イングランドを想え

    KJ・チャールズ

第一章

一九〇四年十月

 ロンドンからの数時間の列車の旅は、考え事が多すぎて本を読むこともできず、かといって眠るには神経が張りつめている男には、辛いものだった。以前は自分で自動車を駆って出かけただろうが、今ではそれも無理な話だ。
 駅には最新型のオースティンが出迎えに来ていた。制服を着た運転手は軍人のような佇まいで車の横に立っていたが、カーティスが近づくとささと近寄り、助手席に乗り込む際にもまとわりつき、秋の夕方の寒さを気遣う毛布を勧めた。カーティスはそれを断った。
「本当に大丈夫ですか? アームストロング夫人からの指示は──」
「私は身障者ではない」
「もちろんです、カーティス大尉」運転手はキャップに触って敬礼した。
「私は軍人でもない」
「失礼しました、サー」
 ピークホルムまでのドライブは長かった。ニューキャッスルの工業地帯を避けて走っていたが、暗い空にたれこめるどす黒い煙が見えた。ほんの数マイルも走ると町を離れ、田舎の平野になった。田園地帯は雑木林に変わり、ペナイン山脈の丘へと登り、やがて寒々と広がる山腹の、曲がりくねった道につながった。
「まだ遠いのか?」カーティスは尋ねた。
「もう少しです、サー」運転手は言った。「あの先にある灯りが見えますか?」
 カーティスの目は寒さに瞬きしながら、丘の上の灯りと、その中に暗い建物らしき形を捉えた。「別荘にしては、この辺りは何もないな」
「はい、サー。ヒューバート卿はいつもこうおっしゃるんです。今は何もないが、百年後に来てみたまえ、と」運転手は笑みを浮かべながら言った。カーティスは今回の滞在中に何度もヒューバート卿のこんなウィットを聞くことになるのだろうな、と想像した。
 オースティンは、何世紀かしたらピークホルムを囲む素晴らしい森になるのだろう、植林されたばかりの一帯を走り抜け、ようやく立派な新築の屋敷の前にたどり着いた。扉から黄色く明るい灯りがこぼれている。前の道には車の扉を開ける召使いが控えていた。曲げていた膝を伸ばしたカーティスは、苦痛に声をあげそうになるのを堪えた。脚を何度か曲げ伸ばした後、砂利の道に足を着き、コートを受け取ろうと待ち受ける召使いの立つ石段に向かった。
「カーティスさん!」アームストロング夫人が声を上げながら、照明の明るく灯ったホールに入ってきた。夫人のドレスは青を基調とした見事な作りで、むき出しの肩の周りを泡のように覆い、明るい髪色を完璧なまでに際立たせていた。ロンドンでも目立つだろう姿は、こんな片田舎ではますます輝いて見える。「ここにいらっしゃるなんて、なんて素敵なんでしょう。うちまではちょっとした巡礼道のようでしょう? 来てくださって、本当に嬉しいわ」夫人は非公式ながらも魅力的な独特の歓迎スタイルで、両手を差し出して客の手をとった。カーティスが右手を隠して左手を出した際、夫人の顔に心配か同情のような表情が一瞬現れて消えるのが見えた。「私たちの小さなパーティーに来てくださって、感謝します。ヒューバート!」
「ここだよ、お前」ヒューバート卿は夫人の背後の廊下に出てきていた。がっしりとした体格で禿頭とくとうの卿は夫人より三十歳以上年上で、ビジネスの評判とは裏腹の、人の良さそうな外見をしていた。「なんとなんと、アーチー・カーティス」ヒューバート卿はカーティスの手にほとんど触れることなく、二人はパントマイムのような握手を交わした。「会えて嬉しいよ。君のあの伯父上は、どうされている?」
「アフリカです、サー」
「なんと、またか? ヘンリーはいつでも動いていないと気が済まない男だったな、確かに。一緒に学校に行っていた頃も、彼はしょっちゅうハメを外していたよ。たまには会いたいものだな、彼と、あの海軍のご友人にも。未だに二人はつるんでいるのだろう?」
「以前と同じです、サー」ヘンリー・カーティス卿は、末の弟の息子であったアーチーが、生後二ヵ月で孤児になった時から面倒を見てきた。サー・ヘンリーと、無二の親友で隣人でもあるグッド大尉は、二人でアーチーを育てたようなもので、寄宿学校が休みの時には一緒に過ごせるよう、何年もの間、異国への探検の旅の予定を調整してきたのだった。アーチーは、そんな気軽で穏やかな人間関係がごく普通のことだと信じて育ったのだが、今やそれは失われたエデンの園のように思えた。
「何にせよ、ここで君をしっかりもてなして、楽しく過ごしてもらえれば、二人にも来るよう説得してもらえるだろう。君自身はどうなんだ? 怪我については、本当に気の毒だったな」それは社交辞令ではなく、ヒューバート卿は本気で心配している目をしていた。「まったくひどい話だ、不幸な事故だった。君はこんな目に遭うべきではない」
 アームストロング夫人がにこやかに微笑みながら遮った。「あなた、カーティスさんは長旅をしてきたばかりなんだから。ディナーまであと一時間。ウェスリーに階上に案内させるわ。東の廊下よ、ウェスリー」夫人はピークホルムの緑の制服を着た召使いを促した。
 カーティスは男の後について、わずかに手すりを頼って広い階段を上がりながら、屋敷の内装に目を見張った。ヒューバート卿は裕福な企業家で、十五年程前に自らのこだわりを実現させる形でピークホルムを建てた。当時としては想像を超えるほど近代的モダンな構造物で、ラジエーターの温水をすべてのバスルームで使うことができ、自家用の水力発電機で邸宅の隅々までが電気の灯りに照らされていた。こうした贅沢は今やロンドンのホテルでは当たり前になってきたが、これほどまでに整った設備をこんな僻地で見るのは、未だに驚嘆に値した。
 長い廊下は黄色く明るい電気ランプに照らされ、ガスの光よりもギラギラした印象を与えたが、その点以外では伝統的なものに見えた。ヒューバート卿の息子は狩猟好きで知られていたが、それは家族の特徴らしく、通路には狐狩りのシーンを描いた油絵の数々が、猛禽類の剥製の入ったガラスケースに挟まれ、飾られていた。剥製はいずれもドラマチックなポーズをとらされていた。鼠を捕らえようとしているのか、羽を折り曲げて前屈みになったフクロウや、攻撃をしかけようとしているかのように枝から乗り出している鷲、ガラスの目でにらみつける鷹。カーティスはそれらを、構造が複雑な屋敷の中での目印として、心に留めた。
「なかなか独特な構造になっているようだな」カーティスは召使いに話しかけた。
「はい、サー」ウェスリーは頷いた。「ここではそれぞれのベッドルームの裏側に使用人用サービスの通路が通っているのです。そのおかげで、電気の配線と中央管制の暖房が実現できるのです」技術的な用語を使うのが誇らしい様子だ。「素晴らしいものです、電気とは。操作方法については、ご存知ですか、サー?」廊下の一番奥の部屋の扉を開けながら、ウェスリーは期待のこもった声で言った。
