叛獄の王子 外伝
C・S・パキャット
・夏の離宮
・色子語り
・春の青さはうたかたの
・布商人チャールズの冒険
デイメンは馬上から軽やかに下り立った。やっとここまで楽に動けるほどに癒えたのだ。サンダルが地面を踏んだ瞬間、体の内に呼び起こされるざわめきを感じた。最後にここへ来た時——まだ若芽というべき十九歳の頃——日は狩りの熱狂のうちに、陽光のもとでの闘技と、夜のとばりの下での情交ですぎていった。奴隷や若い戦士ともつれ合い、青い情熱のまま突き上げて。
記憶どおりの景色だった。花に囲われた四角い内庭で馬を下りる。花木の香り、高地の澄んだ空気、甘い香油や細やかな大地の匂いが渾然と混ざり合い、浅い階段を上っていけば第一の入り口へと導かれる。その最初の枝のアーチの向こうが、庭園だ。
今、デイメンをとらえるのはまばゆく甘美で、新鮮な欲望。その望みにせかされるまま王の随行団からとび出し、振り切って、最後の数キロを心のままに馬で駆けどおしてきたのだ——めくるめく情熱に身をゆだねて。
手綱を召使いに投げると、「東の噴水においでです」との言葉を得て、ギンバイカの枝が大理石の旗の上に低く垂れた小道をかきわけるように進み、テラスのある庭へ出た。たたずむ人影が遠くを見つめている。地平の果てでは突然に海がひらけ、ただ、はるばると青い。
デイメンも見つめた。たったひとつのものを。そよ風が金のほつれ毛を揺らし、白い木綿をまとう手足は白く涼やかだ。幸福感が心にせり上がり、デイメンの鼓動が速まった。頭の一部では、おかしなことに、どんな目を向けられるのかと気を揉んでいる。新しい恋人がもたらす甘い不安。
それに、こうしてただ眺めるのも良かった。見られているとは知らぬ彼を。もっともすぐ、聞きなじんだ声が落ちつき払った精緻な口調でとんできたが。
「王の姿が見えたらすぐ知らせよ。ただちに報告を」
デイメンを、新たな喜びが包む。
「俺は召使いではないぞ」
その言葉に、ローレントが振り向いた。
景色の前にたたずんでいる。そよ風がその髪を、そしてキトンの裾を遊ばせていた。ローレントのキトンは太腿の半ばまでの長さで、若者風の装いだ。
イオスでは、彼はヴェーレの装束しか身に着けなかった。陽に焼けることなくただ赤く熱をはらむ柔肌のためだろう。こうして風に服をはためかせるような姿は初めてで、じつに目に楽しい。ローレントが最後にアキエロスの服をまとったのは——。
キングスミートで。そして、それに続いた裁きの場。二つの日と二つの夜、同じ破けた服のまま眠った。デイメンのかたわらに膝をつき、その服がデイメンの血を吸った後も。
「道を、見ていたのだ」
「会えたな」とデイメンは言った。
ローレントの背後には海岸線がちらりと臨め、大人数の随行団が通ればわかる。だがデイメンの接近は見えまい。単騎で、近道を駆け抜けた姿は。ローレントの頬はかすかに上気していたが、自分の行為を認めたせいか、夏の暑気からかはわからない。
こんなところにいるのは、二人にとって不都合きわまりない。ローレントはまだ王に即位しておらず、アキエロスの政情は不安定——カストールの叛逆に加担していた
首長や王宮の
官吏たちが解任され、新たな面々が登用されたのだ。イオスの王宮では、人目をしのぶ恋のごとく二人はわずかな時を盗んで会った。明け方、日暮れ、庭園で、寝室で。ローレントの重みを感じる甘い朝。
時に、現実とも思えぬ気がした。こうしてかなった、二人の今の姿が。かつて彼らの間にあった深刻な反目と、手探りでもがいたはじめの日々を思うと。
今も、同じ感覚があった。
「ああ、会えた」とローレントが答える。こんな日々を迎えられない運命の瀬戸際まで行ったのだと、ふとデイメンの胸がつまる。「かなり久々で、もうやり方がわからぬな。教えてくれ」
「ここは離宮だ。時間はいくらでもかけられる」とデイメンは答えた。
「お前次第で?」
「よく似合っているぞ」
デイメンはこらえきれず、ローレントの肩の留め針から鎖骨へと斜めに落ちていくキトンの縁を指でなぞっていた。
「単純なつくりだ」とローレントが言った。
デイメンは想像していた——肩の金の留め針を外したなら。白い木綿の服はすべては落ちないが、腰から垂れ下がって、そしてあと一本の紐さえほどけば——。
当然、彼らはふたりきりではない。彼らを迎えるために最低限の人員が、あらかじめこの離宮へ送りこまれている。館の扉を開け放ち、寝床を調え、ランプに油を足し、地下庫からワインを運び上げ、花を切って飾り、新鮮な魚を厨房へ運びこむのだ。そしてローレントの側も、同伴者の一群を引きつれて来たはずだ。
だが今、この庭の果てでは、鳥と蝉の声だけが彼らの連れであるかのようだった。
デイメンはローレントの耳へ囁いた。
「やり方ならよく心得ているぞ。今日はゆっくりと楽しみたい。ああ、お前も覚えているな?」
「先ほど部屋に案内されてな、このように、海に向けてひらけているのだ。召使いにこの装束をみつくろわせ、それから、お前が来るのだと考えていた。ここに、お前と立つのはどんなふうかと」
「こうか」とデイメンは答え、ローレントの裸の肩にキスをした。それから顎に。
「いやそうではなく、俺が考えていたのはお前の——お前といるとどうして違うのか——お前は常に、より力で勝り、より——」
「それから?」
「この口を止めてくれ。自分でも何を言っているものか」
デイメンは顔を上げ、ローレントに優しくキスをした。ローレントは上気し、夏の熱を帯びている。デイメンの体を探っていくローレントの手を感じた。無意識に手でたしかめているのだ、新しい何かを——あるいは最近の変化というべきか。ローレントの目にあるまなざしの変化のように。
療養の日々は、じつにわずらわしいものだった。デイメンには記憶もおぼろげな数日間がすぎた後には、口やかましい医師たち、床に臥せった身の歯がゆさ、ゆっくりとしか動けぬ苛立ち、スープばかりの食事への飽きが続いた。
