マイ・ディア・マスター
ボニー・ディー&サマー・デヴォン
第一章
一八一三年 四月六日
捕まれば、縛り首になる。
それはジェムにもわかっていた。だが、その行為で半クラウンの稼ぎになるし、今夜は腹いっぱい食べて眠れることもわかっていた。だから今、慎重に判断を下さないといけなかった。仕立てのよさそうなベストを着込んだこの紳士は、本物の客なのか? それとも俺を罠にはめて捕まえようと
目論んでいる、厄介な奴なんだろうか? 通りで待たせてある上等な馬車をもう一度見やり、ジェムはこの黒髪の男が「客」のほうだと確信した。男娼一人はめるのに、治安判事はこんな手の込んだ策をとらないはずだ。酒場や路上で近づいてきて、こそこそと誘い文句を囁くかもしれないが、罠を完璧に見せるために金持ち用の馬車までは雇わないはず。違うか?
ジェムは男の瞳を覗き込み、考えを読み取ろうとしたが、なにしろ暗い晩だった。路地のごみから立ち上る悪臭と混じり合った濃い霧が、ロンドンの街じゅうを這い回り、覆い尽くしている。霧が絶えず
纏わりついてくるせいで、自分の手すらよく見えないのだ。ましてや、見知らぬ男の顔などわかりはしない。
「乗らないか?」
男はふたたび尋ねた。スラムの
俗語で今の言葉を言い換えると、男は単に手軽な息抜きを要求しているのではない、ということになる。つまり、二、三ブロック先まで出かけて戻るという急ぎのコースではなさそうだ。男は、フルコースを望んでいるのだ。
ジェムは誘いにのることに決め、ひょいと肩をすくめた。
「今夜は冷えるしな。よし、乗りましょう」
貴族風のその男は頷くと、ジェムに、先に馬車に乗るよう促した。ジェムは踏み段を上り、座席に滑り込んだ。革と煙草、それから金持ち特有の贅沢な匂いがする。ジェムは凍えるような夜風をしのげる場所を探していたのだが、その願いは、今かなったようだ。今夜は少しばかり暖かい思いができるだろう。
馬車の小さな窓から、ジェムは見慣れた通りを眺めた──霧の深い晩だったから、厳密には、見えるはずのものを、ということになる。高く
設えた馬車の座席から眺めると、通りの外観はふだんと違って見えた。思っていたよりずっと
荒み、朽ち果てている。ジェムの鼓動が速まった。これからもっとましなどこかで過ごせると思うと、わくわくするのと同時に不安にもなる。もちろんたった数時間のことだし、この男が俺の尻でやりたいというだけのことだ。けれども、ほんのつかの間でも、このひどい
界隈を離れて、暖かな場所に行ける。それも、豪華なホテルの一室かもしれないのだ。
ジェムは、この今夜かぎりの雇い主が馬車に乗り込み、向かいに座るのを観察した。車内は、尻軽女のあそこの中みたいに暗かったが、多少なりとも男の風貌をつかむことができた。中肉中背で、歳をとりすぎてはいないものの、若者でもない。黒髪は短めで、広い額からまっすぐ後ろに
梳いてあった。社交界のしゃれ者たちの間で流行っているような、額の上で髪を高く盛ったオールバックではなかったし、喉元を飾るクラヴァットも、顎が上がるほど凝ったスタイルではなかった。もし、この男の地位や職業を推理しろと言われたら、簡素な服装から、ジェムは聖職者だと答えただろう。
「名前は?」
暗がりのせいか、緊密な雰囲気が増した空間で、誘うような低い声がジェムのもとまで漂い、肌を撫でた。ズボンの中でジェムのものが固くなる。今夜の仕事はちっとも嫌ではなかった。夕食とひきかえに、喜んで尻を差し出してやりたいくらいだ。
「何とでも、お好きなように」
それが、こういう場合のジェムのお決まりの答えだった。
男はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「ぜひとも、名前が知りたいね」
「ジェム」
ジェムは男の名前を聞いたりしなかった。ここは自分の仕切る場面じゃない。代わりに、傍らの座席を軽く叩いた。
「それよりこっちに来たら? お望みのまま、どこへでも気持ちよく乗せてあげますけど」
男は、暗がりの中、どうにかわかる程度に首を横に振った。
「いや。それよりも……きみのことを少しばかり知る時間がほしい」
「ごもっともなことで」ジェムは
顎を軽く叩いた。「ま、ごらんのとおりの労働者です。サザークに住んでまして、きっと死ぬのもそこでしょう。そうそう、これまでいろんな冒険的事業に手を出してきましてね、今の仕事がいちばん実入りがいいってことがわかりましたよ」
ジェムはにやりとし、自分の声の響きを
愉しんだ。彼は名士たちの話し方や独特な言い回しをまねるのが好きだった──彼らを愚弄し、軽蔑して見せる彼なりのやり方なのだ。
「何歳だ?」というのが、それに対する答えだった。
たいていのお客が、せめてうわべだけでも未経験者を引き当てたと思いたがるので、ジェムは実際の歳から六つほど差し引いて答えた。
「十三」
彼の雇い主は穏やかにくっくっと笑った。生まれたての
瑞々しい子ダラが釣れた、などと騙されていないのは明らかだ。
「本当か?」
「……わかりましたよ。ほんとは十五です」
また嘘をついた。十九という年齢は、これから客になろうという相手にとって、決して魅力的とは言えないのだ。
「でも、歳のいっている分、あなたが充分に満足できるような経験を積んでますから」
またもや、息を殺したような笑い。本当に面白がっているわけではない。ジェムは男がどこかおかしいのではないかと
訝った。すぐにでもことを進めようとする代わりに、話したり笑ったりしなくちゃならないなんて。それもお
