瞑き流れ
アドリアン・イングリッシュ5
ジョシュ・ラニヨン
■1
それは、よくある話のように、ベッドから始まった。
いや厳密に言えば、僕がまどろんでいた寝心地の悪いリビングルームのソファから、始まった。
僕と、とある元LA市警の刑事とのひどく奇妙な夢の最中、しつこく、カリカリと、遠くから音が聞こえていた。何かが擦れるような音は、夢の中へ入りこみ、僕は寝ぼけた人間ならではの雑な思考回路で、猫が廊下にある半月型のアンティークテーブルで爪を——また——研いでいるのだろうと決めつけていた。
ただし……腹の上でぐんにゃりとしている温かな塊こそ、まさにその猫だ。すやすやと眠っている……。
僕は目を開けた。周囲は暗く、どこにいるか悟るまで数秒かかった。本棚では海賊のブックエンドの輪郭が月の光に照らされている。僕が寝ているソファからは、七月のぬるい風に揺れるカーテンがやっと見える暗さだ。クローク&ダガー書店の二階にあるフラットだった。
家。
二度と帰ってこられないのではないかと、そう思った時もあった。だが、ついに帰ってきた。腹の上にはふわふわと温かな毛玉、首には寝違えた凝り、そしてどうやら、ドアの外には夜中の訪問者。
まず頭に浮かんだのは、元恋人のガイが、リサにたのまれて僕の様子を見にきたのかもということだった。だが、その薄ぼんやりとした音はフラットの鍵が回る音ではない。どちらかと言うと……そう、こじ開けようとしている音だ。
僕はごろりと体を返し、眠っている猫を押しのけ、よろよろ立ち上がろうとしながら、三週間前の心臓手術以来しつこくつきまとう眩暈をこらえた。今朝までチャッツワースヒルの母の家に滞在していたのだが、ついにあの狂気の館からの脱出を果たしたばかりだ。
もし来たのがガイならば、まず一階フロアの明かりを点ける。だが、フラットのドアの下から洩れる光は、くっきりとした光の筋などではなかった。揺れては一瞬で消える光は、まるで誰かが懐中電灯のバランスを取っているかのようだ。
夢ではなかった。何者かが、このフラットに侵入しようとしている。
僕は暗い部屋を手探りで玄関口へ向かった。心臓はすでに荒く、速すぎる鼓動を打っており、ふっと不安がこみ上げる——手術以来、なじみの恐怖だ。回復期の僕の心臓はこのストレスに耐えられるだろうか? 寝室のクローゼットからウェブリーの拳銃を取ってきて弾丸を込めるか、寝室に閉じこもって警察に通報するか、決めかねているうちに選択肢がなくなった。
フラットの鍵がガチャリと開き、ノブが回って、ドアがゆっくりと開いていく。
反射的に動いていた。廊下の、編み座面の椅子を引っつかみ、全力で投げつける。
「失せろ!」
怒鳴り声にかぶせるように椅子がドアにぶつかり、けたたましく床に落ちた。
そして——驚いたことに——侵入者は言われた通りにした。
夢ではない。勘違いでもない。本当に誰かが、僕の住まいに押し入ろうとしていたのだ。
どかどかと階段を駆け下りていく足音、階下で何かが倒れる音、さらに何かが壊れる音。そして僕が壁の電気のスイッチへ小走りに近づいた頃、遠くでどこかのドアが勢いよく閉まる音がした。
どこのドアだ? 書店の裏口ではない——あの音ならよく知っている。正面扉のセキュリティゲートの音でもない。そうだ、つながった隣の建物のドアに違いない。
この書店は、一九三〇年代に建てられたホテルの建物を、後に二分割した片方のフロアを使っている。隣り合ったもう半分のフロアにはさまざまな店が入っては消え、また入ったが、ほとんどが一年とは続かず、僕はこの春、ついにそのフロアを買い取るところまで漕ぎ着けたのだった。現在は、金を費やして、やかましい改装作業の真っ最中で、書店と隣のフロアの間は分厚いビニールの壁で仕切られていた。
充分な厚みではなかったようだが——明らかに。
建築業者は、隣のフロアのドアは「工事用のロック」で戸締まりされており、工事中も以前と同じように安全だと請合った。彼は、これまで僕にふりかかってきた数々の災難のことも、この建物の歴史も知らないのだろう。
僕は壁にもたれかかって、息を整えながら耳を澄ませた。通りのどこかで車のエンジンがかかる音がする。何も、あわてふためいて逃げ出すこともないのに。このあたりはパサデナの商業地域で、住人は少なく、夜は静まり返って無気味なほど人通りがなくなるのだし。
以前の僕なら、きっと勇ましく階下へ行き、被害をこの目でたしかめようとしたことだろう。探偵気取りで。そんな日々ももう、四つの殺人事件捜査と一つの心臓手術を経験して終わった。かわりに今の僕は寝室のクローゼットから銃を取り出し、弾丸を装填し、窓から外がよく見えるリビングへ戻ると、電話を取り上げた。無人の歩道をまだらに照らす街灯の光が、古びた建物に寄りそう影を深めている。動くものはない。レイモンド・チャンドラーの一節を思い出していた——“街は、夜より深いなにかで暗かった”。
今さら現実味が出てきて、僕はずるずるとしゃがみこむと、911に通報した。
息がうまく整わないまま、緊急通報のオペレーターが出るのを待って——さらに待って——発作が起きないよう心から祈った。僕の心臓には、十六歳の時のリウマチ熱の後遺症による弁の異常があった。最近やらかした肺炎も事態をこじらせ、手術を待っていたところ、銃で撃たれたのが三週間前だ。今は状態も落ちついていて、心臓医の言うところによればめざましい回復ぶりだということだった。
どうもこの先も長生きできるらしい、というわけなのだが、皮肉なことにそれを聞かされる僕の方では、病気の時でさえなかったほど己の死をひしひしと身近に感じていた。
トムキンスがしのびよって、僕にこつんと頭をこすりつけた。
「やあ」
僕はそう挨拶する。トムキンスは緑と金のアーモンド型の目でまたたき、みゃあ、と鳴いた。驚くほど静かに鳴くのだ。ほかの猫のようにやかましくはない。僕が猫に詳しいわけではないが——これまでも、これからも。単にひとり者同士、寝床を貸してやっているというだけだ。この猫、というか子猫も、僕と同じ療養中の身だった。三週間前、犬に襲われたのだ。回復ぶりは僕より良好。
周囲をくねくね回って指を嚙もうとするトムキンスを、僕は上の空で撫でてやった。猫を撫でると血圧が下がると言われているが、本当かもしれない。僕の鼓動も少しずつおさまり、落ちついてきていた。大した効果だろう、夜中に応答すらしない緊急電話オペレーターにどれだけ苛立っているかを思えば。
今となっては、そう緊急でもない案件か。侵入者は、とっくに逃げた。
僕は唇を嚙み、『電話を切らずにお待ち下さい』というメッセージのくり返しを聞いた。僕がその時まで生きていると決めつけている。
電話を切って、別の番号にかけた。遠い昔に覚えた番号を。脳細胞を漂白でもしないかぎり、忘れられそうにない番号を。
電話の向うで呼出音が鳴り、僕は本棚の時計にちらりと目をやった。三時三分。夜中の。友情を試す時間だ。
『……リオーダンだ』
ジェイクが絞り出した声は、砂利をかき混ぜるようだった。
「えっと……やあ」
『ああ』
眠りのもやを払おうとしているのがわかる。ジェイクがかすれ声で聞いた。
『調子はどうだ?』
