死者の囁き
アドリアン・イングリッシュ ミステリ2
ジョシュ・ラニヨン
■1
彼女は若く、愛らしく、だが死んでいた。完全な死体であった。
ひどい。これは、完全にひどい。
かつてラヴィニアだった存在は今や、白い手足が投げ出され、長い金髪が乱れた死体でしかなかった。目が見るのを拒否していた光景が、やっと、ジェイソンの恐怖に凍りついていた脳に伝達される——ラヴィニアのほっそりとした両腕は、半ばで切断されていた。
キーボードを打つ手をとめ、読み返して、僕は顔をしかめた。哀れなジェイソン。もう丸二日間もラヴィニアの死体を発見しつづけて、まだ一歩も先へ進めないでいる。
デリートキーを叩いた。
シェイクスピアのタイタス・アンドロニカスも不出来な芝居だが、僕のジェイソン・リーランドシリーズの続編“死に至る物語”はさらに輪をかけてひどいものだった。タイタス・アンドロニカスという、あまり知られていない作品をモチーフに使ったのも失敗だったが、失敗はそれだけではない。
ぐだぐだ思い悩んでいるところに、電話が鳴った。
『俺だ』
電話の向こうで、ジェイクの声がそう言った。
『今夜は行けない』
「かまわないよ」
と、僕は答える。
「期待してなかったしね」
沈黙。
僕は黙ったまま、沈黙がただ長くのびるにまかせた。僕らしくもない。これでも、普段はもっと人当たりがいい方だ。
ついに、ジェイクが呼んだ。
『アドリアン?』
「ああ?」
『俺は刑事だ。これが俺だ。これが俺の仕事なんだ』
「格好いいね、まるでドラマのセリフだ」何か言い返される前に続けた。「気にしなくていいよ、ジェイク。夜の暇つぶしがほかにないわけじゃなし」
またもや沈黙。
いつの間にか、文章を削除しすぎていたようだ。エディットを押してからアンドゥを押せばいいんだったか、それともただのアンドゥでよかったんだっけ? それともコントロール+Z? パソコンは万能、ユーザーは無能。
『楽しんでこいよ』
ジェイクがやけに明るく言って、電話を切った。
僕はダイヤルトーンに呟き返す。
「どうも」
この味気ない毎日こそ我が人生——詩人であればそう謳い上げたいところだ。
少しの間、僕はただそこに座って、ディスプレイで点滅するカーソルをぼんやり見つめていた。不意に、このままでは駄目だという焦燥がこみ上げてくる。何か変化が必要だ。小説を書き直すばかりではなく、もっと大きな変化が。
口の中でぶつぶつとぼやきながら、ファイルをセーブして画面を閉じる。指先ひとつですべてをシャットダウン。ほら、簡単だ。
僕は自分のフラットから出ると、階下の書店へ下りていった。従業員(かつ専属黒魔術師)のアンガスが、届いた本の箱をカッターで切り開いているところだった。
「しばらく留守にすることにしたから」
ベストセラーの表紙の血まみれの斧をうっとりと見下ろしているアンガスへ、僕はそう宣言した。彼の耳に聞こえているのかどうかは謎だ。アンガスはまばたきもしなかった。
骨張っていて背が高く、亡霊のように顔色の悪い青年だ。このアンガスに、ジェイクは悪意丸出しのあだ名を山ほどつけていたが、実のところ彼は頭も回るしよく働く店員なのだ。僕にとって重要なのはそれだけだった。
やっと、アンガスがぼそぼそと聞いてきた。
「何で?」
「休養が必要だと思ってね。ここじゃ気が散って執筆が進まないし」
アンガスは、ようやく陳腐で不気味な表紙から目を引き剥がし、眼鏡ごしの視線を僕へ向けた。
「何で?」
アンガス語にも、この数ヵ月で随分と慣れてきた。僕は答える。
「成り行きってやつさ。その間、店をたのめるか?」
棚にしまってある高級クッキーの箱を食い尽くしたり、店で黒魔術の儀式をやったりせずに?
アンガスは肩をすくめた。
「なんとか……学校が始まるまで二週間ですけど」
彼はカリフォルニア大学ロサンゼルス校で学んでいたが、一体何を専攻しているのか僕は知らない。文学——あるいは、悪魔教。
「二週間はかからないよ。何日か骨休みしてくるだけだ」
「どこに、行くんです?」
彼を雇いはじめて二ヵ月になるが、アンガスが僕の個人的な情報に興味を示したのはこれが初めてだった。
「北の、ソノラのあたりに別荘があるんだ。正確にはソノラの近くのバスキングという小さな町にね。そこに行こうかと思ってる」つけ足す。「今夜」
「今夜?」
「今、四時半だろ。六、七時間も走れば着く筈だ」
アンガスは無意識にカッターの刃に親指を当てながら、じっと考えこんだ。
「そんないきなりなの、店長らしくないですね」それが彼の結論だった。「店長のところの刑事には、なんて言えばいいんです?」
「あれはうちのところの刑事じゃないから。あれは、警察署の刑事だし」
僕は切り口上で言った。色々な意味で、あの男はうちのなどではない。
「とにかく、何も言う必要はないさ。どうせしばらく会う予定もない」
「あ……」
アンガスはカッターの刃を、小さな笑みで見下ろした。ホモの仲違いは彼に静かなる楽しみを提供したらしい。バラバラ死体の表紙にうっとりしたままのアンガスを置いて、僕は荷造りをしに二階へ戻った。数本のジーンズと歯ブラシを鞄に放りこむのにさして時間はかからない。冷蔵庫の中身をクーラーボックスに移して電源を切り、寝袋を引っぱり出して、ノートパソコンやCD-ROM、何枚かの音楽CDと着替えも詰めこんだ。
六時十五分すぎには、ブロンコに乗って平日の渋滞に邪魔されながら五号線に向けて走っていた。見渡す限り車のボンネットの海だが、かまうものか、水筒には熱々のゲバリアのポパヤンコーヒーが入っているし、スピーカーからはパティ・グリフィンの“フレーミング・レッド”が響いている。そして車はあるべき方向へ向かっていた——ジェイクから、遠くへと。
モジェイブを通りかかる時に、車を停めて給油した。実に風変わりなガソリンスタンドで、建物は先の尖ったユッカの木と山積みのタイヤに囲まれ、頭上には巨大な紫色のゴリラのバルーンが看板がわりに浮いている。砂漠の風にゆらゆらと踊るゴリラの下で給油しながら、“地獄の黙示録”ばりの見事な夕日を楽しんだ。どうしてか、ゴリラを見るとジェイクのことが思い出されてならなかった。
ジェイク。バックミラーの中で遠ざかっていく街の灯りのように、ジェイクへの気持ちも簡単に置き去りにできるものなら。
二ヵ月前、ジェイク・リオーダン刑事は僕の命を救った。短絡的なマスコミが“ゲイ切り裂き魔事件”と名付けた事件の中でのことだ。事件が片づくと、ジェイクはLA市警上層部から犯人の射殺や独断行動に対しての懲戒処分を受け、僕自身は、ジェイクからある種の申し出というか、つき合いの申し込みのようなものを受けた。
