悪魔の聖餐

アドリアン・イングリッシュ ミステリ3
ジョシュ・ラニヨン


■1


 電話口で、ざらついた声が囁いた。
『恨みの骨、塵の骨、怨嗟に満ち、報いをもたらせ
 憤怒の骨を地に散らし、我が仇敵たる汝に痛みを与えん
 苦悶と灼熱と死とともに、汝が魂をここに呪う
 かくあれかし!』
 僕は手にした受話器を、カウンター脇のおすすめ本コーナーの前にいるアンガスにさし出した。
「君に電話だ」
 アンガスは、電気ショックを恐れるかのように、こわごわと受話器を耳に当てた。彼はしばらく聞き入っていたが、震える手で受話器を戻すと、僕を見つめる。ジョン・レノン風の丸眼鏡の向こうで、その目は怯えていた。色の薄い唇をなめる。
「なあ、アンガス。ジェイクに相談してみたらどうだ? 警察官だ、助けてくれるかも」
「殺人課の刑事が……?」アンガスはぼそぼそと答える。「僕のことが嫌いなのに?」
 たしかに両方とも事実だったが、僕はさらに言葉を重ねた。
「ジェイクは君を嫌ってはいないよ、本当はね。それに、このままにしとくわけにはいかないだろ。脅しにしてもタチが悪い」
「脅し!」アンガスの声がはね上がった。「脅しならいいですよ! あいつらは僕を殺す気なんだ!」
 ミステリ古書の棚の間で、客が咳こんだ。そうだ、客がいたのだ。
 僕はアンガスを手招きした。彼をつれて、店の奥にあるオフィス兼在庫置き場へと入る。このどんよりとした十一月、どうせ本の探索に訪れたのは朝から合計三人の客だけだ。ドアを閉めると、僕はアンガスへ向き直った。
「それで、一体何が起こってるんだ?」多少の成り行きは知っていたので、付け足した。「詳しく」
 充分おだやかに言ったつもりだったが、アンガスは自分を守るように両手をつき出した。
「話せません!」
 早口だった。
「だって、その……もし、話せば……もしあの——秘密を、漏らしたら、僕は……」
 ごくり、と彼は唾を飲む。
「あいつらに殺される……」
「今も殺すって脅されてるんだろ?」
「本当に殺されるってことです」
「成程?」
 僕は相づちを打った。ジェイクそっくりの言い方になった。
 アンガスは、僕の声の疑いを聞き取っていた。
「アドリアン、あなたにはわからない。あなたはこんな——それに、だって、あいつらは僕の家を知ってる。ここで働いていることも知ってる。ワンダの居場所も、彼女がどこで働いているかも。何もかも——」
「少しの間、遠くに行ってきたら?」僕はさえぎった。「クリスマスも近いことだし。この際——ほら、クリスマス休暇ということで、どこかでのんびりと」
「まだ十一月です」
「でも感謝祭はもう終わったし」
 アンガスがこのクローク&ダガー書店で働きはじめてそろそろ一年だが、いまだに彼のことはほとんど知らなかった。カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLAで謎の授業を履修していてじきそれも終わるらしいとか、それくらいだ。あの大学にはやたらと民間伝承やら神話やらオカルト絡みの授業があるから、そのどれかなのだろう。アンガスの年は二十ちょっと、一人暮らしで、多少風変わりではあるが、真面目な従業員だった。
 リサ——僕の母はアンガスを麻薬常用者だと決めつけ、ジェイク——僕の時おりのお相手はアンガスを「イカれてる」と決めこんでいる。だが僕は、アンガスがただ……色々な意味で、若いだけだと思っていた。
 僕は、だぶだぶの黒い服でたたずむ彼をじっと眺めた。冥界からの亡命者のように見えた。アンガスは、もうすべての希望が絶えたかのように、僕には決して理解できないと言いたげに、首を振っていた。
「じゃあ、そうだな」僕は考えをまとめながら続けた。「ほら、ワンダをつれて一、二週間くらい旅行に行っておいでよ。時間を置けば事態も収まるだろ」
 引き出しをあさって、小切手帳を探す。
 普段の僕は、金で何かを片付けられると——請求書以外は——考える方ではない。個人的にはトラブルから逃げ出す主義でもないが、今回の件に限っては、いささかピンとくるところがあった。
 少なくとも、この時にはそう思った。
 僕が小切手を書く間、アンガスは立ったまま押し黙っていた。書いた小切手をビリ、と切り離す。渡すと、アンガスは小切手をじっと見下ろした。一言も言わない。
 その時、僕の目の前で、アンガスの頬を涙がつたい落ち、小切手にポトッと滴った。震えるようなため息をつき、彼は何か言おうとする。
 僕はさえぎった。
「いいから。こっちにも都合がいいんだ。毎日おかしな電話にかかってこられちゃ仕事の邪魔だしね」
 そう言って、僕はオフィスのドアへ向かった。