「頼むよ、やって見せてくれ」技術に明るいカーティスは電気に慣れていたが、この案内ツアーが召使いにとって一日のハイライトであることは明白だったので、使用人を呼び出すボタン、照明を点け天井のファンを動かすスイッチなどの奇跡を、解説させた。この寒い十月の気候と北イングランドという土地から考えると、少なくともファンの必要はないだろう。
 部屋の内側の壁には大きな金縁の鏡がベッドの向かい側にかかっていた。カーティスは長旅でくたびれた自分の姿を何気なく見やると、鏡の中でウェスリーと目があった。
「私から申し上げてよろしければ……ピークホルムへようこそ、サー」ウェスリーは目をそらすことなく、鏡の中のカーティスを見ていた。「ご滞在中にできることがあれば遠慮なくおっしゃってください、サー。従者はお連れではない、ですね?」
「いない」カーティスは鏡から振り返った。
「それでは、私がお世話いたしましょうか?」
「いや結構、ありがとう。後で荷物をほどいておいてくれ。それ以外は用があれば呼び出す」
「是非お呼びください、サー」ウェスリーはカーティスの差し出した一シリングを受け取ったが、立ち去るのをためらった。「他に何かお役に立てることは……?」
 いったいなぜ出て行かないのか、チップは十分なはずなのに、とカーティスは訝しんだ。
「今は結構」
「かしこまりました、カーティスさま」
 ウェスリーが出て行くと、カーティスはどっしりとベッドに腰を下ろし、食事のために着替えて他の客と顔を合わせる前に、息をついた。
 本当にやり遂げることができるのか、わからなかった。一体ここで何をしているんだ、のこのこやってきて? 自分に何ができると思ったんだ?
 昔はこうした屋敷でのパーティーを、軍の配属地と配属地の合間の、稀有な娯楽とくつろぎのオアシスとして楽しんだものだった。一年半前に戦争から退いてからは、殻に閉じこもっていてはダメだ、社会に参加して人の輪に入りなさいという人々に急き立てられ、三回ほど参加した。参加する度にパーティーはどんどん不毛に感じられ、快楽の享受が人生のすべてだという人々が気ままに振る舞う姿は、心にむなしく映った。
 いかにばかばかしいと思われるような目的であろうと、少なくともこのパーティーに参加したのには理由がある。
 右手から黒い革手袋をはぎとって、親指と人差し指を動かした。以前先にその他の指のあった関節を覆う傷跡は、固くなっていた。数分の間、軟膏を塗り付けながら、これからやるべき仕事について考えを巡らせた後、傷ついた醜い肉を隠すための手袋をはめ直し、夕食の身支度を始めた。
 大した作業ではなかったが、もしかするとあのウェスリーを残した方が無難だったかもしれない。とはいえ、十八ヵ月の間で、少ない本数の指でスタッズやボタンをとめるのにも慣れていたし、自分で服を身に着けることで独立心を保つためにかける時間は、健常だった頃に比べてほんの三倍ほどだ。
 白いピケのチョッキの位置を合わせ、襟先を満足いくように整えた。放っておくと波打ってしまう太いブロンドの髪に少しポマードをなすりつけて、準備を終えた。
 鏡の中の自分を吟味する。紳士然とした装いだった。アフリカの太陽に焼けた肌とその立ち姿は、まだ兵士の風采だ。スパイにも、コソ泥にも、嘘つきにも見えなかった。そして、残念ながら、自分でもそんな風には思えなかった。


 応接間に集まった客はカーティスが最後で、アームストロング夫人は手を叩いて注目を集めた。「皆様、今回最後のゲストをご紹介します。アーチー・カーティスさん。ヘンリー・カーティス卿の甥御さんですのよ、あの探検家の」ざわめきが起きた。これまでの人生で、常に同じような紹介に慣れているカーティスは、諦めたように微笑んだ。二十五年前、伯父がその富を築いたアフリカでの冒険譚は、未だに世間の大きな興味の対象なのだ。
「それでは、皆さんをご紹介しなくてはいけませんね」夫人は続けた。「こちらは、カルース嬢とマートン嬢」カルース嬢は二十代前半の活き活きとした女性で、華やかなドレスに身を包み、青みがかった焦げ茶の瞳をきらきらさせていた。マートン嬢はその付き添いと見え、年は一、二歳上、服装も控えめで注意深い表情をしていたが、無難な挨拶の言葉をつぶやいた。
「ハルから見えた、ケストン・グレイリング氏とそのご夫人」夫婦がにっこりと挨拶するのを見て、田舎の富豪だな、とカーティスは思った。高価な服装をしていても洗練さに欠けるグレイリング氏はどちらかというと不格好な男で、二重あごになりかけていた。グレイリング夫人は、カーティスから見るとサイズがきつく胸元が出過ぎているドレスを着ていた。昔ながらの、田舎の別荘でのちょっとした冒険を楽しむご婦人だろうか、と想像した。
「私の兄のジョン・ランブドンと、その夫人」この夫婦では、夫の方が寝室を行き来するタイプに見えた。ランブドン氏は妹と同じく印象的な美貌で、カーティスには及ばないものの、がっしりとした体格の持ち主だった。ランブドン夫人はその横に立つ青白い存在で、やせた髪とひょろっとした腕で、プロの頭痛持ちのように見えた。
「ヒューバートの息子のジェームス」カーティスはこの息子がヒューバート卿の最初の結婚の成果であることを知っていた。二十代後半に見える青年は、現アームストロング夫人のほんの五歳ほど年下でしかない。にこやかな幅広の顔は“、現アームストロング夫人のほんの五歳ほど年下でしかない。にこやかな幅広の顔は、屋外での活動によって荒れた様子で、あまり頭がよさそうではなかった。
「カーティス、会えて嬉しいよ」ジェームス・アームストロングは手を差し出した。カーティスは右手を伸ばしたが、青年がその手を強く握ると、顔をしかめた。
「もう、言ったはずでしょ」アームストロング夫人がとがめるように言った。
「ああそうか、ごめんなさいお義母様」アームストロングは夫人に軽く笑いかけて謝罪すると、カーティスの方に向いた。「完全に頭から抜け落ちてたよ、悪い」
「ピーター・ホルトさん。ジェームスの仲の良いお友達」夫人が示した男はとても印象的だった。六フィート二インチ(約百九十センチ)のカーティスに匹敵する背格好で、力強い肩と、最低でも一度は折れたことのある鼻の持ち主で、ボクサーのような風貌だった。明るく鋭い薄茶の目は、強さと共に知性を感じさせ、カーティスの手を握る力はしっかりしていたが、余計な圧力はかかっていなかった。自分の筋肉の使い方を心得ている男だ。
