ウィンター・キル
ジョシュ・ラニヨン
■プロローグ
寒かった。頬を刺し目が潤む、身を切るような寒さだ。満ちて低い月でさえ、霜に覆われて見えた。
彼は腕で自分の体を抱き、固い地面で足踏みして、家と暖かい寝床を恋しがるまいとした。
あそこはもう家ではないのだから。彼はバックと二人で新しい人生を始めるのだ。遠くで。陰口や偏見から離れ、自分より惨めでない相手が妬ましくて他人の人生に口出しせずにはいられない人々からも離れて。
これからは、バックこそが彼の帰る場所なのだ。
そう思うと気分が良かった。
頭上でフクロウが鳴いて、彼はとび上がった。そんな自分を笑う。
だがこの場所は心細い。それは間違いない。孤独で静かで、とても暗かった。周囲の山は月光で銀に輝き、針葉樹の青黒い先端は光って見えた。
黒が単色だと思うなら、こんな辺鄙なところで、揺れる灯りと踊る影に囲まれてみればいい。
バック、早く来て――。
ふと、バックが心変わりしたのではないかと不安を覚える。そんなことを思うのはそれこそ不吉な気もしたが、バックが彼と同じように物事を見てくれるまでにはかなり時間がかかったのだし。二人にとって、これはたやすい決断ではなかった。
だがそれだけの価値はあると、いつか思えるはずだ。
フクロウがついに誰何をやめて、夜の中へ飛び去った。
凍てつく月が山の稜線近くへ下がってくる。
唇を神経質になめた。夜は雪の味がした。バックの奴が来るまでに凍死しませんように。岩のように固い地面を踏みならし、あたりをうろうろ動き回った。
(来いよ、バック。こんなひどいことしないでくれ)
そしてついに、近づく車のエンジンの唸りが聞こえた。鼓動が高鳴り、昂揚と恐怖とで少しくらくらする。本当に実現するのだ。二人で、始めるのだ。
ヘッドライトの白光が近づく中、彼は微笑んだ。
■1
「
FBIなんか呼ぶなよなあ」とジークが言った。
ロブも、FBIを呼んだのは判断ミスだと思っていたが、彼が決めることではないし、今さら文句を言って何になる? 返事をした。
「フィーブスだ」
「あん?」
「FBIだよ。今は自分たちを
FBIと呼んでる」
「奴らが自分たちをフランクフルトって呼んでようがどうでもいいよ」
ロブはうなった。
ローグバレー国際メドフォード空港の展望デッキに立つ二人は黙ったまま、アラスカ航空477便が着陸し、雨に濡れた滑走路を滑ってからターミナルまでゆっくり誘導されていくのを眺めた。
ロブは背すじをのばした。
「行くぞ」
「そう慌てんな」とジークは雨の筋がつたう濡れたガラスの向こうを見つめて動かない。
頭上のスピーカーから、この小さな空港で気がついていない人間がいるかもしれないとわざわざ到着便のアナウンスが流れ、機内の乗客へ向けて荷物受け取りに関する情報を知らせている。
移動式タラップが飛行機の扉に接続されるまで少しかかった。キャビンのドアが開く。やっと乗客が降りはじめた。
腹が鳴って、ロブは腕時計に目をやった。もう十二時半を回っているし、この天気ではメドフォードから保養地のニアバイまでは車で一時間かかるだろう。内心溜息をついた。しんどい朝だったし、その上これから面倒な午後になる。疑問の余地なく。
ジークがいきなり言った。
「まじかよ、バービーとケンだぜ!」
ブリーフケースを提げた女が飛行機から降りた。淡い金髪が雨まじりの風に長くなびいている。肩ごしに、オリーブ色のレインコートを着た男へ言葉をかけた。男が返事をして、彼女が笑う。
今回ばかりはジークの言うとおりだったので、ロブは苦笑いした。背が高くトレンチコートを優雅に着こなす金髪の二人は、捜査機関の人間というより流行のオーディション番組の参加者に見えた。だが二人とも捜査官なのだ。本物の生きたFBI捜査官が、陽光あふれるロサンゼルスからはるばるここまで叡智と専門知識を授けにお越しになった。
じつに腹立たしい。
「行くぞ」とロブはまた、今度は本気で言った。ジークは重い溜息をついたが、ロブと階下の到着ゲートへ向かう。そこでは、あのバービーとケンが自分たちの歓迎団を探して人々にせわしない目を走らせていた。
ロブとジークの前で、無関係な人々が道をあける。道を作るのに保安官のバッジほど便利なものはない。
「特別捜査官のグールドとダーリング?」とロブはたずねる。わずかも疑ってはいなかったが。すると男のほう――ロブくらいの背丈、緑の目、短いウェーブの金髪――がきびきびと言った。
「ダーリングだ。こちらがグールド捜査官」
「どうも」と女のほう、グールドが挨拶した。愛らしい笑顔だ。どちらが“善玉”役をやるのか、この二人ではもう決まりだろう。
「えっ、なんて名前だって?」とジークが聞き返した。
ダーリングが氷漬けにしそうな視線をジークへ向け、ロブは何とか無表情を保った。自己紹介する。
「俺はハスケル。こっちはラング保安官助手。フライトはどうでした?」
「長かった」ダーリングが答えた。「出発しないか?」
「勘違いされてもしょうがないよな」とジークがいつもながらにひどいタイミングで口をはさんだ。
緑の目をロブに向けたダーリングは、少しばかり人間らしく見えた。グールドが「何です?」と淡い眉を寄せる。
またジークが余計な言葉を続ける。
「誰だって間違えるってね、あんたのほうがいかにもダーリン――」
ロブはさえぎった。
「車はターミナルの向かいの駐車場に停めてある」とジークを出口のほうへ強く小突いてうながす。ジークが顔をしかめてにらみ返してきた。「荷物は?」とロブはFBI捜査官たちにたずねた。
グールドが手のブリーフケースを見せる。ダーリングは質問が耳に入らなかった様子で、雨で薄暗い十月の外が広がる出口のドアへまっすぐ向かっていた。
一行は地域パトロール車のSUVに乗り込んだ。捜査官たちは後部座席に、ジークは助手席に。ロブはエンジンをかけた。
「町まではどれくらいかかる?」とダーリングがたずねた。
「一時間もありませんよ。雨だからいつもよりはかかるかも」
「お前の運転じゃなあ」とジークが混ぜっ返した。
ロブはそれを流して、駐車場から車を出すと、東へ向かった。
「あんたたち、マジでうちの
被害者がロードサイド
切裂き魔にやられたって思ってんのか?」とジークが後部の乗客たちを振り向いて聞いた。
「それを確かめに来たのよ」とグールドが答えた。
「これまで何体見つかってる?」とジークが聞く。
「我々の見立てでは二十一件の犯行が確認されてるわ」
グールドの声はのどかだった。天気の話でもしているように。
「俺はFBIに応募しようかと思ったことがあってさ」ジークが言った。「でも一日中ネクタイしてるなんてクソなこと耐えらんねえからな」
ロブは鼻で笑いそうになってこらえた。州道62号線へ合流しながらバックミラーへ目をやると、一瞬ダーリングと目が合う。ダーリングの口元は、笑いと呼べない程度に皮肉っぽく上がっていた。
「フランス語で失礼」とジークが悪態の分をグールドに弁解する。
「
いいえ、ちっともとグールドが返した。
ジークが満面の、あけっぴろげな笑みを彼女に向け、お返しの微笑をもらってはいたが、どう見ても無駄だ。グールドはジークの手が届くような相手じゃない。ほかの惑星から来たと言っていいくらいに遠い。
またもやロブの視線がバックミラーに上がり、ダーリングの辛辣な凝視と合った。ダーリングはまばたきもせず、目をそらしもしなかった。
緑色というのは一番珍しい目の色じゃなかったか? とにかくダーリングの目の色は珍しいはずだ。ロブはこんな色合いを見たことがない。コンタクトだろうか。どっちにしても……その視線は遠慮なく強烈だった。状況が違えば、含みを感じるほどの視線。いやこの状況下であってもそんな含みを読み取れそうだ。ありそうもないが、しかし……。