あの浴場での記憶は途切れがちだ。駆けつけたニカンドロス。一人で、顔色を失って。肘までデイメンの血に染まったローレント。息絶えたカストール。床に倒れたデイメン。感情を消し去って権威みなぎるローレントの声——続く日々にも崩すことのなかった声。「彼を運ぶ吊り台をここへ。それと医師を。急げ」
ニカンドロスの答え。「お前を王と二人きりにさせるものか」
「ならばこの男が血を流し尽くして死ぬだけだ」
デイメンの傷の失血は、その時点では深刻なものになっていたのだろう。吊り台の到着と、父の部屋にいると気付いてぼんやり驚いたこと以外、ほとんど記憶がない。そこは王の居室だった。せり出したバルコニーと、列柱の向こうに広がる海。
父上はこの部屋で死んだ。その思いを、デイメンは声には出さなかった。
ローレントが、感情を拭い去った口調で淡々と命令を下していたのは覚えている——王都の守りを固め、地方の反乱勢力にそなえ、北に伝令をとばしてカルタスにいる自軍の軍勢に知らせを届けよ、と。同じ声でローレントは医師たちにも指示を下した。同じ声でニカンドロスを跪かせ、それからイオスの
首長に任じて立たせた。そして同じ声で、カストールの遺体に、弔いの日にそなえて護衛を付けた。ローレントはその知性と論理で状況に対峙し、問題と向き合い、正確に見きわめてひとつずつ片付けていった——デイメンを生きながらえさせ、デイメンの王位を確たるものにする。自分がかわりに権勢をふるっているとは見られぬように。
次にデイメンが目を覚ますと、もう真夜中で、部屋に詰めかけていたはずの人々の姿は消えていた。見回すと、隣にローレントが横たわっていた。服を着こんだまま、上掛けの上で。まだ血が染みて裂けたキトン姿で、疲れ果てて眠りこんでいた。
そして今、デイメンはローレントの腰を抱いて、わずかな布だけが二人の肌をへだてる感触を楽しむ。ローレントの肩の丸みや、あらわにされた太腿のすらりとした線に思考が奪われそうだ。
「アキエロス人に見えるぞ」とデイメンは温かな、歓迎の声で言った。
「鎧を脱げ」
海を背に告げると、ローレントは一歩下がり、背後の大理石に軽くもたれた。その大理石は景色を見晴らす露台と、崖の手前の柵を兼ねている。頭上にのびたギンバイカの枝が陽をさえぎって、ローレントの体にちらちらと木洩れ日が揺れていた。
この景色が証人だと思うと、ゆるやかな昂揚がデイメンの内に芽生えた。ほんの一瞬、ヴェーレの王族が見届け人の前で性交するという習慣に共鳴する。見ること、見られることへの支配的な執着。デイメンの慣習とも生来の好みとも反するものだ。この庭園ならば、あるいは充分に人目からへだてられているように思えても。
胸甲の留め金を外した。剣帯を引き抜く。あえてゆったりと、急がない。
「残りは、あとでいいだろう」と低く、デイメンは告げた。
ローレントが、鎧で温められたデイメンの内着の胸元に手を当てた。邪魔な胸甲と剣帯を捨てた体がぴたりとよりそうと、キスはさらに細やかなものに感じられた。ローレントが応じて唇を開き、デイメンはその口腔内を好みのままに舌で探る。ローレントの指がデイメンのうなじへ回り、先をうながした。
ローレントがこんな薄着だと、裸同然に思える。至るところの肌があらわで、ほどくべき結い紐もない。デイメンはローレントの背を大理石の柱へ押しつけた。互いの太腿の内側、素肌と素肌がこすれ合い、その動きでデイメンの革の腰巻きがずり上がる。
ここで、このままでもいい——ローレントのキトンの裾をまくり上げて後ろを向かせ、突き上げることもできる。だがかわりにデイメンは、遅まきながらも、じっくり楽しもうとしていた期待感やローレントのキトンの内で目立ちそうに尖り出す桃色の乳首に心を向ける。自制は、行為の一部だ——一気にむさぼってしまいたい衝動と、積み重ねた一瞬ずつを味わいたい情動とのせめぎ合い。
一歩引くと、肌がうずいて、思った以上に肉体が熱く煽られていた。さらに一歩、あえて下がると、ローレントの顔が見えた。唇が小さく開いて頬が上気し、デイメンの指で金髪がかすかに乱されている。
「お前は早く着いたのだな」やっと今気付いたように、ローレントが言った。
デイメンは「ああ」と笑った。
「階段で出迎えてやろうと思っていたのだぞ。ヴェーレ風に」
「皆の前で進み出てのキスは、またあとでたのむ」
「連れの一行をどれだけ引き離してきた?」
「さあな」答えて、デイメンは笑みを大きくした。「こっちだ。宮殿を案内しよう」
--続きは本編で--
■第一章
アンケルは男と寝た最初の十二回、初床のふりをした。十三回目ともなるとさすがに信憑性に欠ける。
そこで趣向を変えにかかった。
「こんなことしちゃいけないんだ……アルテン卿との契約があるから……」
「やばいな、お前、貴族の色子かよ」
背後の声は一気に興奮していた。布越しに擦りつけられる商人の息子の屹立の固さがアンケルに伝わってくる。色子は贅沢な持ち物で、契約中の色子ヘの手出しは許されない禁忌だ。
「あなたが契約を買い取ってくれたら……」
「いくらだ?」
アンケルは値段をでっち上げた。アルテン卿などはじめから存在しない。
その日、アンケルは初めての契約を手に入れた——三ヵ月間、自分を商人の息子に売り渡す。
そしてその終わりにはペリドットを贈られた。彼の瞳と同じ色の、エメラルドのような緑色。だがエメラルドほどの価値はない。
今はまだ。
アンケルの着付けをした召使いは、服について必要なことを教えてくれたし、作法も難しくなかった。観察し、それに倣い、さもなくば自己流を作り上げる。すでにサンピリエの売春宿で、もっとも重要な問いについて学んでいた。“この場で一番金を持っているのは誰だ”?
