ロイヤル・フェイバリット
ライラ・ペース
第一章 その前日
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「フィオナ、ベンです」よかった、留守番電話につながった。
早い時間なのはわかっているが、グローバル・メディア社でベンの担当編集者をつとめるフィオナは、よく夜明け近くに出社する。ベンはマホガニーの机に片肘をつくと、用心深く言葉を選んだ。
「私用で休みをとらせてもらいます。急な連絡ですみません。実は、すぐにでもお話ししたいこともあるんです」
何の話なのかは言えなかった。まだ秘密を明かすことはできないし、仮にできたとしても、だいたいどうやって切り出せばいい?
……こんな感じか?
『俺がケニアで書いた記事を覚えていますか? ほら、摂政皇太子の話です。あれには書かなかったんですが、実はケニアで知り合いになりまして……皇太子と』
でなきゃ、こうか?
『これはぜんぶあなたのせいだからな、フィオナ。皇太子が出席するチャリティーディナーの招待状を、あなたがくれたんだ。そうだろう? ディナーに行かなければ、皇太子と俺は二度と会うこともなかっただろうに』
いや、もうそんな回りくどい話をしている段階ではない。単刀直入に言うのがいちばんだろう。
『俺、ジェイムス皇太子と恋愛中なんです──摂政皇太子であり英連邦の首長でもある彼とね。皇太子は俺を愛しているし、俺も彼を愛している。こんなふうに恋に落ちるやつなんて、せいぜい頭のめでたいやつかガキくらいだろうと思ってました。これまでの人生、俺はずっと世界一ひねくれたろくでなしだったんです。おとぎ話なんかこれっぽっちも信じていなかったし、文字どおり本物の王子さまが現れるなんて、もちろん思ってもいませんでした。
ああ、ついでに言うと、英国の次期国王はゲイです。それについて誰かに記事を書かせたいんじゃないかと思いまして。皇太子のカミングアウトは今年最大のニュースになるでしょうから』
幸いにも、俺が記事を書かされることはないはず。いわゆる「利益相反」行為になるからな。
ベンはフィオナへの伝言に戻り、自分史上もっとも重大となるであろうミーティング予定について話を進めた。「金曜、時間あります? 午後二時ごろとか?」
確かめるように、ちらりとジェイムスのほうを見る。ジェイムスはボトムスのボタンをはめながら頷いた。確か、午後一時半から大きな記者会見が行われる予定だ。
『ご都合を教えてください。じゃあ明日』とベンは締めくくった。
電話を切ると、ジェイムスが後ろから近づいてきてベンの両肩に手をのせた。薄手のアンダーシャツを通して、温かなぬくもりが伝わってくる。ふたりとも、ろくに服も着ておらず、髪も乱れ、疲れ切っていた。「きみはどうかな、コーヒーを飲みたい気分なんだけど」
「頼む」
あまり眠っていなかった。ひとつには、愛し合っていたせいだ──おかげでベンは体じゅうが痛かったし、唇など、数え切れないほどキスを交わしたせいで腫れてずきずきする。だがそれはほんの
一時のことで、ほとんどの時間、ふたりはただ抱き合っていたのだった。この二〇年近くというもの、ベンはだれかに「愛している」なんて言ったことはなかったし、言いたいとも思わなかった。だが昨夜は、その言葉が何度も何度も溢れ出てきた。ジェイムスにそう言い続けなければ、自分の気持ちが嘘になってしまうような気がしたのだ。
コーヒーを淹れるため、ジェイムスが身を離したが、ベンは立ち上がるとその手をつかみ、ぐっと引き寄せてジェイムスを抱きしめた。しばらくの間、ふたりはそのままでいた。かすかに体を揺らしながら。ふたりにしか聞こえないスローな歌に合わせて踊るみたいに。
「きみが私のために決断してくれるなんて、今でも信じられないよ」ベンの肩に顔を埋め、ジェイムスがつぶやく。「私がカミングアウトするとき、きみがそばにいてくれる。私の隣で、全世界と対峙してくれる。こんなこと、夢にも思わなかった」
「俺もだ。だがまあ、そういうことだな」
それを聞くとジェイムスは少し笑い、キッチンへと向かった。きわめて王族らしくないことだが、ジェイムスは使用人をつねにそばに置くことはせず、自分のプライバシーを尊重していた。食事を作ることもあったし、飼っているコーギー犬にも自分で餌をやる。うまいコーヒーも自分で淹れる。
ベンが犬たちのことを考えているのがわかったのか、ハッピーとグローの二匹がこちらに向かって階段を駆け上がってくる音がした。執事はふだん、いったいどうやってジェイムスを煩わすことなくこの二匹を部屋から追い出しているのだろう? 気味が悪いくらいだ。二匹ともベンのことなど眼中になかった。なにしろジェイムスがキッチンにいる。つまり、食べ物にありつけるかもしれないわけだ。二匹はご主人さまのもとへまっしぐらに走っていく。
ベンだけそこに取り残された。
こういう展開になったことに、正直、自分でもまだ驚いていた。ジェイムスへの気持ちを自覚した今でも。どれだけあいつのことを深く愛しているか気づいたとき──そう、あいつは俺の壁をぶち破ったのだ。今までどんなやつにもできなかったことだ──俺は進むべき道を知った。とはいえ、ふたりの関係が公になるのがうれしいわけではなかったが。
まあ、最初の数週間をなんとか乗り切ればいいってことだ。そうすれば、俺がいかに退屈な毎日を送っているかわかって、どんなにしつこいパパラッチでもがっかりするはず。確かに、ジェイムスと一緒にいれば注目もされるだろう。それでも、今みたいにこそこそしなくてすむ。
この先、何が待ち構えているのかはわからなかったし、わかりたくもなかった。ジェイムスが王族の生活を続ける気でいるのは明らかだ。そして、俺が王族に仲間入りすることは決してないということも。俺たちはふたつの異なる世界に橋を架けた。だが、ジェイムスがカミングアウトをしたあと、どうやってこの状況を維持していくのか、よく考えないといけない。
「外に食べに行ったりはできるのか?」キッチンに入り、ベンは尋ねた。
ジェイムスはフレンチプレス用のコーヒーポットと格闘しているところだ。「何だって?」
「レストラン。ああいう店にも行くのかと思って」
「それほど頻繁にじゃないけどね。行くときはたいてい個室を用意してもらう。ときどきキャスとも出かけるよ、ふたりで一緒にいるところをみんなに見せるために」そう言ってからジェイムスは少し黙った。「これまではそうだった。キャスと行っていたんだ」
キャスか──。あの過激な女がしゃしゃり出てきて俺を襲うことも、もうないだろう。
レディー・カサンドラ・ロクスバラはジェイムスの友人であり、この世で最も忍耐強い「偽装工作」の名人ではあるのだろうが、ベンのことを嫌っている。そのせいで、ベンもまたキャスのことを考えるとついイラッとしてしまう。
だがそんな気分もコーヒーの豊かな香りのおかげで消え去った。ジェイムスにカップを差し出され、顔がほころぶ。「選択肢が増えたってことだな。どこへ行くか。何をするか。いろいろ選べる」
「そう思う?」ジェイムスの瞳が悲しげに見えるのは、きっと疲れているせいだろう。「そうだといいね」
ふたりとも、こんなに朝早くからしっかり食事をする気分ではなかったので、次なる行動に移ることにした。ジェイムスが話していた補佐役に会うのだ。ベンはなんとなく、補佐役のほうがクラレンス・ハウスのこのプライベートな居室を訪ねてくるのだと思っていた。だからジェイムスが、これまでベンの前では開けたことのないドアに向かったのが驚きだった。
それが顔に出ていたのだろう、ジェイムスが微笑む。
「さあて、うちの残りの部屋を見せる時間だ」
ジェイムスのあとに続き、ベンは快適な居住スペースの外に出た──宮殿へと。
扉の外に出たとたん、まごうことなき別世界が広がっていた。これまでベンは、宮殿の中でもジェイムスがプライベートな時間を過ごす部屋しか見たことがなかった。ジェイムスの部屋は、確かに家具ひとつとってみても高級なつくりではあったものの、家庭的な雰囲気が漂っていた。そこにはいつもペットフードの入ったボウルがあり、家族のスナップ写真があり、ページの端がよれているペーパーバックがあった。ベンがクリスマスに贈った、あの庶民的なスランケットだって椅子に掛けてある。それにひきかえ、今歩いているこの場所は、まるで美術館のようだ。足元のカーペットは厚くふかふかで、空気は磨き込まれた革の匂いがする。どこもかしこも綺麗に整い、輝いている。そこここにともる灯りさえも、宮殿の壮大さとその歴史の深みによって熟成された光を放っているように思えた。
ベンは、クラレンス・ハウスが宮殿だということは承知していたものの、ある意味、それを肌で感じたことはなかったのだ──今の今まで。
とにかく驚きの連続だった。
まず、クラレンス・ハウスではすでに多くのスタッフが働いていた。ベンがジェイムスに目覚めのキスをしたり、ふたりでコーヒーを飲んだりしている間もずっと、スタッフたちはそうと知らずに宮殿中を歩き回っていたわけだ。これはまあ、びっくりといえばびっくりだが、想定できる範囲だった。想定外だったのは──というか唖然としたのは、ジェイムスとともに廊下を歩いている間、ベンの存在について、誰ひとり何も口にしなかったということだ。ジェイムスが頷きながら「ごきげんよう」と声をかけると、みな一様に「おはようございます、殿下」と答える。その礼儀正しい笑顔はベンにも向けられていて、よれたジーンズ姿の見知らぬ男が摂政皇太子のあとをついてくることに、誰ひとり驚きのかけらさえ見せなかった。
だが、それより何よりも驚いたのは──ジェイムスの変貌ぶりだ。見た目の雰囲気が変わり、身長すら数インチ高くなったように思える。笑顔から歩き方に至るまで、別人のようだ。全身に自信がみなぎり、穏やかな力強さが伝わってくる。
最初、ベンは思った、これは演技だろう──と。だが違った。今、目の前にいるのは、ベンがふだん見ることのないジェイムスなのだ。一国を担う王子という立場の、ジェイムス。
ふたりが入っていったオフィスはあまりにも立派だったので、ベンの頭に首相が思い浮かび、すぐさまその馬鹿げた考えにあきれた。ジェイムスはデスクの席に座りかけ──やめた。
「違うな。きみと並んで座りたい。ああ、このサイドテーブルのほうにしよう」
ジェイムスが言うところの「サイドテーブル」とやらは、ゆうに八人がディナーを楽しめそうなほど広かった。ジェイムスの隣に腰かけながら、ベンが囁く。
「なんでみんな何も言わなかったんだ? 宮殿の連中のことだが」
「どういう意味かな?」ジェイムスが眉をひそめる。
「なぜ俺について何も言わない? まったく見も知らぬ男が、摂政皇太子のあとをつけるように廊下を歩いていたんだぞ」
ジェイムスは「なぜ空は緑じゃないんだ?」と聞かれたみたいな顔をしている。
「ここでは私のほうから話しかけないかぎり、誰も私とは話さないんだ、どんな話題でもね」
ベンはみぞおちに一発くらったような気分だった──この男について、俺は何も知らないということか。
いいや、そうじゃない。俺はジェイムスを知っている──本当のジェイムスを。世界中の人間が知らなくても、俺だけは知っているんだ。何があろうと、この確信だけは守りぬかなくては。
そっと手を取ると、お返しにジェイムスが笑顔を向けてくる。とろけそうな気分だ。
そこへ女性が入ってきた。アジア系だろう、長い黒髪を背中の真ん中あたりでカールさせている。背はさほど高くはないが、葦のように痩せていて、シックなシースドレスとカーディガンに身を包み、喉元には華やかな花柄のスカーフを巻いている。ベンを見ると眉を上げ、かすかに驚き──すぐさまジェイムスに微笑みかけた。
「おはよう、キンバリー」ジェイムスが声をかけたが、椅子から立たなかったので、ベンもそれにならう。「ベン、この女性がキンバリー・ツェンだ。私の個人的な補佐役兼メディアコンサルタントの主軸として、今回の件では尽力してくれている。キンバリー、ベンジャミン・ダーハンを紹介するよ。ミーティングの予定を早めたのは、きみにも知っておいてほしいからなんだ。ベンが──」ジェイムスがベンに視線を移し、握った手に力をこめる。「ベンのおかげで、私はパートナーとともにカミングアウトできることになった」
「お目にかかれて光栄です、ダーハンさん」キンバリーの声は絹のようになめらかだった。「では、計画を変更いたしますか?」
ジェイムスの親指がベンの手首をなぞる──ゆっくりと、誘うように。ミーティング中であるにもかかわらず、ベンの体がどくんと熱くなる。
「ベンの決心を聞いたとき、私は先のことを考えてなかなか踏み出せなかった。でも彼は、そんな気弱な考えを打ち消してくれた。だから──そう、計画は変更する。ベンが味方についてくれるんだ、これ以上うれしいことはない。きみには土壇場になって多くのことをやり直してもらうことになるな。それについては謝罪するよ。だが、そういうことだ」
俺もここで何か言うべきなのか──?
そう感じたものの、ベンには言うべきことが見つからなかった。
ツェンが席につく。そこで初めてキンバリーがためらいを見せた。「率直にお話ししてもよろしいでしょうか?」
「そうしてくれ」ジェイムスが言い、ベンも頷く。
「大事なことから申し上げますが、殿下」キンバリーがiPadを取り出す。「以前、確か『結婚はするつもりはない』とおっしゃっていように思います。それは今でもお変わりありませんか?」
なんだと──?
ベンはジェイムスとの結婚なんて考えてもいなかった。そもそも「結婚」という考えそのものに馴染めないし、自分の人生には縁がないと思っている。だが、俺はきのう一晩かけて心の底から愛を誓った。ひょっとするとジェイムスは結婚の日取りを決めたいと思っているのか? 俺が「別れる」のではなく「ともに歩む」ことを選んだとき、ジェイムスは、俺の気持ちをどんなふうに理解したんだろう──。
ジェイムスは首を横に振った。「いいや。わたしたちは婚約してはいない」
「よかった。それがいちばんです」
iPad上でキンバリーの指が、見たこともない速さで踊り出す。「カミングアウトから一気に結婚の発表までするとなりますと、国民にはショックが大きすぎます。が、真剣な交際ということでしたら完璧です。人は個人の志向を尊重しますから。それに今後、殿下が男性とお会いになるたびに、いろいろ憶測されるという事態も避けられます。これは好条件になりますね」
おいおい、俺たちは広報活動の一環で恋に落ちたわけじゃないぞ。
ベンはそう反論したかったものの、口出しするのは控えた。こうした戦略を練るのがツェンの仕事なのだ。しかもなかなかやり手っぽい。
その代わりにこう言った。「俺についての情報も必要でしょう。知りたいことは何でも聞いてください」
「ええ、この件についてはかなり考え直さないといけません」キンバリーが同意した。「ダーハンさん、できれば今日の午後、ふたりだけで一、二時間ほどお話しするのがいいと思うのですが、いかがでしょうか。話し合うべき事項は多岐にわたりますので、私のほうでも準備をいたします。そのほうが、よりスムーズにお話し合いを進められると思います」
「いいですね。今日は欠勤すると伝えてありますし」
iPad上で踊っていたキンバリーの指が止まる。ベンが自分と同じように仕事を持つ人間だとは考えていなかったのだろう。だが、止まったのはほんの一瞬で、すぐまた軽快に動き出す。「ご経歴情報も早急に必要です。プロフィールデータはお持ちですか?」
「グローバル・メディア・サービスのウェブサイトにあります」とベンは答えた。キンバリーが物問いたげに眉を上げる。
「そうです、記者です。でも専門は経済方面で、王族関係じゃない」
「例外は一度だけだよ」ジェイムスが口をはさむ。「ありがたいことに」
キンバリーが頷いた。「ああ、そうでした。陛下がご病気で倒れた直後の記事ですね、思い出しました。あれはとてもいい記事です、ダーハンさん」
「ありがとう」とりあえず礼は言ったものの、ベンはもやもやした気持ちがどんどんふくらむばかりだ。
ここには普通の反応をするやつはいないのか?──ショックを受けたり興奮したり、「嘘でしょ!」と叫んだり、どんなリアクションでもいい。とにかく普通に驚いてほしいんだが──俺としては。
「では、おふたりはケニアでお会いになったのですね」とキンバリー。
天気の話でもするかのようにジェイムスが笑顔を見せる。「ああ、そうだ。だがこうして会うようになったのは、ベンが数ヵ月前にロンドンに転勤になってからだよ」
俺がもう少し具体的に話してやろうか? そうすりゃツェンさんだってもうちょっと動揺するんじゃないか? ──確かに、俺たちがつき合い始めたのはあとになってからですが、はっきり言わせていただきますと、殿下とともにした四時間のあいだに、俺は殿下の口にあれを突っ込んでいたんですよ──とか。
ま、不適切な発言だな。
「まずはひとつご提案させてください」キンバリーが言い、iPadから顔を上げる。うまく意図が伝わるか判断しかねるような表情だ。「本日バッキンガム宮殿で行われる会議に、ダーハンさんもご出席されるのがよろしいかと存じます」
「バッキンガム宮殿?」
俺が? 嘘だろう?