ジークが聞いた。
「その二十一人の被害者のうち何人がオレゴンで?」
「七人」とグールドが答える。
「でもオレゴンで殺されたとは限らないよな」
「そのとおり」
「この辺に捨てられたってだけの話かもしれない。奴は州間道5号線沿いを捨て場にしてたよな?」
ダーリングが、今や視線のレーザーをジークの後頭部に据えていた。ジークの頭が炎に包まれてもロブは驚かなかっただろう――どのみちあれだけヘアスプレーを使っていてはい特に不思議はない。ロブに言わせればストレートの男には多すぎるくらいの量だ。
「それが現時点での仮説ね」とグールドが答えた。
「捜査班には何人いるんだ?」とジークがたずねた。「西海岸全体でやってるんだろ?」
「史上最大規模よ」グールドが応じた。「私たちですら全容をよく知らないくらい」
明らかに嘘だったが、パートナーのダーリングがジークに物申したそうな一言よりはずっと優しい。
「何か要りますか?」ロブはたずねた。「腹は空いてません?」
「ああ、空いてるね」とジークが言う。
「シアトルの乗り換えで二時間あった」ダーリングが答えた。「食事はすませた。それに時間がない」
グールドがパートナーに目をやる。口に出しては「まあ、自然が多いのね、ここは」と言った。「こんな雨がカリフォルニアにも少しほしいわ」
「ニアバイではこれまで殺人事件が起きたことはないんだ」ジークの声がやや尖った。「あんたたちにとっちゃ毎日で慣れっこかもしれないが、こっちじゃ大ごとなんだよ」
「殺人かどうかはまだわからない」とロブは目でたしなめた。
もちろん通じやしない。
「だな」とジークが応じた。「自殺かもしんねえよな。被害者は石の山の下に自分で自分を埋めたのかもなあ」
日曜の午後、140号線から外れて今はもう廃止された林道で、キャンパーたちが石で覆われた浅い穴に埋まっていた死体を発見した。ロードサイド
切裂き魔のいつもの縄張りとは言えないが、どうしてかフランキー――フランチェスカ・マックレラン保安官――は念のためにFBIを呼ぼうと言い出したのだった。ロードサイド
切裂き魔の事件がどれだけ注目されているのかよくわかるというものだ。こんな山中の町にすらその名が届いている。
だがこの哀れな
身元不明死体がリッパーの被害者である可能性は? ロブはあまりありそうにないと思っていた。
そうであっても、二十四時間後、こうしてFBIからバービーとケンが彼らの町にやってきた。
「もう保安官事務所で働いてどのくらいです、ラング保安官補?」とグールドがたずねた。
「六年だな」
「どんな感じです?」
自分語りが大好きなジークはエンジン全開になった。口のエンジンが。グールド捜査官は時々感想をさしはさんでジークを満足させていたが、どう見てもただの社交辞令――あるいは自分たちの捜査から話をそらしているだけだった。
進行中の
彼らの捜査。
ご勝手に。田舎で働く良さのひとつは、大きな捜査機関にありがちな縄張り争いとは無縁でいられることだ。遠慮したい。ロブにしてみればあの
身元不明死体がリッパーの被害者だったなら、喜んでFBIに事件まるごとくれてやる。ただ、そうくわしくはないが聞き知った限りでは、リッパーとは関係なさそうだった。今回発見された死体はあまりにもいつもの犯人の縄張りから離れている。
ジークはまだ保安官事務所での自分のキャリアの見せ場を語っていた。グールドもまだ愛想よく相槌を打っている。ダーリングはSUVの窓から、国有林の奥深くへのびる道の左右に並んで雨に光る高い木立を眺めていた。ロブはアクセルを踏み、車は一気に加速した。
「ニアバイの中には死体安置所はないんです」
五十分後、ロブはマウンテン葬儀社の前で車を停めると、ブルーロック入江で“すっぱだかの”車上荒らし犯をいかに独力で捕らえたか長々と語るジークの話を遮った。ジークからは責めるように睨まれたが無視する。
「クラマス・フォールズの監察医のクーパー医師がニアバイに別荘を持っているので、検死を担当してくれます」
「いい趣味ね」とグールドが言った。検死の取り決めについて言ったのか、レンガと白い羽目板の建物の前の小さな庭を小ぶりな墓地のように囲む黒い鉄フェンスについて言ったのかはわからない。
ロブはエンジンを切ってシートベルトを外した。全員が車を降り、装飾的なゲートを抜けると、背後でゲートがガチャンと耳障りな音を立てて閉じた。少し前から雨はやんでいる。空気は冷え冷えと、松葉の香りがした。紅葉して濡れた葉が通路に粘りついている。白い木の階段が濡れて滑りやすい。
ガラスの両開きドアの入り口まで来たところで、フランキー保安官が中からドアを開けて身をのり出した。
「遠回りでもしてたのか? 迷子になってるかと思ったよ」
ロブが答えるより早く――返事をする気もなかったが――ジークが「おばあちゃんに運転なんかさせるからっすよ」と言った。
フランキーはそれを無視する。ダーリングとグールドを迎えてひとつうなずいた。
「どうも、捜査官。すぐ来てくれてありがとう」
日焼けしてしみのある手をダーリングへ差し出す。ダーリングがその手を握って言葉を返した。
「お知らせいただいて感謝します、保安官。私はダーリング捜査官、こちらはグールド捜査官」
フランキーが開けたドアをグールドのために押さえ、グールドはベージュのパンプスと見事な髪型で鋭い表情をして通りすぎる。
「ここがFBIの捜査範囲と外れているのはわかっているが、確認にこしたことはないと思ってね」
フランキー保安官はきっと人生で一度もヒールを履いたことがないだろう。少なくともロブには彼女のヒール姿も、もちろんドレス姿も想像できない。小柄でがっしりした、五十代半ばの女性で、年季を感じさせる赤らんだ顔にちぢれた錆色の髪をしていた。四年任期の保安官職に四期連続で当選しているのは見た目ゆえではない。その地味な外見と強面の態度にも関わらず、長年守ってきた町民たちから敬愛されていた。
「ドク・クーパーはクラマス・フォールズの監察医でね。今日は彼にお願いしている」
「聞きました」
ダーリングが答える間にフランキーは空の棺桶や、造花がぎっしり刺さった骨壷の障害物をすり抜けて進んだ。
安置室は――ショールームという呼び名がふさわしいかはともかく――ホルムアルデヒドと消臭剤の匂いがして、ロブは今さらながら食事に立ち寄らなくてよかったとホッとした。
開いたドアから雨香る空気が吹き込み、造花の花びらを揺らし、壁にかかった一心に祈る子供たちの肖像画をカタカタと鳴らした。商業主義と弔意が奇妙に入り混じった、ちぐはぐな雰囲気がある。普通の、今時の遺体安置所ならこうおかしな気分にはならずにすむのだろうか。
フランキーすら声を落としてロブとジークに命じた。
「二人ともは必要ない。ジーク、本部に戻ってろ」
ジークはすぐさま言い返した。
「どうして俺が? いつもハスケルばっかりいい目を見てる」
「いい目? 残ってドクが死体を切り刻むところを見たいならゆずるぞ」とロブは応じた。
「アホども、黙れ」とフランキーがうなった。「切り刻むわけじゃない。ガキのお使いをたのんでるわけでもないぞ。言ったように――」
「貴重な経験だ」とジークがたたみかけた。「いっつも、俺たちにはもっと訓練の機会が必要だって言ってたじゃないっすか」
フランキーがムッとする。それをこらえて言った。
「声を抑えろ! ミスター・エデンが控え室で皆さんをお迎え中なんだぞ!」
ジークの恐怖に凍りついた顔を、いつもならロブは笑っただろう――二人のFBI捜査官の表情に気付いていなければ。二人は、警察のコントを目の当たりにしたような顔をしていた。当然か。笑うかわりにロブは呟いた。
「ご遺族のことだよ、バカ」