「何をしたって?」
 ジェイクが聞き返した。
 僕は、コロラド大通り沿いのカーショップに、約束から十分遅れで到着したところだった。僕の十年もののブロンコは瀕死の状態で、ジェイクは自分が目を光らせていなければ僕にはまともな車一台買えないと思っているらしいのだ。
「アンガスに八百ドルやったんだよ。ワンダと一緒にどこかにしばらく出かけてろって」
 僕は、赤い夕陽をはね返している小洒落たスポーツカーや頑丈そうなSUV車の列を見やった。頭上でヤシの葉が風にざわついている。スピーカーから小さく流れるクリスマスソングが、クリスマスがすぐ来るぞと客の潜在意識に囁きかけていた。
 僕はフロントウィンドウに映った、背後に立つジェイクの姿と金髪を眺めた。
「八百ドルだ? 八百ドルもドブに捨てたのか?」
 僕は肩をすくめた。
「クリスマスボーナスだよ」
「成程?」ジェイクの視線が頬に痛い。「随分と気前がいいが、車を買う分は残ってるのか? 無駄足じゃないだろうな」
「貯金、という由緒正しい伝統がアメリカに存在することぐらいお前も知ってるだろ?」
 ふん、とジェイクが鼻を鳴らす。僕を琥珀色の目で見据えた。
「背を向けて逃げ回ったところで、何も解決しないだろ」
 その言葉に、一瞬ふと、まるで違うことを話しているような錯覚を覚えた。
「別に、これで何か解決するって思ってるわけじゃないよ」ジェイクが口を開く前に付け足す。「解決の必要もないと思うしね。子供の喧嘩だよ。どうせすぐ忘れる。あの年頃なんて、ほら——まだ人生が早回しみたいなもんだろ。ホラー映画みたいに、せいぜい二十分もやりすごせば怖いシーンは終わるさ」
 ジェイクの唇がピクッと笑いかける。だが口に出しては言った。
「その連中は、あの大学近辺で魔術集会をしているんだったな?」
 僕はスバル・フォレスターの銀のボンネットをなでた。
「ああ。今どきの大学生ってやつさ。まったく」ウィンドウに貼られた新車価格を眺めた。「僕が耳にはさんだ限りじゃ、メンバーは去年、悪魔学だか魔女学だかの授業を取っていた学生たちらしいよ。授業中に変な煙でも吸いすぎたんだろ」
「クラスが終了した後、オカルト同好会を始めたってことか」
「はっきり知ってるわけじゃないけどね。アンガスと会話がはずむような話題でもないし、組織の秘密を漏らすと恐ろしい目に合わされるらしいし」
 売り場をぐるりと飾る赤と緑のクリスマスライトが点滅した。唐辛子にしか見えないのは、通りの向こうのメキシコ料理店が目に入っているせいかもしれない。空の胃が鳴った。果たして、ジェイクは夕食までつき合ってくれるだろうか。
 腹が減ったとぼやけば、きっと夕食の時間くらいは作ってくれるだろう。ジェイクは僕の食生活にあきれ果てている。当人は筋トレ信者として、三食バランスの取れた食事、というルールを十戒なみに真摯に受けとめているのだ。
 ここのところ、ジェイクとあまり会えていない。炭水化物だの多糖類だのの説教を聞かされる危険を冒してでも、もう少し一緒にいたかった。
「色々見て回って、値段を比較することで、自分に合った車を見つけられるんだ」
 ジェイクが、フォレスターから離れられない僕を見ながら言った。
「だろうね」
「ガソリンを食う車はやめとけ。クーペはどうだ? 少し古くても」
「中古車?」
 僕の口調に、ジェイクの唇の端がかすかに上がった。渋々と、僕は列の間を進んで、青いツードア車に近づく。スモークガラス、サンルーフ、ボーズのスピーカーシステム。値段もお手ごろ。“車内適正温度管理付き”——エアコンのことか?
 ジェイクが前置きもなく、むっつりと言った。
「信じようがしまいが、あの手の連中は暴走することがあるからな。一月前、ハリウッド管区内で身元不明の女性の死体が発見された。オカルトの儀式で殺されたような状態だったらしい」
「儀式って、悪魔召喚の生け贄とか?」
 ほとんど冗談のつもりだったが、ジェイクは考えこみながら返事をした。
「アンガスを遠くにやったのは、早まったかもな。話を聞いてみたかった」
「アンガスがそんな物騒なことに関わってるわけないだろ」僕は抗う。「たしかにちょっと変わってるけど、真面目な子だぞ」
「あいつが本当にどんな奴なのか、お前にわかるわけがない、アドリアン」
 ジェイク——LA市警勤続十年のベテラン刑事は、いつもの、能天気な素人発言をした僕をたしなめる時に使う、刑事らしい口調でさとした。
「ほんの何ヵ月か雇っていただけだろう。それも派遣会社から来た相手だ。その手の会社が、派遣社員の身元をまともにチェックしていると思うのか?」
「別に、ミステリ専門の書店で働くのに身元調査はいらないし」
 ジェイクは耳も貸さずに続けた。
「八十年代からずっと、悪魔を信奉する秘密の宗教組織の存在が囁かれてきた。一部のキリスト教保守派が言いたがるほど組織的な活動の証拠はないが、それでも、悪魔だの黒魔術だのに傾倒した連中による傷害事件や殺人事件は後を絶たない。精神病院に放りこまれる連中もな。血なまぐさく、おぞましい世界だが、それでもガキどもはあの手のオカルトにハマるんだ」
「じゃあ今回のことでアンガスが目を覚まして、その手のことから卒業してくれるよう祈るよ」
 僕は青いクーペの運転席に座った自分を想像しようとしてみたが、どうもしっくりこない。観念して、シルバーのフォレスターの方へと引き返した。


 分割払いの書類にサインを終えると、僕はジェイクと一緒に通りを渡り、夕食を取りにダイニングバーへ入った。ブロンコは下取りに出してしまったし、新しい車はショップでカーステレオを取り付けてもらう必要があるので、帰りの足が要るのだ。ジェイクは、おとなしく僕につき合っていた。
 食事を待つ間、僕の目の前で、ジェイクはバスケット二つ分のトルティーヤチップスを平らげていく。まるで給料代わりにチップスをもらったかのように、ひたすら黙々と食べつづけながら、ジェイクの視線は作り物のブーゲンビリアがつき出た壁掛けの鉢に据えられていた。
「何かあったのか?」
 もぐもぐと口を動かしながら、ジェイクはチップスへのばしかけた手をとめた。
「いや。何でだ?」
「別に。何か、考えこんでいるように見えたから」
「何もない」ビールをぐいとあおり、ジェイクは僕と目を合わせた。「いつも通りだ」
 僕らの関係は、決して楽なものとは言えなかった。ジェイクはゲイであることをかたくなに秘密にしている、いわゆる“クローゼットに隠れている”男だ。ジェイク当人によれば、それは刑事だから、ということになるらしい。ただでさえきつい職務なのに同僚と軋轢を起こす必要はないと。だが僕の見たところ、問題はそれほど単純ではなかった。
 ジェイクは、男に欲情する自分を厭悪している。僕にとって、彼はいい友人だし、肉体的欲求を満たしてくれる恋人でもあったが——少なくともそばにいる時は——、僕らの間には拭い去れない緊張感があって、それは永遠に消えないのではないかと、時おりやるせない気持ちにさせられた。
 だとしたら、残念なことだ。僕はジェイクを気に入っていた。それも、かなり。
 ジェイクと初めて出会った頃、彼はSMクラブで欲求を発散していた。今はもう頻繁にはクラブ通いをしてはいない——筈だ。きっと。
 はっきりした事実は、ジェイクがケイト・キーガンという女性警察官とつき合っているということだった。僕よりも前から。自分が異性愛者だという芝居のためだけの交際ではなさそうだ。だがジェイクは、彼女の話をしたがらなかった。
「そう言えば、チャンが小説を書いてるんだって?」
 LA市警でのジェイクの相棒、ポール・チャンは数ヵ月前から、僕の書店で週一回行われる作家グループ“共犯同盟”に加わっていた。
「ああ。捜査小説」
「出来は?」
「んん、何と言うか……」
 ジェイクは笑って、チップスの入ったかごを僕の前へ押しやった。


