海賊王の死
アドリアン・イングリッシュ4
ジョシュ・ラニヨン
■1
僕向きのパーティとは言えなかった。
まあ、死人が出たあたりは僕好みだろうと言われるかもしれないが、僕だってそんなものを楽しいパーティの基準にしているわけでもなければ、死体とのご対面を日課にしているわけでもない。大体、最後に僕が殺人事件の捜査に関わってから、もう二年が経っていた。
僕は、書店を経営して生計を立てている。売るだけでなく、自分でも本を書いていたが、そっちは生計を立てるまでとはいかない。なのにどういうわけか、僕が書いた一冊が映画化されることになり、それでこのパーティの場にいたのだった。ハリウッドに。くり返しになるが、僕向きではない——少なくとも、ポーター・ジョーンズが倒れて、ヴィシソワーズの皿に顔からつっこむまでは。
彼が倒れた時、悪いが僕は、ほっとしていた。
それまで十分間、だらだらとしゃべり続けるポーターに耳を傾けては礼儀正しくうなずき、ごくたまの言葉の切れ目に吐きかけられるやたら酒臭い息にも耐えてきたのだ。僕が本当に話したい相手は、混み合った長いパーティテーブルの向こう側に座る脚本家のアル・ジャニュアリーだった。ジャニュアリーは僕のデビュー作『殺しの幕引き』の映画化シナリオを担当している。彼がどう言うか、是非聞いておきたかった。
それなのに、心ならずもポーターから、カリブ海の島国セントルシアでのカジキ釣りについて長々と講釈される羽目になっていたのだった。
リネンのテーブルクロスに白いヴィシソワーズがはねとび、僕は立ってテーブルから下がった。誰かのしのび笑いが聞こえる。しゃべり声とフォークやスプーンの音が入り混じった喧騒が、すっと途絶えた。
「ちょっと、ポーターったら!」
ポーターの妻がテーブルの向こうで甲高い声を上げた。
ポーターの肩が震え、一瞬、僕は彼が笑っているのだと思った——いや、スープを気管に吸いこんで何が楽しいのかはさっぱりだが。僕の方は、最近似たような思いをしてきたばかりだ。
「倒れるほどおもしろいジョークを言ったのかい、アドリアン?」
ポール・ケイン——パーティの主催者が、僕に軽口をとばした。倒れたポーターを見ようとしてか、ケインも椅子から立ち上がる。彼の発音はいかにもエリート然としたイギリス風で、その口から出ると「バターを取ってくれ」という何気ない言葉も「標的を狙え!」と同じくらい印象的に響く。
スープが、僕の座っていた椅子に滴った。僕は動かなくなったポーターの姿を見つめた。日焼けしたうなじの皺、インディゴブルーのポロシャツの襟元から出た肉のたるみ。ロレックスがはまった太い腕は、ピクリともしない。
多分、彼がスープ皿に突っ伏してから二十秒ほどもかかっただろうか、やっと目の前の事態が呑みこめてきた。
「大変だ」
僕はポーターをスープ皿から引き上げる。ポーターの体はぐらりと右へ傾き、自分と僕の椅子を倒しながらカーペットへドサッと倒れこんだ。
「ポーター!」
悲鳴を上げて妻が立ち上がり、染めた金髪が肉感的でしみだらけの肩に広がった。
「馬鹿な!」ケインがいつもの悠然とした態度を失って声を立て、倒れたポーターを見下ろした。「彼は——まさか……?」
ポーターの状態は、一言では言いがたかった。顔はヴィシソワーズでギラつき、鼻の下の白いひげも光っている。淡い目はカッと見開かれて、そんな崩れた体勢の自分に憤っているかのようだった。ぽってりした唇は開いたまま、何の動きも声もない。彼は、息をしていなかった。
僕は膝をついて言った。
「心肺蘇生できる人、いませんか? 僕はちょっと無理そうなので」
「誰か救急車を呼んでくれ!」
ケインが、以前銀幕で演じた軍人役のような口調と態度で命じた。
「交替でやろう」