昼飯を食いに月まで行かないかと誘われているような気分だ。
「ベンを出席させるって?」ジェイムスはベンをちらりと見ると、視線をキンバリーに戻す。「今日の会議は、ただでさえ緊迫したものになると考えていたのだが」それからベンに向かって説明する。「一族全員が集まる会議なんだ。これまで、私がゲイであることを議題にのせたことはない。ほとんどの人間は昨日知ったばかりだしね」
ベンはため息をついた。「嵐の予感しかないな」
だがキンバリーには躊躇の色はなかった。「率直に申し上げますが、会議が紛糾するのは織り込みずみです。これに勝る大炎上はおそらくないでしょう。だからこそダーハンさんにも同席いただくのです。次の機会に伸ばしてしまえば二度目の炎上を招くだけです」
「嵐は一度ですませるということか……。そのほうがよさそうだな」ジェイムスがベンの手をぎゅっと握る。「きみも乗るか? 急な展開で申し訳ないが」
「大丈夫だ」とベンは応じた。目に見える現実の敵に立ち向かうのだと思うと、むしろ活力がみなぎってくる。「ぜひそうしよう。それに、会議でインディゴとお近づきになれるし」
ジェイムスは微笑んだものの、それはどうかな……という顔だった。ベンが妹に会いたがっていることをさほどうれしく思ってはいないみたいだ。
「考えもしなかった。そうだね、確かに。でも、最初は『インディゴ』じゃなく『アメリア』と呼ぶようにしてくれ……! 誰にでもニックネームで呼ばせているわけじゃないんだ。そのうち、きみがそう呼ぶのも許してくれるだろうけど」それからすぐさま事務的な口調になる。「きみの住まいまで、誰かにスーツを取りに行かせよう」
そうだよな、スーツだ。バッキンガム宮殿で王族に会うんだぞ、昨日から着続けているしわくちゃの服のままっていうわけにはいくまい。だが、あいにく部屋にはない。
「スーツはクリーニング屋に出してある」
「え、全部?」とジェイムス。
「一着しかない」
「本当に?」
ベンは肩をすくめた。「会社じゃ革靴さえ履いてりゃオッケーだ。スーツなんか一着あれば事足りる」
「なら、クリーニング店から取ってこよう」
「まだ仕上がってないな」
またしてもジェイムスがぽかんとしている。理解できなかったらしい。キンバリーが説明した。
「クリーニング店では通常、衣類を仕上げるまで数日かかります。急ぎのサービスを利用することもできますが、事前に依頼する必要があるんです」
「急ぎのサービスは頼んでいない。まさかすぐ着るとは思ってなかったからな」とベンは言った。──やれやれ、別の惑星の人間とつき合ってるみたいだ。
ジェイムスはすでに解決策を考えていた。「従者を呼ぼう。ポールソンがきみのサイズを測って何か見繕うだろう」
「ダーハンさんのお住まいといえば──」と言いかけ、キンバリーがためらう。彼女がためらうくらいだ、かなり重大なことなのだろう。ベンにもだんだんそれがわかるようになってきていた。だが、「ダーハンさんはそこにそのままお住まいになるおつもりですか?」と聞かれ──まだまだ心の準備が足りないと痛感した。
ジェイムスと目が合う。「そのつもりで考えているが」ジェイムスの言葉に、息を吹き返した気持ちになる。だがキンバリーは言った。
「差し出がましいとは重々承知で申し上げますが、発表直後の数週間は、ダーハン氏は別のお住まいに移られるのが望ましいかと存じます。クラレンス・ハウスがよろしいかと」
またも息が苦しくなる。「なぜ?」
ベンの問いにジェイムスが答えた。「キンバリーはマスコミのことを考えているんだ。彼らがどれほど執拗なのか、きみには想像がつかないと思う。朝も夜もきみのアパートメントの外で張り込むだろう。窓に物を投げつけては、きみが顔を出すのを待ち構えている。そんな騒ぎのせいで、近所の人たちにも嫌な顔をされる。ああ、それから職場のほうもいろいろ対処しなければならないね。通勤用の車を手配するよ。いくらか解決にはなるだろう」
ベンはこの件については何も気にしておらず、そう言うつもりだった。だがキンバリーがつけ加える。
「それよりも私が懸念しておりますのは、おふたりがそうした状況下でお会いになれるかどうか、ということです。国民がニュースを知ったばかりの時期に、ダーハンさんが泊まりに来た、朝一番にクラレンス・ハウスを出たなどと報道されるのは避けたいところですので」
ジェイムスが口をはさむ。「わたしたちが会うたび、タブロイド紙にふたりのセックスについて記事にされたらかなわないな。彼らはきっと書くだろうから」
「そのとおりです」キンバリーが頷く。
つまりジェイムスと一緒に住むのか? それも明日から?
すべてが自分の手から離れ、思いがけない方向へどんどん進んでいく。
ジェイムスとの関係を公にする──その意味をベンは充分理解していると思っていた。だが、そこには想像以上に複雑な要素が絡み合っていた。
とはいえ、タブロイド紙が俺とジェイムスを引き離せると思っているとしたら、とんだ間違いだ。喜んでそれを証明してやろうじゃないか。
「わかった」ベンは言った。「今夜、荷物をまとめる」
「いいのかい?」
ジェイムスがあまりにもうれしそうで──それだけで、ベンにはもう充分だった。ジェイムスに微笑み返す。「ああ」
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ベンはまるで溺れかかっている人みたいだ。
ジェイムスは思った。
ハウスのプライベートエリアを出たとき、自分はいつもどおりに振る舞うのがいちばんだと考えていた。個人的な悩みはひとまず措き、公の場でのいつもの顔、つまり「王子」になりきるのがいちばんだろう──ベンもそれを理解し、合わせてくれるだろう、と。いつだってとても冷静で、世慣れているように見えるから、ベンが対応できない状況なんてないと思っていたのだ。
いや、今だって、ベンが対応できていないというわけではない。ただ、言葉の端々に不安が影を落としていた。ジェイムスは考えずにはいられなかった──私の決断はすべて間違っていたのではないか──?
私が公務で見せる顔が、ベンには偽物じみて映るのだろうか? これは偽物なんかじゃない。これこそが、私が生まれたときから定められている責務の要であり、何よりも自然な振る舞いなのだけれど──ベンはわかってくれるだろうか?
キンバリーとのミーティングが終わり、従者のポールソンにベンの服のサイズを伝えると、ふたりはプライベートエリアに戻ってきた。終始無言で、ジェイムスがドアを閉めたときもベンはただ黙って立っている。
「大丈夫かい?」ジェイムスは笑おうとつとめた。
ベンは部屋の真ん中に立っていた。見知らぬ部屋に通されたかのような顔をしている。ジェイムスの言葉にもなかなか返事をしなかったが、ようやく口を開いた。
「お前に従者がいるとはね。もちろんいるだろう。そういう仕事がまだ存在している世の中だ、当然、英国の摂政皇太子にだっているよな」
「常勤じゃないけれどね」
「いや、言い訳することはない。お前の人生だ。俺には理解できてなかっただけで」
その言葉が、氷よりも冷たくジェイムスの心臓を締めつける。何でもいいから話さなくては。
「ポールソンは公式行事のためのいわばスタイリストで、私のワードローブを管理してくれているんだ。それ以外の時間は紳士服店のバイヤーをしていて、かなり高級品を扱っていると聞いている。まあオーダーメイドじゃないけれどね」
最後のひとことは言うんじゃなかった。だがもう遅い。さっさと次の話に移るのがよさそうだ。「さてと、昼食は何がいい?」
「スコッチというわけにはいかないだろうな」
ただでさえ手に負えない王族会議をさらに険悪にする方法があるとすれば、酔って出席することだろう。やってみたい気もする。が、ジェイムスは言った。「それは次の機会にとっておこう」
そして手を伸ばし、ベンの手を取る。ベンがジェイムスを抱きしめる。こうしてまた互いの腕の中にいると、信じられないくらい落ち着いた。
ほんの数分前まで一体何を心配していたんだ? 思い出せないくらいだ。
ぎこちない時間があって当然だ──ジェイムスは自分に言い聞かせた。この二四時間で、ふたりを取り巻くすべてがひっくり返ってしまったのだ。少しばかり「息切れ」したとしても不思議じゃない。何より大切なのは、今ここで、こうしてふたりが固く結ばれているということだ。
「無理してここに越してこなくたっていいんだ」ベンの胸に向かって囁く。「気持ちの整理が必要だろう」
「大丈夫だ」
「きみのために車を用意させよう。おとりも立てる。そうすれば記者からも少しは逃げられる」
「俺のせいで皆に迷惑をかけたら馬鹿みたいだろう。まったく。だからもういい」
「本当にいいのかい? 大変なことだろ」
「何とかできる」本当にそう思っているというより、無理して自分に言い聞かせているような口ぶりだ。が、ジェイムスが口を開くのを制し、ベンがにやりとつけ加える。「それにこっちの案のほうがセックスできるしな──存分に」
ジェイムスは安堵のあまり声を立てて笑った。それからふたりは長く甘いキスを交わし、しばらくはリラックスした時間が流れた。
キンバリー・ツェンとの会議の間に、シェフがじゃがいものポタージュを準備しておいてくれたようだ。それは今、コンロの上でコトコトと煮えている。ふたりとも三時間くらいしか眠っていなかったので、ジェイムスはコーヒーをまた淹れた。
ポールソンが到着し、ジェイムスは再び緊張した空気になるのではと心配したが、杞憂だった。ポールソンはいつだって場の雰囲気をつかむのがうまいのだ。
「まずはあなたさまのお仕度から始めましょう」と、ベンに向かって言う。「バッキンガム宮殿にいらっしゃるのは初めてですからね」
「つまり、面倒なほうから始めるということだな」ベンが応じると、
「まさに、でございます」と答えた。あまりにもきっぱりとした口調がユーモラスに響く。ベンは笑い、ジェイムスはポールソンに感謝の笑みを向けた。ポールソンは、この場ではベンを愉しませることが最優先事項だと理解している。よい使用人というのは、ときに超能力者レベルでそうした直観力を備えているものだ。
それに、ポールソンの指摘は正しい。バッキンガムへ赴くのに何を着るべきかなんて、ベンが知るはずもないのだから。ジェイムスはといえば、お気に入りのダークグレーのスーツを着ようと思っているし、靴やシャツ、ネクタイはふだんポールソンがよく選んでくれるものを覚えていた。細かい部分の調整だけ、彼に任せればいいのだ。
ふたりが先に行ってしまうと、ジェイムスは少しの間、鏡の前に立ち、そこに映った自分をじっくりと見つめた。
今日これから一族の前に立つとき、彼らの目に私はどう映るのだろう。
鏡の中の顔には、ゆうべベンの腕の中で味わった、舞い上がるような喜びの色はなかったし、自分の地位が危うくなったという凍えるような恐怖感もなかった。あるのは二日続けて眠れぬ夜を過ごした疲労だけだった。
部屋を出てふたりに追いつくと、ちょうどポールソンがベンのネクタイを結んでいるところだった。
ううむ、いい目の保養だ。
スーツ姿のベンを見たことは前にもあったが、たった一度──クリムゾンナイトのイベントで再会したときだけだ。あのときは、ベンの服装よりも、それをいかに脱がすかということばかり考えていた……。今日のベンは、初めてバッキンガム宮殿に行くようには見えなかった。宮殿にふさわしい男のように見えた。仕立てのよい上着とネクタイを身につけるだけで自信が増して見える、なんて言うとベンは笑うかもしれない。だが、目の前のベンときたらどうだ、いつもの大胆さが戻ってきているばかりか、スーツのおかげでさらに磨きがかかっている。ジェイムスの頬が緩む。「きみ、素晴らしいよ」
ベンはポールソンを指差す。「奇跡の魔術師に感謝だ」
「何をおっしゃいますか」とポールソン。「最近ではダブルのスーツを着こなせる男性は少ないんですから。あなたはまさに理想的な体格をしていらっしゃいますよ」
スーツは紺色で、ベンの体を完璧なまでに引き立てている。オーダーメイドといっていいくらいのフィット感だ。スーツに合わせた淡いブルーのシャツとチャコールグレーのネクタイが柔らかな印象を醸し出していた。靴も完璧で、新品に見えないよう、うまいこと磨き込んである。
「最高の出来栄えだ。こんな短時間で、よくこれだけの準備をしてくれたね」ジェイムスがポールソンに声をかける。「ありがとう」
「どういたしまして殿下」そう言いながら、ポールソンがジェイムスのネクタイを結び直しにくる。ジェイムスがどんなにうまく結べたと思っていても、いつも結び直されてしまうのだ。そしてそのほうが断然決まる。
ポールソンがタイに取りかかっている間、ジェイムスはベンをちらりと見た。ベンは傍の鏡に映った自分の姿を眺めている。ダブルの上着というのは、いざ着てみると胸のあたりが貧弱に見えたりするものだが、ベンの場合、胸の厚みとスリムな腰回りが強調されている。しかもエドワード朝時代の紳士のような気品がある。だが当の本人は、そのりゅうとした姿に満足しているようには見えなかった。それどころか心配げな顔つきで、ほとんど混乱しているといってもいい。鏡に映った男が誰なのかもわかっていないみたいに。
ああ、これはまずいかも──ジェイムスはパニックになりそうな気持ちをなんとかこらえ、心の奥底にしまいこんだ。ただでさえバッキンガム宮殿での会議を控えているのだ、心配事はもうこれ以上いらない。
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ふたりは並んでバッキンガム宮殿の門を通り、ともに扉をくぐり抜けた。フットマンに先導され、いよいよシッティングルーム(注:客間兼用の居間)に向かう段になって、ジェイムスがベンの前にさっと手を出す。「少し後ろに下がって」
「ビビッてなんかいないぞ」ベンが唸るような低い声で返す。
「もちろんそうだよね」実際、ベンはジェイムスが予想していた以上に勇敢だった。「だが王室の規則で私が先に歩くことになっている」
「誰も見ていないのに、そんなところまで気を遣うのか?」
「ほかに気を遣うことがないんだよ」
ジェイムスはつねづね、王室の礼儀作法の問題に対する細かさは、学者同士の確執にまつわる古いジョークによく似ていると思っていた──人々があからさまに激しくやり合うのは、そこに問われるべき本質──つまり中身がほとんどないからだ。
シッティングルームの扉が開いた。よく響き渡る声がこう告げる──「摂政皇太子殿下とベンジャミン・ダーハン様」
昨夜からずっと、ジェイムスはベンのことばかり考えていた──彼がそばにいてくれることに舞い上がったかと思うと、前言撤回するんじゃないかと心配したり。だが今はそんな気持ちさえ薄れてしまっている。今、心の中にあるのはこの瞬間のことだけだ──生まれて初めて、一族の前に本当の自分をさらすこの瞬間のことだけ。
彼らは巨大な暖炉のそばに集まって座っていた。壁には過去三〇〇年にわたる君主の肖像画が飾られており、歴代の王や女王たちが不満げな視線をこちらに向けている。ジェイムスの祖母でもあるルイーザ王妃は、いつものように火のそばの席に陣取っていた。背筋をピンと立て、堂々と構えたその顔は無表情で、遠い昔に王妃が戴冠式で撮った写真を思い起こさせた。ジェイムスのいとこたちは王妃の隣の長いソファに、アヒルの子のごとく並んで座っている。何か役に立つことを言ってくれそうな雰囲気ではある。だがそれより何より心強いのは、ニコラスが約束どおり来てくれたということだ。無精ひげが一日ぶん伸びており、英国空軍のつなぎ姿ではあったものの、とにかく駆けつけてくれた。ジェイムスが部屋に入ったとき、笑みを見せてくれたのもニコラスだけだった。
そしてインディゴの姿もあった。顔色が悪く、緊張した面持ちでひどいありさまだ。ジェイムスがカミングアウトしたいと打ち明けてからずっと眠れなかったのにちがいない──おそらく当の本人よりも。メイドに服を選ばせたのは明らかだ。端正なレース使いの、いかにも王女が着そうなドレスだが、気の毒なほど似合っていなかった。
王妃のすぐ後ろには、おじであるリチャード王子が立っていた。背中で手を組んでいる。おじは動揺しているようには見えなかった。むしろ──満足している? あまりよい兆候ではない。
だが、それ以上にジェイムスが不安に思ったのは別のことだった。すぐにでもベンを紹介しようと考えていたのだが、後回しにして尋ねた。「陛下はどこにいらっしゃるのですか? こちらにおいでくださると聞いておりましたが」病に倒れて以来、祖父はまださほど話せなかったものの、少なくとも話を聞いて理解することはできた。
「病気がぶり返したのだ」リチャードが冷たく応じる。「ショックだったのだよ。間違いない」
