不在の痕
ヘル・オア・ハイウォーター2
S・E・ジェイクス
■プロローグ:スーダン
ケイシー・クッツェーは井戸の冷たい壁に背を押しつけ、後ろ手にナイフをつかんでいた。絶望と恐怖に詰まりそうな喉で、無理に唾を飲みこむ。
死んでたまるものか。こんなところで。
ずっとここに放ったらかされてきた末、今、井戸をのぞきこむ誰かの姿が陽をさえぎっていた。一体、どちらが恐ろしい? 死ぬまでここに放置されるのと、誘拐犯たちに外へ引き上げられるのと。
最後に奴らが水のボトルを数本投げこんできた時、一日半前のことだが、男たちの一人が彼女に言葉を投げつけたのだった。
「ヤイ・ベーター・ディット・ヴァート・ヴィエス・ファー・ヨウ・ファ・ダー」
“父親にとってお前がそれだけの価値があるよう祈っとけ”
今、頭上からはアメリカ人らしき声が彼女に話しかけていた。
「君を助けにきた、ケイシー」
ケイシーはぐったりと崩れ、安堵にむせび泣いた。たとえまたあのCIA連中のところに戻されるとしても、この穴からは出られる。
男が何かを井戸に下ろしてきていると、ケイシーは手の届く範囲までそれが近づいてきた時になって気付き、さっとつかんだ。両脚を入れられるよう輪にされたロープのハーネスだ。脱出できる、と実感が迫り、彼女はこみ上げてくる涙をこらえた。
「脚を通せ。引き上げる」
五日前、彼女の誘拐犯たち——彼女と同じ国の兵士たち——も似たようなハーネスで彼女をこの井戸の底に下ろしたが、あの時は両手を前で拘束されていた。何日も、手首のロープを切る方法を探し回ったものだ。それで井戸の底にあったナイフを見つけたのだ。
骨も。
井戸は四メートルあまりの深さで、壁には登れるような手がかりもなく、幅も広すぎる。もちろん、それでも登れないかとためしたが、結果は血にまみれた傷だらけの両手と、めくれて割れた爪だけ。底はいくらかでも涼しくて、それは本当に助かった。この数日でありがたいことと言えば、それだけだ。
だが、この男の出現こそ本物の恵み。男の声が、彼女の心の乱れをすうっとなだめていく。深く、低く、迷いを許さぬその声、逆らう気など決しておこさせない声だ。
「ケイシー、考えるな」
男の声がそう命じた。
「ただそれに脚を入れろ、そしたら引っぱり上げる。ほら、やるんだ」
両脚をハーネスの輪の中に入れるまで、男はケイシーを励ました。輪は彼女の腿と腰を支えるように作られていて、ロープが引き上げられるのを感じるとケイシーはナイフをジーンズのウエストにさしこみ、ロープの結び目をつかんで、なめらかな壁に必死に足をかけようとした。男が力強くロープを支えていてくれるおかげで、ずっと楽に石壁で踏ん張ることができる。
「いいぞ。がんばれ。俺が支えてる」
非情なほど足がかりのない井戸の壁を、ケイシーは男の力をたよりに上へと、結局はほとんどロープに引かれながら登っていく。出口が迫ると夢中で、男の腕をつかもうと手をのばしていた。筋肉がきしんだが、男に楽々と支えられ、ほとんど相手の力だけで引き上げられて、ついに、午後の最後の陽が熱くケイシーの顔を打った。井戸の縁から半分出たところで、男が彼女の腰を抱き、ぐいと全身を外へ引っぱり出した。
数秒、男によりかかって、光にくらむ目でまばたきする間にも、ゆらゆらと熱波がたぎる砂漠の向こうから軍用らしき車が走ってくるのが見えた。きっとさっきからずっとそうだったのだろうが、救い主の男はそちらに目もくれず、ケイシーを地面に下ろして井戸にもたれかからせた。彼女の頭にさっと布を巻きつける——男自身が着用しているのと同じ、カモフラージュ用だろう。その間に、彼女は足をロープから抜いた。
「歩けるか?」
「ヤー」かすれ声で答える。咳き込んだ。「ええと、イエス」
「よし。行くか」
彼女の返事を疑っている声だったが、男は彼女の好きにさせた。
一歩踏み出した途端にほとんど顔から砂に倒れこみそうになったが、男が素早く、易々と支えて、ケイシーを井戸から遠くへと運んでいく。
その間も、ごつい緑の車が大きくなってきていた。
「ごめんなさい……」
「気にすることはないさ」
車が迫り来るというのに、どうしてこの男はこうも落ちついているのか、信じられない。だがつられて彼女の心も鎮まった。守られている、というこの実感は、ただの錯覚かもしれない。だがどうでもいい、もう恐れることには疲れ果てていた。
