高貴なる賭け
叛獄の王子2
C・S・パキャット
■第一章
馬上から臨む夕暮れの影は長く、地平線は赤かった。シャスティヨンは、空にぬっとそびえた黒々とした塊であった。巨大な、年経た城は、南方のラヴェネルやフォーテイヌの砦同様、攻城戦を耐えぬくよう築かれたものだ。その姿を見つめてデイメンの胸は騒ぐ。どうしても、近づく城にマーラスを、長い赤土の地に面したあの塔を重ねずにはいられなかった。
「狩りにいい土地だ」デイメンの凝視を誤解したオーラントが言ってきた。「逃げようなんて気は起こすなよ」
デイメンは答えなかった。逃亡するために来たわけではない。鎖を外され、自らすすんでヴェーレの兵隊たちと馬を並べるのは奇妙な心地だった。
一日の騎乗、それがたとえのどかな晩春の田野を荷車に合わせてゆったりと行くものであっても、行列の質を見きわめるには充分だ。隊長のゴヴァートは馬上でふんぞり返るばかりで、頑強な馬が鋭く振る尾の上の飾りのようでしかなかったが、前任者はこの部隊に隊形を乱さない長時間の行軍を叩きこんでいた。いささか驚くほど足並みがそろっている。戦いの中でも、この規律を保てるのだろうか。
もしできるなら、一筋の希望が射すというものだ。とは言え、デイメンの気分が上向いているのは主に、外に出て陽光を浴び、馬と剣まで与えられたこのかりそめの自由のおかげだ。首と手の、黄金の枷の重さも気にならぬほど。
城仕えの使用人たちは、すでに外に顔をそろえていた。いかなる賓客への出迎えと変わらず。一方、執政麾下の兵たちは、このシャスティヨンで王子の到着を待って合流する筈が、顔すら出そうとしなかった。
厩舎で休ませるべき馬が五十頭、外す鎧と馬具が五十組、兵舎で準備を待つ寝床が五十床——それも兵士だけのことで、荷車や雑役たちはその数に入っていない。それでも広々とした前庭で、王子の一行はひどく小さく、とるに足らぬ存在に見えた。シャスティヨンの巨大さは、五十名など難なく呑みこんでしまう。
天幕を張る者はいない。兵たちは兵舎で眠るのだ。ローレントは城内で。
そのローレントは鞍からひらりと下りると、外した騎乗用手袋を腰帯にたくしこみ、城代へ目を向けた。ゴヴァートがいくつか号令をとばし、デイメンも鎧の手入れや馬の世話で忙しくなる。
前庭の向こうの石段をアーラント種の猟犬たちが跳ねるように駆け下りてくると、人々に、特にローレントにとびついた。一匹の耳の後ろをローレントがかいてやると、周囲の犬たちの羨望がその犬に集まる。
オーラントの声に、デイメンははっと注意を戻した。「医者が呼んでるぞ」とオーラントが日覆いのほうへ顎をしゃくっている。日影に、見覚えのある灰色の頭が見えた。デイメンは手にしていた胸甲を下ろしてそちらへ向かった。
「座れ」と医師に命じられる。
デイメンはいささか慎重に、ひとつだけ用意されていた三本脚の椅子に座った。医師が、飾りのある革の背嚢の口を開きはじめる。
「背中を見せよ」
「問題ない」
「丸一日騎乗した後でか? 鎧をまとって?」
「問題ない」とデイメンはくり返す。
「上を脱げ」とだけ命じられた。
粘りづよい目だ。一瞬の凝視の後、デイメンは後ろに手をのばしてシャツを取り、背を医師へさらした。
問題などない。生傷は、もう傷痕に変わるほどに癒えてきている。首をのばしたが、梟のように首が回るわけもなく、ほぼ何も見えなかった。首の筋を
違える前にやめる。
医師が背嚢を引っかき回して、尽きることのない膏薬をまた取り出した。
「
揉療治か?」
「これは癒合用の膏薬だ。毎夜塗るがいい、傷痕を薄くできる」
「見てくれのためか?」
手厚いなどという域を越えているだろう。
医師が応じた。
「お前には手を焼くだろうと聞かされている。よかろう。より良く癒えれば、今そして先々において、背の傷がひきつれることも少なくなる。よって剣を振り回しやすくなり、そのぶんお前ももっと大勢殺せるというわけだ。そういう話には耳を貸すだろうとも聞いているぞ」
「王子からか」
デイメンはつい言った。思えば明白か。背の傷へのこまやかな世話は、自分が殴った頬のうずきをくちづけでなだめるのと同じというわけだ。
とは言え、その理屈は腹立たしいほど正しい。デイメンには戦える体が必要だ。
軟膏はひんやりとして、香りがあり、丸一日の騎乗の疲れによく効いた。ひとつずつ、デイメンの筋肉がほぐされていく。首が前のめりになり、いくばくかの髪が顔に落ちた。呼吸が鎮まっていく。医師は淡々と手を動かしていた。
「あなたの名前を知らないのだが」とデイメンは認める。
「覚えていないだろうな。意識が切れ切れだったぞ、お前を見たあの夜は。あと二発鞭打たれていたら、朝を迎えることはなかっただろう」
デイメンは鼻を鳴らした。
「そこまでの傷ではなかった」
医師が奇妙な目つきで彼を見ると「私はパスカルだ」とだけ言った。
「パスカル。遠征に同道するのは初めてか?」
「いいや。私は王陛下に仕えていた。マーラス、及びサンピリエで負傷兵の手当てをした」
沈黙が落ちた。執政麾下の兵についてパスカルに聞くつもりだったのだが、デイメンは今や口を閉じ、ただシャツを手に握りこんでいた。背中への施術はゆっくりと、順序よく続いていく。
「……俺は、マーラスで戦った」とデイメンは告げた。
「だろうな」
また次の沈黙。デイメンの視線の先には日覆いの影になった地面。石ではなく、踏み固められた土だ。足跡を、枯れ葉のちぎれた輪郭を、見つめた。やがて背中から手が離れ、それで終わりだった。
日覆いの外では前庭が片付きつつあった。ローレントの部隊の動きには無駄がない。デイメンは立ち上がり、シャツを振り広げた。
「王に仕えていた身が、どうして王子の家士となった? 叔父上のところではなく」
「人は、自ら置いた場所に己を置くのだ」
パスカルはそう答え、カチリと背嚢を閉めた。
前庭へと戻ったものの、指示を仰ごうにもゴヴァートが見当たらず、デイメンはかわりに人の流れを仕切っているジョードのところへ行った。
「読み書きはできるか?」とジョードが問う。
「ああ勿論——」
答えかけて、デイメンは口をつぐんだ。ジョードは気付かない。
「明日の準備が手つかずも同然でな。王子がおっしゃるには、装備を完璧に揃えてからでないと出立まかりならんと。また、明日の出立を遅らせることまかりならんと。西の武具庫へ行き、置いてある武具を目録にまとめてあの男に——」と指した。「渡せ。ロシャールに」
目録を一から作っていては一晩がかりになってしまうので、すでにある目録を確認するのがいいだろうと判断して、デイメンは革表紙で綴じられたものを数冊見つけた。目的の項目を探そうと一冊目を開いたところ、記されているのが七年前、世継ぎの王子オーギュステのために作られた狩り用の装備ひとそろいの明細だと気付いて、奇妙な戦慄が走った。
——王太子オーギュステ殿下の狩りの
拵、狩猟用の道具一式、槍柄一本、槍穂八本、弓及び弓弦……。
武具庫にいたのはデイメンのみではなかった。棚の裏から役人の、若く品の良い声が聞こえてくる。
「今のが聞こえたであろう、王子のお達しだぞ」
「それを信じろって? てめえは王子の色子かなんかかよ?」
もっとしゃがれた声が応じた。
別の声が「なら見物させてもらいてえな」と言う。さらに誰かの声で「王子の血管には氷が詰まってんのさ、誰ともヤらねえよ。俺たちに命令したいなら隊長をつれてこい、じかになら聞くぜ」
「王子に対して何たる無礼な物言い。得物を選べ。武器を取れ、今すぐ!」
「怪我するぞ、ガキ」
「貴様らにその度胸がないならば——」
役人の声が言い返す言葉が半ばも終わらぬうちに、デイメンは手近な剣を一本取って、歩み出ていた。
棚を曲がると、執政直属の隊服を着た三名の兵がいて、丁度その一人が役人の顔に拳を叩きこんだところだった。
いや、役人ではなかった。あの若い兵士——ローレントがその名を冷ややかにジョードに告げた若者だ。従僕たちに寝る時に足をしっかり閉じとけと言っとかないと、と呟いたジョードに言ったのだ。アイメリックにもな、と。
アイメリックは壁に背を打ちつけ、半ばずり落ちながら、茫然と、のろくまばたきしていた。鼻から血があふれ出す。
三人の兵たちは、デイメンを見た。
「もう充分黙らせただろう」デイメンは公平に告げる。「これでよしとしないか。彼は俺が兵舎につれ帰っておく」
男たちをためらわせたのはデイメンの体の大きさではなかった。その手に何気なく握られた剣でもなかった。やる気になればここには充分な剣も投げつける武器もあるし、ぐらつく棚を倒して馬鹿騒ぎを起こすこともできる。しかし、統率役の男はデイメンの金の枷を目にするや、片腕で残る二人を押しとどめた。
その瞬間、デイメンはこの行軍での力関係を悟った。執政の兵たちが優位に立ち、アイメリックや王子直属の兵たちは彼らの標的となる——それについて非難や抗議を聞き届けるのはゴヴァートだけで、耳も貸すまい。執政子飼いのごろつきゴヴァートは、王子の部隊への締めつけ役としてここにいるのだ。だがデイメンは別だ。デイメンは、手の届かぬ存在だ。じかに王子の耳に物を言える立場にあるからだ。