初めに殺到した身請けの申し入れはすべて蹴った。商人の息子に自分を見せびらかさせ、日中に食事を共にする仲間や、夜に酒を飲み交わす血気盛んな若者たちが欲望をつのらせていくまで待った。この地方で一番の金持ちはルアンという貿易長者で、商人の息子とその父が、ルアンとの商談の糸口にといい贈り物を探しているのをアンケルは知っていた。
「僕を贈り物にして」
アンケルはそう、まだ火照った体と汗で乱れた髪を敷布にくつろげて、言った。
「何だって?」と商人の息子が聞く。
「僕をルアン様に贈って。一夜の贈り物として。商談をものにしてみせるから」
手持ちの唯一の宝石はさして見栄えのするものではなかったので、アンケルは何の飾りもつけず美粧もせずに、ルアンの居室へと案内された。裸身のまま、緑の絹布一枚のみを腰にまとわせ、扇情的に寝台へ横たわって待つ。
ルアンは四十六歳の男で、アンケルの倍以上の年齢だ。これほど贅沢な館の中に入ったのは初めてだった。商人の息子のことを金持ちだと、初めて色宿で見て思ったのだ。この地方で誰より裕福な男だと。今、アンケルは己の見識がいかに狭かったのか思い知る。ルアンの館の上がり口だけで商人の家がまるごと納まってしまう広さがあった。
ルアンが、扉口に黒い影を見せて入ってくると、アンケルの鼓動が速まる。ルアンはこの屋敷とその中のすべてを所有している。金の燭台、狩りや庭園を織り出した豪奢なタペストリー、紋様を描くタイル、寝台の上に広がる緑の絹布——そしてその下に横たわるものまでも。
「随分、待たせてくれたね」とアンケルは言った。
ルアンが隣に座る、その寝台の沈みを感じる。
「お前の主人は贈り物の趣味がいいな。私は珍品が好きだ」
ルアンは持てる者の横柄さで、アンケルの髪を指にすくった。
「全身、赤毛か?」
「当ててみてよ」アンケルはルアンと目を合わせたまま、男の手を引いて下へ、絹の下へと引きこんだ。「手ざわりでわかるかな?」
二日後、申入れがきた。一年の色子契約、それも商人の息子の十倍にあたる値で。
アンケルは微笑んだ。ルアンもただの商人にすぎない。だが貴族との宴に招かれる男だし、今のアンケルには世の中の階層が見えてきていた。
リュアート卿の集いの場にルアンの腕に抱かれたアンケルが入っていくと、室内のすべての頭が彼を振り向いた。色子を持つのはきわめて富裕な商人に限られる。貴族の慣習の真似事。色子とは、地位の証だ。アンケルとの契約だけが高額なのではない——アンケルのまとう衣装も、宝石も、しきたりとして頻繁に贈られる贈り物もすべて高価だ。色子を飼うというのは富の誇示である。自分にはこれだけの贅沢をする余裕があるぞ、と。
ルアンが交わる商人たちには誰ひとりとしてアンケルを賄うほどの富はない。誰もがアンケルの噂をしていた。あの子を飼えるなら身代を投げ打つと——もちろんそれだけの金が要るさ、あれはルアンの色子だぞ。
アンケルはその注目を愛し、贈り物を愛した。絹の手ざわり、肌を撫でる毛皮や
天鵞絨の感触を愛した。自分だけの召使いにかしずかれることも、宝石の希少さと豪華さも愛した。耳飾りとして三つのエメラルドを贈られ、足首用の銀の鎖を贈られ、首飾りを贈られていた。そのすべてがやはり贈り物の宝石箱に収められている。真珠貝で象眼された箱だ。昔の一粒だけのペリドットも、ただし一番底に、しまわれていた。
アンケルは自分の発音を直し、出身地の訛りを消した。するとたちまち風説が飛び交う。異国から来た色子なのだとか、王宮の色子だとか、遊びで色子のふりをしている貴族の末弟だとか。アンケルの耳にはピアスの穴が三つ、鋭い針で開けられた。髪は長いままだが洒落た髪型に切りそろえられた。体は湯屋で洗われて蒸され、蝋で脱毛される。ルアンを二人きりで愉しませる時にはもっと徹底して清められて、ルアンを受け入れられるよう油でほぐされた。
今、鏡をのぞくとそこに見えるのは、もはや数枚の硬貨で買えるあの売春宿の少年ではなく、はるかに値の張る、はるかに洗練されて色めいた姿だった。とりわけ美粧で顔を飾り立てた時は。
そして今また、その姿が映って見える——リュアート卿の物欲しげに光る目に。
ルアンが深々と礼をした。リュアート卿ははるかに地位が高く、裕福で、しかも今宵の遊興の主催者だ。
アンケルは頭を下げなかった。ただリュアート卿を見つめつづける。ルアンが一礼している間、二人の視線がぶつかった。
リュアート卿の背後では、ダイヤモンドで飾り立てた十九歳くらいで黒髪、驕奢な色子が、まるで飾り物のように寝椅子にもたれかかっていた。その色子はアンケルを優雅で退屈した目つきでゆったりと眺めおろし、アンケルの宝石や服や美粧などつまらぬものだと見下げた顔をしていた。うわべの退屈の裏には黒々とした嫉妬がたぎる。
アンケルは口実を呟いて、ランプがともされた庭へと歩み出た。すでに問いの答えはわかっていた——この場で一番の金持ちは誰で、何を欲しがっている?