このほぼ二週間、音信不通だった僕からのいきなりの連絡が夜中の三時だったことを考慮に入れると、きわめて紳士的な対応だろう。
気付くと僕は耳をそばだて、ジェイクの背後の沈黙を聞こうとしていた——誰か一緒にいるのだろうか? シーツの擦れる音で何も聞こえない。
「まあまあだね。たった今、気になることが起きて。どうも誰かが部屋に押し入ろうとしたんじゃないかと思うんだ」
『
思う?』
一瞬で、彼は完全に覚醒していた。きしむベッドとベッドカバーを払いのける音が聞こえてくる。
「誰かが押し入ろうとしたんだよ。逃げていったけど、でも——」
『お前、店に戻ったのか?』
「ああ。つい昨日の午後、帰ってきた」
『お前一人か?』
ありがたいことに、ジェイクはほかの皆のような言い方はしなかった。一人で? と、それがまるでとんでもないことで、まるで僕が、自由に暮らすことも許されないほどの病人であるかのようには。ジェイクはただ、状況の危険度を把握しようと確認しただけだ。
「ああ」
『警報は鳴ったか?』
「いいや」
『通報は?』
「911にかけた。オペレーターにつながらなくて待たされてる」
『夜中の三時にか』
明らかに、ジェイクが立ち上がり、動き回って、着替え出しているのが音で伝わってきて、申し訳ないながらもほっと安堵を覚えていた。いくら僕らの関係がこみ入ったものであっても——本当にややこしくはあっても——ジェイク以上にこの手の事態をまかせられる相手などいない。どんな事態かはともかく。
それが、僕が頭でわかっている以上に、重い意味のあることのような気がした。
ジェイクがてきぱきと言った。
『電話を切って、また911にかけろ。そのまま切るな。十分で行く』
僕はぼそぼそと答えた。
「ありがとう、ジェイク」
たったこれだけで。僕の電話一本でジェイクが救いに駆けつけてくれる。そのことに予期せぬ感情が、反応がわき上がり、揺さぶられる。手術のおかしな後遺症だ。僕が自分を取り戻せないでいるうちに、ジェイクが言った。
『今から行く』
そして電話が切れた。
ジェイクを迎えに、僕はゆっくりと時間をかけながら階段を下りた。上からは、書店のフロアが俯瞰できた。レジに手をつけられた様子はないようだ。バーゲン本を並べた台がひっくり返されている。それ以外の異常は見当たらなかった。相変わらずの一人がけソファ、相変わらずの木製のフェイクの暖炉、相変わらずの背の高いウォルナットの書棚——ミステリと犯罪小説ばかりがぎっしりの。奥の壁にも、以前と変わらぬ東洋の仮面の白く神秘的な微笑。
僕が正面扉の鍵を開け、セキュリティゲートを開くと、ジェイクは屈みこんでゲートを調べていた。
「下りてくることはなかったんだ、どうせ裏口に回——」
ジェイクの言葉が途切れる。立ち上がり、彼はおかしな口調で言った。
「デジャヴだな」
一瞬わからず、それから僕も理解した。出会った時の記憶。出会った、という言葉は、殺人捜査で容疑者扱いされたことを表すには穏当すぎるかもしれないが。
髪もとかさず、髭も剃らず、僕の恰好まであの時と同じだった。ジーンズに裸足。今夜はその上にレザージャケットを羽織っていて、七月の暑さの中でも寒気がつきまとうせいもあったが、胸の中央を走る心臓手術の痕をジェイクの目にふれさせたくもなかった。病院でジェイクもその傷を見てはいるが、日常に戻れば話が違う。肩にある銃創だけで充分に醜いのだ。鎖骨の根元から胸骨の上を切開した傷痕は衝撃的だった。少なくとも、僕には。
僕はぎこちなく礼を言った。
「来てくれて、本当にありがとう」
ジェイクがうなずいた。
僕らは、互いを見つめた。この数週間は、ジェイクにとっても大変な日々だっただろう——それも僕が「時間をくれ」と彼にたのんだから……この先を決める前に少しひとりで考えたいと、そうたのんだからだけではない。ジェイクはLA市警を辞職し、自分の性的指向を家族にカミングアウトし、妻に離婚を申し出たのだ。
だがジェイクは、前と変わっていないように見えた。ほっとするほど同じだった。僕はもしかしたら——いや違う、きっと、恐れていたのだ。ジェイクが後悔に
苛まれてはいないかと。彼はその人生にわたってずっと、自分の秘密を押しこめたクローゼットを必死に守ってきた。守るためなら何だろうと犠牲にしかねないほど。そのジェイクが、今では砂漠に放り出された魚のようにもがいているのではないかと、僕はそんな危惧をずっと拭えなかった。
ジェイクは、大丈夫そうに見えた。いや、はっきり言って、もっといい。何と言うか……生き生きしている。晴れやかなくらいに。金髪で、大柄で、男っぽくどこか粗削りな顔は、試練で鍛えられて引き締まっている。力強い骨格に、たくましく無駄のない筋肉がついた体。こめかみあたりに少し白いものは増えたかもしれないが、ジェイクの黄褐色の目には、僕が初めて見るおだやかさがあった。
その淡い、揺らぎのない目で見つめられて、僕は強く自分を意識し、ひるんだ。ついに僕らの間を妨げるものが何もなくなったと知るのは、変な気分だった。後は、本当に、僕らの気持ちひとつにかかっているのだと。
ジェイクが事務的にたずねた。
「警報が鳴らなかったのはどうしてだ?」
「セットしてなかった」
濃い眉がぐっと寄る。ジェイクが口を開けた。だが僕のほうが早い。
「隣の工事が始まってから、警報はセットしないことにしたんだ」
「冗談だろう」
勿論、冗談で言っているのではないとわかっている顔だった。
「あんまりエラーの警報が多かったんで、罰金を取るって市から脅されたんだよ。工事作業員は大体いつも書店が開く前に来るし、そのたびに警報に引っかかる。だから僕は……ほら、工事が完了する間ではって、ことで……」
ジェイクの沈黙がすべてを語っていた——それで幸いだった。もし彼がその口を開いていたら、僕らは一晩中ここでやり合うことになっただろう。
「犯人は隣のフロアから入ってきたと思うんだ」
僕はそう言って、向きを変え、先に立った。
背の高い本棚の間を、ジェイクをつれて抜けていく。僕はバーゲン本の台のあたりを指さした。
「非常灯しか点いていなかったんで、犯人がここにぶつかったんだ」
倒れた台と、本の雪崩に向けてひとつうなずいてみせる。
「それをひっくり返していった」
クローク&ダガー書店と、内装を剥ぎとられた隣のフロアを隔てる透明なビニールの壁へと、僕は歩みよった。向こう側をのぞいても、濁り水を透かそうとするのと同じだ。梯子や足場がぼんやり浮かび、まるで神話の怪物の骨格のようだった。僕は、壁際近くに見つけた、一五〇センチほどのビニールの裂け目をジェイクに示した。
「いい勘だ」
ジェイクがむっつりと言った。僕としても、当たったからといって喜べない。
「工事業者は、こっち側のフロアのセキュリティは問題ないって言ってたんだよ。出入口に工事現場用の鍵をかけてあるからって」
すでにジェイクは首を振っていた。
「ほら、見てみろ」
身を屈めてビニールの裂け目に体を押しこんでいくジェイクを追い、僕も暗い隣のフロアへと足を踏み入れた。こちら側はひえびえとして、なじみの薄い匂いがした。生乾きの漆喰、新しい木材、埃の匂い。床に落ちた布や脚立やセメントミキサーなどの間をすり抜け、道へ面したドアへと近づく。そのドアは、ジェイクがふれただけで開いた。
「最高」
僕は苦々しく呟く。