恐怖の波がジェイムスを襲った。自分がカミングアウトすることで、祖父の健康を損なってしまうなどと考えてもみなかったのだ。だがそこでインディゴが声を上げた。「お祖父様はただのご病気、それも三日前からだから、ジェイムスのこととは関係ないでしょう。関係あるふうに言うなんて、おじ様は意地が悪いわ」
王妃はそんなことはどうでもいいようだった。「ジェイムス、あなたは自分が同性愛者だということを公表するつもりなのですか?」
「はい、お祖母様。明日の午後に」
王妃がため息をつく。「私には理解できません。内輪の恥をさらすという現代の風潮がね」
「内輪の恥などではありません」怒りのせいでかえって心が落ち着くということもあるのだな──ジェイムスは冷静に続けた。「自分が何者であるかという問題です。これまで私はずっと嘘をついてきました。真実を知らせることこそ、国民に対する誠意だと考えます」
「国民は驚愕することでしょう」王妃が応じる。
そこで援軍を出してきたのはニコラスだった。「時代は変わったんです、お祖母様。英国国民の多くは──」
「ええ、ええ、わかっていますとも。私も皆と同じく新聞を読みますから」と、王妃がニコラスを遮る。「ですが、私たちの果たすべき責任は、英国だけに留まるものではありません。英連邦のことは完全に忘れているのですか、ジェイムス? 連邦加盟国は、もっと伝統的な考えを重んじる傾向にあるということを理解していないのですか?」
「それを忘れたことはありません」とジェイムスは言った。「ですが結局のところ、英連邦の首長としてゲイの王を受け入れるか受け入れないかを決めるのは、加盟国それぞれに委ねられるべきことです。もし私がこのまま彼らを騙し、彼らが好むと好まざるとにかかわらず、ゲイの王として首長の座についたとしたら、それは極端に言えば加盟諸国を軽んじていることになるでしょう。加盟国にはそれぞれ指導者がおり、それぞれの考えがあります。彼らは自分たちで意思決定をするはずです。結局のところ、英連邦の強さは、君主個人そのものを超えたところにあるべきなのですから」
「きわめて高貴な響きだ」リチャードの口調はとても冷静だった。「新しい広報担当者がお前のために知恵をしぼったのかな?」そう言うと、ベンにむかって頷いて見せる。
ジェイムスはほんの数インチ後ろに立っているベンをちらりと見た──いつもどおりの端整な顔。じっと黙っているせいか、表情は読み取れない。
ジェイムスは深く息をつき、口を開いた。
「ご紹介します。ベンジャミン・ダーハンです。彼が──私の交際相手です」
インディゴが息を呑む。さっきふたりの名前が呼ばれたとき、ファーストネームまでは注意していなかったようだ。なぜだかわからないが、じっとベンの顔を観察している。
ほかの一族も同じように驚いているなか、ニコラスだけはまた微笑んでいた。王妃は憤慨した面持ちだ。リチャードがさっそく噛みつく。「お前はそうやって恋人を宮殿中で見せびらかしたいんだな」
「私は真実を告げたいのです。まずは一族に、それから国民に」とジェイムスが応じる。「その結果、何が起きても受け入れます、ベンもそうしてくれると言っている。ベンには、今後数週間、クラレンス・ハウスで、わたしのそばにいてもらうつもりです」
「宮殿に──ですって?」王妃が目を見開く。「マスコミにもこれを認めるつもりですか?」
「これが英国国民に見せるべき王室の姿だとは」リチャードがやっとの思いで吐き捨てる。「次期国王が自らの務めよりも性生活のことにかまけているとはな。おまけにその恋人ときたらどこの馬の骨かもわからん男で、神も驚く後ろ暗い行いをしながら王族の中に食い込もうとしているのだ。こんなことを国民に受け入れさせるだと? 一族にとってこれはどう影響する? 王制にとっても──。まさに神のみぞ知る、だ」
恐ろしいほどの沈黙が流れた。ジェイムスの頭の中で、リチャードへの罵詈雑言の数々が飛び交う。いったいどれから口にしてやろう──。だが最初に口を開いたのはベンだった。
「……しかも私、ユダヤ人ですし」
リチャードは目を見開いた。ニコラスは下唇を噛んでいる──必死で笑いをこらえるために。王妃はいとこのひとりに視線をやり、真面目な顔で尋ねた。「今のは冗談かしら?」
ジェイムスはベンのほうを向き、心からの念を送った──愛してる。
ベンの目尻にしわが寄り、笑みが浮かぶ。──よかった、念は通じたらしい。
「ベンはジャーナリストで作家です。これまで世界のあちこちに居を構えて仕事をしてきて、特に発展途上国の経済問題をテーマにしているんです。彼のことも、そして私自身のことも弁解するつもりはありません」
王妃はどうやら話を自分のペースに戻したいようだ。「私の若かりしころは、こうした問題はもっと慎重に扱われていたものです。そうしておくほうがいいとは考えなかったのですか?」
ジェイムスはもう長いことずっと、キャスとの偽りの生活を送ってきた。結婚まであと一歩というところまで関係を築いてきた。けれども、ふたりとも心はつねに真の恋人を求めていたのだ──嘘に苛まれながら。それなのに王妃はまだこんなことを聞いてくるのか。ジェイムスはため息をついた。「真実こそが唯一の答えです。私は絶対にそう信じます」
王妃の顔に再びいら立ちの色が浮かぶ。「私たちの私生活は、国民には関係ありません」
「そうでしょうか?」ジェイムスが応じる。「国民には、私に子どもができないことを知る権利があります。そして、インディゴが次の王位継続者を産むことになることを。事実を隠そうとしても、噂と不信を招くだけです。私はもう充分に嘘をついてきました。もうたくさんです」
王妃は明らかに納得していなかった。だが、そこで口を開いたのはベンだった。しっかりとした真剣な声だ。
「今のように二四時間三六五日ニュースが飛び交う前は、秘密を守るのも比較的簡単でした。最近では、それがはるかに難しくなっています。王族のみなさんも、ハッキングを避けるために携帯電話を短期間で交換していらっしゃいますよね、陛下」
ああ、よかった──ベンが肩書きをちゃんと覚えてくれていた。そして驚いたことに──わあ、お祖母様がベンの話をちゃんと聞いている!「私たちには守らなければならない秘密があると認識しておりましたが」
王妃の視線はジェイムスではなく、インディゴに向けられている。
ベンはそれに気づいたとしても顔には出さずに続けた、「これはセンセーショナルなニュースになるでしょう、陛下。それは間違いありません。ですが、ジェイムスが自分で真実を告げるとなると話は違ってきます。考えてもみてください、もしほかの方法でこのニュースが広まったらどれだけ悪いことになるか」
王妃が疲れたように頷く。「ああ、まったくもう。ウィンスピアー、ブランデーを持ってきて」王妃の付き人が急ぎ足で脇のドアから走り出ていく。
祖母がブランデーを持ってこさせるということはつまり、敗北を認めたことを意味している。王妃がカミングアウトを渋々でも受け入れるのであれば、ジェイムスにとって障害になるものはない。むろん、たとえ王妃が認めなくとも、カミングアウトをするかどうかはジェイムスの自由であり、当然するつもりではあったのだが、それには相応の代償が必要だっただろう。
ニコラスが話しかけてくる。「それで、カサンドラとはどういうことになっていたんだい? ふたりはとても親密そうに見えたけどな」
そう尋ねられたおかげで、ジェイムスはようやく人前で、キャスがいかに素晴らしい女性なのかを語ることができた。ニコラスは、あたかもふたりきりで食事でもしながら会話をしているかのように、温かく穏やかにいろいろ聞いてくる。そのうちベンも会話に引き込み、これまでの仕事のことなどについて話題を振った。そのたびにベンは丁寧かつ簡潔に答えた。
ベンはどう思っているだろう──ジェイムスは思った。こんな会話、ふつうの家族ではありえないはず。映画やテレビドラマで描かれる王族の姿は、あながちすべてが嘘というわけじゃないのだ。ベンは私たちのことを恐ろしく奇妙で冷たい人種だと思っているだろうか? 私のことはどう感じている? 自分と同じ側の人間、それとも一族のみんなに近いと思っているのだろうか?
今はとても聞けない。聞ける気がしない。
一族のほかのメンバーはあまり口を開かなかった。いとこたちの何人かが、カミングアウトのタイミングや詳細について聞いてきた。彼らはいわゆる「両面作戦」をとっているのだ。万一、ジェイムスが今の地位から追いやられたときに備えて、彼のとる行動に反対のような顔を見せているが、その一方で、もしジェイムスがこのまま地位を保てるようなら、大した問題ではないという態度を見せられるように。インディゴはベンをじっと見つめている。ベンのことをどう考えたらいいかわからないみたいだ。
インディゴは、ベンと私のことを喜んでくれているのだろうか。それとも、自分以外の誰かが兄の人生にこれほど重要な立場で入り込んでくることに怯えているのだろうか。あるいは、人目にさらされることをあれほど嫌がっているインディゴのことだ、そうした状況に喜んで立ち向かうような輩がいるとは信じられないのかもしれない。お祖母様は静かにブランデーを啜っている。
だが、一族のリアクションの中で何より気にかかっているのは、リチャードおじもまた口を閉ざしているという事実だ。会話のなりゆきをうかがっている間に、おじの態度から怒りのようなものが消え去り、むしろ喜んでいるようにさえ見えた。
リチャードが事実に簡単に納得するとは思えないし、ましてや私の幸せを喜ぶことなどないはずだが──。
会議が終わると、ジェイムスはこの部屋に入ってから初めてベンだけに話しかけた。「そろそろ行こう。きみはこれからキンバリーに会うんだろう? 私は声明文を書かなければならないし」
「インディ……」と言いかけたところでベンがはっとして言い直す。「アメリア王女はどうする? 挨拶したほうがいいか?」
ベンの言葉が聞こえたらしく、インディゴは微笑もうとしたが、その笑みはぎこちなく、とても弱々しかった。この会議は、インディゴにとっても大変なことだったのだ。だからジェイムスはベンに「今度また、近いうちにしようか」と言った。
ところがふたりが帰ろうとしたとき、リチャードがジェイムスのそばに寄ってきた。「ちょっとよろしいかな? すまないが」
ベンは躊躇した──まったくよろしくないぞ──だが、ジェイムスはすぐにリチャードと一緒に背を向けた。ふたりが会話するとなればすぐさま口論になるのは目に見えており、王族としての規範を乱すレベルにまで達しそうだった。すかさずニコラスが近づいてきてベンに話しかけ、ふたりから引き離す。
ほかの者たちから幾分離れるとジェイムスは言った。「何でしょう、おじ上」
「私は声明後のお前の統治権に異議を唱えるつもりはない」
ジェイムスは少し間をおいてから応じた。「なぜでしょうね、ご支持くださっているのに、おじ上にお礼を言いたい気分にはなれないのですが」
「なぜなら私が支持するのはお前個人ではないからだ。私の支持は王制制度に向けられている。お前が摂政皇太子である限りお前は君主の代理であり、私はつねに君主制に忠誠を誓ってきた身なのでね」リチャードが微笑む。「だが、お前の妹の言うとおりだよ、ジェイムス。国王の病気は軽いもので、回復は確実だ。お前が権力の座についていられるのは今だけだぞ」
「王の回復以外に、私は何も願ったりなどしていません」リチャードの言いようは、まるで私がお祖父様の死を願っていると責めているみたいじゃないか。
「もちろん私もだ。だがほかにも理由がある。今朝、カンタベリーの大司教と話をした。そして大司教に告げたよ、お前がじきに重大な声明を出す予定で、その結果、お前が国教会首長の座につくことがいかに不適切であるか明らかになるだろう、それゆえ王になることも──とね」
くそっ。
リチャードは、王族随一の聡明さは持ち合わせていないかもしれないが、私の最大の弱点は即座に見抜いている。
リチャードが続ける。「大司教に言ったよ。君主制の安定は、お前が摂政を務める間は、お前の統治に疑いを差し挟まれないようにすることにかかっていると。同性との関係を公にすれば、制度の安定を保つことはますます厳しくなるだろう。とりわけその相手がキリスト教徒でもないことを考えるとね。だが、お前はこの事実をすべての国民にぶちまけると決めたようだな。どうぞそうしてくれ。そうすれば英国国民も、自分たちに必要な改革は何かはっきりわかるだろう。国王が王座に復帰されれば──それももう間もなくのことだが──、状況は大きく変わるはずだ」
リチャードはすでに、カンタベリー大司教と結託していた──。
だが、大司教にはまだ詳しいことは知らせていないに違いない。すでに秘密を漏らしていたのなら、そのことについても今ここで明かして私を愚弄するはずだから。とはいえ、私がカミングアウトするときにはすでに、大司教は私に対して充分すぎる反感を抱いていることだろう。
しかしここで不安など見せるつもりはない。リチャードには「様子を見ましょう」とだけ返し、背を向けた。このままずっと背を向けていられたらいいのに。
ベンとふたりで宮殿を出て、待たせている車に向かっていると、ベンの手が腕にかかる。
「想像していたほど悪くはなかったんだろう?」
「まあね」ジェイムスは答えた。リチャードの話をベンに伝えなければならないとはわかっていたが、まだできなかった。今はまだ。そのことを考えすぎると前に進めなくなりそうだった。それでも、進み続けなければならないのだ──すべてが終わるまで。
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宮殿での会議のあと、ジェイムスはどこか上の空だったが、ベンのほうはやや気分が上向いていた。初めての宮殿入りだったから、確かに予想以上の威圧感を覚えた──それは認めよう。仰々しく並ぶ円柱やら油絵の肖像画やら使用人やらが、一斉に押し寄せてきたような感じはした。
だが、一族との対話はまあうまくいったんじゃないか? ジェイムスが心配していたリチャードおじは、ただの気取り屋だ。王妃のほうは──どうだろう? 正直まだよくつかめない。こっちの話はちゃんと理性的に聞いていたが──。それより気になったのはインディゴだ。不信感もあらわに、怯えたような目で俺を見ていた──。
人見知りだということはもちろんわかっている。初対面なのだからなおさら不安なはずだ。とはいえ、俺についてはジェイムスがすでに話をしているはずなのだ──どんな存在なのか、とか。それなのに、俺に言葉をかけられないでいる。かけたくないのかもしれないが。
これまでベンは、インディゴの問題については、ジェイムスが誇張して話しているのではないかと疑っていた──無意識なのだろうが、ジェイムスには、すべての重荷は自分ひとりで背負うものだと考えているふしがあるからな。しかしこうしてインディゴに対面してみると、誇張どころか、ジェイムスが問題を軽視しているのではないかとも思えてくる。
「少し時間はあるか?」ジェイムスに話しかけながらクラレンス・ハウスの前で車を降り、従業員と警備員たちが二列に並ぶ間を通り抜ける。あたかもいつもどおりの仕事をしているかのように。だが、そうではなかった。俺たちには、今、ふたりだけの時間がどうしても必要だ。ゆうべ、俺たちをあれほど舞い上がらせた無限に広がる大胆な希望について、もう一度確かめるための時間が。
しかしジェイムスは首を横に振った。「きみはキンバリーと会議がある。それに今夜は自分の部屋で過ごしたいんじゃないかい? 準備もあるだろうし。それとも、誰か荷造りさせる者を派遣しようか?」
「自分でやる」ベンはあわてて答えた。見知らぬ人間に部屋に踏み込まれて私物をあれこれ検分され、宮殿に持っていくべきものを吟味されるなんて、想像するだけで恐ろしい。
そんなこんなで、キンバリー・ツェンのオフィスに入って席に着くと、ベンは今度は少しばかり無気力になっていた。
オフィスは小さかったものの、上質な壺を飾り、テーブルには新鮮な花を置くなど、少しばかり丁寧なアレンジが施されており、ツェンの女性らしい雰囲気を感じさせる。とはいえ、最低限に抑えた調度品や殺風景な照明を見れば、彼女が女性らしさと鋭敏さを両立させられると考えているのは明らかだ。
ツェンは礼儀正しく微笑み、ベンの後ろでドアを閉めると鍵をかけた。
「最初の質問には、ここだけの話として正直にお答えください。あなたの答えは私たちの間だけのものにします」
「わかった」会話がどこに向かっているのか見当がつかないまま、ベンが応じる。
ツェンがベンの隣に腰かけ、容赦ない眼差しをぶつけてくる。
「あなたは摂政皇太子を愛しておられますか?」
「もちろんだ」
なんだ、ツェンは俺たちの関係についてばかげた激励でもしようっていうのか?
