天使の影

アドリアン・イングリッシュ ミステリ1
ジョシュ・ラニヨン

 一九九九年、ロサンゼルス オールドパサデナ

■1

 朝食よりも早い時間に、刑事がやってきた。コーヒーも飲まないうちから。それでなくとも今日は月曜だというのに。
 僕はおぼつかない足取りで一階へ下り、正面のガラスドアの鍵を開け、装飾的な格子のセキュリティドアを開けて、刑事たちを店内へ入れた。二人。私服の刑事。
 二人は警察のバッジを見せた。チャンと名乗った刑事は年上で少し腹が出て、くたびれた服装で、すれ違うとオールドスパイスのアフターシェーブローションと煙草の匂いがした。
 もう一人の刑事、リオーダンは大柄で、軍隊風に短く刈った金髪と黄色がかった琥珀の目をしていた。いや、本当のところは目の色までは見てとれなかったのだが、その目はまばたきもせずこちらを見据えていて、まるで壁の穴から出てくるネズミを見張る猫のようだった。
「残念なお知らせをしなくてはなりません、ミスター・イングリッシュ——」
 チャン刑事が、オフィスへ向かって本棚の間を歩き出した僕にそう切り出した。
 僕は足をとめずに歩きつづける。まるで、そうしていればすべてのお知らせから逃げきれるかのように。
「——こちらの従業員、ロバート・ハーシーという方についてですが」
 歩みをゆるめて、僕はゴシックロマンスの棚の前で立ちどまった。憂い(それに透けたネグリジェ)をまとった少女たちの姿が目に入る。振り返って、刑事たちに向き直った。二人の表情は、仕事用の仮面のようでもあった。
「ロバートがどうしたって?」
 冷たい予感が腹に溜まる。こんなことならきちんと靴を履いてくるんだった。裸足で、顔も洗っていない今の自分では、悪い知らせに無防備すぎる気がした。ロバートに関することなら悪い知らせに違いないのだ。
「ロバートは死んだ」
 そう言ったのは背の高い方の刑事、リオーダンだった。
「死んだ……」
 僕はおうむ返しにした。
 沈黙。
「驚いているようには見えないな?」
「勿論驚いてるよ」驚かないわけがない。だが心が痺れたようだった。「何があったんだ? ロバートはどうして死んだ?」
 二人は探るような目でこっちを見つめつづけていた。チャン刑事が口を開く。
「誰かに殺されて」
 心臓が乱れた鼓動を打ち、肋骨の中でドクドクと暴れ出した。なじみのある虚脱感が全身にひろがっていく。手が、支えられないほどずっしりと重くなってきた。
「座らせてくれ」
 呟き、向きを変えると、僕はオフィスの方向に歩き出した。本がみっちりと詰まった本棚にぶつからないよう手をのばしながら。ざわざわと耳の中で鳴る音の向こうに、ついてくる二人の規則正しい足音がどうにか聞こえていた。
 オフィスのドアを押し開け、デスクまでたどりつくと、ドサッと椅子に腰を下ろした。引き出しを開けて中を探る。デスクの上の鳴り出した電話が薄っぺらい静寂を引き裂いた。無視して薬を探し出すと、なんとか蓋を取って手のひらに二錠振り出した。昨日から机に置きっ放しの——何だったか——缶飲料でそれを流しこむ。Tabだ。ぬるいダイエットコーラ。おかげで少ししゃっきりした。
「失礼」とLA市警の刑事たちへあやまる。「それで?」
 その時、一度は切れた電話がまた鳴り出した。四回目のベルの後、リオーダンがきつい口調でたずねる。
「出なくていいのか?」
 僕は首を振った。「一体どう——ロバートは、誰に……?」
 電話がとまる。静寂が、ベルの音よりも神経にさわった。
「ハーシーは昨夜、自分のアパートの裏路地で刺殺されて発見されました」
 チャンがそう答えた。リオーダンがすぐに続ける。
「ハーシーについてどんなことを知っている? 彼とはどのくらい親しかった? 彼がここで働いていた期間は?」
「ロバートは、高校の時からの友達だ。ここでは一年くらい働いてもらっている」
「何かトラブルはありましたか? 従業員としてはどうでした?」
 僕はまばたきしてチャンを見上げた。
「……どうって、普通の」
 と、最後の質問にやっと答える。リオーダンがたずねた。
「あんたとハーシーは、どのくらい親しい友達だったんだ?」
「どのくらい?」
「ハーシーと寝てたのか?」
 口を開けたが、何も言葉が出てこなかった。
 チャンがちらりとリオーダンへ視線をとばし、質問を言い直す。
「彼とあなたは恋人関係でしたか?」
「いいや」
「だがあんたはホモセクシュアルなんだろう?」
 この問いかけはリオーダンからだった。ぴんと背すじをのばした彼は、その冷たい目で僕を値踏みし、どうやら人間として重大な何かが欠落していると見なしたようだった。
「僕はゲイだよ。それが何か?」
「ロバート・ハーシーもホモセクシュアルだったんだな?」
