩れ落ちた。受けとめられて、木の長椅子があったのに気付く。てっきり床が待っているものだと。
 目をとじた。意識のすみでぼんやりと、グイオンが牢格子を引き、ガタガタと鳴らしたが、扉がびくともしないのを聞いていた。
 その時になって、笑い声を立てていた。背中に甘く冷たい石の感触を感じながら、息の切れた音で。頭をぐったりと石壁にもたせかけた。
「——このような真似は許さんぞ、この唾棄すべき叛逆者が。お前は王家の名に泥を塗り、その上——」
「グイオン」とローレントは目も開けずに言った。「お前は俺を縛り上げてゴヴァートと同じ部屋に放りこんだのだぞ。罵倒された程度で気に病むと思うか?」
「出してくれ!」
 その叫びが壁にこだました。
「それは俺も言った」とローレントはおだやかに指摘した。
「何だろうとほしいものは渡すから……」
「そんなことも言ったな。自分をありきたりな人間だとは思いたくないものだがな、どうやらありがちな反応をひとつずつやっていたものと見える。この短剣を突き立てたらお前が何と言うか、それも今のうちに教えてやろうか?」
 目を開けた。グイオンが一歩、思ったとおり格子扉から下がっていた。
「それにしても、武器がほしいとは思っていたが」とローレントは呟いた。「そっちからわざわざ入ってきてくれるとはな」
「ここから出られてもお前には死が待つだけだ。アキエロスの味方にも助けてはもらえないぞ。お前が何もしなかったせいで、あの連中はシャルシーの罠で鼠のように殺されているのだからな。奴らはお前をあぶり出して」とグイオンが言った。「殺す」
「ああ。約束に間に合わなかったのは承知している」
 通路が明滅した。炎のせいだと、自分に言い聞かせねばならなかった。己の声にどこか夢見るような響きが聞こえた。
「あそこに行って、ある男と落ち合う筈だった。信義や礼節というものにやたらこだわる男でな、俺にも道に外れたことをさせまいとするのだ。だが今、ここにあの男はいない。お前にとって不幸なことに」
 グイオンはまた後ずさった。
「私の身に、何もできぬだろう」
「どうかな? お前がゴヴァートを殺して王子の逃亡を助けたと聞いたら、叔父上はどうなさるかな」そして同じ夢見るような声で「お前の家族を罰するかな?」
 グイオンの両手は拳に握られていた。まるでまだ扉の鉄棒を握っているかのように。
「逃亡の手助けなどしていない」
「そうだったか? ならどこから出た噂だろうな?」
 ローレントは格子ごしにグイオンを眺めた。さっきまで一つの目的だけに集中していた己の頭の中に、いつもの分析能力が戻ってくるのを感じる。
「とにかく、まざまざと明らかになったのはこういうことだ——お前は、王子を捕えたならばゴヴァートに与えよと叔父から命じられていたのだな。うかつな一手だが、なにせ叔父にはどうしようもない、ゴヴァートとの秘密の取引があるからな。あるいはこの手がお気に召したのかもしれんが。そしてお前は、叔父の言いなりになった」
 ローレントは続けた。
「だがお前にとっても、王太子を死ぬまで拷問するというのはさすがに自分の名を冠したい行為ではなかったのだな。今さらどうしてかはわからぬが。ここまでのことを鑑みるとじつに信じがたいが、この元老の中にも、まだわずかなりと良心が残っていたということか。王子は無人の独房に放りこまれ、そこにお前が自ら牢の鍵を持ってきてくれたのだ。俺がここにいることは、お前以外に誰も知らなかったのだから」
 左手を肩に当て、ローレントは立ち上がると壁際から前へ出た。牢獄の中のグイオンは浅い呼吸をくり返していた。
「俺がここにいることは誰も知らない、すなわちお前がここにいることも誰も知らない。探しに来る者はいない。ここには。誰も、お前を見つけられはしない」
 格子ごしにグイオンのまなざしを受けとめながら、ローレントの声は揺らぎがなかった。
「お前の家族を救う者はいない。叔父上が優しい顔でやってきた時に」
 格子向こうのグイオンの顔は歪んでいた。その表情のこわばりが、顎と目のまわりの引きつりが見える。