だがそんな意図ではなかったらしい。
「もしそうなら、審査の最後に私の忠告に従うと約束していただきたいのですが」
審査? 何を言っている?
「皇太子殿下は王位継承者としての地位を維持するために、あらゆるものを政争の具としてお使いになろうとしています。あなたを守るためだけにそれを使い切ってよいというご覚悟です。おわかりですか?」
ツェンはデザイナーズのトートバッグからノートパソコンとオーディオレコーダーを取り出したが、パソコンにもレコーダーにもまだ電源を入れなかった。
「今からあなたのご経歴を確認いたします。ここで絶対に重要なのは、あなたが私に完全に正直であることです。摂政皇太子にも、マスコミやほかの誰にも漏らすつもりはございませんので、率直にお話しください。この審査を最後まで行い、あなたの過去に何か激しい論争を招く要素や、摂政皇太子の地位を脅かすようなスキャンダルの気配があると確信いたしましたら、あなたにすぐさまこの件から手を引くよう申し上げるつもりです。殿下のために。殿下を愛しておいでなら、そうすべきです」
つまり俺は、今からまず、王子にふさわしい相手として認定されないといけないということか。
「これは、あなたのふだんのお仕事なんですか?」
「出すぎた真似をしているのではとおっしゃりたいのだったら、ええ、そのとおりです。私がこのようなことを申し上げたと、あなたが摂政皇太子にお教えしたら、たぶんクビになります。ですが次にお雇いになるコンサルタントも同じことをするでしょう。よほどの無能でなければね。そして今は無能さと係っている暇などありません。スキャンダルにも。つまりですね、ダーハンさん、私たちのどちらも失敗は許されないということです」
話を聞いていると侮辱されているような気もするが、もしこれが違う状況なら、キンバリー・ツェンに大いなる好感を抱いたところだ。
「何の約束もするつもりはないが、あなたの話を聞く耳は持っているつもりです」
ツェンはため息をついた。「よろしいでしょう」オーディオレコーダーの電源を入れ、ノートパソコンを立ち上げる。「あなたが今までに寝た男のリストをまとめておきましょう」
「何を──だって?」
「あなたがこれまでにセックスしたことのある男性すべてのリストです。どの範囲までをセックスと定義するかにつきましては、個人的なお考えもあるでしょうが、今回の目的に照らすならば、限定的な行為だけを取り上げるのではなく、できるだけ広範囲にお考えいただくのがいいでしょう。相手は女性も含みます、もしご経験があるのであれば」
「これは必要なことですか?」
「タブロイド紙にちょっとした過去の話を売るかもしれない人物のリストが必要なのです。これから先、ありもしない事実を騙る人間がぞろぞろ出てくるでしょう。そうした輩については、時期を見て彼らが嘘をついていることを明らかにすればよろしい。問題は事実を暴露する人間です。彼らに対しては周到に備えておく必要があります。ああ、ご心配なく──資料として必要なくなれば、録音は消去しますから。たぶん二四時間以内に」
ベンは深呼吸をした──仕方ない、これはジェイムスのためだ。
そして話し始めた。
短いリストではなかったものの、同じ歳まわりの男と比べれば──とりわけクラブ通いを楽しんでいたにしては──関係を持った相手はそれほど多くなかった。恋人とのつき合いはどれも短かったし、たいていはそうした相手とクラブに行き、一夜限りの関係を楽しんだのも四、五回ほどだ。そのうちの何人かは名前も覚えていないくらいで、話しながら気まずく思ったが、ツェンは気にもしなかった。
「あなたが覚えていないのでしたら、きっと相手もあなたを覚えていませんよ」
そう言われて、かえって微妙な気持ちになる。
関係を持った相手を明かすとき、最近の相手からさかのぼって話したので、ワーナーが最後になった。そしてツェンが欲しがっていた情報──居住地や最後に会ったときの職業──以上の詳細は何も教えなかった。
「わかりました」ツェンが言った。「この中にあなたの裸体、もしくは性行為に関する画像や動画を持っている人はいますか?」
「何だって?」
「多くのカップルは、性的な関係をふつうに楽しむ一環としてそうした画像を撮影したりするものなんです」とツェンが説明する。あたかもベンが今朝、卵から孵化したばかりの雛であるかのように。「ですが、破局を迎えると、こういう画像は悪用される可能性があります。今回の場合、控えめに見積もっても五〇万ポンドの値がつく可能性があります」
五〇万ポンド……気が遠くなりそうだったが、ベンはなんとか首を横に振った。「いや、そうしたものは何もない」
「それでは──」ツェンがためらう。頬がほんのり赤くなっている。「女装されたご経験は? けばけばしいコスチュームとか。もしくは革のご衣装とか」
少なくとも今回の質問には愉快な要素があった。ベンは笑いをこらえる。「若い時分にクラブへ通ったときはアイライナーをしてました。ぴったりした服を着てね。だが、恥ずかしさで言えばそのへんの連中の大学時代の写真と大差ない」
「HIVについてはどうです?」
「陰性です」いつも安全には気を配っていた。最近の若い男たちが危険を冒しているのには驚きだ。ベンは一九九〇年代に成人したが、あのころ、ゲイの経験のあらゆる場面がコンドームに包まれていた。当時の習慣をこれまで変えたことはない。
ツェンはうなずく。「それを証明できますか?」
「八月下旬にロンドンに転勤になったとき、定期健診の一環として血液検査を受けた。だから答えはイエスです」
「それ以来、何もない?」
「血液検査はしていません。が、その──新たに感染した可能性もない。ケニアで会って以来、ジェイムスとしか関係していないし」
キーボードを叩くツェンの指は止まることがなかったが、ベンがつい口を滑らせたことには気づいたようだ。
俺たちが事の発端から恋愛関係にあったことがばれてしまったか。この調子だとほかのこともすべて、すぐに知られてしまうだろう。だがまあ、それの何が悪い?
「直ちに二度目の検査を受けるのがいいでしょう」ツェンが言った。「そうすればマスコミに聞かれたとき、陰性であることを確実に証明できます」
そんなことを聞くのか?──ああ、もちろん聞くだろうな。「わかりました」
ベンはそれから自分の学業について話し、覚えている範囲で、奨学金や学生時代のインターンの経験、さらには二度と口にすることはないと思っていた成績表についてまで話した。これまでの住所もすべて教えてほしいと言われたが、これは無理な話だった。頻繁に引っ越しをしていたので全部は覚えていなかったし、「タイでのテント暮らし」としか言いようのない住まいもあった。だがとにかく覚えているものは全部教えた。続いて税金関係の話に移った。フラットの賃貸契約のコピーを渡すと約束した。両親の死についても話さなければならなかったが、少なくともツェンは詳しく話すよう強要はしなかった。
「逮捕歴は?」
「大学時代、イリノイ州でスピード違反の切符を数回くらったかな。騒音条例に違反したパーティーを開いて警察に止められたこともあります。が、それ以外に法の執行機関に私の名が記録されていることはないはずです」
「よかった」この審査とやらを始めて三時間になるが、初めてツェンが肯定的な態度をほのめかした。「もうひとつ質問がありますが、非常に重要なことですので、よく考えてください。このニュースが公になったあとで、トラブルを起こしそうな人はいますか? あなたの行動について尋ねているのではありません。第三者のリアクションについておうかがいしています。別れた恋人や不満を抱えた元同僚というのは、まことしやかな嘘を騙るのには充分なくらい事実を知っているものです。それを踏まえてお聞きします。あなたと摂政皇太子を攻撃しようとする人はいますか?」
そんなことは今まで考えたこともなかった。ベンはゆっくりと口を開く。「ひとりいます。ワーナー・クリフトン。さっきも話したドイツとタイでの元恋人です。彼は今でも私を操ろうとしている。ほんの数日前にもメールが来たばかりです」
「その通信のやりとりを送っていただけませんか?」
「いや、『通信のやりとり』はありません。ここ数ヵ月の間にあっちから二度メールをもらってはいます。どちらのメールにも返信しなかったし、両方とも削除してしまった」
「クリフトン氏がトラブルを起こす可能性は?」
この問いにはすぐにでも答えられる。もっと前に──ジェイムスの側にいると決めたあのときに気がつかなかったのが不思議なくらいだ。
「一〇〇パーセント。ワーナーは何かするでしょうね。黙っていられるはずがない」
「クリフトンさんのことをもっと知りたいですね」ツェンが言った。「彼との関係をもう少し詳しく話してください。どんな人ですか?」
畜生、やっぱりそうなるか──。
「飲まずには続けられない気分なんですが」
「だめです。この審査が終わったらいくらでもご自由にどうぞ。私自身、住まいの近くにあるパブでモヒートを飲みたい気分ですよ。でも今は集中することが肝心です」
こんな話ができるのは、キンバリー・ツェンとだけかもしれない──そんな思いがふとわいてくる。だが、口に出してそう言う代わりに、彼女に言われたよう集中することにした。ワーナーのことを話すのは容易ではないのだが──。
ゆっくりと、ためらいつつ言葉が出てくる。「ワーナーは俺の最初の恋人でした。一八歳年上で、出会ったとき、俺は一六歳そこそこで。そのへんの計算は任せます。とにかく、ワーナーは魅力的で惹きつけられた。とても自信に満ち溢れていましたしね。彼は──ゲイであることは普通のことだとわからせてくれた。その点は唯一、正当に評価してもいいところだと思います。ワーナーは自分が何者であるかを疑っていなかったし、当時の俺は自分のセクシュアリティを受け入れようとしつつあったから、そういう人間が必要だったのかもしれない」
まるでセラピストのソファで感情をぶちまけているような話しぶりだ。なんて感傷的なんだろう──嫌になる。そのうえ、ワーナーのことはこれまでずっと誰にも話したことがなかった──自問自答する以外に。この話については「台本」もなければ、口にし慣れた決まり文句もなかった。生々しい事実が、開いた傷口からあふれる血のようにどんどん流れてくる。
「彼は小児性愛者ではなかった──あ、いや──ティーンエイジャーに執着する人間は何と言えばいいんでしょうね? 思春期性愛者? そんな感じか。とにかく、ワーナーはそういう趣味じゃなかった。彼は若い肉体よりも自分が操ることのできる心のほうに興味があるんです。だからタイでまたよりを戻したとき、やつの心理ゲームにはまり、やつが俺の運命であり、宿命だと思わされてしまった。俺にとって、そうしたのつながりを持った唯一の人間なんです。ワーナーだけ! いやまったく、それはひどいつながりでした。人を操り、搾取するような。つまり──くそっ──初めてベッドに連れていかれるまで本名すら知らなかった」
ちょっとしてから急いでこうつけ加える。「唯一と言いましたけれど、もちろんジェイムスとのつながりはあります。だがそれは別ものです。はるかにずっといい」
それまでずっと黙って話を聞いていたツェンが口を開いた。「彼の本名を知らなかったというのはどういう意味ですか?」
「ワーナーは、ドイツにいたときはヴェルナー・ラインハルトという名で暮らしていました。ほかにもいくつか偽名を使っていた。犯罪者ということではありません──少なくとも法的には。ですが、彼は、一〇〇パーセント真っ当とはいえないビジネス上の取引を考えついたりしている。愚かな投資家が彼のポケットに現金を投じるだけの投資機会を得たりもしていました。そういうことをうまくやっているんです。さっき言ったように、人を巧みに操ることができる。ささやかなレベルじゃありません。彼の狙いはたいていあからさまです。だが、それがまだうまくいっている。くそいまいましいことに、まだうまくいっている」
ベンは大きく息を吐いた。モヒートのあるパブのことをツェンに聞いてみようか──なんていう考えが頭をよぎる。
「彼の別名を、思い出すことができるかぎりすべてリストアップしてください」
ベンはそのとおりにした。ときどき、ワーナーが他人に及ぼしている「悪行」を見てみたいという倒錯的な願望から、ネットで彼の別名を検索することがあった。世界を股にかけ、いったい今何をしているのか、ワーナーの痕跡を──カタツムリが這ったあとに残すような道筋を辿りたいと思ったりした。だが、最後に検索してからずいぶん経つ。「おそらく今ごろは新しい名前がリストに追加されているんじゃないかな」
ツェンがキーボードから顔を上げる。「クリフトン氏の性格を踏まえると、直接記者に会いに行く可能性が高いと思いますか? それともまずあなたに連絡してくると思いますか?」
「俺に連絡してくるでしょう」ベンは答えた。「あいつのことだ、俺が『黙っていて欲しい』と懇願することを望むはずです。俺が恐れることを。ワーナーにとっては、それこそが楽しみなんです」
「素晴らしい」ツェンが予想外の言葉を返す。「彼があなたに直接電話してきたら、できるだけ早く会話を終えてください。ですが彼の連絡先を聞き出し、すぐに連絡を取ると請け合ってください。それから、その連絡先を私にください」
「で、そのあとは?」
「そのあとはありません、あなたに関するかぎりは。あなたが彼と直接やり取りするのはそれが最後になるかもしれません」
「ワーナーはそう簡単には諦めない」
「さあ、今回はどうでしょうね」ツェンが言った。「それについては私を信じてください」
「どういう意味です?」
ツェンはオーディオレコーダーの電源を切るとパソコンを脇に置き、膝の上で手を組んだ。「ワーナー・クリフトンは、あなたがまだ子どもとしか言えないころに性的被害を与え、その後何年にもわたってあなたを操り続けてきた犯罪者です──あなたが勇敢にもご自分の人生から彼を締め出す強さを見出すまで。
世界各国で行われたクリフトン氏の違法行為については、リスト化して各メディアや地方自治体の司法管轄区に情報提供できますし、実際そうするつもりです。幼少期の虐待を克服したあなたの精神力の強さは、世論にもよい影響を与えてくれるでしょう」
「いい解釈です。だがあなたも俺も、それが事実ではないと知っている」
「そうでしょうか? クリフトン氏が何かを証明するよりも早く、私はそれを証明できますよ」
「ドイツの性的な同意年齢は一四歳だ。彼はこちらの弱さにつけ込んではいたが、レイプではなかった」
「レイプという言葉を使う必要すらありません。若者を食い物にする人間への反発は強いので、ただほのめかすだけでもマスコミを煽るのには充分です。あなたは利用されたのでしょう? 未熟だったせいで。セックスのために」
「いや、そうですが──あなたは、ただワーナーを止めるだけの話をしているんじゃない。それ以上のことを言っている。彼はくそ野郎だし、ジェイムスのためにも、あいつにもろもろ台無しにしてほしくはないが──ワーナー・クリフトンの人生を台無しにするのは気が引ける」
なぜそう考えるのか自分でもよくわからなかったが、そうなのだ。
ツェンが微笑んだ。「あなたが彼の人生を台無しにすることはありません。彼の連絡先を教えてくれればいいだけです。あとは私に任せてください。クリフトン氏が合理的な人間なら、黙って自分の道を進むのが最善の行動だと気づくでしょう。合理的でなければこの私がクリフトンの人生をぶち壊してやります。あなたはこの件に関して何もすることはありません」
ベンはまだ不満だったが、議論の余地がないこともわかっていた。もしかしたら、ワーナーが俺に接触してきたとき、どうにかして彼を説得することができるかもしれない──。
と、そのとき、ツェンが荷物を片づけているのに気づいた。驚きが顔に出ていたのだろう、ツェンが言う。「これで終了です。明日の今ごろには、この録音内容は消去されていますのでご安心を。私以外の誰もこれを聞くことはありません」
「あなたを信じます。それで、俺は合格したのかな?」
「あなたなら大丈夫」ツェンはきっぱり答えた。「理想の相手とは言えませんが、一緒に仕事をしていけます」
「理想の相手?」