デイメンはただ待った。男たちには、正面きって王子に楯突くつもりはなく、分別が勝った。アイメリックを殴り倒した男がゆっくりとうなずくと、三人とも下がって出ていく。デイメンはその背を見送った。
向き直ると、アイメリックの白い肌と華奢な手首が目に入った。いい家の次男坊やその下が、己の名を立てようと王族の近衛隊に加わるのは珍しいことではない。だがデイメンの見たところ、ローレントの兵たちはもっとずっと粗野な者ばかりだ。その中で、アイメリックは見た目だけでなくすっかり浮くだろう。
さしのべられた手を無視して、アイメリックはよろりと立ち上がった。
「一体いくつだ? 十八歳か?」
「十九だ」アイメリックが答える。打たれた鼻を別にすれば繊細で気品のある顔立ちで、美しい形の眉と長い焦茶の睫毛をしていた。近いとより魅力が際立って、愛らしい口元などもよく見えた。鼻から血を垂らしていても。
デイメンは語りかけた。
「争いを招くのは利口とは言えまい。とりわけ相手が三人がかりで、己が一撃で倒れるようなら」
「倒されれば起き上がるまで。殴られるのなど恐れはしない」
「そうか。ならよかったな、また執政の兵に絡むつもりならば幾度となくこういうことになるだろうからな。顔を少し上に向けろ」
アイメリックが彼を見つめ、血を手に溜めながら鼻を押さえていた。
「お前は、王子の色子だな? お前のことは色々と聞いているぞ」
「上を向く気がないのであればパスカルのところへ行ってみたらどうだ? 香りのする膏薬をもらえる」
アイメリックは小揺るぎもしなかった。
「貴様は、堂々と鞭打ちを耐えることすらできなかった。大口を開けて執政に泣きついた。貴様は、王子にその手でふれ、あの方の名に唾を吐きかけた。さらに逃亡まで謀ったというのに、あの方はそれでも貴様のためにとりなして下さった……己の家のものを見捨てて執政に渡したりせぬ方だからだ。たとえ貴様のようなものだろうと」
デイメンは凍りついたように動きを止めた。血に汚れた若者の顔を見つめ、アイメリックは王子の名誉を守るためなら三人の男に打ちのめされることすらためらわなかったのだと、己に言い聞かせる。純情な子供の愚かな憧れ——ただデイメンは、これまで同種の熱をジョードに、オーラントに、そしてある種の抑制された形でパスカルの中にすら見ていた。
あの、象牙と黄金の色をした、信に足らぬ、身勝手で口ばかりうまい男のことをデイメンは思った。
「随分と忠義立てしたものだな。何故そこまで?」
「私は信義なきアキエロスの犬などではないからだ」とアイメリックは答えた。
武具の目録をデイメンがロシャールへ届けると、王子の兵たちは翌朝の出立のために武器と鎧と荷車の仕度を始めた。本来なら、彼らの到着前に執政の兵が終わらせておくべきことだ。だが行軍に加わる執政の兵一五〇名のうち、手を貸そうとしたのはたかだか二十名足らずであった。
デイメンも作業に加わった。皆の中、高価な軟膏と肉桂の香をまとって働くのは彼ひとりだったが。背にこわばりが居座っているのは傷のせいではなく、終わったら城内へ来いと城代から言われているせいだ。
およそ一時間後、ジョードが寄ってきた。
「アイメリックは若い。もうあんなことはしないと誓っている」
いや、次もあるだろう——そして部隊が二つに割れて応酬を始めれば、この行軍は破綻する。デイメンはそれを言わなかった。かわりにたずねた。
「隊長はどこに?」
「隊長なら厩舎のどこかだろう、若い馬丁と腰をくっつけてな」ジョードが応じる。「王子が兵舎であいつをお待ちだ。というかな……お前に、奴を呼んでこいとの仰せだ」
「厩舎からか」
デイメンは呟く。耳を疑うようにジョードを見つめた。
「俺が行くよりはいいだろう。奥から探せよ。ああそれと、終わったら城内に出向け」
兵舎から厩舎までは二つの中庭を抜けてかなり歩く。到着前にゴヴァートが事を済ませているよう願ったが、やはりそううまくはいかなかった。夜の厩舎は、馬たちの抑えた、様々な音に満ちていたが、それでも目より先に耳でわかる。ひっそりと規則的な音が、ジョードの予告通り、奥から聞こえていた。
ゴヴァートの邪魔をするのとローレントを待たせるのとどちらがいいか、デイメンは天秤にかける。馬房の扉を押し開けた。
中では、ゴヴァートが見まがいようもなく、馬丁の少年を奥の壁に押しつけて犯していた。馬丁のズボンはデイメンの足元から遠くない藁の上にわだかまっていた。少年の裸の脚は大きく広げられ、開かれたシャツが背へたくし上げられている。顔はざらつく板壁に押しつけられ、髪をゴヴァートにきつくつかまれていた。ゴヴァートは服を着たままだ。己のズボンの前を、一物を出すに足りる分くつろげただけだった。
ゴヴァートが、ちらりと横目で見る間だけわずかに動きを止めた。「なんだ?」と言ってから、わざと腰の動きを続ける。少年はデイメンの姿に別の反応を示し、身をすくめた。
「やめて——やだ、人が見てるのに——」
「落ちつけ。ただの王子の犬だ」
ゴヴァートが馬丁の頭を揺すって言い聞かせる。
デイメンは言った。
「王子がお待ちだ」
「待てるだろ」
「いいや、待てぬな」
「抜けって、王子は俺に命令するかな? 勃ったまま会いに来いって?」ニヤリと、歯を剝き出した。「どう思う? ヤりませんってお上品な
面は見せかけで、一皮剝けば男がほしくて焦らしてるだけかな?」
デイメンの身の内にはっきりと怒気がこみ上げた。あの武具庫でアイメリックが嚙みしめただろう無力さのかけらを味わう。だがデイメンは、戦いに不慣れな十九歳の若者ではなかった。無感情に、半裸の馬丁の少年の体へ目をやる。この瞬間、腹をくくっていた。この狭く埃っぽい馬房で、今からこの手で、エラスムスを陵辱した報いをこの男に受けさせてやるのだと。
ゴヴァートに告げた。
「王子のご命令だ」
ゴヴァートが苛々と少年を押しやって、デイメンのきっかけを奪った。
「畜生、小うるさくてイケやしねえ——」とゴヴァートは己をしまいこむ。少年は数歩よろめき下がって、息を大きく吸った。
「兵舎だぞ」
デイメンはそう教えて、ずかずかと出ていくゴヴァートが当ててきた肩を受け流した。
馬丁の少年は荒い息をつきながらデイメンを見つめていた。片手を壁について身を支える。もう片手で必死に股間を隠してとりつくろっていた。デイメンは無言のままズボンを拾い上げ、投げてやった。
「銅貨をもらえる約束だったのに」
そう、すねた口調で少年が言う。デイメンは答えた。
「王子に伝えておく」
次は城代のところへ出向くと、城の階段をぐるりと上って、寝所にまで案内された。
アーレスの宮殿の寝所ほど飾り立てられてはいない。無骨な切石積みの壁、十字の格子が入った
磨硝子の窓。外は暗く、窓は眺望のかわりに部屋の影が映っていた。絡み合った葡萄の葉の意匠が室内をひと回りしている。彫刻を施された暖炉棚、埋み火、ランプ、壁のタペストリー、さらに——ほっとしたことに——別にしつらえられた奴隷用の寝床と寝具。そしてこの部屋全体を支配しているのは寝台の、執拗なまでの豪奢さだった。
寝台を囲む焦茶の飾り壁には狩りの風景が彫りこまれ、猪の首を槍で貫き止めたところがあらわされていた。室内には、青と金の星光紋様はひとつもない。襞をたっぷり寄せた布はすべて血のような緋色だ。
デイメンは言った。
「これは、執政殿下の居室だな」
ローレントの叔父のための場所で眠ると思うと、一線を踏みこえているようでどうも気が落ちつかない。
「王子はよくここに滞在を?」
城代は、デイメンが部屋ではなく砦について聞いているものだと質問を取り違えた。
「いや、あまり。叔父上につれられてよくいらしたものだ、マーラスの戦いから一、二年ほどの間はな。長じるにつれ、ここでの狩りには飽きたようでな。もうシャスティヨンには滅多においでにならん」
城代の命令によって、召使いたちがデイメンにパンと肉を運び、デイメンはそれを食った。皿は下げられ、召使いは続いて見事な作りの水差しとゴブレットを運んでくると、うっかりとだろうが、ナイフを下げ忘れた。デイメンはその刃を見つめ、アーレスの城につながれていた時ならばどんな代償を払ってでもこんな手落ちを望んだだろうと思う。この刃をつかんで、脱出の道を切り開いたかもしれないと。
その場に座って、デイメンは待った。
目の前のテーブルにはヴェーレとアキエロスの細密な地図が置かれ、丘陵、山、町、砦がすべて精緻に記されていた。セライヌ川は南へとうねり下るが、すでに彼らの道が川に沿っていないことはわかっている。デイメンはシャスティヨンに指を置き、そこからデルファまでヴェーレ南部を抜けていく道筋のひとつをたどった。指がたどりついたのは彼の故国との国境で、すべての地名が目ざわりなヴェーレの文字で記されている。アケロス、デルフェア、と。