アル・ジャニュアリーが言いながら、ポーターの体の向こう側に屈みこんだ。彼はほっそりとした六十代の男で、チェリーレッドのズボンを穿いているというのに上品に見えた。おだやかで心安い雰囲気がある。チェリーレッドのズボンにはそぐわない落ちつきだった。
「肺炎が治りきっていないので」
僕はそう答える。倒れた椅子をどかして、ポーターの周囲に場所を空けた。
「ああ……」
アル・ジャニュアリーはうなずいて、ポーターの上に屈みこんだ。
ローレル・キャニオンの豪邸に救急救命士が駆けつけた時には、もう手遅れだった。
それから、僕らはパーティのあった
正餐室から客間へ追い出された。大体、全部で三十人ほどか、僕以外は皆、何かの形で映画制作やビジネスに関わっている人々だ。
優美な暖炉の上にある金ピカの置き時計をちらりと見て、僕はナタリーに電話しなければと思った。彼女は今夜デートの約束があるので、早めに店を閉めたがっていた。
それと、ガイにも電話しないと。とてもじゃないが今夜のディナーに出かける体力は残りそうにない——もし運良く、ここから一時間程度で解放されたとしても。
ポーターの娘と言っても通用しそうなくらい若い妻は、ピアノの脇に腰を下ろして泣いていた。二人の女性がやや上の空で彼女をなぐさめている。どうして妻まで夫のそばから追い出されたのだろう? 僕なら、死ぬ時には誰か愛する相手にそばにいてほしい。
ポール・ケインが、救命士が何やら残りの仕事を片付けているダイニングルームへふらっと入っていった。
しばらくしてから戻ってきたケインが、皆に告げる。
「じき、警察が来るそうだ」
がやがやと、狼狽や不満の声が上がった。
つまり、ポーター・ジョーンズの死は自然死ではなかったということか。そんなことじゃないかと思っていた。僕に殺人を嗅ぎ分ける特殊能力があるとか訓練を受けたわけではなく、ただ僕は……心底、本当に、この手のことに運がないのだ。
ポーターの妻——アリーと呼ばれていた——が顔を上げて、言った。
「あの人、死んだの?」
夫が、銛を打ちこまれたセイウチみたいに背中から床にドサッと倒れた時から、もう助からないのはわかりきっていたと思うのだが、楽天的な女性なのだろう。僕が、その手のありがたくない経験を積みすぎているだけか。
彼女の横にいる女たちが、またおざなりになだめる。
ケインが僕へ歩みよって、こなれた、魅力的な微笑で話しかけてきた。
「君は何ともないかい?」
「僕? 大丈夫ですよ」
ケインはそんな言葉に誤魔化されないよ、というように微笑んでいたが、本当に僕の気分は悪くなかった。一週間近くも入院した後ではどんな環境の変化も新鮮だったし、それに大多数の客と違って、人が突然死んだ後にどんな成行きを覚悟するべきか、それなりの予備知識もある。
ケインが、花柄の大きな長椅子に腰を下ろした。この部屋はインテリアデザイナーがしつらえたものなのだろう、薔薇柄だとか安っぽい金ピカの置き時計がこの男の趣味だとは思えない。魅惑的な青い目を僕にひたと据えて、彼が言った。
「どうにも嫌な感じがするねえ」
「ええ、まあ」
僕は同意した。自宅で客が変死するのは、一般的にいい感じのものではなかろう。
「ポーターは、何か君に言ってたかい? どうも、随分としつこく君をわずらわせていたようだが」
「彼が話していたのは、塩水の上のスポーツフィッシィングのことばかりでしたよ」
「ああ、彼の情熱」
「情熱はいいものです」と僕は応じる。
ケインが僕の目を見つめて、微笑んだ。
「相手がよければね」
僕は、疲れた笑みを返した。ケインが僕を口説きにかかっているとは思えない。何と言うか、役者の反射神経みたいなものだろう。
ケインは僕の膝をポンと叩いて、立ち上がった。
「もうじき終わるさ」
この手のことの実態を知らないのだろう、能天気に言った。
