So This is Christmas


ジョシュ・ラニヨン


■1


「俺のこと覚えてたりしないよな?」
 カリフォルニア州税務局がよこした最新のラブレターから顔を上げ、僕は願わくば愛想よく見える笑顔を作った。税金、時差ぼけに加え、この店の店長——もうすぐ降格だ——の義妹がクローク&ダガー書店の二階のフラットをまさしく愛の巣がわりにしていた事実発覚ときては、今は愛想笑いが精一杯だ。
 中背。金髪。少年めいた雰囲気。奇妙になつかしい緑の目を見つめるうちに、記憶が一気に押し寄せてきた。目の前の人物への認識と、驚愕。
「ケヴィン? ケヴィン・オライリー?」
 レジカウンター代わりに使っているマホガニーのフロント用デスクを回りこむと、僕はケヴィンに多分、やあ久しぶりという感じのハグをするつもりだったのだろうが、ケヴィンのほうはその場を動かなかった。彼はニコッと大きな笑みを見せ、それから——驚いたことに——泣き出しそうに顔を歪めた。
「アドリアン・イングリッシュ……本当に、君だったんだ」
 声が揺れていた。
「大丈夫?」
 たよりない声に、僕も反応していた。思いやりと慎重の中間のような口調になる。要するに、警戒していた。
 ケヴィンはすぐに立ち直った。
「いや、ただ……この店がそうだなんて、ありえないと思ってたから。それか店は正しくても、もう君は誰かに店を売ってフロリダに引越しているかと」
「フロリダ?」
 一体どうして、南カリフォルニアからフロリダに引越すのだ。老後の住まいをフロリダに求めるユダヤ人夫婦とでもこっちを思っているのか。いや。ケヴィンはただ適当にしゃべって口を動かしているだけで、その間すがるような目で僕を見ていた。何かへの踏ん切りをつけようと。
 何への?
 彼は……前会った時より年上に見えた。当たり前か、皆そうだろう。痩せても見えた。くたびれているようにも。不幸せそうに見えた。どうもあちこちで憂い多きクリスマスのようだ、今年は。クリスマスが終わっても——つまり、今も。クリスマスの翌日。
 ボクシング・デーという日だ。イギリスではそう呼ぶ。今日も僕らがロンドンにいたなら。
 もう、いないわけだが。
「いや、これは本当に驚いた」と僕は言った。「たまたま? それとも僕を探してここまで?」
「ああ」ケヴィンはためらった。「……いいや」
 僕は笑った。
「うまい答え方だ」
 ケヴィンは口を開けたが、僕らの左手にある階段をドカドカと駆け下りてきた足音に、思い直してその口を閉じた。
 ナタリー、さっきも言及した僕の義妹かつ降任確定の店長が、彼女らしからぬだらしない格好で現れた。僕の知る限りではにじんだ目元のメーキャップと寝乱れた頭は本物で、セクシーさを感じさせるべきものなのだろう。ナタリーのすぐ後ろにアンガス、僕のビジネス上の投資のもう一つの失敗例がついてきた。ぴったりと。事実二人は、僕が彼らの恐れるような行動に至るのを阻止しようと焦るあまり、階段を転がり落ちかかっていた。
「アドリアン、これはあなたが考えてるようなことじゃないのよ!」
 手すりにしがみついたナタリーを、アンガスが猛スピードでかわしていく。
 どうしていつも、人はそう言うのだ。
 僕はぴしゃりとはねつけた。
「本気か? 本当に? そんなことでごまかせると思うのか、ナット」
 どうにかナタリーを突き落とさずにすんだアンガスだったが、たちまちトムキンスに足を取られた。トムキンスは僕が半年前に助けた野良猫だ。この猫も僕の怒りから逃げ出そうとしていたようで、とは言え彼だけが、この面子の中で無実の一人——一匹——なのだ。
 僕は息をつめ、アンガスが最後の三段をなんとかこなしてギリギリ着地するのを見ていた。
 彼をにらみつける。
「それと、お前だ。もうその顔も見たくない」
 灰色のフード付きパーカーの中に縮みこんだアンガスは、まるで世を捨てた修行僧のように見えたが、実態は正反対というわけだ。心に刻んでおこう——次は首なし修行僧を雇うべし。
「僕、クビですか?」とアンガスが喘いだ。
 ナタリーがはっと息を呑む。
