ボーイフレンドをきわめてみれば
ライリー・ハート
■1
マイロ
ポルノってわからない。
わりと好きではあるけれども、ポルノ。要は射精目的で作られているから、利用してみれば大体は、時間がかかったりしても、成功する。ただ、うなり声とか大げさな音が理解不能なのだ。やたら派手な音と「ヤッて」という懇願。もう行為の最中なのに、すでに進行中のことをどうしてわざわざたのむ? もうヤラれているのに、くり返し要請するのは何故なのか。
攻め役の恍惚の表情からしてしばらく中止しそうにないのだから、
受け役は黙って没頭すればいいのでは。
自分の勃起を手で上下にしごき、ぼくはナイトスタンドの時計へ目をやった。隣に携帯電話があるのに時計も置いているのは……別に。理由はなくてもいいはずだ。
あと五分しかない。それまでにイカないと、出勤の仕度をする時刻なので中止だ。夜のほうが自慰タイムは取りやすいけれど、今日はすることがたくさんあるし、早く寝たい。
視線がテレビ画面に戻った。
『ああっ、そう、すっごい、そこそこ――』
「うるさい! 気が散ります!」
ぼくは画面の中の男を叱った。ペニスが萎える。こんなふうに醒めるのは大嫌いだ。どうしてセックスにこんなおしゃべりや懇願や叫びが必要なのか。不自然だし邪魔だ。ポルノの中だけで、現実のセックスは違うのかもしれないが、こんなふうにしないといけないのならきっと自分以外の相手とイクのは無理だろう。
あんなこと絶対言えないし――どうせ、セックスできるほど信頼する相手には一生会えないだろうけど、今はそちらの問題は置いておく。
空いた手でリモコンのミュートボタンを押した。うっとうしいエロトークを聞きながらイケることもあれば、駄目な時もある。今日はどうやら後者だ。
至福の静寂が、少し力になる。ボトム役の体を出入りしている勃起に集中していると……よし、また固くなってきた。陰嚢がずっしり重くなってチンコがドクドク脈打つと、どんな感じなんだろうと心底思う――誰かの中に入ったり、誰かが……ぼくの中に入ったりとか(万が一ね)。ぼくにはまだ、いつか誰かに挿入させたりできるのかはわからない。そこを許容してくれる相手でないと。それに優しくて……かっこよくて……少しぼくより大柄がいいか、でも脳筋の男は無理――とにかく無理。誰か、人として興味が持てる相手。セックスするなら絶対に、興味を引く相手がいい。
さらにぼくを苛立たせない相手がいいのだが、それはとても難しい注文だった。ほとんどの人がぼくを苛つかせるが、その相手だけは……おっ……ぼくは手に力をこめ、一層早くしごいて、それから自分のタマをいじった。これが大好きなのだ。
すごい色男で、セックスの間におかしな声を立てなくて、すでにしていることをもっとしてとぼくがわざわざたのまなくても気にしない男。
背骨がカッと熱くなった。タマが引き上がり、視界がぼやけて、自分の胸めがけて射精していた。
後ろの枕に倒れこみ、すごく気持ちよかったので、深呼吸をくり返す。ただし肌にへばりついた精液のベタつきが気にさわった。正体不明の液体との接触は好まない――むしろどんな液体とも好まない。ケチャップは最悪だ。あんなの誰が食べるんだろう。子供の頃に一度だけ、ケチャップが手についたことがある。本気で死ぬかと思った。
でも精液は……好きなほうだ。食べたりはしたことがない、自分の液しか知らないし――それは絶対いやだし――でも気になっている。精液が肌につく感触だって、快楽の象徴だから好きだ。快楽については、うまく説明できないくらいの興味があった。
快楽は、世界で最高のものじゃないだろうか。ズボンを穿かなくてすむことの次にいい。
見ると五分を使い切ったところだった。タイミングは完璧。
続きのバスルームへ入った。精液を拭ってから、適温ぴったりのシャワーを浴びる。寝室へ戻ると、下着、仕事用のシャツ、ネクタイを出した。それをベッドに並べて歯を磨くと、並べておいた服を着ていく。
今日は月曜なので、卵二つのスクランブルエッグ、トースト、オートミールの日だ。ぼくはコーヒーを飲まないが、母はそれが理解できずにいた。母の血管にはきっとコーヒーが流れている。
必ず決まったものを食べるわけではないが、朝食、特に月曜にはそうしていた。毎日を同じように始めるのが好きだし、週の始まりはなおざりにできない。それに、一日で一番重要な食事だ。ここ数年で、昼食と夕食についてはもっと柔軟になっていた。
調理をして、食事をする。オレンジジュースを飲んだ。
すべての準備が済んでもう先延ばしできなくなると、ぼくは玄関脇のラックに掛けておいたズボンを穿き、ドレスシューズを履いた。出てから、しっかりと鍵をかける。
サンディエゴの部屋の前で一台の車が待っていた。
「ハロー、ブラッドリー」ぼくは後部座席に乗りこんで運転手に挨拶した。「おはようございます、お母さん」
母は隣に座っていた。同じ建物の一室に住んでおり、ぼくらは同じ会社で働いている。母には少々過保護な傾向があった――"少々"抜きで。
「おはようございます、ミスター・コープランド」
ブラッドリーが返事をする。「……マイロ」と言い直したのは、ぼくのしかめ面を見たからだろう。ミスター・コープランドと呼ばれるのはいやなのだ、しょっちゅう呼ばれるけれど。
「ブラッドリーはプロフェッショナルに徹しようとしているだけなのよ、マイロ」と母が言った。
「うん、でもぼくはいやです。相手が呼ばれたいように呼ぶのもプロフェッショナルでは?」
母は溜息をついた。ぼく相手にはよくそうなる。
「今朝はどんな朝だったの?」
「やかましかったですね」
しつこい『ヤッて』という言葉とミュートボタンを思い出しながら、ぼくは答えた。
母は眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。どういう意味、と聞かないほうがいい時もあると学習している。ぼくがいつも正直に答えるからだ。