「それとこれとを足したら殺人罪で牢屋に放りこまれるとでも?」
 薬が効いてきて、少し気力が戻ってきた。怒りを覚えるくらいには。
「ロバートとは友人だった、それだけだ。彼が誰と寝ていたのかは知らない。相手は大勢いたからね」
 チャンがその言葉を書きとめる。ロバートが見境いがなかったかのように言うつもりはなかったのだが——自分でもわからない。正直、まったく事態が把握できていなかった。
 ロバートが殺されたなんて、信じられない。殴られた、逮捕された、それならわかる。ありそうなことだ。死んだにしても車の事故とか——あるいは自慰中に首にロープを巻いてうっかり事故死という方がまだ納得がいく。だが、殺された? 現実とは思えなかった。あまりにも——夜のニュースで報道されている、遠い世界の話のようだ。
 本当にロバートなのかと、聞き返したくてたまらなかった。だがこの刑事たちはそんな質問を毎回聞かされているに違いない。
 虚空をじっと見つめていたのだろう、いきなりリオーダンが聞いた。
「大丈夫か、ミスター・イングリッシュ? 気分が悪いのか?」
「大丈夫だよ」
 チャンがたずねた。
「よければハーシーの会っていた——男友達の名前を教えてもらえませんか?」
 男友達。遠回しな言い方にかえって気持ちが逆なでされる。
「わからないよ。ロバートとはあまり個人的なつきあいがなかったから」
 リオーダンは僕の返事を聞き逃さなかった。
「ハーシーとは友人だったと思ったが?」
「友達だったさ。ただ……」
 刑事たちは言葉の続きを待っていた。チャンがリオーダンへちらっと視線を投げる。チャンの方が年上だが、どうやら主導権はリオーダンが握っているようだ。つまりは要警戒人物。
 僕は慎重に続けた。
「友達だったが、ロバートは僕の店の従業員だ。そういうことが友人づきあいの邪魔になる、そんな時もある」
「具体的には」
「要するに、日中ずっと一緒に働いていたら、夜には別の相手の顔が見たくなるってことだよ」
「成程。最後にミスター・ハーシーに会ったのは?」
「昨日、一緒にディナーに行って——」
 ロバートとは個人的なつきあいがないと言ったばかりだった。チャンがそれを指摘したそうな顔をして、僕は言葉を切り、ぎこちなく続けた。
「その後、ロバートは友人に会いに先に出ていった」
「友人とは?」
「詳しいことは何も」
 リオーダンが疑り深そうにたずねた。
「時間は」
「何の時間?」
 辛抱強く、一般市民の愚かさに耐えつづけてきたプロフェッショナルらしく、リオーダンは言い直した。
「何時に、どこでディナーを取った?」
「六時頃、サンタモニカ大通りのブルーパロットで」
「いつ帰った?」
「ロバートは七時ぐらい。僕は残って、バーで少し飲んだ」
「ハーシーが誰に会うつもりだったのかわからないか? ファーストネームや、ニックネームは?」
「わからない」
「彼はまず自宅へ戻るつもりだったのか、それともどこかで待ち合わせだったか?」
「知らないよ」僕は眉を寄せた。「多分、どこかで待ち合わせだと思う。ロバートは腕時計を見て、遅刻だとか、着くのに十分ぐらいかかると言っていた。もし家に帰ってたら三十分はかかった筈だ」
 チャンが小さな手帳にその情報を書き留めた。
「ほかに何かありませんか、ミスター・イングリッシュ? 最近のミスター・ハーシーに誰かを恐れていたようなそぶりは?」
「いいや。そんなのは一度も……」
 僕は考えをめぐらせた。
「何でだ? 強盗じゃないのか?」
「ミスター・ハーシーは上半身と顔を合わせて十四カ所も刺されていました」
 その言葉に血がまた脳天からすうっと引いていくのがわかった。リオーダンが勿体ぶった調子で引き取る。
「その手の傷は、一般的に言って知人や友人による犯行を示唆するものだ」
 どんな質問を浴びせられたのか、その後はあまりはっきり覚えていない。根掘り葉掘り、そんな感じだった。一人暮らしか? どこの学校へ行った? この書店をいつから経営している? 仕事以外には普段どんなことを?
 名前の綴りも確認された。
「アドリアンだ、eがつく方のアドリアン」
 そうチャンに説明すると、チャンがほんのかすかにニヤッとした。二人は手間を取らせたことを僕に感謝し、また連絡すると告げる。
 オフィスから出ていく寸前、リオーダンがデスクから空缶を取り上げた。
「Tabか。まだ売っているとはな」
 ぐっと、いともたやすく缶を握りつぶすと、彼はそれをゴミ箱に放りこんだ。

   
 刑事を送り出し、店のドアの鍵をかけようとする前に電話が鳴り出した。
 一瞬、ロバートが、毎度のごとく病欠の連絡をしてきたのではないかという考えが頭をかすめる。
『アドリアン! 