アーレスの王宮で、執政は甥を殺そうと刺客を送りこんできた。死は、毒入りのゴブレットの底に、抜き身の刃の先にあった。今ここで起きていることは、それとは異なる。いがみ合う二つの勢力を混ぜ合わせ、狭量な隊長を押しつけて、それを指揮官の経験などない王子へ丸ごと投げ与えた。この部隊は、自ら崩壊するだろう。
そしてデイメンには、それを止めるすべなどほぼ何もないのだった。士気も軍律も崩れゆく行軍となるだろう。国境地帯にまず間違いなく仕掛けられた待ち伏せが、内紛と投げやりな采配ですでに統制を失った部隊を壊滅に追いこむ。ローレントは執政に対抗できるただひとつの駒であり、その彼を生かすためにデイメンは誓った通りあらゆる力を尽くすつもりだったが、本音を言えばこの国境への行軍は、すでに勝敗が決した盤上の最後の一手にしか見えなかった。
ゴヴァート相手にローレントが何の用だったにせよ、深夜までかかった。砦も静まり返っていく。暖炉で揺れる炎の音が耳に届くほど。
デイメンは座して待った。手はゆるい拳。身のうちでざわめく自由の感覚——かりそめの自由——にどうも慣れない。ジョードとアイメリックを、ほかのローレントの兵たちを、早朝の出立のため夜を徹して働く皆を思った。城内には家従たちもいるし、ローレントが戻ってくるのが待ち遠しいわけでもない。だが空の部屋で待ち、暖炉に火が揺れ、地図の精密な線を目で追っているうちに——囚われの身の時にはほぼなかったことだが——一人であることを意識していた。
ローレントが部屋へ入ってくる。デイメンは立ち上がった。ローレントの背後にオーラントの姿がちらりと見えた。
「下がっていい。扉の番はいらぬ」とローレントが命じる。
オーラントはうなずいた。扉が閉まった。
ローレントが言った。
「お前は最後に取っておいてやった」
「そっちは馬丁の少年に銅貨一枚借りを作ったぞ」とデイメンは応じた。
「尻を出す前に金をもらっておく知恵をつけるべきだな」
ローレントは落ちつき払って、自分の手で水差しからゴブレットを満たした。ついデイメンはゴブレットに目をやって、前回ローレントの部屋で二人きりにされた時のことを思い出す。
淡い眉がかすかに上がった。
「貞操の心配ならいらん。ただの水だ、多分な」
一口飲み、ローレントはほっそりした指にゴブレットを持ったまま手を下げた。ちらりと椅子へ、まるで客に着座をすすめる主人のように目をやってから、愉快な言葉であるかのように言った。
「くつろぐがいい。ここで一夜をすごすのだからな」
「鎖なしでか?」とデイメンが聞き返す。「俺が逃亡をはかるとは思わないのか、行きがけに王子を殺して?」
「もっと国境が近くなるまではな」
ローレントが、無表情でデイメンを見つめ返した。時おりはぜる炎の音だけが唯一の音だった。
「本当にその血管には氷が詰まっているようだな」
デイメンは言い放つ。
注意深くゴブレットをテーブルに置くと、ローレントがナイフを取り上げた。
刃は鋭い。肉を切るためのナイフだ。近づくローレントにデイメンの鼓動が速まった。わずか数日前、ローレントが男の喉を裂いてこの部屋の寝具のごとき真紅の血をあふれさせるのを見たばかりだ。ローレントの指がふれ、手の中にナイフの柄を押しこまれた瞬間、デイメンに戦慄が走った。金の枷のすぐ下の手首をつかむと、ローレントは揺るぎなく、つき出したナイフを自分の腹へ向けた。刃先が、濃紺の王子の装束にわずかに食いこんでいた。
「オーラントを下がらせたのは聞いていただろう」
ローレントの手がデイメンの手首をつたい、指の上から、そのまま握りこんだ。
「お前の虚勢や脅しにつき合っている暇はない。ここでひとつ、お前の意向を明確にしておくというのはどうだ?」
刃は見事に、肋骨のすぐ下を狙っている。あとは押しこめばいいだけ——そして上へえぐる。
この男は癪にさわるくらい平然として、自信に満ちている。強い衝動が、デイメンの内に湧き上がった——血を求めてというだけでなく、だがローレントの悠然とした
外面へ刃を突き立て、醒めきった無関心以外の何かを引きずり出したいという衝動。
デイメンは言った。
「城の召使いたちはまだ起きているだろう。お前が悲鳴を上げないと、どうしてわかる?」
「俺が悲鳴を上げそうに見えるか?」
「このナイフを使う気はない。だがこれを持たせるようなら、俺がどれほどこれを使いたいかを甘く見すぎているぞ」
「いいや」ローレントが応じた。「人を殺したい思いも、その機を待つというのがどういうものかも、俺はよく知っている」
デイメンは下がり、手をおろした。指はまだきつくナイフの柄を握っている。二人は互いを凝視した。
ローレントが口を開く。
「この行軍が終わった時、お前はきっと——虫けらでなく男であるならば——己への仕打ちへの報いを求めるだろう。当然だ。その日が来れば、その時に、運命の賽がどう転がるか見るとしよう。それまでは俺に仕えろ。よってひとつ、ゆるがせにできぬことを言っておく。お前には恭順を求める。俺の命令に従え。もし命じられた中身に不服があるなら、他の者の耳のないところでまともな意見を聞こう。だが一度これと決した命令にそむくなら、鞭打ちの柱に逆戻りだ」
「俺が命令にそむいたか?」とデイメンが問い返す。
ローレントはまたじろりと、奇妙に探るような目つきでデイメンを眺めた。
「いいや」と答える。「お前はゴヴァートを厩舎から引きずり出して任につかせ、アイメリックを
諍いから救ってやった」
「ほかの者たちは皆、暁まで出立の準備に働かせているのだろう。ここで俺に何をしろと?」
また間があり、それからローレントはもう一度椅子を軽く示した。今回はデイメンも示唆に従い、腰を下ろす。ローレントは向かいの椅子に座った。二人の間、テーブルの上に広げられているのはただひとつ、あの精緻な地図だけだった。
「お前は、この地域をよく知っていると言ったな」
ローレントがそう言った。
■第二章
翌朝の出立にも至らぬうちから早々と、執政が手駒からろくに使えぬ連中ばかりかき集めて甥の元へ送り付けたのが明らかになった。見ればわかる、宮廷にはとても置いておけぬ劣悪さから、遠ざけてこのシャスティヨンに駐屯させていたに違いない。訓練された兵卒ですらなく、傭兵崩れや、二流三流の剣士たちがほとんどであった。
このような粗野な連中相手では、ローレントの綺麗な顔など役には立つまい。デイメンが馬にまたがらぬうちから、ぶつぶつと陰口や当てこすりが聞こえてきた。アイメリックがいきり立ったのも無理はない。正直ローレントが中傷されようがどうでもいいデイメンですら不快になるほどの言いようだった。およそ、指揮官というものに対する口のきき方ではない。いいイチモツがありゃあの脚も開くさ、と聞こえてきた。デイメンの手が、締めていた馬の腹帯をきつく引きすぎていた。
調子が狂っているのだ、多分。昨夜はおかしな一夜だった。ローレントと地図をはさんでさし向かいに座り、その問いに答えた。
炎は炉床を這うように、
燠となって燃えていた。この地域をよく知っていると言ったな——そうローレントが言った瞬間、デイメンはこれが、戦術上の情報を敵に与える一夜になると悟っていた。敵。いつか対峙するかもしれない相手だ、国と国、王と王として。
それも、すべてがうまくいけばの話だ。ローレントが叔父を打ち倒し、デイメンがアキエロスへ戻って王位を奪還できたなら。
「何か不服が?」と、ローレントは問いかけたのだった。
デイメンは息を深く吸いこんだ。ローレントが力を増せばすなわち、執政の力がそれだけ削がれる。二人が玉座をめぐって身内争いをくり広げれば、アキエロスにとってはありがたい。ローレントと執政は、好きなだけいがみ合うがいいのだ。
ゆっくりと、慎重に、デイメンは語り出した。
二人は国境地帯の地形について、そしてそこへ向かう道筋について話し合った。まっすぐ南へ馬で進路をとるのはやめるべきだと。かわりに南東へ進み、ヴェーレの属州であるヴァレンヌとアリエを通り、ヴァスクとの国境沿いに山あいを抜ける二週間の旅路をゆく。執政がお膳立てした最短の経路からは予定変更だと、ローレントはすでに先々の砦へ知らせの使者を送り出していた。
ローレントは、とデイメンは思う。時間を稼ごうとしているのだ。言いつくろえる限界まで。
二人はラヴェネルとフォーテイヌの砦の守りを比較し、語り合った。ローレントは眠る気配さえ見せなかった。寝台を一瞥すらしない。
夜が深まるにつれ、ローレントのいつもの抑制の効いたたたずまいが崩れ、片膝を胸に引きつけてゆるくかかえた、くつろぎと若さがにじむ姿に変わっていった。気付けばデイメンは、ローレントのゆったりとした四肢に、膝に置かれた手首に、すらりとした骨格の見事な調和に、まなざしを吸い寄せられていた。どこか、場がゆるやかに、だがたしかに張りつめていくのを感じる。まるで……何かを待つような、正体もつかめぬままに。蛇と一緒にとじこめられているようなものだ。蛇はくつろげても人間はそうはいかない。