愉しみが待っているというのに、だ。
「いったい何がおかしいんです?」
ジェムは、亡霊じみたその笑いのせいで、ぞくりとした不安に駆られるのが気に入らなかった。
「いや、別に何も」
その声は穏やかだったが歯切れがよく、支配者特有の響きがした。紳士は座席の隅で身じろぎし、ほとんど聞こえない声で付け加えた。
「経験豊富だとは、実に心強いね」
ジェムは笑いたかったし、何か際どいことでも言って応酬したかったが、聞こえていないと思われているようなので差し控えた。
そのとき馬車がぐらりと揺れ、ジェムは把手をつかもうとした。ところがそのまま紳士のほうへと投げ出されてしまい、
逞しく温かな体に倒れ込んだ。紳士はジェムをたやすくつかむや、まっすぐ引っ張り上げ、おそろしい勢いで元の席へと押しやった。上流階級の人間ではあったが(その点は間違いない)、紳士の体はよく鍛えられており、酒を飲んでいるにしては動きがすばやかった。彼に触れ、息を吸い込んだ刹那、ブランデーの香りがした。
「あなたの胸に飛び込むつもりはなかったんだけどな。お呼ばれするまではね」
ジェムはそう言うと男が笑うのを期待したが、反応はなかった。
今のうちに、支払いについて確かめておこうか、それとも紳士に腹が減っていないか聞いてみようか。というのもジェム自身、死ぬほど空腹だったため、どこかに立ち寄って何か食べられたら、と思っていたからだ。だが、こちらから言い出さないだけの分別はあった。今夜の予定を決めるのは、あくまで相手のほうなのだ。ジェムはため息をこらえた。
「ロンドンから出たことは?」
一度もなかったが、なぜそんなことを聞く? これはどういう遊びなんだ?
「もちろん、田舎に屋敷を持ってますよ」ジェムは答えた。「狩をして、射撃をして、その他いろいろ、一日じゅう。牛に」さらに付け加える。「羊に」
「ジェム」その声は、今までより優しく響いた。「ジェレミーの愛称か?」
わかったよ、おふざけはナシってことだな。ジェムは持ち前の鋭い自衛本能から、できるだけ本当のことを話そうと決めた。
「いや。ただのジェム」
二人のような間柄では、お互い家名は明かさないものだ。
すでに真夜中に近く、馬車は霧に包まれた通りをがたがた音を立てて走り、おまけに車内は真っ暗──何が起きてもおかしくなかった。馬車の速度が落ちた。馬の蹄が路面を弾く音、車輪のがたつく音を聞くうち、ジェムは呼吸が速くなるのがわかった。腹の底からかすかに恐怖が湧き上がってくる。ジェムは決して臆病ではなかったが、隅に座っている、この見知らぬ、極めてもの静かな紳士の何かが神経に触った。それも、まったく思いも寄らない部分の神経に。たとえば股間のものは、さっきよりも固く反応している。
こういう特殊な状況では、礼儀として何も聞くべきではないのだが、あえて尋ねた。
「で、どこに向かってるんです?」
陽気で平然としたふうに装えたことでジェムは気をよくした。
「私の屋敷だ。間もなく到着する」
つまり、独身ということか。でなければ、猫のいぬ間に
ねずみが遊ぶわけだ。あいにくこっちはガールじゃないが。馬車が停まり、扉が開き、ジェムは初めて御者の姿を見とめた。そのとたん、笑みが凍りつく。
「うわぁ」思わず小さな叫びが洩れる。
悪魔が馬車を走らせていたのだ。巨大でいかつく、顔に大きな傷のある悪魔だ。傷は二つ。片方の耳がちぎれてなくなっている。ジェムはこれまでにも、ずたずたで傷だらけの人間を大勢見てきたが(見たことない奴なんているか?)、目の前の男を見たら、たとえ顔の一部を失っていなくても、子どもなど金切り声で逃げ出すだろう。男はこちらにぬうっと迫ってくる。
「バッジマン」紳士はジェムを無視して御者に声をかけた。「私の……客人を連れて厨房に回ってくれ。風呂に入れてやるといいだろう。ジョナサンの服が合うはずだ」
悪魔は低く
唸ると数歩下がった。紳士は馬車を降り、見るもおぞましい御者に向かって頷いた。ランタンの灯りで、二人の顔がよく見えた。同じような、険しい表情をしている。虚ろで、暗い。二人の素振りからは、温かさや心地よさのたぐいが何ひとつ感じ取れなかった。
ジェムはごくりと唾をのみ、今のうちに馬車から飛び降り、逃げ出そうかと考えた。しかし好奇心があったし、腹ぺこでもあり、小さな携帯ナイフを忍ばせていることも思い出したので、そのままじっとしていることにした。それから、欲望も。おいおい、それを忘れるなよ、とジェムは自分を笑った。がたつくこの大きな乗り物に揺られ始めてからずっと、軽く
勃った状態なのだ。
ジェムが馬車から降りようとすると、御者が制した。
「待て」
ドアがぴしゃりと閉まる。暗がりの中、ジェムはナイフを握り、いつでも飛びかかれるよう浅く腰かけた。しかし長く待つ必要はなかった。馬車ががくんと動き出す。馬は三十秒と行かずに停まった。
ふたたび扉が開くと、例の怪物が霧の中に立っていた。黒いオーバーコートの長い裾もブーツも霧に隠れ、渦巻く煙とともに地獄から湧き上がってきたかに見える。
ジェムはナイフをしまい込み、勿体ぶって踏み段に足をかけた。あたかも歓声を上げる群集の前で馬車から降りる君主のように。ジェムには、恐怖に立ち向かうのにはあまり適切とはいえない、悪い癖があった。恐怖を起こさせる人間が誰であれ、そいつをいらつかせたくなるのだ。この瞬間も、反射的にその癖が飛び出していた。
「やあ、
バッジャーくん」ジェムはわざと間延びした調子で
喋りながら、会釈をした。