ジェイクはゲイ——ホモセクシュアル——だったが、あまりにも長い間そのことを隠し、自分自身を
秘密の奥底に押しこめてきたせいで、自分の本当の姿さえ忘れてしまったような男だった。
ジェイク・リオーダンはタフだし、頭も顔もいい。まさに僕の理想通りの男だった——出口のない強烈な自己嫌悪以外は。
だが、次第にちょっとしたこと——たとえばジェイクが僕にさわることすらできないとか——が少しずつ、重く、のしかかりはじめていた。
さわれない、というのは言いすぎか。ジェイクだって一度、僕の肩に腕を回してくれたことがある。ゲイ・バッシングの実態を描いたドキュメンタリー番組を見ていた時のことだ。さよならのハグもちゃんとこなしている。ジェイクはうぶでもなければシャイでもない、至って経験豊富な男だ。SMシーンにどっぷり浸かってクラブ通いもしていたし、セックスなどお手のものだろう。だが、いざ見つめ合いながらキス、という場面にさしかかると、途端にSMのご主人様は思春期のお子様と化してしまうのだった。
たとえば、初めて親密な雰囲気になった時のことだ。
ジェイクの唇が近づき、あと少しで僕の唇と重なるところだったが、彼は突然引きつった笑い声をこぼして頭を引いた。
「くそっ。……無理だ」
金の髪を指でかき回し、ジェイクはちらっと僕に斜めの視線を投げた。
「無理って? 僕にキスできないってことか?」
彼は首を横に振ってから、うなずいた。
「うがいも歯磨きもちゃんとしてるつもりだけど、デオドラントが足りないか? 一体どうしてなんだ?」
ジェイクの口からこぼれた奇妙な音は、笑いに聞こえないこともなかった。そのまま答えない。
僕は静かにたずねた。
「どうしてだ、ジェイク?」
ジェイクが一気に吐き捨てる。
「すぐ目の前にお前の肌が見えるし、毛穴が見える——いやお前の肌がどこかまずいってわけじゃない、誤解するな。だがひげのそり跡も見えるし、のびてきたひげもうっすらと見える。アフターシェーブローションの匂いもする。お前の口も……」手で短い、だが絶望的な仕種をした。「つまり——お前は、女じゃない」
「ばれたか」
冗談めかして返しつつ、僕は頭の中で必死に考えていた。
「てことは、まさかこういうのは初めて? 男とセックスしたことはあっても——」
「それとこれとは違う」ジェイクがさえぎった。「これは、まるで——デートだ。こんなのは……変だ」
変。鎖で縛ったり、目隠しして鞭で叩いたりするのが正常で、これは変か。
「じゃあ僕を縛って叩いてみるか? それでもいいけど、ただ明日の朝もちゃんと対等に接してくれよ」
「お前をそんなふうに扱いたいわけじゃないんだ」ジェイクは吐き出した。「個人的に知ってる相手じゃ、同じようにはいかない」
素晴らしい。この男にとっては、個人的なつき合いがある相手にキスすることより、行きずりの相手にレザーコスチュームを着せて苛める方が自然なことなのだ。その方が好きなんだろう、きっと。
「はっきりさせておきたいんだけど。僕とセックスしたくないってことか?」
「勿論、お前とセックスしたいよ!」
勿論。馬鹿な質問だったようだ。
「でも?」
ジェイクは苛々と言い返した。「知るか! とにかく、映画か何か見ないか?」
僕らは二人で、山ほど映画のビデオを見た。おかげで今や僕はスティーヴン・セガールやヴィン・ディーゼルが暴れるアクション映画のひとかどのエキスパートになりつつあり、この一ヵ月で子供時代を全部合わせた以上のスーパーヒーローものを見た。
映画だけが僕らのつき合いだったわけではない。二度ほど、外で緊張感あふれるディナーを取ったことだってある。正直、ジェイクは僕のような“カミングアウトしているホモ”と一緒にいるところを同僚に絶対見られたくないが、さすがに面と向かってそうとは切り出せない様子だった。
多くの時間、僕らは話をしてすごした。僕のフラットで。閉ざされた扉の中で。
心をさらけ出すような本音の話し合いとまではいかなかったが、ジェイクは家族や仕事の話をしてくれた。両親、兄弟が二人(一人は警察学校にいる)。ジェイク——ジェイムズ・パトリック・リオーダンがわずかも揺らぎのない
異性愛者だと信じて疑っていない人たち。
主にしゃべるのはジェイクの方だった。僕は聞き役だ。時おりジェイクが浴びせてくる質問を、僕はひそかに“ゲイのライフスタイルについて”という分類でまとめていた。「月に何回セックスする?」(年単位で数えないと計測不能)、「いつカミングアウトした?」(大学卒業後——母親からおしおきで家に閉じこめられない年になってから)、「相手の男をどこで探す?」(……殺人現場?)などなど。
ジェイクの方が年上で経験も豊富には違いないのだが、僕はたまに、彼のゲイの先輩か先生のような気分を味わわされることがあった。残念ながら、恋人気分になったことだけはない。
何となく一緒にすごしただけの、最初の一ヵ月。約束のキャンセルと言い訳ばかりの、次の一ヵ月。
始まる前からもう終わっている。
「あのさ」
ある夜、人目をしのぶディナーに四時間遅れでやってきたジェイクへと、僕は切り出した。
「こんなのただの真似事もいいところだよ。そろそろやめないか?」
ジェイクの黄褐色の目が僕の目を射た。ぼそっと言う。
「俺はお前と深い関係になるつもりはなかったんだ、アドリアン」
「安心しろ。なってないから」
「いや。もうなってる」
そう言って、ジェイクは大きな手で僕の手を包んだ。
どうかしている——だがそんな小さな仕種や出来事が、僕を引きとめていた。引きとめられたところで、そこに何があるわけでもないのだが。僕の生活も、ジェイクに出会う以前とほぼ変わりない。ただ電話の向こうからジェイクの声がするたびに鼓動がドキッとはねたが、それだって心臓の調子が悪いだけに違いなかった。
恋なんかである筈がない。僕はそこまで不幸でも破滅的でもないのだ。ホモセクシュアルであることで己を激しく憎悪している男に恋をするなんて、自殺行為だ。彼にとって、同じ性癖の僕もまた憎むべき対象かもしれないのに。
ジェイク・リオーダンのことは気に入っているにしても、別にお互い縛られているわけではない、と僕は自分に言い聞かせていた。誰かと出会うのも、新しい相手とつき合うのも自由な関係だと。
だが、それなら何故なのか。今夜のように直前の断りが入るたび、不満や怒りといった当たり前の感情だけでなく、痛みまでもがよぎるのは。
ベイカーズフィールドの休憩エリアで一息つくことにした。うろうろと歩き回って足の筋肉をのばし、移動販売車でしなびたブルーベリーベーグルを買い、車内のライトで地図を再確認する。