 翌日の金曜日は、ベストセラー作家ガブリエル・サヴァンのサイン会の準備に費やした。
 サヴァンは『オカルト探偵サム・ヘインズ』シリーズの作者で、昔流行ったジュール・ド・グランダンやジョン・サンストーンなどのオカルト系ミステリの現代版というところだ。僕自身はホラーものはあまり好まないが、読者からの質問コーナーが盛り上がらなかった時のために、サヴァンの最新作にはざっと目を通しておいた。
 まあ心配はいらないだろう。八十年代の初期作品こそぱっとしなかったが、サヴァンはがらっと作風を変え、今やメディアも大注目の人気作家だ。今日のサイン会につめかける客の数を思うと、アンガスをさっさと逃がしたのは早まったかと、ケチな後悔がよぎる。
 サヴァンの新刊『薔薇十字団の聖典』の山を並べ直しながら、一本四ドルのシャンパンをもっと用意しておくべきだったかと悩んでいる時、また冥界からの電話が鳴った。
『殴り、打ち、砕き、引き裂く。汝を手折り——』
「何時でもいいけど」と僕はさえぎった。「無駄だよ。アンガスはもうここで働いてないから」
『はあ? だって——』
 彼——男の声だ——は、言葉を飲みこんだ。少しの沈黙の後、電話は乱暴に切られた。
 発信者通知の番号を押してみたが、相手は非通知だった。当然だろう。これで片づいたとも思えない。
 予想通り、その日の夕方にまた『ガスはいますか?』という電話がかかってきた。なめらかな女性の声だった。アンガスが働き出してからこっち、女からの電話など一度しかなかったし、それもアンガスの彼女のワンダからで、こんなきれいな声はしていない。むしろ、赤ん坊の頃からフィルターなしでマルボロを吸いつづけてきたような声だ。
「悪いけど」と僕は答えた。「アンガスはもういないんだ」
『まさか、そんな』彼女の声が乱れた。『今すぐガスに話さないと。その、緊急事態って感じなの』
「感じだけ?」
『は?』
「いいんだ。なあ、アンガスはここを辞めたんだ。本当にね。お仲間にも、そう伝えておいてくれないか」
 沈黙。それから、動揺した口調が答える。
『一体、何のこと……』
 僕はアプローチの方向を変えてみた。
「君の名前を教えてくれないか? アンガスも落ちついたら、うちに電話をくれるかもしれない。君はアンガスの友達なんだろ?」
 軽い、高らかな笑い声が聞こえてきた。
『ええ、そうよ! 当然! だから彼と話をさせてよ。あっちだって私と話がしたい筈、本当よ!』
「ああ、そうだろうとも」お互いに心のこもらない会話だった。「でも、いないんだ。アンガスはどこかへ行ってしまった。君には気の毒だけど。なあ、名前と電話番号を教えてくれないか。アンガスから連絡が来たら、君から電話があったと伝えておくよ」
 ためらうような間があった。それから、冷ややかな声がする。
『そうね。サラ・グッドから電話があったと伝えて。彼、私の番号は知ってる筈だから』
 666か?
 彼女は静かに電話を切った。僕もそうした。カウンターの向かいの鏡に、僕の憂鬱そうな顔がちらっと映った。
 サラ・グッドときたか。三百年以上前、セイラムの魔女裁判で最初に吊るされた少女たちの一人の名前だ。可愛いことを。
 まあ、ある意味喜ばしいことかもしれない。今どきの若者の中にも、歴史の授業を真面目に聞いている者がいるのは。