「だろう」
ジェイクは僕に、外側のノブの中心にある鍵穴を示した。シリンダーに色が付いているのはわかったが、何色かまでは見てとれない。
「この鍵がわかるか?」
僕はうなずいた。
「これは工事現場用シリンダーだ。これはどれも、少なくとも大体が、同じピンの組み合わせでできていて、つまりは、鍵をひとつ持っていれば市内のほぼあらゆる工事現場に入れるというわけだ」
「ますます最高だね」
ジェイクはドアを閉め、中から鍵をかけた。
「セキュリティ的に言えば、ドアを開けっぱなしにしておくより少しだけマシって程度だな」
僕は唾を呑んだ。うなずく。
「侵入犯は、幾日か店の様子を窺っていて、建物が夜に無人になることに気付いたのかもな」
「レジには手をつけていなかったけど」
「ガキが悪ふざけでしのびこんだだけかもな」
そう言いながら、ジェイクは確信があるというほどの口ぶりではなかった。僕にも理由はわかる。
「僕のフラットにまで押し入ろうとするのは——」
「かなりやりすぎだな」そう同意する。「とは言え、誰もいないと思いこんでいればそれもありだろう。この三週間、夜間は無人だったんだろ? ならそう見なしていても無理はない」
僕はじっくり考えこんだ。
「犯人の侵入は、今夜が初めてとは限らないってことか……」
「まあそうだな」
「ナタリーがこのビニール壁の裂け目に気付くかどうかは怪しいしね。それどころか、ウォレンがそばにいたら、ここからタスマニアデビルが店につっこんできたってきっと気付かない」
まあ、それは言いすぎだ。ジェイクは鼻を鳴らし、むっつりとではあるがおもしろがっていた。
気付くと、もう僕は疲れ果てていた。精神的に、肉体的に、感情的に。へとへとだ。このところろくに体を動かしてもおらず、この侵入への対処だけでもう自分の限界を超えてしまった気がした。
ジェイクが何か言いかけ、だが口をとじた。出窓ごしに、僕らはパトロールカーが道に停まるのを見た。ランプを点滅させながら、サイレンはなし。
手遅れでも、来ないよりはましだ。多分。
一、二瞬の間を置いて、ジェイクが僕へ顔を向けた。
「大丈夫か? 震えているぞ」
「アドレナリンだよ」
「それと心臓の手術もな」
ジェイクは白黒のパトロールカーへちらっと目を投げる。深く、息を吸った。
「二階へ戻ったらどうだ? ここは、俺が相手をしておく」
まただ。また、この感情の過剰反応。ほんのちょっとしたことで胸が詰まりそうになる。今みたいに。ジェイクが、僕に代わって警官の相手をしようと言ってくれている。
ただ、これは「ちょっとしたこと」などではなかった。ジェイク——同僚の警察官たちから二十年近くも自分の性的指向を隠してきたジェイク、僕と友人だということすら人に知られたがらなかったジェイク、その秘密を守るために脅迫に屈するのではないかというところまでいったジェイク。その彼がここに立ち、僕のために警官と話をしようというのだ。その警官たちに、僕らの関係をどう勘ぐられようがかまわないと。
どちらが奇妙だろう? ジェイクがそんな申し出をしてくることか、それともそれを聞いた僕が今にも泣きそうなことか。
「……僕にも対応できるよ」
ジェイクは、僕と視線を合わせた。
「わかっている。俺がそうしたいだけだ」
どうしよう。まただ。僕は疲れ果て、侵入事件でまだ動揺しているに違いない。声や表情に感情を出さないようこらえて、僕は無愛想にうなずいた。
二人の警官たち、制服姿の男と女がパトロールカーから下りてくる。僕は踵を返し、梯子や木の作業台や足場の間を戻っていった。
ジェイクがフラットに入ってきた時、僕は猫を膝に乗せてソファに座っていた。
きっとうたた寝をしていたのだろう、カチッとドアが閉まる音が、嵐の雷鳴の轟きのように聞こえた。猫が膝から転げおりる。僕は座り直し、口をとじて、瞼をこすり、かすむ目を開けると、朝の四時には不釣り合いなほど集中した様子のジェイクが目の前に立っていた。
「今、お前の寝室に逃げこんでいったのは、猫か?」
僕は咳払いをした。
「そうかな?」
「そう見えたぞ」
ジェイクはソファの僕の隣に腰を下ろす。彼の大きさと熱と活力——僕の全身が、一瞬にして固くこわばった。まだ心の準備ができていないのだ……何に対してかはわからないが。
僕は軽い調子で言った。
「もしかしたら、この建物には幽霊が出るのかも」
「かもな」
ジェイクは珍しいほどじっと僕の表情を見つめていた。
「住居不法侵入の届けは受理された。明日、朝一番に、工事業者に言ってドアにまともな鍵を付けてもらえ。俺としては、この建物すべての鍵を取り替えておくことをすすめる」
僕はぐったりとうなずいた。
「犯人が、何を盗ろうとしていたのか考えてたんだけど」
「ありがちなものだろう」
「それならどうしてレジに手をつけてない?」
「空のレジにか? どうして手をつける」
たしかに。その日の売り上げを銀行の夜間金庫に放りこんできた後では、レジをこじ開けても無意味だ。僕は、自分で思う以上に疲れているようだった。ジェイクも同じ結論に至ったのか、僕に言った。
「お前はもう寝ているだろうと思ってたが」
「もう寝るつもりだよ。ただその前に、礼を言っておこうと……」
彼は重々しく言った。
「かまわん。電話をもらえてよかった。どうしているか、気になっていたんだ」
僕は視線を落とした。
「僕は大丈夫だよ」
言わなければならないことがたくさんあるのに、何ひとつ、今の僕には思いつけないようだ。
「よくなってる。一番うんざりするのは、四六時中疲れていることだ」
「ああ」
ジェイクの視線を感じる——僕の底まで見抜くような。
「ジェイク……」
僕がその先を続けずにいると、ジェイクが言った。
「わかっている。大きな望みだというのはな。大きすぎるのかもしれないとも。だが俺は、希望を捨てたふりをするつもりもない」
許し。ジェイクの望みとは、そのことだった。多くのことへの——と言っていいだろう。だが僕が今言おうとしていたのは、まるで別のことだった。
僕は首を振った。
「そうじゃない——どう言えばいいのか……つまり、お前のせいじゃないんだよ。僕の問題なんだ」
ジェイクはただ、新たな落ちつきをおだやかに目にたたえ、その先を待っていた。僕が決定的な、別れの言葉をつきつけるのを。それがわかる。ジェイクはそれを病院で二人で話し合い、ひとまず距離を置こうと僕がたのんだ時からずっと、待っているのだった。今夜、助けを求める僕の電話に出た彼が覚悟したのも——まだ覚悟しているのも——その話だろう。だが、それでもここへ駆けつけてくれた。
愛、罪悪感、市民の義務? ジェイクは僕が持った中でも、最高の友人だった。そして、最悪の。
僕は言った。
「きっと理解できないだろうけど——僕にも理解できないくらいなんだ。僕は、自分がどれほど幸運なのかはわかってる。人生をやり直すチャンスがもらえた。今はボロボロの気分だけど、体もいずれ回復して元気になるだろうとわかってる。健康にね。医者からもそう聞かされているし、今の自分は、心の底から安心して喜ぶべきだってこともわかってる。でも……僕は……とても、そんな気分になれないみたいなんだよ」
ジェイクの反応はなし。無理もない。こんな泣き言を聞かされて、どうしろと?