 印象的だな、とカーティスは思い、記憶を呼び起こすように顔をしかめた。「君はオックスフォードにいたか?」
 ホルトは、覚えられていたことを喜び、微笑んだ。「キーブル・カレッジだ。あなたより二年ほど下の代だが」
「ホルトさんもボクシングで優勝されているのよ」夫人が付け加えた。
「もちろんそうだ。確か……フェントンズで見たかな?」
「そう、ブロード通りのね。僕はあなたのレベルにはとても及ばなかったが」ホルトはにこやかな率直さで認めた。「あなたとギリアムとの対戦を見たよ。素晴らしい試合だった」
 カーティスは懐かしさに笑顔を見せた。「人生で一番苦しい闘いだったよ」
「二人とも、ボクシングの話は私がご紹介を終えたら存分にしてちょうだい」アームストロング夫人が遮った。「カーティスさん、こちらはダ・シルヴァさん」
 カーティスは紹介された紳士をひと目見て、これほど嫌悪すべき人間はいない、とその場で決め込んだ。
 男はカーティスと同じくらいの年齢で、背の高さは数インチ低いだけの六フィートに近かったが、体格面ではまったく比較にならなかった。すらりとした柳のような風体で、端の端までオイルの塗られた黒い髪は滑らかでつやつやしており、瞳はその色の濃さで黒目と瞳孔の区別がつかなかった。白いシャツから覗く肌はオリーブ色をしている。実際、外国人であることは、一目瞭然だった。
 外国人のしゃれ男だ。なぜならば、着ている白いシャツは完璧で、燕尾服と先細のズボンはピッタリの寸法で作られたものである一方、男は巨大な緑色のガラスの指輪を嵌めており、さらにおぞましくもボタンに派手な緑の花を飾っているのだ。
男は数歩近づき、その動きでカーティスは相手が何かくねるような動きを好むことを認識したが、差し出された手はあまりに非力で、動物の死体に触った時のように手を放す衝動を抑えるのに苦労した。
「お会いできて光栄」ダ・シルヴァはものうげに言った。意外なことに、そのアクセントは知識階級のイギリス人のものだった。「軍隊出身の紳士でボクサーとは、なんと素敵なことでしょう。我が国の勇猛なる男子諸君と過ごすのはいつだって楽しい」カーティスに向かってにこりと笑みを浮かべると、ダ・シルヴァは腰をひねってアームストロング夫人とその場を離れ、そのままパーティーは小さなグループに分かれた。
「それで、あの男は何者だ?」カーティスは静かに尋ねた。
「気色の悪い南方野郎ダゴさ」決して静かではない声でジェームスが言った。「ソフィーがどうやってあの男に耐えられるのか、まったく理解できない」
「あら、あの方ものすごく面白いのよ、それに頭もいい」可愛らしいカルース嬢がカーティスに微笑みかけた。「名前を覚えきれなかったでしょうから、もう一度。私はフェネッラ・カルース。アームストロング家とはどんな関わりなの? 伯父さまを通じて? 素晴らしい方だというお話ですわね」
 ヘンリー卿の話から、ピークホルム屋敷の電話交換機を設計したというカルース嬢の実業家の父親の話など、夕食に呼ばれるまで世間話をして過ごした。カーティスのディナーの席はそのカルース嬢とさえない顔色のランブドン夫人の間で、オックスフォードで同門のホルトはカルース嬢のもう片側に座った。華やかな若い令嬢は、決して礼儀正しさの枠を外れない程度に軽妙な会話を楽しみ、ホルトは軽薄なコメントを返していた。ホルトはカルース嬢への興味を隠そうとせず、彼女も思わせぶりな返事をしていたが、向かい側に座ったジェームス・アームストロングやカーティスを巧妙に会話に巻き込んで、男たちを競わせようとしているかのようだった。複数の求愛者にくどかせるのが楽しいのだろう。
 カーティスはその仲間に入る気持ちにはなれなかった。伯父のモーリスがここにいたら、そのやる気のなさにさぞ落胆したことだろう。カルース嬢は可愛らしく、楽しく、そして裕福な若い女性で、身を固めない理由のなくなったカーティスが、まさに追い求めるべき相手だった。しかし、他の二人の男の間に割って入る気は起きなかったし、実際カーティスはこうした気の利いた素早い会話の応酬が苦手で、女性の気を引く冗談を言うような才能もなかったから、参加したくてもできないのだった。場に合わせるためにそれらしい言葉を二、三吐き出したが、不自由な手を使っての食事と、周囲の人間たちを観察することに集中した。
 それは田舎の別荘でのパーティーに集まるよくある一団のように思えた。グレイリングとランブドンの両夫妻はごく普通に見えた。二人の若い独身女性にはとても好感が持てた。ジェームス・アームストロングとピーター・ホルトはよくいるタイプの今どきの若者で、ジェームスはより裕福、ホルトはより頭がよかった。グループの中で異質さの際立つダ・シルヴァは、キノコのように社交界に発生する奇異なタイプで、ブルームズベリ辺りを根城とし、なよなよとして芸術的、カーティスのようなビクトリア朝の伝統を“重んじる魂にとっては、面食らうほどモダンだった。とはいえ、アームストロング夫人が彼をパーティーに呼んだ理由はすぐさま理解できた。信じがたいほど頭の回転が速く、そのウィットに富んだ鋭い発言で、夕食の間何度も笑いの渦が起きた。かと言って、カーティスの男に対する意見が変わるわけではなかった。オックスフォードで三年間避けて過ごした、悪意のある言葉とわけ知り顔で笑う、あの毒に満ちたデカダンな輩と同じだ。それはそれとして、面白い男であることは認めざるを得なかった。ホルトの笑いはしかし、おざなりのようだった。ダ・シルヴァの軽妙さに、カルース嬢の関心を奪われてしまうことを嫌ったのかもしれない。ライバルになる心配をする必要はまったくないだろうに、とカーティスは思った。
 ヒューバート卿と同年代は誰一人いなかった。夫人は自身の年代のゲストばかりを屋敷に集めていた。夫は若者に囲まれることで自分もより若く感じることができるのかもしれない。ほとんど口を開かないのでその本心は計れなかったが、卿は満足げに客を見渡し、やがて婦人たちがテーブルを去り、ポート酒が注がれるまで、談笑が続いた。
「カーティス、君は」グレイリングがデキャンタを渡しながら言った。「戦争に行っていたというのは本当か?」
「はい」
「それは負傷か?」手を示しながら尋ねた。
 カーティスは頷いた。「ジェイコブスダールで」
「それは、戦闘かね?」グレイリングはすっかりワインに酔ったようで、何とか知的な質問で隠そうとしている様子だった。
「いえ、戦闘ではなく」カーティスは、人差し指と親指でデキャンタの首をつかみ、左手を底に沿えて重さを支えながら、ポート酒を注いだ。
「そうだ、確か何か、サボタージュの事件だったな」