 六時半になると、店内には立見の席しか残っていなかった。必要なシャンパンの量も手伝いの人数も見誤っていた、と僕は思い知る。こんなに大勢の黒い口紅をつけたティーンエージャー——の男女——を一度に見るのも初めてなら、ハーレー乗り以外でこんなに鎖をジャラジャラつけている中年男たちを見るのも初めてだった。
 何であれ、人々が本を読んでいる光景はいいものだ。特に本など娯楽の内に入らぬ、というような人々が読む姿は喜ばしい。後は、家具が壊されたり、天罰の雷が書店を打ち据えることのないよう祈るばかり。
 隣の建物へ走っていくと、僕は営業時間が終わったばかりの旅行エージェント会社の娘たちに、列整理の手伝いをたのみこんだ。
 七時十五分になっても、我らが作者様は現れず、客は苛立ちはじめていた。トイレの前には女性たちの列がのび、ソファの周辺では鉤十字の元祖についての刺々しい議論が白熱しはじめる。地元の新聞記者が僕をつかまえ、去年巻きこまれた殺人事件について聞き出そうとしてくる。僕は、安売りのシャンパンをあおって倉庫に引きこもりたい衝動と戦っていた。
七時半、入り口周辺がにわかに騒がしくなった。数人の、見るからにご一行という人々が入ってくる。すらりと足の長い女性が三人、大手出版社の社員というよりちょっとした淫魔サキュバスという格好だ。ぽっちゃりとした眼鏡の男が僕を脇に引っぱっていって名乗った。
「ボブ・フリードランダーです。ガブリエル・サヴァンの広報担当をしている」
 広報担当? 楽しげな仕事だ。
 フリードランダーは何か続けたが、僕にはほとんど聞き取れなかった。なにしろ次の瞬間、ベストセラー作家その人が、店内へお姿を現したからだ。
 ガブリエル・サヴァンは背が高く、まるでモデルのように均整の取れた体つきをしていた。事実、歴史ロマンス小説の表紙も飾れそうに見えた。日焼けした肌、額に軽く乱れた黒髪、澄みきった青い瞳、白く輝く歯。ラメでも塗っていそうな歯だった。サヴァンの右耳にも何かがきらめいて見える。レザーパンツの上に黒いマントをまとった姿だったが、驚いたことにそれを見ても、誰ひとり笑わなかった。
「素敵じゃないかね」
 広報担当にうやうやしく案内されてきたサヴァンが、僕の店をそう褒める。
「こぢんまりとはしているが、悪くない感じだ」
「雰囲気がある」フリードランダーが素早く言い直した。「実に、雰囲気のいい店だ」
「心がけてるんで」と僕は答えた。
「ああ、それはいいね」サヴァンが僕を励ます。ちらっと広報担当の方を見た。「ボビー、飲み物はないか? 干からびてしまうよ」
 フリードランダーが神経質な咳払いをした。甘ったるいアフターシェーブローションに混ざって、ガブリエル・サヴァンからはマウスウォッシュとバーボンの香りが漂ってきた。むしろ大半がバーボンだった。
「大したものではないけど、シャンパンなら用意してあります」
 僕が答える。
 ガブリエル・サヴァンは、ミルクを差し出された吸血鬼のように嫌な顔をした。大きく唾を飲み、口を開く。
「参ったな。さっさと片づけちまおう」
 据えられたアンティークのデスクへ、サヴァンはさっさと歩み寄った。待ちかねた聴衆の熱狂的な拍手が、店の天井にまで響き渡った。
「新刊のキャンペーンツアーで疲れているものでね」
 広報担当のフリードランダーが謝罪がわりに説明した。
「三十日間で二十都市を回って……朝の四時からラジオのインタビューをしたり、ケーブルテレビの取材を受けたり、ブッククラブの昼食会に出たり。一日で書店のイベントを三件回るなんてこともザラだ。ガブリエルはもうくたくたなんだ」
「あなたも大変ですね」
 彼は笑った。眼鏡の向こうで、人の良さそうな目は、だが面食らうほど鋭く僕をうかがっている。
「まあ、それなりにね。君も小説を書くんだろ?」
「少しだけ」
 ありがたいことに、出版社に町から町へ引き回されるには足りない程度だ。
「謙遜はいらないよ。君の『殺しの幕引き』を読んだ。とても知的だったね」
 この男はよほど事前の下調べが好きか、それともゲイかだ。僕の本はあまり一般的な読者がつくタイプではない。
「だが、何か一ひねりが必要だな」フリードランダーが続けた。「売りが要る」
「主人公がゲイのシェイクスピア役者、ってだけじゃ足りませんか?」
「足りないね。ああ。ガブリエルを見たまえ。彼はそれは見事な、文壇からも評価の高い、だが読者が見向きもしない文学作品を何年も無為に書きつづけてきた。それが今や、どうだ? オカルト探偵サム・ヘインズを書き出して——そこからは説明の必要もあるまい」
 オカルトとロマンスのごてごてした詰め合わせ、とサヴァン当人が最新作を朗読する声を聞きながら、僕は思った。サヴァンはヴィンセント・プライスを筋肉質にしたような古風な男前で、聴衆の心はすっかり鷲掴みにされていた。彼が読む間、皆、まさに墓場のような静寂を保っている。囁き声も、忍び笑いもなく。
 朗読が終わると、読者からの質問タイムが始まった。矢継ぎ早に質問が浴びせられていく。ファンたちは「アイデアの源泉は?」から——この問いにサヴァンは美しい鼻をくいと上げただけで次の質問に移った——「誰かつき合っている相手は?」まで、何でも知りたがった。
「僕は、読者たちとつき合っているようなものだよ。こうして皆の顔を見てね」
 サヴァンは甘ったるい声で言って、額を指先でコツンと叩いた。忙しいせいで頭痛がするのか、それとも第三の目でもそこにあると言いたいか。シャンパンの助けもあって、ファンはこれにも大喜びだった。
 広報担当のボブ・フリードランダーは話に耳を傾けながら、やけ食い気味にピザロールを口につめこんでいた。時おり、僕に気まずそうな微笑を向ける——たとえば、サヴァンがありがたくも僕のことを“アンドリュー”として皆に紹介してくれた時とか。
 やがて、聴衆から「新作の予定は?」という質問が出た。どうやらこの問いこそサヴァンが待ちかねたものだったらしく、彼は立ち上がり、バサッとマントを翻した。
「皆がよく知っているように、僕はここまで、オカルトやそれに関わる人々の物語を書いて成功してきた。しかしだね、今僕が取りかかっている作品はただのフィクションではない。リサーチする内に、僕はね、この現実に、秘密の、邪悪な宗教集団が存在するという証拠を発見したんだよ。彼らは、この二十年あまりに亘って若者や心の弱い者を取りこんできた。まさに今この瞬間、この都市に、実在するカルト教団だ。僕は次の本でそのカルトの存在と、彼らを率いる教祖の正体を暴くつもりだ」
 フリードランダーの手から紙皿が落ちた。
 木の床にピザロールが散らばる。拾おうと身を屈めた僕は、視界の端で、彼が震えているのを見た。顔を上げる。フリードランダーの顔は真っ青で、冷や汗にギラついていた。怯えきった表情だった。
 僕は振り返った。ガブリエル・サヴァンは読者たちへ満面の笑みを向けており、読者たちのほとんどは笑顔で口々に何かを話していた。厄介なカルト教団の化けの皮が剝がされてベストセラーの棚を飾ると聞き、喜んでいるようだ。
 だが、人垣の後方に、数人の娘たちが立っていた。黒ずくめのレザーやレースを身にまとい、ハロウィンの魔女のような髪と化粧をしている。カサンドラ・ピーターソンの演じた“エルヴァイラ”のようだ。
 この娘たちだけは、ガブリエルに敵意のまなざしを向け、何か囁き交わしていた。


「本当に、この家大好きよ。幸せな思い出がたくさんあって」
 毎月一度土曜日に、母のリサと一緒にブランチを取る。サンフェルナンドバレーの北部、ポーターランチにある先祖ゆずりの古い家で。
 このブランチの習慣は、僕がスタンフォード大学を卒業し、家に戻るつもりはないと母に宣言した時からのものだった。息子の独り立ちなど珍しいことでもないし、ショックを受けたり悪いニュースとして受けとめられる必要もない筈だが、リサは父の死後も再婚しなかったので——求婚者は列を成していたが——彼女に残されているのは一人息子の僕だけだった。リサ当人が、毎度のごとく、持ち出すように。
「いい家だよ」
 僕も同意した。
 家には、ヤシの葉とシナモンとリンゴの香りが漂っている。あたたかく、クリスマスを思わせる匂いだった。今でもここに来ると、どこかしらなつかしい気持ちになる。
 僕は、この家の玄関ホールで生まれて初めての一歩を刻み(その後に続く逃走の歴史の第一歩でもあった)、近隣の静かな道路で運転を覚えた。初めての、慌ただしい性的接触を持ったのもこの家の二階のベッドルームで、飾り梁の下、ロバート・レッドフォードが少年のような笑顔を見せる“ナチュラル”のポスターに見下ろされてのことだった。
「でもねえ、一人にはちょっと広すぎるわよね」
 リサは、初めて十六もの空室の存在に気付いたかのように言った。
「どこかに引っ越すっていう手もあるんじゃないかな」
 僕は適当な返事をする。だが母は、またしても僕の予想を上回った。
「私が引っ越したら、その後……ねえあなた、この家、あなたとジェイクが暮らすのに丁度いいと思わない?」
 ホワイトチョコレートと洋梨のタルトレットを気管に吸いこんでしまった僕は、それから数秒、デパートで食器を選んでいるジェイクと僕自身の幻覚を見ながら、これがこの世の見納めになるのかともがき苦しんだ。
「ダーリン」
 リサは、やっと呼吸を取り戻した僕に、のどかに忠告する。
「食べながらしゃべっちゃ駄目よ」
「ジェイクと……僕が、この家でって。冗談だろ?」
「どうして駄目なの? あなたは彼をとても好ましく思っているようだし、それに彼は——彼は……」リサはジェイクに当てはまる素敵な言葉を探そうとした。「とても、無駄のない感じの人じゃない」
 どうして、と言われても。駄目な理由が山ほどありすぎて、僕は何も言い返せなかった。何が嫌と言って、ほんの一瞬でも、可能性を検討してしまった自分が嫌だ。
 隙ありと見て、彼女は本格的な攻勢に移った。
「ここのところ、あなたが元気そうにしていてとても嬉しいわ。でもねアドリアン、そんなにがむしゃらに働かなくてもいいんじゃなくって?」
「無理はしてないよ」
 彼女は言い訳無用とばかりに首を振った。
「こんなに景気の悪い昨今だもの、特に小さなお店なんて大変でしょ?」
 その小さなお店を経営するのが実際どれほど大変なことなのか、かけらも想像できていないくせに、そう言う。
「それにあなたはあのお店を広げたいとか言い出すし、ダーリン、また借金なんかして、余計なストレスがかかるんじゃないかと心配で仕方ないのよ。この家ならお金の心配をせずに自由に住めるじゃない」
 僕はただ、間抜けに言い返すことしかできなかった。
「そうだろうけど、こんな家を維持していく余裕はないよ」
 物分かりの悪い僕に、リサは菫色の目を見開いた。
「あらあら、あなたはいずれとても裕福になるじゃないの、ダーリン」たしなめるように、「ミスター・グレイセンを説き伏せれば、あなたの信託財産からそれくらいの額は出せるように手配してもらえると思うわ」
「その話はもういいから」
 不思議なことに、祖母が僕に遺した信託財産は、母が認めない目的のためには指一本ふれられない金なのに、こういう時には使いたい放題になるのだ。
「お父様が悲しんだことでしょうよ。あなたがいつかこんな風に、生活の糧を得るために自分の健康を犠牲にして働くなんてことを知ってらしたら——」
「リサ、つまりどういうことなんだ?」僕は無理に割りこんだ。「この家を手放す予定なのか? それでこんなことを言い出したんじゃないのか?」
 彼女の頬がピンク色に染まって、僕は仰天した。
「ええ……まあ、そんなところなのだけれど……」
 あまりにもリサらしくない言い方だった。
 それきり続けようとしないので、僕がうながす。
「それで?」
「ええ、実はね。私、再婚しようかと思ってるの」