母の金融会社まで四十五分かかった。ぼくはここで会計士として働いている。母は、汗と努力で一から自分の会社を築き上げた。たまに高圧的だが、ぼくはこの上なく母を尊敬している。
母は、誰にもたよらない。
母は、誰にも自分を利用させない。
父がぼくを捨てていなくなった時も、母は残った。
道中ずっと仕事の話をした。会社まではいつもそうだ。お互い、大した私生活はない。母は人を萎縮させるし、それほど人が好きではないから。ぼくは他人とどう接したらいいのかわからないことが多いし、向こうもぼくをどう扱っていいかわからないからだ。
エレベーターで上へ向かった。会社のこのエレベーターは定期点検されているのがわかっているので、安心して乗れる。
「今夜は夕食を食べにいらっしゃい」
母が言った。確認もしないが、どうせぼくには予定もない。
「そうします」
エレベーターを降りると別れて、それぞれのオフィスへ向かった。
午前中は、ここで働き出してから不変のルーティンに沿って進んでいった。数字が好きなわけではないが、得意だし、自分が好きなことが何なのかぼくにはよくわからない。何もないのかもしれない。いつもはそれでかまわないのだけれど、何とも言えないもやもやした気持ちになることはあった。セックスはしてみたいけど相手とやり方には細かくこだわる、というのと同じかもしれない。時々ぼくにとって、ぼくが一番厄介だ。
正午、昼食休憩まであと三十分という時に、アシスタントから電話が入った。
『マイロ、ポートランドの弁護士から1番に電話が入っています』
一体何だろうとぼくは眉を寄せた。
「つないでくれますか?」
『わかりました』
数秒後、男性の声が聞こえた。
『こんにちは、あなたがマイロ・コープランドですか?』
「ええ。用件をうかがっても?」
『私はチェスター・ハリントンと申します。メイン州のポートランドで弁護士をしています。あなたの祖母に雇われた、遺産相続代理人です』
胃がぎゅっとよじれたが、すぐに脳のギアが入って主導権を奪った。この話は何かの間違いだ。
「それは違います。祖父母はどちらも亡くなっています。ぼくが生まれる前に交通事故で」
『あなたの母親はベバリー・コープランドさんですよね、リトルビーチ島出身。メ――』
「メイン州の」とぼくは引き取り、どういうことなのか頭の中で整理しようとした。
『ベバリー・コープランドさんの実の母親は、ウィルマ・アレンさんなんです。私の知るところでは、お二人は絶縁していたようです』
口を開けたが、言葉が出てこなかった。思考がぐるぐる乱れて胸が苦しくなる。
「全然……全然わかりません」
やっとそう絞り出した。母は養子で、それをぼくにずっと隠していた?
『お二人の事情や、どうして縁が切れたのかは存じ上げないんです。申し訳ない。お知らせするのは心苦しいですが、あなたの血縁上の祖母がお亡くなりになりました。大きな財産ではありませんが、お
祖母様はあなたに自分の書店を遺されています。書店と、その上階にあるアパートとで、正確には建物全体ですね。ただ、隣り合った店舗スペースをある男性に貸しています。ギデオン・バーロウ氏。この方はそこでタトゥパーラーを経営しており――』
「ぼくはタトゥパーラーを所有しているんですか?」
タトゥもないのに。肌に消えないものを刻むなんて、理解できない。
弁護士がクスッと笑った。
『そうではありません。あなたが相続したのは建物で、その中の場所をバーロウ氏が借りているのです。遺言によって、この先も彼に貸すよう言い残されています。上のアパートのほうも少々問題があるのですが、お会いして話したほうがいいかと思います。あなたがこの物件をどうなさりたいのか、ご自分で所有するか、それとも――』
「ほしい」
口走ってから、ぼくは驚いた。本屋なんかもらってどうするつもりなのか――それとアパート、それと……ギデオン・バーロウまでも――全然わからないけれど、ぼくには祖母がいて、その祖母がぼくに遺してくれたものだ。
母が、存在を教えてくれなかった祖母。
もう死んでしまった祖母。
『わかりました、よければ書類を送りますよ。そちらにサインしてもらってもいいですし、近々おいでになるなら直接お会いしても』
その先の言葉はにじんで、知っておかないとならないことを話しているのだろうけれど、ぼくにはついていけなかった。息苦しさが強まる。こんなの……いつもと違うし、無秩序だ。ぼくには受け入れがたいもの。
『マイロ? 聞こえていますか?』
確認されていた。話していたのに、ぼくが答えなかったからだ。
3、2、1と数えながら、不思議なことに、ギデオン・バーロウのことを思っていた。どうして祖母はギデオン・バーロウにこの先も店を貸すよう言い残したのに、建物はぼくに遺したのか、それと――ギデオン・バーロウって変わった名前だなとか。このタトゥの人はすでにして謎で、でもまだ会ってもいない。
「ぼくは、ええと……行きます。そちらに。ポートランドに」
ポートランドに行ったことは一度もない。拒否するべきかもしれない。ぼくにできるわけがない。やりたいわけがない。ルーティンから外れすぎている。ぼくは突発的な行動はしないのだ、とても処理しきれないから。でも……じつは祖母がいて……その祖母が本屋をぼくに遺してくれたことが、今は気になってたまらない。
「準備をするので、一週間ほどもらえますか?」
ほら。できる。やらないと。
やりたいのだ。そのためなら前へ進めるし、ぼくが焦がれている自立への第一歩だ。
『もちろん。私の連絡先をお伝えします』
震える手でメモし、電話を切った。荷物をまとめたぼくの胃は縮こまっていたが、背をのばして、オフィスから出た。
(母は言わなかった……)
どうしてだろう?