そして、まさしく。
「ルアンの色子ではないか」と取り巻きをつれたリュアート卿が近づいてきた。
気付けばアンケルはリュアート卿と、少数の地方貴族の連れに囲まれていた。
「赤毛を抱いたことはないな」とリュアート卿が言った。
「僕をためしたら」とアンケルは挑んだ。
ヒリつくような沈黙が張りつめる。雷雲から稲妻がはじける寸前のふつふつと凝縮した一瞬。今の一言には、刺激に慣れきった貴族たちすら不意を衝かれた。契約を裏切る色子だと? おののいた声。
「お前を、ためす?」
所有物としての分をわきまえぬあまりに不遜なアンケルの態度は、万事に飽いたこの場の人々にとって新鮮なものだった。
「あなたの色子と闘技をやらせてくださいよ。あの子を、あなたの身代わりにするから」
地方貴族の一人があきれた笑い声を立てた。アンケルの目はリュアート卿にのみ据えられていた。誰もの視線が自分に釘付けだと、もうわかっている。アンケルを測りかねているのだ。予想を裏切られると彼らは昂揚する。
「僕は人前でしたことはないから、あなたが初めての相手になるね」
控えの間で、身支度を整えられた。うっすら開いた扉の間から、紋様のタイル床を椅子で囲んだ即席の円闘場が作られていくのが見える。肌をざわめかせる淫靡な空気が立ちこめ、貴族たちが猥【みだ】らな予想を囁きかわしている。
アンケルの最初の“営み”。
円闘場で何が起きるのかは知っている。色子がまぐわうのだ。時には、まず取っ組み合うふりをしてから。相手を組み伏せた側が犯していい。下になったほうはそれを愉しむふりをしてもいいし、嫌がるふりをしても、嫌がっていたのに感じるふりをしてもいい。自分の営みの流儀に応じて、そして場の空気を読んで。
見物人の前に立たされたアンケルは、ひらめく絹や、手の下で交わされる囁きを見る。リュアート卿は最前列の一番いい席に陣取っていた。
瞬時に、アンケルは観衆に気に入られたことを察知する。一つには新顔で見目が良いおかげ——そして一つにはアンケルがリュアート卿に挑戦してのけた話が野火のごとく拡がったおかげ。観衆はリュアート卿の色子のことも気に入っている様子だった。ダイヤモンドで飾り立てたあの拗ねた少年のほうが、野次やざわめきからして、皆の本命のようだ。
一方のアンケルはといえば……人前で営みをしたことがないと言ったのは嘘ではなかった。ルアンは寝室で後ろからアンケルにのしかかるのを好んだ。商人の息子は一度、酔って人のいる集まりの場でアンケルを引き寄せたが、腰を押し当てた程度のことしかしなかった。売春宿では大体がカーテンの奥でのことだ。
鼓動が激しい。何をするべきかは心得ている。アンケルは円闘場へまっすぐ向かうと、世話役を手の一振りで追い払い、ダイヤモンドまみれの少年に冷たく命じた。
「脱げ」
観衆は盛り上がった。煽り立てる声、手拍子。アンケルは相手から「脱がせてみたら」という返事が来るだろうと待ったが、向こうの少年にも思惑があるらしく、はねつけもせずアンケルと目を合わせて留め紐に手をやると、服をゆったりとくつろげてみせた。
肩から布がすべり落ちる。シュッと絹が擦れる音とともに、ダイヤモンド以外、何もまとわぬ肢体が露わになった。もうアンケルを誰も見ていない。
「お前などにあの人を渡すものか、この淫売」
少年が甘く、ほかの誰にも聞こえない声で囁いた。
「手遅れだよ」とアンケル。
一回目の手合わせはかなり形だけのものになった。二人とも無理なく扇情的に見せるすべを心得ていて、自分をより目立たせようとした。リュアート卿の色子は肌を光らせて頬を上気させ、吐息の絡む小さな呻きをこぼした。これが彼の人気のもとだ。誰もがこの少年を犯してこの声を聞きたいと願うのだ。
アンケルの鼓動が荒々しさを増す。この色子遊戯のせいではなく、今から自分がすることを思って。
彼は色子の顔面を磨かれた紫檀の床に押し付け、その後ろに位置取った。
それから顔を上げ、リュアート卿とまっすぐに視線を絡み合わせると、人垣にいるすべての貴族に聞こえる声で言い放った。
「リュアート、脚を開け」
下で色子がぎょっと体を突っ張らせたので、それを押し下げる。観衆がどよめき、目の前で今から繰り広げられようとしているものの正体を悟って衝撃に波打った。
(あなたの色子と闘技をやらせてくださいよ。あの子を、あなたの身代わりにするから)
アンケルは色子の両脚を膝でこじ開けた。誰かの笑い声がかかる。「犯っちまえ、赤毛」
リュアート卿の欲情した、それに負けないくらいの屈辱と憤怒がたぎる顔が見えて、アンケルは彼を勝ち取ったと悟る。リュアート卿はアンケルを競り落とそうとするだろう——アンケルはこれから衆目の前で彼を犯すのだから。そしてリュアート卿に対抗心を持つ者も、同じ理由でやはりアンケルを競りにくる。
「さあ、色子みたいに突っ込まれるんだよ」
アンケルは目をとじ、己を熱の中へ沈みこませた。じつに気持ちがいい。目を開けるとまだリュアート卿が猛々しい目でにらみつけていたので、ますます気分が良くなった。
欲情の声を、わざと喉から立ててみせる。抑揚をつけて。
「ああ、あああ、ああ」
じっくりと己を愉しみながら。アンケルを犯す男たちもいつもこんな思いをしてるのか? なら大金を投げ打つのも当然だ。
「味わうがいい。こうやって」
今や観衆のたぎるような、背徳心まじりの注目を一身に集めていた。この光景にどれだけ心をつかまれているかが伝わってくる。リュアート卿を組みしき、この場にいるすべての貴族を組みしいて。その行為を全員に見つめられているのは、目が眩む光を浴びるようだった。
アンケルは己を引き抜き——色子の少年を仰向けにひっくり返して——片手で屹立を下へ向け、少年の顔面に精液をほとばしらせて、長い睫毛を粘つかせた。
割れるような拍手と歓声が鳴り響き、アンケルの名を呼んでいる。中には調子に乗った下品なリュアート卿への呼びかけや挑発も混ざっていた。
勝利感で肌を震わせながら、絶頂直後の過敏な体をこらえて、アンケルはたよりない足で立ち上がった。