「そう、ご遺族だ」フランキーが苛々と言った。「生きた生身の方々だ。どういう意味だと思った?」
ダーリング捜査官が〈関係者以外立入禁止〉の札がある白いドアへ近づきながら言い残した。
「保安官、今から我々は――」
フランキーの返事を待ちもしない。ダーリングとグールドの背後でドアが閉まり、フランキーはジークに言い渡していた。
「もういい、ジーク。そこまで言うならお前は残ってよろしい」とジークの肩の無線へ顎をしゃくる。「ただし無線はつけとけ。音を下げてな」
ジークから勝ち誇った目を向けられたが、ロブは首を振った。ジークがどう思っていようがこれは競争じゃないのだ。解剖台のそばの特等席なんか、ほしいならいくらでもくれてやる。どうしてフランキーがロブに立ち会わせようとするのかが、そもそもわからない。
「ただし通報が来たら、その時は文句を言うなよ」
「どんな通報があるって言うんです」ジークが呟いた。「ジャック・エルキンスがまた泥にはまったとか? ルビー・ロウの犬が行方不明?」
「忘れるな」とフランキーは捜査官たちの入ったドアへずかずか歩いていった。
ドアの向こうは、幾度か折れながら降りていく階段だった。処置室では、捜査官たちがドク・クーパーと話していた。
ドクはひょろっとして背が高く、金縁の眼鏡をかけ、両端がピンと上に尖った白い口ひげをたくわえていた。フランキーより年上だ。フランキーが保安官に就任する前から監察医をやっている。カウボーイブーツを履いてヴィンテージの赤いマスタングを乗り回していた。そしていささか驚くほどベッドサイドマナーがいい――横たわる相手は死体安置所の死者であるものの。
その死体、むしろ骸骨は、清潔な白い部屋の奥にある大きなステンレスの冷蔵庫からすでに引き出され、金属の死体安置台に乗せられていた。黄ばんだ頭蓋骨――ぽっかり空いた口と空っぽの暗い眼窩――がニヤッとしながら頭上のライトの白光を見えない目で見上げていた。
左の前歯の一部が欠けている。
空調が効いて肌寒く、薬品臭の染み付いた部屋には、ロブのうなじの毛を逆立てる何かがあった。
解剖の立会いは初めてではない。こんな古い骸骨の分析は、解剖とも言えないか。ロブは奇妙な悔恨めいたものを感じていた。哀れみではない。死も腐朽もいずれ誰もが迎えるものだ。だが、何か。深夜のテレビで聞いた言葉がふとよみがえる。小太りの刑事が、小さく素敵な家が建つ田舎町での陰惨な事件を解決して回るあの手のイギリスドラマで。
(死は、誰のものだろうと心を削る)
そんなような言葉だった。ともあれ、ほかの面子にさしたる動揺の色はない――ダーリング捜査官の顔色の青白さが照明のトリックでない限り。冷え冷えとした空気と薬品臭に、誰でも少し呑まれるだろう。
ジークがふうっと息を吸った。「畜生め」と低く呟く。
FBI捜査官たちは抑えた声でドク・クーパーと話をしていたが、ジークの言葉にダーリングがちらっと目を上げた。ロブと視線が合う。
今回、互いを意識した一瞬の閃きは、ロブの勘違いではなかった。場に不適切な笑みをかみ殺す。社交向きの場所とは言えない。
「じゃ、始めるぞ」ドクが言った。ドアのそばに立つ白衣の助手にうなずくと、助手がスイッチを切った。たちまち部屋を重苦しい薄闇が包む。くっきりと丸い光が、台上に広げられた骨だけを照らしていた。
「見りゃわかるが、ほぼ全身の骨が発見されちゃいるが大してできることはない」ドクが言った。「持ち物もなし、身分証の類もなし、残存する衣服は安物のありふれたものだ。ブーツ、ジーンズ、Tシャツ、ジャケット」
「年齢は?」とフランキーが聞いた。
「おそらく十代後半から二十代前半の男性。鎖骨の骨端線がまだ癒着していないのが見えるだろ。この骨は全長1752ミリだから身長も175、6センチだろう。そうでかくない。私は人類学者じゃないが、この被害者は白人だろうね。断言はできんが」
「法医学的に見て、死後どのくらい経っていますか」とダーリングがたずねた。
ドクが頬をすぼませて考えこみ、やがて宣言した。
「二十年、というところだろうな。それくらいは経っている。少なくとも現代の骨だと思うが、くり返しになるが専門じゃないんだ」
ダーリングの眉が寄った。
「この標本がそこまで古いのはたしかですか?」
ドクがむっとした目を向ける。
「かなりたしかだ。ここで教えてやれんのは、死因だよ。前歯の欠け以外、骨に損傷はない。ひびも。陥没や破砕はなし。骨には外的損傷が見当たらない。無論、内臓や軟部組織にどんな傷があったか知るべくもないが、とにかくすぐ特定できる死因はない」
グールドがダーリングに言っていた。
「年齢と性別は合うわね。でもこれは――」
ダーリングがうなずいた。
「二十年か」とフランキーが考えこみながら呟く。
「二十歳前後の行方不明者は記憶にありませんね」とロブは言った。
フランキーはドクのほうを向いた。
「98年に……山に入って消えたバックパッカーの大学生、なんて名前だったっけ?」
「ジョーダンなんとかだったな」
「そうだ、ジョーダン・ゴーラだよ」
「さては忘れてるな?」とドクが陰気に勝ち誇る。
「何を忘れてるって?」
「みんながたちまち色めき立った理由さ。あの学生は、腰の再建手術を受けてたんだよ。あの時、死体が出てくれば同定できると思ったからよく覚えてる。確実にな。この
身元不明死体はほぼ完全だ。骨の95パーセントが現場で発見されているから、生前にも死後にも骨折の形跡がないのがわかるだろ。ほら、歯も揃ってるんだ」
フランキーが舌打ちした。「じゃあほかに心当たりはないねえ」
「いい話じゃないか」とドクが言った。「あんたの事件じゃないってことだ」
ドクとフランキーが、ダーリングとグールドを見た。
「だが我々の事件でもない」ダーリングが答えた。「被害者の年齢はおよそ合致するが、地理的条件がまったく合わない」とグールドへ向く。
グールドもそれに同意した。
「リッパーがどんなナイフを使っているのかまだ特定には至っていないけれど、波刃のハンティングナイフだというのが有力よ。手作りの可能性も高い。ああいう凶器は痕が残る。肋骨、胸骨。あの手の擦痕や条痕、圧痕などは見逃しようがない」
「確かにね」とフランキーがしぶしぶうなずいた。
ロブは口を開いた。
「被害者は
身分証を服以外の場所に持っていたのかもしれない。ナップザック。リュックサック」
全員の目が彼のほうを向いた。
ロブは自分で自分の疑問に答える。
「ただし、ナップザックはどこにもなかった。リュックも」
フランキーが「ああ」と言う。
「自転車もなかった」
この辺には大勢のサイクリストが、特に夏の間、やってくる。
「自転車はほかのどこかにあるかもな」フランキーが応じた。「誰かが山の斜面から投げ落としたとか。道に置き去りにされてたのを見つけたりとか。自転車は持ってかれやすいだろ、特に値の張るマウンテンバイクは」
「家出人かもしれません」とダーリングが言った。
「だとすればこの辺には誰もいないねえ」
突然、ジークの無線が息を吹き返した。爆音のノイズに続いてアギーの小さな声がジークの現在地を求める。ドクがびくっととび上がってジークをにらみつけた。ジークは後ろめたそうにして部屋から出て行ったが、すぐ戻ってきてロブを手招きした。
「行くぞ。5号線の東で12-16だ」
おっと、交通事故だ。そして州警察ではなくこちらに通報が来たということは、ほかに対処できる人間がいないということだ。これでこの午後、そして夜まで手いっぱいになるだろう。
ロブは残念そうな視線をダーリング捜査官へ飛ばしたが、ダーリングは眉を寄せて骸骨を見下ろし、ロブの存在すら忘れたようだった。ロブがてっきり勘違いしかかったあの空想のつながりはどこに?