「いやまさか、クビになんかしないよ。ホリデーシーズンのど真ん中で? いや待て、やっぱりクビかも。これは少し考えてみないと。どうせならその間、そっちの台車に溜めこんだ一週間分の本を棚に戻しておいてくれないか?」
 アンガスはとび上がって仕事にかかった。
「一週間分もないわよ」ナタリーが反抗的に言い返した。「一週間も留守にしてないじゃない。あれは二日分で、片付ける暇がなかったのは私たちがのに忙しかったからよ」
「本をほうでも忙しかったようだけどね。その話は後だ」
「ああそう。ええ。そうよ、ミスター・スクルージ、私たちはクリスマス休暇を取ったわよ」
「ついでに着てるものも取ったって? でも今言ったように、話は後にしよう。今はお客がいる」
 ナタリーがケヴィンを見やった。
「彼のことじゃなくて」
「じゃあどこによ?」
 挑戦的な青い目で、彼女は言い放った。モデルのような頬骨の上に緑色のラメが残っていた。
 それを合図にしたかのように、正面のドアベルが客を迎える軽やかな音を立て、ナタリーの憤激の表情に僕は笑みを嚙み殺さねばならなかった。店に入ってきたのは年嵩の二人で、教授風の見た目の二人ともが本の袋をきつく握りしめ、どうも返品に来たような不吉さを漂わせていた。
「コーヒーでも飲むかい?」
 僕は、この三分間、唖然と成り行きを見守っていたケヴィンへたずねた。
「いいね」とケヴィンが答える。
「あの二人にも口裏を合わせる機会をやるとしよう。後で個別に尋問だ」
 ナタリーが呟く。
「そりゃ楽しみね」
 今回は笑いをこらえきれなかった僕だが、とは言えナタリーは正しい。決して楽しい状況じゃないし、ナタリーとアンガスという足し算は、驚きな上にありがたくない方程式だった。仕事場だけでなく、それ以外のあらゆる意味で。だからこそ後悔するようなことを口走る前に、ここは一度距離を置いたほうがいい。
 それに、心底からカフェインを欲していた。今日の狼藉の仕上げと言わんばかりに、ナタリーとアンガスはこの建物内のコーヒーを残らず使いきっていた。今朝家を出る時、僕は、余った九分間をコーヒーとジェイクのどちらに使うかの二択を迫られたのだ。どっちを選んだかはご想像の通り。
 自然と視線が、フェイクの暖炉の上に置かれた時計を見ていた。そろそろジェイクが打ち合わせから戻ってきてもいい頃だ。彼は書店へ向かう僕と同じ頃、依頼人に会いに出ていった。うまくいけばランチを一緒に食べる予定だった。昼食を食べに行こうかとジェイクと気軽に言える、それを思うだけで僕の胸がたちまち温まった。
 上の空で客の相手を始めたナタリーを残してケヴィンと店を出ると、僕は湿って肌寒い月曜の朝の中を先に立って歩いた。昨夜の雨の香りが、街路の匂いと入り混じっている。ギトついた水が側溝の縁まで溜まり、路面は黒ずんで滑りやすい。まがい物の常緑のリースときらきらの金ぶちの大通りの旗は、よれよれでみじめに見えた——まるで昨夜化粧を落とし忘れてベッドに入ってしまったように。
 それでも、祝祭の雰囲気は漂っていた。クリスマスの裏の顔のごとく。
「いつもあんな感じ?」
 もう朝からせわしない交差点を小走りに抜けながら、ケヴィンがたずねた。
「時々ね。僕としては回数が少ないにこしたことはない」
 僕は横目で笑みを投げた。
 ケヴィンの眉が寄る。
「君は、まるで変わってないな」
「それは嘘だろう」
「いいや、本当に昔のままに見えるよ。それと凄く、元気そうだ」
「それはどうも。ウィーティーズのシリアルのおかげだよ」
 それと、心臓手術の成功と。日々の幸せも、多分マイナスではあるまい。僕は小さなコーヒーショップの前で道を占領している白と青のパラソルを指さすと、ケヴィンと一緒に横断歩道をそれて水の溜まった側溝を跳び越え、横断歩道にも僕らにも気付かず走りすぎるメルセデスにしぶきをかけられずにすんだ。しぶきだけではすまなかったかもしれない。
 彼に話しかけた。
「もうどれくらいになるっけ? 三年?」
「大体そのくらい。十三年にも感じるけどね」
 それを言うケヴィンは、本当に十三年分の重みを感じているように見えた。目の下には隈があり、せいぜい二十八歳だというのに顔に皺が入っている。大学を出て考古学を生業に? ああいうことで飯を食えるものなのか?