「メアリーベス、ぼくは家の都合があるので、今日の仕事はもう休みにします。スケジュールをキャンセルしてください」
メアリーベスがぽかんと口を開けたのは、きっとぼくが仕事を休んだことがないからだろう。もうすでに自立を損ねている。
「ええ、わかりました。車を呼びましょうか?」
「いいえ、結構です」
ぼくはまっすぐ母のオフィスへ向かった。
「こんにちはミスター・コープランド、調子はいかがですか?」と、最近入った顧問の一人に聞かれた。
「とてもひどいです。母が噓つきだったので」
ぼくは噓が大嫌いだ。噓を言う人間が理解できない。真実を言うのがそんなに難しいとでも?
「それは……何とも……」
返事に耳を貸さず、ぼくは母のオフィスのドアを開けた。
「マイロ……一体どうしたの?」
「ぼくには祖母がいる……いたんですね。彼女は一生同じ島で暮らしていたから、お母さんも知っていたはずです。彼女が亡くなって、ぼくに本屋とタトゥパーラーとタトゥの人を遺してくれました」
「タトゥの人?」
母が聞き返した。今、彼女の母親について話しているのだといきなり思い当たって、ぼくは母の顔に悲しみを探した。
「ぼくのタトゥの人です」
意味不明な答えになった。ぼくはタトゥが好きでもなければほしくもないし、タトゥの人はぼくのものではないのだし。だけれども、どう呼んだものか、まだ整理できていなかった。
母が溜息をついた。
「中に入ってドアを閉めてちょうだい、会社全体に聞かせたくないから」
母はいつも世間体を気にしていた。ぼくが変わっているという目で見られるのもいやがっている。それは、体面より愛情ゆえだけれど。今は腹立たしくとも、ぼくだって、母がぼくのためなら何でもするしどんな試練にも怯まないのはよくわかっていた。ただ、ぼくは誰かにかわりに戦ってほしいわけではない。必要なら自力で挑みたい。
「どうしてぼくに黙っていたんですか? ウィルマ・アレンのことを」
質問かその名前にか、母はビクッとしてから、表情を引き締めた。
「それはね、あの人は私の母親じゃないからよ。私の両親は交通事故で死んだ。私を生んだのがあの人だろうと、それ以上の関係はないの」
ぼくは少し悲しくなり、とても混乱して、下を向いた。
「それでも、ぼくに話せたはずです」
「そうね」母が認めた。「黙っていたことは謝るわ」
「何があったんです? ウィルマ・アレンに。どうしてお母さんを養子に出したんですか」
「知らないわ。どうでもいいし。その話はしたくない。その建物を誰かにたのんで売却してもらう話をしましょ。店員やそのタトゥの人への補償も――」
「いいえ」
ぼくはさえぎった。やはり母は、ぼくがこうしたいだろうと決めこんで一方的に解決しようとする。ならこれが正しい道だ。売却なんかしたくない。どうするかはまだわからないけれど、どうするかは自分で悩みたい。
「リトルビーチになんか行かせないわよ」
「ぼくは二十四歳ですよ。自分がやりたいようにします」
おっと。生まれてこの方、最高に反抗期っぽい言い方になってしまった。
「ここの仕事もあるでしょ――」
「辞めます」
やりたくてしている仕事でもない。ほかにすることがなく、数字が得意で、母がやっていることだからしていただけだ。
「私と二フロア以上離れて住んだこともないじゃないの。フランクリン大学にだって家から通ってた。あなたが一人でもやっていけるのはわかっているわよ、マイロ、でもね――」
「いいえ」ぼくは割りこんだ。「そうは思っていませんよね」
ずっと知っていたことだけれど、口に出したのは初めてだった。母はぼくの知能の高さは承知していても、自立できるとは考えていない。母自身は誰も必要としない、自立した強い女性として周囲から見られたがっていたが、ぼくをそういう目で見てくれることはなかった。
「リトルビーチはあなた向きじゃないのよ、マイロ。狭い島だし、心も狭い。あの島は私には生きづらかったわ、両親が生きてた頃でもね。まるでなじめなかった――あなたにあんな思いをさせたくない」
(ここにいてもぼくはなじめない。なじめる場所はきっとどこにもない)
これまでの人生、ほぼすべての選択が母まかせだった――フランクリン大学に行ったのは近くて、母が学部長と知り合いだったからだ。職も。住むところも。いい母親だし、父がぼくのことを「異常だ」と言った時も、そのことで険悪になっても、母はぼくの味方でいてくれた。でも、ぼくに翼を許すこともなかった。母をとても愛しているけれど、そばにいる限りぼくに翼は与えられない。そしてあの建物を相続しなければ、その翼をどれほど求めていたのか、ずっと気がつきもしなかっただろう。
「ぼくは行かなくては。この目で見に。お母さんも島を出たんでしょう? 本当の自分を探して?」
サンディエゴにいる限り、いつだってぼくは“ベバリー・コープランドの変わった息子”で、大物で雇用主の母がにらみを利かせているから誰もが仕方なく相手をしているだけなのだ。
「あそこで本当の自分が見つかると思っているの? どんなところか知らないでしょう。小さな島で、誰もが周りと同じようにしてないといけないようなところよ」
そして、ぼくは周りと違う。お互いにそれはわかっていた。でもそんなことはいいのだ。やっぱり自力で何かをしてみたい。
「今は違っているかもしれませんよ。もう歳月も経っていますから。ぼくは行きます。それと、お母様のこと、お悔やみ申し上げます」
「あの人は私の母親なんかじゃないわ」
母のこういう割り切り方に、周囲は引くのだが、ぼくは気にならなかった。ぼくなりに理解できたからだ。単に返事をした。
