叛獄の王子
叛獄の王子1
C・S・パキャット
■序
「わたくしどもが聞きましたところ、そちらの王子は──」
貴婦人のジョカステが語りかける。
「ご自分の後宮をお持ちだという話。ここにいる奴隷たちはどんな御方のお望みも満たすでしょうが、わたくしはこの上、さらなる特別な贈り物をとアドラストスに申しつけましたのよ。我が陛下から、そちらの王子への個人的な贈り物をね。いまだ粗削りな原石にはなりますけれど」
「王陛下におかれましては、さらなるご厚情、大変ありがたく」
ヴェーレの元老、グイオンが応じた。大使としてここアキエロスの国を訪れている。
彼らは、
物見の回廊をゆったりと歩んでいた。この昼下がり、グイオンは奴隷の扇で暑気を仰がれて涼を取りながら、葡萄の葉にくるまれた香味の強い肉を堪能した。この蛮国にもそれなりの魅力がある、と快く認めてもいいくらいだ。たしかにこの国の食事は洗練されてはいないが、奴隷たちは非の打ちどころがない。従順そのもので、気配りも行き届き、私心なく尽くす。ヴェーレの甘やかされた色子どもとは大違いだ。
回廊は、二十四人の奴隷たちの姿で美しく飾られていた。皆、全裸か、わずかな透け絹をまとっただけの姿だ。紅玉と瑠璃で飾られた金の首輪、そして金の手枷を着けている。どちらも拘束ではなく、形だけの飾りだ。奴隷たちの跪いた姿こそ、献身と恭順の表れであった。
この奴隷たちは、アキエロスの新たな王からヴェーレの執政への贈り物である──それも、大変な価値がある贈り物だ。奴隷の身を飾る黄金だけでもひと財産あるし、奴隷たち自身もアキエロスの最高級の奴隷だろう。グイオン自身も、この王宮奴隷の中の、つつしみ深く、美しくほっそりした腰と濃い睫毛の若い奴隷を我が物にしようと目をつけていた。
回廊の奥には、王宮奴隷の采配をまかされている奴隷の
司のアドラストスが立ち、近づく二人へと、焦茶の靴の踵を打ち合わせてきびきびと一礼した。
「さて、お楽しみ」
ジョカステが微笑む。
一行はそのまま小部屋の中へと導かれ、そして、グイオンは大きく目を見開いた。
縛られ、兵に取り囲まれたその男の奴隷は、これまでにグイオンが見たどんな奴隷とも違っていた。
見事な筋肉が盛り上がる力強い体。身に着けているのも、回廊の奴隷たちを飾っていたような華奢な鎖などではなかった。この奴隷の拘束は本物だ。両手は背中で縛り上げられ、足と胴も太索できつく縛られていた。だというのに、その肉体にみなぎる力の前で拘束など今にもちぎれとびそうだ。
口枷をはめられた奴隷の黒い目は、憤怒に燃えさかっている。見れば体や足には赤い痕が浮き上がり、体を縛る豪奢な縄に抗ってこの男がどれほど暴れたのかがわかる。
ほとんど恐慌を覚えたかのように、グイオンの鼓動が速まった。粗削りな原石? そんなものではない。これは、野生の猛獣だ。回廊を飾っていたあの二十四人の奴隷など、この奴隷に比べれば飼いならされた子猫にすぎない。男の肉体にみなぎる力を、縄がやっとのことで押さえこんでいる。
グイオンはアドラストスを見やった。奴隷の司は、この奴隷に近づけないかのように後ろに控えたままだった。
「新たな奴隷は縛られるものなのですかな?」
グイオンは、平静さを取り戻そうとしながらたずねる。
「いいえ、この奴隷だけです。この者は、つまり──」とアドラストスが言いよどんだ。
「つまり?」
「人に従い慣れておりませんので」アドラストスは不安そうなまなざしをジョカステへ向けた。「訓練を、受けておらぬのです」
「うかがったところによれば、そちらの王子は困難を恐れず、むしろ挑戦を好まれるとか」
ジョカステがそう続けた。
グイオンはできる限り表情を保って、ふたたびその奴隷を見やる。この粗野な贈り物をヴェーレの王子がお気に召すどうかは、きわめて疑わしかった。控えめに言っても、アキエロスの野蛮人に向ける王子の気持ちは、とても温かいとは言えないものだ。
グイオンはたずねた。
「この奴隷に名は?」
ジョカステが答える。
「勿論、王子がお好きな名前でお呼びになってよろしいかと。ただ、わたくしどもの陛下はことのほかお喜びになると思いますの──この奴隷を、
デイメンという名で呼んでいただければ」
貴婦人の目がキラリと光った。
「ジョカステ様……」
アドラストスがとがめるような声を上げたが、無論、ジョカステが聞く筈もない。グイオンは二人の顔を交互に見やった。何か、言葉を返さなければならないのだとわかっていた。
「それはまことに──興味深い名前を、選ばれましたな」
そう返しはしたが、内心あっけに取られていた。
「陛下もそうお思いですのよ」
そう、ジョカステが唇の端をかすかに持ち上げた。
彼に仕えていた女奴隷のリカイオスは、一瞬で喉を切り裂かれて死んだ。リカイオスは王宮奴隷で、戦いの心得などひとつもなく、もし主人に命じられたなら自ら膝を付いて喉を刃にさらすほどに忠実なしもべであった。
だが実際には、従ったり抗ったりする間すら、彼女には与えられなかった。音もなく崩れた彼女の体が、白い大理石の上にさらに青白く横たわる。体の下からじわじわと血がひろがっていく。
「とらえろ!」
そう叫んだのは部屋になだれこんできた兵士の一人、癖のない茶色の髪の男だった。一瞬、茫然自失のその瞬間だったなら、デイメンはあっさりとらえられていたかもしれない。だがその一瞬は、二人の兵士がリカイオスをつかんで斬り殺す間にすぎていた。
たちまちに続いた争いの中、デイメンは三人の兵士を倒し、剣を奪った。とり囲む兵たちがたじろぎ、足を止める。
「誰に命じられた」
デイメンが詰問した。例の、茶色の髪の兵が答える。
「王陛下だ」
「父上が?」
思わず、デイメンは剣を下げかかった。
「いや、カストール陛下だ。前王は亡くなられた。この男をとらえろ!」
戦いとなると、デイメンの体は自然と動いた。生まれながらの力と才能に加え、厳しい鍛練を積んでいる。だがこの兵士たちを送りこんできたのはそのデイメンの技量をよく知る相手で、その上、いくら兵を犠牲にしようがかまわないと決めているようだった。
しばらくは持ちこたえたものの、数に圧倒され、ついにデイメンはとらえられる。両腕を背中にねじり上げられ、喉に刃をつきつけられた。
てっきり殺されるのだと思っていた。甘い考えだった。かわりにデイメンは幾度も殴られ、縛り上げられて──無手ながらに激しい抵抗でいくらか報いた末、さらに打ち据えられた。
「つれていけ!」
茶色の髪の兵が、こめかみからつたう血を手の甲で拭いながら命じる。
デイメンは牢に放りこまれた。生来まっすぐな気性の彼にとって、まったく呑みこみがたい、理解できない出来事ばかりだった。
「兄に会わせろ」
そう命じたが、兵たちは笑って、その一人がデイメンの腹を蹴った。
「その兄上のご命令だよ」と嘲笑う。
「嘘だ。カストールは叛逆者などではない!」
だが、独房の扉が叩きつけられて閉まると、デイメンの心に初めて疑いが芽生えた。
自分は、前兆を見逃していたのか、と小さな声が囁く。あるいは目をそむけていただけなのだろうか? 病床ですっかり衰えた父へ、カストールが息子としての礼を尽くしていないという暗い噂は聞いたが、嘘だろうと耳も貸さなかった。
翌朝、迎えが来た時、デイメンは腹をくくっていた。こんなことを命じた男と、苦いながらも誇りを持って堂々と向き合いたいと、おとなしく後ろ手に縛られ、乱暴な扱いや背を荒々しくこづく手にも逆らわず、歩き出した。
どこへつれていかれるのか、それを悟った時、デイメンはふたたび、暴れはじめた。すべての力で。
その部屋は、ごく素朴に白い大理石を削って作られていた。床も大理石で、わずかな傾斜がつけられ、その先は目立たぬように落ちこんで水路になっている。天井からは対になった手枷が下がり、デイメンは激しくもがいたが、抵抗もむなしく、両腕を頭上で拘束された。
ここは、奴隷の浴場だ。
デイメンは枷を引いて暴れた。だが拘束はびくともしない。手首の肌が擦れるだけだ。湯のそばにはクッションや布が目を引く山となって積まれており、様々な形の色硝子の香油瓶が並べられ、繻子の上の宝石のごとく艶やかに光っていた。
白い濁り湯には香りがつけられ、薔薇の花びらが散らされている。すべてが行き届いていた。
こんなことがあるわけがない──デイメンの胸に憤怒が荒れ狂う。同時にその奥、心の底で、深く押し殺された新たな感情が身じろいで、胃の腑がねじれた。
兵士の一人が、慣れた手つきで背後からデイメンの体の自由を奪い、もう一人が服を脱がせはじめた。
服がほどかれて手早くはぎ取られる。サンダルは切り裂かれて足から抜かれた。屈辱を、頬を打つ湯気の熱さほどにたぎらせ、デイメンは枷から吊られて全裸で立った。浴場に満ちる湯気が肌に温かく絡みつく。
見覚えのある、彫りが深くととのった顔の男がアーチの出口のそばに立ち、兵士たちを下がらせた。
アドラストス。王宮の奴隷たちを束ねる長だ。その奴隷の司の位を、彼はテオメデス王から授かったのだった。
つき上げてきた怒りはあまりに激しく、デイメンは半ば目がくらむ。平静さを取り戻した時、やっと彼は、アドラストスが妙な目つきでデイメンを品定めしているのに気付いた。
「その汚い手で俺にふれるな」
デイメンは言い放つ。
「上からの命令でして……」と答えはしたが、アドラストスは前に出ようとはしなかった。
「ふれれば殺す」
「……女ならば──ここはひとつ……」