 だが受話器から聞こえてきた、さえずるような高い声はクロード・ラ・ピエーラのものだ。ヒルハースト通りにあるカフェ・ノワールのオーナーで、もうお互い三年ぐらいになる。長身で美しい黒人だった。まちがいなくアメリカ南部の出身だと思うのだが、まるで頭を打ったフランス人作家のようにいい加減でごった煮のフランス語を使うのだ。
『今事件のこと聞いたわ! なんてひどい……信じられない。夢だと思いたいけど……』
「警察がついさっきまでここにいたよ」
『警察?  ことデュ! どんなこと言ってた? 犯人はわかってるの?』
「まだだと思うよ」
『何か聞かれた? 警察に何話したの? 私のことは言った?』
「言うわけないだろ」
 はあっと、彼の安堵の溜息が電話をつたわってきた。
そりゃそうねセルテヌモン パ! 関係ないし。でもあんたはどうなの? ねえ大丈夫?』
「どうだろう。まだわけがわからなくてね」
『ショックだものね。ランチ食べにいらっしゃいよ』
「無理だよ、クロード」
 食べ物のことを考えるだけで吐きそうな気分だった。
「僕は——店番の代わりもいないし」
『仕事なんかいいじゃないの。食べなきゃ駄目よ、アドリアン。一時間ぐらいちょこっとお店をしめて。いいえ、今日は一日お休みにしちゃいなさいって!』
「考えとく」
 曖昧な約束でごまかした。
 クロードとの電話を切った途端、また電話が鳴り出した。僕はそれを無視して、とぼとぼと二階へのぼった。シャワーを浴びたい。
 だが上の階へつくと、カウチに身を沈め、両手に顔をうずめた。キッチンの窓の向こうでは鳩がクゥクゥと鳴き交わし、朝の通勤ラッシュの音が遠く流れてくる。
 ロバートが、死んだ。
 信じられない気もしたし、当たり前の出来事のような気もした。脳裏では無数のイメージが、不吉なスライドショーのように次々と流れていく。十六歳のロバート、ウエストバレー校の白いテニスウェア姿で。ロバートと僕、プロムの前夜にアンバサダーホテルで飲んだくれてよろよろしていた二人。結婚式の日のロバート。
 昨夜のロバート——怒りに歪んだ、まるで別人のような顔。
 もう、仲直りはできないのだ。二度とさよならを言うチャンスすらない。僕は袖で目を拭い、階下で鳴りつづけているくぐもった電話の音に耳を傾けた。立って着替えなければ。店も開けないと。だがカウチから体は動かず、ぐるぐると頭の中を思考がめぐっては、不安ばかりをかきたてていた。
 何か不吉なものがせまってくるのがわかる。僕をめがけ、包囲が縮まってくるのが。ロバートが死んだばかりでこんなふうに考えるのは薄情かもしれないが、人生の半分以上をロバートがもたらす災難からの脱出に費やしてきた経験上、嫌な予感しかしなかった。
 この七年間、僕はオールドパサデナで書店を経営し、その二階に住んでいる。クローク&ダガー書店、新刊から古書のミステリまで扱い、ゲイとゴシック系の犯罪小説の品揃えはロサンゼルス随一と言ってもいいだろう。火曜日の夜にはミステリ作家たちのワークショップも開かれていて、そのお仲間にそそのかされ、ついに月刊のニュースレターを出すことも決まっていた。
 僕自身もミステリを書いていて、一冊目の出版が決まっていた。『殺しの幕引き』というタイトルで、ゲイのシェイクスピア役者がマクベスの上演中に殺人事件を解決しようと駆け回る話だ。
 商売はうまくいっていた。人生もなかなかだが、特に仕事は文句のつけようがない。あまりに忙しくて店を切り回すだけで精一杯で、次の本を書く暇がないほどだ。そんな時、またロバートがふらっと僕の人生に姿を現したのだった。
 ロバートと、タラ——高校時代の彼の恋人(の代表格)——との結婚は、結局うまくいかなかった。離婚は、ロバートが「女王様の身代金」と苦笑していたほど高くついたらしい。九年の結婚生活、そして二人の子供と身重の妻に背を向けて、ロバートは中西部からロサンゼルスへ戻ってきた。金にも身の振り方にも困って。あの時は、お互い素晴らしく都合のいい再会に思えたものだ。
 ぼんやりとしたまま、僕はソファから立ち上がるとバスルームに向かった。八時五分に容赦なく鳴ったドアブザーに中断されていたシャワーとひげ剃りにとりかかる。
 まず熱いシャワーを出した。湯気で曇った鏡に映る自分の顔に眉をしかめ、さっき刑事が言い放った「だがあんたはホモセクシュアルなんだろう?」という問いの響きを思い出していた。「下劣な生活をしているんだろう?」と聞かれたも同然の言い方だった。
 しかし、何から判断されたのだろう。リオーダンは僕の何を見てゲイだと思ったのか。少しのびた黒髪と青い目、色白で痩せた顔、アングロノルマン系の見た目のどこかに「ホモ」と大書きされているとでも?