「進捗は知らせます」
そこに、母の目の中に見えた――行くなと言いたがっている。命令したい。
でもそうはしない。そういう人ではない。
母はうなずき、ぼくはそこを去った。
■2
ギデオン
「よお調子はどうだ、チンチン顔?」
兄のオーランドがそう言いながら俺のタトゥパーラー〈コンフリクト・インク〉のドアから入ってきた。
俺たちは真逆だった、俺とオーランド。兄は金髪、俺は黒髪。兄の肌は手つかず、俺は胸と腕と腹にタトゥ入り。右耳の中の軟骨にはダイスピアスをつけていて、両乳首、左瞼、下唇下部にもピアスの穴を開けている。オーランドはピアスなし。
兄は高校でスポーツをやってたし、チアリーダーとデートもした。俺はクローゼット入りの隠れゲイで、バイの親友とこそこそイチャつきながら相手に恋をしていた。兄は十六歳からつき合っていた女性と結婚し、大学野球と学位取得のために初めて島を離れ、ロースクールに進んで、だが一方の俺は高校の卒業パーティーでクリスに告白したものの、相手は気軽なお遊びのつもりだったと知って玉砕し、島からすごすごと逃げ出した。クリスのほうは、てっきり俺も同じ考えだと思っていたのだ――こっそりシゴき合うだけの男友達だと。俺を傷つけたことであいつも落ちこんでいた。両思いじゃないのは仕方ないのだが、そんなわけで俺はリトルビーチ島を、二度と戻らないつもりで出ていった。
今じゃ胸張って隠れなきゲイだが、島で唯一のカミングアウトしたゲイだ。クリスとは今でも親友だし、家族の中では相変わらず浮いてる。父さんとオーランドは瓜二つだ。母さんは俺よりそっちの二人と仲が良く、俺はただの……ギデオン。唯一大学にも行かず、自分の体に穴を開けたり肌に刺青したりが好きな男。
とはいえ、家族仲は睦まじい。どこか俺だけ、はみ出している気はしても。
ただしこのオーランドは、スーツ姿でキメているというのに俺のことを「チンチン顔」とか呼ぶ男でもある。
「阿呆だなって言われないか?」と俺はやっと返事をした。
「毎日さ。お好みならスナックちゃんってお呼びしようか?」
うんざり顔で、俺は兄が来る前に作業したばかりのタトゥの道具の片付けを続けた。
「スナックちゃんはよせ」
「えーかわいいだろ! 子供の頃、お前がキャンディやらクッキーやらポテトチップスを握りしめてよちよち歩いてたのを思い出すよ」
子供の頃、俺はお菓子に目がなかった。今でも少々。甘くてもしょっぱくてもいける。いつもつまみ食いがバレたので、そのあだ名というわけだ。
「お前は世界でも救いに行ってろよ。裁判で勝つとか、木から下りられなくなったばあさんを下ろすとか、何かあるだろ?」
弁護士とタトゥアーティスト。やはり真逆。
オーランドが笑って腕組みした。
「木に登るなら猫だろ」
「このリトルビーチじゃわからんぞ。そのへんで老令嬢が木に引っかかってても俺は驚かないね。いたら助けるのはお前の役だぞ」
オーランドは丁度そこに居合わせるタイプで、交通事故を目撃して運転手を救出したこともあれば、レストランで喉をつまらせた客をハイムリック法で助けたこともある。うちの両親にとってだけじゃなく、島のヒーローなのだ。そんな相手とどうやって張り合う? 別に張り合いたいわけじゃないが、子供の頃は劣等感だらけだった。兄と確執があると言いたいわけじゃない、何もない。両親からだって、劣らない愛情もサポートももらってきた。ただ誰もが知ってることだ、オーランドは世界の大半より――あるいはメイン州の大半より――ちょっとだけ完璧な人間だと。
「なら、木にはさまってるお年寄りに気をつけとくか」
「そうしろそうしろ」
俺はタトゥマシンを棚に戻して、また手を洗った。
「で、完璧な兄上が何用でこんなところまで?」
「ハッハッ」オーランドが笑いとばす。「ヘザーが友達と夕飯に行ったから、ちょっと寄ってうちのお騒がせな弟が何してるのか見ようと思ってさ」
「どうせ悪い子さ。このタトゥでバレバレか?」と俺は兄相手に軽口を叩く。
「お前は悪い子ワナビーだろ。そんなふりしたって、本当は情に脆いのにムッツリすげない態度を取ってるだけだ。男はそういうのにサカんのか?」
「そうさ。俺に一目会おうと列を成す男たちを見ろよ。国中からギデオン・バーロウを見にやって来てる。あとな、人をからかいに来ただけならとっとと帰れ」
オーランドは楽しそうに笑った。
「そのために来たんじゃない、そっちはただの役得だよ。お気に入りと遊びたくて来ただけさ。この後の予約は?」
「ないよ。とびこみの客待ちでとりあえずいるだけだ。フレディがもうすぐ来るから、入れ違いに出られる。遠くに行かなきゃ、フレディの予約中に誰か来ても俺を呼び戻せるし」
「ならいいな」
リトルビーチでタトゥパーラーは大繁盛とはいかないが、やっていけている。金持ちや家族連れが夏のバカンスに押しかける島でもないし。とはいえ島だ、いくらかは来る。ぽつぽつと人が訪れるつつましい観光シーズンはあるが、東海岸にはリトルビーチよりずっとそそる観光地がたっぷりあるのだ。俺としてもそれで結構。実入りはありがたいけど。
その流れで、ウィルマのことを考えた。くそう、彼女がいなくて寂しい。俺の店舗スペースと二階の住居の持ち主だったから、とは関係なく。リトルビーチで不動産物件は貴重だが、あのヤバいばあさんが戻ってくるならすべて引きかえにしてもかまわない。やたらおもしろくて、まったく最高の人だったが、なんと今度は都会育ちの孫がやってくるとか……何をしにだ? 引き継ぎ? 建物の売却? リトルビーチ島の高級リゾート化開発?
