ロイヤル・シークレット
ライラ・ペース
第一章 それはポーン程度の秘密ではなく
二〇一二年五月
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王室騒動
尻軽サンディ、黄金を捨て赤毛に鞍替え?
レディ・カサンドラ・ロクスバラの衝撃的な密会写真が、またもや流出した。熱き抱擁のお相手は、どう見ても皇太子ではないもよう。アイルランド通信業界のエリート、スペンサー・ケネディだという噂もあるが、パパラッチたちが狙いを定めているのは、相手の顔ではないようで……! 不実な罪をまたも重ね、果たしてサンディはジェイムス皇太子の許しを得ることができるのか? わが英国国民は、この写真を見てもまだ彼女を次期王妃として受け入れることができるのだろうか? [コメントはこちらから]
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ジェイムスの私用電話が鳴った。クラレンス・ハウスでは、プライベートな居室エリアにいるときでも、電話の類はほとんど執事が応対する。だが、この回線の番号を知っているのはごく親しい友人と家族だけだ。お茶が用意されたトレイ越しに腕を伸ばし、電話をとった。相手がひと言も発しないうちに口を開く。
「少なくとも、きれいに撮られていたじゃないか」
「は、は、は、は、は!」
キャスは傷ついているというよりむしろ、怒っているようだった。全世界にトップレス姿を曝したからといって、動揺するようなたちではない。ジェイムスもよくわかっている。それに、タブロイド紙にセミヌードの写真が載るのもこれが初めてじゃない。とはいうものの、いつものゴタゴタよりは深刻だった。
「リゾートのオーナーの話じゃ、敷地内は完璧に守られてるって保証つきだったのに」
「うん。でもいくら気をつけていても、パパラッチのほうがいつだって一枚上手なんだよ」
キャスは呻いた。「これ、いつまで続くの?」
「六週間、いや、二ヵ月くらいってところかな。今度ばかりは本当に怒っているふうに見せないとまずいだろうから。きみは、そうだな、パリにでも潜伏しているといい。で、取り乱して化粧もしないでいるところを写真に撮られる──っていう筋書きでどうだろう?」
「そういう意味じゃないの」キャスの声が静かに響く。「私が言いたいのは、こんな茶番をいつまで続けなくちゃならないのかってこと」
キャスことレディ・カサンドラ・ロクスバラは、ジェイムスがこれまで四人にしか打ち明けていない秘密を共有しているひとりだった。
英国の次期王位継承者がゲイである、ということだ。
ジェイムスは、この秘密の共有者の数を二桁台に増やす気はなかった。多くて五人というのが妥当な数字だろう。五人目──そう、これぞという特別な相手、秘密を共有できると信頼するに足る相手と巡り会えたら、残りの連中には永遠に知らずにいてもらえばいい。
今より若くて理想に燃えていたころは、もっとオープンでありたいと思っていた。大学入学前のギャップイヤー(訳注:高校卒業後、大学入学資格を保持したまま一年間遊学できる制度)のとき、ジェイムスは父親に秘密を打ち明けた。すると、ジェイムスの父──ウェールズ公エドマンド──は、拍子抜けするほどあっさりそれを受け入れたのだった。
* * *
「まあ、お前が初めてというわけではないからね」
「うん、知ってる」
「てっきりお前とカサンドラは──」
「ただの友人関係。それ以上のことは何もない」
「軽はずみなことはしていないだろうね?」
「もちろん。これからも、ニュースのネタになるようなことはしない。約束する」
「お前がゲイでも構わないという
娘を見つけるといい。そういう状況でも慈しんでやることはできる。子どもだってできるだろう」
「今どき、そんなふうに偽って生きている人なんかいないよ」
「私たちは
市井の人たちとは違うんだよ、ジェイムス。なんでも好きなことをしていい立場ではないんだ。私もお前もね」
「わかってる。自分の務めはしっかり果たしたい。でも──偽りの口実で誰かと結婚するなんて、わけがわからないよ。秘密はいつか漏れる。そうしたらもっとひどいことになるじゃないか」
「まあ、それはそうだが」
そう言って父が大きなため息をついたのを、今でもよく覚えている。けれどもその目尻には微笑んでいるような皺がうっすらと浮かんでいて、ふたりの間の緊張感を和らげてくれてもいた。
「王位継承は妹に任せることもできる──だがまあ、それについてはこれからゆっくり話し合おう。時間はある。私が王位に就いたらお前が皇太子になるわけだが、その間にいろいろと算段を整える機会もあるだろうさ」
なんと答えていいかわからなかった。ジェイムスはただ頷き、喉元までこみ上げてきたものをぐっと押し戻した。
「そのときが来るまでは、慎重にしないといけない。『慎重』では足りないくらいだ。私が王位に就く前に事実が明るみになったら、お前を守ってやるのは厳しくなるからね。何しろお
祖父様方は──ほら、現代的ではないだろう?」
わが国の言語をもってして、現イギリス国王ジョージ九世とルイーザ王妃を形容するのに、「現代的」ほどそぐわない言葉はないだろう。
「うん」
「だが、時代は変わる。ゆっくりとだが変わっていくんだ。世論だって徐々に考えを改めていく。そうしたらお前もこの小さな嵐を乗り越えられる。ほら、おいで。母さんにも打ち明けに行こう」
* * *
あのときでさえ、ジェイムスは父が世論に対して楽観的すぎるのではないかと考えていた。だが、それからわずか七ヵ月後に、父子で交わした会話がすべて無に帰することになるとは、ふたりとも夢にも思っていなかった。
オーストラリアとニュージーランドへの親善訪問に向かう際、サンゴ海上空であんな大嵐に遭うなんて──。
タブロイド紙は、墜落して海岸に打ち上げられた専用機の残骸をひとつ残らず熱狂的に報道した。ぶくぶくに膨れた溺死体の写真──かつては英国皇太子であり、よき父、よき人物だった──が、インターネット上にあまねく公開された。
せめてもの救いだったのは、母──プリンセス・ローズの死体が見つからなかったことだ。そのせいで母については、「無人島に漂着した」「海賊に囚われた」など、ありとあらゆるでっちあげ記事が連日ニュースフィードを賑わした。マスコミは、国民の人気者だったプリンセス・ローズから最後の一滴まで搾り取って儲けようと躍起だった。
それから間もなくジェイムスの皇太子叙任式があった。まだ、大学生の身でだ。妹のインディゴは情緒不安になった。お気楽なティーンエイジャーだったはずが、急に微妙な立場に立たされたせいだ。祖父・ジョージ九世は老齢のため健康面での不安も大きかった。ジェイムスの責任は日に日に重くなるばかりだった。
キャスと共謀してこしらえた、この偽りの関係もすでに一〇年近く続いている。ほかにいい方策がないせいだ。あれほど偽りの生活を嫌がっていた自分が、今や、それを少しでも長く続けようとさえしている。
ジェイムスは、電話の向こうのキャスに言った。
「王妃になる気は、相変わらずないんだろうね」
「ああ、ジェイムス」キャスは、この点に関しては決して意見を曲げなかった。
「きみのものになるはずの宝石類は、もう見てみた? ほら、あのものすごいブリンブリンのことだけど……。ブリンブリンって、もう死語かな?」
「とっくにね。それにもし結婚したら私たち、一生この嘘に付き合わないといけなくなるのよ。あなたに耐えられるはずない。でしょ?」
ジェイムスは塞いだ気持ちでこめかみに手を当てる。「耐えなきゃいけない」
「いいえ。そんな必要ない」
「国王になったら、英国教会総裁も務めることになる。教会はゲイの聖職者にも、同性婚にも強く反対する立場をとっている。亀の歩みのようにのろのろと変化していくような国を治めるんだ、この国がゲイの王を受け入れるなんて千年早いよ。父さんは私より政治通だったし、何よりみんなに愛されていた。私はあんなふうになれない。父さんならうまく道筋をつけてくれたかもしれない。ひょっとしたらね。でも、父さんも母さんも死んでしまって、わずかな希望も消えてしまった」
「なら、王位を放棄すればいい。おじ様に譲りなさいよ」
「私が降りてもリチャードには譲れないってわかってるだろ? 順番からいけばインディゴが先だ」
ジェイムスの妹、プリンセス・アメリア・カロライン・ジョージアナは、マスコミからはメリーの愛称で呼ばれている。が、本人はこの呼び名を嫌い、一二歳のころから、兄や友人には自分を「インディゴ」と呼ばせている。
インディゴ女王。いや、無理があるだろう。
「妹に押しつけるなんて、これほど残酷な仕打ちはないよ」
「いいえ違う」キャスの声が優しく響く。「あなたにとっていちばん残酷な仕打ちは、嘘を
吐き通して自分をそうやって閉じ込めてしまうこと」