呟いて、アドラストスは一歩下がり、雑仕の一人に何か耳打ちした。雑仕は一礼して出ていった。
すぐに、一人の女奴隷が浴場へ入ってきた。選ばれてきただけあって、デイメンの好みによく添った姿をしている。肌は浴場の大理石ほどに白く、金の髪は簡素にまとめられて、華奢な首すじがあらわになっていた。薄紗の衣をふっくらとした乳房が押し上げ、薄桃色の乳首がかすかに透けていた。
奴隷にかしずかれることには慣れたデイメンだったが、近づく女奴隷を、彼は戦場で敵を前にしたような警戒のまなざしで見つめた。
彼女の手が上がり、自分の肩の留め金を外した。薄紗を脱ぎ捨てながら、乳房の丸みやほっそりとした腰をあらわにしていく。服が床に落ちた。女奴隷は手桶を取り上げる。
裸の姿で、彼女はデイメンの体を洗った。自分の肌や丸い乳房にしぶきがはねるのもかまわず、デイメンの肌から泡を流す。最後にはデイメンの髪を濡らして石鹸をつけ、丁寧に洗うと、湯の入った手桶を手に爪先立ってデイメンの後頭部に湯を注ぎ、すすいだ。
犬のように、デイメンは頭を左右に振って水を払う。周囲を見回したが、奴隷の司のアドラストスはいつしか姿を消していた。
女奴隷は色硝子の瓶のひとつを取り上げ、手のひらに香油を垂らした。油を手になじませ、デイメンの全身、すみずみまで丹念に香油をすりこんでいく。その間も目はつつましく伏せたまま、彼女の手は敏感な場所にさしかかるとゆっくりとなって、デイメンに合わせた体をゆする。デイメンの指が、鎖にくいこんだ。
「それで充分」
その声はジョカステだった。女奴隷はデイメンからとびはなれると、すぐさま濡れた大理石の床へ平伏した。
今や雄々しく勃起したデイメンの体を、ジョカステは冷徹なまなざしで品定めしていた。
「兄に会わせてくれ」デイメンが言った。
「あなたに、もう兄はいない」ジョカステが答える。「あなたにはもう家族もいない。名前もない。地位も権力もない。そのくらいのことはすでにおわかりでしょう?」
「こんなことに俺がおとなしく従うと思うか? 誰かの奴隷になるとでも? たとえば──アドラストスのか? 俺はあの男の喉笛を裂くだけだぞ」
「ええ、そうするでしょうね。でもあなたは、この王宮の奴隷となるわけではない」
「なら、どこだ」
抑えた問いかけだった。ジョカステはただデイメンを見つめている。デイメンはさらに問うた。
「一体、お前は何をした?」
「何も」とジョカステ。「ただ、兄弟のどちらかを選んだだけのこと」
二人が最後に話したのは、王宮内の彼女の部屋でのことだった。彼女の手が彼の腕に押し当てられて……。
今、彼女は肖像画のように見えた。金の髪は完璧に巻かれて整えられ、凛とした美しい眉と端麗な顔は落ちつき払っている。アドラストスがたじろぎ下がったその場所を、ジョカステは平然と踏みこえて、淡々と乱れぬ足取りで濡れた大理石を歩み、デイメンへと近づいてきた。
デイメンは問いかける。
「どうして俺を生かしておく? 目的は──何が狙いだ? すべて片付けただろう、俺以外は。どうしてこんな──」
言葉を途切らせた。ジョカステはその問いをあえて曲解して答える。
「兄弟愛からだとでもお思い? あの人のことを、結局何もわかっていないようね。死は一瞬で、たやすいもの。今回ばかりはあの人の勝ち。この一度の負けを、あなたは永遠に償っていくことになる」
デイメンは顔がこわばるのを感じた。
「……何だと?」
ジョカステがデイメンの顎にふれた。大胆な、その指はほっそりと白く、まさに優美そのものだった。
「どうしてあなたが白い肌を好むのかよくわかる」と彼女は言った。「あなたの肌の色は、よく傷を隠すこと」
金の首枷と手枷をはめられた後、デイメンの顔には彩色が施された。
このアキエロスの国では、男の裸体は誇るべきものとされ、羞恥の対象ではない。だが顔の塗りは奴隷の印であって、屈辱的なものだった。アドラストスの前に放り出されて、デイメンはこれ以上の恥辱はないだろうと感じた。だが顔を上げると、アドラストスが飢えをたたえた目でデイメンを見つめていた。
「そうしていると、まるで……」
アドラストスは熱っぽくデイメンを凝視しつづけている。
両腕を背で縛り上げられた上、さらに縄をかけられて、デイメンはよろめき歩く程度の動きしか許されていない。アドラストスの足元に無様に這いつくばっていた。どうにか膝立ちになったが、二人の兵士にしっかりと押さえられてそれ以上体を起こせない。
「地位のためか?」
デイメンの声に、乾いた嫌悪が満ちた。
「それならお前は愚かだ。地位など与えられるものか。誰がお前を信用する? 欲のためにこうして人を裏切る男を」
顔を殴打され、デイメンの顔が横を向いた。口の中に這わせた舌が、血を味わう。
「口をきく許しなど与えてはいない」
アドラストスが言い放った。デイメンが言い返す。
「乳しかすすらぬ稚児なみの力だな、貴様は」
アドラストスは、色を失った顔で一歩下がった。
「口枷を嚙ませよ」
そう命じる。兵士たちの手の下で、デイメンはふたたび無為に抗った。だが相手は手慣れた様子でデイメンの顎をこじ開けると、布でくるんだ分厚い鉄片を口に嚙ませ、素早く縛り上げた。くぐもったうなりしか出せずに、デイメンはそれでも激しい目でアドラストスをにらみつけた。
「まだわかっていないようだが」アドラストスがデイメンに告げる。「だが、すぐ思い知る。今や王宮で、そして街で、宿場で、人々が言い交わす言葉こそ真実なのだと。お前は奴隷だ。お前は何者でもない。──デイミアノス王子は、死んだのだ」
■第一章
徐々に、デイメンの意識が戻っていく。薬で鈍い四肢が絹のクッションに沈みこみ、手首の金の手枷は鉛塊のようにずっしりと重い。瞼が上がり、また下がる。ぼんやりと耳に届く遠い声は、はじめのうち意味を為さなかった。──ヴェーレ語だ。
本能が告げた。立て、と。
気力を振り絞って、デイメンは膝をつき、身を起こした。
ヴェーレ人の声?
そう悟りはしても、混乱した頭ではなかなかその意味するところがわからない。精神は、肉体以上に御しづらい。とらえられた後に何があったのかすぐには思い出せず、ただあれから時が経っていることだけはわかっていた。どうやら、どこかで薬を盛られたようだ。その記憶を探し、やっとたぐりよせた。
逃亡を試みたのだ。
厳重に警固され、鍵のかかった荷馬車に載せられて、デイメンは街境近くの家へと運ばれていったのだった。その荷馬車から閉ざされた中庭へ引きずり出されて、そして──そうだ、鐘の音。突然に鳴った鐘、その不協和音があたりに響きわたった。街の一番高い場所から、生ぬるい夕方の風にのって。
黄昏時の鐘。新王の即位を告げる鐘。
テオメデス王は死んだ。皆、カストール王を讃えよ──。
その鐘の音に、デイメンが秘めた憤怒と嘆きが荒々しくかき立てられ、様子を見ようとする自制心など呑みこまれていた。馬たちが鐘に驚いたのも、デイメンには好機となった。
だが武器もなく、そこは閉ざされた中庭で、兵士たちに囲まれてもいた。失敗の代償は大きかった。デイメンは館の奥深くの牢に押しこめられ、そして、薬を盛られたのだった。そこからは昼も夜もひとつにぼやけていった。
後は切れ切れの記憶しかないが、波音と潮のしぶきが思い出されて、デイメンの心が沈んだ。海上を輸送されたのだ。
頭は段々と冴えつつあった。意識が明瞭になるのは──いつ以来だろう。
自由を奪われてから、どれほど経った? あの鐘の音からどれだけすぎた? 何もできず、どれほどの時を無駄にした? 沸き上がる意志の力をたよりに、デイメンは膝を起こし、立ち上がった。家従の者を、彼に仕える者たちを守らねば。一歩踏み出す。
ジャラリと、鎖が鳴った。足元で床がたよりなく、眩暈に揺らぐ。視界が歪んだ。
手をのばして体を支え、肩を壁にもたせかけた。ずるずると崩れそうな体を、振り絞った気力で支える。足を踏みしめ、眩暈を払おうとした。ここはどこだ? ぼやけた意識で、己と周囲の状況を見定めようとする。
デイメンの体には、アキエロスの奴隷がまとう簡素な服が着せられており、全身は清められていた。誰かの手で世話を受けたに違いないが、デイメンにその記憶はなかった。
金の枷が、首と、両手首にもはめられている。首枷は、鎖と錠前で、床に埋めこまれた鉄環につながれていた。
一瞬、気がどうかしたのかと思った──かすかな薔薇の匂いが鼻先に漂ってきたのだ。
室内に目をやると、部屋の細部までが過剰な装飾で埋め尽くされていた。壁は様々な意匠で飾り立てられ、木の扉にも紗のように繊細な透き彫り紋様が施されている。そこから、隣の様子がうっすらとした影となって透かし見える。床さえも、色とりどりのタイルが幾何学的な模様に敷きつめられていた。
どこもかしこも、紋様がまた紋様を包みこむ。いかにもヴェーレ人好みの悪趣味にあふれていた。すべてが突如としてつながった──ヴェーレ人の声……グイオン元老へのあの屈辱的なお披露目の場、「新たな奴隷は縛られるものなのですかな?」──船──そして、その行く先。
ここは、ヴェーレだ。
デイメンは慄然と、室内を見回した。彼は故国アキエロスから遠く離れ、敵国の奥深くにいるのだ。
だがおかしい。デイメンはどうしてかまだ命があり、傷もない。途中でひどく痛めつけられていてもおかしくなかったというのに。アキエロスのデイミアノス王子は、ヴェーレの人々から憎まれるだけの理由が充分ある筈だ。何故、生きながらえている?