 ローレントは待った。
 その言葉はさっきまでとは違う声で、違う温度で、抑揚なく放たれた。
「何がお望みで?」とグイオンが聞いた。


■第三章


 デイメンは広大な戦場を見やった。執政の軍勢は真紅の奔流であり、アキエロスの陣にくいこんで両軍混ざり合い、血の流れが水を染めていくかに見えた。その全景はまさに破滅の図、尽きることのない敵の渦。まるで雲霞のごとく。
 だがデイメンはかつてマーラスで目撃したのだ、たったひとりの男によって戦線が持ちこたえた光景を。まさに意志の力ひとつで。
「王子殺し!」
 執政の兵が絶叫した。はじめのうちヴェーレ兵たちはデイメンめがけて次々と突進してきたが、彼らの末路を目にした兵たちは今や後ずさり、馬の蹄が地を乱れ打った。
 そう遠くへは逃さず、デイメンの剣が革を、肉を切り裂いた。力の中心を探して叩き壊し、陣の形になる前に潰していく。ヴェーレの指揮官が立ちはだかり、デイメンと剣を一合、音高く打ち合わせはしたが、すぐさまその首にデイメンの刃が沈んだ。
 兜に半ば覆われた顔が次々と、無機質に目の前を流れていく。むしろデイメンの意識は馬や剣という、命とりになる危険に集中していた。デイメンは殺しつづけ、相手はただ道をゆずるか、さもなくば命を失っていった。すべてがただひとつの目的に収束する——力と気力を人の限界を超えて絞り出す。何時間でも、ただ敵より長く。わずかでも判断を誤れば死ぬ。
 第一の敵襲で、率いていた兵の半分を失った。その後はデイメンが先頭に立って攻め込み、相手の進撃をくいとめるのに充分な兵を倒してきた。第二撃——第三撃をも。
 今ここに活力みなぎる援軍が到着したなら、まるで生後間もない子犬のようにたやすく敵をひねり潰せただろう。だがデイメンたちに援軍は来ない。
 戦いのほかにデイメンの心に何かあるとすれば、いつまでもまとわりつく不在の感覚だった。冷然としながらも冴えた剣の一閃、横にいた鮮やかな存在が、今はただぽっかりと空虚な空間で、ニカンドロスのもっと堅実で実直な剣がその半ばを埋めている。かりそめでしかなかったものに、いつしかなじんでいたのか。たとえば一瞬視線を見交わした時、青い目の中に閃く昂揚感に。すべてがデイメンの中で渦巻き、きつく絡み合って、次々と相手を倒していきながら、固く凝っていく。
「もしヴェーレの王子がのこのこやってきたらぶった切ってやる」
 ニカンドロスがほとんど吐き捨てた。
 矢の飛来はかなり減っていた。デイメンが相手陣に深く切りこんだために敵味方が入り乱れ、矢を放てばもはや味方も危うい。音も最初とは変化し、雄たけびや絶叫は苦痛や疲弊の呻きに、喘ぐような嗚咽に変わり、剣が打ち下ろされる音も、重く切れ切れだった。
 死の時間だ。戦闘は最終局面を迎えつつあった。誰もが精根尽きた無惨な時間帯。戦列は混沌と崩れ、陣形は失われ、酷使してきた肉体がぶつかるばかりで敵味方の区別すら難しい。デイメンは馬上で持ちこたえた。分厚く積み上がった死体が地面を覆い、馬の足を取ろうとする。土はぬかるみ、デイメンの膝上まで泥がとぶ——雨のない夏の泥、血だまりの泥だ。傷つきもがく馬の悲鳴が、男たちの叫びを圧してほとばしった。デイメンは周囲の兵たちをまとめ、敵を殺し、肉体の限界を超え、理性の限界を超えて己を酷使しつづけた。
 戦場の彼方にちらりと、刺繍で飾られた緋色が見えた。
〈アキエロスの勝ち方だ、違うか? どうしてわざわざ軍勢すべてと戦う、頭ひとつ切り落とせば——〉
 馬に強く拍車を入れ、デイメンはとび出した。目標までの間に立つ人々はもはや霞にすぎない。己の剣戟の音もほとんど耳に入らず、ヴェーレの親衛隊の緋色のマントもほとんど意識すらせず斬り倒した。一人また一人と殺していく。目当ての男の前に立つ邪魔者が尽きるまで。
 デイメンの剣が圧倒的な力で宙を裂き、兜の冠をかぶった男を両断していた。男の体は不自然に傾き、どっと地に倒れた。
 デイメンは馬から下り、男の兜をむしり取った。
 執政ではなかった。知らぬ顔だ。ただのお飾りの傀儡。命なき目は見開かれ、ここにいる皆と同じく戦いに呑まれたままだ。デイメンはその兜を放り捨てた。