■2


 母の言葉に、沈黙が落ちる。ダイニングルームの半ばを占める荘厳なモミの木の枝の間を、クリスマス飾りがパサッと落ちていくのが聞こえた。
「……何だって?」
「再婚を考えてるの」
 母は、可憐に頬を染めた。
「僕の知ってる人?」
「ドーテン議員よ」
 僕のフォークが銀色のアンダープレートにガチャンと音を立てた。
「議員? それが呼び名? フルネームはなし?」
「何だか怒っているみたいね、アドリアン」母が言い返す。「気に入らないの?」
「ドーテン議員が? まだ何とも。その議員さんと僕には面識か何かあったっけ?」
 リサはキッと目を細めた。慎重に、だがはっきりと言い直す。
「あなた、私が再婚することに反対意見をお持ちなのかしら?」
 僕が? どうだろう。こみ上げてくるのは、何というか、急ブレーキとクラクションとガラスの砕ける音が一度に押し寄せたような感覚で、理性的な反応とは言えない。だが、リサの再婚は理にかなっている。息子の僕から見ても母はまだ若いし、それに息子の僕から見ても、美人だ。
「いや。勿論、賛成だよ」
 僕はそう答えた。二人して、その口調の響きを注意深く聞いていた。
 もう少し熱意をこめて、
「ああ、賛成だよ。リサが幸せなら。ただ……とにかく、いきなりのことで。だろ?」
「そうなのよ!」
 彼女はさえずった。だから最高でしょ、と言わんばかりだった。


 目を覚ますと、巨大が影がぬっとのしかかってくるところだった。まだ寝ぼけたまま、僕は目を見開く。
「いいから、大丈夫だ。俺だ」
 ジェイクがそう言いながら、ベッドの中へすべりこんできた。僕を抱きよせる、彼の手も足も氷のように冷たかった。
 僕は緊張を解いたが、心臓はまだ高鳴っていた。
「今夜は来られないんじゃなかったのか?」
「ああ、まあな」
 ジェイクは黙った。
 レースのカーテンごしに街灯の光がさしこみ、ガラス窓の雪の結晶模様を壁に映している。ポツポツと、窓に小さな音が当たっていた。
「雨?」
 僕は、ジェイクの胸にのせていた頭をもたげる。
「降り出したばかりだ」
 ジェイクは冷たい手で僕の背中をなで下ろし、身震いする僕の尻を、気がなさそうにつかんだ。
「また一体、出た」
 まだ目覚めきっていないせいで、一瞬、ジェイクの言葉の意味がわからなかった。
「何が、また一体?」
「DBだ」
 DB——警官たちは死体デッドボディをそう呼ぶ。ジェイクが殺人課の刑事である以上、それがただの死体でないのは僕にも見当がつく。やっと、数日前のジェイクとの会話を思い出した。
「つまり、また儀式か何かで殺されたってこと?」
 ジェイクがうなずいた。
「おそらく。今回の死体は古い。おそらく一年ほどか、かなり腐敗している。彼が埋められた場所の木の幹に、いくつかの印が刻まれていた」
「印?」
「何かのシンボルだ。何を意味するものなのか、今調べさせている」
 ジェイクはまた僕の背をなで、指先で怠惰に、背骨をひとつずつなぞった。
「あの手のイカれたものを見るのは初めてじゃないがな。ヤギの生首とか内臓を抜いた猫とか。一度なんか、牛の舌が木に打ち付けられていた」
「そりゃ変わった下ごしらえだね」
 ジェイクが鼻を鳴らした。
「おかしな奴だ」
「この間は、ふざけた連中だって言われたな」
 その言葉が、この春のさびれた黄金郷で一緒にすごした休暇の日々をよみがえらせたのか、ジェイクが微笑んだのを、見るよりも肌で感じた。
「ロサンゼルス郡には、それこそ五万人もの、ブードゥーなどの民間信仰の信者がいると考えられている。だが今回のは……どこか、違う」
 ジェイクは黙った。その脳裏にどんな光景が浮かんでいるのか、想像したくもない。
「アドリアン。お前本当に、アンガスがどこにいるか知らないんだな?」
 僕はごろりと転がって頬杖をつき、薄闇ごしにジェイクの表情を見ようとした。
「まさか、本気じゃないだろ。アンガスが?」
「話を聞きたいだけだ」
「ジェイク、アンガスがこんなことに関わっているわけがない。そのくらいは僕にだってわかる」
「関わっているとまでは言っていない。だがもし、あの手の連中と関わっていたなら、何か小耳にはさんでいるかもしれん」ジェイクが淡々と聞いた。「アンガスをあの牧場にやったんじゃないのか?」
「まさか!」
 正直なところ、アンガスをあのパインシャドウ牧場——僕が昔、祖母から受け継いだ家——へ送ることなど、頭をよぎりもしなかった。こんな単純な解決策を見落としていたとは我ながら驚きだ。
 間を置いて、僕は続けた。
「アンガスがどこにいるのかは知らない。金を渡して、どこかへ行くよう言っただけだ」
「心当たりは?」
 僕は首を振った。雨音は強さを増している。二人で、しばらくその音に耳を傾けていた。
 ジェイクが僕を、また引きよせる。僕は彼の胸元に頬をのせ、心臓のリズムを聞いた。
 口を開く。
「もしアンガスが電話してきたら、何て伝えようか?」
「何でもかまわんが、とにかくあいつを呼び戻して、話が聞ければ」
 そのまま、しばらく二人で横たわっていた。ジェイクの、気だるい愛撫に誘われて、僕は半ばまどろんでいた。
 ジェイクの声が沈黙を破る。
「どのくらい、疲れてる?」
 僕は、クスッと笑いをこぼした。