わかるものか。
孫が建物を相続するまで、孫がいたことすら誰も知らなかった。島の話題はもうそれ一色――あのベバリーって娘がじつはウィルマの血を分けた娘だったなんて驚き、とか。俺は小さかったのでベバリーを知らないが、周りは知ってた。この島でバレることなく守られた唯一の秘密かもしれない。
数分してフレディがやってきた。五十代で、島の女性と結婚している。歳がいってからタトゥを始めて、元はボストンまで行って仕事をしていた。俺も彼も島に戻り、ウィルマがこの場所を貸してくれた後で、俺がこの店にスカウトしたのだ。
「オーランドと飯を食ってくる。とびこみのタトゥがあったらメールくれ」
「わかった」
フレディは返事をしながら長い髪を一つにくくっていた。髪と同じく濃いひげだ。
オーランドがドアを開け、二人で店を出た。どこに行こうかなんて言うまでもなく、ライトハウスに足が向く。地元のグリル&バーでべらぼうに美味い。灯台のレプリカにくっついて建てられている――灯台と言っても機能しないし、水際ですらないが。
店に入ると島民たちが顔を上げ、笑顔で声をかけたり手を振った。バーカウンターは左手奥、うまく収めるために三日月に曲がっていて、右手側にはブース席やテーブル席がある。奥にはビリヤード台、昔のジュークボックス、地元民が演奏できるステージがあった。
空いたブースにオーランドと俺が座るとすぐ、ウェイトレスのパッツィがやってきた。
「あらあら、バーロウ兄弟じゃないの。昼と夜なみに正反対の」
俺はムッとした顔を見せないようにした。時々、人が平気で言ってくる言葉には驚かされる。そりゃ俺だって兄と自分を比較したが、自分でやるのと人から「オーランドともう一人」、しかも型落ち、と言われるのはわけが違う。
「こんばんは、パッツィ」とオーランドが挨拶した。
「どうも」と俺もつけ足す。
「ご注文は?」
テーブルの端で作り物のロブスターがメニューをかかげているが、俺たちにメニューは不要だ。
二人ともビール、そしてオーランドがニューイングランド〔※アメリカ北東六州〕人としてシーフードをたのむかたわら、俺はステーキにした。肉が好きだ。
「建物について、何か聞いたか?」
パッツィが立ち去ると、オーランドが聞いてきた。
「あんまり。弁護士の話だと、孫に連絡を取って、もうすぐその孫が来るってさ。ウィルマが、最低一年は俺に店を貸しとくよう条件を付けたことも伝えたって。身内に残したかったのはわかるけど、参ったね。安く貸してもらってたし、その孫がクソガキだったら、島には空き物件は全然ないし」
そうなると、本土に戻って誰かの店で働かなきゃならないかもしれない。そしたら引っ越しだ。ありかもしれない。もう、古傷は十分なめた。リトルビーチから逃げ出し、その都会からも逃げ帰った。そろそろしっぽを巻いてばかりじゃなく、何かに
向かって真面目に将来を考える頃合いってことだろうか。
「どうなってもみんなで何とかするさ」いかにもオーランドな答え。「ハーフ・ムーン・ベイ・レーンに賃貸マンションが建つって話もあるしな。それが駄目でも、それか建つまでとか、父さんたちのところか俺とヘザーのところにいりゃいいよ」
二十六歳なら誰でも心に描く夢の未来だろう――故郷に戻っての実家住まい。本土から時々やって来る男たちもつれこめずに、ヤる回数は今よりなお激減だ。
「悪気はないけど、死んだほうがマシだね」
オーランドが目をくりっとさせる。
「そーんな大げさに言っちゃって」
「そーんな大げさに言っちゃってえ?」
俺は小馬鹿にして言い返した。兄の前だといつも十二歳の顔になる。
「ご機嫌斜めだなあ、スナックちゃん?」
ニヤつくオーランドへ中指を立ててやった。
「細胞のすみずみからお前が大嫌いだよ」
「俺もお前を愛してるぜ、弟よ」
顔がゆるまないようこらえた。ムカつく兄貴め。
パッツィがビールを持ってきて、話題は変わり、仕事や日常の話をした。クリスと妻のミーガンはどうしてるかなんてオーランドが聞くが、俺相手と同じくらい二人にも会ってるくせに。
だが俺の頭には、ウィルマの孫息子のことがこびりついたままだった。ウィルマの人生に顔を出しもせず、祖母を気にもかけなかったくせに、遺産の話にとびついてリトルビーチに駆けつけるような男。すでに、そのクズ野郎が大嫌いになっていた。
■3
マイロ
チェスターは変だった。そんなことを思ってはいけないのは知っている。ぼくも周りから変わっていると思われているし、わかっていてもどうしてそう思われるのかは理解できないのだけれど、でもチェスターは本当に変なのだ。
しきりに、ぼくをおかしな目で眺めている。しかも奇妙な口ひげがあって、やたらとそれをいじっている。ひげの先はくるっと丸まっていて……どうして? 何のために? まるでアニメのキャラクターみたいだ。
でも一番神経を逆撫でされるのは、ウィルマ・アレンの建物を本当にほしいのか、ちゃんと扱えるのかと、幾度もぼくに確かめるところだ。
「ぼくを愚鈍だと思っていますか?」
しまいにぼくは、オフィスで向かい合って座る彼にそう聞いていた。この部屋は、放置された靴下とチーズの匂いがする。
チェスターは、完全に意表を突かれた様子で目を見開いていた。人はいつもそうだ。本音や本心をちゃんと言わない人ばかりで(やっぱりぼくにはそれが理解できないのだが)、そしてぼくが頭に浮かんだことをそのまま言えば、ありえないという顔で絶句し、唖然とされる。
皆が真実を言えば、世界の問題はもっと減るのに。
「は? 違いますとも」とチェスターは唾を飛ばした。
「あなたはもう五回、毎回違った言い回しで、ぼくの気持ちは確かなのかと確認しています。一回目は、初対面から二分三十秒経たずに。ぼくの知能が十分ではないと考えているからですか? ぼくはたしかに、本屋を所有したこともタトゥパーラーを所有したこともありません。もっともタトゥパーラーはぼくの所有ではなく建物だけの所有になりますが。ええ、建物を所有したことも、そこで店を経営したり店舗を貸したり大家をしたこともありませんが、できますよ。もし何らかの理由でできなかったりやりたくなければ、あなたにご連絡します。あ、違う方に連絡するかもしれません、正直言ってあなたのことを好きかどうかよくわからないので。でも、誰かには連絡します」