「バッジマンだ」男が
轟くような声で言った。「ついて来い」
バッジマンはきびすを返すと、戸口に向かった。
ジェムは、目の前の屋敷を上から下まで眺めた。大きくどっしりと
聳え立っており、なんとも
厳しい雰囲気だ。そこは、召使用の通用口のそばだった。
「で、バッジャー」ジェムはどうにか陽気さらしきものを装って言った。「これまであんたたちは、何人の男をこの根城に誘い込んだんだ? お決まりの活動なのかい? 週に一度、二人で出かけて、純真な若い男をひっかけては風呂に入れる、と」
御者は振り向き、ジェムを睨んだ。「これが初めてだ」
ジェムはその言葉を信じた。ならば、この哀れなバッジャーが主人を案じているのも、至極あたり前だ。
「ははあ、だからそんなに気をもんでるんだな。でも怪物はあんたのほうで、俺じゃない。あんたのご主人様に危害を与えたりしないよ」
「お前のせいで気をもんでる、だと?」男の顔に、初めて、ゆがんだような笑みが浮かんだ。といっても顔半分だけだ。もう半分のほうは、頬から顎にかけて走る傷のせいで口が裂けている。その傷を受けたとき、笑みも永久に奪われたに違いなかった。
「いつもそんなふうに、親友を亡くしたみたいな顔をしてるのか。あんたとご主人様は」
片方の眉が上がった。バッジマンはしばらく動かなかったが、ようやく言った。
「バダホスだ。今日は記念日なんだよ」
「ああ」ジェムはバダホスが何者なのか、あるいは何なのか、見当もつかなかった。なんとなく聞き覚えはあるような気はしたが。
「ま、記念日ってのは厄介なもんだよな。その日がまた回ってくるなんて耐えがたいよ。みんな嫌な思い出ばかりだしな。いや、いい思い出だからこそ、か?」
「黙ってろ」バッジマンはそっけなく言った。「ここで待つんだ」
バッジマンが屋敷の中に入るのを見届けながら、ジェムは屋敷の壁に寄りかかった。寒さで震える両手を、ぼろぼろのベストのポケットにぐいと突っ込む。
近所に聞こえないよう、静かに、ジェムは下卑た歌を口笛で吹き始めた。上流階級の人間はふつう、ジェムのような人間を自宅に連れてはこない。いうなら、自分の住んでいる場所を糞で汚したくないのだ。だいたい路上で拾った男を屋敷に入れるなんて、無用心すぎる。使用人たちが主人の行いについて噂し合うかもしれないし、不潔なその小悪党がいちばん上等な銀器をくすねるかもしれない。ここのお偉い貴族様は世間知らずの阿呆か、さもなくばジェムが自分を騙すほどの玉ではないと勝手に考えているのだ。
凍えるほど冷たい風が上着の中まで吹きつけ、ジェムは震え、背中を丸めた。あと一分。それだけ待ったら、もう帰ろう。クローダー・ストリートまで歩いて戻らなくちゃならないとしても、まあ仕方ない。
扉が開き、戸口を覆うほどの巨体が手招きした。「入れ。風呂の用意ができた」
ジェムは自分の体の匂いを嗅いでみせる。「なんだと、おい。ご当主のお
傍に寄るには、ちっとばかり臭いって言いたいのか?」
「こっちだ」
バッジャーは廊下を抜け、厨房へとジェムを連れていった。暖炉では火が静かに燃えており、暖炉の前にはほかほかと湯気の立った浴槽が準備してある。ジェムはこれまで入浴といえば、たらいの水で簡単に体をこすったことしかなかった。あとは夏の暑い日に、ときたまテムズ川で泳ぐくらいだ。
ジェムは浴槽の湯を見、それから御者だか従者だか(どっちでもいいが)を見た。
「この中に入れ……ってのか?」
バッジャーは上着を脱ぎ、シャツと吊りズボン姿になっている。彼は腕組みして言った。
「脱げ」
「あんたが見ている前で? ご主人様が見物している間、あんたが俺の体をごしごし洗うつもりか? なら、特別料金を請求しないとな」
まるで、岩に向かって話をしているようだった。男は何の表情も見せない。
「服を脱いだら、自分で洗え。石鹸とぼろきれは風呂のそばの台にある。体を拭くタオルもな」
ジェムはしばらく考えた。外では激しい風が吹いており、窓ガラスをがたがたと揺らしている。まだ今は、寒い街へと戻りたくなかった。
よし、これからどういう展開になるのか見届けてやるとするか。後で喉を切られて、路地裏で冷たくなってた、なんてことにならないといいんだけど。
ジェムは身をよじって上着を脱ぐとそのまま床に落とし、シャツのボタンを外し始めた。
親愛なるわれらがバッジャーは、こっちを見ないよう目を逸らしている。おおかた俺が銀器をくすねないよう、見張るためにここにいるんだろう。ま、賢明な判断だ。
ジェムは靴を脱ぎ、ズボンを脱いだ。そしてすっかり裸になると、石造りの床を浴槽までぺたぺた歩いていき、湯の中に片手を入れた。湯は、うっとりするほど温かかった。肩越しにバッジャーのほうを振り返ったが、やはりまったくこちらを見ておらず、ジェムのプライバシーを尊重してくれていた。
できるかぎりそっと、浴槽の端をまたいで片足を湯の中に沈めた。そのまましばらく動きが止まる。もう片方の足を床から離すのが怖いような気がしたのだ。しかし、いつまでもそうやって宙ぶらりんになっているわけにもいかないので、思い切って入ることにした。
浴槽に体を沈めると、湯の高さはほとんど首が隠れるまで上がった。湯の熱さと、浮いているような奇妙な感覚に慣れてしまうと、まるで天国にいるような気分だった。ジェムはフランネルの布きれに手を伸ばし、濡らして石鹸をこすりつけた。その布で顔をごしごし洗い、石鹸の泡が目にしみたので、急いで湯で流した。それから体じゅうをのんびりと洗った。石鹸で洗ってはしぶきを跳ね上げる間、また口笛を吹き始める。