「真相は明らかにならなかった」ヒューバート卿の言葉は、この話を終わらせようとする調子で発せられた。
 カーティスはそれを無視した。この話はしたくなかったし考えるのも嫌だったが、ここに来たのはそのためで、ヒューバート卿がこの話題を避けようとしているのであればなおさら、話す機会は今後ないかもしれない。「私の中隊は、応援部隊を待つためにジェイコブスダールにいた。そこに、待ちに待っていた補給物資が届いた」
「戦争中の物資補給は実に困難だった」ランブドンは新聞を読んでいる人間の権威をもって言った。
「ブーツを待っていたのだが、届いたのは銃だった。新しいタイプの。ラファイエット社製だった。もちろん、補給物資は何でも喜ばれる。待ち時間はまだ数日あったし、新しい武器と弾薬が手に入ったのであれば、扱いに慣れておこうということになった。皆で武器を分け合って、試し撃ちのために野に広がった」
 そこで話を止め、喉が急にきつくなるのを、ポートを一口飲むことでごまかした。こんなに時間が経っても、まだ匂いを感じる。アフリカの熱く乾いた土、コルダイト、そして血の香り。
「その銃が皆、不良品だったのだ」ヒューバート卿は明らかにこの話題を終わらせたがっていた。
「それは正しい表現ではありません、サー。銃は私たちの手の中で爆発した。そこら中で爆発が起きた」カーティスはほんの少しだけ手袋をはめた右手を上げた。
「私は、持っていたリボルバーの銃床が爆発して指を三本失った。隣にいた男は──」フィッシャー中尉、二年間テント暮らしを共にした赤毛のにこやかなスコットランド人は、膝を付き、口を開き、手首から先を無くして、噴き出る血に目を見張っていた。すぐそこで死にかけている相手に、カーティスは手を差し伸べようとしたが、触れようにも触れられなかった。自らの血まみれの手の残骸から流れ出る血を、必死で押さえていたからだ。
 そこまでは話せなかった。「呪われた事件だった。私の中隊は、二分間の射撃練習で、その前の半年の戦争と同じだけの人数を失った」その場で七人が死んだ。野戦病院でさらに三人。その後、二人が自殺した。三人が失明。醜い傷跡と切断された手足。「箱の中のすべての銃に致命的欠陥があった」
、か」ダ・シルヴァがつぶやいた。
 ランブドンが尋ねた。「ラファイエット社の責任は立証されたのかね、ヒューバート?」
「調査結果は証拠不十分だった」ヒューバート卿はカーティスが話している間、いやそうな顔をしながらも特に顔色を変えなかった。「もちろん、製造過程に問題があり、薬室の壁が考えられないほど弱かったのだが、事故であるということ以外の結論は出なかった。私自身もそう思っている。ラファイエットが費用削減に必死だったことは同業者の誰もが知っている。いつも何とかして数ペニーでも浮かせようとしていた。たぶん少し行き過ぎてしまったのだろう」
 ジェームス・アームストロングは知った風な顔をして発言した。「でもお父様は確か、彼の主義主張を嫌っていたよね。ラファイエットは戦争に反対している、と言って」
 ヒューバート卿は息子を睨んだ。「何も悪い証拠は見つからなかったし、奴は死んだ」
「死んだ? 一体何があったんだ?」グレイリングが訊いた。
「二週間ほど前、テムズ河に浮かんだんだよ」重たい調子で、ヒューバート卿は言った。「足を滑らせて落ちてしまったのだろう」
 ジェームスは懐疑的な音を発した。「どうしてそうなったか決まってるさ。罪の意識だよ、僕に言わせれば」
 ヒューバート卿は眉をひそめた。「この話はもういい。ジョン、この間のレースでグッドウッドに行ったかね?」
 ランブドンが答えると、話題はスポーツへと移り、それぞれが好みの活動について意見を言い合った。カーティスはホルトと共通のボクシングの知り合いが何人かいて、懐かしい話題にリラックスして、最近の記憶を脇へ追いやった。他のメンバーは射撃とクリケットについて話していた。ダ・シルヴァは話題に加わらず、礼儀正しさを崩さずにいたが、いかにも退屈だという微笑を浮かべ、本当はアブサンの方が好ましいのにといった風情で、最上級のポート酒をすすっていた。
 忌々しいにやけ男め、カーティスは思った。
 それは極めて一般的な社交の夕べだったが、正直成果はほとんどなく、その夜カーティスは、襟から留めボタンを外そうと努力しながら、状況を変えるのにはどうしたらいいのか皆目見当がつかないことを、鏡の中の自分に認めるしかなかった。


第二章


 翌朝は真っ青な空の広がる十月の好日で、周囲の丘や峰に明るい陽の光が降り注ぐ中、アームストロング夫人は客人たちに計画を用意していた。
「丘を越えて歩いて、ピクニックランチをします」夫人は手を叩いた。「さぁ、クモの巣をはらって動いて動いて。靴は種類もたくさん、各サイズ用意してますからね」と、有無を言わさず一団を急き立てたが、やがて二つの不動の物体に突き当たった。
 一つ目はカーティスだった。「とても魅力的な話なのですが、無理はしたくないんです。ジェイコブスダールで膝に銃弾を受けまして」パニックに陥った仲間の兵士の流れ弾が、無惨な右手を呆然と眺めていた矢先に、脚を切り裂いたのだ。「この頃はだいぶよいのですが、列車の旅の負担に加えて、野道を歩くのはまだ少し危険かと。きょうは休んで、明日からに備えます」
「あら、でも馬車を頼むこともできてよ。でなければ、馬でも」
「いえ、お手間にはおよびません。読みたい本もたくさんあるんです」カーティスは、夫人が諦めてくれるよう、できる限り断固とした口調で言った。
「私がカーティスさんとご一緒しますよ」肩越しから、絹のような声がした。
 カーティスは顔をしかめそうになるのを堪えた。アームストロング夫人は不満げな顔をした。「そんな、ダ・シルヴァさん、あなたにも新鮮な空気とちょっとした運動が必要だわ」
「親愛なる奥方、私の体質は、そのような激しい運動にはとても耐えられない。ここの空気を吸うだけで、充分運動になっています。あまりに新鮮で健康的過ぎるのは、魂によくありませんから」ダ・シルヴァは大げさに身震いし、カルース嬢がクスクス笑った。「ええ、そう。私は自分に課せられた仕事にいそしまなくては。労働しなくてはならない」
「一体何を?」カーティスは思わず尋ねた。
「詩作の芸術」今朝のダ・シルヴァは緑のベルベットのジャケットできらきらしていた。履いているズボンは常識人が上品と認めるよりもだいぶきつめにカットされており、布の上から、明らかになかなかよい形のものが見て取れることに、カーティスは気づいた。神よ、この男にはここまで自分の性的嗜好を明白にする必要があるのか?