 きっと本を売って生計を立てるくらいの難易度というところか。
「それで、最近どうしてた?」彼のいきなりの、そして深い沈黙に問いかけた。「このクリスマスはどうだった?」
 ケヴィンの顔がまた歪んだ。
「もし先週そう聞かれたなら——」
 コーヒーハウスに着いていた。低い、鉄の門を押さえてケヴィンを通すと、ガラスドアの入り口に近づきながら、僕は彼の肩に心のこもった手を置いて、話は中で聞くと伝えた。心落ちつくホットコーヒーと焼き立てのあれこれの香りにふわりと包みこまれる。
「席を取っておいてくれ」幸いにして短い列に並びにかかった。「何飲みたい?」
「何でもいい……トールのパンプキンスパイスラテにキャラメルドリズル、ノンフォームで」
 成程?と哲学的に呟きたくなる。
「了解」
 注文をすませ、僕は赤いリボンと白いライトに飾られた大きな鉢植えの木の裏で、小さなテーブルに座るケヴィンを見つけ出した。彼は両手に顔をうずめていて、これからコーヒーを共にしようという相手としては、不吉の兆候だ。
 僕は向かいの椅子を引いた。
「どうしてか、君のその様子は、クリスマスにBBガンをもらえなかった以上の問題だって気がするね。何があったか話してみないか?」
 手の後ろから聞こえるケヴィンの声はくぐもっていた。
「どこから話せばいいのか……」
 僕は心の中で溜息をついた。慈悲と情けと幸せのお裾分け、というクリスマスのお題目には心から賛成だが、僕自身は少なからず寝不足で、ナタリーとアンガスのことも心配だ。とは言え。
「最初から聞くよ。どうしてこの近辺に? 家族のところに来てたとか?」
「いいや。俺の家族は皆、もっと北にいるから……」
 ケヴィンは顔を上げ、深々と息を吸った。
「人を探しに来たんだ」
「誰を?」
「アイヴァー。病院も、死体安置所も回った。警察は何もしてくれないんだ、アイヴァーの家族が失踪届を出そうとしないし、アイヴァーがもう成人だから。自分の意志で姿を消せる年だとか言って」
「大変だね」僕は口をはさんだ。「アイヴァーは……?」
「行方不明なんだよ」
「だよね。つまり、アイヴァーは、君の?」
「俺のボーイフレンドだ」
「それはよかった!」
 少し声に熱をこめすぎたかもしれないが、僕の記憶にある限り、ジェイクはこのケヴィンから僕への、まあ子供っぽい好意に、あまりいい顔をしていなかった。もしくは彼への好意に。別にケヴィンに対して本気でそういう好意があったわけではないのだが。
 とにかく、もう昔話だ。
「うん。そうだった。そうなんだよ。それで、だから——」
 ケヴィンは、コーヒーといくつかのペストリーを乗せた皿を手にやってきたバリスタの姿に、言葉を切った。
 ミステリ小説なら鉢植えの枝の間からサイレンサーつきの銃口が出てきてケヴィンの口をふさぐシーンだが、現実世界の僕らはおとなしく、バリスタの女性が去るのを待った。
「バクラヴァを食べなよ」と僕はすすめた。「で、少し話を戻していいかな。アイヴァーは君の彼氏で、家族とクリスマスをすごしにこっちまで来てて、それが今は行方不明?」
「ああ。その通り。まさにそうなんだ」
 ケヴィンがバクラヴァの一切れに手をのばした。
「それで彼の家族の話だと……なんて言ってた?」
「何も」
「それはつまり、家族が君に何も話してくれないのか、それとも何の情報も持ってないのかどっち?」
 ケヴィンは脱穀機なみの勢いで咀嚼し、言葉を吐き捨てた。
「両方」
「両方ってことはないだろ」
「最初、家族はアイヴァーはここにいないと言った。その後、俺とは話をしなくなった」
「ああ。それで君が思うに——」
「アイヴァーは俺について心変わりしたりしない! あそこにいたのはわかってるんだ。家族といる間に何かあったんだよ」
 だろう。その“何か”が、アイヴァーにケヴィンとの関係を考え直させた。僕にも経験がないことじゃない。そして正直言って、結局はそれでよかったのだ。メルに捨てられてひどく傷つきはしたが、最後にジェイクのところへ続く道ならばあの痛みを悔やみはしない。
 それでも、ケヴィンにそう説きはしなかった。運命ならいつかうまくいくとは。世の中という大海にはまだたくさん魚がいる、という慰めも言わなかった。そんな言葉は役に立たないのだ、ただ一匹の魚に恋をしている時には。
「君は何が起きたんだと思う?」と僕はたずねた。
「わからない」
「現実的に見て、どう思う?」
「現実的に見て、わからない。家族に何を言われたってアイヴァーが迷うようなことはないんだ。アイヴァーのことはよくわかってる。彼は、俺を愛してるんだよ」