「父さんは?」
「無事だ」
「私を父さんのところにつれてくの?」
「いいや。そうしない方が比較的安全だ」
比較的安全。
先週も、ケイシーの身は
安全な筈だったのだ。CIAが、重大な危険が迫っていると主張して彼女を父の家からつれ出した時。CIAだけが彼女を身を守れる、そう言われて。「あなたの誘拐を企む連中がいる。お父さんの身柄はもう我々が安全な場所へ移した。たのまれて、あなたを迎えに来た」と。
そう言いながら、CIAは彼女と父親を引き離して、会わせてもくれなかった。その上
隠れ家に移されてたかが二日後には、護衛役の二人のエージェントは打ち殺され、彼女もさらわれた。目隠しと猿轡、縛られた状態で動き出す車に放りこまれ、ここへ運ばれた。
そして今、またたいて、ケイシーはテントに気付いた。テントの脇には二台の車が停められ、その周囲の地面にはまるでゴミのように死体が落ちている。三人のテロリストの死体。
もっとやってくる——。
男は彼女を片方の車のバックシートに押し上げると、銃を握らせた。
「伏せてろ。近づく奴がいたら撃て。俺以外はな。何もなきゃここで待ってろ」
ほかのどこかに行くとでも?
指示通りに腹ばいになり、外をのぞいて、男が迫りくるでかい緑のジープへ向かって進み出しながら、何も持たない両手を上げるのを見つめた。ジープは井戸の向こう側に停まり、迷彩戦闘服の兵士たちが銃を手に次々と下りてくる。
男を救おうと、反射的に銃をかまえた彼女の目の前で、一瞬男の両手がかすんだかと思うと、銃が現れていた。見事なほど無駄なく、優雅に、兵士たちにその銃に気付く間すら与えず、男は全員を撃ち殺していた。
この数日で、人が殺されるのを見るのは二度目だ。だが今回は死んだのは、悪い奴らだ。
男が、今や無人のジープへ駆けより、中をあさって二つ袋を下げて戻って来る間に、ケイシーは前の座席へ転がりこんだ。男は袋を古いランドローヴァーの後部へ置くと、運転席へ座る。車はブルルッと揺れてから、エンジンの咆哮を上げた。運転しながら、男は顔を覆うカモフラージュの布をのんびりと下ろし、首回りにだらりと垂らした。外さないのは、いつでも——と彼女は思う——引き上げられるようにだろう。いざとなれば。
そんな時のことは考えたくもなかった。
運転する男をこっそり観察する。道などないがごとき不毛の地へ、男は迷いもせず平然と車を乗り入れていく。
「怪我してないか?」と男がたずねた。
「うん、多分」
その答えは、ひどく間が抜けて聞こえた。
男が微笑する。少しだけ。彼のシャツの袖に真新しい血がにじんでいるのを見て、ケイシーは息を呑んだが、男はただ、大丈夫だと言うように首を振った。
「あの人たち、どうしてすぐにあなたを撃ち殺さなかったの?」
と、彼女はたずねる。
男の唇の端がちらっと上がった。
「おっと、新記録もんだな。大体の人間は、俺が死ねばいいと言い出すまで、会ってから二十四時間はかかるんだが」
彼女は口を覆ったが、間に合わなかった笑い声がこぼれていた。笑い声。この異常事態の真っ最中に? 男もニヤリと笑っていて、こんな状況を、彼のような男はこの無茶苦茶さで蹴散らしていくのかもしれない。
答えてくれないだろうと思ったが、男は続けた。
「この国じゃ、俺の首には賞金が掛かっててな。生かしとく方がいい金になる」
「私は違うの?」
「君もだよ。ただ、俺の方がずっと高額だ」
「そんなのおかしい。私の方がもっと可愛いのに」
男は意地悪な目を彼女に向けた。
「人生ってヤツはままならないもんさ」
そこで彼はふとまたたき、問いただした。
「今、遠回しに、俺のことを可愛いって言ったんじゃねえだろうな? いいか、俺は可愛くなんかねえぞ」
握った拳に隠して、彼女は笑った。もし笑っていなければ、泣き出してしまう。今、もうそこまで涙がこみ上げてきているのがわかる。
それにしても、この男はつい今しがた砂漠で起きたことに言及しようとすらしない。彼女のために人を殺したのに、どうしてそんなことをしたのかすら。
「父さんがあなたを雇ったの?」
「いや」ぶっきらぼうに返した。「そいつは無理だ」
「なら誰に雇われてるの? だってCIAの人たちからは、もし私が捕まっても解放交渉はしないって言われたもの。南アフリカ政府も交渉しないだろうって」
「誰か交渉してるように見えたか?」
「ううん」