「髪も洗え。だんな様は、お前の持ち込んだ
蚤が家じゅう跳ね回るのは望まれないからな」
ジェムは今回だけは口を閉じ、言われたとおりにした。頭を完全に水の中に沈め、石鹸でごしごし髪を洗う。客が俺を綺麗にしたいっていうんなら、文句をいう筋合いはない。それに正直なところ、風呂はそんなに悪くはなかった。熱い湯は体の筋肉をゼリーのようにとろかし、骨の芯まで暖めた。
「さあさあ、急げ」湯が冷たくなったころ、バッジャーが催促した。
ジェムはしぶしぶ立ち上がると、胴回りをタオルで拭いた。床にぽたぽた
滴を垂らしながら床に下り立ち、足を拭く。それから腰にタオルを巻き、バッジマンを見た。
「お次は?」
「服はそこにある。着ろ」
ジェムは、椅子の上に積まれた服の中からズボンを取った。なめらかなブロード地で、これまでに身につけたどんな布地よりも上等だった。シャツはやわらかなリネンで、白く、煙突の
煤が混じる前の雪みたいに綺麗だ。
そうか、つまり俺は何かの役を演じるってわけだな。今夜のお客、わが〝ロマンチスト〟卿がかつて愛し、今はもういない誰かの役だろう。記念日がどうだと言っていたのも、これで説明がつく。なら、紳士に、金をかけただけの価値はあったと思わせてやろう。できるかぎり貴族的な雰囲気を装い、上流階級ふうに話し、風呂のおかげで貧民街の汚い垢がさっぱり落ちたかのように振る舞ってやろう。
ジェムは一枚一枚服を着込み、いくぶん彼には小さめな、ハイカットのバックルシューズに足を滑り込ませると、バッジマンのほうを向き、鼻にかかった声で悠長に言った。
「よろしい。閣下にお目見えする用意はできた。さあ、連れていくがいい」
* *
アランは書斎で暖炉前のウィングチェアに腰かけ、クッションに深く沈み込んでいた。この部屋は、今のアランにとっては巣穴のようなもので、最近はほとんどここから出ることはなかった。鬱々と、こうしてずっと
巣籠もりしているせいで、長年の乗馬で鍛えた筋肉も引き締まった体も徐々に衰えかけていた。戦場ではこの肉体が非常に役立ったものだが。このままでは、ガーゴイルのごとく椅子に埋もれた無様な中年男になるのは目に見えている。酒をあおり、ただじわじわと死ぬのを待つだけだ。
生きる意思もない未来のことをくよくよ考えるのは、もう終わりにしたかった。サザークへ出向くという今夜の冒険は、計画の一部でもあった。最後にもう一度だけ、自分に愉しみを与えてやることにしたのだ。酒場の外に立っていたあの若者は、アランの目を引いた。いや、その愉しげな笑い声がアランの耳を捕らえた、というのが正解だろう。まったくもって、サザークのように糞みたいな貧民街に住んでいる人間が、なぜ忌々しいほど、こんなに愉しげに振る舞えるのだ?
好奇心をそそられ、アランはそっと近づいた。彼の耳以外の感覚がはっと引きつけられたのはこのときだ。その若者は顔立ちがよく、汚れたくしゃくしゃの茶色い髪に隠れていたものの、なめらかできれいな肌をしていた。骨格もしっかりしており、顎の輪郭はくっきりと無駄がなく、鼻筋は通り、頬骨も高かった。だが、アランの心を捕らえたのは、その大きな青い瞳だった。薄汚れた酒場の窓から洩れてくるぼんやりした灯りの中でさえ、その瞳が薄青く澄んでいるのが見てとれた。彼の瞳は子どものように無邪気で、そのくせどこか抜け目なかった。アランは若者の手をとって貧民街から引っぱり出し、どこかへ連れ去ってその愉しげな笑い声にすっぽり浸ってみたくなった。
その若者──ジェムは、話をしていた仲間のほうから顔をこちらに向け、アランを見とめた。
「こんばんは。今夜は冷えますねえ」
そして、こう続けたのだった。「どうです? お愉しみでも」
気づくとアランはジェムを誘っていた。そう、それが、ベッドをともにしたいと望んだ相手だった。だが一度きりだ。あのおぞましいバダホスの、攻囲の終結を記念した今夜だけの相手。彼は、夜明け前にはここから去っているだろう。そして計画をまっとうする勇気があれば、アランもまたこの世から去っているはずだ。
馬車の中で
昂っていたアランの
ものは、客が体を洗い、身づくろいをするのを待っている間におさまっていた。それどころか今、アランは若者を屋敷に連れてきたことを後悔しかけてさえいた。いっそ、半クラウンかそこら料金だけ支払い、バッジマンに命じてこのまま送り帰してしまおうか。
しかし書斎のドアをそっと叩く音が聞こえると、アランのものがふたたび猛り始めた。あの美しい若者とまた会えると考えただけで、敬礼する兵隊のようにそれが
屹立してしまう。
バッジマンがドアを開け、入ってきた。
「お連れしました」
ジェムは続いて入ってくるや、ぐるりとあたりを見回した。その間にバッジマンが静かに部屋を出ていく。
アランは息をのんだ。若者は、さきほどよりももっと美しかった。湯を浴びて湿った髪は後ろに撫でつけられ、首筋で小さくまとめてある。ジョナサンの服は、手足の裾がもう少し短ければ、ぴったりといってもよかった。ジェムは首元にクラヴァットをしておらず、上着のポケットに突っ込んであるのが見えた。なんて懐かしい上着だろう。アランは、兄がよくこれを着ていたのを思い出した。お気に入りの一着だったのだ。ああ、この上着を着せて葬ってやるべきだったのに。おばが選んだスーツなどではなく。
突然、アランは、目の前の若者を見ているのが耐えられなくなった。死んだ兄の服を着せるなど、いったい私は何を考えているのだ?