議論がこのあたりに差し掛かってくると、ジェイムスはいつもひどく居心地悪くなる。
「そうだな、でも、今はカミングアウトできないよ。マスコミがこぞってかき立てる。皇太子、ゲイに転向! 原因はきみの──ええと、何だっけ。ああ、『奔放で豊富な男性関係』だったか」
「もう! あいつら全員とっ捕まえて平手打ちを喰らわせてやりたい──って、もちろん、したこともございませんけれどもね!」
キャスは貴族という立場上、公の場では怒りを露わにしないようにしているが、これはパパラッチにとっては幸せなことだろう。典型的なスコットランド人女性の例にもれず、キャスもまた忍耐強いものの、いったんキレると猛烈に恐ろしいのだ。おまけに小柄な体型からは想像できないほど、屈強な体力の持ち主でもある。キャスと真っ向から闘ったら、どんな相手も木っ端
微塵だろう。
「宝石目当てにあなたと結婚する気はないわよ、ジェイムス。でも、あのティアラをもらえるくらいの働きはしてるかもね。少なくとも」
「もちろんティアラはきみに捧げるよ。私の永遠の感謝を添えて」
ジェイムスは、手にしていた『サン』紙を銀のトレイの端に置いた。新聞は今朝、執事のグローヴァーがお茶のセットとともに運んできたのだ。いつもながら丁寧に紙面にアイロンをかけ、何を言うこともなく。
「それじゃ、シンプルバージョンでいこうか。いつもの仲違いっていう設定でどうかな? 私は間もなくアフリカ訪問に出るから、時間も少し稼げる。バルモラル城でのハイランド・ゲームで『より』を戻して、それから決めよう。その──これから先、どうするかについて」
「ほんと?」キャスが嬉しげな声を上げた。喜ぶだろうとは思ったが、これほどだとは思わなかった。キャスに多大な負担をかけていることは重々承知している。が、こんなふうにほっとした声を聞くと、キャスが犠牲にしているものがいかに大きいか、改めて身につまされる。
「本当に、本当だ」
「あなたにとっては、とても大変な決断になるわね」
「ああ。でも、どちらに進んでも、茨の道であることには変わりない」
電話を切るとジェイムスは居間に行き、お気に入りの椅子にすっぽりおさまり丸くなった。暖炉はグローヴァーの手で朝早くから火が入っている。亡き母が可愛がっていた二匹のコーギーのうち、年上のほうが暖かな火の前でまどろんでいる。
この部屋を見たら、あまりに質素で居心地がいいことに誰もが驚くはずだ。もちろん、ものはすべて上質だが、クラレンス・ハウスのほかの部屋とは違って、居間は宮殿の一部というより家族の部屋として造られていた。備え付けの棚には、テレビセットがむき出しで置いてあるし、壁には、名画と並んで家族の個人的な写真が、子ども時代のものからずらっと飾ってある。
書棚の蔵書も、ほかの部屋だと革張りの古典がずらりと並んでいたりするけれど、ここにあるのは、家族が好きで読んでいるものばかりだ。父は歴史小説、母はスパイ小説が大のお気に入りだった。インディゴは『ナルニア国物語』シリーズ、そしてジェイムスは科学に関する本。ページのよれたペーパーバックもある。
この部屋は、自由気ままに散らかしていてもいいのだ。家族とごくごく親しい友人と、信頼できる使用人しか入ることがないのだから。天井まで六メートルもあり、床には豪奢なペルシア絨毯が敷いてはあるものの、ここはクラレンス・ハウスの中でいちばん居心地のよい、ほっとできる空間だった。誰に何を見せるわけでなく、人の目を気にせずにくつろげる唯一の場所。
そもそも、問題はそこにあるのかもしれない。
ジェイムスは生まれてこの方ずっと、人に見られる生活を強いられてきた。これからも、そうだ。血の通った本物の家庭など望んではならないということなのだろう。
* * *
二ヵ月後
傷心の皇太子、サファリの旅へ
支払いは国民持ち!
ベンジャミン・ダーハンはウェブサイトの見出しを見て眉をひそめた。この仕事には乗り気ではなかったが、少なくともこんな屑みたいなタブロイド記事よりはまともなものが書ける気がする。ケープタウン支局のベンの担当編集者は、ベンをここケニアに派遣するとき、電話でおそるおそる話をもちかけながら同じようなことを言ったものだ。
「冗談でしょう? 俺の専門は経済政策ですよ、ロジャー。ロイヤルファミリーの連中が草っぱらでクリケットに興じている記事なんかじゃなくてね」
「ロンドン異動を希望してから、かれこれ一年近くになるんじゃないか? ちょっとここらでお前さんがチームプレーヤーだってところを見せてくれよ。そうしたら、異動のほうもすんなりいくって。ナイロビの特派員は妊娠中でおまけに今は絶対安静なんだ。こんなときこそチームの本領発揮だろ。みんなで力を合わせて、世界が渇望しているロイヤルファミリーのニュースを提供しよう。それに、贅沢なサファリ・リゾートで三日過ごせる。これよりひどい仕事だって、あっただろう?」
二日間ケニアで過ごし、ベンはロジャーの意見に賛成する気になっていたが、それもこれも秋の雨季が例年より二、三週間長いおかげだ。英国皇太子が著名人たち相手につまらないことをべらべらしゃべるのを見物する代わりに、こうしてずっと自室のスイートの中に閉じもっていられる。
そう、ここでは、いわゆる三下の記者にもスイートがあてがわれる。部屋だけは豪華だといっていい。革張りの贅沢なソファセットに、椰子の葉をかたどったブロンズの大きなシーリング・ファン、アンティーク風の書き物机。マホガニー製の四柱付きベッドは堂々たるキングサイズだし、部屋中にある装飾品ときたら──。スイートにこもっているうち、ベンは自分がなんだかヘミングウェイにでもなったような気がしていた。ここにいること自体、馬鹿馬鹿しいし、いかなる理由であれこんなことに巻き込まれている自分はもっと馬鹿だと思うが、二日というものずっと雨に降り
籠められているせいで、そうした抗うような気分も消えかかっていた。
これまでにジェイムス皇太子のご尊顔を拝したのはたった一度、ジョモ・ケニヤッタでの最初の記者会見で、それもかなり遠くからチラリと見ただけだった。その距離からわかったことといえば、皇太子は巷の風刺漫画が描くほど背が低いわけではないということだ。そのほかに話のネタになるようなことはほとんどなく、状況もあまり望ましくはなかった。屋外での予定行事はすべて中止となり、その代わりに皇太子は、地元の要人たちとプライベートなディナーの席をともにしているという話だ。
当初、ベンはいらだったが、すぐに「これはチャンスだ」と思い直した。「カット&ペースト」で大量生産されるような目撃記事ではなく、皇太子への謁見のために集まってきた人たちについて書くことにしたのだ。英国王室がこの地で求められていること(自国の政府ではとうてい実施不可能な事項に対する援助等々)、英国皇太子に懇願せざるを得ないほど深刻な状況に陥っているアフリカ社会──といった切り口なんかどうだろう。よし、それでいこう。
原稿をほとんど書き上げると、ようやく贅沢なスイート生活を楽しむ気持ちになれた。
降りしきる雨の音も。
やれやれ、午後もまだ早いっていうのにどこに行くあてもなく、何をする予定もないなんて。
こうなったら心ゆくまでヘミングウェイ的な気分に浸って、ラム酒でも楽しむとするか。
備え付けのこれまた豪勢なバーで、酒をツーフィンガーぶんタンブラーに注ぐと、ずしりとしたグラスの重みを愉しみながら、屋根つきのテラスに出た。
テラスからは、リゾート内のほかの宿舎がちらほら見えるはずだった。だが、銀幕を落としたかのように降り注ぐ雨が、ベンをとりまくすべての世界を覆いつくしている。そのせいだろうか、そこにあるべきものがないような、心もとない気分になってくる。その孤独感は妙に美しく、同時にもの寂しくもあった。
風が吹きつけ、細かな雨粒が腕に、そして頬に当たる。目を閉じ、肌に当たるその冷たい感触をじっくり味わった。
そこにあって、そこにはない。
ひとりであって、ひとりじゃない──。
──そのとき、水の跳ね上がる音が聞こえた。
誰かが水浸しの中庭を走り抜けようとしている。が、水は思ったより深いようだ。目を開けたベンの視界に飛び込んできたのは、遥か彼方、壊れた黒い傘をさしてびしょ濡れになっている人影だった。膝まで水に浸かっている。ベンは思わず笑い、それから大声で呼びかけた。
「こっちに来いよ! 溺れちまうぞ」
男は一瞬考えたようだが、すぐにバシャバシャと音を立てながら、テラスの階段を昇ってくる。
「一杯やったほうがよさそうだな。待っててくれ、グラスを取ってくるから」
そう言って部屋に入りながらベンは考えた。思いがけないこの客人は、俺と同じ王室の追っかけ記者だろうか、それともただの泊まり客か? いずれにせよ、ちょっとした気晴らしになると思うと心が浮き立った。どんな会話だって、まるきりないよりましだ。