扉の閂が抜かれる音に、デイメンははっと扉へ向いた。
二人の男がつかつかと部屋に入ってきた。彼らを警戒の目でうかがいながら、デイメンはその片方が船上で見た監守の男だとぼんやり思い出す。二人目には見覚えがなかった。その男は黒髪で顎髭をたくわえ、ヴェーレの装束をまとい、すべての指に三つずつ、それぞれの関節に指輪をはめていた。
「これが王子へ贈られた奴隷か?」
指輪の男がそう問いかける。監守がうなずいた。
「お前の話では、この奴隷は危険だそうだが。何者だ? 捕虜か、罪人か?」
そう問われた監守は、知るかと言いたげに肩をすくめて応じた。
「縛っとくんですな」
「馬鹿を申すな。ずっと縛っておくわけにはいかぬ」
指輪の男がデイメンの体を舐めるように見ていく視線が、肌でじかに感じとれるような気がする。次の言葉はほとんど賞賛に聞こえた。
「この男を見ろ。王子でさえ、手に余りかねん」
「船の上じゃ、厄介な時には薬でおとなしくさせてましたよ」と監守が答える。
「そのようだな」指輪の男の目が鋭くなった。「この者に口輪を嚙ませ、鎖を短く縮めて、王子への拝謁にそなえよ。選りすぐりの者をつけてな。面倒を起こすようならどのような手を使ってもおとなしくさせよ」
その口調はなおざりで、まるでデイメンの存在などこの男にとってはただの雑事の一つでしかなく、何の重みも持たないかのようだった。
薬の作用が引いてきたデイメンの頭にも、やっと、この二人は目の前の奴隷の正体を知らないのだ、という事実が染みこんできた。捕虜? 罪人? デイメンはそっと息を吐き出す。
目立たぬよう、おとなしくしなければ。人目を引いて、アキエロスのデイミアノス王子だと悟られようものなら、ヴェーレでのデイメンの命運はその日に尽きる。名もなき奴隷として扱われるほうがまだいい。
デイメンは、逆らわず、従った。扉口と、そばに立つ兵たちの質を目で判断する。兵たちは大したことがなさそうだが、デイメンの首に巻かれた枷と鎖が問題だ。両腕は背でくくられ、口輪を嚙まされた上、首枷を床につなぐ鎖をたった九環にまで縮められたため、膝をついていてさえ頭を垂れなければならず、ほとんど顔も上げられなかった。
デイメンの左右を兵がはさみ、正面にある両開きの扉脇にも一人ずつ立つ。間を置いて部屋に何かを待ち受けるような沈黙が満ち、デイメンは己の心臓が張りつめた鼓動を打つのを感じた。
突如、空気を乱して人の声と足音が近づいてきた。
王子への拝謁──。
ヴェーレでは今、執政が国の実権を握り、甥である世継ぎの王子の後見についている。そのヴェーレの王子について、二人兄弟のうち年下であるということ以外、デイメンはほぼ何も知らなかった。兄の前王太子──こちらはよく知るところだ──のほうは、すでに死んでいる。
数人の宮廷人たちが、無秩序に部屋に入ってきた。
ほとんどが平凡な輩だ。一人を除いて。その若者は、息を呑むほど端麗な顔をしていた。アキエロスの奴隷の中にあったならこの美貌でひと財産得ることもできたほどに。デイメンの視線と意識が吸いよせられ、とらえられる。
若者の髪は鮮やかな金で、青い目と、そして抜けるように白い肌を持っていた。その色の淡さと、結い紐をきっちり締めて飾り気のない濃紺の服との対比は峻烈なほどで、装飾過剰な部屋の中、その姿は鋭く際立って見えた。後ろに従えた廷臣たちと異なり、彼だけは何の宝石も、指輪ひとつ身につけていなかった。
若者が近づき、デイメンは美しい顔に、高慢さと険を見る。この手の顔は知っている。身勝手で利己的、己の価値を過信し、気まぐれに他人を踏みつけにする、甘やかされた若者。
「アキエロスの王から、俺に贈り物があったと聞いたが」
その若者──ヴェーレの王子ローレントが、言った。
「跪いたアキエロス人が一匹か。気が利いた贈り物だな」
デイメンの周囲に廷臣たちが集まり、王子が贈り物の奴隷を受け取る時を見届けに待つ。
ローレントの足は、デイメンを見た瞬間に凍りつき、その顔が侮辱か罵倒でも受けたように蒼白に変わる。鎖のせいでデイメンはしかと顔を上げられずにいたが、その変化を目にするには充分だった。だがその表情も一瞬で消えた。
ヴェーレに輸送されてきたのはデイメン一人ではなく、ほかにも奴隷がつれてこられたのだろうというデイメンの嫌な予想は、近くに立つ廷臣二人の抑えた声の会話で裏付けられた。ローレントの視線が、商品を値踏みするかのようにデイメンをじろりと見回した。デイメンの顎に自然と力がこもる。
グイオン元老が口を開いた。
「これは閨の奴隷として選ばれた者ですが、訓練されておりません。カストール王が言われるには、王子手ずから躾けられて楽しまれたいかと」
「俺は、汚泥に身を浸すほど不自由しているつもりはない」とローレントが応じる。
「御意に、殿下」
「この者を十字架に架けて調教せよ。それでアキエロス王の心づかいに応えることになるだろう」
「御意に、殿下」
グイオン元老の安堵がデイメンにも伝わってくる。デイメンをさっさとつれ去るよう監守の男に素早い手振りで命じた。デイメンの存在は、好意というよりある種の挑戦として受けとめられたらしい。カストールの贈り物は、気前の良さと悪趣味が入り混じったものと言えた。
廷臣たちが去りはじめる。茶番は終わりだ。デイメンは、監守が身を屈めて床の鉄環へ手をのばすのを感じた。彼を架刑台のところへつれていくために、鎖を外すのだ。デイメンは指をのばし、腹を決め、唯一の障害である監守の男へ目を据えた。
「待て」
ローレントが命じた。
監守が手を止め、背をのばした。
ローレントはデイメンに数歩近づき、表情の読めない顔でデイメンをまっすぐ見下ろした。
「これと話がしたい。口輪を外せ」
「口の汚い男ですが」と監守が警告する。
「殿下、それはいささか──」グイオン元老もいさめようとした。
「外せ」
監守がデイメンの口に嚙ませていた布を外すと、デイメンは口腔内で舌を動かした。
「名は何という、坊や?」
ローレントが、とても思いやりからとはいえない口調でたずねた。
その甘ったるい声に、答えるべきではないとわかっていた。デイメンは顔を上げる。間違いだった。二人の視線が嚙み合う。
「言葉が理解できておらぬのかもしれませんな」
グイオン元老が示唆した。
澄んだ青い目が、デイメンに据えられていた。ローレントは同じ問いを、アキエロスの言葉でゆっくりくり返した。
思いとどまるより早く、デイメンは言い返していた。
「お前たちの言葉なら、お前のアキエロス語よりもうまく話せる、坊や」
デイメンのヴェーレ語にはわずかな訛りしかなく、楽に聞き取れるものだったが、その代償に監守の男から激しい一撃をくらった。その上、兵に顔を床へ押しつけられる。
「アキエロス王からの言葉では、もし殿下のお心にかなうなら、この者を、デイメンとお呼び下さいと」
監守のその言葉に、デイメンの胃がずしりと重くなった。
周囲の廷臣たちの間を低いどよめきが渡った。すでにざわついていた空気が、一瞬にして張りつめる。
「死んだアキエロスの王子の名を奴隷につければ、殿下が楽しまれると考えておるのですよ。下品な趣向ですな。アキエロスは洗練された国ではないゆえ」
グイオン元老がそう述べた。
今回は、ローレントは変わらぬ口調で応じた。
「アキエロスの王は、己の情人を妻にするらしいと聞いたが? ジョカステを。本当か?」
「表向きは何も言われておりません。しかしそうなるのではと、人の口にはのぼっておりました」
「となれば、アキエロスの国は私生児と淫売に治められるわけか」ローレントが言った。「実に似合いだな」
押さえつけられながらもデイメンの体が反射的にはねたが、動きは短い鎖に阻まれた。ローレントの顔によぎる満足の色を見る。今の侮辱の言葉は、廷臣全員の耳に届くほどはっきりしたものだった。
「この者を十字架へ運びましょうか、殿下?」と監守がたずねた。
「いいや」ローレントが答える。「この後宮に拘束せよ。いくらか礼儀を叩きこんだ後でな」
その任務をまかされた二人の兵は、手際よく、無感情な手荒さで仕事をこなした。とは言え、デイメンが王子の所有物となった今、男たちにも、デイメンに取り返しのつかない傷を与えないようにという程度の無意識の遠慮はあった。
デイメンには、指輪の男が立ち去り際に矢継ぎ早に残していった指示を聞くだけの余裕もあった。ここ後宮でこの奴隷を拘束せよ、殿下のご意向である。誰もこの部屋に出入りならぬ、殿下のご意向である。常に二人の警固を扉の前に立てよ、殿下のご意向である。この奴隷の鎖は外してはならぬ、殿下のご意向である……。
二人の男はまだ立ち去ってはいなかったが、殴打は終わったようだ。デイメンはゆっくりと、四つん這いに体を起こした。不屈の精神で、この状況にも明るい面を探す。少なくともありがたいことに、頭はもうすっかり冴えた。
殴打より、先刻の王子との謁見のほうがこたえていた。認めたくないほど揺さぶられていた。もし首枷の鎖があそこまで短くなければ──あれほど頑強でなければ、デイメンは抗っていたかもしれない。目立つまいという決意も忘れて。
ヴェーレ人の傲慢さは知っていた筈だ。ヴェーレの者が、アキエロスの国の民を見下しているのも知っていた。野蛮人、奴隷と。己の真の目的を思って、デイメンはあの侮蔑の目にも耐えた。
だがあの王子──ローレントの中で醸成された見えすいた悪意と甘やかされた傲慢さだけは、とても我慢ならなかった。
「こいつは愛玩用の色子には見えないな」
二人の男の、背の高いほうが言った。もう片方が応じる。