「詩作の芸術?」おうむ返しにすると、ホルトがバカにしたように首を振るのが見えた。
「エドワード・レヴィの最新作を、編集する光栄に預かっています」ダ・シルヴァは自慢げに間を置いた。カーティスはきょとんとした表情を返した。ダ・シルヴァは暗い色の瞳を天に向けた。「フラグメンタリストで、詩人の。君は知らない──? もちろん、知らないだろうね。天才とは、なかなか認めてもらえないもの。君のような行動派が知的活動で好むのは、キップリングさんの『兵舎のばらーど』のような作品でしょう。あちらはちゃんとわかりやすく韻を踏んでいるというから」
 ダ・シルヴァは、アームストロング夫人に優雅に手を振ると、あんぐりと口を開けたままのカーティスを残して立ち去った。
「今のは、いったい──」言葉を止めた。
「腐った南方系の変態野郎クイアーさ」ジェームス・アームストロングが礼儀を捨てた的確さで続けた。「僕はあの男とはつきあえないね。ソフィー、一体全体なんであんな奴を招いた──」
「あの方自身も詩人なのよ」アームストロング夫人は言った。「驚くほど頭がよいし、ものすごくモダン」
「それに、見た目もすごくいいわよね」フェネッラ・カルースも言い、付添人に控えめな視線を送った。「そうは思わない、パット?」
「人は見た目よりも行いよ」マートン嬢は厳しく言った。「私から見たら、どうにも派手過ぎ」


 ハイキングの一行はたっぷりの朝食で英気を蓄えて出発し、屋敷にはカーティスとダ・シルヴァだけが残った。ダ・シルヴァは、芸術の女神と交信をするために図書室にこもる、と宣言した。カーティスは、女神を気の毒に思いながら、屋敷を探検して構造を研究することにすると伝えた。
 探検は探検でも、屋敷のモダンな設備を研究するのが目的ではなかった。
 ヒューバート卿の書斎の扉は開いていた。カーティスは中に入ると内側から鍵をかけた。心臓がばくばくして、口の中が乾いていた。
 こんなことは普段の自分のスタイルではない。ああ、自分はあくまで軍人であって、決してスパイではないのだ。
 いや、軍人だったのは、ジェイコブスダールで銃が暴発するまでの話だ。
 デスクまで移動すると、上に乗っているものを見て、その場で諦めそうになった。銀のフレームの写真立てに入れられた、英国軍中尉の制服を着て微笑む若い青年の写真だ。その顔は、屋敷の客間に、ジョン・シンガー・サージャントの手による現アームストロング夫人の素晴らしい肖像画の隣に掛けられた、大型の油絵に描かれているのと同じ青年だった。スーダンの乾いた土の上で死んだ、ヒューバート卿の長男、マーティン。
 まさか息子を戦争で亡くした男が英国軍の兵士を裏切るようなことはしないだろう。そうに決まっている。
 死んだ青年の肖像がもう一枚、ヒューバート卿のデスクの向かいで、カーティスを見下ろすように微笑んでいた。その両隣には、アームストロングの最初の夫人と思われる女性の肖像の水彩画と、現アームストロング夫人、ソフィーを描いたパステル画が飾ってある。ジェームスの肖像はないようだった。
 カーティスは無理やり自分を動かした。デスクの引き出しにはすべて鍵がかかっていたが、ファイルの入ったキャビネットは開いており、いったい何を探しているんだろうと思いながら、左手の指でファイルやフォルダを探っていった。
 ヒューバート卿は、ジェイコブスダールの後、ラファイエットの武器商売が破綻したことで大きな富を得たが、そのこと自体に意味はなかった。卿は元々武器を製造しており、当時は戦争をしていたのだ。誰かが商売を引き継がなければならなかった。もちろん、ラファイエット氏は自分の工場に非はないと主張して、ジェイコブスダールの事件の責任を誰かに転嫁したくなって当然だろう。ヘンリー・カーティス卿の客間にやってきたラファイエットは、無精髭をはやし、絶望にやせ細り、サボタージュと陰謀、裏切りと殺人を主張して荒れ狂ったが、その後二週間足らずのうちにテムズ河から死体となって引き上げられた。あの日の主張はすべて、罪悪感と狂気によって発せられたと説明がつくものだった。
 しかしもしあの時のラファイエットの言葉に少しでも真実があるとすれば、カーティスには無視をすることができなかった。いったい何をやっているのか、何を探しているのかわからなくても、やらなくてはならない。羞恥に顔を熱くしながらも、屋敷の主の個人書類を調べ続けた。
 通路の音や使用人たちの行き来に聞き耳を立てながら調べ続け、ようやく一番下のキャビネットに辿り着いて、カーティスは大いにほっとした。あやしい動きの証拠は何もなく、請求書や手紙など、裕福な男の通常の商売に関わるものばかりだった。
 デスクの鍵を求めて廻りを探したが、見つけることはできなかった。ヒューバート卿がキーチェーンで身につけているのだろう。どうやったら手に入れられのか……。
 何はともあれ、本物の泥棒のように引き出しをこじ開けるのでない限り、これ以上ここにいてもできることはなかった。調べた痕跡を残していないかできる限り確認して、扉に近づき、外の足音をうかがった。何も聞こえなかった。肩越しに後ろを振り返りながら、書斎の扉の鍵を開け外に抜け出ると、誰かにぶち当たった。
「ジーザス!」思わず声が出た。
「残念ながら、違う」絹のような声が言い、ダ・シルヴァにぶつかったことを知った。「二人ともユダヤ人だけど、共通点はそこまで」
 カーティスは相手から離れようと後ずさりして、扉の枠にぶつかった。ダ・シルヴァは、面白がっていることをほとんど隠そうとせず、大げさに儀礼的な動きで道を空けた。「書類仕事かい?」主人の書斎に目を向けながら、ダ・シルヴァは尋ねた。
「芸術の女神はどうした?」カーティスは言い返すと、顔を真っ赤にして、大またでその場を立ち去った。
 なんてみっともないんだ、運が悪すぎる。とはいえ、あのどうしようもないレバント人に見られただけだ。ああいう輩なら、屋敷の主人の書斎に入り込んでいても、怪しいと思わないかもしれない。