満月の光はまばゆいほどで、月光が照らし出した丘にオークの木々や農場の明かりが散らばっている。見渡す限りただ何マイルも伸びた空虚なハイウェイ。一面の星空。何もない世界。何マイルも何マイルも、一台の大型トラックだけを道連れに北へ走りつづけた。
オートクルーズ装置のおかげで一三〇キロ前後を保って気楽に走りながら、退屈な時間に、思い出ばかりが頭をよぎった。
目的地のパインシャドウ牧場を最後に訪れたのは、二十四年も昔のことだ。あの夏が終わってすぐ、祖母のアナが亡くなった。僕は八歳で、祖母とすごす牧場での夏休みは人生で一番幸せな時間だった。
祖母は、イングリッシュ家における伝説的存在である。街にジャズがあふれた狂騒の一九二〇年代、アナは時代の先端をゆく進んだ女性の一人だったが、上流階級の夫を捨てて故郷へ戻った彼女は自分の手で馬を育てはじめた。とにかく、気の向くままに何でもする人だった。僕の記憶の中の祖母は枝のようにほっそりして背が高く、白髪を短く切り、肌は濃く日焼けしていた。自分で手巻きした煙草をふかし、暴れ馬を見事に乗りこなし、イタリア語で悪態をついた。乳母がイタリア人だったのだが、あのよどみないイタリア語の悪態からして、なかなかの子供時代だったのだろう。
あの夏が、牧場ですごす最後の夏になるなんて、そんな予感はかけらもなかった。だがやきもきして待っていた母の元に僕が戻ってから二週間もたたないうちに、祖母は落馬で帰らぬ人となった。そして——母がいまだに我慢できないことだったが——祖母はすべての財産を僕に遺していた。死んだ父が母に遺した信託財産に比べればわずかなものではあったが、その金銭的な助けによって、僕はママのエプロンにいつまでもしがみつくことなく自立できたのだった。
二十一歳の誕生日に祖母の信託財産の半分を受け取ると、僕はその金で今のクローク&ダガー書店を開業した。残金の半分は四十歳になった時に受け取ることになっているが、それまで何とか毎年の税金を払いつづけなければならないことを思うと、まるで永遠先のようだった。
パインシャドウ牧場も祖母が残してくれた遺産のひとつだったが、牧場から家具をいくつか送ってもらっただけで、僕自身は二度と牧場に戻らなかった。思い出を、あるがままにしておきたかったのだ。
牧場の土地にはとりあえず管理人を置いていたが、こうして追憶とともに六〇〇キロの道のりを突っ走っている今、あの場所がすでに朽ち果てた廃墟と化していても何の不思議もなかった。
州道四十九号線が道幅を狭めながら山林の中を右に左にくねりはじめた頃には、もう夜の十一時近くになっていた。車の窓を細く開ける。流れこんできた夜風は驚くほど冷たく、澄んで、遠い雪の気配を含んでいた。
続く百キロほどはカーブが続き、前を行くボロボロのピックアップトラックの“URUGLY(てめえはブサイク)”というナンバープレートを眺めつつ、後ろのモンスタートラックからハイビームで煽られて走った。八キロに一度くらい、先が見通せないような急カーブがあり、そのたびに背後のモンスタートラックは大きく尻を振って対向車線にはみ出しては、数十秒ほどで体勢を立て直してギリギリで対向車をよけるのだった。車版ロシアン・ルーレットだ。
何度目かで、ついに賭けは裏目に出て、モンスタートラックは木材運搬トラックをすんでのところでよけながらカーブの外側にはみ出した。たちまちその姿は、ディーゼルの排気が漂う夜の向こうへと小さく遠ざかっていく。
残るは僕と、前を時速七十キロでのどかに走るピックアップトラックだけだ。サーモスのカップにコーヒーの残りを全て注ぐと、僕はラジオのつまみをあちこちいじって、心が引き裂かれそうな失恋ソングを探した。できれば、車の中で泣いているとか、ハンドルにしがみついて疾走しているような感傷的な歌がいい。大量にカフェインを摂取したというのに、重い瞼が今にも落ちてきそうだった。
疲労感が一気に高まり、ついに運転しているのか運転している夢を見ているのかさだかではない域に達していたせいで、あやうく道の分岐点を見逃してしまうところだった。
横道に入ってからの十五キロは、僕にとっても車にとっても刺激的で荒々しいドライブだったが、ついにサドルバック山の標識にさしかかる。次のカーブの向こうに、パインシャドウ牧場がある筈だ。
牧場への下り坂にさしかかり、ギアをローに切り替える。金属格子の
家畜止めの上を車がガタガタと乗りこえた。前方には牧場の建物が、月光を浴びてうずくまっていた——遠目で見ると昔のままだ。部屋の明かりも消え、家畜の囲いはからっぽだったが、それでもまるで家に帰ってきたような、誰かがそこで僕を待っていてくれるようななつかしさすら覚えそうだった。
家に近づくと、開いたゲートの頭上にぶら下がっている看板が目に入る。焼きつけられた黒い文字はかつては“パインシャドウ牧場”と読めた筈だ。
スピードをさらに落とす。闇から、ブロンコのヘッドライトの中に様々なものが浮き上がってきた。家の裏手の崩れそうな厩舎、傾いた風車、枝からぶら下がった壊れたブランコ——そして何か、地面にわだかまった影。
僕はブレーキを踏んだ。すり減った神経の見せる錯覚だと思いたかったが、低いエンジン音の中で座っていくら待っても、地面にあるそれは一向に消えようとしなかった。不用心かもしれないが、もうくたびれきっていたし、僕は車から降りた。
やはり錯覚でも、光のトリックでもない。それは人間だった。うつ伏せに、男が倒れている。
男の周囲をぐるりと一周した。澄んだ夜に、僕の足音が不似合いなほど大きく響く。壊れた雨戸が風にあおられて壁を打つ音が遠く聞こえていた。背の高い冬草を、夜風がざわざわと揺らしていく。
僕は、男のそばに膝をついた。
ヘッドライトの明かりで、横にねじ曲げられた男の顔が見えた。両目は大きく見開かれているが、もはや何も見ていない。肩が呼吸で動く気配もないし、吐いた息が口元で曇ることもない。男の背中、肩甲骨の間には、二十五セントコインほどの穴がきれいに開いていた。
僕は、ふうっと息を吸いこむ。殺人現場を見るのはこれが初めてではないが、今回もまた、現実を遠くから見下ろしているような浮遊感にとらわれていた。大体の場合、これは気絶の予兆だ。
顔を手でごしごしと擦った。まるでパーティでやる記憶ゲームのようだ——三十秒でどれだけそこにある物を覚えられる? 意識がひとつひとつの物に吸いよせられて、全体像が見えなくなっていく。