「終わった」ニカンドロスの声。「もう終わりだ、デイメン」
 デイメンは茫然と顔を上げた。ニカンドロスの鎧は胸に剣を受け、裂け目に血がにじみ、胸当てを失っていた。少年時代の呼びかけを、ニカンドロスは使っていた。幼名、それも親しき仲のみの。
 デイメンは自分が膝をついていることに気付いた。馬も彼も、荒々しく胸で息をしている。手は死んだ男の服の紋を握りこんでいた。まるで虚ろを握っているかのようだった。
「終わり?」
 絞り出すように言った。頭にあるのは、執政がまだ生きているなら何も終わってなどいないということだけだ。瞬時の反射に、攻撃と反撃だけにあまりにも長く没入していたせいで、なかなか思考が戻ってこない。己を取り戻さねば。周囲で兵たちが武器を捨てている。
「……勝利がどちらのものなのかも、俺にはまるでわからん」
「我らの勝利だ」とニカンドロスが告げた。
 ニカンドロスの目には前と異なる光があった。戦地の惨状を見回したデイメンは、兵たちが遠巻きにデイメンを凝視していることに気付いたが、彼らの顔にもニカンドロスの目にあるのと同じ表情が宿っていた。
 そして感覚が戻ってくるにつれ、初めて見るかのごとく見えてくる——デイメンが執政の替え玉にたどり着くために殺した兵たちの死体が、そしてそれ以上に、己の手でしたことの痕が。
 あたりの地面は崩れた土塁のごとく乱れ、死骸に覆われていた。大地は人の肉が、もはや用無しの鎧が、乗り手を失った馬たちが散らばる酸鼻の地であった。何ひとつかまわず、数刻にもわたって殺しつづけて、その規模など意識すらしていなかった。自分が作り出した光景も目に入っていなかった。瞼の裏に自分が殺してきた男たちの顔がちらつく。もはや立っている者はアキエロス兵ばかりだ。そして彼らはデイメンのことを、信じがたい存在のように見つめていた。
「生き残った中から一番身分の高いヴェーレの指揮官を探し、死者を自由に弔うよう伝えよ」
 近くの地面にアキエロスの旗が落ちていた。
「シャルシーは、これでアキエロスのものとなった」
 立ち上がり、デイメンは木の旗竿を握りしめると、地面に突き立てた。
 旗は裂けて半ば損なわれており、こびりついた泥の重さで斜めに傾いたが、持ちこたえた。
 そしてその時、デイメンは見た。まるで夢を見ているかのように、疲労にかすんだ景色の向こう、戦場の西端に現れたものを。
 使者が白く輝く、すらりと首がのびた雌馬にまたがり、馬は尾を高くなびかせて、無惨な大地をゆるやかに駆けてきた。美しく清らかな姿は、地面に倒れ伏した勇敢な男たちの犠牲を嘲笑うかのようだ。使者の旗は後ろへたなびき、その旗にある紋章は青地に輝く金の、ローレントの星光の紋章であった。
 使者がデイメンの前で手綱を引いた。デイメンはその白馬の艶光る毛並みを、息も切らさず、汗の黒ずみも泥もついていない馬体を見つめ、それから使者の役服を、染みひとつ、道の埃ひとつない姿を見つめた。喉の後ろにせり上がってくるものがあった。
?」
 使者の背が地面を打った。デイメンはその体を馬から引きずり落とし、呆然と息を失う使者の腹に膝を食いこませていた。首にデイメンの手がかかる。
 デイメン自身の息も荒かった。周囲ですべての剣が抜かれ、すべての矢に弓がつがえられている。手に一度力をこめてから、相手が話せるほどにゆるめた。
 使者は自由になると、横倒しになって咳込んだ。上着の内から何かを取り出す。羊皮紙だ。たった二行、文字が記されていた。
〈そなたはシャルシーを、私はフォーテイヌを勝ちとった〉
 デイメンはその言葉を、なじみのある、見違えようのない筆致を見つめた。
〈砦にて待つ〉


 フォーテイヌの砦はラヴェネルすらかすむほどの威容と美しさで、高々と塔がそびえ、狭間の形が空を切り取っている。まっすぐ、信じがたい高みへのびた塔のあらゆるところからローレントの旗が翻っていた。青と金で縫い取られた絹の三角旗は、ごく軽やかに宙へ舞い躍るように見えた。