それから四十分も待たされただろうか、客間のよく注油された蝶番が音もなく動き、ドアが開いて、スーツ姿の二人の刑事が入ってきた。片方は三十歳くらいのヒスパニックでいかにも野心的でやる気をみなぎらせており、そしてもう一人は、ジェイク・リオーダンだった。
まさに、衝撃。ジェイクは主任警部補に昇進しており、わざわざ現場に顔を出す必要などない筈だ——よほど重要な事件と見なされない限り。
僕はジェイクを見つめた。まるで初めて見るかのように——ただ今回は、多少の裏知識付きで。
ジェイクは、前より年を取って見えた。冷徹で猛々しく、金髪、大柄の、相変わらず魅力的な姿だ。だが以前よりも削ぎ落とされた感じで、雰囲気が鋭利になっていた。前よりも、険しく。
最後に彼の姿を見てから、二年になる。至福の二年間とはいかなかったようだが、今でもジェイクは言葉にできない何かを漂わせていた。どこかしら、若い頃のスティーブ・マックイーンとか、少し枯れたラッセル・クロウのような。映画業界の人間の中をうろついていたせいで、つい映画を基準に物事を考えている。
見ていると、ジェイクの黄褐色の目が室内をよぎり、ポール・ケインに留まった。ケインの顔に安堵の色が浮かび、この二人が知り合いなのだと僕はピンときた。二人の視線が出会い、絡んで、離れる——そこに、何かがにじんでいた。誰もが気付くようなものではないが。ただ僕はたまたま、そのジェイクの表情が何を意味するのかよく知る立場にあった。
そして、このジェイク・リオーダンのひそかな性的逸脱を知る僕としては、ポール・ケインにまつわる噂も真実だったのだろうと結論づけた。
「皆さん、聞いてもらえますか?」
若い方の刑事が声をかけた。
「こちらはリオーダン主任警部補、私は刑事のアロンゾです」
彼はさらに話を続け、ポーター・ジョーンズの死因はまだ不明だが今から警察による事情聴取が行われること、まずは被害者の両隣に座っていた客から始めると告げた。
ケインが答えた。
「隣にいたのは、ヴァレリーと、アドリアンだね」
ジェイクの視線が、ケインの示した方へ流れる。そして僕を見つけた。ほんの一瞬、ジェイクの顔が凍りついたようだった。こっちは心構えをする数秒があって幸いだった。おかげで僕は、彼をまっすぐ見つめ返すことができた。ささいな優越感。
「でも、何で……」未亡人になりたてのアリーが反問した。「まさか、警察は——いえ、警察はどういうつもり? あの人が殺されたとでも?」
「奥さん——」
アロンゾ刑事がうんざりと言いかかった。
ジェイクは何か、低い声でケインに問いかけ、ケインが答えた。それからジェイクが口をはさむ。
「ミセス・ジョーンズ、あちらの部屋でお話をうかがえませんか?」
アリーをつれて、彼はラウンジへつながるドアへ向かった。ついてくるよう、アロンゾにうなずく。
アロンゾは、ポーターの死因は不明だと言ったが、警察が事情聴取を始めたとなるとやはり何か不審な点があると思った方がよさそうだ。
アロンゾに代わって制服警官が僕らへ指示を出し、申し訳ないがしばらく待ってほしいということと、お互い同士で話をしないように、と命じた。途端に全員が口を開く——主として抗議の声だった。
そんな状態が少し続いた後、ラウンジへ続くドアが開き、皆がぎくりとしてそちらを見やった。アリーが、凛として出てきた。
「一生一度の見せ場ってところだね」
僕の隣でアル・ジャニュアリーがそう述べる。目を向けた僕へ、彼は微笑んだ。
「ヴァレリー・ローズは、こちらへ」
アロンゾ刑事が呼んだ。
茶色い髪の、すらりとした四十代の女性が立ち上がる。このヴァレリー・ローズが僕の『殺しの幕引き』の映画版を監督する——撮影に取りかかるとして、の話だが。もはや雲行きは怪しいものだ。彼女はごく薄化粧で黒っぽいパンツスーツを着ていた。緊張を見せずにアロンゾ刑事の横をすぎて、隣の部屋へ入っていった。