チェスターはぼくを凝視して、乾きかけの魚のように口をパクパクさせていた。ウィルマ・アレンがこの男を選んだのか? 彼女が存命なら、その判断について物申すところだ――もちろん最大限丁重に。
「失礼しました、ミスター・コープランド」
「マイロです」
そこからは順調に進んだ。ぼくは読んでいない書類にサインするつもりはないので、たくさん聞いて、たくさん読んだ。その後でたくさんのサインもした。ぼくの携帯電話はしきりに鳴っていて、そのたびに画面に〈母〉と表示されていた。消音モードにする。ひっきりなしにかけてこられて集中できるわけがないのに。
「ウィルマ・アレンは家を所有していなかったんですか?」
全部すむと、ぼくはたずねた。その話は一度も出ていない。店の二階はアパートになっているが、そこにはタトゥの人が住んでいる。よほどウィルマ・アレンと仲が良かったのだろう。
「何年も前に売却して、それで店の建物を買ったんです。上の部屋にずっと住んでいましたが、男性のご友人と同居を始めて、そちらに引っ越したのです」
「愛人がいたんですか」
男性のご友人なんて、じつに間の抜けた呼び方だ。
チェスターがまた喉を詰まらせた。人々は、セックスのこととなると態度が奇妙だ。大量の体液を交換する行為だから、その点が気持ち悪いと思うなら理解できるが、問題にされているのはそこではないのだ。セックスについては誰も語りたがらない。人はセックスのことより、暴力について話したり目撃する方が好きなのだ。そういう記事は巷にあふれている。
「お二人の関係がどういうものなのか、私は存じかねます」とチェスターが答えた。
「なら本人に聞きます。その男性の名前と住所を書いてもらえますか?」
もう予定より長居しているし、これからリトルビーチ島へ向かわなければならない。リトルビーチ島なんて名前は変えたほうがいいと思うけれど。それに、泊まるホテルを見つけなければ。ホテルは大嫌いだが。
「名前と電話番号ならわかります」
「それでいいです」
持参したバッグに、チェスターからもらった書類を全部しまいこんだ。これで建物の住所、タトゥの人との賃貸契約内容、そのほか必要なものがそろった。次に渡された鍵には、一本ずつどこの鍵かラベルが付いていた。貼ったのがチェスターかウィルマ・アレンかはわからないけれど、ウィルマ・アレンがやったと信じることにしよう。ラベルはこの上なく便利だし、この分だと、彼女とぼくには何かしら似たところがあったのかもしれない。
「どうもありがとうございました」
手を出してチェスターと握手を交わした。もう会わなくてすめばいいが、また会うならこの口ひげを剃ってくれていますように。
エレベーターは好まないので、機会があれば階段を選ぶ。階段を下りると、雇った運転手が車を停めている駐車場に出た。ぼくの荷物は車のトランクの中味と、後部座席の数個の小さなバッグだ。新しく買いそろえることもできるけれど、慣れたものがいい。適応には時間もかかるし、ベッドはすでに順応を強いられている。身辺が落ちつけば自分のものを配送してもらうつもりだった。
「ミスター・コープランド、どうぞ」と運転手がドアを開けた。
「マイロです」
もう二度とミスター・コープランドとは呼ばれたくない。
車に乗りこむと、運転手がドアを閉めた。これからは車を呼ぶのにアプリのサービスを使ったほうがいいのだろうけれど、リトルビーチ島ではどのくらい選択肢があるのだろう。サンディエゴでは母の運転手がいたし、今乗っているのは空港の送迎サービス業者だ。毎回は使えないし、金銭的な余裕も多少の貯金もあるけれど、無駄遣いはしたくない。母からの援助も受けたくない。自力でできるところを見せたいのだから。
車内からの眺めは楽しかった。南カリフォルニア育ちのぼくには物珍しい。たくさんの崖、岩がちのゴツゴツした海岸、遠くに見える灯台。木々。
フェリーまでこのまま行って、荷物や向こうでのホテル探しのためにも、車ごと島へ向かう予定だ。船まであと少しのところで、ぼくはスピードメーターに目を留めた。
「制限速度を八キロオーバーしていますよ」
注意すると、運転手はハンドルをぐっと握りしめた。
「申し訳ありません」
こっちも謝りそうになった――自分の仕事を、できない相手から指図されるのはぼくだっていやだし。だが速度制限は理由あって設けられているものだ。ぼくもあらゆるルールを厳守するわけではないが、運転はストレスがかかるものだし、だから自分ではやらない。基本的な運転ルールも守れないのなら運転手以外の職に就くべきだ。
ついにフェリーに到着した。リトルビーチまでは幸い三十分で着く。海を越えて新生活へ……本屋とタトゥの人とぼくは住めないだろうアパートへ近づくにつれ、胃がキュッと固くなった。願わくは、タトゥの人がいやな相手ではありませんように。チェスターに会った後では、ウィルマ・アレンの交流相手選びのセンスには疑問符がつく。
どこかでくつろいでズボンを脱ぎたくてたまらなかったけれど、ぼくはホテル探しより先に、本屋の住所を運転手に伝えた。
車が停まったのは、ミントグリーンがアクセントカラーになった白いレンガの建物の前だった。正面にドアは二つ――一つは本屋の、もう一つはタトゥパーラーの扉。
ぼくは座ったまま、ただ窓から眺めた。左サイドには〈コンフリクト・インク〉と書かれた看板があり、右サイドの看板には〈リトルビーチ書店〉とある。店名の両側には本の山が描かれていた。タトゥの人も同じ構図を使っていたが、本のかわりに、人間の肌に線を引く拷問器具が描かれている。
あと、この店名はどういう意味なのだろう。
矛盾する刺青?