 デイメンは丘の頂上で手綱を引いた。彼の後ろに付き従った軍勢は旗と槍が入り混じる、黒くにじんだ影のようであった。戦闘が終わるか終わらないかのうちに出立を命じたデイメンの命令は過酷なものだった。
 シャルシーで戦った三千人のアキエロス兵のうち、やっと半ばに足る人数が生き残った。戦地まで馬を走らせ、戦って、そこをまた発った一群。守備隊ひとつのみを、死体と散乱した鎧と持ち主を失った武器の片付けに残して。ジョードと、共に戦ったほかのヴェーレ兵たちは小さな集団となってデイメンについてきたが、どうするべきかわからず不安げだった。
 すでにデイメンは死者の総数を報告されていた。自軍からは千二百人、そして敵方には六千五百人の死者。
 戦闘が終わってからというもの、兵たちの態度が変わり、通りすぎるデイメンを遠巻きにしているのはわかっていた。兵たちの顔には恐れと、畏怖に呑まれた表情があった。ほとんどの兵がデイメンと共に戦うのは初めてだ。何を見せられるかわかっていなかったのかもしれなかった。
 そして今、彼らはここに立った。皆、戦場の泥と汗にまみれたまま、傷つき、いくばくかの者はただ軍律に従わんと力の限界を振り絞って、ここに着いた。彼らを出迎えた光景を見るために。
 フォーテイヌの城外では先尖りの天幕が色とりどりの列となって無数に並び、その構造物を、旗を、優雅な野営地を、陽が燦然と照らしていた。まるで天幕の町だ。そしてその陣にいるのは無傷で活力に満ちたローレントの兵たち、この朝、戦いも死にもしなかった者たち。
 あえての、わざとらしい傲慢さの誇示であった。それはこう言っていた。ごく麗しい形で——シャルシーでの奮闘ご苦労だった、こちらは爪の手入れをしながら待っていたぞ、と。
 ニカンドロスも手綱を引いた。
「叔父とよく似た甥ですな。己の代わりに人をけしかけて戦わせる」
 デイメンは黙っていた。胸にくいこむ、怒りのような熱があった。優美な絹の町を見つめ、シャルシーの地で死んでいった兵たちを思った。
 迎賓団のような一行が馬で近づいてきた。デイメンは血まみれで裂けた執政の旗を手に握りしめた。
「一人でいい」
 馬に踵を入れる。
 平地を半ばまで来たあたりで、迎賓団と向き合った。使者はさらに四人の不安げな付添いを従えており、彼らはなにやら儀礼の手順を踏むようせっせと訴えていた。デイメンは肝心のことだけを聞きとると、告げた。
「問題ない。俺が来ると、もう彼は知っている」
 野営地の中へ入ると馬をとび下り、通りすがりの召使いに手綱を放って、デイメンの到着に慌てふためく周囲と必死で追いすがる使者たちは無視した。
 手甲すら外さず、デイメンは天幕へ向かった。この高襞で仕立てた天幕を知っている。星光の三角旗を知っている。
 誰も逆らわなかった。天幕へたどりついたデイメンが入り口に立つ衛兵へ「去れ」と命じた時でさえ。従うべきかを確認もせず、衛兵はデイメンが通るのを許した。当然だ——なにもかも計算ずくなのだ。ローレントはすでに待ちかまえている。デイメンが使者におとなしく従って来ようと、こうして戦場の泥と汗にまみれ、すぐに拭えぬようなところまで血に汚れたままの姿で押しかけてこようと。
 入り口の幕を片手でからげ、デイメンは中へ踏み入った。
 幕が背後でとじると、絹に完全に包まれていた。高々とした天幕の中、デイメンの頭上は花弁のごとき天蓋に覆われ、それを六本の、絹を螺旋に巻きつけた竿で支えている。この大きさにもかかわらず隙間ひとつなく、入り口の幕がはらりと戻ると、それだけで外の音を断ち切った。
 ローレントは、デイメンを迎える場所としてここを選んだ。デイメンはしっかりと見極めようとした。低い椅子、クッションなどいくつかの調度品があり、奥にある架台のテーブルからたっぷりとした布が垂れ、そこに砂糖漬けの梨とオレンジをのせた平鉢が置かれていた。これから糖菓でもつまみながら歓談するかのように。
 テーブルから視線を上げたデイメンは、天幕の支柱に片方の肩をもたせかけてこちらをじっと見ている、完璧な正装の姿へ目を据えた。