砂漠の熱さにもかかわらず、いきなり寒気に襲われ、ケイシーは腕をさする。男が彼女の足元の筒状に丸めてある毛布を指した。その毛布にくるまりながら、彼女はたずねた。
「あなた、じゃあCIAの人じゃないの?」
「まさか、冗談じゃねえ」男がちらりと彼女を見る。「がっかりか?」
「今日聞いた最高のニュースよ」
彼女が言葉を絞り出すと、男は短くうなずいた。
大きな男だ。猛々しく、決意に満ちた。液状の鉄と御影石の間の灰色の目。彼女を見守る鋭いまなざしは、何ひとつ見逃すまい。こちらを見ている時でさえ、同時に周囲のすべてを、そして車の行く手を見ている。
「私の父さんが前に何をしてたか知ってるの?」
「まあな。核物理学者はここんとこ大人気でね」
皮肉な口調は鋭いものをはらみ、それを言う男の手もきつくハンドルを握りしめたが、それも一瞬で、すぐに力が抜けた。
「父さんは、引退したの。今は高校の先生。私たち、違う名前でダルエスサラームで暮らしてて……」
「引退させられた、そうだろ?」
「ヤー」彼女はうなずいた。「南アフリカ政府は核開発計画を放棄して、父さんみたいな人たちは放り出されたってわけ」
他人に聞かせていい話ではなかった。核兵器開発に携わっていた父親は、今や厄介な存在であると同時に重要な標的ともなっていた。そして彼女こそ、父親の最大の弱み。
「私たち、ちゃんと隠れてたのに。CIAがどうやって見つけたんだか……」
救い主が鼻を鳴らした。
「ああ、奴らのお得意技さ」
パニックの波が彼女を襲う。
「CIAが見つけたせいで、私も見つかって誘拐されたの?」
「多分そうだろう、ケイシー」男は優しいほどの声で言った。「息を吸え」
言われたように、ケイシーは震える息を数回吸いこむ。ここまでは、彼女を突き動かしてきたアドレナリン・ラッシュがパニックをせき止めてくれていたらしい。
「CIAから協力を無理強いされるなんて、父さんは考えてもいなかった……」
ほんの一瞬、男が彼女を見て、顎をこわばらせたが、ただ答えただけだった。
「なら、間違ってたな」
「協力しないならテロリストに渡すぞって、そう脅されるの?」
次の答えは慎重だった。
「CIAは、自国の利益を最優先に守るんだ」
つまり、イエスということだ。人でなし連中。
「CIAは約束したのに。私は言う通りにした。それなのに、もう少しで殺されるところだった」
苦々しく、彼女は吐き捨てた。
それについては男は何も言わなかった。ただ車の後部へ手を振る。
「水がある。ゆっくり飲め、どうせギリギリしかもらってなかったろ」
背もたれの向こうに手をのばし、ケイシーは水のボトルをつかんだ。一本を男に渡し、もう一本を開ける。一気に飲み干したくてたまらなかったが、言われたように少しずつ飲んだ。男は、彼女のための食料も用意していた。ありがたく口をつけ、こんな非常事態にはふさわしくないかもしれないというほど食べたが、男は彼女の食べっぷりを歓迎しているようだった。
さらに半時間もすると、かなり気分が落ちついた。男はラジオに手をのばしたが、ボタンにふれる前に言った。
「ルールというのはな、大抵それに従う人間より、作った側を守るようにできてるもんだ。これからあんたから色々聞き出しにかかるだろう連中も同じさ。いらないことは黙っておけ。切札は渡すな」
それから、ボタンをひねると、ローカル局の音楽の低いビートが車内を満たした。加えて、エンジンの震えが彼女の眠りを誘う。
目が覚めると、ホテルの一室にいた。ベッドの中に寝かされて。安全。
だが、一人きりではなかった。
同じ室内に座っていた女は、ロウラー特別捜査官だとケイシーに名乗り、何者かがここに彼女がいると知らせて保護を要請したのだと言った。
「誰が通報したか知ってる?」
ロウラー捜査官がたずねる。
ケイシーは、自分を守るようにベッドカバーを引き上げた。
「私を助けてくれた人でしょ。ここに運ばれたのは覚えてないけど——眠っちゃってたから」
「薬で?」
「違う」
事実、目覚めは爽やかで、さらわれた時のような朦朧とした後遺症などなかった。
「彼は、私を助けてくれたの。あなたたちは何をしに来たの?」
「ここならもう安全よ。ドアのところに護衛もいるから」
ケイシーは閉じたドアと、捜査官をちらりと見比べた。
「この間も、護衛はいたけどね」
ロウラー捜査官の表情がこわばり、彼女の言葉を無視してまた聞いてきた。