 最近の警察は装備としてゲイ発見レーダーを支給しているのかもしれない。さもなきゃ“ゲイ度チェック表”のようなチェックシートがあるとか。“ホモセクシュアルを見分ける百の方法”とか、いかにも一九六〇年代あたりに書かれていそうなハウツー本を配っているとか。昔は僕もお気に入りの“ゲイチェック”リストを冷蔵庫に貼っていたものだった。痩せすぎ(またはマッチョすぎ)、やたらとポーズを決める、浮ついた言葉づかい(キレイ、カワイイ、ステキとか)、度をこした焼きもち……。
 何がおもしろいんだ? とメル——昔の恋人——が苛立ちをこめてそう言い、冷蔵庫のメモを剥がされたこともある。
 ああ、やはりリストにのせておくべきだった、“歪んだユーモアセンス”も。なあ、メル?お笑い草だよ、「あんたはホモセクシュアルなんだろう?」だとさ!
 それにしてもやはり一体どうしてリオーダンは僕を告発——比喩的にだが——したものだろう。ほとんど自動的な動作で、僕はシャワーを浴びて体を洗い、タオルで拭った。ぼうっとしていたので、服を着るまで十五分もかかった挙句、結局はジーンズと白いシャツという平凡きわまりない選択に落ちつく。我ながら、ファッションセンスばかりはゲイ失格だ。
 一階へ下りる。気は重かったが。
 どうやら、電話はあれからずっと鳴りつづけていたようだ。取り上げて答えると、相手は記者だった。ボーイタイムズ誌のブルース・グリーンだと名乗る。
 事件についてのインタビューを断り、僕は電話を切った。コーヒーメーカーの電源を入れ、また店の正面のドアを開けに行き、それから派遣会社に求人の電話をかけた。


■2


  沈黙は死に等しい。
 
 それはロバートお気に入りの引用で、客に対してゲイであることを無闇とアピールしないよう——そして客を誘惑しないよう——たのんだ僕に、彼はこの言葉を持ち出したのだった。
(僕はここで本屋をやっているんだ。ゲイの政治集会をしたいわけじゃない、ロブ)
(ゲイであることは人生の一部なんだぜ、アドリアン。ゲイの男がすることは何だろうと政治的な表明なんだ。すべてが政治的——どこの銀行を使うか、どこで買い物をするか、どこで飯を食うか。いつ人前で恋人の手を握るかも——ああ、お前はもう相手がいないんだっけ?)
(くたばれ、ロブ)
 あの笑み。いかにも優等生な顔立ちに似合わない、邪悪な笑顔。
 店内の何もかもがロバートを思い出させた。僕が残したメモの上に書き散らされた下品な落書き、解きかけのクロスワードパズルを上にして折り返された新聞、カウンターに散らばったピスタチオの屑。
 倉庫のステレオをつけると、音楽が店の棚の間まで響き渡った。ブラームスのヴァイオリン協奏曲。甘く切ない旋律が、切り刻まれて倒れていたというロバートのイメージとあまりにそぐわない。
 音楽があっても、店は静かすぎた。しかも肌寒い。ぶるっと寒気が抜けた。書店の建物はとても古く、一九三〇年代に建てられたもので、元はハントマン・ロッジという小さなホテルだった。
 初めてこの建物に足を踏み入れたのは霧の漂う春の日のことで、母いわくの「あなたのお金」を僕が相続してからほどない頃だった。不動産屋に案内されてメルと一緒にからっぽの部屋を歩き回った、あの二人の足音のこだまを、僕は今でも思い出せる。
 まるで、僕とメルは二人でまったく違う建物を見ているかのようだった。
 メルが見ていたのは穴だらけの壁とささくれた床板、その金食い虫っぷり。僕に見えていたのは、剥げた壁紙でも消えかかった裸電球でも天井の雨漏りの染みでもなく、その向こうに透ける光景だった。たわんだ階段に集まってさざめきかわす、古い白黒映画から抜け出してきたような幽霊たち。帽子と長手袋で装った女性たち、粋な微笑にパイプをくわえた男たち。彼らがマホガニーのフロントデスクの前に立ち、机にのせたスーツケースや旅行鞄をホテルスタッフに預ける姿までまざまざと見えた。
 そして、不動産屋が何気なく「五十年前、ここで殺人事件があったんですよ」と口にした瞬間、僕はここを買うと決めたのだった。
 メルは反対だった。
(アドリアン、お前の顔を見れば不動産屋には一発でいいカモだってわかっただろうよ)
(えっ、くちばしでも生えてるか? そりゃ不便だな……)
 続いた短い争いは、いつものようにメルの忍耐が切れたところで終わった。
(正気か、アドリアン? ネズミの糞だらけだぞ!)