「──殿下とだいたい同い年で上流階級に属し、知的専門職についている。慈善事業への共通の関心から摂政皇太子と知り合い、それまでの恋人はひとりきりでしかも円満に別れている。身長も殿下より五インチ以上高いというよりは、ほぼ同じ。もちろん英国人で──骨の髄まで英国らしさのかたまり。プランタジネット一族の血が少し交じっていることを、のちに系譜学者が調べ出してくる、というところでしょうか」ツェンがため息をついた。「女子は夢見るものなんです」
おやおや、それは魅力的なことで。「俺たちがやっていけるなら何よりです」
ベンは立ちあがった。長いことずっと椅子に腰かけていたせいで筋肉が少しこわばっている。ツェンが眉をひそめた。「何かご質問があるのではないかと思っていましたが」
「何です、今度は俺があなたのセックスライフを聞いて楽しむ番ですか? そこは飛ばしましょう」
「あなたはこれからまさにメディアの厳しい監視を受けようとしています、それもほとんどの人が耐えられない規模で。あなたの身に起こりうることをご説明できます」
「俺もメディアの仕事をしているんですよ。何が起こるかわかっている」
ツェンの瞳がベンをとらえる。「本当に? これはまったく想定外の規模になりますよ」
「覚悟はできています」とベンが返す。
「あなたなら乗り切れるかもしれませんね」ツェンは深く息を吐き──微笑んだ。「あなたの幸運を心から祈っています。ダーハンさん。あなたには幸運が必要でしょうから」
+++++++++++++++++++++++++++++
ツェンとの話し合いをしている間に、ジェイムスのほうも会議に出かけてしまったようだ。ぼんやり気が遠くなる。どうした、俺──と自らを叱咤する。話し合いがこんなに長くなるなんて驚きだったが、ジェイムスも驚いたはずだ。きっとここでずっと待って、待って、待ち続けていただろう。
それでもベンは、ふたりが一緒に過ごせるよう、ジェイムスが午後の予定をすべて空けてくれたのでは──とも思っていた。
「ジェイムスは会議の予定をすべてキャンセルしたと思っていたんですがね」執事のグローヴァーに尋ねた。彼はクラレンス・ハウスでのベンの新しい立ち位置については、とくに気にしていないように見えた。相変わらず何事にも動じない男だ。
「殿下は、毎週のご予定である首相との会談はキャンセルできませんので」
首相が今、階下にいるのか?
おいおい、今日という日がどんどんシュールになっていくぞ……。どこまで続く?
しばらくは続きそうだった。ベンがタートルネックとジーンズに着替えるやいなや、王室付きの医師のひとりがベンの血液を採取するために到着した。HIV検査は結果が出るまでに時間がかかるものだが、今回は朝までには陰性が確認されるだろう。それから、ベンをフラットに送り届けるため、黒塗りの車が到着した。
たぶん頼めば、ジェイムスに会えるよう車はしばらく待ってくれるはずだ。だがジェイムスとの逢瀬(どれほど時間がかかるやら)の間じゅう、ここで待っていてくれなどと運転手に頼むのは気が引けた。
それに、俺には新鮮な空気が必要だ。よその空気が──ここではない空気が。
今朝、バッキンガム宮殿に入ったときよりも、自分の家に帰ることのほうが不思議な気がする。別の日にタイムスリップしたような気分で部屋に入った。だいたい仕事を終えて帰宅する時間だ。自分の部屋が、王室の世界と同じくらい異質に思えるのはなぜだろう──ベンは戸惑った。
いつものように郵便物を整理し、靴を脱ぎ、夕食の準備にかかる。なのにベンの考えは、いつもとはまったく違っていた。
郵便物を転送してもらわなければならない。誰かに取りに来てもらえるだろうか? いや、そんなことを人にやらせるのは馬鹿げているな。冷蔵庫の中のものを全部処分しなくては。荷造りもしないといけない──。
これまでの人生、ほとんどが旅みたいなものだった。身の回りのものなどスーツケース二つに簡単に収まる。だが今は、ほんの短い時間であってもこの部屋を離れたくない気分だった。
宮殿での生活──今日という一日ずっと目にしてきた、古式ゆかしい階級制度に囲まれた生活に、俺は耐えられるのか?
バッキンガム宮殿で毎日過ごすわけじゃない。おそらく、あの宮殿に足を踏み入れることは二度とないだろう。クラレンス・ハウスにあるジェイムスの居室で数週間過ごすというだけのことだ。そこにはジェイムスを「殿下」と呼ぶ従業員も出入りしなければ、恐ろしい親族もおらず、面倒なことは何もない。ジェイムスだけがいて、心地よいセックスをして、暖かいキッチンで静かに食事をする。何も恐れることはない。
メディアの注目が津波のように押し寄せてくることを除けば。
ふたりの関係に対するプレッシャーが増すばかりであることを除けば。
ワーナーが陰に潜み、暴露のタイミングを狙っていることを除けば。
どうってことないさ──それ以外は。
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ジェイムスは、ベンがキンバリーとの話し合いを終えたらすぐにでも会いたいと思っていたが、今回の首相との会談はキャンセルできなかった。首相との会話は完全な機密事項で、よそに漏れる心配はない。先手を打ち、事実を告げるのがよいと考えたのだ。首相は同性愛者の権利を長年支持してきたから、この件についての忠誠心は保証されたとみてよかった。首相の反応を確かめ、改めてほっとする。
だがそんな安堵感も、会談の間にベンがフラットに戻ってしまったと知るや、薄れていった。なぜ待っていてくれなかったのだろう。いやきっと、自分のアパートですべきことがたくさんあったのだ──そう自分に言い聞かせる。それを心の慰めに、どうにか自分の仕事に戻った。
今はひとりで居室におり、スピーチの草稿を書き直しているところだ。グローは足元ですやすや眠っている。スピーチ原稿は、キンバリーと彼女が結成したコンサルタントチームとともにあれこれ吟味を重ねた結果、すでに八回目のバージョンになっていた。
なんてことだ──いよいよ明日なのだな。
ジェイムスはデスクに体を預け、両手で頭を抱えた。この三日間の疲れが一気に襲ってくる。嵐の到来が怖かった。だが記者会見が終われば肩の荷もおりるということだ。たとえ世間の怒りに直面したとしても、少なくとも眠れるようにはなるだろう。
キッチンの電話が鳴った。
ぴんと背を伸ばす。この電話番号を知っているのはインディゴ、ベン、ニコラスだけだ。すぐさま飛んでいき、受話器を取る──黒光りしたレトロなスタイルの、ずっしりした受話器だ。
「もしもし」
「やあ」
「ベン! どれほどきみの声を聞きたかったか、わかっていたみたいだね。どうやって電話してきているんだい?」ベンの家には固定電話はないはずだ。
「会社にいる。家から近いし」
「でも荷造りしないといけないんじゃないかな」
まずい、ベンにプレッシャーをかけているように聞こえるだろうか? いや待てよ、ベンは荷造りの必要がないと言うため電話してきたのかもしれない、なぜって、やっぱりこちらには越してきたくないから──。
「三〇分あれば準備はできる」ベンが言った。「俺はプロだぞ、覚えているか? お前がくれたチェスセットだってすぐ詰められる」
つまり、まだ荷造りを始めてもいないということか。
心配すべきなのか? それとも私が馬鹿なことを考えているだけ?
目まぐるしい時間を過ごし、疲れ果て、不安に駆られているせいだ。こんなでは何もまともに判断できはしない。
「見送れなくて残念だった」
「大丈夫さ。どうやって持ちこたえてる?」
「『ジョーズ』に出てくるリチャード・ドレイファスが今の私のぼろぼろな様子を見たら、きっと『これはボートの事故じゃない。サメのしわざだ!』って言ってるだろうね」
ベンは大いに受けて笑ってくれた。「言えてるな」だが、疲れの色までは隠せてはいなかった。
「キンバリーがあまり詮索しなかったのだといいけれど」
正直、ジェイムスはその場にいたかった──ベンの口から過去のあれこれを三時間も聞かされたことなんて、私だってないぞ。
「バールみたいな人だよ。いろいろこじ開けられた。まあ、それが彼女の仕事だからな。おまけに得意ときている。でもどうやら俺は一応合格ラインだったみたいだ」
「もちろんそうに決まっているじゃないか」
ジェイムスはそこで少しためらった。
馬鹿だな、何をためらう? ベンにこんなことも聞けないのなら、ほかに何も聞けやしない。私たちの関係は、すぐにでも先へと前進させなければならないのに。
「どんな気分だい?」
長い沈黙。ジェイムスの心が沈む。でも私は答えを聞かなければいけない。ベンが問題を抱えているなら、それを聞かなくては。
ようやくベンが口を開いた。「大変だよ。お前にこんなことを言うのはどうかと思うが──なんたってお前のほうがよほど大変なんだから」
「今はきみのことを話しているんだ。私のことはおいておこう」
ベンはため息をついた。「ツェンに質問されている間ずっと考えていた──俺のこれまでの人生が、お前を傷つけるために捻じ曲げられ、利用されるかもしれないと」
なんてことだ。ベンは私のためを思って身を引こうとしている?
それが正しいことかどうかなど、ジェイムスは考えもしなかった。わかっているのは、そうなって欲しくないということだけだ。
「そこまでひどいことにはならないはずだよ」
自分の声がひどく軽く響く。今日は一日じゅう高慢で悪趣味な声で話している気がする──どうにかならないものか。「キンバリーがそう言うなら別だけれど」
「それに、自分の家に愛着がわいてきたんだと思う」ベンは続けた。「住まいを離れたくないと思ったことなど、これまでなかった。とりわけ、たかだか一、二週間離れるくらいは。でも──どうなんだろうな」
「離れがたい気持ちはわかる」ジェイムスはなんとか答えた。だが正直なところ、わからなかった。だいたい王族の住まい以外に家など持ったことなどないのだ。大学時代とギャップイヤーのときには別の住まいがあったが、そんなものは一時的なものに過ぎない。今、ベンの言葉を聞いてわかるのは、彼が引っ越しをしたくないと思っているということだけ──。
しかし、すぐに思い直す。
ほんの一日しかたっていないんだぞ。わたしのために、ベンが最大の犠牲を払わないといけないことがわかったばかりだというのに、もう、それをベンに期待しようとしている。要求しようとしている。
馬鹿みたいに怖がるのはやめて話し合うべきだ。
ジェイムスは言った──穏やかに。「今ならまだ引き返せる」
「引き返すとは言っていない」
「確かにそうだ。でも、今日のことが辛かったなら──もし、きみが今、これを引き受けたくないと思っていると気づいたなら、そう言ってくれればいい。やりたくなければやらなくてもいいんだ。受け入れるよ。だからってきみへの愛が変わることもない。わかってるよね?」
ベンの声が、いらついているように響く。「お前を見捨てたりはしないさ。俺を怖がらせるには、まだまだ足りないね。たかが一族と会ったり、広報の女性と数時間一緒にいたりするくらいじゃな」
「わかった」ジェイムスは言った。
これだけはわかった、ベンはこれまでより幸せだし、これまでより恐れてもいて、それがいっしょくたになっているのだ──意固地に言い張っているのではなくて。
それに、今の心持ちについてベンにこれ以上何が言える? こんな日は、こうやって乗り切るしかないのかもしれない。あとで平穏な日々に戻ったとき、心も平静さを取り戻すものだと信じて。ベンは今自分のなすべきことをしているだけなのだ。
本当ならこんなことをしなくてもいいのに──。
「愛してる」とジェイムス。
「俺も愛してる。また明日会おう」そう言ってベンは電話を切った。それは愛の宣誓というより、反抗の意思表明のようだった。
明日──。カウンターにもたれながらジェイムスは考える。
明日だ。
第二章 生まれながらの権利
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がらんとした室内に立ち、ベンは二枚のカーテンを見つめていた。部屋に残っている唯一の私物だ。
ほかの持ち物はすべて、地下の倉庫から運んできた大きめのスーツケース二つに収まった。冷蔵庫にあった食べ物も焼却炉に捨てた。ここに入居が決まったときと同じように、何もない新品みたいな部屋に戻っている──鮮やかなシルクで、完全に場違いに見える布が下がっている以外は。
これをタイで買ったのは、ワーナーがまた姿を消した数週間後だった。何かをずっと持ち続けることがいかに愚かであるか、身をもって学んだばかりだったものの、そのとき借りていたみすぼらしい部屋はとても物悲しく、このままではもっと落ち込みそうな気がしたのだ。
テキスタイルなら、どこへでも持ち運びできるしな──ベンは自分にそう言い訳した。以来、この布は、ずっと手元に置いておくと決めたもののごく短いリストに入っている。
クラレンス・ハウスにこれを持っていく必要はない。だいたい三週間ほどでここに戻ってくるつもりなのだ。それに、あっちの住まいを飾りつけるのに俺の助けが必要だとも思えない。なんたってもう、本物のルノワールがあるんだからな。
だが、二枚の布は今、窓から見える位置に提げてあった。ベンはタブロイド紙のことを充分に理解していたので、あと数時間もすればカメラマンが非常階段を昇ってきて、売りものになる写真を撮ろうとするに違いないと踏んでいた。壁に下がった布になど、さほど価値はない。どんなにメディアが熱狂的になっても、家の装飾品までは報道しないだろう。それでもベンは、これを他人に見られるのは嫌だった。
布地を降ろして丸めると、大きめのバッグの外側のポケットに入れる。
これでよし。クラレンス・ハウスでは、引き出しの中にでも畳んでしまっておこう。フラットに戻ってくればまた出番がやってくるさ。
インターホンが鳴った。ベンは緊張した。ジェイムスの警護スタッフの誰かだろう。ベンが仕事に行く前に荷物を受け取りに来たのだ。
予定どおりとわかっているにもかかわらず、完全に荷造りと準備をしていたにもかかわらず──頭がショートする。
ああ、くそ……くそ……なんでこんな気ちがいじみたことをしている?……本気でこんなことをするつもりなのか?……いったい俺は何をしている……。
そんな思いとはうらはらに、勝手に手が伸び、スタッフを招じ入れるために開錠のキーを押す。
やってきた男たちは黒いスーツを着て、無表情な顔をしていた。ひとりが口を開く。「準備はよろしいですか?」
「ええ」ベンはコートを手に取りながら嘘をついた。「その鞄は私が持っていきます。スーツケース二つをお願いします」
警備スタッフが動きを止める。先ほどと同じ男が「それだけですか?」と尋ねてくる。
「それだけです」
そのとき、頭上で音がした。毎朝お決まりのあの音だ──ごろごろごろ……どすん。
とっさに警護スタッフがしゃがみ込んで天井を見上げる──銃の必要がある場合に備えて、片手を上着の中に入れて。
「あれは何です?」
「ええと──何だろうな」笑いそうになるのをこらえてベンは答えた。ジェイムスとともにこの音をベッドで聞いたことを思い出し、つかの間ベンの気持ちが落ち着く。「その──きっと何でもありませんよ」
スタッフは完全には納得した様子ではなかったものの、ベンの荷物を持って立ち去った。
そのあとすぐにベンも出かけた。いつもの朝の通勤風景をすべて目に焼きつけながら。あと数週間はこの道を歩くこともないだろうし、カメラマンや見知らぬ人たちに悩まされることなく歩けるようになるまでには、それ以上かかるだろう。彼らとの長期戦に粘り勝つつもりではあったが、なんにせよ、時間が必要なはずだ。
だから今、目の前の光景、その一瞬一瞬を、違う舞台から見ているかのように──宇宙人が初めて人間の活動を観察しているかのように──眺めた。雑誌やガムが立ち並ぶ新聞スタンド、ブリーフケースやバックパックを抱え、半分眠ったように歩いていく人たち、自分の手にしているオイスターカード(注:公共交通機関のICカード)──すべてが奇妙であり、同時に愛おしく思えた。地下鉄では運よく空席を見つけて座った。二~三時間しか眠らない日が三日も続いたせいで、歩く死人のような気分だ。
座席にすっぽり収まりながら、自分に問いかける。
本当にこんなことをするつもりか? 俺はマジで人生を無茶苦茶にするつもりなのか?