死体は六十代くらいに見えた。白髪まじりの髪は薄く、ぺったりしている。爪の間に詰まった汚れ。色褪せたジーンズ、チェック柄のネルシャツ、カウボーイブーツ。見たことのない男だ——少なくとも、覚えていない。
脈を取ろうと手首にふれた瞬間、地面が崩れたような衝撃が全身を走った。
まだ温かい。
ぎょっと頭を上げ、静まり返った家の方を見つめた。周囲の斜面や、セコイアの木々の間へも視線をとばす。
樹間を抜ける夜風が、枝を囁くように揺らした。ほかに動くものはない。何もかもが静まり返っている。……静かすぎるほどだ。
風だけが吹きすぎる闇を見つめながら、僕ははっきりと、誰かの視線を感じていた。うなじの毛がぞわりと逆立つ。心臓が肋骨の内側めがけておなじみのジャブを繰り出しはじめた。左、右、左左左……。
発作なんかおこしている場合ではない。壊れかけの振り子をなだめすかしながら、僕はブロンコへとびこんだ。大きな弧を描いてUターンし、アクセルを踏みこんで、今来たばかりの穴だらけの道をガタゴトと走り出す。
上下にはねながら、携帯電話を手で探った。やっとつかむと、911にかける。
呼び出し音が鳴って——さらに鳴って——鳴り続けた。やっとのことで、眠そうな女性が電話口で保安官事務所だと名乗る。僕はしゃべり出そうとしたが、すでに保留のメロディに切り替わっていた。脳が焦げ付きそうなほどじりじりしながら待っていると、電話口にまた女の声が戻り、まだ眠そうに——保留の間に居眠りしてたのか?——一体全体何があったのかとたずねた。何度も説明した挙句、やっと彼女は僕の救いを求める叫びを理解したらしく、人をよこすと言ってくれた。
言葉通り二十分後、僕が脇道の入口に立っていると、騎兵隊ならぬ四駆のパトロールカーがサイレンを鳴らし、ランプを点滅させて救いに駆けつけた。
「何があったんだね?」
制服姿で降りてきた保安官は太り気味の中年男で、数ヵ月前になじみになったLAの警官たちとは正反対の呑気さを漂わせていた。
僕は、男の死体について説明した。
「ほいほい、合点」とビリングスリー保安官は、スカンクのような縞模様の顎ひげをぼりぼり掻きながらうなずいた。「じゃ、あんたもこっちの車に乗って。その死体だかなんだかってシロモノを拝みにいきましょうや」
保安官と副保安官のドゥエインと一緒に、三人で車に乗りこむ。時代遅れの格好をしたドゥエインは、二十年前の保安官のドラマから抜け出してきたように見えた。彼は噛み煙草を右から左の頬に移して、くちゃくちゃと噛んだ。
「よお」
「どうも」
神経の緊張のあまり歯の根が合わないまま、僕は挨拶を返した。
ドゥエインが車のギアを入れ、パトロールカーはさっきの場所へ向かって走り出した。
「その先だ」
キャトルガードをガタガタと乗りこえるところで、僕はそう告げる。
「門のすぐ外側に」
「丁度このあたりかな?」
ドゥエインがたずねながら門に近づく車の速度を落とす。
ヘッドライトが照らした土の道には、何もなかった。
「停めてくれ!」僕は声を強める。「ここだ」
副保安官ががつんとブレーキを踏みこんだせいで、三人とも前に思いきりつんのめってから後ろに引き戻された。
「ここだって?」
保安官が高圧的にたずねる。
僕らは三人で、丸まった草が風にくるくると転がっていくだけの、誰もいない地面とその向こうの前庭を見つめた。
「……ここに、あったんだよ」
僕は言う。
沈黙が落ちた。
「どうやら、もうないようだがな」
と、保安官が答えた。
■2
長く、夢も見ないほどの眠りだった。
ゆっくりと目の焦点が合う。ビーズのような目玉が二つ、じっと僕をのぞきこんでいた。僕の顔のすぐそばに立ったリスが、警戒心もあらわにひげをぴくつかせた。
「わっ!」
仰天したのはお互い様だ。僕は声を上げ、枕代わりにしていたジャケットを添い寝の相手めがけて振り回した。リスはぱっとそれを避け、舞い上げられた埃の中を駆け抜けて、壁の暖炉から煙突をのぼって消えた。
咳込みながら、僕はよろよろ立ち上がって周りを見回した。
家具はおおよそ、埃除けのダストカバーで覆われている。ダストカバーがかけられた家具以外、すべてのものにふんわりした埃の層が積もっていた。テーブル、椅子、ランプ。黒ずんだ梁からは長い蜘蛛の巣が幻想的に垂れ下がり、まるで幽霊のお茶会にさまよいこんだような風情だった。
昨夜、やたらと詰め物の多いソファにばったり倒れこんで眠りに落ちた時には、疲れきっていて部屋の状態を見る余裕もなかった。だがこうして冷静に周囲を見回すと、ここで休暇をすごそうと考えたなんて、正気を失っていたとしか思えない。それ以外、こうして時に忘れ去られた部屋にたたずみ、下着姿で震えている状態に説明がつかなかった。
山は、四月でもまだまだ冬の寒さだ。いくら野草の花が咲いて陽光が明るくとも。僕はジーンズとネルシャツを着こんだ。ジェイクにならってクーラーボックスからビールを一本取り、蓋に腰をおろして慎重に一口飲む。
周囲の様子をじっくり眺めた。
大きく、奥行きの長い部屋だった。奥の壁には巨大な石の暖炉が据えられている。木の床は、今は剥き出しだが、思い出の中では美しいインディアンラグで無造作に覆われていた。ダストカバーの下からはガーゴイルの黒い足がはみだしている。記憶が正しければ、ふくらんだリネンのカバーの下にはヴィクトリア朝時代の重厚な木の家具が眠っている筈だ。赤いビロード張りや、縁飾り付きの灰色のサテン張りの椅子とか。
大きな見晴らし窓は、色褪せたカーテンで左右を飾られている。たしかに飾るにふさわしい景色だ。木々の彼方に、まだ雪冠を抱く彼方の山々が臨める。空は群青色——ロサンゼルスではまず口にしない色名だ。雲もなく、飛行機もなく、目の前を横切る電話線もない、広々とした青空。
静かすぎて、どうにも落ちつかなかった。慣れるまで少しかかりそうだ。マキバドリの可愛らしいさえずりだけで、ほかには何の音もない。道から聞こえるエンジン音も人のざわめきもない、純粋な静けさ。しばらく耳をすまして、僕は何か、この静寂を壊すような音がしないかと待った。
何もない。
もう一口ビールをあおると、アルコールの力を借りて脳がやっと動き出す。昨夜の出来事はもうすでにぼんやりと、目覚めの後で振り返る悪夢のように遠かった——事実、「あんたの死体」の痕跡が発見できなかった後に地元の保安官たちが出した結論も、僕は夢や幻を見たのだろうというものだった。
「まあ、影の具合でそう見えたんだろうな」
保安官はそう言ってくれた。本当は僕の頭の具合を疑ったに違いないが、さすがにそうとは口に出さない。
「本当なんだ。さっきから言ってる通り、死体があったんだよ」