十五分ほどしてから、扉がふたたび開く。出てきたローズは無言のまま部屋を横切っていった。アロンゾ刑事が僕を呼ぶ。
「アドリアン・イングリッシュ、こちらへ」
病院で名前を呼ばれる時に似ている。大丈夫、怖くないよアドリアン、ちっとも痛くないからね……。
僕は沈黙と、皆の視線を感じながら、隣の小部屋へ入っていった。
室内は雰囲気がよく、きっとケインが書斎として使っている部屋だろう。ケインはいかにも書斎を愛用しそうなタイプに見えた。ガラス扉の書棚、大きな暖炉、いくつもの革張りのソファ。壁際にテーブルと椅子が置かれ、事情聴取はそこで行われているようだ。
庭を臨む大きな張出窓の前に、ジェイクが立っていた。石のような横顔をちらっとだけ見てから、僕はアロンゾとテーブルをはさんで向かいの椅子に腰を下ろした。
「では——」
アロンゾが話を始める前にメモを書きつける。
ジェイクが振り向いた。
「eのつくアドリアンだ」そう、部下に教える。ジェイクと僕の視線が合った。「ミスター・イングリッシュとは前に面識があってな」
まあそういう言い方もできるだろう。突如として僕の中に、ぎょっとするほど鮮やかな記憶がよみがえってきた——僕の髪に、ジェイクが囁きかけている。「ベイビー、お前のせいで、こんなに……」——この上なくタイミングの悪い追憶。
「そうですか」
アロンゾは漂う緊張感に気付いた様子もなかった。刑事だから、普段からこわばった空気に慣れすぎているのだろう。
「では、お住まいはどちらに、ミスター・イングリッシュ?」
僕の住所と仕事について、手早く聞き出す。それからアロンゾは本題に入った。
「亡くなったミスター・ジョーンズとはどのくらい親しい仲ですか?」
「今日、初めて会った」
「ミセス・ビートン=ジョーンズによれば、あなたと被害者は食事中、熱心に話しこんでいたそうですが」
ミセス・ビートン=ジョーンズ? ああ、成程。旧姓と夫の姓をつなげて複合姓にしているのだ。いかにもハリウッド。ポーターの妻のアリーのことだろうと僕は見当をつける。
アロンゾへ答えた。
「話していたのは彼で、僕は聞き役だった」
これまでの経験から、警察には余計な話をするべきでないと身にしみていた。
ちらっと、ジェイクを見る。彼は窓の方を見つめていた。左手に金の結婚指輪。その金色が日の光にやたらときらめいている。小さな太陽。
「被害者は何の話を?」
「正直言って、細かくは覚えてない。ほとんど沖釣りの話だった。カジキ釣りの。ご自慢のハトラス社の四十五フィートの高級クルーザーで海にくり出して、ね」
ジェイクの唇がピクッと揺れたが、視線は窓の外へ据えられたままだった。
「海釣りに興味があるんですか、ミスター・イングリッシュ?」
「特には」
「どのくらい長く話してました?」
「多分、十分くらい」
「何が起こったのか教えてもらえますか」
「僕は、飲み物を取ろうとして横を向いた。彼——ポーターが、ただ……テーブルにばたっと倒れたんだ」
「あなたはどうしました?」
「ポーターが動かないとわかると、すぐ肩をつかんで引いた。彼は椅子からすべり落ちて床に倒れた。それで、アル・ジャニュアリーが心肺蘇生をした」
「あなたも心肺蘇生のやり方は知っていますよね?」
「ああ」
「夫人は、あなたが被害者へ心肺蘇生を行うのを拒否したと」
僕は彼を見て、まばたきした。ジェイクへ視線をやる。黄褐色の目が僕をまっすぐ見据えていた。
「拒否する理由があるんですか? HIV陽性だとか」
「違う」
その問いにこみ上げてきた怒りは、自分でも驚くほどのものだった。僕はそっけなくつけ足す。
「肺炎が治ったばかりなんだ。だからまともに人工呼吸ができるとは思えなかった。もし誰もやらなければ、その時は自分でやってたさ」