内心溜息をついて、ロブはジークについて処置室を出ると、葬儀社の一階まで階段を上っていった。
「あの野郎、彼女とヤッてるかな?」
ジークが、処置室の冷蔵庫の中にまで届きそうなひそひそ声で言った。
何のことだととぼけたい誘惑はあったが、ロブは本音で答えた。
「いいや」
「やけにきっぱり言うな?」
たしかにこれについては少々確信をこめすぎたかもしれない。ロブは肩をすくめた。ジークが振り向いたので、もう一度肩をすくめる。
「FBIには職場交際禁止ルールがあるかもしれないしな」
「いいや、ないぜ」意外にもジークがそう言った。ロブの視線を受けて続ける。「デタラメ言ってたわけじゃねえ、俺はマジでFBIに入ろうかと思ったんだよ。ただあんな、ケツの穴までカチカチのアホ面捜査官連中と働きたくなくてな」
「お前の語彙は大したもんだよ、ラング」
「あんなバービーみたいな可愛い子もいるって、思い出すべきだったよ」
夢の見すぎだ、とロブは思った。このニアバイでは適齢期の独身男が品薄で、そのせいでジークは自分の男の魅力に過剰な自信を抱いているのだ。
「とにかく、とんだ時間の無駄だったな」
ジークがそう言いながらガラスの両開きドアの玄関を開けた。薬臭く冷え冷えとした地下の後では、雨に濡れた空気にほっとした。
そして、安置台の骨を陰気に見つめていたダーリング捜査官のことを思い出すと、ロブもジークに同意したい気分だった。
■2
「時間の無駄だったわね」
ジョニー・グールド捜査官はそう言いながら、アダムについて彼のキャビンへ入ってきた。
雨がまた降り出していた。雨粒が屋根を心地良いリズムで打っていたが、部屋は冷えて湿っぽかった。ここは空調があるのか、それとも暖炉や薪ストーブで暖を取らねばならないのだろうか。
「いつものことだ」
アダムは外したネクタイを、冠雪したカスケード山脈の絵の下にあるテーブル前の、椅子の背もたれにかけた。襟元をゆるめる。
ジョニーは彼のベッドの足元側に座って、パンプスを脱いだ。
「そうとは限らない。当たることだってあるでしょ、グランツ・パスの事件は間違いなくうちのやつだったし」
ストッキングに包まれた足を屈伸させ、爪先をのばして、また曲げた。すらりとした脚だ。オードリー・ヘプバーンのようでしょ、と当人がアダムに言ったのだ。その記憶にアダムはかすかに微笑んだ。
「グランツ・パスは5号線が通っている。この犯人は、州間道5号線周りをうろつくのが好きなのだろう」
ジョニーが呻いた。
「にしてもひどいわね。徹頭徹尾。死体を地中から引っ張り出してマウンテン葬儀社だかマッド葬儀社だかに担ぎこむなんて。法人類学者を呼ぶなんてこと、頭にも浮かばなかったんでしょうね? それで犯罪現場を
壊滅させちゃって」
「そうだな」
ジョニーはすっかりエンジンがかかっており、この際全部の不満を吐き出させたほうがいい。それにアダムとしても心の底から同意見だった。
「一度よ?」とジョニーが人差し指を立てた。「手つかずの現場を調べる一度きりの機会。あらゆる物的証拠を採取する唯一のチャンス。発見場所の写真を撮り、地形や死体に残る何らかの証拠を確認し、必要なデータを集める――それを台無しにしたのよ!」
「わかってる」
「救助作業か何かのつもりだったのかしらね? いち早く死体を回収しないとって? あの人たちちゃんと研修受けてるの? 制服着てるのに。本物の保安官なんでしょ、地元の自警団とかじゃないわよね? バッジ着けてるし。ヒゲ医者があの現場をどんな手順で扱ったか聞きながら、私、卒倒するかと思ったわ」
ヒゲ医者、の言葉にアダムはつい笑みをこぼした。
「軟部組織がない以上、あの
身元不明死体にリッパーのほかの被害者同様の傷があるかどうかは断定できないわね」
リッパーは被害者の胸に記号を刻み付けていた。肉と血は扱いにくいカンバスなので、その記号が何なのか、誰にもはっきりわかっていない。現時点で一番有力な仮説は、そのギザギザの線が不完全な十字架と花を表しているというものだ。
「ああ、できない」アダムは答えた。「それを懸念していたんだ。だが監察医が考えているほどあの骨が昔のものなら、リッパーの犯行だとは考えにくいだろう。だから、我々の捜査に影響はない。彼らは自分の捜査の邪魔をしただけだ」
「それ、私の機嫌を取ろうとして言ってるだけでしょ」とジョニーがむっつり言った。
「いいや。あれがリッパーの犯行なら、あの林道の死体からレッディングで心臓をえぐられて発見されたジャッキー・ラモスまでの二十年間、奴は何をしていた?」
「いい指摘ね」ジョニーがアダムの顔を眺めた。「でも疑ってもいるんでしょ? あの薄気味悪い地下安置所で、そんな顔してたわよ」
「疑いはある。だがその部分ではない。こんな長年の空白は理屈に合わない」
連続殺人犯に中断期が存在しないわけではないが。BTKキラーがその証だ。病気、刑務所、縄張りの変化……時にただ歳をとって犯行から手を引くこともある。死んだり。だが、殺人の間隔が二十年空くというのはきわめて低い可能性だ。そして今回、理屈に合わないことはほかにもある。
ということは、ロードサイド
切裂き魔の犯行数はまだ二十一のままだ。一方のFBIが一矢も報えていないうちに。アダムは溜息をついた。
「あの人たちがDNAの話を始めた時、笑いたいか泣きたいかわからない気分になったわよ」
そう言いながらも、ジョニーは気を鎮めつつあった。頭に来ているというよりうんざりしている声だ。
「田舎のパトロールだからな。よく言ってもせいぜい分所レベルだ。わざわざFBIに連絡してきただけ大したものだろう」
ジョニーは返事をしなかった。数秒、二人は屋根を打つ雨音に耳を傾けた。
「それって本物の絵?」ジョニーがベッドから立ち上がって机に近づき、木枠の絵をしげしげと眺めた。驚きの笑いをこぼす。「筆の跡があるわよ。本物の芸術作品がかかった部屋に泊まれるなんて、いつ以来かしら?」
「芸術は言いすぎでは」
「まあね。ほらまあ、本物の絵ってことよ」
アダムは首を振った。貸しコテージの内装を眺める。節の多い板壁、織地のラグに青い格子縞のカーテン、薪ストーブにヴィンテージの赤いフォーマイトのカウンター。
「このコテージ、いつ頃建ったものだろう」
「五十年代あたりじゃないかしら?」
「そんな感じだな。その頃と同じマットレスを使っていないよう願おう」
「シーツも変えてくれてるよう願うわ」ジョニーがベッドに戻ってヒールを履いた。「モーテルがひとつもないなんて信じられない。こんな小屋、温まるまで延々とかかるわよ」
「そっちの部屋まで行って暖炉に火を熾そうか」
「冗談、元ガールスカウトに何を言ってるの」
これが初めてではないが、ジョニーが何気ない言葉を女性蔑視と受け取らないたちで助かった。アダムはニヤッとした。
「それは初耳だ。じゃあ、どうせなら夕飯を食いに出ないか?」
彼女はトレンチコートの深いポケットから丸めた雑誌を引っ張り出し、アダムにつきつけた。『素敵な花嫁』。
アダムは、表紙のエアブラシで修正された幸せいっぱいの花嫁にしかめ面を向けた。
「それはそうだが、どうして結婚に当たって毎日ディナー抜きにしなければならないのか、僕には理解不能だよ」
「ヴェラ・ウォンのサイズ4のウェディングドレスが入らないなんてことがないように、夕食を抜くのよ。ディナーがまた食べられる日が待ち遠しいわ」
「クリスが、きみとの新婚旅行中にアウトバック・ステーキハウスを予約したと言っていたよ」
ジョニーが笑った。
「最高じゃない。その店がマウイにある限りね。旅と言えば、私たちの帰りの便はいつだっけ?」
「午前六時半。ロスへの直行便だ。乗り逃したくはないね」