急いで酒を注ぐ──自分のために注いだのよりも幾分多めに。おもてなしってやつだ──そして、テラスに戻ってみると、そこに立っていたのは、体じゅうから
滴をしたたらせている英国皇太子その人だった。
「おっと」ベンはとっさに姿勢を正した。「失礼いたしました、その……殿下」
作法はこれで間違いなかったか? 今回の仕事を受けるときに大まかな説明は受けていたのだが、よく思い出せない。今までこうした儀礼について気にかけたことなどなかったし。
驚いたことに、王子が眉をひそめた。「いただけないな。さっきのように普通に話しかけてくれるほうが何倍もいいね」
そうか、殿下はお好みの「謙虚な私」路線でいくつもりだな。それならこっちも負けずにかましてやるか。「オーライ。じゃあそうしよう。俺はベン。どうぞ、飲んで」
「私はジェイムス。だからといって気にしないでほしいね」
おっ? のってきたか。これは面白い。
ベンは、すぐ目の前に立っている英国の次期王位継承者をじっくりと観察した。確かに背は高くはないものの、標準的な身長より少し低い程度だ。少年みたいに柔らかな髪は、写真で見たときは栗色に輝いていたが、今は雨に濡れて黒ずんでおり、額を覆う前髪から滴がしたたっている。ふだんはフォーマルなスーツ姿だからわからないが、コットンのシャツが濡れているせいで、体つきのよさもくっきり見てとれる。眉は太くつり上がっていて、険しい顔つきをすればかなり威嚇的にも見えそうだが、赤い唇がそうした印象を和らげている。そしてもちろん、あの有名な、碧の瞳──。
──その瞳が、今、ベンがじろじろと観察していることに気づいたようだった。ベンは急いで言った。「一体全体、そこで何をしてたんだ?」
「今日は珍しく自由にできる時間が取れたんでね、雨が小降りのうちにメインラウンジまで出かけていって、戻ってこようと思ったんだ。職員たちと少し会話をしたりとか、そういうことをさ。ほら、誰だって労をねぎらわれたら嬉しいものだろう? で、出かけたはいいが、戻れなくなってしまった」
ジェイムスはテラスにあった籐の椅子に腰かけると、悲しそうな顔で、かつては傘だった黒いびしょ濡れの物体に目を向けた。
「三〇分前までは、頼もしく見えたのだけれどな。まったく、これが雨季ってやつか。ロンドンの雨なんかかわいいものだね」
ベンは思わずこの男が好きになりかけ──とっさに踏みとどまった。
チャーミングであること、それこそがジェイムスの職業みたいなものなのだ。さすが日夜腕を磨いているだけのことはある。なかなか堂に入ったものだ。
「セキュリティーは問題ないのか? 警備の人間が四六時中見張ってるものだろう?」
「ありがたいことに大丈夫だ。このリゾートは人里離れているうえに、警備もしっかりしているから、たまにこうして一般人みたいに出歩いても平気なんだ。それもあって、つい出かけたくなったんだが、この有様さ」
ジェイムスは酒を啜った。急いでいるふうには見えなかったし、居心地悪さもまったく見られない。どこにいても自宅にいるみたいにくつろげるのは人懐っこいからなのか、それとも尊大だからなのか? 多分その両方だろう、とベンは思った。自分がどんな身なりでいようと、ちっとも気にかけていないようだ──髪が湿ってくしゃくしゃに乱れていようと、白いリネンのシャツが、よく引き締まった体にぺったり張りついていようと。
「それで、ベン、きみはこの忌々しい天気の日に何をしていたんだい?」
「今日? 特に何も。文章を書いては雨を眺めてだらだら過ごしていたら、こうなった。まあ、こういう天気は俺の気分には合うけどな」
「物書きなのかい?」ジェイムスが笑みを浮かべる。「きみのことを、髭を剃って小綺麗にしたヘミングウェイっぽいなと思っていたところだよ」
ううむ、これまた死ぬほどチャーミングなせりふだ。
自室のテラスで皇太子と出くわしたときは驚いたというか、たまげたが、落ち着いて考えてみると──これはチャンスだ。
ちょいとばかり感じよく振る舞って、きわどい質問をいくつか投げてみよう。うまく独占インタビューができれば、いい読み物になる。ジェイムスがへまをしでかして、迂闊にも特権階級的な発言や人種差別的な失言をしたら(うん、きっと彼はしそうだ)、特ダネ扱いで書いてやる。
とはいえ、こうして話していると、ジェイムスがいわゆる儀礼的な立場からではない、ある種の礼儀正しさを自分に示してくれているということも伝わってくる。礼儀正しさだけじゃない。信頼感もだ。記者なのだから、こちらとすれば攻めの路線で行ってもいいのだが、それでも越えたくない一線というものはあった。
そして何よりも驚嘆すべきなのは、ジェイムスの瞳が、写真どおりの碧色をしているということだ。かねがね瞳の色は画像ソフトで調整しているに違いないと思っていたのだが、違った。エメラルドそのものの鮮やかな碧。唇は正真正銘の真紅だ。頬にはかすかにそばかすが散らばっている。それに手の甲にも。皇太子は、実際にこうして向き合って見るほうが写真よりもハンサムだとさえ言えた。
そうだな──しばらくはあれこれ考えず、この美しい眺めを愉しむことにするか。
* * *
ベンは「ネコ」だ。
子どもの時分、ジェイムスはインディゴとよく人間の「タイプ」を手ごろな動物のカテゴリーに分類して遊んだ。だいたいペットになるような動物ばかりだったが、それはふたりがまだ子どもだったせいだ。ほとんどの人たちが「イヌ」だった。これは侮蔑ではなくて──ジェイムスもインディゴも犬は大好きだ──、王族に対し、どう振る舞うかをもとに分類した結果だ。犬というのは、人に会うと大喜びする。その喜び方はいろいろで、熱狂的にひれ伏すタイプもいれば(ラブラドールレトリバーみたいに)、単に話のネタになるから嬉しいという人たちもいる(これはコーギー)。最初は無関心を装おうとするものの、知らず知らずのうちに興奮してくるタイプもいる(ブルドッグ)。
そんななか、わずかだが「ネコ」科に属する人たちもいた。ネコ科の人たちは、誰かに会っても感激したりしない。礼儀正しく振る舞おうとする者もいるが、それでも退屈さがどうしてもにじみ出てしまう(ペルシア猫みたいに)。あるいは、礼儀正しい範疇にどうにか踏みとどまろうとしつつも、あきらかに失礼な態度を見せるので、相手の身分や名声などちっとも興味がないということがわかってしまう(シャム猫がそれだ)。さもなくば批判的な態度をとって、隙あらばこちらの足元をすくおうとする(ヒョウ。めったにない例だが、出くわすとこちらのダメージも大きい)。
ジェイムスは、まだなんとなくだけれど、ベンはネコ科の中で最も稀な存在、ライオンではないかと感じていた。ライオンは自分なりのルールに従って行動したがる。
こういうライオン族に対処するいちばんの方策は、速やかにその場を離れることだ。公の場では、ふだんの自分をいちいち見せてはいられない。皇太子として振る舞うのは人が想像する以上に疲れるものだ。なのにライオンたちときたらで、「お前は国民のために公の場に出てきているのだから、俺たちの好きにしていいはずだ」という態度をとる。まったくもって逃げるが勝ち、の相手なのだ。
だが今は、ベンに応じてもいいと思った。王族に対してこんなふうに振る舞える人間はそうそういない。これは挑戦とも言える。ベンの好奇心を動かしているものが何であれ、傲岸さではなかった。
それに──めったにないお愉しみじゃないか。
好きなときに好きなところへこうして出かけられるなんて。身辺警護人をつける逞しくも麗しい
佇まいは、見ているだけで愉しい──広く張った肩、角ばった顎、美しく盛り上がった筋肉、そして深い茶の瞳とよく合った漆黒の髪。
世間から隔絶され、厳重に守られたこのリゾート地でなら、ほかの人間同様に振る舞えるような気がした──まあ、そこそこには。
「それで、アフリカに来たのは小説の雰囲気作りのため?」
籐の椅子に身体を深く預け、ジェイムスは尋ねた。
「いや、アフリカに住んでいる。といってもここからずっと離れたところだが。ケープタウンだ」
「本当に? 南アフリカの訛りはないけれど」
「確かに出身は別だ」ベンの瞳が面白そうに輝く。「あまり当てられたことはないけどな」
ジェイムスは考えた。「アメリカのアクセントはあるね──あとは、ドイツかな?」
「すごいな。そこまで当てたやつはあんたが初めてだ。アメリカとドイツ、どっちでも暮らしていた。生まれでいえばイスラエル人。といっても子どものころだけだけどな。オーストラリアとアジアでも働いていた。いろんな国のアクセントが混じってると思うね」
ジェイムスはこれまで五〇カ国くらい訪問してきたが、実際に国外で暮らすチャンスはなかった。羨ましさでちくりと胸が痛む。自分の望むときに望むところへ出かけられるというのは、どんな感じなのだろう?