 シーツにもつれて、温かな二つの体が動く。肌にふれるざらついた顎の感触、腕や脚の手触り、お互いにふれ合った胸の、かすかな産毛の感触。やわらかな唇、睫毛、なめらかな髪……。
 ジェイクに導かれるままうつ伏せにされ、僕は脚を広げる。尻の間に温かなジェルを塗り付けられて、ぶるっと震えた。ジェイクは慎重に、指先だけを押し入れ、反射的に固くなる体をなだめていく。いつも丁寧で、時間をかけて——もっとも近ごろ、僕の体は彼の侵入にも充分なじんできていたが。
 僕が吐息をこぼし、押し返すと、ジェイクの指はもっと奥へ、暗く熱い場所へとすべりこんでいく。僕は囁くようにねだった。
「もっと、ジェイク……」
 二本目の指が入ってきて、少し翻弄するように動く。僕は息をつめた。
「いいか?」
「わかってるだろ」
 僕は両膝を体の下に曲げ、誘うように尻を上げる。
「ジェイク、もう……」
 だがかわりに、焦らしながら三本目の指が入ってきて、甘美で狂おしい刺激をじっくりと与えられる。僕は呻いた。
「なあ、さっさとしてくれって——」
「するって、何をだ?」
「早く挿れろって」
 ジェイクの囁きが、僕の裸の背をくすぐる。
「よく聞こえなかったな」
「ジェイク」僕は彼の手に体を押しつけながら、懇願する。「挿れてくれ……お願いだ」
 これぞ、魔法の一言。
 ベッドのスプリングをきしませながら、互いに位置を整える。僕は手と膝をつき、ジェイクはその後ろに膝立ちになって、まだ僕の尻をなでていた。彼の屹立の先端がふれただけで、僕の、すでにほぐされた筋肉は彼を従順に受け入れていく。手で体を支え、ジェイクのペニスを深々と奥に呑みこんで、僕は腰を揺すった。ジェイクが応えて、突き上げる。
 すぐに、お互いよくなじんだリズムで動き出した。ジェイクが激しく腰を突きこみながら、右手できつく僕の腰をつかみ、固定する。左手で僕のペニスを包み、上下にしごいていたが、その手のリズムも乱れはじめていた。
 僕は右手で体重を支えると、自由になった左手をジェイクの手にかぶせ、一緒に動かした。
 もう、たっぷりとお互いの体を知りつくしている。お互い、何が好きなのか、どのタイミングがいいのか。
 心地よく、よくなじんだ行為——だがそれでも時に、ジェイクとの行為はまるで予期していない瞬間に、僕を芯から揺さぶる。
 今のように。
 荒れ狂う血がこめかみでドクドクとうずき、全身の血管にあふれ出して、僕の耳には荒々しい二人分の息づかいも、肌がぶつかり合う音も、マットレスのきしみももう届かなかった。ジェイクの熱い息が肩甲骨の間にくぐもり、背すじを小さな刺激がチリチリと走り抜けていく。その間もジェイクの熱に奥を突き上げられ、擦られて、快感が波打つ。なめらかな動きで引き抜かれては、深々と貫かれた。幾度も、幾度も。
 僕は、ついに屈服してジェイクにすべてをゆだね、右手でシーツをつかんだ。ただひたすらに、もっと深く、激しく、ジェイクが欲しい。
「くそ、ベイビー……」
 ジェイクがくいしばった歯の間から呻く。全身に力が張りつめて腰の奥にたぎる熱で何も考えられなくなっていたが、僕はそれでも、かすかな笑みを浮かべた。
 まるで、僕のものを握りこむジェイクの手のように、体中の筋肉がきつく締まる。ほとんど至福に近いオーガズムが、神経や筋肉、骨のすみずみにまで満ちあふれ、稲妻の一撃のように僕をとらえる。重なり合った指の上に、精液が飛び散った。
 ジェイクの筋肉に強い力が張りつめる。彼はまるで痛みに耐えるかのような声をこぼした。僕の中に奔流がほとばしり、ジェイクの熱を感じる。
 ぐったりと崩れた僕の上に、ジェイクの体が覆いかぶさった。腹の下のシーツは濡れているし、尻からは精液がつたい出している。それでもジェイクの力強い腕で、熱く汗まみれの抱擁に包まれて、快感のこだまに溺れたまま、僕は指一本動かしたくなかった。
「今日ずっと、このことを考えてた……」
 そう洩らす、ジェイクの声はざらついていた。
「お前は、最高に気持ちがいい」
 僕はうなずき、何とか呟きを返した。
「すごく、よかった」
 本当に、ジェイクと一緒にいるのがどれほど気持ちいいのか、今でも時おり驚かされる。ジェイクの抱えこんだ山ほどの困難や、多少倒錯した趣味があっても。
 ジェイクが、僕のうなじに唇を押し当てた。心臓がひっくり返った気がした。
 セックスはたしかに最高だが、何よりも、こんな風に静かで優しい一瞬……。


「リサは再婚を考えてるんだって」
 二人とも充分に息を整えた後に、僕はそう彼に報告した。
 ジェイクは気のない呟きをこぼし、枕に乗せた頭を回して、僕を見た。
「いや、何と言うか、ちょっと変な感じがするだけだよ」
 口には出さない彼の疑問に、僕が答える。
「これまで再婚のチャンスなんて山ほどあった。もっと前に再婚していたって何もおかしくなかったし。ただ……リサはいつも、死んだ父だけを愛してるとか何とか、そんなことばかり言ってたから」
「相手は知っている男か?」
 僕は首を振った。
「ドーテン議員だって。名前は聞いたことがあるけど、会ったことはない」
「どんな男か調べてやろうか?」
 ジェイクはおもしろがっているようだった。
「いいさ」僕はあくびを噛み殺した。映画“チャイナタウン”のクライマックスのセリフを使う。「忘れろ、ジェイク。ここはチャイナタウンだ」
「残念ながらここはパサデナだがな。心配ない、お前ならうまくやれるさ」