「いやあ、結構なお住まいをお持ちですねえ。その、実に感銘的です」
教養人の発音をまねたジェムの話しぶりは、そこそこ悪くはなかったが、大げさすぎて、アランは思わず微笑みそうになる。彼は向かいにある椅子を指し示した。「どうぞ」
「恐縮です」
ジェムは椅子に浅く腰かけると、前かがみになって上腕を膝に預けながらアランを見つめた。暖炉の灯が揺らめき、ジェムの美しい顔に光と影の模様を躍らせている。青い瞳は、星のように輝いている。見ているだけで胸がつまりそうだ。サファイアのような青いまなざしから目を逸らすことができない。
「さてと、おかげさまで、見苦しくないほどきれいさっぱりしましたけど──これから、どうするつもり?」
ジェムの声はさっきよりもかすれ、深みを増していた。その声を聞くだけで、見えない糸に釣られるようにアランのものが勃った。胃がよじれ、それはますます固くなる。
「何か飲むかね?」まるで調教前の子馬のように神経が昂り、アランはいきなり椅子から立ち上がると、サイドボードに置いてあったデカンタからグラスにブランデーを注いだ。そして一杯ぐいと飲み干してもう一杯注ぎたくなる衝動をこらえ、グラスを客のもとへと持っていった。
驚くほど美しいあの青い瞳がこちらを見上げている。アランは息をするのも苦しいほどだった。グラスを差し出すとき、その手がかすかに震えた。ジェムは端正で、とても男娼のたぐいには見えなかった。身ぎれいにし、ジョナサンの服を着ていると、休暇で大学から帰省中の学生といってもよかった。あるいは、感情豊かで穢れのない瞳のせいで、天使にも見える。だがジェムが口を開いたとたん、そんな無垢な幻想は崩れ去った。
「ズボンの下に、ずいぶんいいものを隠してるんだな」
ブランデーのグラスをそばのテーブルに置くと、ジェムは腕を伸ばし、アランのズボンのふくらみを手の甲で撫でた。
軽く触れられただけで股間に電撃が走り、アランははっと逃れた。これまでセックスの相手を求める欲望に負けたのは、ほんの数回程度。いつもこうしたことに
耽っているわけではない。今夜は、この目的のためにジェムを誘ったのではあったが、それでもアランは動揺と羞恥心を抑えることができなかった。
「なに? 触られるのは、いや?」ジェムは目を細めた。誘うようなまなざしが、アランの胃をさらによじらせる。
「もう少し俺に慣れるまで、見てたいってことかな」
そう言いながら、ジェムは座ったままシャツのボタンを外し始めた。中には下着をつけておらず、筋肉のついたなめらかな胸が露わになる。鎖骨から胸へと指を滑らせ、さらに引き締まった腹をするすると滑らせていき、ズボンの前立てに触れると、おもむろに緩め始めた。
アランがからからに乾いた口で、「いや、ここでじゃない。待て、まだそんなつもりでは」と言いかけたときにはもう、ジェムはそれを
露わにしていた。脚の付け根を覆う茶色の
巣から、固く誇らしげに屹立している。じっとアランに視線を注いだまま、ジェムはそれを上から下へと手でさすった。唇を舌で濡らし、きらめかせながら。手の動きに合わせ、かすかに息を洩らす。
アランはその太く伸びたものから、そして包皮から顔を出している紫色の先端から目を離すことができなかった。ジェムの拳は、指の関節あたりに擦り傷があった。最近、喧嘩でもしたのだろう。ジェムがかわいいだけの若者ではないということだ。ロンドンでも指折りの物騒な貧民街で、どのような技を身につければ生き残れるのか、よくわかっているのだ。
罪の意識がアランを襲った。この若者は生活のために体を売っている、それを買うのは間違いだ。だが今となっては、抗おうにも抗えなかった。アランはジェムに触れたくてたまらなかった──彼のなめらかできれいな肌を探り、彼の
毛の匂いを嗅ぎ、彼のものを味わいたかった。彼の中に自分を満たし、そして満たされたかった。温かな体と絡まり合って夜を過ごしたかった。自分以外の人間と交わる経験を、心底求めていた。それは長いことずっと自分に禁じてきたことだった。
一度、あと一度だけ。神もきっと許してくださる。
アランは一歩、また一歩とジェムに近づき、彼の座っている椅子の前で膝をつくとグラスを床に置いた。ジェムはさすっていた手を根元まで下げ、アランに差し出すようにペニスを傾けてきた。
アランは体を前に倒し、ジェムの引き締まった腿に片手を預けた。自分の息が荒く乱れているのがわかる。ジェムのそれの、黒味がかった頭に、真珠のような粒が光っていた。顔を近づけると、もうそれしか目に入らなかった。アランはそっと舌をのばし、それを味わった──塩気と
麝香の匂い。これ以上にないほど完璧なひと
滴だ。
ジェムは息を洩らした。「……いいね。今度は、中に入れて」
アランは喜んで命令に従った。まず先端を口に含み、それから固く締まったそれをすべて口の中に入れる。舌で、ベルベットのようになめらかな感触を味わいながら。先端がアランの喉に当たり、息がつまりそうになって顔を引く。
「手でそれを──そうそう、そんなふうに包んで」
ジェムが指南を続けた。あたかも自分が師匠で、アランが初心者だとばかりに。確かにそのとおりだった。若いにもかかわらず、ジェムはアランよりもこの手の経験が豊富だったし、ジェムは本能的に、顧客であるアランが主導権を取りたがっていないことを察知したようだった。支配する立場を捨て、寄せくる快楽をひたすら味わっていられるのは、アランにとってもありがたかった。
ジェムの手が伸びてきて、アランの髪を撫でた。
「すごくいい。こんなふうにされるなんて、思ってもみなかった」