「きみには語るべき物語がたくさんあるんだろうね」
ベンが豪快に笑う。「もしくは葬るべき物語が、な」
「葬るべき物語か、いいね。私は秘密を持てる立場にないから」
たったひとつの大きな秘密を除いては、ジェイムスのすべてはタブロイド紙の餌食となってきた。誕生時から──いや、それ以前からだ。あるタブロイド紙が看護師を買収したせいで、母が妊娠三二週のとき、エコー検査の写真が紙面を飾ったことさえある。
「それでも何かあるはずだろう? 世界にまだ知られていないことが」
「これは取り引きかな?」ジェイムスは軽く言った。「秘密と、秘密の」
「いいね」
「君の秘密も高くつきそうだな」
驚いたことに、ジェイムスの言葉はベンの急所を突いた。不意打ちにあったかのように、ベンが目を伏せる。しかし、再びジェイムスと目を合わせたとき、その顔には笑みが浮かんでいた。温かみのにじむ、偽りのない笑顔だった。
「あんたが望むなら取り引きに応じよう」
ジェイムスはきわめて個人的な情報までは洩らさないだけの分別は持ち合わせていたが、だからといって、腹を割って話せることが何もないわけではなかった。
「わかった、じゃあ私から。全身全霊、誠意を込めて未来の英国国王としての義務を全うしたい……とは思っているけれど、科学者として別の人生を歩めたらと思うことはあるね」
「科学者?」
「ケンブリッジでは生物学を学んでいた」
「ああ、そうだったな」ベンがそう答えたので、ジェイムスは驚いた。ネコ科のベンがロイヤルファミリーの記事に細かく目を通しているとは思わなかったのだ。でもまあ、暇を持て余している人は何でも読むというじゃないか。たとえば空港や、ヘアサロンなどで。
「だがそれは……」
「おいおい、まさか大学が王位に敬意を表して学位をくれたとでも? そうだとしたら、残念ながらケンブリッジの学監を甘く見ているね。ボーイスカウトの認定バッジをもらうのとはわけが違うんだ」
「じゃあ、なんで科学者にならなかったんだ?」
「王位継承権を放棄して?」ジェイムスは笑った。イートン校時代、まさにそのことをどれほど夢見て過ごしただろう。「確かに自分の務めは妹に押しつければいい。女王になるのを心底嫌がっているけどね。まあ正直なところ、さっきの言葉どおり、未来の英国国王としての義務を全うしたいっていう気持ちに嘘はないんだ。だってそのためにこれまでいろいろ準備して生きてきたんだから。それでも、もの悲しい気持ちになることもある。決められた道を外れることができないと思うとね」
ベンはラムを啜り、思いを巡らせた。
「そんなふうに考えたことはなかったな。務めから逃れない──たとえ逃れたくともってことか」
「私の務めは一生ものなのさ。さあほら、きみの番だ」
しばらくベンが考え込む。その間、ジェイムスはゆったりと景色を愉しんだ。
なんて凄まじい天気だろう。雨は激しさを増し、まるで滝のようだ。現実というより映画のワンシーンみたいに思える。ここに座り、安全で快適な場所からこうして眺めていられるなんて、ものすごく贅沢な気がしてくる。
それに、ベンはなかなか目の保養になる。ハリウッド俳優みたいな整い方ではない、もっと粗削りな魅力。それが気に入った。淡いブルーのシャツのがっしりした肩も。指の長い大きな手も──
「俺の番だな」ベンが口を開いた。「経済学者になるために勉強した。シカゴ大学だ。あそこもほいほいと記念バッジをくれるような大学じゃない。トップの成績を修めて大学院の院試までこぎつけたが、大学の最後の学期で燃え尽きた。結局、院には行かず、卒業と同時にすべてを放り出した。バックパッカーになって二年ほど東南アジアを回り、書き始めた。それを後悔したことは一度もない」
ラムを啜りながら、ジェイムスはベンの言葉を頭の中で反芻する。
「それほど自由に振る舞えるなんて素晴らしいね。ただ、きみが言うところの『燃え尽き』ってやつが何であれ、原因はあまり楽しいことじゃなさそうだな」
「ストレス。プレッシャー。わかるだろ」
「学問の?」
ベンは口を開き、明らかに賛同しかけたが、そこでためらいを見せた。
「ああ。だが、それだけじゃない」
先を促す代わりに、ジェイムスは沈黙に任せた。ふたりの間を雨音が埋めていく。
「俺がまだうんと若いころに両親が死んだ」
言葉がぎこちなく口をつく。この話はあまりしたことがないのだろう。
「一三のときだった。それから、遠い親戚に育てられた。ドイツの大学で教授をしている夫婦で、俺はふたりによく思われたかった。自分の居場所を確保するために。ふたりに邪険に扱われたとか、そういうことじゃない。自分で自分にプレッシャーをかけたんだ。だがようやく、ふたりが何を望んでいるのか気にしなくてもいいというところまで到達できた。それで、自問自答した。俺は何を望んでいるのかって」
ベンの顔に何ともいえない表情が浮かんでいる。
ひょっとしたらベンは、今でもまだそれについて答えを出せていないのかもしれない。
これ以上、ベンに話を続けさせないほうがよさそうだ。
少し明るいムードに戻さないと。
ジェイムスは辺りを見回し、いいものを見つけた。
「チェスはできるかい?」と、室内のテーブルのほうを顎で示す。テーブルには、大理石製とおぼしきチェスセットが置いてある。
「ああ、だがずっとご無沙汰だ」
「私もそう」ジェイムスが笑みを浮かべる。「やってみないか。いいだろう? それとも打ち負かされるのが怖いかな? きみたちの専門用語でいう『近親交配のアホ』だったっけ──そんな私に負けるのは?」
ベンが声を立てて笑う。「俺はアホ呼ばわりしたことはない!」
「でも近親交配はあるんだね? 思ったとおりだ! 正直に認めたな、こいつ。さあ、勝負だ」
* * *
くそ忌々しいことに、ベンは負けかけていた。
負けることはさほど気にならなかった。ジェイムスがアホな貴族などではなく、それどころかおそろしく頭が切れるということがわかったからだ。
しかし、ベンの心はひどく揺れていた。
なぜ俺は、目の前の男にいい印象を与えたがっているんだ? このゲームに勝ちたいと思っている。これはチェスの勝負のはず。なのに、ほかの勝負にすり替えようとしている。そんなこと、うまくいくはずないのに。
たぶん。
チェス盤にざっと視線を走らせ、ふと顔をあげる。と、ジェイムスの碧の瞳がこちらを見ていた。笑みのこもった瞳。だが、目が合うなり視線がすっと盤上に落ちる。まるで、この瞬間、ベンが感じている何かを完全に共有しているかのように。
俺の願望がそう思わせるのか?
それとも俺の本能は、真実を告げている──のか?