「肺炎? そりゃあ災難だ」下っ端刑事に同情される。「もしかして、入院したり?」
「ああ、ハンティントン病院で五日ほど、楽しくすごしたよ。医者の名前と連絡先なら喜んで教える」
「いつ退院を?」
「火曜の朝」
「それで、すぐ日曜のパーティに参加を?」この問いはジェイクからで、上辺だけ親しげな、嘲りの口調だった。「ポール・ケインとはどういう知り合いだ?」
「会うのは、今日が二度目だ。僕の小説の映画化権を、ケインが買ったんだ。それで僕と監督や脚本家の顔合わせをしておこうと、彼がこのパーティを主催した」
「つまり、あなたは作家だと?」
アロンゾが問いただした。まるで僕が重要なことを隠蔽したのをたしかめようというように、手帳をのぞいている。
僕はうなずいた。
「いくつもの顔の一つだがな」
ジェイクがそうつけ加える。
正直、僕との昔の友人関係を勘ぐられたくないならジェイクはもう少し口に気をつけた方がいいと思うが、ジェイク当人は、結婚と出世のおかげですっかり安全地帯にいる気分なのかもしれない。続いてアロンゾ刑事があれやこれや聞く間は、もう口をはさまなかった。
僕はアロンゾの質問に答えながら、ポール・ケインと初めて会った時のことを考えていた。この南カリフォルニアに住んでいればいわゆる“映画スター”たちを見かけるのにも慣れる。個人的な経験から言うと、映画館のスクリーンで見るほど彼らは背が高くも凛としてもおらず、肌もきれいではなく、粗が目に付くものだ。現実では、髪形だって映画の中ほど見事ではない。
ポール・ケインは例外だった。実物の彼も、昔ながらの昼ドラ主役風の魅力にあふれていた——完璧な見た目、セックスアピール、いかにも女性ファンを夢中にしそうな姿。エロール・フリンばりだ。背が高く、まるで大理石の彫像のように美しく、青い闇のような目と、金の輝き混じりの茶色い髪。整いすぎていると言ってもいいくらいだった。僕としてはもう少し粗削りな方が好みだ。ジェイクのような。
「映画化とは、大したものだ!」
アロンゾがほめる。まるでこのハリウッドが、映画で一山当てようとするシナリオライターや映画化権を買われた原作であふれ返っていることなど知らないかのように。
「それで、あなたの本はどんな話なんです?」
やや投げやりに、僕はアロンゾに自分の本の中身を説明した。
映画化予定の小説の主人公が、ゲイのシェイクスピア役者兼アマチュア探偵だと聞いてアロンゾは眉を上げたが、せっせとメモを取りつづけていた。
ジェイクがテーブルに歩みよってきて、僕の向かいに腰を下ろした。僕の首の筋肉はピンと張りつめて、今にも頭が震え出してしまいそうだ。
「しかし、あなたはパサデナでミステリ書店、クローク&ダガーを経営されてもいますよね?」アロンゾが問いつのる。「ポーター・ジョーンズは顧客の一人でしたか?」
「違うと思う。僕の知る限り、ポーターに会ったのは今日が初めてだ」
僕は、何とかジェイクの方を見やった。彼は下を見つめていた。自分の態度に殺人マニア的なものがにじみ出ていやしないかと、僕は手を見下ろす。張り出し窓から明るくさしこむ光の下で、その手は痩せて、白っぽく、肌の下の血管が青く透けていた。
腕組みして、僕は椅子の背もたれによりかかり、警戒よりも無関心を装おうとした。
話は三十分に及び、被害者を知らない人間を尋問するには長すぎる気がした。だが警察だって、本気で僕を容疑者として見ているわけはあるまい? ジェイクが本気で、僕がポーターを殺したと疑っているわけはないだろう? 僕はちらっと角の大時計を見た。五時。
アロンゾの質問は、とりとめのない僕の身辺情報に戻っていった。ほとんど無意味な話だが、時にこうしたやり取りから意外な手がかりが浮き上がることもある。
アロンゾが驚き、僕がほっとしたことに、ジェイクが突然尋問をさえぎった。