ジェムの声はざらついていた。アランの歯が根元の部分をこすると、ジェムは低く呻いた。
「ほら、こっちを見ろよ」ジェムは王子のような命令口調で傲慢に言い放った。「顔を上げて。男のこれが好きだからって恥じることなんてない。好きなやつは大勢いるよ。あんたが考えている以上にね」
顔を上げるのは、想像以上に至難の業だった。しかしアランはこれまでも、圧倒的に不利な状況の中、軍を率いて戦ってきた猛者なのだ。ストリートボーイの視線をしっかり捕らえることくらい、もちろんできる。アランはジェムの、薄く毛が生え、引き締まった腹部を見上げ、それから筋肉の盛り上がった胸、はだけた白いシャツからのぞいている三日月のような乳首まで視線を上げた。さらに、筋のよく張った首、しっかりとした顎、誘うような唇、つんととがった鼻へと進み、そしてようやく、彼の澄んだ瞳にたどり着いた。その間、アランはずっとジェムのものを口に含み、拳も使い、同じリズムで上下にさすり続けていた。ジェムの瞳が快楽の光できらめく。
アランの頭にそっとのっていた手が急に髪をつかみ、
捩ったので、アランはのけぞった。
「ストップ。こんなに早く俺にいかれたくないだろ?」ジェムがあえいだ。
だがアランは、ジェムにいってほしかった。彼の顔が恍惚で
蕩けるのが見たかったし、彼のものが爆発し、精液があふれ、ジェムの腹にまで噴き上がるのを見たかった。アランのそれは、玄関ホールの傘立ての中で埃をかぶったままの、金のライオンの握りのついたステッキと同じくらい固くなっていたが、彼自身を解放する時間はまだこれからたっぷりある。今はジェムが達するところを見たくてたまらなかった。
「いってくれ」アランは低く囁いた。「いくところが見たい」
アランはジェムのそれの周りを手で包み、強く上下させ、一回ごとに先端まで戻った。
ジェムは呻くと、腰を突き出してきた。椅子の肘掛けをつかみ、頭を後ろに反らせる。青白い喉が
露わになった。喉の窪みで脈が激しく打っているのが見える。唇は開き、湿り、淡く色づいている。長い睫毛が頬にかかり、とても美しかった。アランはジェムが達するよう刺激し続けながら、固く勃った自分のものをジェムの足でこすった。
「ああ……」ジェムがあえぎ、椅子の中で体を弓のように反らせると、精水がほとばしり、胸のあたりまで飛んだ。アランもまた呻き、ジェムの脚に自分のものを強く押し付けたが、服地に邪魔をされ、思うような快感を得られない。
そのまま椅子に深く沈み込み、ジェムは目を開けた。ゆるゆるとアランのほうに向けた瞳は、欲望でぼんやり霞んでいたが、あまりに大きく目を見張っているせいか、青というより黒みがかって見えた。
「こんなにご親切にしていただけるとは──その、実に恐縮です」
ジェムは、上流階級の口調をまねてそう言うと、笑みを浮かべた。「今度は、こっちがお返しする番だ」
アランはいきなり立ち上がった。ずきずきと脈打つ彼のものは、下着に当たって痛いほどこすれている。
「今すぐお前が欲しい。ベッドで」
「何なりとお望みのままに、サー。どんなことでもお命じください」
第二章
アランの部屋では暖炉の火が小さく
設えてあり、いくぶん涼しかった。眠るときはいつもこうしているのだ。といっても、あまり眠れはしないのだが。しかし、彼は今、暖炉など必要ないほど燃え立っていた。ただジェムを見ているだけで──アランに先立って寝室に入るときのきどった歩き方や、肩越しに投げかけてくる茶目っ気たっぷりなまなざしを見るだけで、体が
火照ってしまう。
「素晴らしい調度品ですねえ」
ジェムはほのかに灯りのともった室内を見回した。重厚なオーク材の家具に、ベッドを優雅に覆うワインレッドのベルベットのカバー、床に敷いてあるぶ厚いカーペット。それから、イベリア半島の地図に目が留まる。それは暖炉の飾り棚の上に架かっており、さまざまな印が書き込んであった。
「へえ、軍人なのか。見た感じ、そうじゃないかなとは思ってたけど」
アランは毎日見ている地図に視線を投げた。戦いが記録してあり、軍の動きが記してある。だが、すぐさま背を向けた。「それについては話したくない」
「もちろん」ジェムは頷いた。「それより今は、もっと愉しいことがあるしね」
そう言うと、はだけていたシャツを腕まで滑らせ、そのまま床に落とした。アランははっと息をのんだ。消えていこうとする暖炉の火のきらめきが、ジェムの青白い体を艶めかせ、金色に変える。肩や腕、胸の筋肉は、陰影のせいで輪郭がくっきりと描かれ、さながら生きた彫像のようだ。現実とは思えないほど──完璧に近い。
「もっと行く?」ジェムは返事を待たずに、ズボンの前立てに手をかけた。あっという間に靴を蹴り脱ぎ、残りの服を脱いだ。
アランは身じろぎもせず、この瞬間、ただジェムの体を見ることで満足していた。すぐに、この美しい肉体のすべてに触れることになるだろうが、今は、そう考えるだけで充分だった。
「気に入った?」
ジェムがうぬぼれたっぷりに笑った。自分の美しさをよく知っており、裸になることを少しも恥じていないようだ。
「それ、飲まないの?」ジェムはアランが階下の書斎から持ってきたブランデーのグラスを指さした。自分の分は、まるで口をつけないまま書斎に置いてきてしまったのだ。ジェムは部屋を横切り、アランの手からグラスを取ると、琥珀色の液体をすすった。味わいながら、目を大きく見開く。「うん、うまい。ジンよりいいな」
ジェムの過小評価ぎみなコメントに、思わずアランは笑ってしまう。