どちらの店も正面は大きなガラス窓で、本屋のガラスの後ろはショーケースだが、どう見ても今は営業していない。
建物の右手には石畳のエリアがあって、めっぽうかわいい。ウィルマ・アレンはそこにテーブルを出したりしただろうか。お客さんが外に座って読書やおしゃべりをするのにとてもよさそうだけれど。
無言を貫く運転手からはぼくへの怒りを感じたし、彼はさっさとトランクからぼくの荷物を下ろしはじめた。時々まったく理解が追いつかないのだ、人々がどうして怒るのか。運転手を怒らせたかったわけではないけれど、スピード違反をしたのは彼だし、どうしてぼくが責められるのだろう。
どうやら、この車でホテルに向かうことはできないようだ。別にいい、どうにかなる。ぼくだってこの運転手は好きでもないし一緒にいたいわけでもない。
ぼくが車から降りて後部座席から残りのバッグたちを引っ張り出すと、運転手は何かぼそぼそ呟いて車に乗りこみ、走り去った。歩道に立ち尽くすぼく、歩きすぎる人々、あたりを包む海の香り、ああ、今すぐどうしてもズボンを脱ぎたい。
でも愛らしい町だった、ポストカードのようだ――メイン通りにはいかにも海辺の建物が並んでいる。アイスクリーム屋、レストラン、お店。
ここで育つ母を想像したが、しっくりこなかった。母はカリフォルニアっぽすぎる。今頃ぼくの携帯電話をいっぱいにしているだろうが、ぼくはまだ〈おやすみモード〉にしたままだった。
書店の入り口まで荷物を少しずつ運んだ。レイチェルという女性の電話番号をもらっている。ウィルマ・アレンの店で働いていた女性で、きっとぼくの店でも働いてくれると思う。リトルビーチ書店はウィルマ・アレンが亡くなってからずっと閉まっていた。
荷物が……たくさんあって、手に余る気もしたが、気付かないことにした。すべてを集め、足の踏み場もなくなったところで、ぼくはもそもそとポケットから鍵を取り出し、一つずつラベルを読んで、ついに正面扉の鍵を見つけ出した。
誰もがすべてにラベルをつけるべきだ……ぼくはつけていないけれど。でも、周りがそうしてくれるととても助かる。
鍵を差しこもうとした時、声がした。
「おっと。きみがウィルマの孫息子かな」
振り向いた瞬間、タトゥの人だ、と思った。ぼくがラベルを好きな以上に彼はタトゥが好きで、あちこちにある。両手首から上にかけてドラゴンやランダムな模様と、あれは……シルクハット?
彼は短パンとビーチサンダル姿で、このビーチサンダルというのは最悪の発明品の一つではないだろうか。指の間に何かをはさんだままどうやって歩き回れと? この拷問器具は不愉快な上に馬鹿げていると思うが、彼の足はいい足だった。そこは評価してあげたい。
ふくらはぎや脛にもまだタトゥがあったが、しゃがまないとよく見えない。
バスケットボール選手のユニフォームのようなナイロン製の短パンだが、バスケットボール選手には見えない。選手には特定の見た目があるだろうか? また先入観で判断してしまっただろうか。避けるよう心がけているのだが、本気で努力しても
断つのが難しい――そしてこのままではぼくが
勃ってしまいそうだ。タトゥの人を見つめたままでは。
目をそらす? いいや。まずはピアスに目がいく――唇と瞼と耳。痛くないわけがないのにと、ぶるっと震えた。素敵な唇だとは、もう言ったっけ? 素晴らしい見事な口元だ。ワルっぽいタイプにこれまで興味はなかったけれど、彼がセクシーなことは間違いない。
「ほかの誰かが鍵を持っているんですか?」
どれだけか、長々と見つめていたことに気がついて、ぼくはそう口走っていた。
「んん? いや。俺ときみしか持ってないはずだ」
「だってあなたは、『ウィルマの孫息子かな』とぼくに聞きましたよね、単に『どうも、ウィルマ・アレンの孫息子』と――ぼくの名前はまだ知りませんから――挨拶してもいいはずなのに。そう確認されたので、ほかに誰かが鍵を持っているのかもと推察したのです」
彼はぼくを見つめて黒い眉を寄せ、言葉と反応に迷っている顔だった。こういう態度には慣れっこだが、何か聞き返すことも頭が二つあるようにぼくをぽかんと見ることもなく、彼はただゆったりと気怠い笑みを浮かべて、言った。
「やあどうも、ウィルマ・アレンの孫息子。俺はギデオン・バーロウだ。きみの店の隣のスペースと上の部屋を借りているよ」
彼は手を差し出し、ぼくらの間には荷物の海で、何だろうこれは、自然に流れに乗る彼が信じられなかった。たとえ受け入れる人でも、ぼくをいぶかしむ目をするのに、タトゥの人にはそれもない。
ぼくの視線が彼の手に落ちた。力強そうないい手で、血管がたくさん見える。血管にそそられるなんて、自覚したこともなかった。これが初めてだし。血管がエロいなんてそんな変なことがあるのか。
タトゥの人が手を下ろした。しまった。間が空きすぎたのだ。ぼくが手を出さなかったのを失礼だと思われただろうし――。
「あなたはとても魅力的ですよ」
その言葉が出た瞬間、自分の口を押さえた。どうして言ってしまったんだろう。そう真実は大切だし、もっと誰もが本音を言えばいいけれど、そんなぼくでも、険悪になったりぶん殴られるのは避けたい。空手は得意だから(母が自衛として習わせたのだ)何かされる前に彼をどうにかできると思うけれど、そんなことはしたくない。暴力は苦手だ。
「ぼくを殴らないでいただけるとありがたいです。称賛する前に、あなたが
同性愛嫌悪症ではないか見きわめておくべきでしたし、そもそもこの呼称は如何なものでしょう?