僕は、のろのろと言葉を結んだ。
「どうしてこんな風なのか、自分でもわからないんだ」
「感情は、どうこうできるものじゃない。自分を責めるな」
話せば話すだけ、苦しくなっていく。ジェイクには正直でいなければならない気がしていた。
「僕は、ガイと一緒にいて、それなりに幸せだった。でもガイが欲しいわけじゃない。僕は……誰とも一緒にいたくないんだ。今は」
その言葉がジェイクに届いてから、また少しの間があった。ジェイクが答える。
「わかった」
こんなに簡単にすむことだったのか。ほっとしていいのか、がっかりするべきか、僕にはわからなかった。
気付くとまた口を開いていた。ぎくしゃくと、
「何というか、ただ——」
「わかっている」
その返事には、鋭いひびきがなかっただろうか? ジェイクはまだおだやかに見えた。むしろ、心配そうに見えた。
「なあ、もうベッドに入ったらどうだ、アドリアン? 雪だるまだってお前より顔色がいい。寝ろ。俺もそうする。というか、お前のカウチで朝までここに寝かせてもらう」
まずこみ上げてきた安堵と裏腹に、僕は言い返していた。
「そんなことしてもらわなくてもいいんだよ」
「だろうな、『ひとりにして』とグレタ・ガルボも言った。だがこのカウチが立入り禁止区域でない限り、俺はここで寝るぞ」
ジェイクと——あるいは自分自身と言い争うだけの気力は、もうなかった。僕はうなずき、カウチからよいしょと立ち上がると、寝室へ向かった。
「リネンの棚にブランケットが入ってるから……」
「覚えてるよ」
ふと、僕は扉口で立ちどまった。ジェイクを振り返る。
「ジェイク?」
彼は靴を足から抜こうとしているところだった。僕を見上げる。
「ん?」
「一階で……警官相手に。大丈夫だった?」
僕が何を心配しているのか伝わるまで、一瞬かかったようだった。それからジェイクが微笑む——長い間僕が見たことのない、心からの微笑だった。
「ああ」と答える。「大丈夫だった」
■2
目が覚めると、まず猫が僕の髪をなめているのに気付いた。
「げ」僕は呟いた。「やめるんだ」
「みゃあ」
トムキンスが、口いっぱいの髪の毛でくぐもった返事をした。
押しのけるつもりで猫に手をのばしたが、トムキンスはあまりにもやわらかくて、さわっていると心地いい——ざらざらした舌が今度は僕の指をなめ出していても。何秒か、猫を撫で、くすぐった。それから、ジェイクが僕のカウチで寝ているのを思い出した。
足を回してベッドから下り、気持ちを整えてから、僕はドアへ向かった。リビングのカウチは空っぽで、その足元に丁寧にたたまれたブランケットが置かれていた。
僕はそこに立ち、隣のフロアからの工事の音、階下からの遠い音楽に耳を澄ました。ジェイクはキッチンにいるのだろうかと。だが数秒もすると、フラットには誰もいないとわかった。
そして、これがまさに僕の望んだことだ。だろう?
その筈だ。
僕は寝室へ戻り、ちらりと時計を見た。火曜の、十時半。びっくりだ。たしかにまだ回復期だし、昨夜の眠りは途中で邪魔も入ったが、それでも病院で意識を取り戻して以来、これほど長時間、ぐっすり眠れたのは初めてだった。ドーテン家にいた時だって、心底リラックスはできなかった。長すぎる一人暮らしのせいなのだろう。
とにかく、新たな一日だ。人生の新たな一歩——誕生日のカードやリハビリの理学療法士がやたらと言いたがるように。動き出さないと。
バスルームの体重計で体重を測った。いいニュースとしては、体重はもう減っていない。悪いニュースとしては、増えてもいない。次は体温を測った。完璧な平熱。心臓のリハビリで教わった通りに血圧と心拍数を測定する。両方とも合格。胸の手術痕をたしかめた。経過は順調。傷の一番上にひとつ、あまり見目よろしくないぼこっとした膨らみがあるが、いずれ消えるという話だった。それ以外はまったく正常に見えた。解剖用死体かフランケンシュタインの親戚を基準にすれば。
僕は、バスルームの鏡に映る自分をじっと見つめた。今のところ誰ともつき合う気分じゃなくて幸いだった。なにしろ誰かが——死体泥棒は別にして——今の僕にわずかな魅力も感じるとはとても思えない。
それでも、ありがたいことはいくつもあった。命があって息をしているというだけでなく。手術後に着用させられた白い弾性ストッキングをもう履かなくていい、というのもそのリストの上位に入る。心から言うが、弾性ストッキングはとても快適なんてものではない。それに、あんな白い弾性ストッキングをセクシーだなんて思う奴は一度自分の異常性癖をチェックしてもらうべきだ。
ほかにもいいことはある。僕にしか聞こえない、胸の中のコツコツという音もしなくなった。体の状態が回復してきたか、精神状態がまともになってきたかのどちらかだ。
こわごわと、ほんの短い
太極拳の動きを行い、シャワーを浴びてひげを剃り、着替え、薬を飲み、猫に餌をやり、プロテインシェイク——今のところ唯一、なんとか喉を通る朝食だ——を飲むと元気が出てきた。自分の家にいるというだけで、気分が上向く。活力も湧くし、自立心も取り戻せる。
それに、ジェイクに電話して悪かったと思う一方で、僕が困った時にすぐやってきてくれてうれしかったのも否定できなかった。もしかしたら僕の心のどこかには、友人以上の関係が望めないならジェイクは僕と関わり合いすら持ちたくないかもしれないと、そんな恐れがあったのだろうか。
前にも、そう思ったことがあった。
僕はストロベリー・バナナのプロテインシェイクを飲み干した。母なる自然が思いもしなかった組み合わせだろう。それから、午後にすぐ来てくれる錠前屋が見つかるまで片っ端から業者に電話をかけた。
任務達成。それから、一階へ向かった。
義理の妹のナタリーは、青いアロハシャツ姿の老人と会話中だった。貧弱な黒髪、鉛筆書きのような薄い口ひげ、首から下げたカメラ。観光客だ。パサデナの、この古い街並みによくやってくる。大体が、ろくに本は買っていかない。
「それは、ちょっと私にはわからなくて」
ナタリーがあやまっていた。
「アドリアンなら知っているかも。オーナーですから。十年くらいここに住んでる筈だし」
そこで階段を下りてきた僕に気づき、ナタリーの顔がぱっと明るくなった。
「おはよう!」
ナタリーは、まさにハリウッドのプロデューサーが、警察ドラマの中の意欲的な地方検事の役を振りそうな外見をしていた。背の高いブロンド、きわめて美人。本屋の店員役など、まず似合わない。僕は彼女を、前の“社員”(ナタリーはそう呼びたがる)のアンガスがとある一件で雲隠れした後、雇い入れたのだった。僕としては身内を雇うことには全力で反対したのだが、今ではナタリーの雇用は、こと書店に関して最高の決断だったと言えた。