「味の感想は?」と観衆のどこかから問いがとぶ。
アンケルはリュアート卿にじろりと、軽んじるような目を向け、見物人を思いどおりに翻弄しながら言った。
「そう大したことなかったね」
リュアート卿の焼けるようなまなざしが、勝利のごとく感じられた。
もちろん、アンケルにはルアンとの契約がまだ六ヵ月残っている。契約を競り落とすにはルアンとアンケル双方からの合意が必要になる。だがアンケルは一番高値の申し入れを受けるつもりだ——そのための策だしもう待ちきれない——し、ルアンは一介の商人だ、貴族に逆らえるわけがない。
脇に下がると、アンケルは薄紗の絹に身をくるまれた。まだ過敏な肌に布がざらつく中、控えの間へ連れていかれた。背後では白熱した競り合いが始まっていた。
控えの間で、アンケルは目をとじて深呼吸をし、微笑して、ルアンが背後から部屋に入ってきた時にはもう心構えはできていた。
「おめでとう」
ルアンが、少しだけ苦々しげに言った。たしかに自分の色子に裏をかかれはしたものの、この取引はつきつめれば彼にも利となるものだった。
「お前の出世が叶ったぞ」
「一番高値をつけたのは誰です? リュアート? それともその敵手?」
「どちらでもない。ベレンジェ卿だ」
「ベレンジェ卿?」
アンケルは問い返した。記憶にない名だ。この地方の名士の名は知っているつもりでいたが。
「知らない人だ」と今宵、観覧席にいた見物人の顔をじっくりと思い出す。「あのどれがベレンジェ卿だったんです?」
そこで申し入れされた金額を教えられ、アンケルは目を見開いた。一年の、貴族との契約、それもそんな金額でとくれば誰の口にものぼるに違いない——。
「別れを言って身の回りのあれこれを整理するために、お前に一週間くれるそうだ」とルアンが言った。
「いらない。すぐ彼の部屋に僕を送って」とアンケルは言った。「今夜」
--続きは本編で--
ジョードにとって隊長ヘの任命には深い意味があった。自分の心だけに秘めた小さな輝き。ジョードは腕利きの剣士で、王子に忠誠を尽くしてきたが、それでは隊長になるのに充分ではない。隊長という肩書きは貴族の息子のものだ——たとえ、王子の近衛隊が少々風変わりな澱【おり】の寄せ集めであっても。
ひょいと放られた記章を、あやうく受けとめ損ねるところだった。
「我が命令には
疾く従うがいい。呼ばれて遅れた者がどうなるかは見ただろう」
王子が、血溜まりで土にまみれるゴヴァートへそう一瞥をくれた。
まさしく。王子がゴヴァートを串刺しにしてのけた光景に、新参兵たちは唖然として畏服し、あのアキエロスの奴隷の顔は驚愕で彩られていた。野営地からゴヴァートが追い出される間、誰もが役立たずに立ち尽くしていた。
続いて、一日分の距離を半日で稼がねばならなかった。ジョードは兵たちに天幕をたためと怒鳴り、馬に乗れと怒鳴り、ロレンを自分の手で鞍に押し上げ、この騒動でも寝くたれたままのアンドリーに桶の水を浴びせろとオーラントに命じた。やっと軍勢が動き出すと、ジョードは近衛隊に向けてくり返し幾度も号令をかけては、落伍者を防いで残りの雇い兵どもの隊列をまとめさせた。
「四人つれていき、お前たちで行軍の尻を叩いてこい」とジョードは命じた。
「奴らの尻を? じゃあ俺が——」とオーラントがニヤッとする。
「駄目だ」
オーラントを昔からよく知るジョードは言い返した。
次の野営地に着く頃には、執政側の兵たちは衝撃からかなり立ち直り、命令にぐずぐずと逆らいはじめていた。ほとんどの連中が軍律の何たるかなど知らない。ゴヴァートが求めたのは自分の邪魔をするなということだけだ。ジョードは手一杯だった。馬はまともにつながれておらず、倒壊した天幕の下からしゃがれた叫びが上がり、王子への絶え間ない罵声が吐かれていた——あの冷血の人でなし野郎、氷でできたお高いお貴族様、と。
日が暮れて直列——らしき形——に並んだ天幕の列に沿ってたいまつが焚かれた頃、ジョードは木立に近い野営地の端にひとりでたたずんでいた。
ここまで来ると葉擦れが、陣営の音より大きく聞こえる。野営地では、影のように黒々とした天幕の形を浮き上がらせるまばゆさで篝火と哨兵のたいまつが焚かれていた。この静けさはあてにはなるまい。どうせ執政側の兵たちは、この先まだ騒乱の糸口を心待ちにしているに違いないのだ。
へこみと傷のある隊長の記章を手に取り、ジョードはそれを見下ろした。
執政は、挫折を見越して一行を国境ヘと送りこんだ。あの雇い兵たちを束ねる隊長の役など誰もほしがるわけがない。どれほど経験豊富な隊長でさえ、あの烏合の衆を束ねつつ四方八方からの攻撃にそなえるなど、到底無理な難題だ。
王子はその難題を知りながら、この記章を彼に投げてきた。ジョードはそれを思う。
そして、ひとりきりの野原で、へこんだ星光の紋を親指でなぞり、彼は微笑んだ。
左手で小枝がパキッと鳴った。
さっと記章を隠し、ジョードはひそかな満悦の一瞬を見られたことに頬を軽く紅潮させた。
アイメリックが呼ぶ。
「隊長」
「どうした」
自分の新たな肩書き、アイメリックの貴族的な発音で発されるそれを意識する。
「出すぎた真似でないとよいのですが。あなたをここまで追ってきて。ただ、お祝いを申し上げようと。あなたはその肩書きにふさわしい。あなたは……この隊で一番の方だと思うから」
ジョードはふっと鼻で笑っていた。
「ありがとう」
「何かおかしなことでしたか?」
「貴族が俺の機嫌を取ろうとするなど、初めてのことだ」
アイメリックは華奢な顔に見慣れた表情をよぎらせたが、視線を伏せはしなかった。十九歳のアイメリックのような、貴族の四男坊が近衛隊へ入れられるのは本来なら典型的な話で、いずれ士官となる道が待っている。
「今言ったことは本心だ。あなたを尊敬している」アイメリックの若々しい頬が赤らんでいた。「この隊で、きちんとやっていきたいんです」
「ここで認められるのは簡単だ。俺のボタンを磨くような真似は必要ない。ただ、よく働け」