 古き良き日々は過ぎ去るものだ。やがて僕は、一九三〇年代のビルの配管が現代では使い物にならないことや、二階建てのビルの電気配線を引き直すのにどれだけ金がかかるのか、身をもって学ぶことになる。さらにはいずれ、大手書店の——ボーダーズやバーンズ&ノーブル、アマゾンといった——値下げ合戦に対抗するには別の武器がなければどうにもならないということを痛烈に思い知らされることになるのだが、それは先の話だ。
 まだこの頃は、この世にハッピーエンドが存在すると思っていた。
 だが僕は学んだ。古い既刊在庫をしっかり揃えることの大事さや、品揃えのバラエティとクオリティを保つことを学び、読書グループに本を配達することも覚えた。地域のつながりの大事さも学んだ。自分の書店に心血を注ぐすべを身につけた。書店の規模ではかなわない分を、店の雰囲気で補った。
 雰囲気というのは、具体的には店内に据えられた贅沢な革張りのソファや、雨の日にフェイクの炎がともされる暖炉、夏の日に客へ提供されるアイスコーヒーのことだ。雰囲気作りのために僕とメルは古道具屋に突撃し、昔の蓄音機や七十八枚ものレコード、東洋の仮面、孔雀模様の暖炉用の衝立までも引きずって帰った。その甲斐あって、新聞のイベント欄に書店の情報をのせてもらえるようになった。もっとも、本屋が順調なのは主に惜しみない長時間労働のおかげだったが。
 月曜にしては、珍しいほど静かな朝だった。数人の常連が本を眺めている。初めての客がジョゼフ・ハンセンのブランドステッターシリーズを根こそぎ買っていった。ミセス・ルピンスキーがまたハーレクインの陰謀ものロマンスを一山持ちこんできて、ミステリの棚に加えるべきだと言い張った。
 僕はロバートがやり残した仕事にとりかかった。先週末、僕が遺品整理の市で買い付けてきたハードカバーの箱も手付かずのままだし、在庫データと照らし合わせるために渡したチェックリストも真っ白で残っている。そのことにかすかな苛立ちを感じ、そんな自分に罪悪感を覚えた。
 あちこちに散らかされたロバートの所持品を集めた。つまらないジョークが書かれたコーヒーマグ、数枚のCD。朝帰り用に洗面所に置いてある剃刀と歯ブラシ。ほとんどのものは箱に詰め、ハンチントンビーチの老人ホームに入所しているロバートの父親へ送ることにした。
 ロバートの最期の瞬間がどうだったのか、そんなことをずっと考えながらすごすのなど御免だ。僕はひたすら動き回って棚の本を整理したり、間違った棚に入っている本を元の位置に戻したり、アドバイスやコーヒーを申し出ては客をわずらわせた。
 その間も無意味な、消えない問いが頭を回りつづけている。何故? どうしてロバートが? 何のために彼を殺す? 強盗? ラリったジャンキー? 警察は違うと言った。彼らは、ロバートを殺したのは知り合いだと考えている。「知人や友人による犯行」というリオーダンの当てつけがましい言葉がよぎった。
 つまり、僕の知っている誰かがロバートを殺したということだろうか? クロードが不安げに「私のことは言った?」とたずねてきたのを思い出す。後ろめたいところがあったということなのか。
 十四回。そんな回数、人を刺すなんて、想像すら難しい。知っている誰かがそんな残虐な真似をできるとはとても思えなかった。知らない誰かの仕業だという方がまだ信じられる。どこかのごろつき、通り魔。あるいはゲイ・バッシングの標的にされたという方がまだわかる。
 一日はだらだらとすぎていった。数人の友人が電話をかけてきてロバートのことをたずね、驚きや同情の言葉を残していった。犯人の推理もいくつか。
 二時頃になると、店の静けさが耐えがたくなった。僕は書店を閉め、車でクロードのカフェに向かった。
 カフェ・ノワールは、ぱっと目に入ってくる店だ。外観はポップなピンクの漆喰に黒格子のシャッター。一歩中に入ると、あまりに薄暗くて内装すらはっきりと見えない。床は闇夜の氷のようになめらかで、実際すべりやすかった。わずかにうっすらと、鉢植えの観葉樹のシルエットが見える。
 クロードは、入ってきた僕を見てチチッと舌を鳴らした。高い背もたれに囲まれたブースへ僕を押しこみ、「今素敵なものを作ってくるから」と囁いて消える。月曜は本来なら定休日なのだが、クロードは一時も店を離れないようだ。
 僕は緊張を解こうとした。頭を背もたれにもたせかけて目をとじる。頭上からエディット・ピアフが「いいのよ、後悔なんかしない……」と歌っていた。僕もそう言いたいものだ。
 しばらくしてクロードが現れると、リングイネを盛った皿をテーブルに置いた。パスタの山から、バジルとニンニクの鮮やかな香りがたちのぼる。クロードはワインのボトルを開けて二つのグラスに注ぎ、僕の前に腰をおろした。
 深く、甘ったるい声で僕にたずねる。
「言ったことがあったかしらね、あんたはモンゴメリー・クリフトに似てるって?」
「交通事故の前の彼、それとも後の?」
 クロードはくすくす笑った。グラスをひとつ押してよこす。
「赤ワインよ。心臓ハートにいいの」