オレゴンが目的地なのにワシントン州へ飛んでから二時間乗り継ぎ便を待つ、などという時間の無駄がアダムは心底嫌いだ。しかもこの数ヵ月、そんなことばかりやってきた――5号線近辺でぽつぽつと見つかる死体のどれがリッパーのものか確認するという嫌な仕事を押し付けられて。
だがそんな誰もが羨む仕事をあてがわれるのだ、四ヵ月前のアダムのように盛大にしくじれば。
「それはあのお馬鹿コンビに言ってやって。正直、あの人たちは一刻も早く私たちを追い出したいだろうけど」
「それはどうだろう。きみはかなりいい印象を持たれているようだよ」
ジョニーがそれに笑った。
「スカートさえ履いてれば可愛く見えるんでしょ。じゃあ、暁時に会いましょう」とドアへ向かう。「私がしないような悪さは何もしないでね」
「夕食を食べるとかか?」
ジョニーの後ろでドアが閉まると、アダムは真顔になった。一人の食事は大嫌いだ。一人でいると、忘れたいことを延々と考えてしまう。思えば皮肉だ、かつては朝食でも昼食でも夕食でも事件の話ばかりしていた彼が。
とは言え、あの頃の仕事は
死体安置所パトロールではなかった。
キャビンの中をたしかめ、唯一の熱源が使い回しの固形燃料を燃やすだるまストーブだけという事実を認めるしかなかった。これから火を熾しても、すぐ夕食の頃合いだろうし、放置して火事でこのリゾート地を焼き払う羽目になるよりは、ひとまず熱いシャワーを浴びて、ストーブの相手は戻ってきてからのほうが話が簡単だろう。
熱いシャワーは良かったが、二分も経つと湯温が下がりはじめた。急激に。アダムは濡れた体を拭い、服を着て、髪をきっちりととかした。
その成果に苦笑する。いかにもな政府の職員? 前ならそんなことにも笑えたかもしれない。どのみち、夜遊びに出かけるわけでもないが。
むしろ、夜遊びなんか最後にしたのはいつのことだったか。
キャビンのカーテンを閉め、布団をめくって空気にさらした。ランプの灯りに照らされたキャビンはそこそこ居心地良さそうに見えた。ペンドルトンの毛布、木の台のオイルランプ、古めかしい壁の絵が、時が巻き戻ったような雰囲気を出している。この内装はどこか懐かしかった。父からただ一度きりつれていかれたキャンプの時か?
何にせよ一晩だけのことだ。それがすめば、空調とたっぷりの湯がある世界へ戻れる。文明社会へ。
キャビンを今一度見回してから、アダムはコートを手にし、夕食を取りに外へ向かった。
雨はまたやんでいた。暗く、そびえ立つ針葉樹から雫が降り注ぐ深い闇の世界。数メートル先にジョニーのキャビンの明かりが見えた。このキャンプ場の客は彼らだけのようだ。十月ならこんなものか。風光明媚ではあるが、この辺には夏の水遊びから冬の雪遊びまでの間に観光客が楽しめるものはあまりない。
松葉が、湖畔のレストランを目指すアダムの足音を吸い取る。木々の間から輝く窓が見え、食欲をそそる焼けた肉の匂いが漂ってきた。
とても静かだ。湖の波音や草葉のざわめきが聞こえるほどに。雫の一滴ずつが大きく響く。
心細くはない。そういうたちでもないし、訓練も積んでいる。自分の身は守れるし、その自信も持っている。だがこの場所の何かが、アダムの心をざわつかせていた。
それとも、マックレラン保安官の不安が伝染したか。何しろ彼女は……思い悩んでいたからだ。危機感というほどのものではない。彼女を悩ませているものは、はっきりした形のないものだ。彼女にはそれを言葉で言い表せない――あるいはまだそこまで思いきれていない。だがアダムは、その困惑は二十年前の殺人とは違う何かについてだと見ていた。あの死体を心良く思ってはいないが――予想していたわけでもないが――彼女の心をわずらわせているのはそのことではない。
いや、彼女はもっと悪い事態を覚悟していたのだ。
アダムの思い違いかもしれないが、検死結果を聞いても、保安官にはほっとした様子がなかった。
湖から立ちのぼる霧が岸へと流れてくる。ハロウィンにはさぞ不気味な舞台になるだろう。
アダムは歩きつづけた。レストランまでは思いのほか距離があった。夜闇は距離が読みにくい。
不安を振り切ることができなかった。だが心の乱れを、不吉の予兆と勘違いしているだけかもしれない。アダムを本当に悩ませているのは、ジョニーとあまりにも離れがたいという実感かもしれなかった。結婚式がすめば辞職するというジョニーの決心は変わっていない。運命の日は四ヵ月先だったが、もう無視できないほど迫っていた。ジョニーというパートナーを失いたくなかった。ジョニーが腕利きの捜査官だから、だけではない。それも大いにあるが。そしてジョニーが友人だから、というだけでもない――アダムはたしかに誰にでもつき合いやすい相手ではないが。別に人気者になりたくてFBIに入局したわけでもなし。ただ、ジョニーはアダムにとって初めて心底しっくりきたパートナーだったのだ。まだ組んで四ヵ月だったが、二人はいいチームだった。わざわざ話さなくても相手の考えが読めたし、ほかのパートナーたちのように反目や対抗意識を抱かれることもなかった。アダムは彼女を気に入り、敬意を抱き、信頼していた。
だが彼に決定権はない。ジョニーによれば、FBI捜査官は一家に一人で充分で、だから彼女は二月に退職するのだ。
白くてゴテゴテした二階建ての、正面にガタつくポーチがある建物が見えてきた。水辺に建つそのボートハウスの横手には低く長いデッキがあり、そのデッキはポーチの明かりを受けて骨のように光っていた。月が出ていないので、ボートハウスの板ぶきの屋根や、ガイドブックに“素朴な魅力”とか書かれそうなあれこれ以上のものは見えなかった。
レイクハウス・レストラン&バーは営業中だった。アダムにしてみればそれで充分。窓の内側は照明で明るく、夜空に銀の煙が立ちのぼっていた。
短いステップを上る。正面ドアのガラス窓には〈十月十五日から三月十五日まで休業。ハッピー・ホリデイズ。またね!〉という張り紙があった。
店内の音からすると、地元の人々が店と騒々しくも心のこもったお別れの会をしているようだ。アダムはためらった。静かな食事と一、二杯の酒を、と思って来たのだ。マックレラン保安官によればこの店以外の候補は壁の中の穴みたいなピザ屋と道具箱サイズのバー。バーはマリーナ・グリルというご大層な名前だったが、グリルドチーズサンド以外のグリル料理があるとは思えない。
アダムは店のドアを開け、暖気と騒がしい声の中へ歩み入った。
淡い緑色の派手な髪型をした小柄な娘が、何人づれかとアダムにたずねた。
「一人だけだ」とアダムは答えた。
娘は彼に哀れみの目を向け、クリップボードをたしかめてから、先に立って歩き出した。アダムはマーメイドカラーの髪の彼女について奥行きのある混んだバーを抜ける。フランネルのシャツやダウンのベスト、ハンティングキャップがやたらと目につく。幾人か女性もいたが、アダムに向けられた険しい好奇の目はほとんどが男のものだった。
大きく無骨な、黒ひげの男が、青い目で鋭くアダムを値踏みし――そして背を向けた。
もう、慣れた。
ニアバイのような小さな保養地では、アダムが何者で何のために来たのかも知れ渡っているだろう。それどころか、隣人たちと酒を飲んで笑っている男たちの誰かが林道で見つかった
身元不明死体の殺害犯かもしれない。フリンジジャケット姿でウェイトレスにコナをかけている銀髪の男は? 五十代にもなってフリンジジャケットを着ているなんて、それだけで逮捕されるべきだろう。
この仕事の厄介なところだ。バーに入った瞬間から、ここにいる誰が子供の養育費を払っていないのか、妻に暴力をふるっているのか、裏道に死体を捨てたんじゃないかと考えずにはいられない。自分が取り締まるべき人々の中で暮らすのは、楽だろうか、苦しいだろうか?