「聞いただろ。アキエロスの閨奴隷だと」
「王子がこいつをヤるってのか?」
疑う口ぶりだ。
「まあ逆かもな」
「奴隷にとっちゃ悪くないお仕事だな」相手が気のない返事をしても、この男の頭からはその話題が離れないようだ。「どんな感じか考えてもみろよ。王子をまたげるんだぜ」
毒蛇を抱くようなものだろう、とデイメンは思ったが、口に出すのは控えた。
二人の男たちが出ていくや、デイメンはあらためて状況をじっくりと見定めた。逃亡は、現状では不可能だ。両手の縄はほどかれて首枷の鎖も前の長さに戻っていたが、床の鉄環につながれた鎖は太く、断ち切れそうにない。首枷を外す手だてもない。枷は黄金で、金属としては柔らかいほうであるにしても太く頑丈で、常に重く首にのしかかってくる。それにしても、奴隷に金の枷を与えるなど、馬鹿げているにもほどがある。手枷に至っては愚かとしか言いようがない。殴り合いになればいい武器になる上、売れば逃亡の資金にもなるのだ。
恭順を装って目を光らせてさえいれば、いつかその好機も訪れるだろう。鎖の長さは、四方に三歩ずつ行けるほど。手の届くところに水の入った木製の水差しが置かれていた。用意されたクッションに体をのばして横たわることもできるし、金銅の壺に用を足すことすらできそうだ。アキエロスでのように薬を盛られたり、殴られて昏倒させられたりしているわけではない。見張りは扉の外に二人だけ。鍵のかかっていない窓。
自由は、手の届くところにある。今でなくとも、じきに。
長くは待てない。時間はデイメンの味方ではない。ここに引き留められている分だけ、カストールの王権が確固たるものとなっていく。アキエロスの国で何が起こっているのか、己の支持者が、仕えてくれた人々がどうしているのか、知らぬままでいるのが耐えがたかった。
そして懸念は、それだけではない。
まだデイメンの正体に気付いた者はいないが、この先もずっと安全とは限らない。アキエロスとヴェーレは六年前のマーラスの戦い以来ほとんど国交がなかったが、ここヴェーレにも、アキエロスを訪れてデイメンの顔を見たことのある者くらい幾人かいるだろう。カストールがデイメンをこの国へ贈ったのは、王子と知られたが最後、奴隷以下の扱いを受ける地だからだ。どこか別の国であれば、己の正体を所有者に明かし、相手の協力を得ることも可能だっただろう。同情心から、あるいは国にいるデイメンの支持者からの見返り目当てだろうと。だがヴェーレでは不可能だ。正体を知られるのは、ここではあまりに危険。
マーラスの戦いの前夜、父から言われた言葉がデイメンの心をよぎる。戦え、そして信用するなと。ヴェーレ人の言葉には
真がないからと。その父の言葉の正しさは、翌日の戦場で裏付けられた。
いや。父のことは考えまい。
今は体を休めておくのが一番だろう。心を決め、デイメンは水差しから水を飲み、最後の夕陽がゆっくりと部屋から引いていくのを眺めた。暗くなると、あちこちが痛む体をクッションに横たえ、やがて眠りに落ちた。
そして、目覚めた。首枷の鎖をつかまれ、引きずり起こされて、誰ともつかない、代わり映えしない衛兵に左右をはさまれ、立たされて。
召使いが松明に火をともして壁の台座に挿すと、室内がまばゆいほどに照らし出された。広いとは言えない部屋の中で、炎がちろちろと過剰な装飾をゆらめかせ、得体のしれない光と影の踊りに変える。
その中心に立ち、デイメンを青い目で冷たく眺めているのは、ローレントであった。
飾り気のない濃紺の服が、ローレントの足先から首すじまでを禁欲的に包んでいる。手首に届く長袖に至るまで、前や袖の開きはひとつ残らず複雑な結い紐できっちりと閉じ合わされ、ゆるめるだけで一時間はかかりそうだ。炎の温かな光も、ローレントの姿の険しさをわずかもやわらげはしない。
こうしてその姿を近くで見ても、先刻の印象を裏付けられるばかりだ。甘やかされ、つけ上がった顔。まるで、放置されて腐りかけた果実。かすかに腫れぼったい瞼と口元のゆるみが、今まで取巻きにちやほやされてワインと享楽にふけっていただろうことをうかがわせる。
「お前をどうするべきか、ずっと考えていた」
ローレントが口を開いた。
「柱にくくって鞭打って躾けるか。それともお前を、カストールがもくろんだ通りの目的に使ってやろうか。それもなかなか楽しそうだがな」
デイメンのほうへ歩み出し、ローレントは四歩の距離を残して足をとめた。注意深く保たれた距離だった。デイメンの目測でも、首の鎖を限界まで張れば何とか近づけるが、届かない位置だ。
「何も言うことはないのか? ほかの者の耳はない、遠慮なく心の内を言うがいい」
ローレントのなめらかな声は、優しくもなければ信用できるものでもなかった。
「野蛮人の“汚泥に身を浸す”つもりはないと聞いたが?」
デイメンはそう、注意深く抑えた口調で返した。己の心臓の拍動を感じる。
「俺にはな」ローレントが応じた。「だがもし兵の一人にお前をくれてやったら、見物する程度の下品さは嗜んでもよいかもしれんな」
デイメンはその言葉にたじろぎ、表情を隠すこともできなかった。
「気に入らないか?」ローレントが問う。「なら、もっといいことを考えてやってもいい。こっちに来い」
この男への不信感と嫌悪感で腹の内が煮えていたが、デイメンは己の現状を嚙みしめる。アキエロスでは自由になろうともがいた結果、さらに厳しい拘束を招いただけだった。このヴェーレでは、ただの奴隷の身である以上、いつか逃亡の好機は訪れる──誇りにこだわって熱くなり、台なしにせず待てたならば。そのためなら、ローレントの幼稚で刺々しい残忍さにも耐えられる。デイメンはアキエロスに戻らなければならないのだ。すなわち、今は、命じられるまま従うしかない。
デイメンは、一歩踏み出した。
「違う」ローレントが満足そうにさえぎる。「這え」
這え。
たった一言の命令に、まさしく周囲のすべてが凍りついた。デイメンの心のどこかが、偽りの服従など捨てて誇りを守れと囁く。
だが、デイメンが衝撃と嫌悪を顔に出したのも一瞬、たちまちその体はローレントからの無言の合図によって衛兵たちに力ずくで押さえこまれ、手と膝を床に付かされた。次の瞬間、またしてもローレントの合図を受け、兵がデイメンの顎に拳を叩きこんだ。一発、二発。そして、さらに。
頭がくらくらした。唇から滴った血が床のタイルを汚す。デイメンはそれを見つめ、自制心を振り絞って、反応しないよう自分を抑えた。受け入れろ。いつか来る好機を待て。
顎を動かしてみる。折れてはいない。
「先刻も、お前は無礼だったな。その手の悪癖は正せるものだ。馬の鞭でな」
ローレントのまなざしがデイメンの体をたどっていく。デイメンの服は今の荒々しい扱いで乱れ、胸元がさらけ出されていた。
「お前、傷があるのだな」
傷痕なら、二つある。今見えているのは左の鎖骨のすぐ下の傷だ。デイメンは初めて、さし迫った危機感を覚え、鼓動が速くなった。
「それは──軍隊にいたので」
嘘ではない。
「つまり、カストールはただの兵士を王子のお楽しみ用にと送りつけてきた、そういうことか?」
デイメンは、その問いに答える言葉を注意深く選んだ。異母兄のカストールのようにたやすく虚言を言える口があればと願う。
「カストールは、俺を罰そうとして……俺が──おそらく、彼の怒りを買ったのかと。この地へ送られた目的がほかにあるとしても、それは、俺の知るところではない」
「あの
妾腹の王は、己には不要のものを俺の足元へ投げ捨ててきたと。そんなもので俺が満足すると思ってか?」
「はたして、お前を満足させられるものなどあるのかね?」
ローレントの背後から、そう声がした。
ローレントが振り向く。
「お前は何につけても不満ばかりだ。近ごろはな」
「叔父上」ローレントが言った。「気がつきませんで」
叔父? デイメンは、今宵二度目の衝撃を受けた。ローレントが叔父と呼ぶ相手はただひとり。すなわち、扉口を満たすように立つ威圧的なその姿こそ、ヴェーレの執政その人であった。
執政とローレント、叔父と甥の間に、一見して似たところはなかった。執政は四十代、肩幅は広くがっしりとして、権威をたたえていた。髪と口髭は焦げ茶色で、彼と同じ家系からローレントの金の髪や白い肌が生まれるとは見えないほどだ。
執政は、デイメンを上から下までちらりと眺めた。
「その奴隷は、自ら我が身を傷つけでもしたのかね」
「私の奴隷だ。何をしようと勝手でしょう」
「そうであっても、死ぬまで打ちのめすようなことは許さぬ。カストール王からの贈り物に対して、それは礼を逸した行為だ。我らはアキエロスと同盟を結んだのだ。お前のささいな偏見からその関係を危険にさらされては困る」
「ささいな偏見」とローレントが呟く。
「お前も、我々の協定と同盟関係を尊重してくれるだろうな? 皆にならって」
「その協定には、私がこのアキエロスの兵士崩れと遊ぶこと、とも書かれているのでしょうな?」
「子供のようなことを言うな。誰だろうと好きな相手と遊ぶがよい。ただしカストール王からの贈り物は大事に扱え。お前はすでに国境での勤めを怠っている。その上、この宮廷で義務をなまけるようなことは許されん。その奴隷にはふさわしい扱いを与えよ。それが私の命令だ。これに従うこと、よいな?」
一瞬、ローレントは反抗しそうに見えたが、すぐにその態度を抑えて、ただ一言答えた。
「はい、叔父上」
「よし。来るがいい。この話はもうすんだ。お前が何か不愉快な問題を起こす前に報告を受けられて幸いだったよ」
「ええ、まったく幸いです。あなたに不愉快な思いをさせるのは本意ではないのでね、叔父上」