「コヨーテだったかも」と副保安官のドゥエインが示唆する。「どっかの牧場で撃たれて、ここまで逃げてきて倒れたんだ」
「だな」
保安官が嬉しそうに、その説に同調した。
「獣じゃない」と僕は言い張る。「車から降りて、そばにしゃがみこんで、よく見たんだ。人間だった。男だ」
これで二度目になるが、保安官たちに死体の顔立ちと様子をくり返した。
「そいつはハーヴェイかもなあ」
副保安官が気がすすまない様子で言って、上司の保安官の顔色をうかがった。保安官がうなずく。
「だな、どうせまた酔っ払って倒れてたんだろ。それともラリってたか。ありそうな話だ」
「テッド・ハーヴェイのことか? ここの管理人の?」
「管理人?」
保安官がおうむ返しにした。副保安官と視線を交わす。
「まあ、そいつだな。多分今ごろはふらふらと寝ぐらにたどりついてる頃だろうよ」
「今ごろは胃がひっくり返るぐらい吐いてる頃でさ」
副保安官がうなずき、噛み煙草まじりの唾をぺっと夜風に揺れる菜の花へ吐きかけた。
僕は首を振って否定したが、保安官が素っ気ない言葉を続けた。
「あんたが何かを見たのは事実でしょうよ。まさか、でたらめな話で税金を無駄にしたり我々を引っぱり回してるとまでは思ってませんがね——」
「だけど?」
猜疑心がすぎるかもしれないが、言外に脅しのような響きを聞き取っていた。
「だけど、あんたにだってわかるでしょう。ここにゃ何もない。血の痕もなけりゃ、体が転がってた痕だってない」
「じゃあコヨーテ説も成り立たないんじゃないか?」
返ってきた二人の視線は冷たかった。
ビリングスリー保安官が口を開く。
「何だろうと、もうどっかいっちまったんだ。ぐだぐだ言ってもしょうがない。月も沈む。ここいらも、あと三十分ぐらいで炭坑の中の黒んぼみたいに真っ黒になるさ」
なんとチャーミングな言葉づかい。僕は答えた。
「ハーヴェイが家に戻ったかどうかの確認はしておいた方がいいだろ。たしか、この敷地内のトレーラーハウスに住んでいるんじゃなかったか?」
「悪いが、こんなふわふわした話にいつまでも無駄につき合っちゃいられんのでね」
法の番人、かくのたまいし。
保安官たちはブロンコを停めた場所まで僕を送っていくと、今からバスキングに戻って今晩は町のホテルに泊まれとすすめた。「安全運転でな」の声を最後にパトロールカーは走り去り、遠ざかるテールランプを見送って、緊張で疲れきった僕はあくびをくり返していた。
ブロンコに乗りこみ、丘陵の道を牧場に向かって車を走らせながら、消えた死体がどこかにないかと道の左右に視線を走らせた。そんなところにあれば、さっき見逃した筈もないのだが。
やっと牧場にたどりつくと、玄関の鍵を開け、荷物を車から下ろして、僕は最初に見つけたソファに倒れこんだのだった。もしあの死体が隣の椅子でくつろいでいたって気が付きもしなかっただろう。
四時間後に目覚めた。体は少しこわばっていたし、まだ動揺していたが、昨夜のことはきっと疲労が見せた幻だと、そう信じてもいいくらいの気分にはなっていた。大体のところは。
それでも、ソファに座って春の暁の光を浴びながら、心は不思議なほどおだやかだった。やはり、環境を変えたのがよかったか。まだ疲れすぎていて茫然としているだけか。
昨夜の死体は、そもそも僕が発見したのだし、消失の謎について調べてみるべきだろうか? いや、きちんと警察に通報したし、保安官たちは現場を調べて何もなかったと判断したのだ。すべて片がついている、そうだろう? 事件終了。
だが念には念を入れて、ひとつ確認しておいても損はない。最後にひとつだけ。
シャツをはおり、僕は家を出ると空の家畜囲いの向こうに停められたトレーラーハウスへ向かった。トレーラーのそばにはボロボロの白いピックアップトラックもあり、おそらくハーヴェイの車だろう。ボンネットに手を置いてみた。エンジンは冷えきっていた。
トレーラーの錆びたドアをドンドンと叩く。
中から「静かに」と注意する声が聞こえた。
「なあ! 誰か中にいるのか?」
車内から囁く声は途切れず続いている。
ドアをためしに引いてみた。あっさりと開いた。僕は、中をのぞきこむ。
一瞥して、すぐに今の警告の声はテレビの音だとわかった。バス釣り大会の番組が流れている。
見たところテッド・ハーヴェイはどうやらここに住んでいる様子だったし、その辺で死んでいるんじゃないかというほどの臭気がこもっていたが、トレーラーの中に彼の姿はなかった。山積みにされた雑誌のプレイボーイと空のビール缶、汚れた皿の山。ふむ、人生を存分に謳歌している男の住み処だ。
トレーラーの奥まで歩きながら、クローゼットやロッカーサイズのシャワーから今にも死体が転げ出してくるんじゃないかと身がまえていたが、結局、生きた人間も死んだ人間も出てこなかった。ハーヴェイの写真でもないかとあたりを見回す。手頃なスナップ写真かなにか、と思ったが見つからなかった。
テレビを消し、つけっ放しになっていた電気も消した。昨夜、僕が牧場についた時にも明かりがついていたのだろうが、気付く余裕などなかった。警察がどう思うかはさておき、僕から見るとつけっ放しの電気やテレビは、ハーヴェイが夜、それも突然ここを出ていったことを示しているように思えた。
数秒、狭い窓の前にたたずんで、雪が点々と散る緑の丘を眺めやった。いや、雪ではない。白い野の花。
レイサム夫人ならどうするだろう、と自分に問いかける。
グレイス・レイサム夫人は、僕のお気に入りのミステリ作家レスリー・フォードの小説に出てくる探偵だ。きっと、レイサム夫人がここにいたなら、こっそりとハーヴェイの持ち物を調べてみるだろう。そして大体の場合、誰かに背後から殴られて気絶するのだ。
僕はトレーラーの外に出て、ドアを閉めた。
昨夜の死体がもし僕の目の迷いで、死んだように酔っ払っていただけのハーヴェイを死人そのものと見間違えたのだとしても、その酔っ払いが起き上がって千鳥足で寝床へ帰りついた様子はなかった。
家の中へと引き上げた。さて、どうしようか。冷静になって振り返ると、ロサンゼルスからよくまあこんな辺鄙なところまで逃げてきたものだ。どうかしていた。だがもう来てしまったわけだし、昨今はガソリン代も馬鹿にならないし、ここは突然の休暇をできるだけ楽しむとしよう。実際、執筆も進むかもしれない。半径五十キロ以内に気を散らすようなものは何も存在しなさそうだ。
キッチンで数枚の皿を煮沸し、ガスレンジの汚れを擦り落とし、マホガニーのテーブルをきれいに拭いた。あの悪路のドライブを生き延びたただ二つの卵とターキーのベーコンをフライパンへ放りこむ。