同性愛侮蔑症などと呼ぶべきかと思います、それか、ええと、単に
愚か者とかでも?」
どうしよう、口が止まらない。
タトゥの人はまたゆるい、気怠げな笑顔になった。こなれた笑い方だ。随分練習を積んだに違いない。
「きみを殴らないと約束するし、俺は間違いなくホモフォビアではないよ――昔は少し苦い思いをさせられたくらいだ。それとありがとう、きみも魅力的だ」
待った。彼は今……もしかして……。
「苦い思い? つまりあなたは……」
「そういうこと」彼は腕組みした。「きみこそそれを聞いて俺を殴ったりしないよな?」
「は? まさか!」言った後で、ジョークだと気がついた。「今こそ、握手をするべきではないでしょうか」
「いい考えだ」
もう一度、彼は手を出してきて、自己紹介をくり返した。
「俺はギデオン・バーロウ」
「ぼくはマイロ・コープランドです。ミスター・コープランドとは決して呼ばないでください、いやなので。でもぼくは時々、あなたをタトゥの人と呼んでしまうかもしれません。あなたがいやなら控えるようにしますが、ぼくの頭の中でずっとあなたをそう呼んでいたので、ギデオンと呼ぶのに慣れるには少しかかります。それに、あなたにはタトゥがたくさんありますからね」
彼が大きな笑い声を立てた。人によっては
ぼくを笑っている気がする時があるのだが、タトゥの人にそんな感じはまるでなかった。ギデオン。
「風変わりなお名前ですね」
「よく言われるよ。きみの頭の中に、俺はそんなにいつもいるのかい?」と彼の右唇が上がる。
ぼくは眉をひそめた。
「はい? そんなには……あっ」
ポルノでこんな会話をしている時は……。
「これってぼくの気を引こうとしていますか? わあ。そういうことだと思うんですけど、そう思うのは変ですね、あなたのことを知らないのに――たしかにあなたが魅力的だとは言いましたけども、驚きです。誰かに気を引こうとされたのはきっと初めてだと思います。それとも、ただの気さくな会話でしたか?」
「正直はっきりしない」タトゥの人はあっさり答えた。「気さく、かつ気を引こうとしてる? 気さくチック? 自然にこうなってた」
ぼくらの間を荷物の海が隔て、ぼくはいきなりの暑さを感じた。さすがだ、素敵なイケメンは天気も過剰にする。これはぼくにとって問題になりそうだ……やることが山積みなのに。タトゥいっぱいの魅力的な男がぼくの部屋に住み、隣に店があるということに気を取られている余裕はない。
「いずれあなたとはお話をするべきだと思いますが、今は本屋が見たいのです。それと、チェスターの話では――ご存知かわかりませんけどおかしな人ですよ――ウィルマ・アレンには愛人がいたようだと。その人に電話をかけたいのです。彼について何かご存知ですか?」
「ジーンか……いい人だよ。きみのおばあさんをとても愛してた」彼は視線を遠くへ向けた。「お悔やみを言わせてくれ。まず最初に言うべきだったな。素晴らしい人だった。俺にとても良くしてくれたんだ。その辺でのんびり何時間も話しこんだものだよ。ウィルマの唯一のタトゥも俺が入れたんだ」
ぼくは目を剝いた。
「ウィルマ・アレンはタトゥを入れていたんですか」
「そうだよ。ピンク色のチューリップが二輪」
口を開けたが、言葉が出てこなかった。やっと囁く。
「それは、ぼくの母が大好きな花です」
「なら、きみたち二人を思って入れたんだな」
そうなのかもしれない。もう知ることができないのが悲しい。どうして祖母は娘を育てなかったのか、二人の縁が切れずにすむ道はなかったのか、わからないことが悲しい。心が……少しスカスカになったような、うつろな感じがした。まるで知らないうちにぼくの中にウィルマ・アレンの形の穴があって、今初めてそれに気付いたように。
「それとホテルにチェックインしなくては。車の手配も」
大抵の人と違ってタトゥの人は、ぼくの話題がいきなり飛躍しても面食らいもしなかった。単にひとつうなずく。
「じゃあ俺は戻るとしよう。いつもどこにいるかは、わかるよな」
ぼくをじっと見てから、またあの笑顔を見せ、彼は隣のドアへ向かった。
--続きは本編で--