暁まで一刻ほどになると、ローレントは立った。「今宵はここまでだ」と短く告げる。それから、驚いたことに、そのまま朝の準備へと去っていった。そっけなく、用があれば呼びつけるとデイメンに言い残して。
数時間後、城代がデイメンを呼んだ。それまでの時間をデイメンは己の寝床へ潜りこんできっぱりと目をとじ、体を休めてすごした。次にローレントを見たのは中庭で、すっかり着替えて鎧をまとい、涼しげに出立を待っていた。わずかなりと眠ったとしても、とにかく執政の寝台でではない。
一行は、デイメンの予想より短い遅れで出発できた。夜明け前のローレントの出現と、彼が放っただろう辛辣な言葉の数々は——眠らぬ夜で研ぎ澄まされて——執政直属の兵たちをも叩き起こし、隊列らしきものを整えさせるに充分であった。
部隊は出立した。
ひとまず、いきなり惨憺たる醜態、というほどのことにはならなかった。
部隊は、白や黄色の花が香る丈高の草地を長々と抜けてゆく。先頭では威張りくさったゴヴァートが戦馬に揺られ、その横には若く、繊細な金色の姿が——王子の姿があった。ローレントはまさしく船首像のごとく見えた。目に麗しく、役立たずに。馬丁の少年にかまけた遅怠をゴヴァートがとがめられることもなく、昨夜の義務を怠った執政の兵たちもそのまま放置されていた。
総員二百名の兵が、雑役の者たちや荷車、補給物資、予備の馬たちを引きつれて進む。大部隊と異なり、家畜の類は同道していない。これは小規模な行軍で、数ヵ所の補給地にも恵まれている。行軍の後ろに群れてくる売色や行商人たちの姿もない。
だが行列は長く、半キロ近くにものびていた。脱落者のせいだ。先頭のゴヴァートは最後尾まで伝令を出してさっさと進めと怒鳴らせたが、馬列がいくらか乱れただけで、前進速度に目に見える変化はなかった。ローレントはそのすべてを目の当たりにしながら、何もしようとしなかった。
野営の準備には何時間もかかった。長すぎる。この無駄な時間の分、前日の出立の準備で半夜も眠れていない王子の兵たちからまた時間が奪われていく。ゴヴァートはごく基本的な命令をとばすだけで、仕事の出来や細部はないがしろだ。王子の部隊の中では、ジョードがほぼ隊長としての責務を担っていた。昨夜と同じく。デイメンも彼から指示を受けた。
執政の兵の中にも、やるべき仕事だからとよく働く者もいたが、それも個人の気質だよりで、身についた訓練や命令などではない。彼らの間では規律など無に等しく、序列もなく、たとえ役割を気ままに怠けたとしても、周囲から白い目を向けられる以外に何の罰もないのだった。
この調子で、この先二週間続くのだ。最後の戦いに向けて。デイメンはぐっと顎に力をこめ、下を向いて割り当てられた仕事を続けた。自分の馬と鎧の手入れをする。王子の天幕を立てる。物資を運び、水や薪をかついだ。周囲と一緒に沐浴する。食う。食事はうまかった。まともにできることもあるようだ。すぐさま見張りが立てられ——同じく斥候も放たれて——デイメンについていた王宮の見張り同様、真剣に任務に当たっていた。野営の場所もよく選ばれている。
宿営地をパスカルのところまで横切っていた時、天幕の向こうから声が聞こえた。
「誰にやられたか言えよ、そうすりゃこっちでカタをつけてやる」とオーラントが言った。
「誰がやったかなど無用の話だ。これは私の落ち度だ、そう言っただろう」
アイメリックの強情な声は聞き違えようがなかった。
「ロシャールが見たんだぞ、執政の兵が三人、武具庫から出てくるところを。そのうち一人はラザールだったとな」
「私の落ち度だ。自分で招いた争いだ。ラザールが王子を侮辱したので——」
デイメンは溜息をつき、踵を返すとジョードを探し出した。
「オーラントのところへ行ったほうがいいかもしれないぞ」
「どうしてだ」
「前に、お前がオーラントを説き伏せて暴力沙汰を止めたのを見たのでな」
先にジョードと話していた男は、ジョードが去っていくとデイメンへ嫌な目つきを向けた。
「お前は告げ口が得意らしいな。それで、ジョードに争いの仲裁をさせておいて、お前は何をするつもりだ?」
「揉療治を受ける」
デイメンは簡潔に答えた。
実に馬鹿らしいが、パスカルのところへ顔を出す。続いてそこから、ローレントのところへ。
王子の天幕はやたらと大きい。背丈のあるデイメンでも、何かにぶつからないかと見回すことなく歩き回れる大きさがあった。布の壁を深い青と薄黄色の襞が覆い、布地は金糸で縫いとられ、頭上高くには丁寧に襞をつけた綾織りの絹天井が吊られている。
ローレントの姿は天幕の中の出入口付近にあった。その辺りは人を迎えるための椅子や机が置かれ、むしろ戦場の陣屋めいている。彼は粗末ななりの雑役と武具のそろえについての話をしていた。ただローレントはほとんど聞くばかりだ。デイメンを手で中に招き、待つよう示した。
天幕の中は火鉢で暖められ、奥まで蝋燭がともされている。その前で、ローレントは雑役と話を続けた。奥の衝立の向こうは寝所で、クッションが並び、絹の寝具が見事に整えられている。その横にあからさまな距離をあけて、デイメンの奴隷の寝床。
雑役を下がらせると、ローレントが立ち上がった。デイメンが寝具から王子へとまなざしを移し、そのまま沈黙が長くのびる間、ローレントの冷ややかな目が彼に据えられていた。
「さて? 側に来て仕えよ」
「仕える……」
ローレントの言葉が、染みこんでくる。あの修練場を横切った際、鞭打たれた十字架へ近づきたくないと感じた拒否感がよみがえった。
「やり方を忘れてしまったか?」
ローレントがたずねた。デイメンは答える。
「この間はあまりいい終わり方をしなかったものでな」
「ならば、今日はもっと行儀よくやるがいい」
ローレントは落ちつき払ってデイメンに背を向け、待った。繻子地の上着のうなじ部分から留め紐が交差しながら、まっすぐ背中へと下りている。これを恐れるなど……馬鹿らしい。デイメンは一歩進み出た。
紐をほどく前に、指をのばして金の髪の房を横へ払わなければならなかった。狐の毛並みのようにやわらかな髪を。デイメンがそうすると、ローレントはより指が届きやすいよう、ほんのかすかに首を曲げた。
側仕えが主人の服を脱ぎ着させるのは当たり前の仕事だ。ローレントはいかにも慣れきった者らしい無関心さで、その奉仕を平然と受けている。布地が左右に割れていき、下からのぞいた白い内着は、重い上着や鎧に圧されて肌のぬくもりを帯びていた。ローレントの肌はシャツと同じ繊細な白の陰影をうつしている。その肩から服を押しやり、デイメンはほんのわずかな刹那、手のひらにきつく張りつめた背の固さを感じた。
「よかろう」
ローレントが言って、一歩よけると、己の手で上着を脇へ放りやった。
「卓につけ」
卓上には見慣れたあの地図が、三つのオレンジと一つの杯で押さえて広げられていた。ローレントはズボンと内着という気軽な姿のままデイメンの向かいに座ると、オレンジを取り上げて剝きはじめた。地図の角が一ヵ所、くるりと丸まる。
「サンピリエでの戦いの際、アキエロス軍によって我らの東の陣が破られた。どのようにしてそうなったのか説明せよ」
そう、ローレントは命じた。
翌朝、宿営地の目覚めは早く、デイメンはジョードから武具庫の天幕横で行われている即席の教練に誘われた。
考えとしては悪くない。デイメンとヴェーレの兵士たちが身につけた戦いの様式は異なるし、互いに学べることが多い。デイメン自身、日課の鍛練にまた励めるのは願ってもないことだったし、ゴヴァートに教練を指導する気がない以上それぞれで自発的に補っていかねばなるまい。
武具庫の天幕の隣で、デイメンはまず皆の様子を眺めた。王子の部隊は剣の演武の最中で、ジョードとオーラントの二人、そしてアイメリックの動きがデイメンの目を引いた。執政の兵はあまりいないが、一人、二人は見てとれる。ラザールの姿まで。
昨夜は何の衝突もなく、今もオーラントとラザールの間を百歩の距離が隔てて届かないが、それはすなわちオーラントが思うように鬱屈を吐き出せないままということでもある。そして、そのオーラントが動作を止めてつかつかとやってきた時、デイメンはこの挑発を予期しておくべきだったと気付いた。
オーラントが投げてきた修練用の木剣を、反射的につかみ取る。
「お前、少しは使えるのか?」
「ああ」とデイメンは答えた。
オーラントの目つきから、そのもくろみがわかる。周囲も気付きはじめ、自分たちの訓練の手を止めていた。デイメンは口を開いた。
「あまりいい考えではないぞ」
「だな。お前は戦うのが嫌なんだろ? 隠れてコソコソ動き回るほうが好きらしいからな」
修練用の木剣は、柄から剣身まで木でできており、握りやすいよう把手にぐるりと革が巻かれていた。
「手合わせが怖いか?」とオーラントが問う。
「いいや」