 しかしそれは希望的観測だろう。どんなに育ちの悪い平民でも、いったいカーティスが何をしていたか疑問に思うだろう。問題は奴が誰かにこのことを話すかどうかだ。その時に備えて、何か言い訳を考えておかなければなるまい。
 ダ・シルヴァを呪いながら、自分の部屋に戻ったが、次に何をすればいいかわからなかった。本物のスパイであれば、アームストロング夫妻の寝室を探るのだろうと思ったが、それにはカーティスは嫌悪感を覚えた。どこか他を探らなくては。
 数分して気持ちを落ち着かせて、図書室に向かうと、頭を突っ込んで誰もいないことを確認して、中に入った。部屋は広く、もっと古風な屋敷で使用されるようなスタイルの木のパネルが使われていて、薄暗かった。書棚の上方には、場所を埋めるため金にあかせて買いそろえたと思われる難解な研究書と参考図書のセットが、皮製の表紙と揃いの背表紙で整列していた。手の届く下の方の棚には、ディケンズとトロロープの全著作集と共に、話題の面白い小説や、黄色い背表紙の大衆小説が山ほど立ててあった。この部屋に飾ってある絵画は一点だけで、九歳くらいの少年が赤ん坊を抱えている絵だった。マーティンとジェームスだろう、カーティスは思った。そうだとすると、ジェームスが描かれた絵を見たのはこれが初めてだ。もしかすると、自分と同じように、肖像のために座っていることができない性分なのだろうか。
 書棚と読書用のゆったりとした椅子の他に、重そうな電気ランプが置かれたテーブルが二、三と、デスクが一つあった。引き出しを見てみたが、ありきたりの文房具や筆記用具以外は何もなかった。
 見渡すと、部屋の一番奥、周りのパネルにとけ込むようにして、目立たない扉があることに気がついた。位置は壁面の中央。屋敷の構造を素早く頭に浮かべてみたところ、それは通路ではなく、別の部屋があるのだろうと推測した。学習室か何かだろうか? 扉の取手を試してみると、鍵がかかっていた。
「ほんと、好奇心旺盛だね」耳元で声が囁き、飛び上がりそうになった。
「君か」振り返ると、ダ・シルヴァがすぐ後ろに立っていた。猫みたいに動く男だ。「人に忍び寄るのはやめてくれないか?」
「忍んでいるのは僕の方かい? 知らなかったよ」
 鋭い一撃だった。カーティスは歯を食いしばった。「素晴らしい屋敷だな」何も言い返せない悔しさに耐え、ダ・シルヴァの口元が面白げに動くのを見ながら、カーティスは言った。
「ここは書類庫だそうですよ」顎で扉を示して、ダ・シルヴァは言った。「サー・ヒューバートは個人的な書類を、ここに鍵をかけて保管している」
「当然だな」カーティスはもごもご返し、昼食のゴングが鳴る音を聞いてほっとした。
 安堵もつかの間、ダ・シルヴァも一緒に食事をするのだと気づいて落胆した。このままでは、一日中つきまとわれそうだ。
「君の仕事はうまく進んだのか」二人が大量に準備された食事を前に向き合って座ったところで、ベニア板ほどの薄さの礼儀を保とうと、カーティスは話しかけた。
「まぁまぁの進み具合かな、おかげさまで」ダ・シルヴァはロールパンに丁寧にバターを塗っていた。「君の方は?」
 小さなあてこすりに、思わず息が詰まった。「私の方はうろうろして、家を見て廻っていただけだから。特別な屋敷だ」
「そうだね」話しながら、ダ・シルヴァはカーティスを見つめていたが、何を考えているのかまったくわからなかった。カーティスはその視線を避けそうになる自分を抑えた。
 近場にあった皿をつかんで差し出すことで、話題を変えようと努めた。「ハムは?」
「いいえ、ありがとう」
「上物だよ」
 ダ・シルヴァはゆっくりと、トカゲのように瞬きをした。「この前話した時から、宗旨替えをした覚えはないですから」
「宗旨──そうか、そうかすまない。君がユダヤ人だということを忘れていたよ」
「なんと珍しい。たいていの人は忘れない」
 カーティスには、その言葉をどう解釈していいかわからなかったが、そんな事はこの際関係ない。伯父のサー・ヘンリーは敬虔なクリスチャンだが、同時に世界各地を旅した人で、カーティスが受けた教育のもっともきびしい信条の一つは、他人の信仰心を決してバカにしてはならない、というものだった。同時代の人間たちの大半とは異なる意見だったし、このどうしようもない男を懐柔するつもりはなかったが、それでも信条は信条だ。
「申し訳なかった」カーティスは繰り返した。「怒らせるつもりはなかった。えーと、牛肉はどう?」すまなそうに皿を上げると、黒い瞳にかすかに笑みが浮かぶのが見えた。
「牛肉なら問題ない、ありがとう」ダ・シルヴァは重々しく謝罪を受け入れた。「ハムが気に入らなかったわけではなく、ただ食べないだけ。僕が本当に気に入らない肉は腎臓だね、美学的な見地から」
 その発言は、まさにカーティスが思っていたにやけ男らしいらしいものだった。先ほどの鋭い指摘や、狙いを定めたゆさぶりとは別物だった。いったいどんな風に解釈すればいいのか、ますますわからない。
「で、えーと、君は信仰心の篤い人間なのか?」と、言ってみた。
「いいえ、そうとは言えない。じっと集中するのは得意じゃない」ダ・シルヴァは突然、猫のような笑みを浮かべた。「宗教についてはね。一般的には、かなり集中して、色々と見てるよ」
 これもまたあてこすりだと思ったが、ダ・シルヴァはそれ以上何も言わず、皿に注意を戻していた。
 これを機に、相手をよく観察してみた。確かに、こうしたタイプに耐えられるのであれば、かなりハンサムな男と言えた。暗い瞳、ふっくらとした唇に形のよい口、高い頬骨、出来過ぎなほどエレガントにカーブした黒い眉。カーティスは、その眉は何らかの方法で形を整えているのだろうかと疑問に思い、そうに違いないと決めつけた。ロンドンのある種のクラブで見かけたことがある。眉の毛を抜き、顔にパウダーをほどこし、頬紅を差し、あの独特の話し方をする連中だ。プライベートのダ・シルヴァは、他の男たちとああいう風に過ごしているのだろうか?