「はい、隊長」
赤い顔。背を向ける。
「それからもうひとつ」
アイメリックがまた振り向いた。顔の紅潮が月光でまだらに見える。隊に加わってからというもの、彼は喧嘩の標的にされてきた。執政の雇い兵たちはアイメリックに目をつけており、どの争いでも彼はその中心にされて揉まれてきた。
「今朝ゴヴァートの身に起きたことは、お前の責任じゃない。あそこで、王子は自らの判断を下されたんだ」
「はい、隊長」
そう答えたアイメリックの目は、一瞬、月下で奇妙なほど大きかった。
ほとんどの近衛隊員と同じく、ジョードもまたオーギュステがいたからこそローレントに仕えた。
誰かに認められたいという熱い衝動を、ジョードは今でも覚えている。オーギュステはわずかも色褪せぬ純金の思い出であった。輝ける導きの星。盛りを迎えるより早くに打ち落とされて。
あの頃、ジョードはずっと若く、商隊の護衛として働くだけの剣の腕を持っていた。彼が戦う姿をオーギュステが遠目で見かけ、王国軍の隊長にジョードの存在を知らせたのだ。少なくとも後に隊長はそうジョードに語った——王子からの推薦であったと。それは、ジョードにとって決して忘れ得ぬことだった。
王都で仕えながら、ジョードは王子の近衛たちを見かけた——その栄華を。選り抜きの貴族の精鋭たちが馬を駆って王宮の門を抜けていく。揃いの軍服の星光の紋を金にきらめかせて。
そして、その威光がオーギュステ王子の死後、数年で褪せて消えていくのを見ていた。王太子の星光の旗のもとに集った若き貴族たちは、それを捨てて執政になびいた。執政の派閥こそ栄達の道だ。そして新たな世継ぎ——ローレントはまだ十三歳で、求心力もなく、なにしろ軍事にひとかけらの関心も示さなかった。青と金の旗は下ろされ、星光の紋の戦旗はしまいこまれた。
二年の間、ふたたび王太子の星光の紋が翻ることはなかった。執権の赤い旗がそれを塗り替え、王宮に美しく整列した兵たちの胸にかつて星光が縫い取られていた頃があったことなど、いつしかほとんど忘れ去られた。
兵卒用の兵舎で鎧を磨き上げていたジョードは、乗馬靴の鋭い踵の音に邪魔をされた。足音とともに現れた少年は、誰もがはっと立ち上がるような容貌で、髪は金、わずかに細められた目の色は——。
「殿下」
あわてて立ち上がる。
「王宮の兵にと兄が推挙した者たちは、残らず叔父上のもとへ去った。何故お前はそうせぬ?」
王子は齢十五の、成長期ただなかで、その顔にもはや
稚さはない。声変わりを済ませたばかりの澄んだ声だった。
「執政殿下は最良の者しか迎え入れないので」とジョードは答えた。
「兄の目にかなったのだからお前は最良であろう」王子の青い目がジョードをまっすぐ見据える。「我が近衛隊へ来い」
「殿下、俺など——」
「そして私に仕えるならば、最高の働きをこそ求めるぞ。お前はそれに応えられるか?」
王子はジョードを見上げた。ジョードは顔についた泥のひとつひとつを、袖を繕った不揃いな縫い目を、鎧の留め金のすべての曇りを意識させられる。その間にも、口が動いていた。
「はい」
王子がかき集めた残りの面子と顔を合わせ、ジョードは王子からの要請に抱いた誇りの真の正体をつきつけられる——愚かさ。これはただの寄せ集めであり、どこの馬の骨とも知れない連中ばかりだった。寝床から引きずり出されるヒューエットや、酔いを醒ませと馬の水桶に放りこまれるロシャールに、ジョードはあきれて鼻を鳴らした。オーラントには覚えがあった。二年前、王都の軍隊から蹴り出されたでかい男だ。
それから、ヒューエットが弓矢を操る腕前を目にし、ロシャールが見事にふるう短剣を見た。ロシャールは酒を断った。震えがおさまるまでオーラントが彼のそばにずっと付き、それが済むと、いつしかジョードは兵舎で皆と錫の皿のシチューを分け合っていた。
「あんたの見た目でそんな腕前があるとは思ってなかったよ」とオーラントが言ってくる。「悪く思うな」
六ヵ月後、ジョードは王子に従って王子専用の屋内訓練場へ入った。「私と戦え」という有無を言わせぬ命令に従って。
ジョードは剣を抜き、気合いをこめずにそれを振った。世継ぎの王子を打ち据える気は毛頭ない。王子の口元を腫らした近衛はどうなると?
「……あなたに剣が振れるとは知らなかった」
数分後、ジョードはそう言いながら床のおが屑の中で身を起こしていた。思い出して敬称をつけ加える。
「殿下」
「修練してきたからな」
それが、五年前のことだ。二十歳となったその王子から見つめられ「お前が隊長だ」と告げられる日が来るとは、ジョードは思いもしていなかった。腕に置かれた王子の手は力強く、そのまなざしはジョードともう高さが変わらない。
少年から若者に成長した王子に、これほどまでに近づいたのは初めてだった。訓練場で土に転がされ、起きろと手をさしのべられた時を除けば。
チャールズは宿場の中庭に足を踏み入れた。アキエロス風のサンダルでも心配ないほど馬糞が片付いた広い庭に入った時、橙色の荷馬車が見えた。
チーズと塩漬け肉、オリーブと薄焼きパンの素晴らしい食事を終えたばかりだ。春の半ばで、まさにこの朝、ワイン業者から天気は崩れないだろうと、夏まで日々暑さが増していくだろうと教わっていた。アキエロスの属州アエギナへの行商に旅立とうというチャールズには朗報だ。
一年前なら、上等な亜麻布や白い木綿地を積みこんでいくところだが、アキエロス王とヴェーレの王子の二つの宮廷の融合が新しい流行の市場を生みつつあった。ヴェーレでは留め針で肩につける短いマント“アキエロス仕立て”の流行りで、絹や重厚な
天鵞絨の需要が高まっている。まだアキエロスで袖はほとんど好まれないものの、裾の紋様模様や色染めのマント、ヴェーレの染色技術に新たな目が向けられはじめていた。
そうした大胆で新奇な流行りものをたっぷり取り揃え、実入りのいい行商になるだろうとチャールズは胸をはずませていた。この旅でアエギナの
首長に売り込みを行った後、戴冠式までにマーラスへ着くつもりだ。