「なら何だ? 戦えないのか? お前がここにいるのは王子を犯るためだけかよ?」
デイメンは剣を振った。オーラントは一撃を受け流し、たちまちに二人は荒々しく剣を打ち交わしていた。木剣の一撃は滅多に命取りにはならないが、痣を残し骨を砕くことはできる。オーラントはその気で戦っていた。剣に何の遠慮もない。先に剣をふるった筈のデイメンが今や一歩下げられていた。
これは、戦いのためのの剣だ。激しく逸る剣。決闘ならば、最初の数撃はまずは探り合いで、用心深く相手を試す。特に未知の相手には。だが今や剣と剣がぶつかり合い、剣身が離れても一瞬か二瞬で狙いを定め、また襲いかかる。
オーラントは腕がよかった。ここにいる兵たちの中でも五本の指に入るだろう——ラザール、ジョード、さらに囚われの日々にデイメンを見張っていた一、二人と並んで。選り抜きの剣士を見張りに付けられていたことを、デイメンは名誉に思うべきなのだろう。
最後に剣をふるってからもう一月以上になる。あの日のことはもっと昔に思えた——アキエロスでのあの日、兄に会わせろと要求するほどデイメンがおめでたかった時から。一月の空隙だが、幼い頃から日々数時間の激しい鍛練に励んできたデイメンに、そのくらいの中断など何ほどもない。手の剣だこすら、まだ薄れていない。
戦いを、欲していた。戦いはデイメンの深くにある何かを満たし、体の芯がどっしりと据わる。一つの技に、一人の相手に集中し、思考より本能の速さで動き、応じる。
だがなじみの薄いヴェーレの戦い方が相手では、反射まかせとはいかない。デイメンは慎重に己を抑えながらも、解放感とごく単純な喜びを味わった。
一分か二分経った頃、オーラントが動きを止めて罵った。
「てめえは真面目に戦う気があるのかよ!」
「ただの手合わせだと言ったのはそっちだろう」
デイメンはそう流す。
木剣を地へ放り捨てると、オーラントが二歩で野次馬の男へ寄り、八十センチ長ほどの冴えた鉄の直剣を鞘から引き抜くや、警告なしでその剣を、本気の勢いでデイメンの首筋へ叩きこんできた。
考える時間はなかった。オーラントが寸止めにする気か、それともデイメンを二つに割る気か問う暇はない。この一撃は受け流せない。存分にオーラントの体重がのった剣は、修練用の木剣などバターのように切り裂く。
剣の一閃より早く、デイメンは動いた——オーラントの間合いへ踏みこんでさらにもう一歩、そして次の刹那、オーラントの背がドッと地を打っていた。息が胸から叩き出され、その喉元にデイメンの剣先がつきつけられる。
周囲で、訓練場は静まりかえっていた。
デイメンは後ろへ下がった。オーラントがゆっくりと立ち上がる。彼の剣は地に落ちていた。
誰も何も言わない。オーラントは地面の剣とデイメンへ目を走らせたが、それ以上の動きは見せない。デイメンは肩をつかむ手を感じ、オーラントから目を離すと、ジョードに小さく顎をしゃくられてそちらへ顔を向けた。
ローレントが、訓練場まで来ていた。武具庫の横、そう遠くないところに立ち、彼らを見ている。
「お前を探しに来てたんだ」とジョードが言った。
デイメンは手の木剣をジョードへ渡すと、ローレントの方へ向かった。
草の上を歩いていく。ローレントは距離をつめようともせずただそのまま待っていた。ざわりと風が抜ける。垂れた天幕が荒々しくはためいた。
「俺を探していたそうだが」
ローレントは答えず、デイメンもその表情を読みきれない。
「何か用が?」とたずねた。
「お前は、俺より強いのだな」
その一言に、ついデイメンは笑いめいた息をこぼし、ローレントの頭から爪先まで、そしてまた頭までじろりと眺めていた。やや非礼か。しかし、こんなことを言われるとは。
ローレントの顔がぱっと紅潮した。頬に強い赤みが浮き、何かの感情をぐっと押しこめようとして顎がこわばる。これまで見たこともない反応に、デイメンはさらに踏みこんでみずにはいられず、言っていた。
「何故聞く? 手合わせを所望か? 何ならほどほどにできるが」
「いいや」
その先どんな展開がありえたにせよ、近づくジョードと後ろのアイメリックの姿でその機は失われた。
「殿下。申し訳ありません。もしお話がまだ——」
「すんだ」ローレントが答えた。「話ならお前とする。戻るからついてこい」
二人がつれだって歩き去ると、デイメンとアイメリックがその場に残された。
「王子はお前を嫌っておいでだな」とアイメリックは楽しげだった。
その日の行軍が終わると、ジョードがデイメンのところへやってきた。
デイメンはジョードが気に入っていた。実際的な物の考え方と、自然とにじみ出る仲間への責任感がいい。どのような出自から上がってきたにせよ、指揮官としての資質をそなえた男だ。余分な責務を背負わされている今も、こうしてデイメンと話す時間を見つける。
「わかっていてほしいのだが」とジョードが言った。「今朝訓練に来ないかと言ったのは、オーラントにあんな機会を与えるためでは——」
「わかっている」
デイメンは答えた。ジョードが、ゆっくりとうなずく。
「修練したくなったら、次は喜んで俺が相手になろう。これでもオーラントより数段腕はいい」
「それもわかっている」
その返事に、ジョードの顔にこれまでで一番微笑に近い表情が浮かんだ。
「ゴヴァートと戦った時、お前はそこまで手強くは見えなかったがな」
「あいつと戦った時は、カリスの煙をたっぷり吸わされていたのでな」
また、ゆっくりとしたうなずき。
「アキエロスではどうか知らんが、だがあれは……戦いの前に使うもんじゃない。反応が鈍るし力を削ぐ。まあ、親切心からの忠告だ」
「……ありがとう」
デイメンは、重い沈黙の後、そう答えた。
ついに事が起きた時、またもやそこにラザールとアイメリックが絡んでいた。行軍三日目の夜のことで、一行はベイリュー砦に宿営していた。大層な名前だが、崩れかけだ。中に泊まろうにもあまりにもお粗末で、兵たちは砦の宿舎を避け、ローレントすら屋根の下で一夜をすごさず小綺麗な天幕にとどまっていた。それでも砦には少数ながら切り盛りする使用人たちがいて、補給路に組みこまれ、ここで物資の補充が可能であった。
喧嘩がどう始まったにせよ、周囲が気付いた時にはアイメリックが地に倒れ、その上にラザールが立っていた。アイメリックは土にまみれていたが、今回は出血はない。間の悪いことにそこに割って入ったのがゴヴァートで、アイメリックをつまみ上げると、騒ぎの張本人として、手の甲で顔を殴りとばした。その場に最初に着いたのはゴヴァートだったが、アイメリックが顎を押さえて立ち上がった頃には、すでにそこそこの野次馬を集めてしまっていた。
さらに間の悪いことに、もう夜更けとあって仕事の大半が片付き、手隙の兵たちがうろついていた。
オーラントを力ずくで押しとどめるジョードに、ゴヴァートが「まともに部下をしつけろ」と挑発まがいの言葉を浴びせている。アイメリックは特別扱いはされん、とゴヴァートは言いつのった。「もし誰かがラザールに報復するなら鞭打ちを覚悟しとけ」とも。
暴力の気配が、火の気を待つ油のように兵たちの間に広がった。もしラザールがわずかでも挑発的な態度に出ていればたちまち発火しただろうが、彼は一歩下がり、ゴヴァートの宣言に喜ぶよりも憂慮の顔をするだけの分別を——または賢さを——見せた。
なんとかその場はジョードがおさめたが、皆が散った後、ジョードは指揮系統をすっかり無視して王子の天幕へ乗りこんでいった。
デイメンは、ジョードが天幕から出ていくまで待った。それから深い息を吸い、自分が中へと入る。
天幕へ踏み入ったところで、すぐにローレントの声がした。
「俺にラザールを蹴り出せと言う気だろう。もうジョードから聞いた」
デイメンは答えた。
「ラザールは腕のいい剣士だし、執政直属だというのに真面目に働くまれな存在だ。俺は、アイメリックを外すべきだと思う」
「何?」とローレントが聞き返した。
「彼は若すぎる。美しすぎる。争いを起こす。俺は彼の話をしに来たわけではないが、聞かれたからには言っておく。アイメリックは厄介の種だし、いずれ遠くないうちに彼があなたにのぼせるのをやめて部隊の誰かに身をまかせたら、もっと深刻な事態を招く」
デイメンの言葉を聞いて、ローレントは考えこんだ。
だが「彼は外せぬ」と言う。「アイメリックの父親は、グイオン元老だ。お前がアキエロス大使として会ったあの男」
デイメンは、ローレントを凝視した。武具庫でローレントの名誉を守ろうとしていたアイメリックを、血のあふれる鼻を押さえていた姿を思い出す。
無表情な口調でたずねた。
「それで、国境の城のどちらが、その父親の持ち物なのだ?」
ローレントも同じ口調で答えた。
「フォーテイヌだ」
「子供を取りこんで父親にとり入る腹か?」
「アイメリックは甘い菓子に釣られた子供ではない。あれはグイオンの四男坊だ。この部隊に加われば父親の忠誠を裂くことになると、承知の上だ。俺の下に加わった理由の半分はそれだ。父親の注目を引こうとしてな」