 ダ・シルヴァが咳払いをして、カーティスは相手が何か言ったことに気づいた。「すまない、何だって?」
「きょうの午後の予定を聞いたんだ。それともこのまま、またどこかで出くわし続けるのかな?」
「少し敷地内を歩くことにする」きっぱり言った。
 ダ・シルヴァの唇は、カーティスには言えないジョークを楽しんでいるかのように、ひっそりと微笑を浮かべた。「僕は図書室にいる。邪魔はしないから」


 その夜、カーティスは深夜一時になるのを待って、部屋を抜け出した。通路は暗かった。だが、事前に道筋を確かめて、剥製の鳥や置いてあるテーブルなど、途中で何かにぶつかって倒すような恐れがないことは確信していた。階段を下りる間、足がとても重く感じられた。家は静まり返っていた。使用人たちは皆眠っているだろうし、眠っていないゲストたちは別の用事で忙しい頃合いだろう。
 何事もなく図書室に行き着き、血流が耳の中で激しく打つのを感じながら、極めて慎重に扉を閉めた。部屋は夜のシャッターを下ろしてあり、中は真っ暗だった。手にもっていたランタンのスライドを上げると、黄色い光のビームがひと筋出て、部屋の静けさと暗さをより強調した。
 書庫の扉が閉じていることを再度確かめると、イーストエンドで最悪の思いをして買ってきた合鍵の束を、順番に試し始めた。
 一つ一つ試していったが、最後まで合うものはなかった。静かに悪態をつくと、何か音が聞こえて、体が固まった。ほんの小さな音だが──。
 木のきしむ音。誰かが、図書室の扉を開けている。
 考える間もなく動くと、ランタンのスライドを下して灯りを消し、なるべく音を立てないようにして、書庫の扉の片側に立った。人に見られる前に、合鍵の束を隠さなくては。それも、決して音を立てることなく──。
 入ってきた人物は、灯りをつけなかった。
 外の通路のわずかな光が、扉の形に沿って見えた。扉が音もなく閉じると共に光は消えたが、今度は、侵入者──もう一人の──が灯した道具から、薄く白っぽい光が部屋の中央に照射された。
 誰かが、懐中電灯を持って忍び込んだのだ。
 泥棒に違いない。なんとついていないことか。くせ者と対峙しなければなるまい。屋敷が被害に遭うのを放っておくことはできない。騒ぎになって、屋敷中の者が起きてくると、カーティスのポケットには合鍵の束とその場にランタンがあることになる。果たしてこれらも、侵入者のせいにできるだろうか?
 泥棒はまったく無音で前進し、光の移動する軌道だけが動きの頼りだった。図書室の奥、カーティスが立っている書庫の扉の方に歩いてくる。もう少し近づけば、飛びかかることができる。カーティスは臨戦体制に入った。
 灯りが上を向き、テーブルを照らし、カーティスが残したランタンの上でぴくりと止まった。カーティスがびくっとすると、ビームが激しく動き、顔を直接照らした。
 ショックで目が見えなかったが、カーティスはためらうことなく左手の拳を振り上げて、侵入者のいる方向へ身を投げ出した。が、拳の先にはもう誰もいなかった。かすかな音がして、カーティスの口を誰かの手が覆い、唇に温かい指先が触れた。
「おやおや、カーティスさん」耳元で囁き声がした。「僕たち、こんな風に遭うのは本当にやめた方がいい」
 カーティスは固まった。柔らかい手が口元から離れると、思わず抗議した。「いったい全体何をやっているんだ?」
「同じことをお聞きしたいね」ダ・シルヴァは後ろから体を密着させ、空いている手が、ぞっとするほどなれなれしくカーティスの腰に滑ってきた。
 カーティスは肘を後ろに打ち込んで、一撃を受けたダ・シルヴァの呻き声に一瞬の満足を得たものの、狙ったほどのダメージを与えられず、振り返って相手に掴みかかろうとしたが、手は空をつかんだだけだった。不満いっぱいのまま、暗闇を見つめた。
「なんとなんと」数歩離れたところから、ダ・シルヴァの低い声がした。小さな光が再び灯った。カーティスは懲らしめてやるつもりでその方向へ足を踏み出したが、光が照らしている物を見て、急に動きを止めた。あの合鍵の束が、ダ・シルヴァの手にあった。
「ポケットから盗ったな!」
「静かに」ダ・シルヴァは光を鍵束から移し、部屋の中、そしてデスクを照らした。「叫ぶんじゃない。喧嘩している場合でもない。お互い、捕まりたくないだろう」
 腹立たしいことにそれは本当だった。「いったいここで何をやっているんだ?」ダ・シルヴァと同じくらい声を低くして、カーティスは訊いた。
「アームストロングさんの書庫に侵入しようと思っていた。合鍵やランタンを見ると、君も同じ目的のようだね」
 カーティスは暗闇で口を開けて、すぐ閉じた。何とか言葉を絞り出した。「君は泥棒か?」
「君と同じ程度に。ありそうもないことだけど、どうやら君と僕には共通の利害があるようだ」
「そんなことはありえない!」
「じゃこれは、ありえるんだ」ダ・シルヴァは灯りを調節できるスライド式のランタンに光を当てた。「アーチバルト・カーティス、元国王陛下の士官にして、『少年新聞』──僕は見たこともないけど──の愛読者。そんな人物が、泥棒? それは違う。少なくとも、そうではないことを僕は祈る。だいたい、君は不器用すぎる」
 カーティスは怒り狂っていた。「そういう君には、さぞかし才能があるんだろうな」
「大声を出すな」ダ・シルヴァの声はかろうじて聞こえるくらい小さく、制御されていた。
「騒ぎ立てて屋敷中を起こしてもいいんだぞ」カーティスは歯ぎしりしながら言った。