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「本当にこんなことをするつもりだなんて信じられない」ジェイムスが言った。
耳を傾けているのはコーギーだけ。こちらを見上げ、首をかしげている。話よりも朝ご飯を早く食べさせてほしい。そんな顔だ。わかってはいるものの、犬でもいいから誰かに言わなくてはいられない気分だった。
コーギーたちの食事の入った重い鍋を両手で持ち、ジェイムスは立ち尽くしていた。バスローブを着たまま。
「ベンを公の場に出そうと考えるなんて、どうかしていた。ベンを思いとどまらせる時間だってまだあるし、きっとそうすべきなんだ」
ハッピーが恨めしそうな声をあげる。
「ベンは自分で決めたことだと言っている。確かにそうだ。でも、いつかベンはこのことで私を憎むと思う」ジェイムスは悲しみがこみあげてくるのをこらえた。
電話が鳴り、すぐさま犬に食事を与えると受話器をとった。「もしもし?」
ベンがかけ直してきたのではなかった。「ジェイムス?」インディゴだ。「私よ。元気だった?」
「消化不良の歩く広告塔だよ」
「それ、冗談で言ってるんだろうけど──想像以上に耐えがたいはずよね」
ジェイムスは深く息を吐いた。「本当いうと、そうでもないんだ。誤解しないでくれ、これまでの人生でこんなに緊張したことはない。でも、真実が明らかになれば、気分は上向くはずだよ。今よりよくなるってだけじゃない。今まで生きてきたうちでいちばんよくなる」
「そう願うわ」と言いつつ、インディゴは納得していないように聞こえた。しばらく黙ったあとで続ける。「ベンとは別れなかったのね」
「別れを告げはしたんだ。でもベンが拒んだ。驚いたよ」
インディゴが再びためらう。
きっとインディゴは、何があってもベンを表舞台に出しちゃいけないと言うつもりなんだ──私の暗い疑念をなぞるように。
ところがそんな予想を裏切り、静かにこう言っただけだった。
「彼はあなたをとても愛しているに違いないわ」
ジェイムスの心にまた、感情がどっと押し寄せる。目がちくちく痛んで涙が出そうなほどだ。「どうやらそうみたいだ」
「あなたも彼を愛しているの?」
「ものすごくね」
「なら、うまくいくことを祈るわ。ふたりのために」
ジェイムスは咳払いした。「ベンはお前と知り合いになりたがってる。宮殿の会議ではいろいろありすぎて、ふたりが話す機会を作れなかったけれど、いつかベンと一緒にここで食事をするのはどうかな?」
「いつかね」とインディゴは言った。
疑わしいと思っているような声だ。
そうか、ベンがこのままでいいのかどうか、やっぱりインディゴも疑問に思っているのだ。
キンバリーは、会見ではベンの名前を出さないよう提案してきていた。そうすれば、ジェイムスの恋愛関係の詳細についてではなく、カミングアウトした理由のほうに焦点を当てることができるからだ。ベンは自分で声明を書いており、それはジェイムスの会見後に発表される予定になっていた。
ベンは本当にやるつもりだろうか? ベンにできるのか?
ベンの気持ちを疑うことに後ろめたさはなかった。なぜなら自分自身の決意についても疑っていたからだ。
妹のためだけに聞くのだと自分に言い聞かせながら、ジェイムスは言った。
「お前は本当にこれでいいのかい? 私を止めたいなら、嫌だとひとこと言ってくれればいい」
インディゴが喉の奥で小さな音を立てたので、ジェイムスは、インディゴが本当に前言を撤回し、再びクローゼットのドアを閉めようとしているのではないかと思った。腹がえぐられるような気分だ。希望を感じているのか恐怖を感じているのかもわからない。
だがインディゴはひとこと「頑張って」と言っただけだった。
+++++++++++++++++++++++++++++
「いたわね、ベン」そう言いながらフィオナ・ド・ウィンターがグローバル・メディア社のオフィスに入ってきた。首には琥珀色のビーズが輝いている。「やっと現れたか」いつものルートを歩いていたフィオナがベンのデスクのすぐ後ろで立ち止まる。「病気なの? 具合が悪そうだけど」
「ただ疲れてるだけです」ベンが応じる。「午後二時の予定は大丈夫ですか?」
フィオナが眉を寄せる。ベンが何か重要なことについて話をしたがっていることに気づいたようだ。「辞めるつもりなの?」
「いいえ」
「それならいいわ、二時ね」
フィオナの後ろ姿を見送り、仕事を再開しようしたが、まさにそのタイミングで携帯電話にショートメールの通知が入る。見慣れぬ番号からだったが、すぐにキンバリー・ツェンだとわかる。文面はたったひとこと──『陰性』。
HIV検査の結果などわかりきっている。が、それでもこうして確認できるといつだって安堵感を覚える。ベンは目の前のキーボードに向かったが、今度はロベルトが隣のブースから身を乗り出してきた。「ヤッホー、ベン。さっきは挨拶できなくて悪かった。オンライン通話中だったんだ」
「そうか、気にするな」
「大丈夫か?」ロベルトはフィオナよりも心配そうな顔をしている。
そうだ、こいつは俺が破局の瀬戸際にいたことを知る唯一の人間なんだった。
「大丈夫だ」今のうちにこれだけは「カミングアウト」しておいたほうがよさそうだな。「犬の飼い主氏──? 確かお前、そう呼んでいたよな」
「そうだけど?」
「関係を修復できたよ」
ロベルトがにやりとする「本当に? そりゃよかった」
「あの晩のことだが、その──ありがとう」
あの晩、ロベルトと話していなければ今のこの決断は果たしてあっただろうか? 確信は持てない。それを考えると妙な気にもなる。
「どうってことないね。よりが戻ってよかったな。申し分ないぜ。ほんとに」ロベルトは自分の仕事に戻る。「でもまあ、酒一杯ぶんの貸しはできたかな?」
「ああ、奢る」ベンは新しいファイルに「声明」という名前をつけながら言った。
ブースの向こうでロベルトが何か言っている。「結婚式には招待しろよ!」
結婚式? 何だと……? 何だと??
落ち着け、俺──。ベンは目を閉じ、心をどうにか静めた。
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結局、ジェイムスは昼食をとらなかった。何も喉を通る気がしなかったし、記者会見の最中に気分が悪くなってしまいそうだからだ。
記者たちがセント・ジェイムス宮殿のコーンウォールの間に入り始めたころ、ジェイムスは小さな控えの間で椅子に腰かけていた。メイクアップ担当の女性がジェイムスの顔にパウダーをはたいている。ふだんは、テレビ出演や写真撮影のために化粧をすることなど拒否していたが、今回の会見については、脂ぎった顔でなど出たくない。キンバリーはiPadをタップしながら目の前を行きつ戻りつしている。
「さあ殿下、いよいよです。BBCとガーディアン紙には内々にお伝えしておきました──この会見は、殿下がレディー・カサンドラと別れるといった話以上のものになると」
英国中のどのメディアも、今回の記者会見はカサンドラの件以外にないと確信しているようだ。実際、王室の人間がそんな取るに足らない理由で個人会見を行うとしたら、非常に不面目なことだ。そんなふうに想像されるのは心外ではあったが、都合がいいのかも──と思い直す。
キンバリーが続ける。「BBCもガーディアン紙もまず間違いなく、これから起こることの重大さを認識しておりませんが、何らかの準備はしてくるはずですし、会見が終われば、事前の告知にきっと感謝することでしょう、殿下」
「なぜBBCとガーディアンなんだ?」ジェイムスが尋ねる。
『破局』──サン紙は明日の一面の見出し用に、そんなダミー原稿を作っていることだろう。私がキャスと別れることを発表するのだと信じて。あとでキャスに言わないと。きっと笑うだろうな。
「ガーディアン紙は私どもの動きを迅速かつ無条件にサポートしてくれる可能性が最も高い媒体だからです。そしてBBCは最も重要な媒体です。この二媒体に絞ってリークしたことで、こちらにとってもよい結果が出ると考えております」
ツェンはiPadから顔を上げ、ジェイムスのほうを見ると──眉をひそめる。
「国民はいつも私たちが殿下に口紅を塗っていると思っているんですよ。何もしなくてもそんなふうに見えるなんて、誰も信じませんから」
ジェイムスはどう答えたらいいかわからなかった。「それはどうも」
キンバリーはメイクアップの担当者に視線を移した。「殿下の唇の赤さを抑えるために何かできることはありますか? この場面でごてごて飾り立てているように見られてしまったら最悪だわ。ああ、失礼な発言をお許しください、殿下」
「まったく問題ない」むしろ今は笑いが必要だった。
唇にもパウダーを少し塗ることにした。それ以外のものだと、ろう人形か死体みたいに見えてしまう可能性が高いからだ。
ポールソンは今朝、チャコールグレーのスーツにサファイアブルーのネクタイを選び、私の色合いに合わせていた。今日の私はかなり見栄えがするはずだ。
中身のほうも見かけと合えばいいのだが──。
「ご声明は、すべて発表なさるおつもりですか?」キンバリーが言った。
つまり、遠回しに聞いているのだ──「パートナー」についても言及するつもりか、と。ベンの気が変わったりしていないか──と。
「そのつもりだが」とジェイムスは応じた。「イエス」ときっぱり答えなかったのは、一〇〇パーセントの確信がないことを伝えるためだ。おそらくツェンは理解しただろう。
記者たちのざわめきが高まり、それから期待に満ちた静けさに包まれる。
キンバリーは言った。
「申し分のないご声明です。あなたさまならきっとうまくお話しになれます」
「そう願うよ。それからキンバリー──」
「はい?」
「きみの昇給のこと、あとで私にリマインドしてくれ」
「まずは目の前のお仕事からです、殿下」
ジェイムスはキンバリーに微笑むと、コーンウォールの部屋に入っていった。
これまでと同じ記者会見のように見えた。
テレビカメラのまぶしい光、フラッシュのまたたく音、無表情な目のように見つめてくる、おびただしい数のカメラ。そして私はいつもどおり、温かく自然に微笑む。床に大きく靴音を響かせて歩きながら。演壇に着くと、念のために声明内容を記したカードを置き、話し始める。
「ごきげんよう。みなさんお察しのとおり、この記者会見はレディー・カサンドラ・ロクスバラとケネディ氏の関係についての今週の報道を受け、行うこととなりました。
ですが、私はレディー・カサンドラの振る舞いについて述べるために来たのではありません。私自身の振る舞いについて弁明するために来たのです」
記者団がざわめく。今の発言をどうとるべきかわからないのだ。
まあすぐにわかるさ──ジェイムスは先に進めた。
「レディー・カサンドラは確かにケネディ氏と交際しています。ですが、彼女が私を裏切ったことは一度もありません。ケネディ氏に『浮気』をしたわけでもありません。長年ニュースになってきたほかの男性たちともです。それはありえないのです。彼女はずっと私の恋愛相手ではなく、大事な友人だったのですから。レディー・カサンドラは最初から知っていました、私が今、英国国民と英連邦のみなさんにお伝えしたいことを──。私はゲイなのです」
一瞬の静寂。
次の瞬間、カメラのフラッシュが無数の光を放つ。
ジェイムスは目を細めないよう努めた。心の中では、「やった、やった、やった」という言葉だけが繰り返し響いている。
「このニュースにはほとんどの人が驚くことでしょう。このことについて、私は謝罪しなければなりません──。ゲイであることに、ではありません。これはほかのみなさんと同じように、私の人生における真実だからです。謝罪したいのは、これを隠していたこと──みなさんの良識、忠誠心、寛容さを信頼していなかったことについてです。これらについて、私は英国の全国民に謝罪しなければなりません。みなさんをもっと早く信頼すべきだった。今ようやく、ここまでたどり着きました」
ジェイムスはカードを見ていないことに気づいた。問題あるまい。全部暗記しているのだから。
「私はレディー・カサンドラにも謝罪しなければなりません。何年もの間、彼女は世間の誹謗中傷に直面し、私を守るためだけに、ほとんど秘密裏に自分の恋愛を守ってきました。彼女の払ってくれた犠牲には感謝してもしきれません。その永続的な友情にも」
スペンサーにも謝りたいと思っていたが、キンバリーは謝りすぎると声明が霞んでしまうと反対した。カサンドラに対してはきちんと謝らなければならない──そこだけは譲れなかった。さあ、先を続けよう。
「王室は状況を充分に把握しており、この発表を支持しています」
それは、嘘をつかずに言うことのできる戦略的な表現でもあった。今日というこの日、嘘だけはつきたくない。「何よりも、妹の支援に感謝しています。妹は私の次に王位につく地位にあります。彼女の子どもたちが君主として私の後継者となると期待しています。私の義務と英国国民への献身は、これまで決して揺らぐことはありませんでしたし、今後も揺らぐことはありません。私の個人的な生活が国家元首として、そしてのちに国王としての私の立場を脅かすことはないと確信しています」
さあ、次だ。ベン──許してくれ。
私は希望が欲しいんだ。
挑戦したいんだ──。
「目下、私にはパートナーがいます」記者団の再三のざわめきが聞こえないふりをして続ける。「彼自身の声明は、本日中に発表される予定です。今のところ、私たちは交際の神聖化や正式な承認を求めているわけではありません。報道陣が彼のプライバシーを尊重してくれることを願っています」
もちろん尊重しないだろう。だが、言うだけは言わないと。あともうひと息だ。
「この声明が、すべての国民に容易に受け入れられるとは限らないことは充分に認識しています。将来的には、摂政皇太子とプリンス・オブ・ウェールズとして私の示す行動が、そのほかの懸念を上回るものになることを願っています。
さらに言えば、今日では多くの人が、二一世紀における君主制制度の役割についても疑問視しています。現代社会において君主制が意味を持つとすれば、王位継承権を持って生まれた者は、どんなに厳しいハンディキャップがあろうとも、誰でも受け入れられるということです。このことは、私たちがどのように生まれてきたとしても、私たちはどこにいても名誉と尊敬に値するということを意味しています。
何百年もの間、英国王制は安定と永続の象徴として見なされてきましたが、これからもそうであることを願っています。さらに私は、英国王制が、『私たちはみな神によって創造された存在であり、みな、あるがままに受け入れられるに値する存在であり、法の前ではみな同じ正義を共有すべきである』という理念の象徴となることを願っています。これは、間違いなく私たちすべてに共通する生得権なのです」
深呼吸だ──。「私は王位継承者として生まれました。私はまた、ゲイとして生まれました。私という人間にとって、このふたつは切り離せないものです。片方だけ隠し続けることはもはやできません。あるいは片方を誇りに思いながら、もう一方を恥じたりすることはできません。私はこのように生まれたのであり、それ以上でもそれ以下でもありません──私たち全員がそうであるように。
英国国民のみなさん、私は今ここに誓います──今後とも幾久しく、誠実に務めを果たし、誇りをもってみなさんのために尽力する所存です。ありがとう」
汗ばんだ手で、再びカードを固く握りしめる。記者たちがこちらに向かって叫んでいる──質疑応答はなし、という当初の告知など、完全に忘れ去られている。こんな重大な声明を聞かされたのだ、礼儀正しくなど振る舞ってはいられまい。ジェイムスは聞こえないふりをし、彼らに背を向け、震えるような足でその場を離れた。
控えの間に入ってドアが閉まると、いちばん近くの椅子に腰を下ろす。
「素晴らしかったです、殿下!」
キンバリーが言った。彼女の笑顔は本物で、高揚感すら漂っている。「あれ以上の出来はないというくらいです」
「私が王位継承権を失ったら、ジェレミー・パックスマンの代わりにテレビ司会者になれるかもしれないな」ジェイムスは椅子から床にすべり落ちそうな気分だった。だが、再び息を吸ったとき、筋肉の緊張がようやく和らぎ始めたのを感じることができた。
あとはベンが予定どおり、役目を果たしてくれればいいのだが。
もちろんそうするはず──だよな?