ローレントの返事はなめらかだったが、言葉の裏に何かをはらんでいた。
執政はそっくりの口調で返した。
「お前と思いが一致するとは、実に喜ばしい」
彼らの退出は、デイメンに安堵をもたらす筈だった。執政がローレントの行為に横槍を入れてくれたことにも。部屋にひとり残され、夜の残りは何事もなくすぎていったが、それでもローレントの青い瞳とその目つきを思い出すと、デイメンには判断がつきかねる。執政の慈悲が、果たしてデイメンにとって恵みとなるのか、それとも事態を悪化させただけなのか。
■第二章
「執政殿下が昨夜、ここにおいでになったと?」
すべての指に指輪を飾っているあの男が、開口一番、デイメンにそうたずねた。デイメンがうなずくと、男は眉をひそめ、額の真ん中に二本の皺を刻んだ。
「王子のご様子はいかがであった?」
「うるわしく」
デイメンは答えた。
指輪の男はデイメンを鋭く見据えていた。デイメンの食事を下げる召使いに短い指示をとばす間だけ、その視線が外れる。それからまたデイメンに話しかけた。
「私はラデルだ。家令である。お前にひとつだけ言い置いておく。お前はアキエロスで警固の者に刃向かったそうだな。同じことをここでしようものなら、船上でのように薬を盛った上、様々な恩恵も剥ぎ取るからそのつもりでな」
「承知した」
またじろりと、答えを疑うかのようににらまれた。
「王子の後宮に迎えられるのは、名誉なことだぞ。多くの者がその栄誉を欲している。故国でお前にいかなる恥があったにせよ、それがお前にこの恩恵をもたらしたのだ。お前は膝を折って王子へ感謝の意を捧げるべきだ。己の矜持など捨て、これまでの下らぬ生き方も忘れるがいい。今のヴェーレは執政の手に預けられており、じき王子が王に即位される。お前は世継ぎの王子に仕えるためにのみ存在しているのだ」
「承知した」
デイメンはそう答え、できる限りの喜びと恭順を装った。
昨日と違い、目覚めてすぐ自分の状況がつかめずにとまどうこともなかった。記憶ははっきりしている。起き抜けの体はローレントから受けた扱いにきしんだが、ざっと確かめた限り、修練場で時おり受けた以上の痛手ではないと判断し、デイメンは頭を切り替えた。
ラデルの声の向こうから、遠く、耳慣れない弦楽器が奏でるヴェーレの曲が聞こえる。音が、扉や窓の透き彫りの、無数の穴を抜けてくるのだ。
ラデルが彼の現状を〈恩恵〉と表した言葉には、皮肉にも一面の真実があった。この部屋はアキエロスで閉じこめられていた汚い独房とはほど遠く、船上でのように薬で朦朧とさせられてもいない。寝床は牢獄ではなく、王族の後宮の一室。食事は繊細な葉群れの装飾がある金箔飾りの盆に盛られ、夜風が吹けば、窓に張られた紗幕を通してジャスミンやプルメリアの優雅な香りが漂ってくる。
それでも、ここは牢獄だ。デイメンは首枷をはめられて首に鎖をつながれ、単身、敵に囲まれ、故郷からも遠い。
デイメンにまずもたらされた
恩恵は、目隠しをされ、付添いとどこかへ連れて行かれることだった。沐浴と身支度のためだ──アキエロスで、彼はヴェーレのしきたりについても学んでいた。
部屋の外、王宮内の様子は、目隠しに遮られて謎のままだ。弦楽器の旋律が少しの間だけ大きくなったかと思うと、曖昧なこだまになって消えていった。一、二度、デイメンは低い、歌うような声を聞く。そして笑いも。やわらかく、睦言のような。
後宮を抜けながら、アキエロスからヴェーレに贈り物としてつれてこられたのが自分だけではないのだと思い至って、デイメンは足元が崩れそうなほどの心配を味わった。世俗と隔絶されて育ったアキエロスの王宮奴隷たちはさぞや途方に暮れ、無防備でいることだろう。己を守るすべなど、何ひとつ知る必要のなかった者たちだ。自分たちの主人と会話すら通じているかどうか。奴隷たちは多くの言葉を学ばされるが、そこにヴェーレ語まで含まれているとは思えない。ヴェーレとアキエロスとの交流は限られたもので、グイオン元老が大使として訪れて和平の協定を結ぶまでは、二国の関係は敵意に満ちたものであった。デイメン自身がヴェーレ語に通じているのは、王子にとって、敵の言葉は友の言葉と同じほどに重要だという父王の強い勧めによるものだった。
目隠しが、外された。
このあふれるような装飾には、決してなじめまい。アーチの天井から湯をたたえてかすかな波音を立てる床の大きなくぼみに至るまで、すべてが小ぶりな彩色タイルでびっしりと覆われ、部屋中が青や緑、金に光っていた。音はくぐもって反響し、たちのぼる湯気に溶ける。
壁の一部を
穿って、上がアーチ状にしつらえられた壁室がずらりと並び、悦びの場だろうが、今はどれも無人だった。そばに一つずつ、見事な細工の火壺が据えられていた。透け格子の扉は木ではなく金属製だ。
唯一その場に不釣り合いなのは、人を拘束するための重い木の刑台だった。この浴室にはあまりにも似つかわしくない。それが彼ひとりのためにわざわざここに持ちこまれているのだという事実を、デイメンは頭からしめ出した。目をそらし、ふと金属の扉に施された沈み彫りに視線をやる。どれも、絡み合った人の肢体だ。すべて男だった。あからさまな体位の。デイメンは風呂のほうへ視線を戻した。
「自然湧出の熱泉なのだ」ラデルが、まるで子供相手のように説明した。「地下を流れる大きな熱い川から湧いているものだ」
地下を流れる大きな熱い川。デイメンは応じた。
「アキエロスでは、水道橋を用いて湯を運んでいる」
ラデルが眉をひそめる。「それが利口な方法だと思っているのだろうな」
すでに召使いの一人に何か合図を送っていて、ラデルの注意は少しそちらにそれているようだった。
召使いたちに服を脱がされ、拘束もされずに体を洗われながら、デイメンは大いなる忍耐で従っていた。小さな自由を与えても大丈夫だと、信用できると、まず示してみせなければ。
その決意が報われたのか、それともラデルがいつもは御しやすい相手ばかり扱っているからか──あくまでこの男は家令であって獄吏ではない──ラデルからの指示が出た。
「湯に浸かるがいい。五分やろう」
階段が弧を描いて湯の中へ消えている。付添いも皆、浴場から出ていった。デイメンの首枷についていた鎖も外される。
デイメンは湯に体を沈めながら、刹那の、思いがけない自由を嚙みしめた。湯は熱く、ほとんど耐えがたいほどだったが、それでも心地いい。熱が体に染みこみ、痛みの残る節々をほぐし、緊張で凝り固まっていた筋肉がゆるんでいく。
ラデルが立ち去りがけに何かを火壺にくべ、それが炎を上げ、続いて煙をたてていた。時を置かず、甘ったるい香りが湯気と絡み合って浴室を満たしていく。その香りが感覚に染みこみ、デイメンはさらに緊張がほぐれるのを感じた。
思考がさまよい出し、どうしてか、ローレントのことを考えていた。
〈傷があるのだな〉
指で濡れた胸元をたどり、鎖骨にふれ、薄い傷痕をなぞりながら、デイメンは昨夜こみ上げた危機感の名残りを味わう。
この傷を付けたのは、ローレントの兄だ。
六年前、マーラスの戦いで。オーギュステ。ヴェーレの誇り、ヴェーレの王太子。彼の濃い金髪の色が、デイメンの記憶の内によみがえる。盾は土にまみれ、血にまみれ、星光の紋章も歪んでほぼ見分けがつかなくなっていた……金線紋様で美々しく飾られていた鎧も同様。デイメンは、あの瞬間の絶望的な切迫感を思い出す。鋼と鋼のぶつかる音、荒々しい息──あれは自分の呼吸だったか──、すべての力を振り絞り、かつてないほどに命を賭けて戦った、あの感覚を。
その記憶を脇へ押しやろうとしたが、かわりに別の記憶が浮かんできただけだった。さらに暗く、古い思い出が。どうしてかデイメンの心の奥底で、その二つの戦いはつながり合っているようだ。デイメンの手が湯の下へ落ちる。もうひとつの古傷は、もっと体の下方にある。オーギュステの手によるものでもなく、戦場での傷でもない。
デイメンが十三歳になった誕生日、訓練中に、カストールの剣で貫かれたのだった。
あの日のことははっきり心に刻まれている。デイメンが訓練で初めてカストールから一本取り、勝利に顔を輝かせながら兜を取ると、カストールは微笑みかけながら「訓練用の木剣ではなく本物の剣でやらないか」と誘ったのだった。
デイメンは誇らしさで一杯だった。十三歳になり、ついに男として認められ、カストールが大人として扱ってくれているのだと思った。カストールはまるで容赦せず、デイメンは傷を押さえた手から血があふれる時ですら、兄から対等に扱われた喜びに満ちていた。
今、カストールの目の中にあった暗い影を思い出して、デイメンは、自分が多くのことを見誤ってきたのではないかと疑う。
「時間だ」
ラデルが言った。
デイメンはうなずいた。風呂のふちに手をつく。あの馬鹿げた金の枷はまだ彼の首回りと手首を飾っていた。
火壺はもう蓋をされていたが、残り香が小さな眩暈を誘う。一瞬の脱力を振り払い、デイメンは湯気の立つ熱い湯から体を起こした。
ラデルが、目を見開いて彼を見つめていた。デイメンは髪に指を通し、湯を絞りきる。ラデルの目がさらに大きくなった。デイメンが一歩前に出ると、ラデルは無意識に後ろへ下がった。
「この男を押さえよ」
ラデルが、かすれを帯びた声で命じる。デイメンは口を開いた。
「そんな必要は──」
木の刑台の横木が上がり、デイメンの手首をそのくぼみにはさんで閉じた。重く頑丈な木で、大木の切り株か大岩のように動かない。デイメンが横木に額をのせると、濡れた髪の房がふれる木肌に水が黒く沁みていく。