朝食を食べながら、今日の予定を練った。
いや、死体について調べようという気はもうない。あくまで執筆に関する予定だ。この間の事件で、探偵ごっこは一生分やり尽くした。
あれは二月のことだった。僕の親友が次々と殺されて、何とも素晴らしい一年の幕開けとなったものだ。一時期など、僕の未来の選択肢は二つに絞られたように見えた——自分も死体となるか、それとも刑務所に入って毎日ピックだのスネイクだのという物騒な呼び名の男たちから逃げ回りながら二十年の刑期を務め上げるか。
もう、あの事件にも終止符が打たれた。死体や犯罪とは縁が切れたのだ。小説の中以外は。
僕のデビュー作、シェイクスピア俳優かつアマチュア探偵のジェイソン・リーランドという男を主人公にしたミステリ“殺しの幕引き”の出版は、ついに数ヵ月後にまで迫っていた。続編を書かなければならないのだが、僕はスランプの沼にはまっていた。
おかしなことに、出版が決まるまで一度たりともスランプなど経験したこともなかったのだ。原稿が売れた途端、執筆担当の脳細胞が麻痺してしまったかのようだった。
「あれこれ考えすぎなんだろ」
ジェイクは意外な、そして苛立たしいほどの洞察力を見せてそう言ったものだ。やはりあの男は、優秀な刑事なのだった。
朝食を食べ終えると、僕はブロンコに乗りこんでバスキングの町まで食材の買い出しに向かった。ベーコンエッグにビールというマッチョ気取りの朝食も悪くはないが、毎回は遠慮したい。
バスキングは、近隣のソノラよりもはるかに小さな町だった。ソノラはカリフォルニアの古い炭坑都市として今でも名を知られているし、トゥオルミ郡の郡庁所在地でもある。かつては豊富な鉱脈を誇ったソノラも、近年では林業、農業、観光などが産業の主軸だった。ゴールドラッシュの狂騒を描いたマーク・トゥエインやブレット・ハーテのような作家によって一躍有名になった地域なのだが、このバスキングの町にまで足をのばしてくれる観光客はほとんどいない。
本当に小さな町だ。十九世紀の建物——カリフォルニアでは相当古い部類だ——がいくつかまだ残っている。ところどころ煉瓦で鋪装された坂の道は細く、勾配が急で、町の歴史よりも古い木が左右に並んでいた。通りに面したガラスのウィンドウには昔風の洒落た書体で何ともなつかしい店名がペイントされている。“紳士用御衣料用品店”とか“ポリーの砂糖菓子のお店”とか。ヴィクトリア様式の古びた町並みは、幼稚園児のドールハウスのように色とりどりに塗り替えられながらも、まだかつての名残りをとどめていた。
金曜の朝ということもあり、人の姿はまばらだった。数人の年寄りたちが雑貨屋の外に座りこんでいる。僕は、店に続く幅広い木の階段を上った。
「そんでカスターが兄貴に言ったのさ」と、しなびた方の老人が、相手の老人に向かって言った。「インディアン連中? 気のいいヤツらだぞ、昨夜はにぎやかに踊ってたしな、ってさ! そりゃ戦いのダンスだろうがよ!」
聞き手の老人が、歯の抜けた歯茎を剥き出しにしてゲラゲラ笑いながら膝を叩いた。
僕はペンキが剥げかけたドアを押し開けた。ドアベルがガランガランと鳴り響く中、店内に足を踏み入れる。まず目にとびこんできたのはカウンターにどんと据えられた虫食いだらけの巨大なバッファローの頭だ。視線を落とすと、青い楊枝で歯をほじくりながらのんびりとこっちを見ている八十歳ぐらいの女性——プラスマイナス十歳というところ——と目が合った。
「どうかしたかい、坊や? 探しもんかい?」
食料を買いに来たと説明すると、彼女は酢漬けの仔牛の脚や豚皮のジャーキーが並んだ棚を親切に指さしてくれた。
「……Tabは売ってます?」
「坊や、あたしが最後にそいつを見たのは六十年代のことさ」
ほう、僕の目の前に今並んでいる品々も六十年代からずっとここに鎮座していたように見えるのだが。食料として考えていいのか、コレクターズアイテムなのか、悩むところだ。
「どこかに行く途中かい?」
やっと買い物をカウンターに積み上げると、女店主が楊枝をくわえたままたずねてきた。
「いいや。ステージコーチ通りの先に滞在してるんだ」
彼女は刺すような目で僕をじっと眺めていたが、不意にくくっと笑い出したので、楊枝を飲みこんで喉に詰まらせるんじゃないかとこっちははらはらした。
「ああ、わかったよ。お前さん、アナ・イングリッシュとよく一緒に来てたあの痩せっぽっちのガキだね?」
「そうだよ」
彼女は楊枝を指でつまむと、こちらに向けて振り回しながら続けた。
「孫か何かだったね、ああ? 生きてる親戚はあんただけ。あんたがあのろくでなしハーヴェイに給料を払ってやるおかげで、あいつは日がな一日葉っぱを吸ってボーッとしてられるってわけさ」
「土地の管理をしてもらうために給料を払ってるつもりだけど」
余暇にマリファナを吸っているのならまだしも。
「そう思ってんのはあんただけさ、坊や」
老婆はそう告げた。古ぼけたレジに僕の買い物を打ちこみながら、アーモンドの燻製やアップルシナモン味のインスタントオートミールといった珍妙な品物を見てはペンで描かれた眉を吊り上げる。
「どうやら、しばらくいるつもりみたいだね?」
「一週間かそこら」
「誰かと一緒に?」
「いや」と言ってしまってから、僕は考え直した。「今夜、連れが来る筈なんだ」
誰もいない山奥に一人きりで滞在しているなんて、わざわざ言いふらさない方が身のためだろう。
「おばあちゃんが死んでから、あんた全然来なくなったね。どうしてだい?」
「八歳だったから免許を持ってなくて」
その言葉で、店主は運転免許を取るべきでない——のに取ってしまった——人々について思い出したらしい。凄惨な交通事故死の話を次々に語って聞かせながら僕の買い物を袋に詰めこみ、さらに忠告してくれた。
「あのろくでなしテッド・ハーヴェイときっちり話した方がいいよ、あんた。あいつはそのうち、あの辺を焼け野原にしちまうだろうよ」
牧場に戻った僕は、“ろくでなしテッド・ハーヴェイ”を探してもう一度あたりをぐるりと回った。相変わらず、彼はどこにもいなかった。
午後になると、どうにかくつろげる状態にしようと家の中を働いて回った。目指せ“峠の我が家”作戦。窓とドアを開け放って空気を入れ替え、家具のダストカバーを剥がして丸め、それ自体がアンティークのような箒をつかんで目立つ蜘蛛の巣をバタバタとはたいた。埃を払い、床を磨き、ゴミを掃き出す。とにかく、執筆から逃避できることなら何でもした。
だが、祖母の書斎にだとりついた瞬間、ついに自動操縦のゼンマイが切れた。