顔を上げると、メイクアップの女性と彼女のアシスタントが晴れがましい顔でこちらを見ていた。本当に晴れ晴れしい顔だった。「どうだったかな?」ジェイムスはふたりに尋ねる。
「とてもよかったです、殿下」メイクアップの女性が言った。アシスタントが甲高い声で続ける。「おめでとうございます、殿下!」
おめでとう──。
そんな言葉が聞けるとは期待してもいなかったし、正直、想像さえしていなかった。
なんて素敵な言葉だろう。ジェイムスの顔にゆっくりと笑みが広がる。
「ありがとう。本当にありがとう」
+++++++++++++++++++++++++++++
ベンはイヤホンをつけ、記者会見を生配信で見た。
最初は誰かに勘繰られるのではないかとちょっと心配だった──ベンが仕事を放り出し、世界中がとっくに予想していた泥沼の破局発表を見るなんて珍しい──と。だが、誰も気づいていないようだったし、ジェイムスが出てきてからは、もうジェイムスのことしか頭になかった。
ジェイムスの口から「私はゲイなのです」という言葉が出てきたとき、ベンはぎゅっと拳を握っていた──。
よく言った、ジェイムス! よくやった!
ベンの周辺では、同僚たちが立ち上がり、片隅にあるテレビを指さしてほかの人に知らせたり、自分のパソコンや携帯電話でライブストリーミングを始めたりしていた。その騒々しさたるや、イヤホンを通しても聞こえてきたほどだが、それでもジェイムスの言葉をすべて聞き取ることができた。
人をあるがままに受け入れる──なかなかいいことを言うとベンは思った。
君主制が全人類の平等を主張するというのは、歴史のほとんどの場面で正反対の立場をとってきたことを考えると、ちょっと言い過ぎかもしれないが、それでも重要な点を示してはいる。ジェイムスが同性愛者なら王になれないということは、同性愛者が自分のセクシュアリティのために権利を失う可能性があると宣言しているのと同じだ。最近、比較的簡単に同性婚を受け入れたこの国だ、今さら後戻りすることはないだろう。
それにどうだ、こいつを見てみろ──見てみろよ。
落ち着いていて、今まで見たことがないほど堂々としているじゃないか。
まるで王のようだ。
あいつがどれだけ怯えていたかなんて、想像もつかないほどだ。
ジェイムス──やったな。
会見の最中に熱いものがこみ上げ、懸命にこらえた瞬間もあった。
最後にジェイムスが退出すると、ニュースルームから拍手と会話が聞こえてきた。イヤホンを外し、耳を傾ける。
「俺、言ったよな? 何かが起きてるって!」──いや、あいつ、そんなこと言ったことなかったぞ。
「ママが心臓発作を起こしちゃうわ、マジで。ママはゲイの男は花屋ばかりだと思ってるし、キッチンの壁に国王の写真を飾ってるし。電話してみようかな」
「国王になれるのか? 国王は英国国教会のトップだろ? ゲイの司教すらいないのに」
「みんな! 無駄口きくのはやめてさっさと書き始めてくれない?」フィオナが叫ぶ。「世界中のウェブサイトが原稿を欲しがってる。だから送ってあげましょう!」
記者は散り散りになった。
ベンはパソコンに戻り、「声明」と題したごく短い文書をまた開いた。ジェイムスの声明ほど雄弁ではなかったが、ベン自身の意志とキンバリー・ツェンからの指示をすり合わせて作ったものだった。
もしメディアの報道が、ジェイムスのパートナー──パートナーか、オフィシャルな響きだな──についての国民投票に発展してしまったら、ジェイムスはことを始める前に負けてしまったことになる。俺の役目は目立たないように存在すること。ぴったりな役目だ。
このコピーをフィオナに送った瞬間、そしてそれを公開した瞬間、すべてが変わるだろう。ニュースルームの大興奮とおしゃべりの渦を見ただけで、頭がくらくらしてくる。君主制に関心がないと断言していたような連中が、君主制についてと語り始めたのだ──ほかのことなどもう眼中にないと言わんばかりの剣幕で。こんなふうになるとは、予想以上だった。
いや、予想以上、なんてものじゃないか。
「なんてこった、信じられるか?」ロベルトがブースから顔を出す。
「ビッグニュースだな」とベンは言った。思いついたなかで、いちばん当たり障りのない表現だ。
「あの発言をどう思った?」
「素晴らしいね。誇りに思うよ」
ベンが何につけそんなふうに文句なしに賞賛することはほとんどなかったから、ロバートは戸惑ったようだが、すぐに言った。「摂政皇太子は自分で言うほど自信はないと見たけどな。金曜の午後に声明を出すなんて、不安に感じている証拠だ」
「いや、そうじゃないだろう」ベンはほかに何を言えばいいのか思いつかなかったが、ロベルトはすでに仕事に戻っていた。
英国王室はロベルトの専門分野じゃなかった。全然。ふだんはおもに科学技術の取材をしている。最新の大きな記事は、正真正銘「見えない」マントの開発に取り組む会社についてだ。そんなロベルトがジェイムスについて記事を書かなければならないと感じたのならば、世界中のどの記者もそう考えているはずだ。
ベンはケニアでの夜のことを思い出していた。あのとき、俺はほんの一瞬だがジェイムスがゲイであることを記事にしようと考えていた──ジェイムスの意志を無視して。自分を守るために。傷ついたプライドのせいで。
今思えば、そんなことを考えるだけでもひどいことだ。だがあのとき、俺は自分の利益を優先し、記事の持つパワーと重要度をまず考えた。この話がとてつもなく大きなネタになるということは理解していた。ただ、ほとんどの人がすぐに飽きて忘れてしまうようなゴシップになると思っていた──ジャンクフードみたいに。
明らかに、俺は間違っていた。
ジェイムスが心の中で囁きかける──こんなことしなくてもいいんだ。きみへの愛が変わることはないよ。
俺自身の声はこう告げている──臆病者になるのはやめろ。
ベンは自分の声明を最後にもう一度見直し、もう一度保存して、フィオナ宛てのメールに添付し──送信した。
完了。あとはただ形式的なものだけ。
夢遊病にでもなったような気分で立ち上がった。ニュースルームを横切り、フィオナのオフィスのドアを叩いても、フロアの人間は誰も気にもとめていない。
「何なの?」ドア越しにフィオナの声がする。これを入室許可と受け取ったが、ベンが中に入るとフィオナがイラついた顔を向けてくる。彼女のパソコンにはウィキペディアのリチャード王子のページが表示されていた。
「ベン、忘れてた。あとにしてくれない? 今はもっと大事なことがあるから」
「いいえ、ありませんよ」
フィオナが睨んでくる。「あなたは私の大切な記者のひとりかもしれないけれど、たとえあなたが辞めるとしても、それは目下の最優先事項じゃないわ」
彼は後ろのドアを閉めて席に着いた。「原稿を送りました」
そう言いながらフィオナのパソコンをちらっと覗く。ベンの原稿が届いているのをフィオナがチェックした。「なあに、南米の金属市場の投機について? それが重要な話なのはわかってるけど、でも──」
「原稿は、摂政皇太子との関係についての公式声明です」
フィオナが固まり──その目がただベンを見つめてくる。
あとあと思い出したらきっと笑えるだろうな。
今はただ感覚が麻痺しているだけだ。ようやくフィオナが口を開く。「あなたなの?」
ベンは頷いた。
「なんてこと──本当なの? つまりその──なんて言うか──マジなの?」フィオナは椅子に座り直した。ショックで気が抜けたような面持ちだ。「いつから?」
「出会いはケニアです。それから九月に例のチャリティーイベントに行って、今に至ります」
「なんてこと」
「驚くのはわかります、フィオナ、でも『なんてこと』から先に話を進めないと」
「わかった、わかったわ。びっくりよ、ほんと。こんな話」
フィオナは息をつき、片手を胸に当てている。とはいえ、頭の中ではすでにいろいろ策をめぐらしているに違いない。自分に配られたこの新しい手札をどのタイミングで使うのがベストか──と。もちろん彼女を責めるつもりはない。俺だってケニアで同じことをしたんじゃなかったか? それももっとひどい理由で。
「声明文だったわね。何て書いてあるの?」
ベンは彼女のパソコンを示した。「そこにあります」
フィオナは椅子を回転させてパソコンに向かい、原稿を立ち上げると顔をしかめた。「これはまたずいぶんそっけないわね」
「俺が話せるのはそれだけです。でもあなたは誰よりも優位な立場で俺についての記事を書くことができます。きっと光の速さで読まれますよ」ベンは笑おうと努めた。「見栄えのいい写真を選んでください」
「自分で記事を書きたくないの? 全然?」フィオナは誘うような顔をしている。「どんな恋愛なのかとか、そういうことも書かないわけ?」
「書きません」自分のプライベートな気持ちを全世界と共有するつもりなどなかった。声明の文面はこうだ。
摂政皇太子と私は、この九月のチャリティーイベントに同席して以来、交際を続けています。公に宣言するという決断は皇太子自身によるものですが、私は彼を全面的に支持し、英国国民も同様だと信じています。どうか私たちふたりの個人的な生活を非公開にすることをお許しください。
フィオナはすでに自分の携帯電話に目を通していた。クリスマスパーティーのときに撮った写真を探しているのだ。「ねえ、ふたりの間では真剣な話になっているんでしょ? そうじゃなかったら、こんなことには巻き込まれてないはずよね」
ベンは魔法の言葉を知っていた。「これはオフレコですが」
フィオナは真面目な顔をする。「わかった、オフレコね」
「はい、真剣な関係です」そこでベンは息を大きく吐く。「今後数週間、クラレンス・ハウスに滞在することになりました──オフレコですが」連発すると効果が弱まりそうだな。
「なんてこと──」
自由奔放なビジネスウーマンというフィオナのいつもの仮面が、すっかり剥がれ落ちていた。彼女の表情は、親友が憧れの男子とプロムに行くと聞いたばかりの女子高校生のようにも見える。これはやばいかもしれない。
「一緒に住んでいるのね! なんてラブラブなの」
「住んでいるんじゃない、ちょっと滞在するだけです」ベンはその点を強調することが重要だと感じた。「それに、もしあなたが俺についてまたラブラブなんて言葉を使うなら──」
「黙って。すぐにでもこの声明を発表しなくちゃ。わかってるわよね?」
「午後三時まで待ってくれますか」ベンは言った。「その少し前に車が来て、クラレンス・ハウスまで送ってくれる手筈なんです。カメラマンが押し寄せてくる前に逃げたい」
「カメラマンね! うちにも何人かいるわよ」ベンの反応を見てフィオナは言った。「何よ、いいじゃない。私たち専用のスナップ写真を使うのよ。今この場で撮るよりいいものになるわよ。特にあなた、いま地獄にいるような顔をしているから。ちゃんと眠ったの?」
「あまり。それに、ちゃんと了解しているつもりです──あなたは自分の仕事をしているだけだって。ただ、記事にされる側に立つのは妙な感じで」
「慣れておいたほうがいいわよ。仕事といえば、あなた本当に辞めないのね? 月曜には出社するの?」
「もちろん」
なぜそんなふうに考える? 確かにオフィスに出入りするときは苦労しそうだが、対処できないほどじゃないだろう。
「これだけは言わせて。大変なことになるだろうけれど、あなたが踏ん張るっていうのなら、私たちもあなたと一緒に踏ん張るわ。軽率な決断をする前に私と話し合ってちょうだい、いいわね?」フィオナがぎこちない笑みを浮かべる。「それにしても金曜日に会社を早退するのに、こんなにスムースな計画はないわね」
ベンはなんとか笑顔を返した。「複雑だが効果的だ」
「『素顔のあなた』について社内で誰かに記事を書かせるわ。本当のあなたはどんな人なのかとか、そういうことをね。記事が出るのは嫌だろうけど、書くとしたら誰が適任か、自分でわかるわね」
それについては疑問の余地はない。「ロベルト」
「ロベルト・サンティエステバンね」それからフィオナはロンドン支局スタッフ全員に宛てたメールを打ち始めた。ベンは退出しようとしたが、その瞬間フィオナがメールを打つ手を止め、こちらを向いた。
「編集者としてだけじゃなく、友人としても聞きたいことがある。ほんとにこれを公にしちゃっていいの? あなたたち、まだこっそりしていたっていいのに」
「見つかってしまいますよ」
「たぶんね。でも、これはとんでもない飛躍よ。あなたが誰かのために自分の人生を変えるような人だとは思わなかった。だから聞くべきだと思った──本当にいいの? 何ならこの会話はオフレコにしてもいいし、あなたの声明を削除して何もなかったことにもできる。さもないとあなたは、史上最悪の事態の中心に飛び込むことになるわ。いったんそうなれば、もう後戻りはできない」
ジェイムスもそう言っていた──もう後戻りはできないと。そしてベンは、フィオナがそう尋ねてきたことに、思わず心を動かされていた。今ここで世界最大級の独占スクープを手にしているのに、ベンを守るため、それを手放そうとしているのだ。これまで、社内の人間を友人だと思ったことはなかった──カジュアルな意味は別にして。だが、フィオナ・ド・ウィンターのことを過小評価していたのかもしれない。
フィオナの提案自体は、魅力的だと認めざるを得なかった。高飛び込み台から引き返して、はしごを降り、地上に──自分の知っている生活に留まる最後のチャンスだ、メディアの熱狂を目の当たりにした今、ベンはこれまで以上に無気力になっていた。
だが、ジェイムスに対してそんな仕打ちはできない。
ジェイムスが会見で言及した恋人が声明を出さなかったら、世界は彼を笑いものにするだろう。そんなことになれば、ジェイムスはどれだけ傷つくだろう──少しでも引くことを考えた自分が恥ずかしく、カッと胸が熱くなる。いや、そんなことはできない。
「わかっています」自分がそう言うのを、別の人間の言葉みたいな気持ちでベンは聞いた。「やってください」
+++++++++++++++++++++++++++++
ジェイムスは宮殿の複合施設を通り、クラレンス・ハウスに戻るところだった。
積もりに積もった緊張感で足がふらつく。胃の中はからっぽで、今日はまだコーヒーとトーストしか口にしていないことを思い出した。それも朝の七時に食べたきりだ。
キンバリーがジェイムスの後に追いついてきた。「午後の残りの時間で、来週のイベントについて再確認の電話をいたします。こちらの策としましては、先方が殿下とともに行事を行うことを避けたい場合を考え、彼らに手を引くチャンスを与えます。とはいえ、みなさん、躍起になって何も変わらないことを証明するでしょうが」