なんてこった──。
英国皇太子は、ゲイだ。
そういう噂がまるでなかったわけではない。だがそれはごく僅かで、ざっくりとした噂だった。独身で著名なイケメン男性なら誰にでもついてまわる類の。「友だちが聞いた話だけど……」「彼と同じ大学に行ってたやつを知ってるけど……」。ほとんどの場合、そうした話は他愛なく、たいてい誰も真面目に取り合わない。それにゴシップ紙によれば、ジェイムスはここ数年、みっともない愛のになり下がっているというじゃないか。皇太子にはまったくそぐわない、やりたい放題のスコットランド女、レディ・カサンドラ・ロックスバラの。国民はおおむねジェイムス贔屓でカサンドラを嫌っているが、ジェイムスがいっこうに悪い恋から抜け出せないことに、いい加減しびれを切らしてもいる。「乱痴気サンディ」に「尻に敷かれたジェイミー!」と、さんざんな叩かれようだ。
だが、レディー・カサンドラはただの目眩ましだ。ベンは今、それを確信した。
ゲームの賭け金を上げるのにいい頃合いかもしれない。
「ひと駒ごとに値段をつけとくんだったな」ベンは何気なさを装って言った。
「そうしてもいいよ。ひと駒五〇ペンスにしようか?」
「派手に賭けるね」
ジェイムスが片方の眉をつり上げる。その仕草がどれほど碧の瞳を引き立たせるか、自分でもよくわかっている。わかっているべきだ。そうでないとしたら、反則だ。
「私に、高くつくゲームを仕掛けようってわけじゃないんだな」
皇太子は確か政府から毎年五千万ポンドかそこらの金を受け取っている。ある意味、目も眩むほどの金額だが、ベンには興味なかった。
「まったく違う類の賭け金を考えていたんだが」
ジェイムスが言葉に詰まる。その一瞬の躊躇いで、ベンはさっきの確信をさらに深めた。
「きみが何を言っているのか、あいにく私にはわからないが」ジェイムスの口調が急に堅苦しくなる。だが、まだ逃げる気はないようだ。
そうだ、これだ。
俺はこの感覚を味わうために生きていると言ってもいい。俺が今、主導権を握っているというこの確信。じっくりと駆け引きを愉しめる、このひととき。
ベンは皇太子に笑いかける。
「秘密、だよ。誰にも明かしていないことがあるだろう。俺にもある。だが、ひと駒取られるごとに打ち明けるよ、どうかな?」
「面白い」ジェイムスが肩をいからせる。闘いに備えるかのように。「いいだろう、乗った」
ジェイムスはベンの秘密を知りたがっている。だが自分の秘密は明かすまいと思っている。ベンにはよくわかった。なぜなら自分もまたまったく同じように考えていたからだ。
このチェスの勝負、面白くなりそうだ。
ふたりは、ポーンについては無視することに決めた。すでにいくつか取ったり取られたりしているからだ。ということはつまり、ベンはいつもよりも攻撃的な手を打たなければならないわけなのだが、それはすぐによい結果につながった。白のビショップを捕らえたのだ。駒を手に取りながら、ベンは言った。
「さて、褒賞は?」
「うーん。秘密か、そうだな……」ジェイムスが微笑む。「私がまだ幼いころ、初めて一国の首長と会見することになってね、相手はたまたまトンガ国王だったんだが、しっかり務めをこなそうと気負いすぎたせいで、神経質になってしまった。それが災いして腹に来てね。いちばん大事な場面で、そう、ちょうど握手を交わした瞬間に、今まで聞いたことがないほどの大音量で放屁してしまったんだ」
ベンが大笑いした。それにつられてジェイムスも笑う。だが、笑いがおさまり、ようやく喋れるようになるとベンは言った。「おいおい、本物の秘密にしてくれ」
「どういう意味かな? 大恥をかいたんだぞ」
「だが、秘密じゃないだろう。それほどはっきり音量が知れたんだから」
ジェイムスがちらりとベンを見るが、顔はまだ笑っている。「黙れ」
「このゲームが真剣だってこと、わかってないんじゃないか?」
おっと、緊密さの境界線を超えるのが早すぎたか? いや、ほんの少し踏み出しただけ。ちょっとした知人よりも少しだけ距離が近いってところだ。ジェイムスは僅かに目を見開いたが、逃げなかった。面白い。
「今の秘密はせいぜいポーン程度だ。ビショップ級のやつを聞きたいね」
「君の分別をあてにしていいのかな?」
ベンが笑った。「俺を信用しないほうがいい。だから駒をもっと取るに限る。俺が取るより多く取れよ」
ジェイムスがこの勝負から身を引くとすれば、今しかないだろう。
だが、しばらく考えたあとで彼は言った。
「きみも、安全地帯に逃げ込んではいられないよ」
「もちろんだ」
痛いところをつかれたな。ベンは思った。なにせ安全地帯ばかりを選んで生きてきたのだ。若いときのようなへまはしたくないから。だが、皇太子の口を割らせるためだ、ここは勝負してやろうじゃないか。
どうせこれきりの縁なんだし。
ジェイムスがチェス盤に視線を落とす。話し始めたときも、顔を上げようとはしなかった。
「両親が飛行機事故で死んだという知らせを受けたとき、私は酔っていた。軽くビールを二、三杯なんていうかわいいものじゃない。ごみバケツに吐きまくってまっすぐ立つこともできない、そういう類の酔い方だ。そんなに飲んだのは、というか、それほどひどい状態になったのは初めてだった。大学の新学期でね、わかるだろう? だが、そのせいで最悪なことになった。あの夜聞いたことは、何ひとつ現実のこととは思えなかった。そしてあれ以来──思い返すたび自分を恥じている。両親がサンゴ海で海にのまれようとしていたとき、まさにその瞬間に、私は大はしゃぎでギネスをがんがん飲みまくっていたんだ」
──これは、ただのゲームのはず。
ベンはかなり沈黙していたに違いない。ジェイムスがまた口を開いた。
「賭け金をつり上げたのは、きみだ」
「ああ、そうだな」ベンは少し黙る。それから、付け加えた。「あんたは何も悪いことはしていない。わかっているんだろ?」
「わかっている」ジェイムスがルークを動かした。
数分後、ベンはナイトを取られた。適当な話で誤魔化すことはできなかった。ジェイムスの勇気に見合う、少なくとも賭けの報酬にふさわしい対価を払う必要がある。
「俺は一六歳でヴァージンを失った。自分で望んだことだ。恋をしていると思っていた。相手の男は二〇も歳上だった。あのころは、互いに想い合っていれば歳なんか関係ないとも思っていた。今考えると、もちろんレイプされたわけじゃないが、なんていうか……つけ込まれた気がする。やつには、自分のしていることがよくわかっていたと思う」
ベンのセクシュアリティを明かす発言を聞いてどう思ったにせよ、ジェイムスは、態度には表さなかった。
「その男は逮捕されるべきだったね」
あのワーナー・クリフトンが逮捕される理由なら、ほかにもたくさんある。だが、それを今持ち出すつもりはない。ワーナーのことをあれこれ考えると、せっかくの気分が台無しになってしまう。それよりもジェイムスとふたり、降りしきる雨の音に閉ざされ、こうしてチェス盤をはさんで身を寄せ合っている──この雰囲気をずっと保っていたかった。
白のルークが陥ちた。ジェイムスが口を開く。
「私は共和制主義者に共感している。彼らが想像している以上にね。明日、君主制を廃止するっていうなら受け入れるよ。いや、明日は困るな。せめて荷作りする時間は欲しい。わかるだろう?」
黒のナイトがまたひとつ取られる。ベンの番だ。
「俺の両親は事故で死んだ。人にはそう説明しているが、ガザのパレスチナ入植阻止に反対するデモに参加していたんだ。軍隊が介入し、ふたりはたまたま巻き込まれて命を落とした。自国の政府にやられたのさ。両親の死後、親戚と暮らすためにイスラエルを離れたとき、俺は二度とこの地には戻るまいと誓った。それきりあの国には足を踏み入れていない」
ひとつ秘密が明かされるたび、ベンの、そしてジェイムスの一部が剥き出しになっていく。これは恋の駆け引きというより、拷問に近いんじゃないだろうか。ベンは、自分がなぜこうまでして皇太子の信頼を勝ち得たいのか、あるいはベッドに誘いたいのか、わからなかった。
ひとつ、またひとつと無防備になり、ふたりを隔てるものがなくなっていく。唯一残っているのは互いへの敬意、あとは刻々と駒が減っていくチェス盤だけ──。
* * *
ジェイムスはこれまでの二九年の人生の中で、強いて挙げるとすれば三人の恋人がいた。
三人しかいないというのは実にゆゆしき問題だ。英国皇太子たるもの、本来なら英国で最もモテる男であるべきで、これからも未来永劫そうであるはずなのだ──いわゆる、「デフォルト」的には。たとえ皇太子が恐ろしく太っていようと、腹がたるんでいようと、顎の線が首に埋もれるような風体であろうと関係ない。次期国王であれば、望む相手はほとんど誰でも手に入れることができる。ジェイムスの警護スタッフもお抱えの執事も、信頼できる人間ばかり。ジェイムスがベッドに誰を連れ込もうと、たとえそれが男でも女でも、決して口外しないだろう。「適当な相手を
攫って連れてこい」と命じたら、本当にやるかもしれない。むろんそんなことを命じる気もないけれど。
スタッフの忠誠心は保証されているものの、当の恋人となるとそうはいかないのが常だ。これまでだって、たとえば「友人」たちにはずいぶんと裏切られてきた──わずか数ポンドの
端金のため、あるいは王族と「ご学友」であることを単に自慢したいがために、パパラッチにありもしないほら話を提供された。秘密の価値が高いほど、人は簡単に口を割る。色恋の話など、トップシークレット中のシークレットだ。格好のネタになる。
そんなこんなで、王子の特権を利用して浮き名を流したり火遊びをしたりすることもなく、ジェイムスはたった三人の恋人に甘んじていたのだった。