 ローレントが言った。
「ようこそ、愛しの恋人よ」
 これは簡単にはいきそうにない。
 デイメンはそれを受けとめようとした。すべてを無理にでも呑みこもうと。そして前へ出ると、美麗な光景の中心に全身武装した姿で立ち、繊細な刺繍の絹を泥足で踏みつけにした。
 執政の旗をテーブルの上に放り投げる。泥と汚れた絹布がガタンと音を立てた。それからローレントへ目を戻す。彼の姿に、ローレントが何を見ただろうかと思った。以前と同じには見えまい。
「シャルシーは、勝った」
「だろうな」
 デイメンはどうにか息を続けた。
「兵たちはお前を憶病者だと思っている。ニカンドロスはお前に謀られたと思っている。シャルシーに我々を送りこみ、叔父の剣にかかって死ぬにまかせたと」
「それで、お前もそう思うのか?」
「いいや」デイメンは答える。「ニカンドロスはお前を知らない」
「お前は知っているわけか」
 デイメンはローレントの立ち姿を、注意深く保たれた姿勢を眺めた。ローレントの左手はまだ何気なく天幕の支柱にもたせかけられている。
 ゆっくりと、デイメンは前へと進み出ると、ローレントの右肩をつかんだ。
 何も起こらなかった。その瞬間は。デイメンは手に力をこめ、親指をくいこませた。強く。ローレントの顔色が引いた。ついに、彼は言った。

 デイメンは手を離した。ローレントはさっと下がって肩を押さえており、青い上着の肩口が黒ずみつつあった。血が、手当てされたばかりの隠された傷からあふれ出し、ローレントはデイメンを見つめていた。奇妙に見開かれた瞳で。
「お前は誓いを破りはしない」デイメンは、胸のつかえをこらえて言った。「たとえ、俺にすら」
 無理に、後ろへと下がった。その動きを許すだけのたっぷりとした広さがある天幕で、二人の間に四歩の距離を取る。
 ローレントはすぐには答えなかった。まだ肩を、血が絡みつく手で押さえていた。
 ローレントが言った。
「お前にすら?」
 デイメンはローレントから目をそらすまいとした。真実が胸に重く根を張っている。二人ですごしたあの一夜のことを思った。ローレントがすべてをデイメンにゆだねたことを、目の色を深めて、無防備な姿を見せたことを。そして執政のことを、人を壊すすべを知り尽くしたあの男のことを思った。
 天幕の外では、二つの軍隊が戦争の寸前にいる。その一瞬はついに訪れて、もはやデイメンに止めるすべはない。執政からしきりにそそのかされたことを思い出していた。甥と寝ろ、と。デイメンはその言葉どおりにした。ローレントを求め、ついに腕に抱いた。
 シャルシーの戦いなど執政にとってどうでもよかったのだと、今はわかっている。意味などなかった。デイメンこそが、執政がローレントに向けた真実の武器だったのだ。はじめから。
「ここへは、俺が何者であるのかを明かしに来た」
 あまりにも目になじんだローレントの姿。髪の色合い、きつく締め込まれた衣裳、固く冷酷なまでに引きしめられた美しい口元、非情なほど禁欲的なたたずまい、容赦のない青い目。
「お前が何者かなど知っている、デイミアノス」とローレントが言った。
 耳にしたデイメンの周囲で、まるで天幕の調度が変化し、すべてのものが形を変えていくようだった。
「本気で信じていたのか?」ローレントが続ける。「俺が、兄を殺した男の顔を見忘れるなどと?」
 言葉のひとつずつが氷の破片。鋭い、えぐるようなかけら。ローレントの声にはわずかの揺れもなかった。
 デイメンは茫然と下がった。思考がもつれる。
「王宮で、知っていたぞ。貴様が目の前に引き据えられたあの時から」なめらかに、酷薄に言葉が重ねられていく。「浴場で、貴様の鞭打ちを命じた時にも知っていた。貴様が——」
「ラヴェネルでも?」とデイメンは問いかけた。
 一瞬がすぎる間、やっと息を吸いこみながら、ローレントに顔を向ける。
「あの時も知っていたなら……一体どうして俺に許した——」
「どうして貴様に犯らせてやったか?」
 胸がきしむあまり、デイメンはあやうくローレントの様子を見のがすところだった。その自制を、いつも白いが今や血の気すらない顔を。