正直、母がいきなりビル・ドーテン議員との結婚を決めた二年前に心配したほど、この義理の家族とのつき合いは面倒なものではなかった。ドーテン議員には、三人の愛らしい娘もくっついてきた——ローレン、ナタリー、エマ。エマこそ、妹というものがペットショップで選べるものなら、まさに僕が買ってくるだろう妹だ。 まあ僕は、ペットすらペットショップで買うつもりはないのだが。僕が転落死するよう足元でせっせと全力を尽くしている、このネコ科の獣を見ればわかるように。
「おはよう」
僕は返事をし、転落や骨折をまぬかれようと手すりをつかんだ。
「アドリアン、こちらの方——」
「ハリソン。ヘンリー・ハリソンだ」
観光客がそう名乗った。
「ミスター・ハリソンがこの建物の歴史を聞きたいって——」
「そうなんだ」
ハリソンが身をのり出して口をはさんだ。
「ご存知かどうか、だがこの建物の正面装飾はロサンゼルスに残存するアールデコ様式のまさに見本だ。正面の黒いタイル——の残り、二階の窓の上にはめこまれた鉛線組みステンドグラスの横窓、鍛鉄のゲートと窓格子の葡萄ツタの模様……まさに、極み」
極み?
「どこかから、旅行でパサデナへ?」
僕はたずねながら、無事に一階までたどりつくと、カウンターがわりの大きなマホガニーテーブルへ歩みよって二人に加わった。
「正解。どこからバレたかな? ミルウォーキーから来たんだ。古い建物探訪が趣味でね」
ハリソンは、混雑した書店のフロアを愛情たっぷりに見回した。
「ああ、まったくね! こんな古い建物が口をきいてさえくれれば!」
「がっかりさせたくはないけれど、この建物の歴史を詳しく知っているわけじゃないんです。ここは一九三〇年代にハントマンホテルとして建てられた。この書店部分と、隣のフロアまで含めて元はひとつの建物で」
「ここで殺人があったんだって?」
僕は、不安なまなざしでナタリーをうかがった。彼女は興味津々で顔を輝かせる。
「殺人ですって? 本当?」
「昔々の話だよ」
僕はそう応じて、さまよう客たちに目を据えた。ハリソンが言う。
「ああ、まったく。一九五〇年代の話だ」
「そんなことあなた教えてくれなかったじゃない、アドリアン」
「別に、いつも頭にあったわけじゃないし」
「でも素敵じゃない? 本当に殺人があった建物のミステリ書店! うちの売りになるわ」
僕は弱々しく微笑み、ちらっとこの訪問者を見た。ハリソンは黒く、笑い皺のあるロイ・ロジャースのような目をしている。この状況をおもしろがっているようだ。
「で、殺されたのは誰?」
ナタリーがしつこく食い下がる。
ハリソンは僕にたずねた。
「もう半分のフロアも、君の所有になったように見えるが?」
「ええ、まあ」
「この改装工事はいつ頃から?」
「五月から」
「一体誰が殺されたのよ?」
無視されておとなしくなどしていないのだ、ナタリーも、ドーテン家のほかの女性陣も。
「ねえ、犯人は捕まったの?」
「ただの噂だよ」僕が答える。「死体は見つかってなかったんじゃないかな」
「死体は見つかってないが、まあ私は殺しがあったことには間違いないと思うねえ」
ハリソンが見事な入れ歯をきらめかせて言った。
「ほら、さっきも言ったようにこれでも歴史マニアなんでね。火のないところに煙は立たない、だろう?」
「どんな話なんです?」
ナタリーがハリソンにたずねた。
「ジェイ・スティーヴンスっていう若いのがこのホテルに泊っていたのさ。ムーングロウズだかなんだかっていうジャズバンドのクラリネット吹きでね。ま、とにもかくにも、ある夜、この男が消えた」とハリソンは首を振った。「部屋の床には何滴かの血痕が残っていた。でも、ジェイ・スティーヴンスはどこにもいなかった」
ナタリーがうれしそうに体をぞっと震わせてみせた。
「その人は、結局見つからず……?」
「たしかね」
「ああ、見つかってない」とハリソンがうなずく。
「どうせ、誰かに殴られて記憶喪失になって、どこかへさまよって行ったとか、そういうことかもしれないさ」
「奇妙なことというのは尽きないものだしね」
ハリソンがうなずく。いや、そこまで奇妙なことは世の中にあふれてないと思うが。もともと僕は、ジェイ・スティーヴンスはせいぜい借金取りから逃げて身をくらましたのではないかと思っていた。場末の宿屋に転がりこんでいたミュージシャンが、借金と無縁なわけがない。あるいは、音楽評論家から逃げ出したとか。
「どうしてまわりは彼が殺害されたと考えたの? 何が動機?」
ナタリーが、いっぱしのミステリマニアのような口をきく。大したものだが、そろそろこの話題を切り上げてベストセラーの棚を整頓しに行ってくれないだろうか。
その時、店のドアが陽気なベルを鳴らして開き、メル・デイヴィスが店に入ってきた。
メル。僕の元恋人。
元の中でも昔の方の。一人目の、恋人。
一瞬、これはひどく奇妙な夢に違いないと思った。入院中、相当おかしな夢も見たのだ、また見たっておかしくない。それか、メルのドッペルゲンガーとか? それとも最新の——そして一番不安な——手術の後遺症で、幻覚を見ているとか? だがメルは見覚えのある大きな温かい笑みを浮かべており、これは現実なのだと、僕は悟った。まさにメルだ。実物が、僕の目の前に立っている。
「やあ」
僕はそう言って、夢遊病者の足どりで何歩かメルに近づいた。
「アドリアン・イングリッシュ!」
メルが大股の三歩でフロアを横切り、僕らは互いをハグした。胸骨の傷がまたぱっくりいきそうな力だった。
なんとか余った息で、僕はいかにも本物らしい情愛をこめて彼の名を呼んだ。
「メル」
もしかしたら、抗議のように響いたかもしれない。少しばかりそんな気分だった。
お互い、やや気恥ずかしげに離れた。あれから七年だというのに、それでもメルは近所に胃薬を買いに出ていただけのように見えた。中背、張った肩、黒い癖毛、丁寧に先細に整えられた顎ひげ、ココア色の目。少し体重が増えただろうか。それ以外は変わらなかった。
僕の表情から、メルは何かに気付いたらしい。顔色がさっと曇った。
「俺のメール、読んでいないんだな?」
「メール?」
まるで現代文明に無知な人間の口調で、僕は聞き返した。
「何日か前にメールしたんだよ、こっちの方に来るから、うまくいけばまた君と一緒にって……いやほら、ランチか、ディナーでも」
メルのぎこちない付け足しに、僕はつい笑いそうになったが、本当はそう愉快な話ではない。
「僕は……ちょっと、家を離れててね」
「父さんが今週、心臓手術をするんだ」
「ああ、それは大変だね」
あの年寄りに
心臓があるとは初耳だが。そりゃ、修理も要るだろう。
「バークレーから車を走らせてきたんだ。こっちに来たからには——」メルは言いかけた言葉を変えた。「君に会えてうれしいよ、本当に」
「こっちこそ」
メルが彼らしい、深く少しかすれた笑い声を立てた。僕がよく覚えている声。それから僕の目を、ちょっと長すぎるくらいに見つめ、目をそらして店内を見回した。