ひとり目は、アンドリュー・バークレー卿だが、彼はおそらく自分がジェイムスの恋人だったとは考えたことすらないだろう。十代のころ、ふたりはこっそりいちゃつき合ったものだ。乗馬の合間に厩舎で、ときにはバークレー家の別荘の、使われていない配膳室で。あの配膳室、あそこでジェイムスは初めて、他人の手を借りて達したのだった。だが、あれくらいの年代の男子は、ただの戯れで互いのものに触ったり、擦り合ったりするものだ。アンディは、ふたりの行為に意味があると考えている素振りなどまったく見せなかった。ジェイムスが抱いていたやるせない思いは明らかに一方的なものだったから、それ以上の深い関係を求めようとは決してしなかった。四年前、アンディはレティスという上流階級の娘と結婚したが、ジェイムスも参席した。笑顔とともに。
ふたり目は大学で出会ったプラカシュだ。
ケンブリッジ時代、ジェイムスが本気で科学を学び、「ファースト」という最高位の成績を取ったのも真の実力からだということを理解していたのは、教官とごく僅かな学生しかいなかった。プラカシュは、その数少ない学生のひとりだ。ふたりは大学の授業の初日から研究のパートナーとなり、一年目の半ばころから恋人になった。ジェイムスの両親が亡くなってひと月が経ったころだ。
孤独に耐えられなかったのだ。リスクは承知の上だった。プラカシュもまた同じような渇望と欲求から、それに応じた。ジェイムスは週末ともなると義務的な社交の場に顔を出し、貴族の友人たちとパブで飲んだりもしたが、あのころ、何よりも大事だったのは、自室のスイートでプラカシュと過ごした時間だった。それが科学の探究であっても、別の〝探究〟であっても。
厳密には、愛ではなかった。互いに好意は抱いていたものの、ふたりはあまりに違いすぎた。教科書とベッドの中で見出したことのほかに、互いに理解し合っていたことがあったか、大いに疑問だ。プラカシュはインドのパナジ出身で、家族は非常に保守的だった。つまり、ふたりとも同じくらい徹底して秘密を守る必要があった。だからこそ、信頼して恋人関係を結べた。セックスで自分が何を望み、代わりに相手には何をしてあげるべきか、身をもって学ぶことができた。
大学を卒業し、ジェイムスは王室生活に戻り、プラカシュは博士号を取るためにカリフォルニアへ渡った。再会の約束もせず、ふたりは別れた。二度と会うことはないとわかっていたのだ。
大学卒業後、ジェイムスは凄まじい孤独感に襲われた。あまりにも孤独だったせいで、これまでの人生で唯一ともいえる致命的な過ちをおかした。ナイル・エジャートンとの恋に溺れたのだ。
最初から、明らかに大失敗だった。第一にナイルは使用人で、国王手許金会計吏の補佐をしていた。自分の従僕と寝るほど不名誉ではないにせよ、さほど違いはなかった。
なお悪いことに、ナイルは見た目は麗しくほっそりとした好青年であったものの、冷酷で計算高い男だった。ジェイムスは最初、ナイルが本気で自分に恋をしていると信じていた。恋の始まり特有のあの高揚した日々、ジェイムスは、ナイルが禁じられた情熱に身を焦がしていると思っていた。ところがナイルの要求はどんどん増し、より大きな支配力を求めるようになった。そのころになってやっと、ジェイムスにもわかってきたのだった──自分が利用されている、ということに。
早めに手を切っていれば、ダメージは最小限に抑えられたかもしれない。だが、できなかった。そのせいでナイルはつけ上がり、さらに尊大な態度をとるようになった。ベッドでも、それ以外の場面でもナイルの言いなりだった。ナイルの態度について、あれこれ言う者も出てきた。ふたりの関係はまだどうにか秘密にしておけたが、このまま行けば、遅かれ早かれナイルが得意げに関係を明かすことになりそうだった。
それで、ジェイムスはナイルに関係を終わらせようと告げた。今の職をすぐさま辞めて宮殿から出て行ってくれるのなら、申し分のない紹介状を書こうと約束した。そう言いながらも、ジェイムスの心は張り裂けそうだった。それどころか、この期におよんでナイルが過ちに気づいて行動を改め、ふたりでやり直したいと言うのではないか、などと淡い期待すら抱いていた。
だがナイルは肩をすくめると、金の話をしようと言ったのだ。
それからの一年は、ジェイムスの生涯でおそらく最も屈辱に満ちた時期だった。かなりの金額をむしりとられたが、脅迫されているという事実は、金を失うことよりも
堪えた。金を要求され、小切手を切るたび、自分の心が
蝕まれていく気がした。ナイルが無心にやってくるたびに、自分の愚かさを改めて痛感した。
そしてそのナイルも……
そうだ、もう終わったのだ。
すっかり片がついた。このことについてはもう考えることもやめようと決めた。
あれほど愚かで無防備にはもうなるまい、と固く心に誓った。相手がいなくとも、動画と想像力と自分の手があれば事足りる。同じ過ちを繰り返すよりもましだ。もし仮に、また恋人を作ることがあるとしても、相手は入念にチェックするつもりだ。信頼できる相手でないといけない。自分への影響力や予想される被害があらかじめ計算できるような相手。
目の前にいる男ではないことは確かだ。
ロマン派の時代から颯爽と現れたような小説家。世界の最果てにいる異邦人。
しかし、この驚きときたらどうだ。
ベンにはすでに、自分の心のずっと奥にしまっておいた秘密まで打ち明けてしまった。キャスにも、妹のインディゴにさえ打ち明けたことのない話だ。ベンもまた、おそらく自分で理解している以上にたくさんの話を明かしてくれた。ベンもゲイだという。恥じることなく、ありのままの自分でいることに自信と余裕を持っている。
ああ、私もどれほどそうなりたいと思っていることか。
一緒に過ごしているこの二時間で、単に心惹かれていた気持ちは、別の感情へと変わりつつあった。もうこれ以上、ベンに触れずにいるなど耐えられない。
いや、ゲームに集中しなくては。
ジェイムスは集中した。勝機を見つけた。そしてそれをつかんだ。
盤上に残っていたルークを移動させて宣言する。
「二手でチェックメイトだ」
ベンは目を細め、盤を
睨んだ。戦況がそれで少しでも変わるとでもいうように。しかし、すぐに頷く。
「負けたな。お見事」
「ありがとう」
長居しすぎたかな──と礼儀正しくゲームを打ち切るなら、今がいいチャンスだ。
だが、国境なき医師団との晩餐会まではまだ三時間ある。
大胆な勇気がふっとわいてきて、ジェイムスは身を乗り出すとベンににやりと笑って見せた。
「で、秘密の報酬は? もうひとつ聞かせてもらえるんだよね? もちろん」
「ちょっと待ってくれ」ベンはテーブルを押しのけるように立ち上がると、バーに行き、ラムをグラスになみなみと注いだ。
「あんたの勝利に見合うような、でかい秘密を打ち明けないとな」
ベンがテーブルから離れたおかげで、ふたりの間に距離ができた。ジェイムスもほっとして立ち上がる。雨はまだ激しく降っていた。現実の世界はどこか遠くに存在しているかのようだ。もちろんそんなはずはない。現実はすぐそこでジェイムスを待ち構え、単調な日常の務めへと引き戻そうとしている。ベンとは、もう二度と会うことはないだろう。会って数時間しかたたない男にここまで心を開いて話をするとは、冷静に考えてみれば信じ難いことだ。
だが、ベンがグラスを手に振り返ったとたん、またもベンの魅力に引き込まれてしまう。
ベンの瞳がジェイムスの瞳をとらえる。落ち着かなくなるほど、まっすぐに。
「報酬を受け取る準備はいいか?」
「待ちきれないね」
「俺の最後の秘密はこうだ」ラムをひと口啜って、ベンが続ける。
「あんたが欲しい。そしてあんたも同じ気持ちだ。そうだろう?」
今この瞬間なら、逃げることも可能だ。
そう、驚いたような顔をして、ベンが一体何のことを言っているのか皆目わからないふりすらできる。
今、自分がすべきなのは、こういうまともな振る舞いだろう。だがジェイムスは何も言わなかった。何もしなかった。ただそこに立ち尽くし、ベンから目を逸らせずにいた。
心臓を激しく高鳴らせて。
ラムをもうひと啜りすると、ベンはグラスを置いた。こちらに近づいてくる。ゆっくりと、だが迷いのない足取りだ。目を逸らそうともしない。その顔は笑っていなかった。互いに触れ合えるほど近づいたとき、ベンはジェイムスの肩に腕を回し──そこで動作を止めた。おや? と言わんばかりに眉を上げる。ジェイムスが反応しないせいだ。
「いや、その──」口の中がからからに乾いていたから、ジェイムスはごくりと唾をのんだ。「その、つまり、さほど経験があるわけじゃなくて」
「いちばん最近は?」
いちばん最近──最後は、ナイルと。すでに終わりが近いとわかっていて、行為の間もずっと自己嫌悪に駆られていた。
「三年くらい前だ」
ベンがふっと息をつく。あたかも同情するというように。親指で、ジェイムスの肩に優しく触れる。
「大丈夫だから」
ベンの声が、これまでと違った優しさを帯びてくる。
「約束する」
いや、断じて大丈夫などという話ではない。
だが、ジェイムスはもはや気になどしていられなかった。ベンにこうして触れられている今は。
流れに任せよう。長い人生のうちのたった一時間──そう、私の時間だ。この瞬間、ベンは私のものだ。あとはずっと秘密にしておけばいい。
「ああ」ジェイムスは答えた。「わかった」
ベンが唇を重ねてくる。激しく奪うように。