その書斎には——すっかり忘れていたが——本が隅々まで詰まったガラス扉の書棚がずらりと並んでいた。
箒を放り出すと、僕はゆっくり書棚へ歩みよった。鼓動が高鳴る。活字中毒者だけが理解できる、えもいわれぬ昂揚感。汚れたガラスを拭い、顔をよせてのぞきこむ。布地で装丁されたハードカバーの背表紙に刻印された白い活字が見えた。コーネル・ウールリッチの『黒衣の花嫁』。それも初版。この一冊だけでも希少本として価値がある。
ガラス扉を開け、身をのり出した。ミステリだ——棚の端から端まで、ミステリの本が詰まっていた。
ふうっと、長い息をついていた。ペーパーバック、ハードカバー。アガサ・クリスティからレイモンド・チャンドラーまで。古き良き時代の傑作ぞろいだ。ダシール・ハメット、ジョセフィン・テイ、レックス・スタウト、ナイオ・マーシュ——我が愛しのレスリー・フォードの作品も数冊。『宝島』の主人公が海賊の黄金を発見した時だって、今の僕ほど興奮しなかったに違いない。
何冊かゴシックロマンスの本も混ざっていたが、祖母は全体としてハードボイルド系に傾倒していたようだった。勿論、ゲイミステリは一冊もない。ゲイの探偵が出てくる一般のミステリは、一九七〇年、ジョセフ・ハンセンによる『闇に消える』から始まる。ベストセラーリストには縁がなかったにしても、彼のブラッドステッターシリーズが後に続く僕らの
道標となったのだ。
不思議なことに、今の今まで、祖母がミステリマニアだったことなど思い出しもしなかった。僕の本好きは、無意識のうちに祖母の読書癖を受け継いだものだったのだろうか。母のリサはほとんど何も読まないし、たまに手に取ってもノンフィクションだけだ。
五時すぎ、やっと読書を切り上げた僕は、二十数年前に祖母が教えてくれた通りにサーモンとポテトを焼いた。ジェイクがいたら感心させられたことだろうに。あの男は、缶切りなしでは僕が餓死すると思っているのだ。
パサデナの町から僕が消えたことに、ジェイクはいつ気が付くだろう——それとも気が付きもしないだろうか。
夕食をすませるとアンドレア・ボチェッリのCDをプレーヤーに入れ、薪入れに残っていた古い薪を暖炉に放りこむ。馬鹿でかいヴィクトリア様式の椅子の中で丸まって、今夜はレイサム夫人シリーズを読むことにした。レイサム夫人は、第二次世界大戦中から戦後にかけての典型的な素人探偵だ。裕福、家柄もよく、しばしば迷推理をやらかす。まあ、僕が彼女に親近感を覚えている理由はわかるだろう。
数時間の、至福の時。
だが、不意に聞こえてきたトラックのエンジンに集中を妨げられた。
本を置き、僕は裏のポーチに歩み出る。家幅全体の長さがあるポーチだ。そこから、遠い山肌を下ってくる光の輪が見えた——複数のヘッドライト。あの道は古い馬車道で、かつて駅馬車の補給地だったこの家まで続いている。
ポケットに手をつっこみ、僕は車が下りてくるのを待った。薪が燃える匂いと家の周囲で乱れる野バラの匂いが夜気に入り混じっていた。風が冷たい。開けたままのドアから流れてくる温かさの中に戻りたかった。
前後に体を揺らしながら待っているうちに、すべてから切り離されたような孤独感が満ちていく——数マイルも町から遠く離れ、隣の牧場も遠い。世界のあらゆる場所から遠い、それがこの家だ。木々の間を抜ける風が早瀬のような物悲しげな音を立てている。叫んでも誰にも届かない、そんな場所に立つのは二十四年ぶりのことだった。
都会でなまったな、と自分をひやかした。
しばらくすると、車のエンジン音もヘッドライトもどこかへ消えてしまった。奇妙だ。山中でキャンプでもしている旅行者か? それとも牛泥棒? この御時世、牛泥棒も実入りが悪そうだが。
一瞬、たしかめに行こうかという思いがかすめた。もしかしたら消えた死体の謎も解けるかもしれない。だが、僕は素敵にお年を召したレイサム夫人にも、自分の小説の主役である勇敢なジェイソン・リーランドにも及ばず、この暗い夜の中へいそいそと出かけて捜査にいそしむ気にはなれなかった。
一瞬の半分くらい、保安官に通報しようかとも思ったが、どうせあの二人には臆病な都会者だと決めつけられているのだし、わざわざ裏付けるような真似をしてやるのも腹立たしい。
結局、家の中に戻ると、暖炉に数本の薪を足してまた読書に戻った。だがさして時間がたたないうちに文字が目の前を流れはじめる。今日一日で、普段の一ヵ月分は動き回った。
寝袋にもぐりこむと、僕はあっという間に眠りに落ちた。
ホウ、とフクロウが鳴いて、目を覚ました。
自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。
月光が部屋にあふれていた。壁にゆらゆらと、木々の影が揺れている。僕は細めた目で暖炉の赤い熾火を見つめながら、耳をそばだたせた。
やがて、また聞こえた。砂利を踏む足音。
寝袋から転がり出し、僕は窓に向かった。夜の景色は、まるで青いフィルターごしに撮ったホラームービーのシーンのようだった。
すべてが静まり返っていた。動くものもない。
ジーンズを穿くと靴をひっかけ、懐中電灯をつかんだ。裏のポーチに歩み出ると、凍るような夜気に身が包まれた。矢尻のように尖った木々の梢で覆われた山の稜線が月光にうっすらと光っている。
そろそろとポーチを歩き出した僕だったが、靴の下で板がバキッと音を立て、その場に立ちすくんだ。
何も動かない。
また歩き出し、家の周囲を回りこむ。母屋から離れて建つ小屋や納屋が、月光の下でひっそり黒々とうずくまっていた。その屋根には霜が光っている。足音を殺してポーチのステップを下りた。前庭に動くものはない。僕は家の影に身をひそめたまま、じっと待った。
何もおこらない。
目を凝らしている間に、何時間も経った気がした。眠いし、寒い。誰がうろついていたとしてももうどこかへ行ってしまった後だ、と自分を安心させようとした。眠らないと、とさらに説得する。お前は作家で、素人探偵ですらない。こんなところにいつまでもいるのは睡眠時間を無駄に削っているだけだ。
やっと自分自身を納得させると、僕は家の中に戻った。暖炉で消えかかっていた火に新たな薪を放りこみ、ガタガタ震えながらソファの上の寝袋にもぐりこんだ。
数分後、やっと全身が解凍されて温まってくると、意識は混沌とした夢の中へ引きずりこまれていった。その混沌の中で、レイサム夫人がテッド・ハーヴェイのトレーラーハウスに立って蜘蛛の巣にはたきをかけていた。
——底まで見なきゃ駄目なの。
眠りの中で、彼女が囁く。
底? 何の底?