「抗うつもりなどない」
「それを聞けてありがたいことだ」
デイメンの言葉に、ラデルがそう返した。
体を拭われ、香りのする油を肌に塗られ、余分な油は拭き取られる。アキエロスでの日々とさして変わるところはない。召使いたちの手つきは無感情でおざなりで、股間にふれた時ですら同じだった。アキエロスの浴場でデイメンが金の髪の奴隷から身支度の世話を受けた時のような、ほのかな官能の気配すらない。それでも、耐えがたいような扱いでもなかった。
召使いの一人がデイメンの後ろへ立ち、彼の後孔を慣らしはじめた。
デイメンの体がはねた勢いで、木の台座がギシッときしみ、背後で油の容れ物がタイルに落ちた音と、召使いの短い悲鳴が聞こえた。
「押さえつけろ」
ラデルが、険しく命じる。
ひとしきり済むと台座から解放されたが、デイメンは動揺を拭いきれず、従順に動きながらも、少しの間、周囲の状況に気を配ることさえできずにいた。今の行為で、己の中の何かが変えられてしまった気がする。いや──彼自身は何も変わっていない。変わったのは立場だ。ローレントの脅しにもかかわらず、己の身にそういった類いの危機が迫るとは、これまで現実として感じていなかったのだった。
「顔は塗るな」ラデルが召使いに指示を出す。「殿下はお嫌いだからな。宝石も──いらぬ。金ならよい。ああ、その服でよい。いや、刺繍のないもので」
目隠しがデイメンの目を覆い、きつく結ばれた。少しして、デイメンは指輪のはまった手が顎をつかみ、顔を上げさせるのを感じる。まるでラデルが、己の作った光景を愛で、味わおうとしているようだ──目隠しされ、背中で手を縛られたデイメンの姿を。
ラデルが言った。
「よし、これならよかろう」
次に目隠しが外されると、凝った装飾を施された両開きの扉が、目の前で押し開かれるところだった。
中は宮廷人であふれ返り、見世物の準備がしつらえられていた。部屋の中央を囲むように、クッションを並べた段席が据えられている。絹の段に囲まれた闘技場のような、息詰まる光景が作り出されていた。興奮めいた予感で空気がざわついている。貴婦人たちや若い貴人たちが身を寄せて互いの耳元に何か囁いたり、上げた手で口元を隠すように言葉を交わしていた。召使いが人々にかしずき、ワインや軽食、盆に載った糖菓子や砂糖漬けの果実などが供されている。
部屋の中央は円形に一段掘り下げられ、頑強な鉄環が床にいくつも据えられていた。デイメンの胃がねじれる。まなざしが、居並ぶ宮廷人たちをさっと仰いだ。
座しているのは、宮廷人たちだけではない。比較的落ちついた装いの貴人や貴婦人たちの間に、色鮮やかな絹を肌もあらわにまとい、顔に色料を塗りたくった美貌の者たちの姿が目立つ。一人の女は、蛇のように幾重にも巻き付く金の腕輪を両腕に飾り、デイメンの枷より重そうだ。鮮やかな赤毛の若者はエメラルドの小冠をかぶり、腰回りにペリドットで飾られた瀟洒な銀鎖を巻いている。まるで高価な娼婦に宝石をまとわせて誇るがごとく、ヴェーレの宮廷人たちは、己が飼っている色子を飾って自らの富を見せびらかしているようだった。
デイメンの視線の先で、段席にいる年嵩の男が、隣に座る幼い少年の体に包むような腕を回していた。息子を見世物につれてきた父親か。甘い、浴場で嗅いだのと同じ香りに気付いて見やると、一人の貴婦人が先が弧に巻かれた細長い煙管から深々と息を吸いこんでいた。彼女の目は半ばとじられ、横にいる宝石だらけの色子に肌を愛撫されていた。見物席の至るところで、手が素肌を、ひそやかながらも淫蕩に撫でている。
これがヴェーレだ。肉欲と頽廃にまみれた、蜜毒の地。デイメンの脳裏をかつての光景がよぎる。マーラスの戦場で夜明けを待った最後の夜、川向こうのヴェーレ野営地の暗い空に翻っていた厚い絹の三角旗、そして父の足元に唾を吐き捨てたヴェーレの使者。
首の鎖をぐいと前に引かれ、自分が扉口で足を止めていたことに気付いた。一歩出る。もう一歩。鎖で引きずられるよりは歩くほうがいい。
円闘場にそのまま引き出されるようなことはなかったが、安堵するべきか案じるべきか、心は定まらない。かわりにつれていかれたのは、青い絹で覆われた特別しつらえの席の前で、絹地には見覚えのある金の星光紋、すなわち王太子の紋章が入っていた。
デイメンの鎖の先が、床の鉄環につながれる。顔を上げると、目の前にブーツに包まれた優雅な足があった。
昨夜のローレントは酒量がすぎていたように見えたが、今日はその気配すらない。涼やかで超然とした姿で、黒に近いほどの紺の服に金髪がまばゆく映え、肌の白さが際立っていた。青い目は、空のように無垢な色をたたえている。だがよくのぞきこめば、底によどむものが見えるだろう。たとえば悪意。それを、昨夜の怒りを映したものだと見ることもできただろう──叔父との対峙をデイメンに目撃された、その意趣返しをもくろんでいるのだと。だが真実は、ローレントは初めてデイメンに目をやった瞬間から、そんな厭悪の目を向けてきたのだった。
「唇に傷があるようだな。誰かに殴られたのか? ああ、そうだったな、思い出した。お前はじっと打たせていたのだった。どうだ、痛むか?」
この男は、酔っていないとなおたちが悪い。デイメンは、背中で縛られている手をつい拳に握ってから、意志の力で指をゆるめた。
「会話くらいするべきだな。だろう? 俺がお前の健康についてたずねたというのに。ふむ、それで思い出した。昨夜はお前との、初めての夜であったな。今朝、俺のことを思ってくれたか?」
この問いに、うまい答えなどなかった。デイメンの中に不意に浴場でのことがよみがえる。湯の熱、たちのぼる甘い芳香、絡み合う湯気。
──傷があるのだな。
「折角楽しくなってきたところで、叔父の邪魔が入ってな。おかげで気にかかったままだったが」
ローレントの表情はごく純真なものだったが、ひとつずつ河原の石を返していくような執拗さで、デイメンの弱点を探ってくる。
「お前は何か、カストールの憎しみを買うようなことをしたのだったな。何をした?」
「憎しみ?」
デイメンは顔を上げ、問い返した自分の声の動揺に気付いた。無視しようと決めたというのに。ローレントの言葉にうまく乗せられていた。
「カストールが愛ゆえにお前をここによこしたとでも? 一体何をした。闘技会でカストールを打ちのめしたか? それともカストールの愛人を寝取ったか。何という名だったかな──ジョカステか。それとも、」
ローレントは少し目を見開いた。
「お前が、カストールに抱かれた後で浮気したのか?」
その発想はあまりにも不意打ちで、おぞましく、デイメンの喉に吐き気がこみ上げた。
「違う!」
ローレントの青い目が光を帯びた。
「そういうことか。カストールは、畜舎の馬に乗るように兵士の尻にのっかっているのか。お前は、あの男が王だから歯をくいしばって耐えたか? それとも楽しんだか? お前にわかるか──その光景を想像するだけで、どれほど俺の気分がよくなるか。最高だな、男に押さえつけられて尻を犯されているお前の格好。瓶のように太い男根の、我が叔父のような髭面の男にな」
気付くと、首の鎖がぴんと張り、デイメンの体は拘束に引き戻されていた。ローレントが美しい顔で、親しげな口調で、そんな言葉を放つ様には、ひどく下卑たものがあった。
それ以上のいたぶりは、取巻きの一群が近づいてきたおかげで中断された。ローレントは純真きわまりない表情で彼らを迎える。デイメンは、その人々の中に濃黒の服をまとって胸に元老院の
円章を下げたグイオンの顔を見て、背をこわばらせた。ローレントと交わされた短い挨拶から、高圧的な空気をまとった女の名がヴァネスで、とがった鼻の男の名がエスティエンヌだと学ぶ。
「このような歓楽の場でお目にかかるとは珍しいこと、殿下」
ヴァネスが挨拶した。ローレントが応じる。
「少々楽しみたい気分でね」
「殿下の新たな手飼いは、なかなか評判になっていますのよ」ヴァネスはそう言いながらデイメンの周囲を回った。「こちらはまた、カストール王から叔父上に贈られた奴隷たちとは随分違いますこと。あの奴隷たちのほうは御覧になりまして? この者よりも──」
「彼らのことは見た」
「あまりお喜びではありませんの?」
「アキエロスから、ヴェーレの権力者の閨にもぐりこむよう調教された奴隷を二十四人も贈られて? 至上の喜びだとも」
「実に甘い諜者ですこと」ヴァネスが同意しながら、ゆったりと席にくつろぐ。「ですが執政殿下は奴隷をすっかりお膝元に囲いこんでいらして、ほかの者にはまるでお与えにならないそうですよ。何にせよ、この闘技の場であれらを見ることはできないでしょうけどね。あれらには、それほどの──胆力がない」
エスティエンヌが鼻息を立て、己の手飼いの色子を抱きよせた。その色子は花のように脆く、わずかな風でも花びらが散らんばかりの繊細さだった。エスティエンヌは口を開く。
「誰もがきみのように闘技の場で相手を蹴散らすような手飼いばかりを愛でるわけではないのだよ、ヴァネス。私としては、アキエロスの奴隷が皆このようではないと知って胸をなで下ろしたよ。ほかの奴隷は、違うのだろう?」
最後の問いはやや不安そうだった。
「違う」グイオン元老が重々しく裏付けた。「どれ一人として、このようではない。アキエロスの貴族の間においては、支配力こそ高位の象徴とされる。ゆえに奴隷は皆、従属的に躾けられている。殿下、これはあなたへの賛辞の証でしょう。殿下であればこのような頑強な奴隷ですら恭順させられるとの──」