気が遠くなるほど長い口づけだった。ジェイムスには何もかもが初めてだった。ベンの唇の力強さも、頬に触れたときに無精ひげが手のひらに当たってざらつく感触も、こうして抱き合っていてベンの体から伝わってくる熱も。ジェイムスは唇を開き、すべてを受け入れた。ベンはラムの味がする。アルコールのせいか、唇は燃えるように熱く、痺れるようだった。
ベンの歯がジェイムスの唇をそっとかすめ、離れた。それ以上ジェイムスに触れることもなく、振り返りもせず、寝室へと入っていく。ジェイムスは深く息を吸い、後に続いた。心臓が激しく脈打ち、息が震えているのは、興奮のせいなのか、それとも怖いからなのか? どちらも混じり合っていて、よくわからない。
寝室は、ジェイムスの部屋ほど豪華ではないものの、広さは同じだった。部屋じゅうを四柱式の巨大なベッドが占領し、ヴェールのような薄布が柱の四方にかかっている。ベッドの前で足を止めると、ベンは衣類を脱ぎ出した。とても迅速で、ビジネスライクですらあったが、熱いまなざしだけは決してジェイムスを逃しはしなかった。
ジェイムスは震えていた。が、速やかにベンに倣う。ずぶ濡れの靴はとうに脱いでしまっていた。あとはシャツのボタンを外し、ベルトを緩め、ボトムスを脱ぐだけだ。
赤の他人の前で裸になるのは簡単なことではなかった。ベンに対してこれほど気持ちを高ぶらせてはいるものの、実のところ、この男のことは何も知らないのだ。これまでに打ち明けた秘密だって、いちばん差し障りのない話ですら、ふだんなら決して話さないような内容だ。それに加えてこの状況は何だ? 狂気の沙汰だ。こんなにも自分が脆く思えるのは初めてだ。
いや、これ以上は考えまい。そう自分に言い聞かせ、恐れに屈すまいとベンだけを見つめた。ベンの肌が少しずつ露わになり、均整のとれた見事な肉体が剥き出しになるにつれ、ジェイムスは我を忘れた。現実世界を忘れた。今、この瞬間──これしかなかった。今から起きること、それだけしか考えられなかった。
ベンが近づいてくる。互いの裸の胸が触れ、ベンの固くなったそれが自分のものに触れ──ジェイムスは引き攣るように息をのんだ。ゆっくりとキスを交わす。濃厚に。ベンにそっと押されてジェイムスは後ずさり──そのままベッドに押し倒される。
そうだ。これを望んでいた。ジェイムスは完全に降伏した。土砂降りの雨の中、初めてベンを見たときから、ずっとこうしたいと思っていたのだ。心の底でずっと激しい欲望が渦巻いていたのだ。今や、ベンの身体はすべて私のもの。この手で撫で、唇で触れ、舌で味わい、吸いつくすのだ。それに応じるかのように、ベンもまたジェイムスに触れてくる。だが、そうした返礼を望んではいなかった。触れられるよりも自分が、もっともっとこの男に触れたかった。
ベンの熱っぽい口が肌を這い、互いの体がやみくもにぶつかり合い、汗にまみれ、股間のものも濡れてくるにつれ、恍惚としてくる。
ベンの舌に乳首を弄ばれ、思わず喘いだ。「きみは──準備はあるのか? その──これから使うものを」
「くそ。ない。まさかこうなるとは──」
「私もだ」キスを交わしながらジェイムスが息も荒く答える。「まったく、驚くほかないね」
なりゆき上のことなのだから仕方ない。だがこういう贅沢なリゾートホテルには、何かしら使えるものがあるはずだ。
視線を流すと、ローションの壜が目に留まった。とろりとした液体は芳しく、ココナツとビーチの匂いがする。たっぷりと手に取り、腹に、股間に塗りつけると、ベンにも同じことをした。ベンの体はすぐさま、どこもかしこもぬるぬるになる。面白くなって、ふたりして互いの体を押しつけながら少年のようにふざけ合った。ムードも何もあったものではなかったが、それでもちょっとした指の動き、さっと掠めた手がまた次第に熱を持ち始め、その手の動きが執拗になるにつれ、弾んでいた息遣いも別の高まり──喘ぎへと変わっていった。
ローションのせいで指がぬめっていた。ジェイムスが、自分のものとベンのそれの先端を共に手で包む。ベンの大きな手がふたりの根元をしっかりと握る。ふたりの手が、早くなったかと思えばゆっくりと、やみくもに上下し、ぶつかり合う。
ジェイムスは呻き声を洩らし──気づいたときには大声を上げていた。こんなふうに、ベッドで声を上げたことはこれまでなかった。いつもは自分を抑えているが、ここでは気にしなくていいのだ。現実から切り離されたこの世界、ベンのそばにいる今なら。
「いいね──」ジェイムスの肩でベンが呻くと、その歯がジェイムスの肌にそっと触れる。「──もっと聞かせてくれ」
先に達したのはベンだ。掠れたような息遣いとともに、ジェイムスの指先が熱くぬらりと濡れる。それがジェイムスをも限界に導いた。絶頂に達したとき、ジェイムスは声を限りに叫んでいた──あまりの快楽のせいで。これまで
堪えていたすべてを吐き出すかのように。これほどの大声を出すなんて、自分でも信じられないくらいだ。ようやく正気に返り、ベンを見ると、そこには笑みがあった。
「うん、なかなかいい声だった」
「へえ、そう」ジェイムスもにやりとし、すぐさまベンを引き寄せ、キスをする。
しばらくの間、ふたりは黙ってただ抱き合っていた。高まった気持ちを静めるかのように。
ジェイムスはベンの肩に頭を預け、目を閉じていた。こうしていれば、ベンのことだけを感じていられる。ベンの鼓動と、雨の音だけを聞きながら。
だが、眠ってはだめだ──。間もなく、ここを去らなくてはならない。キャビンに戻って今夜の予定のために身なりを整えなくては。とはいえ、今、ベンのもとを去るということは、永久に彼と別れることでもあった。あともう少しだけ、ここにいられたら──。
目を開けると、支柱のカーテンのせいで、あたりはぼんやりとした明かりに包まれている。ベンはすぐそばでまどろんでいる。ジェイムスと同じくらい満ちたりているのがわかる。
あとほんの少しだけ──ジェイムスはベンにぎゅっと体を寄せた。
ジェイムスは、今度は目を閉じようと思ったわけではなかった。自然と──眠りに落ちていた。
* * *
ジェイムスが小さな声で悪態をつくのが聞こえ、ベンは目を覚ました。両肘をついて体を起こしてみると、彼はベッドの足元で衣類をかき集めているところだった。
ベッドカバーがかすかな音を立てたからか、ジェイムスが振り向く。頰が赤くなっている。
「いや、その──晩餐会まで一時間もないんだ。行かなければ」
「そうか。ああ、そうだな」
そうか。俺は、英国皇太子とベッドをともにしたのか。
夢ではない。セックスの匂いが部屋中に漂っているし(ココナツローションの香りと混じって)、ジェイムス自身、すぐそこにいて、ぐしょ濡れの服に袖を通そうと奮闘している。それでも、ベンには生々しい妄想であるかのように思えてならなかった。
だって、これが現実であるわけないだろう?
ジェイムスはシャツをボトムスにたくし込んでいるところだ。濡れたまま床に脱ぎ捨てたせいで、皺が寄っている。
「私の靴……靴は、と。ああ、そうだ、テーブルの下だったな」
ジェイムスが急いで寝室から出て行く。ベンはほっと息をつき、そこでようやく自分が息を詰めていたことに気づいた。
ふたりがこうして過ごしたことは楽しい思い出にはなるだろうが、今はジェイムスに出て行ってもらいたかった。自分のすべてが露わにされた気分だったからだ。
裸だとか、セックスのせいではない。
秘密を明かしたせいだ。
あんな馬鹿げたゲームを仕掛けたのは、ふたりの間の垣根を取り払うのに最良の方法だと思ったからだ。それに、もしかしたら、ほんの微かな望みではあったが、ジェイムスをベッドに誘えるかもしれないと思ったから。この先手はよく効いた。それはとてもよくわかる。わからないのは、なぜ、ジェイムスに秘密を明かしてもいいと思ったのか、だ。作り話をしたってよかったのだ。何でもよかったはずだ。なのに、これまで誰にも打ち明けたことのない話までしてしまった。
まあいい、皇太子とはもう二度と会うこともないのだから。
彼だって誰かにこんな話をするわけがない。ほんの少しでも話して自分がゲイであることがバレたら、王位や財産、事実より重んじているすべてを失ってしまうからな。
靴を履いていたらしき物音が止んだ。出て行く準備ができたようだ。ここは別れのキスをしたほうがいいだろう。もちろん儀礼的なやつを。
ベッドから起きて、ホテルに備えてあった厚手の白いガウンをすっと羽織ると、居間スペースへと入って行った。ジェイムスがそこで待っているだろうと考えて。
だが、ジェイムスはデスクの前にいた。引き出しが開いている。手にしているのは、ベンのプレス証だ。
まずい。
「まさか──」ジェイムスの声は掠れていた。「きみがグローバル・メディア社の記者であるはずがない。ケニアの特派員は、シビル・ソープだ。以前、取材に応じたことがある」
気づいたときには、ベンはまたしても正直に答えてしまっていた。
「シビルは妊娠中だ。代わりに俺が来た」
「作家だと言ったじゃないか!」
「言っていない!」
ジェイムスがようやくこちらを向いた。血の気が失せ、疲れ果てた顔をしている。あの少年のような面差しはない。
「言わなかったって? そうだ、私がそう思ったんだ。きみにもそう言った。そしてきみは否定もせず、そう思わせた」
いわゆる「省略の嘘」というやつだが、まあ、嘘は嘘だ。いつもならベンはそういうことはしない。
しかし釈明する間もなく、ジェイムスが口を開いた。「つまり、私は嵌められたということか。記事のネタのために」
「売れる記事を書くために、俺は誰かを騙したりしない」
ベンがすかさず言い返す。腹の底から怒りが湧いてくる。この偉そうな王子さまは、自分の秘密を脅かす相手にはどんな侮辱を吐いてもいいと思っているのか?