「この店がここまでになったなんて信じられないよ。何と言うか……こんなに変わったんだな。フロアの隣半分も買ったのか?」
僕はうなずく。彼の笑みが大きくなった。
「ついに、か。君はお隣に、それこそこっちの契約書にサインした時からずっと、焦がれてきたものな」
不意打ちの思い出話に、僕の胃がねじれたが、それでも微笑んだ。どうして昨夜、帰宅してすぐにメールをチェックしなかった? せめて心構えはできただろうに。
助けを求めて見回す。ヘンリー・ハリソンはすでに離れて、バーゲン本のテーブルを眺めていた。ナタリーは見るからに紹介してほしくてうずうずしている。
「メル、こっちは僕の——その、ナタリー・ドーテンだ。ナタリー、彼はメル・デイヴィス」
深く息を吸い、僕は続けた。
「ナタリーは、僕の——」
「妹よ」
ナタリーが引きとる。彼女と握手しながら、メルは唖然とした顔でくり返した。
「妹だって?」
「義理のね」
どこかくやしそうに、ナタリーが説明した。
「リサが二年前に再婚したんだよ」
「驚いたな」
察しの良いメルが僕に向けたまなざしには、温かな同情と暗黙の了解がこめられていたが、心配無用だ。リサの再婚にともなう困難を僕はとっくに乗り越えていて、増えた家族たちに対しても強い愛着を持つようになっていた——充分な距離を置いた上で、だが。
「ここで働いているのかい?」
メルはたずねながら、ナタリーが言い張って付けている笑った猫の名札を見た。
「前のアドリアンの手伝いは、彼が殺人容疑で逮捕された後、国外に逃げたの。あ、逮捕されたのはアンガスよ。アドリアンじゃなくて。少なくとも、今はまだ」
メルは、かすかに愉快そうな顔をした。僕はナタリーに言う。
「そろそろ君は昼食の時間じゃないか、ナタリー?」
「いいえ。それを言うなら、あなたの昼食の時間でしょ。大体、あなたは仕事場にいるべきじゃないってわかってるでしょ?」
僕が向けた目つきは殺人的なものだったのだろう、ナタリーの頬が真っ赤になった。もっとも、顎にはぐっと喧嘩腰な力がこもり、無気味なくらい父親そっくりな顔になる。
メルが機を逃さず僕にたずねた。
「昼食に行くのか? そうなら、もし予定がなければだけど、昼食に誘いたいな」
僕はためらった。だが、馬鹿らしい。僕の予定など昼寝くらいのものだ。今すぐにでも寝たいくらいだが、しかし遅かれ早かれ、いつかはメルと向き合わねばならないのだ。ならさっさと片付けて何が悪い? もうあれから、充分な時間が経った筈だ。たとえ僕が今ロマンスの類に興味があったとしても——ないが——メルへのロマンティックな感情などとうの昔に乗り越えている。
だよな?
その筈だ。
「いいね」僕は答えた。「少し、うちの
社員と話してきてもいいかな」
メルがうなずく。僕は、ついて来るようナタリーに合図をした。
「つまり、あれが伝説のメルなのね?」
間違った棚にせっせと本を戻してくれている客たちの間をすり抜けて進む間、ナタリーがそう囁いた。
「そうだよ」僕も囁き返した。「ジョニー・アップルシード、ビッグフット、そしてメル。まさに伝説さ。しかもビッグフットはダンスがうまい」
「彼、私が思っていたより背が低いわ」
僕はそのコメントを流した。ハードボイルドの棚で立ちどまる。カバーでは引き締まったタフガイたちが、たくましい手で拳銃を引き抜こうとしているか、憤怒に拳を握りしめていた。
「いいかい、ナット。落ちついて聞いてほしい。昨夜、この店に誰かが侵入したんだ」
「何ですって! そんな——」
「大丈夫だ」僕は急いで続けた。「被害があった様子はなかった。何も盗られてないと思うけど、君もひととおり確かめておいてくれないか」
「何てこと。あなた、殺されてたかもしれないのよ」
それは僕が考えないよう全力で避けていた仮説で——しかも間違った耳には決して入れたくない可能性だったので、あわてて打ち消しにかかった。
「いいや、あの泥棒は誰かがここにいるなんて思ってなかったようだ。一月近く、ここは夜間は無人だったからね」
「そんなのわからないじゃない」ナタリーが言い返した。「あなただって、ここ何年かで結構な数の敵を作ったかもしれないでしょ?」
僕のアマチュア探偵としての技量をほめているつもりだと取っておこう。僕は言った。
「まあ——ええと、とにかくどちらでも、警察にはもう届けた。ただ、鍵を換えないと。錠前屋には連絡してあるから二時くらいに来る筈だ」
そうは言ったが、メルとの昼食をそこまで長引かせるつもりはない。特に今は、なるべく早いうちにシエスタを取りたいし。一回か二回の昼寝なしでは丸一日持たないというのも、手術のうっとうしい後遺症のひとつだ。
隣のフロアを隔てるビニール壁のところへナタリーをつれていって、ビニールに作られた裂け目を見せた。ナタリーの顔色が失せる。
「つまり、書店が閉まった後、犯人がここに隠れてたってこと?」
「違うと思うよ」と安心させた。「大体、誰か中をうろついていれば、工事の作業員が気付いただろうし」
その言葉は、僕の本音より自信ありげに響いた。そもそも、犯人が作業員の一人でないとは言い切れないのだ。昼食から帰ってきたら、工事監督のフェルナンドに話をしなければなるまい。ナタリーの心配はわかるし、怯えるのも無理はない。隣のフロアの工事作業員は午後三時くらいには仕事を切り上げるので、誰かが隣に身をひそめ、ナタリーが店を閉めて売り上げを数えている間に店に侵入してくることだってできたのだ。
ナタリーは、青い目を不安に曇らせてうなずいた。犯罪というのは、他人の身に降りかかるからこそ楽しいものだ。
「最近、何か変なことに気がついたりしたかい?」
ナタリーは首を振った。
「この二、三週間で、いつもと違ったことは?」
「それって、あなたが殺人鬼に撃たれたことは別にしてよね?」
僕を撃った相手は仕事上のちょっとした知り合いで、しかもジェイクの元恋人だった——それが撃たれた理由ではないが。少なくとも、僕はそう思っていた。とは言え、ろくな理由もなく撃たれたと思いたくもない。
「別にして。夜間、誰かが忍びこんでいたような気配はなかったか? 何か目についたことは? 在庫がなくなっているとか?」
ナタリーはのろのろと首を振った。
「まあ、ねぐらを探していたホームレスかもしれないな」
自分でそう言いながら、僕も本気では信じていなかった。
「若い子の悪ふざけとか?」
ナタリーが期待するように候補を上げる。
「かもね」
だが、それも信じてはいない。若者ならもっと無軌道だという先入観があって、店を荒らしていく筈、という気がしてならない。少なくとも壁に落書きを残すとか、エロティックなミステリがなくなっているとか。
ガキの悪ノリでなければ、目的は盗みだろう。なら何もなくなっていないのはどうしてだ?