「君がそうするつもりなら、とっくにしているはずだ。カーティスさん、選択肢は二つだ。正しいことをして、大声で助けを呼んで、お互いがお互いの計画を台無しにする。あるいは……」
「あるいは何?」
 ダ・シルヴァは猫なで声で言った。「あるいは、僕がこの扉を開けることもできる」
 どう答えていいのかわからず、カーティスは黙っていた。ダ・シルヴァは続けた。「もし共通の利害があるのであれば、中に入ればわかる。もしそうでないなら、僕は君の邪魔をしないし、君も僕の邪魔をしないでくれると信じる。もしどちらも探しているものが見つからなかったら、家のご主人に心の中で謝罪して、何も起こらなかったことにする。でも、扉の中に入らないと何も始まらない。どう思う?」
 言語道断だった。地獄に堕ちろと言いたかった。こんな無作法な男と同盟を結ぶなど、考えられない。
 次にカーティスが言ったのは、「開けられるのか?」だった。
「たぶんね。ちょっといい?」ダ・シルヴァはランタンの傍までいくと、スライドを上げて扉の鍵の部分に光を当てた。まるでいつも一緒に仕事をしているかのような自然さで、カーティスに懐中電灯を渡した。「これを持って、見張ってて」
 ダ・シルヴァは扉の前に跪いた。ランタンの光で、シルエットだけが見える。かがんで近づくと、長細い金属片を操作しているのが見えた。
「鍵をこじあけるのか?」カーティスは訊いた。
「合鍵を使うのとどこが違う?」
「やはり、君は泥棒か!」
「その反対だ」ダ・シルヴァは落ち着いた声で言った。「僕の父は鍵職人なんだ。赤ん坊の頃からこの商売を学んだ。今度時間があったら、合鍵がいかに役に立たないか、説明してあげよう。まさかあれに大金を払ってはいないだろうな」
 カーティスは怒りに任せて言い返そうとしたが、ぐっと思いとどまった。ダ・シルヴァの細い指は、急ぐことなく、器用に確実に作業を続けていた。
 屋敷は静まり返っていて、己の息づかいだけが聞こえる。カーティスは自分が役立たずに感じて、懐中電灯を灯すと、その強力なビームに感心した。こうした新しいものは弱くて頼りにならない場合が多いが、これは優秀な一品だ。そのうち時間があったら詳しく調べてみたい。他にすることもないので、扉に光を向けて他に鍵やボルトがないかを見ていると、以前は気がつかなかった部分に光が当たり、カーティスは目を丸くした。
「ダ・シルヴァ」カーティスは囁いた。
「忙しい」
「ダ・シルヴァ」相手の肩を掴み、指をめり込ませた。敵意のこもった黒い瞳で、浅黒い顔が振り返った。
「何だ?」
「あれだ」自らの発見に光を当てた。
「だから何?」
 ダ・シルヴァは床に跪いたまま、鍵穴にピッキングの金属片を差し込んだ状態で、意味がわからないという顔をして目立たない金属のプレートを見上げた。カーティスは顔を近づけようと膝を折った瞬間、膝がしらに刺すような痛みと脆さを感じた。跪いているダ・シルヴァの肩を掴み、支えに寄りかかりると、重さをこらえる小さな息づかいが聞こえた。
 カーティスは、緊張と重さでこわばった細い肩を掴んだまま身をかがめ、ダ・シルヴァの耳元で囁いた。自分の息の温かさが相手の肌から跳ね返ってきた。「ワイヤーが張られている。扉の枠と扉に、金属のプレート。これは電気の接点だ。扉を開けたら、回路を壊してしまう」
「どういう意味?」
「これは警報なのではないかと思う」
 カーティスの手の下で、ダ・シルヴァの体が硬直した。「なるほど」大きく息を吐いた。「震えるほどモダンだ。どうしても中に入って欲しくないんだね、僕たちに」
「僕たち」という部分に強く異議を唱えるところだったが、神経を走った電撃的感覚に、その気をなくした。もしヒューバート卿が本当に何かを隠しているのだとしたら……もしラファイエットが正しかったとしたら……。
 もしそうなのであれば、この家の主だろうが、年上だろうが構わなかった。素っ首を叩き折ってくれる。
「僕には電気はまったく理解できない」ダ・シルヴァはかすかな声で言った。「君には何とかできる?」
 カーティスは金属のプレートを観察した。扉を開ける時に回路がつながったままであればよいわけだから……。
「できる。道具は要るが」
「手に入れることはできるか?」
「今はダメだ」
 ダ・シルヴァは大きくため息をついた。「いつ?」
「明日の夜。でも、その前に話がしたい。君の目的を知りたい」
「それはもう立証済みだ。君と同じだ」
「まず話だ」有利な立場を利用して、カーティスは繰り返した。「でなければ、サー・ヒューバートのところに行って、後は野となれ山となれ、だ」
 ダ・シルヴァは議論するつもりはないようで、口を開き、カーティスを睨みつけた。「わかった。明日」
「また鍵を閉じられるか?」
 ダ・シルヴァは応える代わりにいらついた様子で視線を送った。数秒間作業に戻ると、道具を引き抜いた。「これでいい。せっかくの夜が無駄になった、行こう。君からだ。忘れ物をするなよ」
 カーティスはランタンを手に持ち、鍵をポケットに入れて、こそこそと階段を登った。部屋に戻って、なるべく静かに服を脱いでいると、外の通路から扉の閉じる音がした。一瞬びくっとしたが、すぐにダ・シルヴァが部屋に戻ったのだと気づいた。
 そうか、よりによって奴の部屋はすぐ近くなわけだ。当然のごとく。カーティスは、運命の女神が、これ以上あのへなへなの南方野郎ダゴを自分の行く先々に放つのをやめてくれないものか、と願った。


--続きは本編で--

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