ジェイムスが少し怯んだ。「では、金が目的か」
「金だと? くそ食らえだ。あんた、とんだ臆病者だな。これからもそんなふうに生きてくつもりなのか。嘘で固めた人生を。なら、そうしろよ。あんたらみたいな連中にはちょうどいい罰だ」
「あんたらみたいな連中? 自分を偽っていたのは私のほうじゃないぞ。大丈夫だ、と言ったのも。あのとき、きみがそう誓ったんじゃないか──」
ジェイムスの声が
嗄れる。濡れて皺くちゃの服に身を包んだ皇太子は、ほとんど憐れに見えた。指先から、プレス証が落ちる。これ以上手にする力もないかのように。
しかしベンは哀れを感じる余裕もないほど激昂していた。
「俺の机を漁って何をしていた?」
「きみが私を責めるのか? プライバシーの侵害だとでも? メディアの人間が! 私の記事を書くためにここにいる、そんな相手に誘惑されて、この有様だ! なんて馬鹿だったんだろう。あれは全部嘘だったのか? あの秘密の数々は」
ジェイムスの声はあまりにも苦痛に満ちていて、ベンの怒りも一瞬弱まった。だが、続く言葉を聞くまでのことだ。
「おおかたきみの両親は元気にぴんぴんしておられるんだろうね」
ベンは怒りに任せて言い返した。「とっとと出て行けよ、さもないとあんたの写真を撮ってネットニュースに投稿するぞ。やろうと思えば今すぐできる。ほら、行けよ。自分の身がかわいいなら、走れよ」
ジェイムスは嫌悪感も露わに顔を歪めたが、何も言わずに背を向けた。ベランダへと続くドアを開けると、ひんやりとした風が部屋に吹き込んできてデスクの上の紙を躍らせ、ベンの髪を乱す。ジェイムスはちらりとも振り返ることなく、雨の中を走り出した。黄昏どきだが相変わらずの土砂降りで、ジェイムスの姿は瞬く間にぼんやりした影となり、すっと消えた。寝乱れたベッドさえなければ、ベンにはすべてが夢だと思えただろう。
だが、怒りはますます強まるばかりだった。気持ちをなだめようと、部屋中を苛々行きつ戻りつする。檻に入れられた野獣みたいに。
最悪なのは、ジェイムスの勝手な思い込みで責められたことではない。両親についてひどい言葉を吐かれたせいでもない。
最悪なのは、ジェイムスの瞳に浮かんだ、裏切られて傷ついたような悲しみの色が、いつまでも脳裏にこびりついて離れないことだった。
* * *
馬鹿だ。私は忌々しいほどの愚か者だ。記者と寝るなんて。ひょっとしたらベンはすべてを録音していたかもしれない。一時間もしないうちに、私のセックス・テープがニュースサイトで流れるかもしれない。
再びずぶ濡れになりながら、ジェイムスは自分のロッジに駆け込んだ。晩餐会まであと三〇分しかない。すぐにでもシャワーを浴び、身支度を整える必要があった。だが、そうする代わりに、両手を壁に押しつけて体を支え、どうにか涙をこらえた。今、感情に流されたら晩餐会までに立ち直ることはできないだろう。
恐怖が、冷たい拳となって腹を打つ。アドレナリンのせいで体じゅうが火照り、血管を流れる血の速さまで感じることができそうだ。
これまでの人生、ずっと自制し孤独に耐えてきた。ずっと警戒し続けてきた。
一度──生涯でたった一度──純粋な喜びのひとときにこの身を委ねようと決めた。その代償が、こんなにも早く裏切りとなって返ってくるとは。
ひょっとしたら、ベンは今日のことについて何も書かないかもしれない。
そう思いたかったが、望みは微かだ。
でも、「書くのだろう?」と問い詰めたとき、ベンはものすごく怒っていた。もしかしたらベンは書かないかもしれない、私が間違っていることを証明するためにも。
いや、たいていの人間は名誉より金が大事だ。それに、世界中がベンのスクープに沸くだろう。そして見知らぬ他人にいとも簡単に身を預ける
初心な皇太子を馬鹿にするのだ。
喉に熱いものがこみ上げてくる。晩餐会の前に、気持ちを思い切り吐き出して落ち着くべきだろうか。そうしたほうがいい場合もある。少しだけ感情を吐き出すのだ、どこか安全な場所で──
安全な場所?
私は、ベンのベッドは安全だと思った、だが、それもまた嘘だった。
だめだ、考えがすぐにそちらへ向かってしまう──。
かすかな電子音が部屋の向こうから聞こえてきて、ジェイムスは思わず飛び上がった。プライベート用に使っている携帯電話が鳴っているのだ。
ハッキングを避けるため、携帯電話は数週間ごとに取り替えている。電話では何ひとつ重要なことを話さないようにしているし、電話番号も家族や親しい友人だけにしか知らせていない。誰がかけてきているにせよ、信頼できる相手であることは確かだが、今この瞬間、親しげな声を聞いてもひどい応対をしてしまいそうだ。震える手で電話をつかむ。
「もしもし?」
「ジェイムス?」インディゴだ。その声は弱々しくか細い。「ああ、よかった、ようやくつながった」
最初に頭に浮かんだのは、さっきの失態がすでにニュースになっているのではないかということだったが、さすがにそれはあり得ないだろう。いくらマスコミでもそこまでは早くない。それにインディゴの声に滲んでいるのは、心からの恐怖だった。いつもの「病気」が再発したのかもしれない──今はふたり分の悩みを抱える余裕なんてないが、インディゴには私が必要なんだ。私が。
「どうしたんだい? 何があった?」
「お祖父様が脳卒中を起こしたの」
とっさにそばの椅子の肘掛をつかむ。知らず、小さな声が漏れる。「なんてことだ」
「一命はとりとめたけれど、深刻な状態なの。とても深刻。医者はもしかしたらって──ああ、ジェイムス、すぐに帰ってきて。今すぐ」
これは家長が死に瀕しているから家族が集まる、というだけの話ではなかった。瀕死の王に代わり、皇太子を掌中に確保しておくべしという国家の要請なのだ。ひょっとしたら一時間もしないうちにジェイムスは王になるかもしれない。
それはつまり、ベンのスクープが特ダネから世界的大ニュースへと昇格することをも意味している。
体が震えてくる。だが、今は恐怖におののいている場合ではない。これまでの人生、この瞬間のために準備してきたのだ。そして今、覚悟が求められている。
「マスコミはもう気づいているのかい?」
「時間の問題」
「わかった。よし」
理由を明かすことができるのならば、今夜の予定をキャンセルするのもたやすいだろう。
「館の人間に、私の同行チームと連絡をとるよう言ってくれ。三時間後にはこちらを飛行機で発つ。朝までにはロンドンに着けるだろう」
まずはシャワーだ。今日のこの痕跡をすべて洗い流してしまおう。
それから数分もしないうちに、チームのスタッフがキャビンの荷物をすべてまとめ上げた。ジェイムスは、国境なき医師団のメンバーひとりひとりに電話をし、今夜の晩餐中止について詫びを入れた。ジョモ・ケニヤッタ空港へ向かう車が到着し、雨の中、スタッフのひとりに傘を差しかけられながら、車に乗り込んだ。
水浸しの道を車が走り出し、ジェイムスはちらりと後ろを振り返った。雨はようやく小降りになり、リゾートの外観がゆっくりと小さく遠ざかっていくのが見てとれた。境界線をひとつ、越えてしまったかのようだ──幻想と、現実の。
ベンの裏切りはまだ生々しく、傷口の血も乾いていないような有様だったが、過去の話として葬り去れる気もしてきた。
ジェイムスは前を向いた。振り返る時間はもう終わりだ。
運命に立ち向かわねばならない。
--続きは本編で--