アダムの目がハスケル保安官助手に留まって、食堂へ続く小さな段につまずきかかった。
「足元に気をつけて!」
緑の髪の接客係が今さら肩ごしに言ってよこす。
ハスケルはスコッチウイスキーのようなものを飲みながら、仲間たちの親しげなからかいを受けていた。「無罪! 無罪だよ!」と抗って、笑いながら首を振っている。その視線がふとアダムのほうへ流れ、二度見まではしなかったものの、ほんの一瞬――妙に長く感じられた一瞬――二人の目が合った。
アダムの鼓動が不意に速まり、顔に血が上るのがわかった。
さっき、もしかしたら……なんて思いがなかったとはとても言えない。予想外のことだったが。近頃アダムはすっかりツキに見放されていたし。それにこんな小さな町――町というにも小さすぎるリゾート集落――ではいくつも障壁があるだろうとも思っていた。妻と子供の存在とか、そういう。
勘違いかもしれなかったし。というか、きっとただの勘違いだ。サインを読み取るのは得意じゃない。普通の人間よりサイコの気持ちを読むほうが上手だな、とタッカーには言われたものだ。
今一番思い出したくない男、タッカー。
「ここでいいですか?」と接客係が、ノーマン・ロックウェルの釣りの絵が数枚かかったコーナーの小さいテーブル席で立ち止まった。
「いいね」
ハスケルの姿が格子縞とデニムの波にさえぎられて見えないから、本当はあまり良くない。空席はここだけだったので、仕方なくアダムは座ると、よれよれのメニューを取り上げてケチャップのしみだらけのページをとりとめなく眺めた。
「飲み物は何を?」と接客係が聞いた。
「ジン・アンド・トニック」
「wellのジンでいい?」
まだ気が散っているアダムは「もちろん」と自動的に返してから、彼女が去ると自分に舌打ちした。安物のジンは嫌いなのだ。なんだろうと安物は嫌いだ。
さらにメニューをしげしげ眺めた。のたくるような字に焦点が合ってきて、何があるのか読み取っていく。ビーフが多い。トライチップの燻製からミートローフまでのあたりに、何か食べたいものがありそうだ。検死の後はいつも食欲がない。これだけ経験を積んでさえ。まあ今日見た二十年前の遺骸に解剖するほどのところが残っていたわけではないが。それでも、だからといって楽なわけではない。
向かいの椅子が引かれ、松の木材同士が擦れあった。ハスケル――しっかりと引き締まった体で広い肩の――が腰を下ろした。
「やあ」
アダムの心臓がはねた。
「どうも」と返す。
「座ってもいいかな?」
聞くには遅いと思うが、アダムも文句を言いたいわけではない。
「かまわないよ」
ハスケルが右手をさし出した。「ロブだ」もう制服からは着替え、ジーンズと赤いタータンのシャツ姿だった。髪が黒くて豊かで、古臭い髪型のくせに額に子供っぽく前髪が落ちていた。アダムはまたいい香りのアフターシェーブを嗅ぎ取る。セコイヤとシトラスのミックス。控えめで、男らしい。ハスケル本人のように。
「アダムだ」
握手を交わした。ハスケル――ロブの手の力強く、それでいて気安い感触をアダムは気に入った。FBIに気迫負けしないところを見せようとこっちの指を握り潰しにかかる連中にはもう飽き飽きだ。
「トライチップがオススメだよ」とロブがメニューへうなずいた。
「チキンアルフレッドにしようかと」
「ここのはどれもいけるよ」
ロブがグラスの酒を飲み干した。茶色の目がアダムの視線と合い、ニコッとする。ハンサムな男で、自分でもそれを知っている。かまわない。自信や自負は好きだ。アダムのほうだって自意識は負けずに高い。すべてに、ではないが。
ロブが切り出した。
「一体いつからF――」
そこにさっきの接客係が、案内だけでなく給仕もするらしく、アダムのジン・アンド・トニックを持ってやってきた。
「どうも、ロビー」とえくぼを作って言う。
「やあ、アズール」
ロブとアズールは少しの間おしゃべりしていたが、アズールはやっとアダムの注文がまだなのを思い出した。チキンアルフレッドの注文に「いいわね」とうなずく。つけ睫毛をロブにパチパチとはためかせてから、引き上げていった。
アダムはグラスに口をつけた。
「じゃあ、あんたはロードサイド
切裂き魔の捜査班に?」とロブが聞いた。
アズールにすっかりペースを狂わされたようだ、あまり気の利いた話の糸口ではない。ロブがもうその答えを知っているのは、二人ともわかっている。ロブがカミングアウトしていないだろうというアダムの見立ては当たっていたのかもしれない。このニアバイのような片田舎ではありがちだ。
とにかく、アダムはそんな話題を続けたいわけではなかった。理由はいろいろあるが、そもそも……夕食中なのだ。彼は問い返した。
「きみはいつから保安官所に?」
「保安官事務所? 十二年になる」
アダムはうなずいた。ロブは三十代半ばほどに見える。アダムと同年代だ。一番仕事に脂が乗る頃。その能力はここでは持ち腐れかもしれないが。
「ここの生まれ育ち?」
「いいや。出身はポートランドさ、仕事のためにこっちに越してきた。あと景色のために」
アダムは微笑した。
「アマチュアの写真家なんだ」とロブがつけ加える。
「ほう」
「あんたはシリアルキラーを追っかけてない時には何をしてるんだ?」
「ジョギング」
ロブが笑い声を立て、アダムも合わせて笑ったが、冗談で言ったわけではない。趣味は何もなかった。ジョギングをして、ジムに通った。それが一番趣味に近い。子供の頃はヴィンテージの飛行機模型を集めていた。一時期はセーリングにも熱中した。
だが、やはり、過去を振り返ったところで何も生まない。
会話が途絶えた。ロブは空のグラスを掲げ、騒がしい店の向こうで気付いたウェイトレスがうなずいた。ロブはアダムを指す。ウェイトレスがまたうなずいた。ロブはアダムに顔を戻し、小さくニヤッとした。
アダムは当たりさわりのない話題を探して頭の中を引っかき回す。この段階が本当に苦手だ。ほかの部分、もっと先の段階なら――そこまで行きつけたなら――お手のものだった。趣味として数えられるほどの腕前ではないにせよ、充分楽しめる。
やっと、何とか口を開いた。
「どうやら、きみらは
未解決事件の担当になったようだな」
「ああ、まあ……」とロブが肩をすくめる。
その返事にアダムは驚いた。
「違うのか?」
「二十年前の事件で、IDもなし?」とロブは苦い笑いを浮かべる。
「保安官事務所は捜査を行わないつもりか?」
口調にこもる非難の響きは隠せなかったようで、ロブの笑みが薄れた。
「捜査するって、何をだ? 二十年前にあったひき逃げか? まあとにかく、フランキー次第だね。つまり、マックレラン保安官」
なんだと。なんてことだ。ただ、アダムはやる気のない捜査機関への反発で今夜のチャンスを台無しにしたくはなかった。
「そうか」