「きみがそう仕向けているからね」認めたくなかったが、それは次につなげる確実なステップだった。「もちろん、これからさき数週間、私が訪問する慈善団体には通常の三倍は取材陣が押し寄せるだろうけれど」
「その素晴らしい点を指摘しておきます、殿下。取材陣のための準備が必要だとか、そういった感じで」
ジェイムスはツェンを見た。「本当にどの団体も断ってこないと思うかい?」
「まずないと思います。今回のことでもしイベントがキャンセルになっても、クラレンス・ハウスはもちろん何も声明を出しませんが、そうしたいきさつというのは、知らず情報が漏れていくものです。そうなると当該の団体は『後進的』だとみなされ、協力者はみな離れていき──といった具合になるでしょう」
「それはちょっと悪質だと思わないか? 彼らにはキャンセルする権利がある」
「そして、あなたさまには王位のために戦う権利があります、殿下」キンバリーの口調は熱かった。
最初ジェイムスは、彼女がこの件を少し個人的に受け止めすぎているのではないかと考えた。だがキンバリーはここ数日、ジェイムス同様ほとんど寝ておらず、ジェイムスよりも忙しく働いていたのだ。できればこの週末、休暇をあげたいところだが、当面は報道の成り行きについて、細心の注意を払って監視しなければならなかった。
「それで、どの番組を見ようか?」
「率直な意見を申し上げますと、殿下、テレビはまったく見ないほうがよろしいかと存じます。私のほうで、チームを動かして主要なメディア報道を抜粋してまとめます。そちらをご覧になったらいかがでしょう。毎朝、主要な記事とビデオクリップをお届けいたします」
「そんなにひどい報道になると思っているのかい? 見てはいけないくらいのレベルで?」
「そういうことではありません。ここ数日よく眠れていらっしゃらないので、お倒れになる寸前なのではないかと」クラレンス・ハウスに入ると、ツェンの声は穏やかになった。「今は体力が必要です。今晩は休息をお取りください。それだけのお働きをもういたしましたよ」
「きみだってそうだよ、もちろん、きみにはあとで好きなだけ休暇を取ってもらうつもりだが」
彼女の笑顔は切ないものだった。「それは素敵ですね、殿下」
「わかった。休むことにする」
そして待つことにする。希望を持つことにする。
ジェイムスはプライベートな居室へと続くドアに手を伸ばした。
「いつもありがとう、キンバリー。きみの仕事ぶりはいつだって最高だが、ここ数日というもの、並外れていた」
彼女は頭を軽く下げた。「ありがとうございます。今日のご声明を誇りに思ってくださいませ。すばらしい出来ばえでした、殿下」
ジェイムスは微笑んで二階に上がった。そして彼女の提案に従わないことにはなるが、たったひとつ、最も重要な例外をけることにした。
ポールソンには帰宅するよう言ってあったから、ジェイムスは自分でスーツを脱ぎ捨て、黒のスウェットパンツと一月の寒さをしのぐ厚手のセーターに着替えた。今日は寒さが厳しかった。グローヴァーに暖炉の火を入れてもらうべきかもしれない。スランケットを着ようか──でも、それは寒さからというより魔法じみた考えから思いついたことだ。ベンがくれたクリスマスプレゼントを着れば、本人がひょっこり現れるんじゃないか──。
明らかに睡眠不足だな──ジェイムスは思った。スランケットに魔法の力を授けようだなんて。
午後二時四〇分。ジェイムスは、ベンとともに手配したこと──車の送迎のタイミングを思い返していた。落ち着こうと自分でお茶を淹れ、冷蔵庫の中をのぞき、無理にでも少し食べてパワーを蓄えた。だがその間ずっと、近くの時計をちらちらと見ずにはいられなかった。
二時四七分。
二時五二分。
二時五六分になるとジェイムスはもう我慢できなかった。iPadを立ち上げる。数ヵ月前にホーム画面をグローバル・メディア社のサイトに設定し直していたので、ほかのページを見る必要もなかったし、このページだけでも充分な情報が得られた。
わたしはゲイ──王子の声明、英国を揺るがす
見出しの下の写真は記者会見でのものだ。自分で覚えているほど緊張しているようには見えなかったし、汗だくにも見えなかった。小さな情けというものだろう。
あえて見出しはクリックせず、記事も読まなかった。ただ何度も何度もグローバル・メディアのトップページを更新し続ける。まだ何も期待できない──そう自分に言い聞かせつつも、見出しが変わるのを切望しながら。
望むなら手を引いてもいいと言ったことを思い出せ。
ベンにとってはそうするのが最善なんだ。ベンを責めてはいけない。期待を持ってはいけない。ベンには正しいことをさせてあげなくては──。
見出しが変わった。
王子のパートナ―、名乗り出る
記者会見でのジェイムスの写真の横に、ベンの写真が並んだ。ジェイムスがふたりの顔を並べて見るのは初めてだった。
最近の写真だ──まだショックのさめない頭で考える。いつもの黒いタートルネック。
それから、笑い始めた──最初は馬鹿みたいに。そして、安堵と純粋な喜びから。iPadを胸に抱き、しばらくの間、恐れるものは何もないと信じることができた。
+++++++++++++++++++++++++++++
ベンは仲間の記者からどんなリアクションを受ける覚悟もあった。秘密にしていたことへの非難、汚いジョーク、質問攻め。午前中のほとんどの時間、どう対応するか頭の中でリハーサルしていたくらいだ。
だが、沈黙に対する準備はしていなかった。
いや、本当の意味での沈黙ではない。フィオナがロンドン支局の全員にメールを送った直後、ニュースルームには爆撃でも受けたかのようなショックが走った。ベンがフロアに戻ってきたのはそのすぐあとで、ベンのニュースが全世界を駆け巡る直前でもあった。室内はいつもどおりの賑やかな雰囲気で、ベンを見ると誰もが声をかけてきたが、最初の「うわあ」「すごい」「手の内を隠してたなんて」といった興奮の波が過ぎ去ると、微妙に雰囲気が変化していくのがわかった。
理由ははっきりしている。
これまで俺は、ただの同僚だった。それが今ではニュースの顔だからだ。
だがこれもいっときのことさ──ベンは自分に言い聞かせた。月曜に出勤するころには、ニュースルームの状況は普通に戻るだろう──いや、少なくとも半分くらいは普通に。ここにいる連中は、こうしたことにも柔軟に対処できるはずだ。
ベンはデスクについていた。隣のロベルトは、椅子に座ったままじっとこちらを見ている。信じられないという面持ちが──なんだかおかしいほどだ。
「犬の飼い主氏、ね」ロベルトが言う。
「ああ」
「ジーンズについてた毛は──コーギーだったんだ。そうか、あれ、やっぱコーギーだったんだ」
「ああ」
ロベルトは頭を振った。もう考えるのはやめだ、といわんばかりに。
「オーケー。早く終わらせよう」
「いわゆるインタビューは受けたくない。録音するなら誰にも話さない。相手がお前であってもだ」
「わかったよ。二、三、確認したいだけだ」
ロベルトは昔ながらのやり方でメモ帳とペンをつかむ。「あんたはイスラエルで生まれたユダヤ人だと言っていたが、シナゴーグに行くことについては一度も話したことがなかったな。しかもクリスマスにあんたがハムを食べるのを見た」
ベンは微笑んだ。「世俗的なユダヤ人ってやつだ」
「で、イスラエル市民なのか?」
「実は、ドイツ国籍だ。両親が死んだあと、一三歳のとき、親戚に養子に出された」
ベンはいつもドイツのパスポートを手放そうと考えていた。最初は博士号取得のためにアメリカの市民権を取ろうと考えていたが、大学院へ進学する計画が頓挫したため、その考えも捨てた。それ以来、永住権の申請を考えるほど長くどこかの国に住んだことはなかった。英国で市民権を申請するべきなのか? そうするとジェイムスの助けになるか?
だが今はそれを考える暇はなかった。ロベルトが本格的に取材モードになる。「経済学の学位は取ったのか? 取らなかったのか?」
「学士号を取得した。大学院に進むつもりだったが結局は行かなかった」
「イズリントンの中間所得者クラスが集まる地域に住んでいる、といったら当たってるか?」
「もちろん」
まあロンドンのどこのフラットも「中間所得者」のための価格設定になっているわけだが。ベンが言えるのは、自分の手取り給料の半分以上をあのフラットに支払ってきたということだけだ。
「クラシック音楽が好きで──」
「そんなことまで書く必要があるのか?」
ロベルトは肩をすくめた。「読者は個人的なことを細かく知りたがるからね。あんたがいつもヘッドフォンでベートーベンを聴いていることを書くか──さもなくばあんたのジーンズについてたコーギーの毛のことをみんなにばらすかだ」
「クラシック音楽が好きだ」
「そしてコーギーには触れない、と」
ベンはニュースルームを見まわした。数十人もの同僚たちがなるべくこっそりこちらの様子を窺おうとしているが、誰もうまくいっていなかった。
「ロベルト──ありがとな」
「この間の夜の激励の件か?」ロベルトのにやりとした顔はどこかきまり悪そうだった。「俺、あそこで何言っちゃってたんだろうな? ちっともわからん」
「いや、今日のことを言ってるんだが。今この瞬間のことだ」
これまで同様に、俺と接してくれている──。
ロベルトは理解したようだ。「みんな大丈夫だ。今にわかる」
「そうだといいんだが」ベンがそう言うと、電話が鳴った。車が下で待っているという。荷物をカバンに入れて肩に掛け、ベンはオフィスをあとにした。
車の後部座席におさまった。無表情な運転手は何も言ってこない。ベンは後ろをちらりと見ずにはいられなかった。グローバル・メディア・ビルを出て、ロンドンの交通渋滞の中を数分走っただけなのに、もっと長い旅をしているような気がした。
車が宮殿の門を通り抜ける。ベンはまだ正面から入ることに慣れていなかった。車から降りるまでの間、何人もの職員や従業員にずっと見られていることにも慣れていなかった。執事についてはこれまでなんとなく近寄りがたく思っていたが、ベンをジェイムスの居室のドアまで案内すると、今では親しみ深く迎えてくれるように見えた。
階段を昇り始めるや、ジェイムスの声が聞こえてきた。「やっと来た!」
逸る気持ちで二段ずつ駆け昇っていくと、そこにジェイムスがいて、すぐさまベンを抱きしめた。ベンもまたジェイムスを強く抱きしめる。その温かな抱擁に包まれていると、心に潜む恐れもだんだん小さくなる気がした。
「きみははまだとても冷たいね」ジェイムスが囁く──ベンの耳と髪に手を回して。「外はかなり寒いんだな」
ベンには天気の話など不要だった。「今日のお前は素晴らしかった。誰よりも誇りに思う」
ジェイムスが頬にキスしてくる。「一緒にカミングアウトしてくれてありがとう」そして体を離す──明るく熱を帯びた様子で。ジェイムスの顔は喜びで輝いていた。「さあ。見せたいものがあるんだ」
ジェイムスに手を取られ、ベンはジェイムスの寝室へと案内された。ベッドに押し倒されるのではと考えたが、そのまま隣にある小さなリビングルームに入る。ジェイムスがドアを開けた。クローゼットにつながっていると思っていたのだが、そうではなく、そこは別の寝室だった。ジェイムスの寝室よりも立派な家具が置かれているものの、誰かが定期的に使っているような気配はない。
「ここをカサンドラの部屋にしたかったんだ」ジェイムスが言う。「でもキャスは庭園が見える部屋を望んでいた。だから何年もの間、誰かがこの部屋を使っていると装ってすらいなかった。これからはきみの部屋だ」
ベンは顔をしかめた。「俺の?」
ジェイムスは微笑んだ。「もちろん、夜は私のベッドで寝てほしいし、ここで一緒に過ごせたらとも思う。でも、たとえ少しの間だけとはいえフラット住まいをあきらめるのは大変なことだ。自分だけの空間を持って落ち着くべきだ──きみだけの空間を」
ジェイムスがそう考えてくれたのは、もちろんとても思いやりのあることだ。だが、ベンはもやもやとした気持ちになる。自分の部屋を持つということは、「泊まる」というよりも「引っ越す」という感じがしやしないか──?
なんと言っていいのかわからず、その場に立っていると、ジェイムスは箪笥に行き、引き出しを開けた。そこにはベンの衣類が入っていた。
「きみが従者やフットマンに荷解きをしてもらいたくないのはわかっていたから、私がやったんだ」ジェイムスが言う。たいていの人間は自分で荷解きをするものだが、ジェイムスには思いもよらなかったようだ。「必要ならクローゼットに吊るせばいいし、新しいスーツもそこにある」
ベンは異議を唱えるのをなんとか思いとどまった。あのスーツはたぶん五〇〇ポンドはする。いやそれ以上かもしれない。どれほど高価なものか見当もつかない。代金を自分で払うべきなのか? その値段なら数ヵ月かかりそうだが──いや、返品するのがいいか。だが着用したあとで返品は受けつけてもらえるのか?
「これをどうしようか迷ってたんだけれど──とりあえずこうしてみたんだ」
そう言いながらジェイムスが四柱式ベッドのカーテンを引いた。ベッドフレームがあらわになり、てっぺんからタイシルクが──ベンの二枚の架け布が、ヘッドボードの上に左右対称に下がっているのが見える。「いつでも好きなときに取り外せる。でもここに提げておくときれいだと思って」
「そうだな」とベンは言った、それが事実だったからだ。だが、押し殺していた疑念が再び湧き上がってくる。自分の決断が招いた現実をこうやって目の当たりにしたせいで、疑念はこれまで以上に強くなっている。
ジェイムスは微笑んだ。「とりあえず──おかえりなさい」
ベンは胸にたまった息を吐き出した──あまりにも激しく吐いたので、すすり泣きみたいに聞こえる。それからジェイムスを抱きしめた。しばらくの間、ジェイムスを抱きしめることしかできなかった。ジェイムスに体を埋め、匂いを嗅ぎながら、ふと昔のことが頭をよぎる──帰る家があればいいのに──そんなふうに考えていたことがあったことを。そして今、「帰る家」ができたのだ。
これが俺の決断した理由なのだ。ジェイムスこそが理由なのだ。
騒動の中で、俺はそのことを忘れかけていた。ギリギリのところで思い出した。
自分を取り戻し、ベンは囁いた。「俺の聞きたかった言葉だ」
「そうだった?」ジェイムスがそっと唇を重ねてくる。「この部屋を気に入ってくれてうれしいよ」
だがベンが気に入ったのはこの部屋ではなかった。
ベンの帰る家──それはジェイムスそのものなのだ。
--続きは本編で--