「ああ、そのとおり」アランはジェムからグラスを受け取ると、くらくらしそうな神経を落ち着けようと、ぐいとあおった。そしてグラスを炉棚に置き、ふたたび裸の客のほうを向く。
ジェムはアランより頭半分ほど背が低かったため、アランと目を合わせるのに少し顔を上げた。ジェムにじっと見つめられ、ほんの一瞬ジェムが体を寄せ、キスしてくるのではないかと思った。しかしそうはせず、ジェムはアランのシャツのボタンに手を伸ばし、外し始める。
シャツを脱がされている間、アランは黙って立っていた。メイドに服を着替えさせてもらう子どもみたいに、従順に。たこで固くなった両手のひらが、アランの
剥き出しの肩をすべり、腕をさすった。その手が胸からさまよい出し、乳首をかるくかすめたので、アランは快感のあまり息を洩らした。露わになった肌のすみからすみまで、ジェムが探索し始める。最初は両手で。それから、口で。彼の唇と舌は、アランが長い間まとっていた氷の鎧の上をすべり、それを溶かした。肌はうずき、心臓は激しく打ち、暗い絶望は
和らいだ。アランはかつてのように、戦闘を直前に控えているような活力を感じた。しかも、あのときのような不安な
慄きはない。触れられている間、興奮で満たされ、落ち着かないような満ち足りたような、不思議な感覚になりながら、体の脇でそわそわと両拳を握っては、また緩めた。
ジェムは、アランの二頭筋についた、青白いぎざぎざの傷を指先で軽くたどり、それから顔を寄せて傷に口づけた。脇腹の、長く深い傷を確かめるのにも時間をかけた。マスケット銃の弾が肉をえぐりとったところだ。ひどくくぼんだ傷に注意深く触れると、ジェムは身をかがめ、その傷にも口づけた。
アランはぐっと歯をくいしばり、突然つんと湧き上がってきた涙のようなものを、瞬きしてこらえた。ジェムの口づけが呼び覚ました戦場の記憶は、思いのほか激しかった。アランは彼を押しやりたかったが、ジェムはすっと傷を離れ、さらに下へと移っていく。
その器用な手が、傷で引き
攣ったアランの腹をズボンまで滑り降り、そこでまた動き始める。靴、ズボン、下着を脱がすとアランを立ったまま裸にし、すべてを露わにさせる。
ジェムは膝をつき、アランの脚をくるぶしから尻まで撫で上げた。脚に震えが走る。腿にある、ほとんど治りかけた傷のところで、ジェムが少し手を止めた──この傷を受けたとき、アランはすんでのところで、軍医のシバースに腿を切断されそうになったのだった。ジェムは赤々とおぞましいその傷にも口づけ、それから腰骨に唇を押しつけた。
脚の付け根あたりに唇をつけ、舌を這わせながらも、ジェムは自分のほうに向かって固く突き出たものを巧みに避けていた。そのじらすような唇と舌づかいのせいで、アランの体は欲望で震え、立っていられないほどだった。
もうこれ以上は耐えられないというとき、ようやくジェムがペニスに触れ、アランの顔を見上げながら力強い拳で握った。先端をゆっくりと唇に近づけ、桃色の舌を突き出すと、赤くなった先端をさっと舐める。
アランは呻き、ジェムの乱れた茶色い髪に手を伸ばしかける。ジェムの口の動きに応じて髪をつかみたかったのだ。しかしその手を引き、手のひらに爪をきつく食い込ませた。欲望のままに自分の手が動いてしまうのを罰するかのように。だが腰のほうは、自らの意思に正直で、心が止めようとするのもきかず、欲求を満たそうとばかりに前へと突き出ていた。
ジェムの熱く湿った口で、命まで吸い取られそうなほど激しくねぶられ、同時にジェムの手で絶え間なく擦られ、すぐさま瀬戸際まで達しそうになる。これまでずっと欲望を封印してきたため、長くはもたないだろうとわかっていたが、ジェムの口以上のものを味わいたかった。ふたたび呻くと、アランは身を引いた。
ジェムは立ち上がってアランと向き合い、彼の手をとった。
「こっちに来て」そのままアランをベッドへと引っぱっていき、カバーをはがすと、アランとともにベッドに倒れこんだ。
「どういうふうにやりたい? 前から? それとも横? 後ろから?」
ジェムのそのかすれた声だけで、アランは今度こそ達してしまいそうだった。こんな微妙な話を、こんなふうにざっくばらんに尋ねられるとは──まるで男同士で交わることが、法律で罰せられる犯罪ではないかのようじゃないか。それを認めたところで世間から激しい非難を受けたりしないし、完璧にあたり前のことなのだといわんばかりで──あっけにとられた。
アランは、向き合ってするのが可能だということすら知らなかった。自身の欲求に屈してしまった数回の経験はといえば、どれも路地裏で慌しく相手を引っ掛け、酒場の奥の部屋で、立ったままやるというものだ。選択肢はいつも「後ろから」しかなかった。そして今、アランが望むものもそれだった。ジェムと交わっている間、彼の顔を覗き込む勇気は到底なかった。
アランの答えを推測したのか、ジェムはうつぶせになった。アランは喉がからからで、唾を飲み込むのもやっとだった。ためらいがちに手を伸ばすと、ジェムの肩甲骨のあたりから柔らかく丸まった尻まで、しなやかな背中を撫でた。肌には小さな傷がいくつかあったものの、ベルベットのように滑らかだ。この若者は、最低最悪な暮らしを強いられてきたはずだ。それなのになぜ、こんなにも汚れていないのだろう? アランは単に肉体的な意味だけでそう考えたわけではなかった。ジェムの命そのものに弾けるような快活さがあり、そこに、人生の荒波にも負けないような心の輝きを見たのだ。陽気で、前向き。まるで、悲惨な暮らしの中でも希望は決して奪われていない、とでもいうようだ。いったいなぜそんなことが可能なのだ?