ところがそこで待っていた助手のギリアムは、何か困りごとがある時のように両手を握りしめ、陽の射す中庭の真ん中では、まばゆい橙色の荷馬車が五台も、あたりをすっかり占領して停まっていた。
大きく派手派手しい乗り物だ。護衛の一隊を引きつれていくような富裕な隊商のための。兵士たちもいた。六人。どうやらこの鮮やかな橙の一隊と同じ行路を行かねばならないようだと見て、チャールズの心が沈んだ。一番近い馬車には、弾力のある座席に座った商人の姿も見える。最新のヴェーレの模様を織りこんだ絹服で、整った髪の上にふわふわ揺れる羽根飾り付きのつば広の帽子をのせている。
「これをどう思う? 自分で買い入れてみたのだが」とその商人に問いかけられ、チャールズは目を剥いた。
「殿下!」
あっけにとられて一礼しかかる。その商人は(正体は商人などではない)ひょいと馬車からとび下りると、騒ぐなという手振りでチャールズの礼を止めた。
「素晴らしく高貴な橙色です」とチャールズは言った。
「そなたのものだ。積荷はこちらへ移しておいた。手回り品も共にな。メロースでの尽力への心ばかりの礼だと受け取ってほしい」
「殿下……!」
チャールズは橙色の馬車列を見つめた。これまでの生涯で、自国の王子と出会う幸運に二度も恵まれてきた。チャールズのささやかな献身を、王子は忘れずにいてくれたのだ。
「あまりに過分なお心遣い。それも御自らおいでになるとは! そんな必要はございませんでしたのに。礼などには及びません。お仕えできるだけで幸せなこと。わたくしは殿下の臣民でありますゆえ」
「そなたには、メロースへの道中助けられた」と王子が答えた。「ならば、そなたがアエギナを行く道中、今度は私が力になれないかと思ってな。これらの荷馬車と護衛の兵で——どう思う?」
「なんと!」とチャールズは声を上げた。
あまりにも法外な成り行きですぐには呑みこみがたい。またもや王子の信任を受けて道連れとなるなど——とても現実的ではない出来事。なのに、王子がこうしてまた目の前にいる。前と同じ気高い心と、ほかの誰のものでもありえない傲然とした物腰で。
頭がいっぱいのまま、チャールズはまず目先の物事の対処にかかる。助手のギリアムには何も心配いらないと告げた。いとこのチャールズがまたやってきたことを説明し、新しい馬車への変更を伝える。積荷をたしかめ、きっちり揃っているのを見て喜んだ。六人の護衛兵たちとも顔を合わせたが、うっすら記憶にある王子の近衛隊の、ジャザールだったかドードだったか、彼らの顔はなかった。
だがひとつ、なつかしい顔が最後尾の荷馬車から降りてきて、押しこめられていた体をのばした。
「レイメン!」とチャールズは呼ぶ。
初めて出会った時、レイメンはパトラスの商人のつたない変装をしていたのだった。あの時チャールズは、レイメンの絹についての知識が穴だらけなのにすぐ気付いた。今となってはそれも当然だと、チャールズは温かく思う。レイメンは商人などではなかったのだから。彼は、ただの商人の助手にすぎない。
「どうやらまた——」チャールズはひそひそと顔を寄せた。「我が
いとこチャールズの旅を手伝っているのだね」
「いとこのチャールズは己の身分を伏せておきたがっているんだ。わかってくれるだろうが。ヴェーレの議会は、彼がアクイタートで狩りに興じていると思っているのさ」
「この口は何も洩らさんよ」とチャールズは答えた。「ただ、もし問うていいものならば……」
宿屋の中庭の向こうでは宿の者と荷馬車の停留代について掛け合い中の“いとこのチャールズ”の帽子の羽飾りがふわふわ揺れている。ひとつ、チャールズには気がかりがあった。
「戴冠式は五週間後では?」
「四週間後だ」とレイメンが答えた。
それを彼は落ちつき払って、橙色の荷馬車の正面に立って言っていた。
「デイミアノス王がデルファにおられるのが幸いだな」とチャールズは不安まじりに言った。「であればこそ、これほど戴冠式が近い時に王子が不在であっても心配ないというものだ」
「ああ、そうでなければ無茶な話というほかないね」とレイメンが同意した。
アエギナでの最初の停留所はチャールズのいつもの行商路で、アエギナの地方貴族のひとりカエナスの家だった。
この地域は手厚いもてなしと肉料理でよく知られている。特に、じっくり炙った子羊の肩肉にニンニクとレモンだけで味付けした一皿をチャールズは楽しみにしていた。屋敷の平積みの外壁へ向かってガタガタと荷馬車が登っていく間、チャールズはこの地方の素朴な慣習について王子に説明した。すぐに北方アキエロスの美味にありつけますよと。
王子がおしのび姿の旅で助かった。男たちが王子の前で酔って吐き、蹴つまずき、皿を落とす。ギリアムも“いとこのチャールズ”の正体を知っていたならば商品管理にも身が入るまい。誰もがレイメンのように、王子の身分を忘れてうまい芝居ができるほどおっとりしているわけではないのだ。
チャールズは自分をつねって、夢ではないと幾度もたしかめていた。一年前にメロースを行った旅路の時と同じように。ヴェーレの王子がこの橙色の馬車の席に座っている。その王子が、巻いた絹の反物を運ぶ。帽子に着いた羽根飾りは、ヴェーレの王子の飾りなのだ。
王子本人は、自由を満喫している様子だった。ギリアムが彼に鞍袋をぞんざいに投げ渡したり、チャールズが料理のもっとも良いところを盛られた後で王子に食事の番が回ったりと、チャールズにしてみれば心臓が止まるような事態もあったが、王子はそんな無遠慮に気分を損ねた様子もなく、それこそチャールズに言わせるなら心ばえの美しさの証であった。
屋敷の門を抜ければじき羊の肩肉にありつけるところまできた時、入ることは許さぬという言葉が届いた。
「何かの間違いだろう」とチャールズは言った。
ギリアムに確認をたのむ。あまり心配はしていなかった。毎年ここで商売をしているのだ。カエナスは薄ものの麻を重ねたキトンの装いを好むので、彼女が喜びそうな刺繍布を特別に取り分けてある。