 アンガスは個人的なことをぺらぺらしゃべるようなタイプではなかった。逆にそのせいだろう、彼が洩らした些細な情報を、僕は覚えていた。彼が、スノーデン教授の教育アシスタントをしていると言っていたことも。
 いくつかの電話の末、大した手間もなく、月曜に大学のバンチホールでG・スノーデン教授の“人気映画やフィクションに見るオカルト”の講義がある、という情報を得られた。
 カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLAは、ひとつの小さな町のようなものだ。中にはレストランや店があり、専用の警察があり、消防署があり、大学用のラジオやテレビ局まである。それどころか『レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーのための情報センター』まであった。僕の時代にはどうだったのだろう。父はスタンフォード大学の卒業生だったから、母のリサは僕も父に敬意を表してスタンフォードに行くべきだと思っていたし、僕にも異論はなかった。なにしろスタンフォード大学はサンフランシスコと、ゲイコミュニティから近い。
 だがUCLAにも友達がいたし、大学の色々なイベントに遊びに来たこともあって、構内にはなじみがあった。バンチホールは彫刻庭園の近くだ。二万平方メートルもの広さがある庭園には、芝生と木々の間にマチスやロダンを始め様々な彫刻が飾られている。春、ジャカランダの木々に花が咲くと、本当に美しい庭だ。
 今日は秋も終わりの、陰気な曇り空で、花も咲いていなかった。葉の落ちた木々と彫刻の殺風景さが、キャンパス内でも際立って不細工なバンチホールの建物とよく似合っていた。穴だらけのコンクリ製クラッカーのような建物なのだ。
 1209Bの教室は簡単に見つかった。暗い室内にすべりこみ、僕は後方の席に座った。二百席ほどありそうな部屋だが空席は少なく、どうやらスノーデン教授は人気があるか、単位を簡単にくれるかのどちらかだ。
 教室前方のスクリーンに“遊戯王”のアニメが映し出されているところだった。
 ちらちらと、鋭いシルエットでキャラクターたちの前を横切りながら、スノーデン教授が“子供向けアニメに含まれるオカルト要素は危険である”という一部の主張をこき下ろしていた。イギリス訛りを含んだ、いい声だった。
「こうした作品において友情や絆、勇気というテーマの存在は明白であるにも関わらず、キリスト教右派は、サタンが遊戯王、ポケモン、ハリー・ポッターなどを用いて子供たちをオカルトに目覚めさせ、悪魔に親しませようとしているのだと主張している。要は、どうせ子供を洗脳するなら、アニメではなくパット・ロバートソンに、というわけだ」
 キリスト教右派のテレビ伝道師の名前を挙げる。教室が笑いに包まれた。
 スクリーンでは、女の子のアニメキャラがセリフを言っているところだった。『これは私たちの友情の証。遊戯が戦う時、どんなにつらい時でも、これがあれば一人じゃない!』
 スノーデンは皮肉な口調で、
「まあ、遊戯は古代エジプトのファラオである“闇遊戯”に憑依されている以上、どうせ一人にはなれないのだがね」
 またも笑い声。皆、楽しんでいるようだ。
 いくつか上っ面の議論が交わされた後、スノーデン教授が映像を消した。誰かがスイッチを入れ、部屋の電気がつく。授業のまとめが述べられると、生徒たちは立ち上がり、がやがやと本やプリントをかき集め、次のショーに向かうべくドアから出て行った。
 スノーデンは教室の前列に立ち、彼の注意をわずかでも引こうとするけなげな学生たちの一群——ほとんど女の子だ——に囲まれていた。学生たちを苦もなくあしらう彼の様子を見ながら、僕は列を下って近づいていく。
 スノーデン教授は、細身で中背、厭世的で高慢そうな顔立ちで、銀の髪を長く垂らしていた。どことなく、アラン・リックマンがハリー・ポッターシリーズで演じたスネイプ教授を思わせたが、こっちの教授はTシャツにリーバイスのジーンズ、ビルケンシュトックのサンダルといういでたちだった。Tシャツの胸には“私はサタンではない。寵臣の一人ではあるが”というフレーズが記されている。
 スノーデン教授が微笑むと——珍しいことのようだったが——ぱっと顔全体の印象が変わり、彼が生徒たちを惹きつける理由がわかった気がした。僕はおとなしく人垣の外にとどまり、最後の一人、黒いモヒカン刈りにハート型の眼鏡で胸に逆十字のネックレスをかけた娘が、ちらっと好奇の目を僕に向けて去るまで待った。
 僕が近づくと、スノーデン教授はビデオデッキからテープを取り出しているところだった。顔を上げた彼の目が、照明の下で見事な緑色に輝いた。コンタクトだろう、と僕は思う。鮮やかすぎる。
「興味深いお話でした」僕は話しかけた。「今のお話だと、あなたの意見では、メディアは若者や流されやすい人々に偏った影響は与えていないと?」
「その点は、弁護しかねるね」
 スノーデンは物憂げなイギリス訛りで答えた。小首を傾げる。
「君は、講義の終わり頃に来たね。見学なら、着席の前に一言断ってもらえるとありがたい」
「講義でオカルト的な事柄を取り上げることについて、批判はありませんか?」
「ここはUCLAだよ。勿論、活発な反論と議論を期待するね。君は——?」
「好奇心で聞いてるだけで」
 彼はひょいと片眉を上げる。
 僕は自己紹介をし、自分の書店でアンガスを雇っていたことを話した。礼儀正しく、邪魔はしたくないが少し話せないか、とたずねる。
 スノーデン教授はよく日焼けしていて、引き締まった体躯だった。磨いたチーク材を思わせる。とは言え、全身からはあふれるようなエネルギーの発散が感じられた。
「ああ、君がアドリアン・イングリッシュか」彼は呟いた。「ほほう」
 彼が僕をじろりと品定めした目つきは、ストレートな男には似つかわしくないものだった。
「アンガスから、君の話は聞いたことがあるよ」
 意外ではない。幾度か、きちんと仕事を片づけないアンガスを僕が叱った時、彼はスノーデンや大学のせいにしようとしたのだった。スノーデンに対しては僕や書店の仕事を言い訳に使っていても、何の不思議もない。
「アンガスに、最近会いましたか?」
 その問いに、スノーデンはひどく構えたように見えた。部外者の質問に警戒するのは当然で、僕が勘ぐりすぎているだけだろうか。だが結局、答えてくれた。
「アンガスは金曜と、昨日の授業を休んだ。無断で」
「状況を考えれば無理もないかもしれません」僕は応じる。「アンガスが、以前のクラスメイトから嫌がらせを受けているのは知っていましたか?」
 スノーデンはまた、王族気取りかというほど高慢な仕種で片眉を上げた。やがて、答える。
「いいや」
「アンガスとその学生たちは、あなたの“実践魔術”とかいう授業を取っていたらしいんですが。現代社会における魔術の実態。ともかくその中の、やる気にあふれた悪ガキが調子にのって、自分たちで魔術集会を始めたらしい——まあ、すでにご存知かと思いますけど」
「馬鹿馬鹿しい」
 ぴしゃりとスノーデンが言い切った。
「何が、馬鹿馬鹿しいと?」
「何って、そんな、学生が——私の生徒たちが——魔術を実際になど——」
 言葉が途切れた。
 僕は肩をすくめた。スノーデン教授からはかすかな、パイプのいい匂いがした。僕も時々つけるドルチェ&ガッバーナのコロンの香りも。どこか、ほんの少し、気を取られる。
「君はその……クラスメイトたちが、アンガスに嫌がらせをしていると言うのかね? 嫌がらせとは正確に、どんなことだね?」
「呪い——まあ、脅しというかな。僕自身、何度かその電話に出ましたけどね、グラハム・ベルが電話の発明を後悔しそうな中身でしたよ」
 緑の目が刺々しく細められた。彼からそんな目つきでにらまれるのは、確かにあまりありがたい気分ではなかった。
 僕が、ジュッと焼け焦げることもなく無事に立っていると、やむなくスノーデン教授はたずねた。
「それで君は一体、こうして出しゃばってきて、どうしようというのだね?」
「まあ、あなたと話すのが第一歩ですかね。あなたがあの悪ガキどもに影響力を持つなら、あなたから一言注意してもらえれば片付く話かもしれないし。あの子たちは、単に電話での脅迫が連邦法と州法に違反しているって知らないだけかもしれないからね」
「もし無理なら——私が、彼らに何の影響力も持たなければ?」
「その時は、直接彼らと話す」
 スノーデンがいきり立った。
「話す? 一体誰と? 君は何故、私がその——非行少年どもを知っていると思うのだね?」
 ここに来る前から、無駄足になるだろうとは思っていた。アンガスがスノーデン教授をたよりにして、助けてくれると信じていたなら、当人が教授に相談していた筈だ。わかってはいたが、僕にはろくなカードがない。スノーデンだけが唯一の糸口だ。
 僕は口を開いた。
「心当たりがない割に、随分と言葉を濁しているようですが?」
 彼の視線が揺らいで、図星を突かれたのだと明かす。この男は、誰が関わっているのか知っている。さもなければ、心当たりがある。
「君こそうまく解決できる自信があるようだが、何故だね? 引っかき回しても事態を悪化させるだけだとは思わないのか?」
「僕の経験から言って、この手のことは、影に隠れているからこそ大きく育つものだ。光の下に引きずり出し、人目にさらされると、大抵はしぼんで消えてしまう」
「オカルト集団について、豊富な経験があるようだな?」
 嫌みたっぷりに、スノーデンが問いかける。僕は淡々と答えた。
「いじめっ子について、人並みに豊富な経験があるものでね。どうせ黒い服を着て下手な呪文の唱え方を覚えたとしても、一皮剝けば同じ動物だ」
 彼はデッキの電源を切った。僕に背を向けたまま、静かな口調で言う。
「確証はないが、少し思い当たることはある。私のやり方で対処させてもらってもいいかね?」
「本当に対処するつもりがあるのなら」
 ちらりと肩ごしに僕を見やり、スノーデン教授は歪んだ笑みを浮かべた。
「名誉にかけて、誓うよ」
 さし出された手は整っていて、強靭そうだった。
 僕は、彼と握手を交わした。温かな手で、ほどほどの力がこめられていた。“サタンの寵臣”の名誉をどこまで信じていいのかは、疑問符がついたままだったが。