いや、賛辞などではない。カストールはすべての者を嘲笑っているだけだ。異腹の弟に生き地獄を味わわせ、返す手でヴェーレをも
虚仮にして。
「──そしてこの者の来歴ですが、アキエロスでは闘技会が多くとりおこなわれております。剣、矛、短剣など様々に。おそらくこの者は、そうした場で戦いを披露する戦士だったのではないでしょうか。実に野蛮な戦いですよ。剣の戦いはほぼ裸に近い姿で、無手の組み合いなどまさに裸で行われますからな」
「色子のようだな」
誰かがそう笑った。
人々についての噂話が始まる。さして有用な情報は得られず、なによりデイメン自身、会話に集中することができなかった。中央の闘技場、血と恥辱の予感がたぎるその場所に、どうしても目が引かれる。心の内では思った──つまり執政は、アキエロスの奴隷たちに目を配っているということだ。せめてもの慰めだった。
「アキエロスとの新たな同盟は、殿下にはたやすく受け入れられるものではないでしょう」
エスティエンヌがそう言っていた。
「殿下の、あの国への憎しみは誰もが存じております。アキエロスの野蛮な習慣に──そして勿論、あのマーラスでの戦いのこと──」
周囲が突如としてしんと静まり返った。
「この国の執政は、叔父だ」とローレントが答える。
「しかし殿下はこの春、二十一歳になられる」
「わかっておられるなら、私の前でも、叔父の前でのように慎重な物言いを心がけられたほうがよかろう」
「御意に、殿下」
エスティエンヌはそう答え、さっと一礼して、ローレントに退けられたことを悟って脇へ下がった。
円闘場で、何かが始まっていた。
二人の色子が入ってきて、互いに警戒を見せながら、試合相手と距離をあけて立った。一人は茶色の髪で、切れ長の目に長い睫毛をしている。デイメンの目はつい、相手の金髪の色子に吸い寄せられていた。もっともその金髪はローレントのように鮮やかな色ではなく、暗く黄褐色まじりの金髪で、目も青ではなく茶色だ。
デイメンは、浴場から──いや、クッションの上で目覚めた朝から──腹によどんでいた抑えた緊張が、もぞりと動くのを感じた。
円闘場の中では、色子たちが服を脱がされている。
「砂糖菓子は?」
ローレントがたずねた。親指と人さし指の間にはさんだ糖菓をさし出したが、指から食べるにはデイメンが膝立ちでのび上がるしかない位置に見事に保っている。デイメンは頭をぐいと引いた。
「強情だな」
ローレントはおだやかに呟き、菓子を己の唇へ運んで食べた。
様々な得物や道具が、円闘場の脇に並べられている。金属の長棒、種々の拘束具、まるで子供の玩具のような金の球がいくつか、銀のベルが一山、長い鞭、リボンや房で飾られた握り。これを見るに、円闘場の見世物は多岐にわたり、趣向を凝らしたもののようだ。
だが、今、デイメンの目の前でくり広げられようとしている見世物は、単純明快だった。陵辱。暴力的な。
二人の色子は膝立ちになって相手の体に腕を回す。審判が赤い薄布を宙にかざすと、手を離し、布をひらりと床に落とした。
色子たちの愛らしい組み合いはたちまちにほどけ、群衆の歓声を受けて、乱れた格闘が始まった。二人とも見目がよく、筋肉は薄く、どちらも格闘向きの体格とは言えないが、それでも観衆の中で主人にしなだれかかっている美形たちよりはまだ強靭そうに見えた。茶色の髪のほうが金髪よりも強く、先手を取った。
事が進むにつれ、デイメンは何が起きつつあるのか悟る。アキエロスで囁かれていたヴェーレの宮廷にはびこる悪徳が、まさに目前でくり広げられつつあった。
茶色の髪の色子が金髪の背に乗り、相手の脚を膝で割り開こうとする。金髪の色子は必死に振りほどこうとしていたが、虚しい試みだった。上の色子が金髪の腕をねじり上げ、もつれながら、その尻へ幾度か、腰を擦りつけては空振りする。そして次の瞬間、ぬるりと入っていた。まるで女相手のようになめらかに、もがく金髪の色子の後ろを貫いていく。この色子は──。
〈準備されてきている……〉
金髪の色子が叫びを立て、相手を振り払おうとしたが、その動きでもっと深くくわえこんでしまっただけだった。
デイメンはさっと目をそらしたが、観衆のほうを見ると同じくらい胸が悪くなった。ヴァネスの色子の女は頬を紅潮させており、女主人のヴァネスの指は淫らに忙しく動いている。デイメンの左手では、先刻目にした赤毛の若者が主人の服の前をほどき、手を差し入れて主人の熱に指を回している。
アキエロスでは奴隷の存在は控えめであり、人目のある場所で官能を匂わせることはあってもあからさまな行為に及ぶことなどない。奴隷たちを愛でるのは、あくまで私的な場の愉しみだ。二人の交合を見物するために宮廷中を集めたりはしない。それが、ここでは、まるで饗宴。目はそらせても、耳まではふさげない。
ローレントひとりが、涼しげな顔だった。こんな光景を見すぎて、もはや鼓動のひとつも乱さぬほど感覚が麻痺しているのか。彼は、座の肘休めに片方の手首をのせ、ゆったりと優雅にくつろいでいた。自分の爪でも眺めているような風情だった。
円闘場の中では、見世物がその最高潮を迎えつつあった。そして、今や、それはたしかに見世物であった。二人の色子たちは熟達し、観衆に自分たちの行為を見せつけている。組みしかれた金髪の色子が上げる声はすっかり嬌声に変わり、突き上げに合わせてくり返し響く。上の色子が彼を絶頂へと追い立てる。金髪の色子は強情に逆らい、唇を嚙んでこらえようとしたが、乱れた腰で突かれるたびに抵抗は崩され、しまいにはその全身を震わせて、果てた。
茶色の髪の色子が、己を引き抜き、達して、精液で相手の背を大きく汚した。
デイメンは、次に何が待ち受けているのか、もうわかっていた。金髪の色子の目が開き、主人の召使いに助けられて場からつれ出されていく前から。主人にあれやこれやと世話を焼かれ、ダイヤモンドの長い耳飾りの片方を与えられる前から。
ローレントが、繊細な指を上げて、衛兵にあらかじめ手配済みの合図を送った。
デイメンの肩を、手がつかむ。首枷から鎖が外される。デイメンがそれでも、放たれた猟犬のように円闘場にとびこまずにいると、剣先で追い立てられた。
「手飼いの色子を闘技場に上げろと、しきりにせがまれていたからな」
ローレントが、ヴァネスや、周囲の取巻きにそう言っていた。
「皆の願いを叶える時がきたようだ」
戦いが技と美の極致であり、勝者が名誉によって報われるアキエロスの闘技場に出ていくのと、それはまるで違っていた。デイメンは腕の拘束を解かれ、元々さしてない衣服を残らず剥ぎ取られる。こんなことが現実なのか。また胸の悪くなるような奇妙な眩暈を覚え──頭をはっきりさせようと小さく首を振ってから、デイメンは顔を上げた。
そして相手の姿を見た。
ローレントは昨夜、デイメンを兵士に犯させると脅した。目の前にいるのが、その役をあてがわれた男なのだ。
その野獣じみた男が、誰かの色子の筈はない。デイメンより体重があり、頑強な体躯には武骨な筋肉が盛り上がって、その上をさらに肉の層が覆っていた。この男が選ばれたのは体格からであって、見栄えからではあるまい。もじゃもじゃの黒い髪が頭を覆い、胸からあらわな股間まで、黒い体毛がまるで帯のように生えていた。鼻は平たく、折れた痕がある。この男を殴るような命知らずがいるとは驚きだが、戦い慣れしている証でもあった。どこかの雇い兵でも引っぱってきて、言いくるめたのだろうか──あのアキエロス人と戦い、犯せ、褒美ははずむと。男の冷たい目が、デイメンの裸身をじろりと眺めた。
いいだろう。たしかに体重は相手のほうが重い。通常ならばそれは不安の種ではない。体術はアキエロスでは鍛練のひとつであり、デイメンが好み、熟達する技でもある。だがデイメンは幾日もの過酷な監禁状態に置かれた後で、昨日は殴打も受けた。体のあちこちが痛み、褐色の肌もすべての傷を隠してはくれない。そこかしこのあからさまな痣が、弱みを敵に教えているも同然だ。
デイメンは、今の状況を思った。アキエロスで虜囚にされてからの日々を思った。身に受けた殴打と拘束を思った。矜持が熱く燃え立つ。こんな観衆の目前で犯されたりなどするものか。野蛮人を見物したいと? ならば見るがいい、その蛮族の戦いぶりを。
始まりは、先刻の二人の色子たちと同じ、気色の悪い体勢からだった。膝を付き、相手の体に腕を回して抱く。二人の大人の男たちの肉感が、色子たちとは別種の興奮を呼び、観衆は罵声を上げ、賭けやいかがわしい品定めの声が部屋中騒がしくとびかった。これほど近づくと、自分の肌の甘ったるい薔薇の匂いを越えて、相手の、雄の獣臭がデイメンの鼻をついた。赤い布が上がる。
最初の衝突は、腕を砕くような力だった。大岩のような男を、デイメンは力で組みとめたが、そうしながらも先刻の眩暈がまだ残るのが気にかかっていた。手足の感覚も、どこかおかしい──たよりないような……。
考えている時間はない。いきなり、親指が彼の目を狙ってきた。身をひねる。目などの急所は競技においては攻撃を避けるものだが、今は全力で守らねばなるまい。この敵はためらいもなく、えぐり、引き裂きにくる。デイメンの体は固く引き締まっているが、痛めつけられた痣の痕は新たな急所も同然だ。対戦相手もそれをよくわかっている。叩きこまれてくる凶暴な拳は、どれもそうした箇所を狙っていた。この男は残忍で非情だ。そして、容赦するなと命じられている。
それでも、まずはデイメンに分があった。体格負けし、奇妙な眩暈に悩まされながらも、身に付いた技が物を言う。敵を押さえこんだが、勝負を決めるべく力を集めようとした瞬間、空虚な脱力感がこみ上げてきただけだった。肺に拳を打ちこまれて、息が口から叩き出される。相手を組み手から逃していた。