「間違いなどではない」衛兵が言った。「布商人チャールズは、もはやこの家では歓迎されぬ」
驚愕に、チャールズは言葉を失っていた。何がそのような不興を招いたのか必死で考えながら、王子にそんな行き違いを見せてしまっているせいで顔が熱い。
「いや、そこはそちらの勘違い」とまさに、ほかの誰のものでもない声が言った。「そちらの言うチャールズは別のチャールズだろう、年上の方のチャールズ。私は若い方のチャールズなんだ。この橙色の荷馬車を見てもわかるだろ」
王子が羽飾りごしにじっと衛兵を見上げていた。
「チャールズという名のヴェーレの布商人が二人いるというのか」と衛兵が言う。
「ヴェーレではよくある名だよ」と若いチャールズが切り返した。
「前よりもずっとね」とレイメンも述べる。
アキエロス人の声を聞いて振り向いた衛兵へ、レイメンが微笑み返した。心根の良さが表われた気さくな笑みと、乱れた巻き毛に、いかにも南アキエロス生まれらしいおっとりとした態度。左頬にえくぼがある。衛兵がわずかに警戒をゆるめたのがわかった。
館へ使者がひとっ走りする間、一行は待つしかなく、さらにその使者が(息を切らせて)戻ってくるまで待った。通ってもいいと衛兵が一行に手を振った。号令がかかり、鞭が鳴り、荷馬車はガタゴトと進んでいく。若いチャールズならば歓迎というわけだ。
年上のチャールズは忸怩たる思いであった。だが、これで皆が泊まる場所の算段はついた。
腕をつかまれてはっと見上げると、王子に話しかけられていた。
「よいか、どういうことか確かめようではないか」
カエナスは、ヴェーレの宮廷事情を語る若き商人の訪れに大喜びで、チャールズが期待していたとおり庭の天幕での夜宴を手配してくれた。ただしチャールズは招かれていない。チャールズは、使用人の区画ではるかに質素な食事にありついた。
レイメンとともにみすぼらしい食事をとりながら、チャールズはふと、いわば自分も低い身分に扮しているのと同じか、と気付いた。王子がやはり偽装で旅をしているというのに自分にできないわけがない、とチャールズは心に決める。助手などと同じ席で食事もできないような思い上がった男だとレイメンに思われたくもない。そもそも、旅路ではギリアムとよく食事を分け合っているのだし。
それに素朴な食事はおいしく、同席のレイメンは凡庸な生まれではあるが思慮深い男で、上手なヴェーレ語を話した。布に関する知識はお話にならなくとも。
「高貴なヴェーレの男性は、女性と二人きりになれないのではなかったのか」
皿に食べかすだけになっても王子が戻らないので、レイメンがかすかに眉をひそめて文句を言い出した。
「ここはアキエロスだよ」とチャールズはなだめる。
「それでもてっきり——」
「カエナスの家の使用人が同席しているから」チャールズはほほえましい気分で安心させた。レイメンの心配もわかる。「その者たちが付き添いの役を果たすよ」
扉がそっと叩かれ、続けて年嵩の、薄くなった茶色の髪の女が顔をのぞかせた。
「ドリス?」とチャールズは驚いて呼んだ。
「あなただったのね」ドリスは三人には狭すぎる部屋に入ってきた。「チャールズ……わかってほしいのよ、あなたについての噂なんか、私は一言も信じてないから」
チャールズは不安にちりりと心が冷えるのを感じた。
「一体どんな噂なんだい?」
ドリスとは二年前からの知り合いだ。彼女はお針子で、チャールズがその見事な仕事をほめたのだった。それからは幾度か熱のこもった会話を交わしてきた。イスティマ産の麻生地の素晴らしさについての心躍る話などをはじめとして。
その彼女が、今は心配そうな顔をしていた。
「三日前、商人がここに泊まったの。彼が、あなたは王都を追い出されてここに来ると言っていたのよ。あなたが、あくどい取引でアキエロス王をだましたんだって」
「それは嘘だ」とレイメンが立ち上がった。
レイメンのその信頼に、チャールズは心を動かされていた。
「そう言ってくれてうれしいよ、レイメン。だが残念ながら、名のある商人の言葉の前ではお前の言葉は重さを持たぬ」
自分の声が不安げなのがわかって、肩の力を抜こうとした。周囲に心配をかけても仕方ない。
「来てくれてありがとう、ドリス。きっとただの誤解だよ」
「安全な旅をね、チャールズ。アエギナは剣呑なところだし、あの商人のことを誰もよく知らないのよ」
「その男の名はマコンだ」と数時間後、夕食から戻ってそっと部屋へしのんできた王子が告げた。気だるげなたたずまいで、いつもよりかすかに雰囲気がやわらかく、一夜のもてなしを楽しんだ目は光を帯びていた。
「アキエロス人で、パトラスまでの通商路を開拓しようとしている。生まれはイスティマ。名のある商会の後継ぎだ。目は濃い茶、素敵な目をしているそうだ。あなたの目ほどではない、と言われたが。三十五歳で見目がよく未婚、そして残念ながら、そなたについて大変に棘のある言葉を残していっているぞ、チャールズ」
「お前の目はとても綺麗だからな」とレイメンが言った。
「淋しかったか? 手土産を持ってきてやったぞ」
王子がレイメンに向かって砂糖菓子を放ると、レイメンはどこか楽しげにそれを受け止めていた。
「どうやらそなたには商売敵がいるようだな。しかも向こうは三日分、先行している」
「殿下、このようなご厄介をおかけしてお詫びのしようもありません。アクイタートに戻られるなら喜んでお送りいたします」とチャールズは深々と頭を下げた。
評判というのは商人にとってすべてであり、チャールズの信用は、北アキエロスにいるヴェーレ人というだけではじめから危ういものだったのだ。植え付けられた噂や、断たれた関係、閉ざされた門を思ってチャールズは心を痛める。だが何よりも残念なのは、いつも最良の連れに囲まれているべき王子に、自分がふさわしくないということだった。
王子が、厚い石壁に肩をもたせかけた。
「次に向かう取引先はどこだ?」
「北東の、セメアでございます」とチャールズは答えた。
「ならば我らは北の、カラモスへ向かおう」と王子が告げた。「その男を追い抜くぞ」