「もう充分だろう。時間を割いてくれて感謝する、ミスター・イングリッシュ。また何かあれば、こちらから連絡する」
僕は型通りの挨拶を返そうと口を開いた——だがかわりに、笑い声がこぼれた。短く、刺々しい笑い。僕もジェイクも、その声に驚いた。
■2
「まあ、なんてひどい顔してるの!」
ナタリーが叫んだ。
僕は彼女にぱちぱちと睫毛をはためかせる。
「君はいつも嬉しいことを言ってくれるよ」
ざっと、今日の売り上げレシートをめくった。
二年前、書店の従業員だったアンガスがどことも知れぬ地へ去ってから、僕はナタリーをこの店へ受け入れたのだった。数人の派遣社員を試した末、僕は——己の良識に反して——母の願いを入れ、ナタリーを雇った。
ナタリーはその時、僕の義理の妹になったばかりだった。父に死なれて三十年以上も独り身ですごした僕の母、リサが、いきなりの再婚を決め、お相手のビル・ドーテン議員には三人の娘がいたのだ。上から順に三十代のローレン、二十代のナタリー、それに十二歳のエマ。
ドーテン家は、世界一素敵な家族だった。僕はこの一家に隠された裏の顔があるのではないかと、不穏な気配に目を光らせているのだが、ない。何もなかった。たしかに、ビルは休日にイエーガーマイスターを飲みすぎていたたまれなくなるほど感傷的な酔っ払いになるし、ローレンの社会奉仕活動には巻きこまれたくないし、ナタリーは僕の知る限り男の趣味が最悪だ——僕よりはマシでも。しかしエマは素晴らしかった。
「どうしてこんな時間まで? 心配してたのよ」
「思ったより長くかかってね」
僕は曖昧に濁した。ナタリーに話した内容は一言残らず、一時間以内に家族ネットワークに筒抜けだし、今はまだ事件のことを言いふらしてほしくはない。
「楽しかった?」
ナタリーは、本気で気づかっていた。本心から、僕がパーティを楽しんできたかどうか気にしていた。このあたり、義理の家族ができて以来、どうにも慣れない。彼らから向けられる親しげな好奇心や関心は、温かいが、なじめないものだった。
僕とリサの二人だけで——まあ大半は僕一人だけで——生きてきた年月の後で、今さら周囲の注目の的になったり踏みこんで来られるのは、落ちつかないのだ。
僕は醒めた目で、ナタリーの最新のボーイフレンドを見やった。ウォレン・なんとか。彼はカウンターそばの革張りの一人がけソファに伸び、退屈そうにしていた。だらしなく広がった髪、貧弱な体、顎からヒョロッと垂れた山羊ひげ。あれを見るたびに僕はよく研いだ剃刀がほしくなる。それも、ひげを剃る目的ではなく。
ウォレンは“オンナ日照り”と胸に書かれたTシャツを着ていた。ミュージシャンか何からしいが、今のところ彼がかき鳴らしているのはギターの弦ではなく僕の神経だけだ。
ナタリーを雇ったのは、これまでで最高の決断だった。彼女の唯一の問題点は、しつこくウォレンも雇わせようとすることだけだ。
「まあまあね」と僕は答えた。「二人ともコンサートか何か行くんじゃなかったのか?」
ウォレンがやっと息を吹き返した。
「そうだよ、ナット、もう行こうぜ」
「リサから電話が四回あったわ。あなたが退院してこんなにすぐ出かけるから心配してた。電話してあげて」
僕はぶつぶつと呟き、ナタリーと目を合わせた。彼女がクスッと笑う。
「あなたはまだ、リサの可愛い子供なのよ」
ウォレンが小馬鹿にしたように笑った。
心底、こいつにはうんざりしてきた。
「リサには電話しとくよ。戸締まりをたのむ」
ナタリーはうなずき、僕は二階にある自分の住居へと向かった。何年も前、父方の祖母から相続した金で僕はこの建物を買い、クローク&ダガー書店を開いたのだった。あの時は、作家として独り立ちするまで食いつなぐ手段のつもりで。
二階のフラットの明かりをつけた。留守番電話の赤いライトが点滅している。メッセージが八件。僕は再生ボタンを押した。