ローレントは続けた。
「アイメリックの話をしに来たのではないと言ったが、なら何の用だ?」
「俺に懸念や意見があれば、他の者の耳のないところで話を聞くと言ったろう」デイメンは答えた。「ゴヴァートについて話がある」
ゆっくりと、ローレントはうなずいた。
デイメンの脳裏を、この数日の名ばかりの統制ぶりがよぎる。今夜の騒動こそまさに好機だったのだ——ゴヴァートが隊長として進み出て問題を掌握し、双方に対等の罰を与えれば、どちらの側でも暴力は許さぬと知らしめられた。だがかわりに、状況はさらにこじれた。
デイメンはずけずけと言った。
「どういう理由かはともかく、わざとゴヴァートに好き勝手やらせているのはわかっている。あの男が己の失態に足を取られるのを待っているのか、それとも面倒を数多く引き起こせば処分の名目が立つからか? だが、物事はそうは転がらないぞ。今でこそ兵たちはゴヴァートに反発しているが、一夜明ければ、その反発はゴヴァートを放置しているあなたに向く。すみやかにゴヴァートを御し、あの男を命令不服従の罪で裁くべきだ」
「だが、ゴヴァートは命令に忠実だ」とローレントが答え、デイメンの表情を見て「俺の命令にではないがな」とつけ加えた。
そこまではデイメンもすでに読んでいる。とは言え、執政からゴヴァートにどのような命令が下されたかは想像するしかないが。「好き勝手に振舞え、甥の言葉には耳を貸すな」あたりか、おそらく遠からずだろう。
「叔父上への反抗とは見なされないようにゴヴァートを引き回すくらい、お手の物だろう? ゴヴァートを恐れているとも思えない、そうであればあの闘技場で俺を彼の前に立たせはしなかっただろうしな。もしあなたが恐れる相手が——」
「そこまでだ」とローレントがさえぎった。
デイメンは引き下がらない。
「このまま長引けば、その分だけ、執政の兵たちに対して威厳を取り戻すのが難しくなる。すでに皆は口さがなく——」
「そこまでだと言った」
デイメンは黙った。かなりの忍耐をもって。ローレントは彼を、眉を寄せて見ていた。たずねる。
「どうして、役に立つ忠告を俺にする?」
そのために俺をこの旅に伴ったのではないのか? だが口に出してそう問うかわりに、デイメンは言い返した。
「ならどうして、一つも実行しない?」
「ゴヴァートは隊長だ。俺はあの男の物事の片付け方に満足している」
ローレントはそう応じたが、眉はひそめたままで、目はどこか曇りを帯び、己の内で思索にふけっているかのようだった。
「外で済ませねばならぬ用がある。今宵はもうお前の手はいらぬ、休んでよい」
去っていくローレントを見送りながら、デイメンは心の半分だけ、物を投げつけたい衝動に駆られていた。もうここまで来ると、ローレントが決して拙速には動かないことはわかっている。いつもまず距離を取り、一人で、じっくり考え抜くのだ。今はデイメンも一歩引いて、祈るしかなかった。
■第三章
デイメンはすぐに眠りはしなかった。部隊の誰より贅沢な寝床を与えられてはいるのだが。奴隷用の夜具はやわらかで、枕まであり、肌掛けは絹だ。
ローレントが天幕へ戻った時、まだ起きていたデイメンは、何か役目があるかと迷いながら半ば体を起こした。ローレントは彼を無視した。対話が終われば、デイメンに対しては家具同然に目もくれないのが常だ。
今宵、ローレントは机の前に座ると、卓上の蝋燭の灯りで何かの書状を書いていた。書き終えてたたむと、赤い封蝋に、指にはめずに身につけている印章を押して封をする。
そのまま少しの間、そこに座っていた。ローレントの顔には先刻と同じ、思いふける色があった。
やがて立ち上がり、ローレントは指先で蝋燭をつまみ消すと、火鉢のほのかな光と影の中で寝支度を始めた。
朝はごく順調に始まった。
デイメンは起きて己の仕事にとりかかった。火の始末、荷車へのたたんだ天幕の積みこみ、それから兵たちは出発の仕度にかかる。前夜にローレントがしたためた書状は、一人の騎手によって東へと旅立っていった。
罵声はとびかっていたが気さくなもので、とっくみ合いを始める者もおらず、この面々ではそれだけで上出来だと、デイメンは鞍の準備をしながら思う。
目のすみにふと、淡い色の髪と、革の騎乗服姿のローレントをとらえた。ローレントを気にしているのはデイメン一人だけではなかった。いくつもの頭が彼のほうを向き、ちらほらと人がより集まっていく。ローレントの前にはラザールとアイメリックが立たされていた。正体のわからぬ胸騒ぎに、デイメンも手にしていた馬具を下ろすと、そちらへ歩いていった。
アイメリックは、顔にすべての表情をさらけ出し、畏敬の念と無念さをにじませてローレントを見つめている。明らかに、己の軽率な行動が王子の目に留まったことは、彼にとって痛恨のきわみであった。ラザールはもっと読みづらい。
「殿下——お詫び申し上げます。私のあやまちです。二度とこのようなことは……」
声の届くところまで近づいたデイメンへ、その言葉が聞こえた。アイメリックだ。やはり。
「どうしてそのような行為に出た?」
ローレントはさばけた口調で語りかけている。
その時になって、初めてアイメリックは己が抜けられない深みにいると気付いた様子だった。
「そこは重要ではないかと。ただ、私のあやまちだったというだけで」
「重要ではないか?」
ローレントは——わかっているのだろう、その筈だ——青く冴えたまなざしをゆったりとラザールへ据えた。
ラザールは黙していた。嫌悪と怒りを含んだ沈黙だった。それがふっと打ち沈み、投げやりな敗北感をにじませて、目を伏せる。
ラザールを見下ろすローレントを凝視して、デイメンは不意に、ローレントがまさにこの公衆の面前できっちり白黒をつけるつもりなのだと悟った。ひそかに周囲をうかがう。すでに多すぎるほどの人々の目が集まっていた。
何をしようとしているか、ローレントなら心得ていると願うしかない。
「隊長はどこにいる?」とローレントがたずねた。
隊長は、すぐには見つからなかった。オーラントが探しに行かされる。ゴヴァートを呼びに行ったきりあまりに長く戻らなかったので、デイメンは厩舎でのことを思い出し、様々に相容れない男ではあるが、オーラントにこっそり同情した。
ローレントは落ちつき払って、待った。
そして待ちつづけた。
状況がほころびを見せはじめる。見物している兵たちの間に忍び笑いが起き、それが宿営地全体へ広がっていく。王子が、皆の前で隊長に言いたいことがあるそうだ。隊長は王子を立たせっぱなしでお楽しみ中だ……誰の面目が潰れるにせよ、愉快な見世物になるだろう。すでになっている。
デイメンの腹に、ひどく嫌な予感が冷たく粘りついた。昨夜ローレントに忠告した時、こんなことをしろと言ったつもりではなかった。待たされれば待たされるだけ、ローレントの権威に傷がつく。
ついに姿を見せたゴヴァートは、のんびりとローレントに歩みよりながら剣帯を腰へ巻き直していて、肉欲にふけっていたことを知られようがかまわないといった様子だった。
今こそ、ローレントが己の威厳を示し、私情抜きで冷静にゴヴァートをいさめるべき瞬間だった。だがかわりにローレントはたずねた。
「
交尾んでいたところを邪魔したか?」
「いや、もう終わった。何か用か?」
ゴヴァートは、無礼丸出しの投げやりさでたずねる。
そして突然に、この男とローレントの間には自分の知らぬ何かがあるのだと、デイメンは悟った。ゴヴァートが衆目の前であろうがまるでかまわず、執政の権力にぬくぬくとくるまっていることも。
ローレントが言葉を返す前に、オーラントが戻ってきた。長い茶の巻き毛で分厚いスカート姿の女の腕をつかんでいる。見物していた兵たちの間をざわめきが渡った。
「俺を待たせたのは」とローレントが言った。「ここの女に己の種を仕込むためか?」
「男ってのは犯るもんだろ」
ゴヴァートはそう返す。
駄目だ。すべてが間違っている。下品で感情的、しかも言葉でおとしめたところでゴヴァートには何の痛痒も与えられない。意にも介すまい。
「男は、犯るものか」
「俺が犯ったのはその女の口さ、股じゃない。ところがあんたは哀れにも——」
言いつのるゴヴァートに、この瞬間やっとデイメンにも、どこまで事態が悪くなろうとしているのか見えた。ゴヴァートがどれほど己の権力に慢心しているのか、どれほど根深くローレントを憎んでいるのか。
「——ちょっとでも色気づいた男は一人だけ、しかも相手は自分の兄貴ときてる——」
そして、ローレントならまだこの場を掌握できるかもしれないというデイメンの望みも潰えた。ローレントの表情が崩れ、目が冷たく据わり、鋭い金属音とともに剣が鞘から抜き放たれた瞬間に。
ローレントが命じた。
「抜け」
やめろ。駄目だ。デイメンは反射的に踏み出し、そこで立ちすくんだ。なすすべなく拳を握りしめる。