それとも昨夜が犯人の初めての侵入で、まず二階に忍びこもうとしたところで見つかったということだろうか。筋は一番通っている。ジェイクはそう思っているようだし、彼の専門だ。
ナタリーは、自分の想像にぞっと身を震わせた。
「とにかく、あまり心配しないでくれ。現場監督に話をして、不審者に目を光らせておくようたのんでおくから。鍵も今日換える。これ以上何も起きないさ」
「それ、登場人物が殺される前によく言うセリフよね」
ナタリーが言った。
「
猫の絵の名札だって?」
メルがひやかした。
僕らはオールドパサデナにあるカフェ・サントリーニの、屋上パティオにランチを食べに来ていた。二人の思い出の店などに行くつもりだけはない。メルの家族や仕事の話を聞くだけで、すでにひどくノスタルジックな気分になっている。メルは映画学をカリフォルニア大学バークレー校で教えていて、その仕事を愛していた。昔から仕事に誇りを持っていた。僕らの共通点のひとつ。たくさんあった共通点の。
僕は重々しく答えた。
「まったくさ。僕の名札なんか“
ボス猫”って書いてあるんだよ」
メルはげらげら笑い出した。僕も笑ったが、心のすみでは働き者の義妹を裏切ったような苦さを覚えていた。
つけ加える。
「言っておくと、ナタリーは本当に店をよく支えてくれてるんだ。ぱっと見より気が利くよ」
「だろうね、でなきゃ君が耐え忍ぶとは思えない。しかし君に家族が増えたって、とても想像がつかないな。しかも妹? 三人の!」メルはまだ笑いがおさまらない。「いやあ正直、リサがついに再婚したっていう話も信じられないよ」
「まあね。本当に」
僕はシーフードグリルサラダをフォークでかき分け、食べられそうなものを探した。ひとつもない。まあ一時間前に朝食を食べたばかりだ。
「俺ばっかりしゃべっているね」
メルが残念そうに言った。僕は素早く笑みを返す。
「いいんだ、楽しいよ」
楽しいのは本心だが、どうも奇妙な違和感につきまとわれているのも確かだった。ここでランチを一緒にとっていることへの違和感。突如としてメルが現われたことへのとまどい。僕の星回りはよほど奇天烈な配置になっているに違いない。
「でも君の話を聞きたいんだよ」メルが、ふっと真剣な顔になった。「前の従業員が殺人容疑で逮捕されたっていうのは、どういうことなんだ?」
「まあ、長い話なんだよ」
メルのやわらかな茶色の目が、僕を見つめて微笑んだ。
「急ぎの用でもあるのかい?」
自分でも意外なくらい、目をそらせない。
「いや」
「昔は、一日暇なくらい客がいない時もあったよな」
「あったね。もう過去の話だ、ありがたいことに」
「本当によくやったな、アドリアン。大したものだよ」
まぎれもない本心からの賞賛だった。
「ありがとう」
「君は昔からとんでもない頑固野郎だったからな」
二人で笑い合い、そして僕は、メルが去った後どれほど彼のことが恋しく、淋しかったかを思い出していた。奇妙な話だ——何年も人生に欠かせない存在だった相手が、ある時を境にほとんど他人になってしまう。いつか、僕とジェイクの関係もそんな風になるのだろうか?