「なあ」ロブが言った。「うちだってできることはやるさ、でもうちはFBIじゃないんだ。ポートランド市警ですらない。ただの小さな、田舎の保安官事務所で、仕事のほとんどは悪ガキどもが火事を起こしたとか落書きしたとか、自分の庭でジリスを狙い撃ちするのが武器所有の権利だと言い張る馬鹿どもの相手さ。あんたたちに連絡したってことだけでも、こっちがこの手のことの扱いにまるで不慣れなのはバレてるだろ」
「この手のこととは、二十年前のひき逃げか?」
ロブの暗い目に笑いはなかった。
「わかったよ」と認める。「ひき逃げじゃなかったかもな。ひき逃げ犯が相手を埋めたって話は聞いたことないし。でもあんたたちの追ってる犯人でもない、だろ?」
「ああ。違う」アダムは答えた。死ぬようなひき逃げで骨が一本も折れないなんて話も聞いたことはない。
「パニックになると人間はおかしな行動に出るもんさ」
「たしかに」
今回の埋葬の浅さや地形を使って死体を隠したあたりには、パニックや焦りもにじむ。ただし、人里離れた場所選びには打算も感じられた。
「でもやっぱり、どうしてフランキーが今回のがあんたらの、あれだ、
犯人じゃないかとピンと来たのかがよくわからないんだよな」
内心、アダムは顔をしかめた。ロブは、もう一人のラング保安官助手ほどあからさまな敵意を見せはしないが、地元の捜査機関はFBIに現場をうろつかれるのを嫌がるものだ。通常は捜査機関の幹部がFBIを招喚するのだが、それでも。別にFBIが脈絡なく殺人捜査に割り込んでくるわけではなくとも。
アダムは当たりさわりなく返した。
「最近はよくあることだ」
「それって、ハイウェイ周りが奴のいい死体の捨て場になってるってアレか」
「そう。それだ」
「なのにどうしてフランキーがこんな辺鄙なところの死体があんたたちの捜査対象だと思ったのか……俺にはわからんね」
アダムは首を振った。どのみちロブはほとんど自問自答しているだけだ。
アダムたちは、見込み薄だと知りながらここへ来た。リッパーは犠牲者を慎重に選び、州間道5号線に近い都市や大きな街のゲイクラブやゲイバーで、常連やスタッフの若い男を主に狙う。とりわけ社会的弱者を。いなくなっても誰も気にしないような。たとえ行方不明だとわかっても、地元の捜査機関がその失踪を捜査しないような。
そしてリッパーは、長いことそれを続けている。終わりはまだ見えない。
アズールが、二人の酒とアダムの夕食を手に現れた。皿がすぐ運ばれてきた早さは、あまりいい兆しではない。それでもアダムは食べはじめた。今度は隣のテーブルの男ときわどい会話を交わしたアズールは、彼のグラスを取って去っていった。
ロブが口調を変えて言った。
「あんたがここに来たことに文句を言う気はないけどね」
自分でよく心得た魅力をこめてアダムに微笑みかけ、アダムも笑い返した。話の流れを戻せてほっとしていた。今回の事件がアダムたちの担当だと判明していたら、今こうしてこんな会話はできやしなかった。同僚や仕事のメンバーとは関係を持たない主義なのだ。タッカーのことがあってからは。タッカーとあんな終わり方をしてからは。二度と御免だ。
だが今回の事件はFBIと無関係だったし、ロブ・ハスケル保安官助手とも、今夜がすぎれば二度と会うまい。
アダムは微笑み返して答えた。
「ならよかった。僕もここにいられてよかったから」
ロブの笑みが大きくなった。
三杯の酒とありふれたチキンアルフレッドを一皿食べた後、アダムとロブは濡れそぼった草と高い木々の間を抜けてアダムのキャビンへ向かった。
ありがたいことに、ジョニーのキャビンの明かりは消えていた。まあどうなろうと、ジョニーがそう何か言ってくるわけでもないが。これもまたパートナーとして彼女を失いたくない理由。アダムは自分のプライバシーは大事にしたいたちだ。秘密主義、って言っていいと思うわ、とアダムの結婚式の連れが誰になるかという流れからそんな話題になった時、ジョニーは言ったものだった。
アダムがごそごそと鍵を取り出すと、ロブが笑った。
「わざわざ鍵かけてるのか?」
「
被害妄想は、魂にいい」
「いや違うだろ」
「かもな」
うなずいて、アダムはドアを開けると明かりのスイッチを手で探した。
ロブが横をすり抜けて入り、数秒後、テーブルのランプの一つがパッと光った。「これでいい」と言う笑顔に、三角形のランプの光が不気味な影をつけた。
初めてじゃない、という慣れた様子。このキャビンに来るのも初めてじゃない。結構、アダムはどうでもよかった。少々の好奇心はあったが。
「じゃあ、きみはカミングアウトしているということか?」
そう聞くと、ベルトのバックルを外す途中でロブが笑った。ジーンズとパンツをぐいと下ろす。
「してるさ。今夜はね」
たしかに、今夜は。
アダムも笑って、仕立てのスーツから腕を抜き、ショルダーホルスターを外した。ロブが銃を所持していないのが嫌でも目につく。
「銃は持たないのか?」
「勤務時間外だから」
ロブが自分のシャツをアダムのパソコンバッグの上に放り投げた。
またもアダムは、進行中の出来事に水を差すような一言を呑み込まねばならなかった。表情を殺したことが、かえって相手の捜査官にはあからさまだったか、ニヤッとしたロブに言われた。
「いいんだよ。だってあんたが俺を守ってくれるだろ?」
ロブの茶目っ気を、アダムは少し気に入りはじめていた。
「ああ、守るよ」
ロブ――今や完全に、あっけらかんと、見事なほどに素っ裸の彼は、近づいてきてアダムに両腕を回した。囁きかける。
「でもあんたのことは誰が守ってくれるんだろうな?」
アダムはロブの広い肩に腕を回し、挑発的に互いの股間をぶつけてやった。
ロブの肩はがっしりとして、腕も筋肉質だ。やはりたくましい太腿がアダムに押し付けられている。強靭でしなやかな肉体――熱い絹のような肌の下の引き締まった筋肉。アダムは両手を這わせ、感触を楽しみながら、探って……。
ロブが呻いた。
「いいね。制服もいいけど制服じゃない男も最高」
アダムはつい笑っていた。おもしろい男だ。こんな遊び心やノリの良さのあるセックスは、あまり縁がない。もちろん、快楽ならあったが。肉体が必要とする欲求の発散も。
ロブのジョークにペースを乱される――キスしようとしてくる動きにも。
温かな息に香るスコッチの残り香がいい。ロブのふっくらとした唇は固さと柔らかさとどちらもそなえていたが、しかしあまりに親密すぎる行為だ。誰かのことを思い出しそうになる。ロブのキスをかわすと、アダムはロブの耳の下や顎に頬ずりし、またさっきよりも強引に腰を押し上げた。押すというより突くように。何をするにせよもうそこに取り掛かりたい。
「何がしたい?」ロブの声は深く、ざらついていた。「言ってくれれば。何だっていいよ……」
じつに寛大だ。珍しいくらいに。
「コンドームはあるか?」