『ダーリン……』
リサだ。僕は早送りボタンを押した。
『ダーリン……』
早送り。
『ダーリン……』
嘘だろ? 早送り。
『ダーリン……』
勘弁してくれ! 早送り。
早送り——早送り——早送り——。
スピーカからのガイの声が、部屋の静寂を破った。
『やあ、今日はどうだった?』
ガイ・スノーデンと僕の出会いは二年前で、ジェイクと離れてから、僕は彼とつき合うようになった。停止ボタンを押し、受話器を取り上げたが、ふと僕は考えこんだ。
もし今からガイに電話すればきっと短い話ではすまないだろうし、今の感情を直視するには、僕は疲れすぎていた。ガイがどう反応するにせよ、それを受けとめる余裕もない。
受話器を戻し、僕はバスルームへ向かうと、鏡の中の目が落ちくぼんだ顔を見ないようにした。猫が引きずってきた獲物のようにボロボロの有り様だと、あえて己を思い知る必要はない。
実際、猫の獲物のような気分だった——何時間か、かじられた末の。胸が痛いし、肋骨も痛い。咳をするのもつらいのだが、肺をきれいにするためにも咳を我慢してはならないと言われている。まったくもって、幸せ一杯の状況だ。
抗生物質を飲み、僕はカウチに寝そべった。十五分休んだらリサに電話しよう。余力があれば、ガイにも電話してパーティとポーター・ジョーンズの死、そしてジェイクのことを話そう。ガイには楽しくない話題だろうが——特にジェイクの部分は。いや、ジェイクと僕がどういう関係だったのか話したことはない。だが、ガイは
カリフォルニア大学ロサンゼルス校で歴史とオカルトを教える大学教授だが、ジェイクが捜査していた殺人事件の容疑者にされたことがあって、そのせいで警察というものに、とりわけジェイクに、あまりいい印象を持っていないのだった。
僕は、今日のポール・ケインの邸宅でのパーティのことを思い返した。まあ、この午後の出来事を“パーティ”の一言でくくるのは無理があるか。死んだポーターとの初対面をはっきり思い起こそうとする。部屋のバーカウンターの中に立ったケインがカクテルを作りながら、僕らを紹介したのだった。ケインは、カウンターにしばらく置かれていたグラスを僕に渡し、言った。
「これはポーターの分だ。俺の秘蔵のレシピでね」
僕は、そのグラスをポーターへ渡した。
勿論、その一杯だけでなく、ポーターはあの日たっぷりと酒を飲んでいた。彼へと、山ほどのグラスが手渡されていった……。
目を覚ますと、階下でブザーが鳴り響いていた。
たて続けに見た奇妙な夢を引きずったまま、僕はぼうっと、カウチに起き上がった。部屋の角に濃い影がわだかまっていた。ほんの一瞬、自分の家ではなく、どこか、他人の家にいるような感覚があった。まるで僕が消えた後で、他人が数年間住んだ家のように見えた。
ビデオデッキに表示された時計で、八時だと知る。しまった。ガイとのディナーをすっぽかしてしまった。
階下のブザーがまた鳴った。やかましく、せかすように。
ガイではない。彼なら鍵を持っている。
まさかな、と僕は思った。途端に、口いっぱいの埃を吸いこんだように咳きこむ。多分、埃をかぶった思い出を。
立ち上がる。いきなりスイッチが入ったように、アドレナリンで全身がざわついていた。一階へ下り、店の明かりをつける。のしかかるように高い書棚と洒落た配置の椅子の間を抜け、静かな店内を横切りながら、僕の視線はセキュリティゲートの向こうにたたずむ背の高い影に据えられていた。
どうしてか、わかっていた——彼が動いて、ポーチライトのくすんだ黄色い光の中に、姿を見せる前から。
僕は口の中で毒づいて、店のドアの鍵を開けた。セキュリティゲートを横へ引き開ける。
「入ってもいいか?」
ためらい、それから僕は肩をすくめた。
「どうぞ」横へのく。「ほかにご質問は?」