「ありがとう」僕は料理の香りを吸いこんだ。「天国みたいにいい匂いだよ」
「ねえ、あんたは誰か面倒見てくれる人が必要よ、可愛い子ちゃんマ ベル
 クロードは真面目に言っていた。哀愁を帯びた濡れたような茶色の目に見つめられながら、僕はトマトとハーブのソースを絡めたソフトシェルクラブを突き刺す。一口食べた。
「残念ながら、生まれながらの独り身でね」
「下らない! そんなのまだ運命の相手に出会ってないだけなのよ」
 運命の相手、それはクロードお気に入りのセリフだ。というか、友達も皆そのテーマが大好きだった。ゲイ、ストレートを問わず。普遍的テーマというやつらしい。
「立候補するか?」
 と睫毛をパチパチさせてみた。
「真面目な話」クロードはさらに言いつのる。「例のどなたさんが出てってから、もうどれだけ経つのよ。あんまり長すぎるからすっかり一人でいるのが当たり前になっちゃってさ。そんなの駄目! いつだってどこの誰だって特別な誰かを必要としていて——」
「いつかどこかで誰かさんと誰かさんが?」
 助けになりそうな言葉を提供しながら、リングイネをぐるぐるとフォークに巻き付けた。
 クロードが溜息をついた。大きな手のひらに顎をのせる。食べつづける僕を見ながら、彼は作り手ならではの満足感を味わっている様子だった。
 僕はたずねる。
「なあ、本当のところ、お前とロバートの間に何があったんだ?」
何のお話かしらケレ ラ ケスティオン? 炎が燃え尽きただけよ」
「それで?」
 一口ワインを飲む。
「それだけだし、あれは私たちの間の話よ。誰にも関係ないじゃない。警察に嗅ぎ回られんのはごめんさ」
「でもあれは——たしか、六ヵ月も前じゃないか。今さら警察に目をつけられるような特別な理由でもあるのか?」
 クロードが視線をすっとそらした。
「私、彼に……手紙を書いたの。詩とか。いくつかは——ダークなやつでね」
「読んだら死ぬほど?」
 クロードはふざけ半分に僕の手を叩いた。
「お役所があの手の芸術を理解してくれるとは思えないじゃない」
「ダークって、どのくらいダークなんだ」
「真っ暗」
「最高だね。ロバートがその手紙、取っておいたと思うのか?」
 クロードは下唇を噛みしめた。
「あの人だってセンチメンタルになることはあったもの。フランス語的な意味でね」
 フランス語だとどう違うのだ。僕はワインを舌の上で転がして味わいながら、クロードを眺めた。
「お前と別れた後、ロバートは誰とつき合ってた?」
「あんたじゃないの」
 僕は彼を鋭く一瞥した。
「ロバートと僕がつき合ったことはないよ」
 クロードは肩をすくめた。世界共通のジェスチャー。信じた様子はなかった。
 クロードが信じないということは、ほかの人々も僕とロバートの関係を疑ってかかるに違いない。刑事相手に、その疑いを口に出す人もいるかもしれない。
 またパスタをフォークに巻き付けている僕を見ながら、クロードが早口で囁いた。
「ねえあの手紙を取ってきてよ、アドリアン」
 フォークが、口の手前でぴたりととまる。
「何だって?」
「あんたなら、ロバートの部屋の鍵を持ってるじゃない」
「ちょっと待て。ロバートは自分のアパートの裏路地で死んでたんだぜ。部屋だって犯罪現場みたいなもんだ。警察が見張ってるだろ」
「いいから、ねえ、あんたはロバートの一番の親友でしょ、だったでしょ? しかも上司。部屋に入る正当な理由ぐらいでっちあげられるじゃない」
「いやだよ。やらない」
「私がこれだけたのんでるのに——」
「口の動きが見えるだろ? “ノー”だ」
 クロードは黙りこむと、じっとうらみがましい目で僕を見た。僕はフォークを下ろす。
「それをたのむためか? ここに来いって言ったのは?」
「そんなことあるわけないでしょ! ひどい!」
「はいはい」
 クロードは唇を噛んだ。僕は首を振る。ちらっと、クロードの頬にえくぼがのぞいた。


 書店に戻ると、店の脇にあるサイドドアから中に戻ろうとしたが、何故かドアが驚くほど重い。押し開けた。
 店内の、至るところに本が散らばっていた——本棚の間にも本が散乱し、木の床に折り重なっている。いくつかの本棚は引き倒されており、棚の下敷きにされた蓄音機が粉々になっていた。レコードのコレクションはフリスビーのように四方に飛び散ったのだろう、本棚のてっぺんに一枚、僕の靴先に別の一枚が黒い半月のように横たわっていた。足をとめ、それを拾い上げる。ビング・クロスビーとアンドリューシスターズの歌い上げる“人生の不思議”を聞くことは二度とない。
 肋骨の内側で、心臓がゆっくりと、重く、脈打ちはじめていた——奇妙なことに、こみ上げてきた感情は恐怖よりも怒りに近い。
 マホガニーのカウンターの上は、ボルトで固定されたレジ以外何も残っていなかった。そのレジもコンセントが抜かれ、中身も引き出されて空にされている。
 やっと頭がまともに働きはじめ、僕はカウンターの後ろへ行くと電話を見つけて警察に通報した。切った電話機をカウンターの上に戻し、竜巻が通りすぎたような惨状を見回す。自分でも何か叩き壊してやりたい気分だった。