「ん……あるよ。ちょっと待ってろ、今……」
「どこにも行きやしないが――」
アダムの声が途切れた。屈んだロブに、よっこらせと肩に担ぎ上げられて息が絞り出され、喘ぐ。ロブが彼をベッドに放り出した。体の下でバキッという音が鳴って、空気が抜けるようにマットレスの中央が沈んだ。
ロブの表情があまりにも最高で、アダムは笑い出していた。
「聞かなかったことにしてくれ」とロブも笑って、ジーンズの中を手で探る。アダムと目が合うと、必死の形相でジーンズを左右に引き裂くマイムをしてみせ、アダムをまた笑わせる。
ベッドのアダムの隣にやってきたロブは、自分は歓迎されていると疑わず、楽しそうで、ちょっと得意げだった。道化者ではないが目的のためなら道化を演じることもいとわない。
「あんた、本当に緑の目をしてるんだな」ロブが囁いた。「この明かりでもその色がよくわかるよ」
「きみは本当にでかいモノを持ってるんだな」アダムはそう返して手をのばした。「この明かりでもそのでかさが――」
いい気分だった。まさに今彼が必要としているもの。まさしく求めていたもの。
アダムはコンドームをつけ、ロブはアダムの肩に毛の生えた足を乗せてアダムを受け入れる。焦茶の瞳がまっすぐにアダムを見つめていた。恭順ではない。ただ歓迎してくれているだけだ。ニアバイへようこそ、シリアルキラーを探しにやってきて美味しくないチキンアルフレッドのために滞在して……。
もう一日ここに滞在するなら、次にコンドームをつけるのはロブのほうで、マットレスに組み敷かれて喘ぐのはアダムになっていただろう。
アダムがあと一日滞在するなら、どのみちこういうことは起きないだろうが。
見下ろすとロブのペニスは巨大で、赤くそそり立ち、引き締まった腹に向けて物欲しげに頭をもたげていた。肌は意外なほど、不思議なくらいに白かった。普段からあまり陽を浴びていないような。オレゴンならそれもそうか。
「ほら、来いって」ロブが囁き声でせっついた。「奥までどうぞ、だ」
そんなようなことを。アダムはろくに聞いていなかった。セックスの最中に知的なことを申し述べる人間はいない。アダム自身も含めて。ここにあるのはただ肉体的な快楽、それも主にはアダムの。ロブのほうも気持ちがいいよう願ってはいたが。意識の片隅で、聞こえる限りそこは大丈夫そうだと感じた。
アダムは頭をぐいとそらせて腰を回した。ロブが押し返し、平然とアダムのリズムに応える。彼の中の濡れた熱はただ……。
「いい。最高だ――」
アダムは呟いた。短い突き上げを始め、腰を振り、激しく貫く。快楽の肉体労働。背骨の根元がうずき、陰嚢が張り詰めて――待て、あともう何秒かだけ、もっと……。
世界がそこだけに凝縮される。汗と体液まみれの深夜の疾走。猛スピードで闇を駆け抜け――。
……ああ。
濡れた、官能的な解放。目の前に星が散る。その火花を感じる。
アダムは叫んだ。そして夜のどこかからロブが叫び返した。
アダムの中の駆り立てるような切迫感、衝動が薄らいで、段々とスピードが徒歩くらいに、そしてよろめくくらいになり、ついに止まる。震え、息を切らせて。
ロブが背をそらし、また叫んだ――今回はそれがヨーデルに変わる。
ヨーデル?
「ヨーデル・アイ・エエー・オー!」
そう、ヨーデル。笑い声が続く。この男は長く山に住みすぎだ。
「……信じられねえ、すげえ良かった」
やっと、ロブがそう表明した。薄暗がりでさえ目が輝いて歯が白い。アダムより日照りが長かったのかもしれない。
体液まみれでベタついて、疲れ果て、アダムはロブの隣に倒れ伏した。「良かったよ」と言ってロブの肩をつかむ。ロブの肩だと思われるところを。膝かもしれない。瞼が重い。部屋はセックスと古いシーツとロブの匂いがした。あのじつにいい匂いのアフターシェーブ。アダムは目をとじた。
睫毛を上げると、かび臭いブランケットがかけられていて、キャビンの中は暖かかった。
うっかり眠ってしまった自分も驚きだったし、ロブがストーブに火を熾しているのに気がつかないほどぐっすり眠ったことにも驚いた。手首にそっとふれられて、もっと驚いた。顔を向ける。
ロブが隣でくつろいで、頭を垂れ、指先でアダムのブレスレットの銀鎖をたどっていた。睫毛が頬骨に濃い三日月を落としている。
「きれいだな」と頭を上げ、アダムと目を合わせた。
アダムは唇を上げる。
「とても……洒落てるな」
それは褒め言葉ではなさそうだった。アダムは答えない。ロブは彼を眺めた。ゆっくりと言う。
「じゃあ、連邦政府はこういうのはかまわないってことか?」
「こういう……?」さっきの会話を思い出すのに少しかかった。「FBIがゲイの局員を差別するかということなら、ああ、ノーだ」
ロブが眉を上げる。納得してない? 評価してない?
「J・エドガー・フーバーはもうFBIの局長じゃない。ずいぶん昔に出ていった、そういうことだよ」
「ふうん? まあ、表向きのポリシーと現実には差があるもんだろ」
それは正しい。異論の余地なく。下っ端が理想と現実の間で苦労しない仕事などきっとこの世には存在しない。
乱れたベッドからさっと、しなやかな動きでロブが立ち上がり、アダムはうっすらとした落胆を覚えた。ロブは部屋を動き回って服を拾い上げ、着ている。
アダムは口を開けて、言おうと……だが何を? 泊まっていけばいい? たとえロブにそんなそぶりがあったとしてもいい考えではないだろう。そんなそぶり自体がないし。それにアダム自身、そんなことをたのみたいわけではない。
ただ時々……セックスの後、孤独を感じるだけだ。
とりわけ、今夜は。森に囲まれて、四方の壁の向こうに広がる闇、不自然な静けさがアダムに恐れさせる。思い出や追憶だけを道連れにひとりになる瞬間を。
「じゃあ、きみは
公表してないのか?」
アダムはロブが赤いタータンのシャツに腕を通すのを見つめた。
ロブはきょとんとして、顔を上げた。
「は? まあ、俺は
挿入はしてないね、ご承知のように」
「わかったよ」
結局のところ、アダムにはどうでもいいことだ。この仕事ではつい知りたがりになる。
ロブがじつにてきぱきとジーンズを履き、ベルトを締めた。
「俺は、私的なことを人に知られるのが嫌なんだよ。それだけだ。プライバシーは守っておきたいね」
「ああ。僕もだ」
ロブがウインクした。
「ほしいと思ったものがあれば、迷わず取りには行くけどな」
アダムは微笑んだ。よく理解できたし、今夜はとてもいい出会いだった。「そうしてくれてよかったよ」
「よかったのは俺のほうさ」ロブがニヤッとした。「いや、あんたも
悦かったならいいんだけど。とにかくこっちは大満足」
意外な甘い言葉にアダムが反応するより早く、ドアを開けたロブがその向こうの漆黒の闇へ踏み出した。ほがらかに言う。
「おやすみ。南京虫には気をつけて」
ドアが静かに閉まった。
--続きは本編で--