いや、それについて考えるのはあとにしよう。アランはジェムの体に集中することにした。両尻の丸みの間に手を滑らせ、すぼんだ穴の縁を指でたどる。
その中に入りたい欲望で、アランのものがぴくりと痙攣する。先端は
滴りで濡れ、いつなんどき暴発してもおかしくなかった。
ベッドの脇のテーブルの引き出しに手を伸ばし、そこにしまってあるオイルを取った。孤独な夜、自分でするときに使っているものだ。オイルを少量手のひらに取り、自分のものにすり込む。そんなかすかな摩擦にすら歯をくいしばる。そしてジェムの開いた両足の間に膝をつき、尻にふたたび手を伸ばすと、尻の間の固く締まった口に指をすべらせた。
アランはまず一本の指を差し入れ、それから二本に増やした。ジェムは尻を浮かせ、アランの指のほうに押し返しながら、喜びの呻きをあげる。
「もっと深く」ジェムが囁く。
アランはもう時間をかけていられなかった。今すぐ、中に入らねば。すべらかなペニスを広がった穴に当てると、先端を押しつけ、それからぐっと押し込んだ。抵抗力のある筋肉の輪にぎゅっと締めつけられ、思わず呻きが洩れる。
「ああ、そこ──。もっと入れて。気持ちよくして」ジェムがうなった。
淫らな言葉は、さながら馬の脇腹を打つ鞭のようだった。アランは呻くと強く突き、むっちりと熱く締まったジェムの中に深く自身を沈めた。ジェムの静かな呻き声が、拍車をかけてアランを追い立てる。
ジェムの肩甲骨の間に片手を押しつけ、ジェムをベッドに釘付けにし、その甘美な熱い部分から自身を引き抜くと、ふたたび突き入れた。アランの股間がジェムの尻をぴしゃりと打つ。波打つような二人の体がぶつかり合い、汗が噴き出し、今にも絶頂に達そうとしていた。
アランは体を低く傾けるとジェムの両肩に自分の両手をのせ、全身を預けた。肉体と肉体の、触れ合う感触を充分に味わいたかった。アランの胸はジェムの背中に、そしてやわらかくカールした茶色の髪は、アランの鼻先にあった。ジェムの横顔が少しだけ見える。ふさふさとした睫毛が頬に当たり、唇がわずかに開いている。
「もっと強く」ジェムが促した。「最後まで」
ジェムの言葉に鞭打たれ、アランはさらに深く突くと、固く締まったジェムの中を征服した。二つの体の摩擦は、ほとんど耐えがたいほどの熱を生み出した。アランはこれ以上、自身の中の激しい
轟きに耐えきれなかった。進撃軍の蹄の音が近づき、膨れ上がる興奮が、防御網をすり抜けて押し寄せ、最高潮の中で爆発した。彼はもう一度突くと叫びをあげ、絶頂に達して激しく震えた。
アランの下で、ジェムの体が跳ねあがり、よじれた。アランを振り落とそうとしているのか、あるいは自分のものも、手でいかせているのかもしれなかった。それから二人は息を荒げたまま、じっと横たわった。まるで、どちらも降伏を拒んだせいで戦闘が長引き、息を切らした戦士のように絡み合いながら。
アランは、温かく汗ばんだジェムの体が自分の体と溶け込むような感触を大いに愉しんだ──この腕の中にある、別の人間の筋肉、骨、激しく脈打つ血潮、匂い、味わい、そしてその肌触り。この緊密さこそ、長いこと渇望していたものだった。かけがえのない喜びがほんのひととき訪れ、アランは平和な気持ちで満たされた。
しかし同時に、彼の心の奥底に潜んでいる暗黒の生き物がうごめき出し、怪物のような頭をもたげ始めた。至福の喜びが、あっという間に
蒸散する。そう。長く続くはずはないのだ。ジェムは恋人ではないのだから。街で買った男娼にすぎない。彼はまもなく去り、私はまた亡霊に囲まれ、一人きりになるのだ。
アランはジェムから離れ、背を向けて転がった。体がべたつき、汗ばみ、自分が不潔に思えた。二人の行為は決して美しいものなどではない。啓示のようなものはもはや感じられず、後に残ったのは、汚れた、獣欲的な行いをしてしまったという思いだけだ──不健全で、穢れている。
アランは両目を手で覆うと、傍らで息をつき、体を伸ばしているこの男が早く消えてくれればと願った。そうすれば、ぐずぐずせずに次の段階へと進むことができる。これはアランにとって、この世での最後の愉しみ、最後の一服なのだった。さあ、あとはほんの少し自らに苦痛を与え、すべてを終わらせてしまおう。
--続きは本編で--