 その時になってやっと、侵入者がまだ店内にひそんでいる可能性に気付いた。暖炉の火かき棒をつかむと、僕はそれを手にオフィスへ向かった。
 オフィスの中では、デスクの引き出しが空にされてひっくり返っていた。ファイルキャビネットの鍵は壊され、中のものが床にぶちまけられている。僕の薬も粉々になって書類の間に散らばっていた。何箱分もの予備在庫の本があたりに散らばり、殺人や暴力を描いたカバーがまるで不吉なタイルのように床を覆っていた。
 僕はそおっと部屋を横切った。火かき棒を振り上げ、息を殺して、バスルームをのぞく。
 白いタイル、白い洗面台、白いペーパータオルホルダー——まあ、掃除が行き届いていないから少々薄汚れているが。バスルームの窓は裏の路地に向かって開いている。
 ぐいとドアを引いた。
 ドアと壁の間にも、誰も隠れていなかった。
 オフィスに戻り、二階へと向かった。僕のフラットの入口のドアは施錠されたままだ。鍵をこじ開けるだけの時間はなかったかもしれないが、だが侵入者の痕跡はここにまで残されていた。階段の一番上に、笑う頭蓋骨が置かれていたのだ。店の暖炉の上に飾られていたものだった。
 洒落たことをしてくれるものだ。死を思えメメント・モリ、か。
 階段を半分ほど下りたところで、膝が震え出した。座りこみ、ゆっくりと慎重に呼吸をくり返していると、やがてチャンとリオーダンの二人の刑事が店に到着した。
 リオーダンは本の山に囲まれて立ち、まるでアトラスか何か、神話の巨人といった風情だった。デニムに包まれた長い足、意外なほど上等なツイードのジャケットの肩の縫い目は筋肉に押し上げられて今にものびてしまいそうだ。彼は不機嫌に周囲を見回しており、こんなに散らかしてこの店はだらしないとでも言い出しそうだった。
 チャンが階段をのぼってきた。
「大丈夫ですか、ミスター・イングリッシュ?」
「ああ」
「こういう時は店内に入らずに、隣の店で電話を借りた方がいいですよ」
「ああ。後からそう思った」
「何かなくなったものがあるかどうかわかりますか?」
「レジの金がなくなってる」
 僕は傾いた本棚を見つめた。砕け散った鏡の破片が頭上の照明を受けてきらりと光っている。割れた鏡は不吉の証だが、この不吉は犯人に行くのか、それともこっちにふりかかるのか。僕は額をこすった。
「あとは……わからない」
 チャンは無言で僕の様子を見ていたが、背を向けた。階段を下りていく彼を一階でリオーダンが迎え、二人は小声で情報を交換した。
「こじ開けて侵入した痕はない」
「ロバートの鍵を使って入ったんだと思う」
 リオーダンの言葉に、僕は頭を整理しながらそう答えた。オフィスのバスルームの窓が開いていたのを思い出していたが、あまりに小さくて細い窓だし、猿でもなければあそこから侵入するのは不可能だ。
 リオーダンがちらっと視線を投げてきた。
「ああ、かもしれないな」
「かもしれない?」
 チャンが、相変わらずのそつのなさで割って入った。
「下に降りてきて話を聞かせてもらえませんか、ミスター・イングリッシュ? 何がなくなっているのか確認しましょう。誰か、相手の心当たりについても」
 リオーダンが言った。「フラットの鍵を貸してくれ、アドリアン。上の階を確認してくる。ベッドの下で誰も待ち伏せしてないかどうかな」
「ロバートは僕のフラットの鍵は持ってなかったし、ドアがこじ開けられているかどうかくらい見ればわかる」
「確かめておくにこしたことはない。ほら」
 鍵を放ったが、苛立ちで少し狙いが狂った。リオーダンはそれを片手ですくい上げ、のしのしと階段を上って僕を通りこしていく。足音で、二階まで上ったのがわかった。鍵の回る音。続いて二階の床板がきしむ音が聞こえてくる。
 チャンがガムを一枚取り出し、口に入れた。
 何分もたたないうちにリオーダンが戻ってきた。彼はチャンと目配せを交わすと、複製のチッペンデールの椅子を引き起こしてこちらへ押しやった。僕は無視して立ったままでいた。
「顔色があまりよくないぞ、アドリアン」
「ああ、何しろ色々あった日でね」
「聞いてるよ」
 リオーダンの上唇が、偽の微笑に歪んだ。この際、もう一度聞かせてやることにした。
「何と言っても昨夜は親友が殺されたし、今日は店が荒らされた。警察にとっちゃ日常茶飯事かもしれないが、こっちには違うんだ」
「ふむ」
 語尾を引くように、ゆっくりとリオーダンが言った。
「その話をしようじゃないか。ロバートの話だよ。今朝、正直に言わなかったことがあるようだな?」
 何かが変わっていた。彼らの表情も、態度も、口調も。リオーダンが「ミスター・イングリッシュ」ではなく「アドリアン」と呼びかけてくることも。僕の首の後ろがざわついた。
「何を言ってるんだ?」
 リオーダンがニッと笑った。まるで熱心に歯医者に通う鮫のような、白く見事な歯並び。チャンが口を開いた。
「たった今、ブルーパロットに寄ったところでしてね。あなたからの通報があったと聞いた時には丁度、バーテンダーから聞き取りをしていました。それでいくつか、あなたに確認したいことが出まして」