 ケヴィンの揺るぎない確信ぶりには、たしかに説得力があった。ほだされているだけかもしれないが。
 僕はためらいがちにたずねた。時に、他人の口からあらためて聞き直すと現実に引き戻されたりするものだ。
「アイヴァーが、自分の意志に反して拘束されてると疑っているのか?」
「かもしれない」
 信じているというより、むしろ挑戦的な言い方だった。
「だとしたら、どんな目的で?」
「たとえば、アイヴァーを異性愛転向セラピーに行かせようとしてるとか? 物凄く保守的な家族なんだよ。いわゆる、九十年代って感じ」
「へえ……」
 一八九〇年代のことを言っているわけではなさそうだ。
「普通の人たちがゲイに対してそんなふうに考えるなんて、とても信じられないよ」
 ケヴィンの目は見開かれ、ショックを表している。七歳の年の差は一世代とは言えないが、ケヴィンが育ってきたのは僕とは違う世界のようだ。そして、ジェイクの世界とも。
「もし彼らが息子をその意志に反して拘束して転向セラピーに行かせようとしてるなら、それを普通と言っていいかは疑問だな」
「普通にってことだよ。現実の世界で生きている人たち。大学にも行って。ちゃんとした職もある。友達も。金も持ってて……」
 最後の一言が引っかかった。
「アイヴァーの家族は金を持ってるのか?」
「大金持ちさ」
 ケヴィンは心から嫌そうに言った。
「アイヴァーの姓は?」
「アーバックル」
「アーバックル? アーバックルって、キャンディスとベンジャミン夫妻の?」
 ケヴィンは、希望と不安に引き裂かれるような目で僕を凝視した。
「そうだよ。どうして? 知り合い?」
「うちの母のね。僕とテリルは同級生だった」
 テリル・アーバックルのことはもう何年も思い出したこともなかった。このまま喜んで忘れておきたかったくらいだ。
 ケヴィンが期待のまなざしで僕を見つめていた。僕はやむなくつけ足す。
「アイヴァーのことも、ぼんやり覚えてるよ。姉もいたよな、たしか」
「ジャシンタだな。ああ」
 ケヴィンはさらに僕の声明を待っていた。
 そんな大層なものはない。あるとしても「さっさとずらかるぞ」とかそんな類のセリフしかない。テリルとは、高校でテニスのダブルスのペアを組んでいた。テニスはうまいがコートの外では最低野郎だった。ありがたいことに、僕が健康問題でテニスから離れると、テリルとの縁もそのまま切れた。文字通り、ぷっつりと。病気になって以来テリルと一度も会っていないし連絡ひとつなかった。
 テリル・アーバックルを義理の兄に持つかもなんて、誰だろうと同情を禁じ得ない——少なくとも昔どおりのテリル・アーバックルなら。それに正直、ほかのアーバックル一家が彼よりマシとも思えない。まあ勝手な印象だが。実際にはよく知らない。もしかしたらアイヴァーは一家の変わり種かもしれないし。
 ケヴィンはその大きな緑の目で僕をすがるように見つめていた。しゃがれた声で、
「君は——たのむ。どうか僕を——助けてくれないか、アドリアン?」
「僕が? その、どのくらい力になれるかわからないよ。僕は——」
「俺を助けてくれただろ」
 ケヴィンがさえぎる。呆気にとられるほど熱っぽく。
「三年前、君が解決してくれなければ俺は殺人罪で刑務所行きだった。ほかの誰も俺を信じてくれなかった。君だけだ。まあ、あとメリッサと。とにかく、ずっと機会がなかったけど、やっと君にこうやってありがとうと言える」
「いいんだよ。そんなこと」
「君の書店を見た時、天の啓示だと感じたよ。いやどうかしてるように聞こえるだろうけど、でも俺はこの辺りをぐるりと運転しながらもう本当に——本当に打ちのめされて、ひとりぼっちだったんだ。それが、君を見た瞬間、大丈夫だとわかった。君が助けてくれるって。俺を助けられるただ一人の人間のところに、ちゃんとたどりつけたんだって」
「わかった、ただ待ってくれ」僕は急いで口をはさんだ。「まず第一に、三年前のことはどういたしまして。でもあれは僕ひとりでは無理だったことだ。今も、それは変わらない。助けたいけど、多分僕にできる一番の助力は、答えを見つけられる相手に君を紹介することだね」
「誰に?」
 ケヴィンが見当もつかない様子で問い返した。
 僕は微笑した。こんな、ありがたいとは言えない状況においても、ジェイクをたよりにできるということ、ずっとこの先も彼の存在にたよれるという事実が、僕を……幸福な気持ちにする。
 そう。幸福に。
「ジェイク・リオーダン」
 と答えた。

--続きは本編で--

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