「それだけだ」
ジェイクが店の中へ歩み入って、周囲を見回した。
この春、僕は店の続きのフロアを買っていた。内装をはぎ取られた隣の店内と書店は今、透明な分厚いビニールの壁で仕切られていた。それ以外は、とりたてて変化もない。居心地のいい椅子、フェイクの暖炉、背の高いウォルナットの本棚、相変わらず神秘の微笑みを浮かべた東洋風の仮面。昔のままだ。僕以外は。僕は、大きく変わった。
ジェイクと出会った日のことを思い出す。彼がロバート・ハーシーの殺人事件の捜査で、初めて店を訪れた時のことを。僕はジェイクが怖くてたまらず、今にして思うと、あのまともきわまりない第一印象を信じておくべきだったのだ。
ジェイクの視線が、やっと僕に留まる。彼は何も言わなかった。
「デジャヴだね」
僕はそう言って、自分の口調がまったく普通だったことにほっとした。
もっとも、ジェイクはそれに苛立ったようだった。いや、僕らの間に事件捜査以上の関係があったことを蒸し返されて、気にさわったのかもしれない。
ジェイクが無感情に言った。
「今日の聴取で、お前が何を隠していたのか聞きに来た」
これには意表を突かれた。
「何もないよ」
「誤魔化すな。お前の頭の中はわかる、何か隠しているだろう」
これはなかなか皮肉なセリフと言えた。
「僕が?」
ジェイクはわずかも揺るがず、譲らず、僕を見つめ返した。
「ああ」
「へえ。時間が経っても、人間あまり変わらないもんだな」
「そうだな」嫌みったらしい口調だった。「二年も経って、またお前を殺人事件の真っ只中で見つけたってわけだ。偶然か?」
「違うとでも?」
言い返して、僕はまたひどく、ゴホゴホと咳き込み出した。
ジェイクはただそこに立って、僕を見ていた。
息がつけるようになると、僕は喘ぐように言った。
「もし、僕に黙っていたことがあるとすれば、多分、お前とポール・ケインが……顔見知りだ、ってことかもな」
何の返事もなかった。
「相変わらずのSMクラブ通いってわけか?」
ジェイクが片眉を上げた。
「まるで嫉妬しているように聞こえるぞ、アドリアン。それに、刺々しい」
本気か。僕は呆気にとられる。
「まさか。単なる好奇心さ」
「どんな?」
「どうせ僕には無関係の話だ」と僕は肩をすくめた。
「その通りだ」
ぴしりと言い返された。一瞬置いて、ジェイクがゆっくりと言う。
「なら、それだけだったのか? お前は、俺とポールが……知り合いだと察した?」
「ああ、そうさ」僕は嘲った。「人に言えない知り合いなんだろ」
沈黙。
僕らの関係が終わった後、ジェイクから、二度電話があった。二度とも僕は留守にしていて、電話には出られなかった。もしかしたら、いたけれども、出なかっただけかもしれない。とにかく、無言で切れた電話が誰からだったのかは、発信者番号でわかった。
さらに日が経ち、すべてが収束してから十一ヵ月もして、ジェイクからまた電話があり、今度はメッセージが残っていた。
——ジェイクだ。
僕が、彼の声も番号ももう忘れたとでも?
沈黙。
——たまにでも、お前と話ができたらいいと思ってな。
成程?と、ジェイク当人なら小馬鹿にした返事をするところだろう。
また、沈黙。
ツー・ツー・ツー……。
二人で、何の話をするというのだ。話題は? 彼の結婚生活? 仕事の話? 天気の話?
「じゃあ、これでいいか? それだけか?」
声がギリギリまで張りつめているのが自分でもわかったし、ジェイクにも聞き取れた筈だ。ジェイクと言い合うような気力はもうなかった。このままここに立ち、平然としたふりをする余力もなければ、今まさに古傷が——思うほどには癒えていなかった傷が——口をぱくりと開けつつあることを誤魔化すだけの力もなかった。
ジェイクが、無感情な声で答えた。
「ああ、それだけだ」
--続きは本編で--