ゴヴァートへ目をやった。ゴヴァートが剣を使うところを見たことはないが、闘技場での対決でこの男の熟達した戦いぶりはわかっている。対するローレントは王宮の王子、国境警備の義務も逃れつづけ、できる限り正面からの勝負を避けて裏をかこうとする男だ。
さらに悪い——ゴヴァートは執政の全面的な後ろ盾を得ている。見物している兵たちはまず知らぬことだろうが、おそらく執政は、機会あらば甥を始末していいとゴヴァートに言い含めてあるに違いなかった。
ゴヴァートが剣を抜いた。
ありえないことが起きようとしていた——近衛隊の隊長が名誉をかけた決闘に応じ、兵たちの面前で世継ぎの王子を切り殺す。
その上、ローレントは傲慢にも、防具なしで臨む気だ。負けるなど思ってもいない。だからこそわざわざ部隊全員を集めた上でこんな行動に出た。冷静さを失っている。ローレント、傷ひとつない体と屋内で守られてきた肌を持つこの男は、どうせ宮殿内での剣術遊びでうやうやしく勝ちをゆずられるのに慣れて、ろくな経験もないに違いない。
殺される、とデイメンは避けられぬ未来を、まざまざとそこに見た。
ゴヴァートは至って気楽に剣を振った。鉄同士が削り合うような音とともに二人の男は荒々しい打ち合いになだれこみ、デイメンの心臓が喉元まではね上がる。こんな事態を招くつもりもこんな結末を迎えるつもりもなかった。こんな形では。そして二人が離れた時、デイメンの心臓は驚きに早鐘のごとく打っていた。一合交わして、ローレントの命がまだあることに。
次の打ち合いでも。
そして
三度剣を交えてなお、驚くべきしぶとさで、ローレントはまだ生きたまま、値踏みするように落ちつき払って相手を見つめていた。
ゴヴァートにとっては耐えがたいことだ。ローレントが無傷で立っている分だけ、ゴヴァートは笑いものになる。結局のところゴヴァートのほうが膂力もあり背も高く年上で、しかも兵士なのだ。続く攻撃でゴヴァートはローレントに息つく間も与えず、次々と力まかせの剣を叩きこんだ。
その剣を、ローレントは受けてみせる。衝撃はむしろ相手の力を利用し、巧みな動きで優美に流す。デイメンは一撃ごとにひるむのをやめ、勝負に目を据えた。
ローレントの戦い方は、彼の話し方そっくりだった。手強いのはその思考力——ローレントのあらゆる動きが計算され尽くしている。なのに動きを読めないのは、剣を振る間にも、常と変わらず彼の意図が幾重にも張りめぐらされ、それまで見えていた流れがある瞬間に裏返り、別の形へ変転してしまうからだ。デイメンには、ローレントの仕掛ける創意をこらした罠が見えた。ゴヴァートには見えていなかった。ゴヴァートはただ、予想外に手こずっていると感じるや、ひとつ、デイメンならやめろと忠告することをした。怒ったのだ。愚かにも。ローレントにとって、相手を挑発し、怒りにつけこむのは得意技だ。
再度つっこんできたゴヴァートの攻撃を、ローレントは洗練されたヴェーレ流の剣さばきで次々と受け流す。見つめるデイメンの手が剣を求めてうずいた。
今や、怒りと驚愕がゴヴァートの剣を鈍らせていた。初歩的な失敗を冒し、力を空費して的外れに打ちこんでくる。ローレントにはゴヴァートの全力の一撃をまともに受けとめきる腕力はない。洗練された剣で角度をつけてさばいたり重心移動を使って応撃するしかない。致命的な一撃になる筈だ、ゴヴァートがその一撃を当てられさえすれば。
それができない。デイメンが見る前で、ゴヴァートは剣をがむしゃらに大きく振り回した。憤怒に溺れて愚かな動きをくり返しているようでは勝てない。全員の前で、そのことがさらけ出されつつあった。
別のことも、容赦なくつきつけられる。
ローレントは、生まれつきのバランス感覚と運動神経をそなえた上、叔父の非難とは裏腹にその才能を無駄にしてなどいなかったのだ。無論、王子として最高の剣の師と教育に恵まれたに違いないが、これほどの腕前に達するには長きにわたる厳しい鍛練を、それもごく若くから、積む必要があった。
これは、対等な戦いですらなかった。公衆の面前で相手を徹底的にさらしものにする制裁だった。そしてここで教訓を与え、相手を易々と見下しているのは、ゴヴァートのほうではなかった。
「拾え」
はじめてゴヴァートの手から剣が落ちると、ローレントが命じた。
ゴヴァートの利き腕に、赤い線がくっきりと長く浮いている。すでに六歩分、ローレントに押されて下がっており、ゴヴァートの胸が息で大きく浮いては沈む。ゆっくりと、ローレントに目を据えながら剣を拾った。
もはや怒りにまかせた一撃や足運びの狂いもなく、力ずくで剣を振り回したりもしなかった。追いつめられたゴヴァートはローレントを観察し、己の最高の剣をくり出した。次の打ち合いで、ゴヴァートは真剣に奮闘した。それでも何も変えられない。ローレントの戦いは冷徹で容赦なく、もはや結末は誰の目にも明らかだった——今度はゴヴァートの足ににじんだ血の筋に、そしてふたたび草の上に落ちたゴヴァートの剣に。
「拾え」
ローレントはまたもそう命じた。
デイメンはオーギュステを思い出す。戦いの前線を幾時間にもわたって支え、迫りくる攻撃を打ち破りつづけた彼の強さを。
そして今、ここで、オーギュステの弟が戦っている。
「乳臭え軟弱野郎だと思ってたけどな」と執政の兵の一人が呟いた。
「あいつを殺す気かな?」と別の兵が問いかける。
デイメンはその問いの答えを知っていた。ローレントはゴヴァートを殺すまい。叩きつぶすだけだ。ここで、皆の目の前で。
その意図を勘付きでもしたか、三度目に剣を落としたゴヴァートは、ついに自制を失った。このまま延々と負け試合を続ける恥辱より、決闘という枠を壊してしまうほうがましだと、剣を拾わずローレントへ突進した。狙いは単純明快——格闘戦に持ちこめればゴヴァートが勝つ。
割って入る時間など誰にもなかった。だがローレントの反射神経ならば、決断には充分すぎる時間だった。
剣を上げ、ローレントはその剣身をゴヴァートの体に貫きとおした。腹や胸ではなく、肩へと。切りつけたり小さな傷では止められないほどの猛突進だったが、ローレントは剣の柄頭を自分の肩に当てると、体重すべてで深々とゴヴァートの体に剣を突きこみ、その前進をくいとめた。猪狩りで、刺さった槍が致命傷を与えられなかった際に使われる技だ——丸い柄頭を肩に当て、猪をその場に貫きとめる。
猪であれば槍から逃れたり木の槍柄をへし折ることもあるが、剣に貫かれたゴヴァートは人間であり、膝から崩れた。ローレントは、見るからに力をこめて、ゴヴァートの肩から剣を引き抜いた。
「服を剝げ」と命じた。「この男の馬と所持品を取り上げ、砦から追い出せ。西へ三キロ行けば村がある。根性さえあれば生きてたどりつけるだろう」
静寂の中、ローレントはごく落ちつき払った口調で、二人の執政の兵へと告げた。二人ともためらいなくその命令に従う。ほかには誰ひとり、動かなかった。
誰ひとり。まるで夢から醒めた心地で、デイメンは周囲に群れている顔を見回した。まず王子の部下たちへ、てっきりこの結末に自分と同じ唖然とした顔をしているだろうと目をやったが、皆の顔には得意げな色こそあれ、驚きはまるで見えなかった。彼らはローレントの勝利を疑いもしていなかったのだ。
執政の兵たちの反応はもっと雑多だった。溜飲が下がったという顔もあれば、愉快そうな者もいる。この見世物を楽しみ、くり広げられた剣技を堪能したのか。それ以外の空気もある。この男たちにとって、権威とは強さなのだ、とデイメンは悟った。そしてローレントの強さを目に焼きつけた今、兵たちは王子の美しい顔にこれまでと違う目を向けることだろう。
張りつめた空気を最初に破ったのはラザールで、ローレントへ布を放った。ローレントはそれをつかみ、まるで厨房の手伝いが肉切り包丁を拭うような無造作さで剣身を拭った。剣を鞘におさめ、真紅に染まった布を捨てる。
よく通る声で、彼は兵士たちへ言い渡した。
「三日間の無様な指揮官ぶりは、ついに王家の名誉に唾を吐きかけ、ここに終わることとなった。我が叔父は、自ら任命した隊長がこのような心根の男だとは知るよしもなかっただろう。ご存知だったなら、この者をさらし台に送りこそすれ、人の上に立たせたりなさるまい。明日の朝からすべてが変わる。今日のところは我らは先を急ぎ、無駄にした時間を取り戻すぞ」
ひしめく兵たちが口々に話し出す、そのざわめきが静寂を破った。ローレントはほかに用があるとばかりに背を向けると、ジョードのそばで足を止めて隊の指揮権をゆだねた。ジョードの腕に手をのせて彼が何か低く囁くと、ジョードはうなずき、皆に指示をとばしはじめた。
それで終わりだった。ゴヴァートの肩からあふれる血がシャツを赤く染めている。そのシャツも体から剝ぎ取られた。ローレントの無慈悲な命令は、寸分たがわず実行された。
ローレントに布をよこしたラザールは、ローレントに二度と行きすぎた口は叩くまい。それどころか、今ローレントを見つめるラザールの目つきは、あのトルヴェルドの敬慕の目によく似ていた。デイメンは眉をひそめた。