「シャルシーの勝利が必要だったからだ。貴様はそれを達成した。耐えただけの見返りはあったぞ」ローレントの言葉は残酷で、明瞭だった。「貴様のつたない濡れ事にもな」
 痛みがつのって、デイメンの喉から息を奪っていく。
「嘘だ」
 デイメンの心臓は荒く鳴っていた。
「嘘だ——」その声は大きすぎた。「俺が去ると思っていただろう。俺を、ほとんど砦から放り出そうとしただろう」言葉を重ねながら、デイメンの内側に真実が花開くように見えてくる。「俺が本当は何者なのか、お前は知っていた。誰なのかわかっていて、あの夜、俺と愛を交わした」
 ローレントに受け入れられた瞬間を、一度目ではなく二度目の時の、ずっと甘やかな時間を思い出す。ローレントがみなぎらせた緊張感、彼の見せたあの——。
「お前は、と情を交わしたのではない。交わしたんだ」
 デイメンはまだ混乱していたが、それでも垣間見えてくる真実がある。そのわずかな糸口が。
「決してありえないと思っていた、もしお前に知られたら——」デイメンは一歩踏み出した。「ローレント。六年前、オーギュステと戦った時、俺は——」
「その名を口にするな」ローレントが言葉を絞り出した。「貴様がその名を言うな。兄を殺した貴様が」
 その息は浅く、ほとんど喘ぐような言葉で、背後のテーブルのふちに付いた両手がきつくこわばっていた。
「聞きたいのか、貴様の正体を知りながらそれでも犯らせたのかと? 兄を殺した男に——兄を獣のように斬り殺した男に?」
「違う」デイメンの胃が固くねじれる。「そんなようにでは——」
「ならどう斬ったのか聞いてやろうか? 貴様の剣に肉を斬られながら兄がどんな顔をしていたか、聞けばいいか?」
「違う!」
「それともこんな話がいいか、いつもいい助言を与えてくれた男の幻についての話だ。俺のそばにいた男。決して嘘をつかなかった男」
「俺は、お前に嘘をついたことなどない」
 続く沈黙の中、その言葉はおぞましく響いた。
「〈ローレント、俺は、お前の奴隷だ〉?」とローレントが問い返した。
 まるで、息を胸から絞り出されたようだった。
「やめてくれ」と言っていた。「そんな言い方は。まるで——」
「まるで?」
「すべてが、計算ずくのことだったように……俺が企んだことのように。俺たち二人ともが、目をそらして、俺が奴隷であるふりをしていただろう」つきつけられた言葉を、あえてデイメンは返した。「俺は、お前の奴隷だった」
「奴隷などいなかった」ローレントが応じた。「あれは存在しなかった男だ。今、目の前に立つのがどんな男なのかは知らぬ。わかっているのは、初めて会う男だということだけだ」
 胸をこじ開けられたように身の内が痛んだ。
「その男はここに存在している。俺たちは、あの時と同じだ」
「ならば跪け」とローレントが命じた。「我が靴にくちづけるがいい」
 苛烈な青い目を、デイメンはのぞきこんだ。決して近づけない、その痛みに身を裂かれるようだった。もう無理だ。互いの間を隔てて、デイメンはただローレントを凝視するしかない。言葉に切りつけられながら。
「……お前の言うとおりだ。俺は、奴隷ではない」
 デイメンはそう言った。
「俺は王だ」と続ける。「お前の兄を殺した男だ。そして今、お前の砦を手中にしている」
 言いながら、短剣を引き抜いた。むしろ感覚で、ローレントの意識がその刃へ向くのを察知する。目に映る反応はわずかだ——ローレントの唇が開き、体が張りつめる。ローレントは短剣を見ていなかった。デイメンへ目を据えたままだ。デイメンもまなざしをまっすぐ返した。
「王として和平交渉に応じよう。俺をここへ呼んだ理由も聞かせてもらいたい」
 見せつけるように、デイメンはその短剣を天幕の床へ放り出した。ローレントはそれを目で追おうともしない。まなざしは揺るがない。
「知らんのか?」と彼はデイメンに聞いた。「叔父が今、アキエロスにいるぞ」

--続きは本編で--

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