「何で今朝、嘘をついたのかとかな」
 僕の頭が操り人形のようにくいっとリオーダンの方を向いた。おうむ返しにする。
「嘘?」
「ブルーパロットのバーテンダーは、あなたと被害者ガイシャ——」チャンは言い直した。「あなたとミスター・ハーシーが夕食中に言い争っていたと証言しています。そしてミスター・ハーシーはあなたを置いて、支払いもせずに出ていったと」
「それは……昨夜は僕から誘ったから、僕のおごりだった」
「そんなことはどうでもいいんだよ。そうだろ、アドリアン?」
 リオーダンが割りこむ。彼はチャイナハウスという本を拾い上げ、表紙で抱き合う二人の男を眺めた。鼻で笑い、からっぽの棚へ放り投げる。
「どうしてロバートと言い争ったことを黙っていたんだ?」
「言い争いなんかじゃない。あれは——意見の食い違いだ」
「あんたと意見の食い違ったロバートは、その翌朝、ゴミ箱の中からゴミ収集車に発見されたわけだが」
 ぼんやりと、今にもこの二人の目の前で気絶して倒れてしまうのではないかと思った。全身に冷たい汗がにじむ。
「僕がロバートを殺したと思っているのか?」
「どうだろうな。殺したのか?」
「殺してない」
「確かか?」
「当たり前だろ!」
「落ちついて、ミスター・イングリッシュ」チャンが口をはさんだ。「型通りの質問ですから」
「ロバートとどんな意見の食い違いがあったんだ、アドリアン?」
 僕はじろっとリオーダンをにらんだ。彼の目ははしばみ色だと、今になって気付く。
「仕事のことだよ」と答えた。「ロバートが真面目に仕事に取り組んでない感じがしたんだ。遅刻はするし、さっさと帰る。時にはまるで来ないこともあった。やっておいてくれとたのんだ仕事もやらなかったり。些細なことばかりだ……今は、後悔しているよ」
「後悔って、何を?」チャンが敏感に食いついた。
「彼と口論したことをだよ。最後の会話が、口喧嘩だったなんて——」
 涙で頬がちくちくした。僕は手早く頬を拭う。大の男が泣いているところなど見せたら、この二人はますます疑うだけだ。
「バーテンダーによれば、ハーシーは“俺が泥棒だと思うならクビにすればいい”と怒鳴って出ていったということですが、どういう意味ですか?」
 僕は二人に目を向けた。チャンはやかましくガムを噛みながら手帳を見つめていた。くたびれているように見えたが、丸っこい顔は親切そうだった。もう片方のリオーダンはと言えば……いくつぐらいだろう、三十五歳、四十五歳? 人間の最悪の部分を常に予期し、何ひとつ期待などしない男に見えた。
「小銭が何回か、なくなることがあったんだ」
「ロバートが盗んだと思ったのか?」
「彼の答えを聞きたかっただけだよ」
「それで、信じたのか?」
「勿論信じたさ」
 リオーダンが笑った。険しい響きだった。僕に問いかける。
「何で嘘をついた? あんたが小さなことに嘘をつくのなら、もっと大きなことに嘘をついていないとどうしてわかる?」
「ロバートは友達だったんだよ!」
 リオーダンは片方の肩を上げた。
「人間は友達を殺す。妻を殺すし、夫を、父を、母を、兄弟を殺す。自分の子供を殺すことすらある。何の根拠にもならん」
「気に入らなければロバートを解雇すればすんだことだ。でも僕は彼をクビにする気にはなれなかった。それなのに殺すと思うか? 何故だ? レジの金をちょろまかしたからか? 遅刻したから? 勘弁してくれ、あんたたちそれでも刑事か!」
 チャンがなだめるように、
「ええ、あなた方——あなたとハーシーはたしかに古い友人同士だった。あなたは彼の結婚式の付添役をつとめ、後にロサンゼルスへ戻ってきた彼に職を与え、住む場所を探す手伝いまでした。そして、彼と恋人同士になった。昔のように」
「あいつとつき合ったことは一度もないよ」
「こっちで聞いた話は違うな」
 リオーダンがそう切り返した。
「あんたたち二人は昔から一緒にシケこむ仲だったらしいじゃないか。高校の化学のテストでハーシーがあんたの答案をカンニングしてた時代からな」
 僕の書いた小説はなんと間違っていたのだろう、という思いがよぎった。あそこに出てくる刑事たちを、僕はあまりにも刺々しく書きすぎた。チャンとリオーダンは最初はおだやかで抑えた態度を取っていたが、だからこそ、こうしてたたみかけられると拳で顔面を打たれたような驚きと威圧感があった。
 僕はできる限り平静な口調を保とうとした。
「ロバートは昨夜、僕よりも早く帰ったんだ。誰かに会う約束があったから。バーテンダーが証言しただろ?」
 チャンが、口の中でガムをパチンと鳴らした。
「ええ。ロバートは六時四十五分に立ち去り、あなたは一人で残ってミドリ・マルガリータのおかわりを飲んでから七時三十分に帰った。そしてその十五分後、ロバートが店に戻ってきた。あなたを探しに」

--続きは本編で--

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