デイメン自身の心持ちは、どこか均衡を失ってあやうい。まさに今のは——予想外。ローレントのこの顔は知らなかった。これほどの鍛練を積み、ここまでの技量を持つとは。だが、どうしてそれを見た今、世界が覆されたような気がするのか、それがわからない。
あの茶色の巻き毛の女が分厚いスカートをたくし上げ、ゴヴァートのそばまで歩いていくと、すぐ横に唾を吐いた。デイメンの眉根はますます寄った。
父からの助言がよみがえる——決して手負いの猪から目を離すな、ひとたび狩りで獣とまみえたなら息の根を断つまで戦えと。そして、猪が手傷を負った時こそ、もっとも危険な敵となるのだと。
その思いが、心に騒いで消えなかった。
ローレントは四騎の使者に知らせを持たせ、アーレスの王宮へ送り出した。そのうち二人は王子直属の兵、一人は執政の部隊から、そしてもう一人はベイリュー砦の世話係。四名ともがこの朝の出来事を自分の目で見届けていた——王家に対する侮辱の言葉を吐いたゴヴァートへ、寛大で公平なる王子が名誉をかけた決闘を挑んだところ、ゴヴァートはすっかり戦う力を奪われ、決闘の鉄則を破って王子を害そうと襲いかかった。まさしく叛逆行為。そしてゴヴァートは正しく裁かれ、罰せられた。
言い換えれば、執政の元に、己の手飼いの隊長が見事に除かれたという報告が届くのだ。 しかも執権への反抗とは——そして王子の我が儘や無能とは——決して責められぬ形で。
第一の勝負は、ローレントが取った。
一行はヴェーレの東端、ヴァスク国境の方角へと馬を走らせた。山々が国境いとなっている。今夜はふもとの丘にあるネッソンという砦で宿営する予定で、その先は南へ転進して曲がりくねる道を進む。朝のあの痛快な戦いとそれに続くジョードのてきぱきとした命令が、すでに兵たちの空気を変えていた。今日は行軍から遅れる騎馬はいない。
朝の遅れを取り戻そうと全力でネッソンまでの道を急がねばならなかったが、兵たちは喜んで従い、ついにネッソンの砦に到着した時には夕陽が地の端に沈みはじめたばかりだった。
ジョードのところへ指示を受けに行ったデイメンは、そこで心構えのできていない話題につき合わされる羽目になった。
「顔に出てたぞ。お前、王子が戦えるとは知らなかったんだろ?」
「ああ」デイメンは認める。「知らなかった」
「強いのは血筋でな」
「執政の兵たちも、俺と同じほど驚いていたようだったが」
「目立たないようにしているからな。王宮内にあった、個人的な修練場を見ただろう? 折りにふれ、あそこで近衛相手に手合わせするんだよ。オーラントや俺とも——何回か、俺もぶちのめされたよ。兄上ほどの腕前とはいかないが、オーギュステ王子の半分の腕がありゃほかの誰より十倍強い」
強い血筋。そうとだけは言いきれまい。二人の兄弟の剣にはところどころの相似と、それと同じほどの差違があった。ローレントは兄ほど力強い体躯ではなく、その剣筋の芯には優雅さと智慧があり、オーギュステを輝く黄金とするならローレントはしなやかな水銀だ。
ネッソンの砦は、ベイリュー砦とは二つ、はっきり異なっていた。まず、なかなかの規模の城下町を持っている。町は、山麓を抜けていく貴重な細い山道のそばにあり、ヴァスクの属州であるヴァ=ヴァッセルと夏季の貿易を行っていた。
そして第二の違いとして、この砦は充分に——そこそこ——手入れされていて、兵たちは宿舎に、そしてローレントは城内に寝床を得られた。
命令を受けたデイメンは、低い扉から寝室へと入った。ローレントはまだ城外で馬にまたがり、斥候の配備を含めてあれこれ采配していた。侍従としての役割を言い付かったデイメンは蝋燭をともして暖炉に火をおこしたが、心ここにあらずだった。ベイリュー砦からの長い行軍の間、考える時間はたっぷりあった。はじめのうち単にデイメンは、目撃したあの決闘についてあれこれ考えていた。
そして今、初めてローレントが執政に譴責された時のことを振り返る。ローレントの領土が没収された時だ。内々ですむ戒告だったものを、執政は衆目の前での見世物にした。奴隷を抱擁せよと、最後に命じて。添え物、ちょっとしたつけ合わせ、不要な辱め。
デイメンは闘技会でのことを思う。宮廷人たちが集い、私的な行為までが衆目の前で演じられ、辱めや疑似的な強姦が皆の前でくり広げられていたあの場を。
それから、ローレントのことを思った。宴の夜、ローレントが奴隷をトルヴェルドに引き渡すべく操ったあの夜もまた、皆の目の前での長々とした叔父との対決であり、精密に仕組まれた筋書きどおりに実行されたのだ。
ニケイスのことも思った——宴席でデイメンの隣に座っていたあの少年を。そして、事前に警告を受けていたというエラスムスを。
〈殿下は、いつもすみずみまで目配りが行き届いておられる〉
ラデルのあの言葉。
デイメンが火をおこし終わる頃、まだ騎乗服のままのローレントが部屋に入ってきた。ゆったりと落ちつきをたたえ、まるで決闘を生きのびて隊長を剣で串刺しにしたことも、その後の丸一日の馬上の行軍も、わずかも影響を残してないかのようだ。
今はデイメンも、そんな上っ面で惑わされないくらいにはローレントを知っている。
デイメンは口を開いた。
「あの女に金をやって、ゴヴァートと寝ろと言ったのか?」
ローレントの、騎乗用手袋を外していた手が止まり、それからあらためて動作を続けた。指を一本ずつ革から抜いていく。その声には揺らぎがなかった。
「金をやって、ゴヴァートに近づけと言った。女の口に一物をつっこませたわけではない」
デイメンは、厩舎に行ってゴヴァートの行為を中断するよう命じられた日のことを思う。そして、この部隊には行軍の後ろをついてくる売色集団がいないことを。
ローレントが言った。
「あの男には、選択肢があった」
「いいや」デイメンは否定する。「選択肢があると思いこまされただけだ」
ローレントは、ゴヴァートへ向けたのと同じ醒めた目をデイメンへ向けた。
「説教か? お前の忠告は正しい、あれ以上は放置できなかった。俺は、対立が自然に起きるのを待っていたのだが、それでは時間がかかりすぎる」
デイメンはローレントを凝視した。すでに疑いは持っていたとはいえ、事実だと、この耳で聞くのとは別物だった。
「正しい? 俺が? 俺が言ったのはこんな——」
途中で言葉を呑みこむ。
「言え」とローレントがうながした。
「今日、一人の男を潰したんだぞ。何とも思わないのか? 皆、命ある人間なんだ、叔父上とのチェスの駒ではない」
「いいや。俺たちは叔父の盤上にいるし、あの連中は残らず叔父の駒だ」
「ならば彼らを盤上で動かして喜ぶがいい、自分がまさにその叔父と同類な人間だということをな」
その言葉は、ただ口から出ていた。デイメンはまだ、己の疑いが裏付けられたことにどこか動揺していた。己の言葉がローレントにこれほど効くとも思っていなかった——ローレントはまさにぴたりと動きを止めた。
彼が言葉を失うところなど、これまで見たこともない。その沈黙が長く持つとも思えなかったので、デイメンは一気にたたみかけた。
「騙すように兵の忠誠を得て、どうやって彼らを信頼できる? あなたなら、いずれ皆の敬意を得られた筈だ。どうして自然に信頼が芽生えるのを待たない? それであれば——」
「
時間がない」
それまで陥っていたほぼ自失の状態から、その言葉は絞り出すようにこぼれていた。
「そんな時間はない」ローレントはくり返した。「国境まであと二週間しかない。俺が仕事に精出して笑顔を振りまけばそれだけの間に兵たちを口説き落とせるとは、お前も思うまい。俺は、叔父が言い立てているような嘴の黄色い雛鳥ではない。マーラスの戦場でも、サンピリエの戦場でも戦った。仲良しごっこのために来ているわけではない。率いる兵が命令を聞かなかったり隊列を乱したせいで斬り倒されていくのを見るつもりもない。俺は、生きのびるためにここにいる。叔父を打ち負かすつもりだし、そのためなら手にあるすべての武器を使う」
「本気なんだな」
「勝つためにな。それとも、俺が刃の上に身を投げ出してやるつもりでここまでのこのこやって来たと思うか?」
デイメンは、腹をくくって問題を正視すると、まず実行不可能な手段を除き、そこから達成可能な選択肢だけを抜き出した。
「二週間では足りない」と告げた。「あのような兵たちをわずかでも望みのある状態に持っていくには、一月近く要する。その段階に至ってさえ、底辺の連中は切り捨てる必要があるだろう」
「よかろう」ローレントが応じた。「ほかにはあるか?」
「ああ」
「なら率直に言ってみろ。どうせお前はいつもそうだがな」
「俺は、可能な限り力になるが、この限られた時間ではとにかく徹底的に鍛え抜く以外のやり方はない。その采配には、ひとつの間違いも許されないぞ」
ローレントは顎を上げ、どこまでも冷ややかな、そしてこれまで以上に挑発的な傲岸さを見せて、言い切った。
「見ているがいい」
--続きは本編で--