——地の底よ。
彼女がくれた答えはそれだけだった。
鳥の声で目が覚めた。マキバドリの心地よいさえずりが目覚まし代わりだ。
暁の光の下、家を出た僕は空の家畜囲い、空の厩舎、空のトレーラーを一回りしてから、丘陵へ向かう道に足を踏み入れた。
頭上からやわらかな陽光を浴びながら歩いていくのは楽しかった。斜面をゆっくりと登っていったが、丘というよりは小さな山と言う方が近い。
——手近な山へ向かい、登ろう。木々に陽光が染みこんでくるように、心を平穏が満たしてくれる。
自然保護の父ジョン・ミューアはそう言った。僕は丘の尾根まで登ると、足をとめ、山の空気を肺いっぱいに吸いこんだ。
ひとしきり咳込んだ挙句、やっと咳がとまると、あたりの風景を見回す。
その時になってやっと、周囲に生えているのが野の花ではないことに気付いた。山野草でもなければ、シダでもない。だが、そのギサギサの緑の葉には見覚えがあった。
すっかり古びた記憶をひっくり返す。そうだ、一面にびっしり生えているこの腰高の草は、いわゆる“葉っぱ”だ——牧草ではなく、吸って楽しむたぐいの草。
マリファナ。
その結論が脳に届くまで数秒、茫然と立ち尽くしていたが、僕は身を翻すと丘の斜面を慌てて駆け下り、電話を求めて家に走りこんだ。電話料金を律義に払いつづけていたのは、それこそこんな時のためだ。
ほとんど反射的に、なじみの刑事であるジェイク・リオーダンに電話をかけていた。
傷だらけのカウンターを指先で叩きながら、どうせ留守番電話が応じるだろうと待つ。だが四回の呼出音の後、ジェイクが電話を取ってもそもそと答えた。
『ああ?』
「ジェイク——」走ってきたせいでまだ息が上がっていたが、僕は一気にまくしたてた。「僕だ。助けて——いや、教えてほしい、どうしたらいい? ここに着いた時に死体を見つけたんだ。庭の前に死んだ男が倒れてた。撃たれて。背中を。保安官を呼んだけど彼らが来た時には死体はなくなってた。消えてた。しかもたった今、敷地内の丘に葉っぱが、その、マリファナが茂ってるのを見つけて——」
息が続かなくなって言葉を切った瞬間、ジェイクがうなった。
『一体お前、朝から何十杯コーヒーを飲んだ?』
その時、ジェイクの後ろから、誰かが問いかける声がぼんやりと聞こえた。女の声だった。
何故、考えもしなかったのだろう。この瞬間まで。ジェイクが、別の誰かとつき合っているかもしれないと。女性とデートしているかもしれないと。
ジェイクが、まだSMクラブに通っているだろうとは思っていた。それはもう、ジェイクのねじれた欲望のはけ口として仕方のないものかもしれないとも思っていた。
だが、女とも会いつづけていたとは。女と寝ているとは。
ジェイクの人生のどこに、僕の居場所がある? どうやら、僕以外の相手となら彼はいくらでもセックスできるのだ。
友達か? だが一緒にいるところを他人に見られたくない友達などあり得ない。僕らは友達ではないし、恋人でもない。そんな男に、土曜の朝早くからうろたえた電話をかけて、僕は何をしているのだろう。
「何でもない」と僕は告げた。「番号を間違えた」
『アドリアン、お前今どこに——』
静かに、落ちついた動作で受話器を下ろした。叩きつけたりはしなかった。これでも大人なのだし、僕の心をかき乱している動揺は僕の問題であって、ジェイクには関係ない。とにかく、もうこんな面倒くさいことはやめにしてしまいたいだけだった。
ふらふらと居間に戻ると、手近な椅子にドサッと崩れた。呼吸も数分でおさまってきたが、そうなると今度は静けさが気にさわってきた。あまりにも静かだ。立ち上がり、CDプレーヤーの再生ボタンを押して、窓の外を眺めた。
シェイクスピアのタイタス・アンドロニカスにはこんな一節があった——心を押しつぶす重荷よ。
ジェイクの行動が理解できないというわけではない。僕自身、女性が嫌いだというわけでもない。女性の親友も何人かいるし、女性特有の華奢な体つきや彼女たちの強い共感能力にはいつも魅了されてきた。特殊メイク並みの化粧を駆使し、時に強引な理論を平然とふりかざし、食事にこだわり、地理音痴の彼女たちが大好きだ。ただ、結婚相手としては考えられないだけで——特に、自分のボーイフレンドのお相手としては。
孤独の予感がひしひしと迫ってくる。夜中に外から聞こえる不気味な足音よりも、この方がずっと恐ろしい。
スピーカーから流れてきた次の曲がアンドレア・ボチェッリの“Con Te Partiro”だったのは、まさに人生の皮肉でしかなかった。
——“別れの時”。
--続きは本編で--