次も組み勝った。デイメンは全体重をかけて男を押さえこんだが、体を震えが抜けるのを感じる。これほど苦労する筈がない。組みしいた男の筋肉にぐっと力がこもり、また振りほどかれた時、デイメンの肩に激痛が走った。息が荒くなっているのが、自分でもわかる。
何かがおかしい。この虚脱感は異常だった。また眩暈に襲われ、デイメンの脳裏を不意に、浴場でのあの甘すぎる芳香がよぎる……火にくべられた香料──薬だったのだ、と荒い息をついて思った。何かの薬を嗅がされたのだ。嗅がされたどころか、たっぷりと薬で蒸されたも同然だ。
勝機などなかった。ローレントは、この戦いの結末を確実なものにするよう、すでに手を打っていたのだ。
突然、凄まじい勢いで襲いかかられ、デイメンはよろめいた。足元を取り戻すのに、ひどく長くかかる。組みとめようとするがうまくいかない。少しの間、どちらも相手をとらえられずにいた。汗で肌がぬらつき、思い通りにつかめない。デイメン自身の体もうっすらと油を揉みこまれていた。奴隷として施されたあの下準備が、この瞬間、皮肉にも彼の貞操を守っている。こんな時でなければ笑えただろう。首すじに相手の熱い息がかかった。
次の瞬間、デイメンは仰向けに倒され、組みしかれていた。金の首枷のすぐ上に男の手がかかり、気管をつぶさんばかりの力で絞り上げられて、デイメンの視界の端が暗く沈む。男の勃起を感じる。観衆の声がうなりのように高まっていく。男がデイメンに乗ろうとしているのだ。
デイメンに押しつけた腰を揺すり、男は短い呻きのような息を洩らした。デイメンは虚しくもがいたが、男の手をふりほどく余力がなかった。脚が強引に押し開かれていく。駄目だ。必死に利用できそうな相手の弱点を探すが、何も見つからない。
目的達成は近いと見て、男の意識はデイメンを押さえることと、挿入の両方に占められていた。
デイメンは残った力をすべて振り絞り、敵の手がゆるむのを感じた。二人の体勢がわずかに傾き──重心が移り、デイメンはその動きを利用して、右腕を振りほどくと──。
その腕で、横ざまに殴りつけた。金の手枷が激しく男のこめかみを打ち、ガツンと、金属の塊が肉と骨にくいこむ嫌な音が響く。続けて、もう不要だったかもしれないが、デイメンの右拳がうなり、朦朧とぐらついた敵を倒す一撃を放った。
男の重い体が、半ばデイメンにかぶさるように崩れた。
デイメンはなんとか上体を起こし、本能的に、うつ伏せに倒れたままの相手から這って離れた。咳きこむ。喉がヒリついていた。息ができるとわかると、のろのろと膝立ちになり、それから立ち上がった。敗者を犯すなど、論外だ。先刻の色子たちの戦いは見世物の演技にすぎない。いかに頽廃しきったこの観衆たちでさえ、意識を失った男をここで犯せとは言うまい。
ただ、デイメンをひしひしと包むのは、周囲の観客たちの不満であった。誰ひとりとしてアキエロス人の勝利など望んではいない。特に、ローレントは。グイオン元老の言葉がふと、ほとんど滑稽によぎった——下品な趣向。
まだ、終わっていないのだ。薬で鈍った体で戦い抜き、勝っただけでは足りない。ここを勝ち抜ける道などない。執政がローレントをたしなめた言葉も、闘技場でまでデイメンを守りはしないのは明らかだった。そしてデイメンにいかなる仕打ちがされようと、この観衆は喝采を送るだろう。
何をすべきか、デイメンにはわかっていた。すべての反骨心を押しこめ、重い足を前へ進めると、彼はローレントの前へ膝をついた。
「あなたにこの戦いを捧げます、殿下」
記憶をあさって、ラデルの言葉を引っぱり出す。
「我が王子に仕えるためのみに、この身はあります。我が勝利が御身の栄光を照らしますように」
顔を上げるような愚かな真似はしなかった。できる限り、はっきりと声を張る。彼の言葉はローレントだけでなく、周囲に聞かせるためのものでもあった。必死で恭順を装う。疲れきり、膝をついたこの身で、そう難しくはなかった。今、一撃されれば、デイメンはその場に倒れるだろう。
ローレントは右足をわずかに前に出し、見事に磨かれた靴の先端をデイメンのほうへ向けた。
「くちづけるがよい」
ローレントが命じた。
デイメンの全身が、その言葉を拒む。胃を吐き気がつき上げる。肋骨の内で心臓が激しく乱れる。衆人の前での辱めを逃れるために、別の辱めに屈しろというのか。だが人々の目にさらされて犯されるより、靴へのくちづけひとつのほうがたやすい筈だ。……その筈だ。
デイメンは頭を下げ、なめらかな革の表面に唇を押し当てた。己をこらえて、ゆったりと、うやうやしい動作を心がける。臣下が主君の指輪にくちづけを贈るように。
靴先にだけ、キスをした。アキエロスの献身的な奴隷ならばさらに上へ唇を進め、足の甲や、大胆な者であればさらに上、引き締まったふくらはぎにもキスを捧げただろうが。
グイオン元老の声が聞こえてきた。
「殿下のお手並みは、まさに奇跡ですな。船上ではこの奴隷はまるで御しがたかったと申すのに」
「どんな犬でも服従を教えこめるものだ」とローレントが答える。
「何と素晴らしい!」
それはなめらかで洗練された、デイメンには聞き覚えのない声だった。
「オーディン元老」
ローレントが名を呼んだ。
その年嵩の男は、デイメンが観衆の中に見かけた顔だった。隣にいた息子だか甥だかに腕を回していた男だ。ローレントと似た暗い色の、実に見事な仕立ての服をまとっている。勿論、王子たるローレントに並ぶほどのものではないが、差は小さい。
「何という見事な勝利! あなたの奴隷には褒美を与えねばなりますまい。是非、私からよろしいかな?」
「褒美か」
ローレントの声は無感情だった。
「あのような戦いは──実にめざましいもので──しかして肝心の、極みの部分が抜け落ちておりましたからな。本来の勝利の獲物の代わりに、この色子を与えてはいかがでしょうか。皆も、」とオーディン元老が言葉を継ぐ。「この奴隷の、
真の営みを見たくてたまらぬでしょうからな」
デイメンの視線が、色子のほうへ向いた。
終わりではないのだ。
営み、とデイメンは頭の中でくり返す。吐き気がした。
この少年は、男の息子などではなかった。色子なのだ。幼いほどで、華奢な手足をして、成長の兆しさえまだないように見える。デイメンの存在におののいているようだった、薄い胸がせわしなく上下している。どれほど年がいっているにしても、せいぜい十四歳、それどころかデイメンから見ると十二歳ほどにしか思えない。
アキエロスへの帰還の夢が、蝋燭の炎のように一瞬で消えて散るのを、デイメンは感じた。自由への道は、すべて、これで断たれた。服従。恭順。王子の靴へのキス。すべての芸をしてみせたのに。本当に、この先もやり通せると思っていた。
デイメンはすべての余力をかき集めて、口を開いた。
「この身は好きにするがいい。俺は、子供を犯したりはせぬ」
ローレントの表情がふっと動いた。
反論は、思わぬ方向から来た。
「僕は子供ではない」
すねた声だ。だがデイメンから疑いの目を向けられると、少年はさっと青ざめ、怯えた顔になった。
ローレントはデイメンから少年へ、そしてまたデイメンへまなざしを移した。何かが腑に落ちないというように眉を寄せる。あるいは、思い通りにいってないかのように。
唐突に、問いかけた。
「何故だ?」
「何故だと?」デイメンは言い返した。「殴り返せない者ばかりをいたぶる貴様らのような卑怯者とは違う。俺は、自分より弱い者を痛めつけて楽しむような真似はしない」
怒りで我を失ったあまり、一連の言葉はアキエロス語で口から出ていた。
アキエロス語を解するローレントが、まっすぐにデイメンを見つめ、デイメンはその視線を受けとめた。己の言葉に後悔はなく、嫌悪感だけが心にたぎっていた。
「殿下?」
オーディン元老が、当惑して問いかけた。
ローレントはやっと彼のほうを向く。
「この奴隷が言うには、この色子を殴り倒したり二つに裂いたり、怯え死にさせたくば、また次の場をしつらえよと。でなければ断ると」
ローレントは上席から立ち上がると、デイメンを半ば後ろへつき倒すほどの勢いでつかつかと、もはや奴隷には目もくれず歩きすぎた。召使いに命じる声がデイメンの耳に届く。
「北の中庭に馬を出せ。遠乗りに行く」
そして、すべては終わったのだった。やっと、しかも意外な形で──どうしてか決着した。オーディンは眉をひそめて立ち去る。彼の色子も、何を考えているのかわからない目つきでデイメンを見てから、小走りでオーディンを追っていった。
デイメンには、今、何が起きたのか、まるでわからなかった。何の命令もないので、付添いから服を着せられ、後宮へ戻る仕度をする。周囲へ目をやり、円闘場がすでに無人になっているのに気付いたが、あの雇い兵が運び出されていったのか自力で歩き去ったのかは見当もつかなかった。円闘場を、細い血の痕が横切っている。召使いが膝をついてその血を拭っていた。
デイメンはおぼろげにぼやけた人々の顔の前をつれられていく。その中から、ヴァネスが唐突にデイメンに声をかけた。
「驚いているみたいね? あらら……本当はあの子を愉しめるかと期待してた? 慣れたほうがいいわ。殿下はね、飼い犬の腹を満たしてやらないことで知られているのよ」
彼女の、なめらかに揺れる笑い声は、ざわめきや余興の音に溶けこみ、その音の中、廷臣たちはほとんど流れるように、闘技会場からそれぞれの昼下がりの楽しみへと去っていった。
--続きは本編で--