 クローク&ダガー書店に戻ると、サヴァンの広報担当者、ボブ・フリードランダーが僕を待っていた。
「金曜のサイン会について、我々から礼を言っておきたくてね」
 我々って、誰だ。出版社のことか? 何しろガブリエル・サヴァンの姿はどこにもない。
「いや、お礼を言うべきは我々ですよ」僕もそう返した。「とても大勢のファンが来てくれて。これまで見たこともないくらい」
 アンガスも、ガブリエル・サヴァンのファンだった。サヴァンのサイン会を催すべきだと主張したのは彼で、その言葉は正しかった。大成功の一夜になった。アンガスが自分の目でそれを見届けられなかったのは残念だ。
「本もよく売れたならいいんだが」
「いい手ごたえでしたよ」
 フリードランダーは、あの夜サヴァンが本にサインをしていた机の前に立ち、正面の本棚の背表紙をじっと熟視していた。
 好奇心に駆られて、僕はたずねる。
「最後に彼が言っていたことは、本当なんですか? 新作で、実在するカルトを告発するというのは?」
 彼は苛立った視線を僕へ向けた。
「いいや。一体、ガブリエルが何を考えてあんなことを言ったのかわからんよ」
 爪先立ちになって、上の棚をのぞこうとしている。
「それじゃ新作の予定はないんですか?」
「まったくないね。話題作りの芝居だよ。下らん芝居だ」
 フリードランダーは、数冊の本を棚から抜いた。
「忘れ物をしたんですか?」
 僕はたずねた。フリードランダーの顔がさっと僕の方を向く。
「は? 何も。いや、その……実は、そうなんだ。君は、もしかして——ディスクか何か、見なかったかい?」
「どんなディスク?」
 好きなCDか何かか、と思いながら聞き返した。フリードランダーは焦り顔になった。
「フロッピーなんだ。リサーチ内容が入っていてね」
「この店でなくした?」
「俺じゃなくて」と苛立たしげに言い返す。「ガブリエルが、なくしたらしいと言ってる。金曜の夜はかなり飲んでいたからね、ご存知のように」
 ということは、ガブリエル・サヴァンはあのピチピチの革パンツのポケットにフロッピーディスクを入れて歩き回っていたのか? 僕は答えた。
「見慣れないディスクがあればもう目に付いているだろうと思うけど。でも、気をつけておきますよ」
 サヴァンがそうまでして肌身離さず持ち歩いていたということは、大事なものなのだろう。それなら落とすなと言いたいが。
 気乗りしない様子で、フリードランダーは僕へ向き直った。
「そうしてもらえると大変ありがたい」
 生気のない言葉だった。
「そのリサーチっていうのは」僕はたずねる。「ガブリエル・サヴァンが書いているかもしれない新作と関係あるんじゃないですか?」
 フリードランダーの眼鏡のレンズがギラリと光った。
「新作などない」
「でも、もしかしたら、実は?」
「君は何を言いたいんだ? わけのわからないことを言わないでくれ」
「ガブリエル・サヴァンもわけのわからないことを言っているんでしょう、これでお揃いだ。僕もただの好奇心で知りたいわけじゃない。最近、このロサンゼルスにその手の集団がいるという噂を聞いたものでね」
 ボブ・フリードランダーは僕をじっと見つめた。
「アドバイスをしてあげよう」彼は呟く。「次にそんな噂を聞いたら、両手でその耳をふさぐことだ」

--続きは本編で--

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