不意に空っぽになった心を埋めようと、僕は早口にしゃべり出し、この三年の出来事のあらましをメルに語った。一般向けのバージョンで。残りはカットした。それでも話の終わり頃にはメルはほとんど目を剥いていた。
「そんな話、俺の耳に入らなかったなんて信じられないよ」
メルはそう言うが、僕にはよくわかる。メルの家族は僕らのつき合いにあまりいい顔をしていなかった。失礼というほどではないが冷ややか、というのが彼らの全体的な印象だ。僕とメルの関係が終わった後、彼らは喜んで僕への扉を閉めたものだ——しっかり鍵まで換えて。
「それじゃ君は、その……素人探偵ってやつなのか?」
「違うよ、よしてくれ。どちらかというと、昔よく見たフィルム・ノワールの中にいるやたらとツイてない登場人物って感じさ。どうもおかしなことに巻きこまれるんだ」
「ほう?」
メルの目がきらめく。お互い得意な話題だ。
「つまり“L・A・コンフィデンシャル”でガイ・ピアースが演じたような、もしくは“白いドレスの女”のウィリアム・ハートのような?」
「どちらかというと“ボギー!俺も男だ”のウディ・アレンがイメージだな」
「いやいや、君にはもっとクラシカルな俳優が似合うね。ファーリー・グレンジャーとかモンゴメリー・クリフトとか」
こちらをじっくり眺める優しい目に、僕はぎくりとした。メルの目つきは、過去を美化するレンズでも通しているかのようだった。
「おもしろいね。昔から君は猫のように好奇心旺盛だった。謎解きにも目がなかった。よく新聞記事を読んでは、誰が犯人か推理していたものさ」
「そうだっけ?」
そう言われても記憶にない。
「記憶している限り、君が正解したことはないけどね」
メルがそうつけ足す。
僕は笑って、つられて引きつれる傷や糸の痛みを顔に出すまいとした。
「それで……」
メルが探るように切り出す。
「君とその元刑事か、君とその変わった大学教授か、どっちなんだ?」
「どうも僕には変わった大学教授とつき合う癖があるみたいだよね」
「そう言われると傷つくね」
言いながら、メルは小さく笑っていた。
僕は、ジェイクについてほぼ表向きのことしか話していなかった——抜けない癖というやつだ。だが結局、メルは僕のことをよくわかっているということなのだろう。これほど年月が経った今でも。そう驚くべきことではないのか、思えば僕らは五年も一緒にいたのだし、僕にとっては一番長持ちした関係だった。そして、メルに捨てられなければ、きっと今でも一緒に暮らしていただろう。
「今は誰もいないよ。とてもそんな気には……」
「だろうね」
メルは一瞬にして理解した様子だった。
「最近まで大変だったばかりだものな」
それから、ためらいを見せた後、僕にたずねた。
「それで、医者は君が完全に回復すると言っているのか? 心臓はもう大丈夫だって?」
かつて、その話題は僕らにとってまさに危険地帯だった。そして、これだけの時が経ってなお、僕にとってはまだ過敏な部分なのかもしれない。僕は切り口上で言った。
「心臓弁の置換とはいかなかったけど、治療はできた。今のところ最善のシナリオだ。だから、そう、僕は何年かのうちにもっと元気で丈夫になるって言われているよ」
メルは気圧されたように、空になったパンのかごをまた眺めた——奇跡が起きてパンが出てくるのでも待っているのか。それから彼は言った。
「アドリアン……」
僕は黙っていた。次にどんな言葉が来るのかはわかっていた。
「もう、今さら手遅れだけども。あんなふうに別れて、本当にすまなかった」
メルは僕の目を見て、また視線をそらした。
「若くて無知だったせいだと言いたいけれど、言い訳にはならないね。俺は……怖かったんだ」
僕は肩をすくめて応じた。
「僕らは二人とも、間違いを犯したんだよ。二人とも若かったし」
あの別れでひどく傷つかなかったわけではないが——今でも時々痛むほど——それでもこの長い年月で、自分なりの折り合いはついていた。
「わかってる。君にとってはもう、どうでもいい話だろう。でも言っておかなきゃいけない気がしたんだ」
ふたたび僕を見て、彼は目をそらす。
「あれは、つまり……君はあまりにも固く信じていただろ、自分がいつかは——」
言いかけてメルは口元をこわばらせた。
「君はただ当たり前のように、自分が五十歳までは生きられないと考えていて、俺はそれを信じるくらいには若くて馬鹿だった。それに、俺は……君が好きだったから。わかっているだろ。俺にはとても耐えられなかったんだ、いつの日か、君が……」
「もういいんだ、メル」
言葉を続けられなくなったメルに、僕は声をかけた。
「
二十歳の頃には五十歳なんて人生の果てのように思えたものさ。僕も、自分の人生や未来についてあまりリアルに考えていたわけじゃなかった」
あえてつけ足しはしなかったが、メルが僕と別れる決断をしたのには、彼の家族の影響もあったのだ。家族はメルが本当はゲイではないと強く信じており、たとえゲイだとしても、身を固めるには若すぎると思っていた。それも、いつか重荷になるだけかもしれない病人相手など論外だと。
「俺たちの間にあったものは、特別だった。素晴らしいものだった」
今週は、元恋人たちの謝罪週間なのだろうか。次はガイから電話がかかってくるのかと、僕はちらりと思った。多分、それはないだろう。ガイはごく当然のように、己の正しさを信じている男だ。大体、もしくは常に正しいと。つい僕は内心ニヤリとしていた。
「そうだね。でも遠い昔の話だ」
メルがふっと鋭い息を吸い、溜息をついた。
「ああ、たしかに」
それから彼は眉を寄せる。
「なあ、疲れてるんじゃないか? 悪い、気がつかなかった。もう行こうか?」
僕はうなずいた。
「悪いけど、そうなんだ。正直もうくたくたでね」
いつものことだ。異常なことでもない。医者から、しばらくはひどく疲れやすいだろうから、昼寝と休息をしっかり取るようにも言われていた。それでも鬱陶しくてたまらない。しばらくとは、一体いつまでだ。
ありがたいことに、メルは本屋に戻る車内での会話をごく軽いものにとどめてくれた。店の正面に車を停め、エンジンを切る。
「こうやって……もっと早く、話せていればよかったよ」
僕は微笑み返したが、ここ三年間のことを思うと、その間にいいタイミングなど一瞬たりともなかった気がした。
「会えてよかったよ」僕はドアハンドルに手をのばした。「ごちそうさま。お父さんの手術、どうなったか知らせてくれよ」
「アドリアン?」
メルが早口に言った。
「
LACMAで今週、フィルム・ノワール・フェスティバルがあるんだ。木曜は“青い戦慄”と“三つ数えろ”の二本立てだ。父さんの手術がうまくいったとしてだけど、一緒に行かないか? 君は昔からチャンドラーが好きだったろ」
何と答えていいのかわからなかった。メルが何をしたいのかも。たしかに、別れた後も僕らは友好的に接してきた。だからといって友人と言えるかどうか。僕らは、友人ではなかった。僕には——今でさえ——メルと友人付き合いなどできるかどうかわからなかった。
「あまりこういうことは言いたくないんだけど、僕にその体力があるかどうか——」
「君が帰りたくなったらすぐ帰るよ。どのくらいいるかは、君の自由だ。俺は——一日中家にいると、おかしくなりそうなんだ。何時間か外に出るのは君の体にもいいだろ?」
かもしれない。もっとも、僕としては家で一人で眠っていたい気分だった。睡眠こそ今の僕の友だ。
「昔はよくああいうところに一緒に遊びに行ったじゃないか」
メルが説き伏せようとつけ足す。
時々、そんな人生は別の誰かのもののような気がすることがあった。
「後で決めていいかな?」
僕はそう言葉を濁した。がっかりしたかもしれないが、メルは表情には出さなかった。
「勿論だよ。明日、電話する。それでいいかい?」
気がのらないまま、僕はうなずいた。どこか落ちつかないのは、反射的にこみ上げた嬉しさのせいもあるだろう。メルがもしかしたらまだ——と。今はそんな方向に考えたくもないのに。虚栄心をくすぐられた? そうなのだろう。
「ああ、わかった。明日電話してくれ。その時どんな気分かで決めよう」
「よかった」
メルは一瞬ためらい、左頬にえくぼを見せてやわらかに微笑んだ。
「じゃあ、明日また」
ひとつうなずき、僕は車を下りてさよならの手を上げた。メルも返事がわりに片手を上げ、車を出した。
僕は歩道を横切りながら、ぼんやりと建物正面のアールデコ様式の黒いタイルに目をとめていた。あの年寄り——ヘンリー・ハリソン——の言葉は正しい。この建物は美しかった。
書店に近づいた時、二つの異常な音に気付いた。工事現場の完全な静寂。そして、ナタリーの絶叫。
--続きは本編で--