「あなたを助けた男——何者?」
ケイシーはまばたきした。
「名前は聞いてない」
「誰に雇われているか言ってた?」
「ううん」
「でもあなたの父親のことは知ってたのね」
「そう言ってた」
あの男が何故彼女を助けたのかは、大いなる謎だ。どうしてCIAが自力で彼女を見つけられなかったのかはまた別の謎で、はっきりそれを言ってやるとCIAは不快そうな顔をした。彼女があの男との会話の中身を言いたがらないことに対しても不満そうだったが、言う必要などどこにある。
その日の、もっと後になって、ケイシーはロウラー捜査官が携帯に小声で話しているのを聞いた。
「これで今月、四件目ですよ。彼女も、あの男について何も話そうとしない」
女はケイシーに背を向けていた。
「一体なんだってこのクソ野郎はこんな人助けをして回ってるわけ?」
ケイシーの顔に笑みが浮かんでいた。時に、この世にはただそんな男が存在するのだ。
■1
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件名:エリトリア
ここは地獄みたいに暑い。故郷を思い出すよ。ほら俺の、ケイジャン・ブードゥーの生まれ故郷をな。沼地や小川の間を何時間も探検してたもんさ。目隠しして入ったってどこにいるかすぐわかるくらいに。闇の中だろうと周りの音をたよりに歩けた。木の幹や苔の手ざわりをたよりに。靴底に伝わる地面の感触も。
コツがある。水音が聞こえたら下がるんだ。でなきゃいずれ、水中にドボンだ。簡単そうに聞こえるだろ? でも人は闇の中で判断能力を失いやすい。お前は違うだろうけどな。お前は、戦う。
俺は、抗うだけだ。
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件名:二人
コープがつき合ってる彼女と、スカイプで話をした。かなり……口の達者な子だ。コープとぴったりって感じもしないが、俺も人の恋路にどうこう言えた立場じゃないしな。
どうして俺がコープを選んだのか、お前にはわかってほしい、プロフ。お前を危険にさらせなかった。コープ相手だと全然違う。どうしてかは知らないが。
お前からどう見えてるかはわかってる。この理屈でいくと、コープは替えがきく相手、みたいに取ってるだろ。そうじゃないんだ。そうじゃなくて……お前は受けとめただろう、プロフェット……お前はあの忌々しい呪いを受けとめやがった。その呪いを自分の内にある竜巻で巻きこんで、今じゃ全部、お前の一部になっちまった。それでも、俺がお前に近づかなきゃ、お前は無事でいられる筈だ。
何度も思い返してる。サディークの前で両手首を縛られて吊るされてたお前。戦ってたお前。前もあんな状況にいたことがあるんだろ、それが忘れられない。俺は時々、冷汗まみれでとび起きて、自分のことなんか忘れて、お前を、あの倉庫の中で探してる。本当に、お前の心臓の音が届くんだ。
目を見て直接これが言えればよかったのか。このメールはお前に届かないかもしれないし、社の連中に見られてるのかもしれない。お前が周りに見せびらかして俺は笑いものにされてるのかも。でも、もうそれでもいい。
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件名:いい加減に
ミックとブルーに、お前から連絡がないかと聞かれたよ。っていうかあいつらはコープに聞いたんだけどな。二人とも怒ってるし心配してる。俺にもよくわかるよ。
たった二週間でこんな気持ちになるなんて思わなかった。
お前とのパートナー関係をうまく捨てられると、そう思ってた。俺は逃げた。怖かったからだ。(この行、消そうか迷ったけど、どうせ俺にはもうなくすモノなんかないよな)
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件名:心配してる
お前の居場所を、誰も知らない。
ごめんなんて謝って、お前を侮辱する気は、俺にはない。あれはそんな単純なことじゃなかった。俺は、悪いとは思ってない。俺はお前を守ろうとしただけだ。
だが、お前のそばにいた方が、もっとお前を守れたのかもしれない。やっと、それがわかってきた。
ほかにもわかったことがある。遅すぎることなんて、何もない。何だろうと。
トムはおかしくなりそうだった。音を消したテレビ画面の天気予報のほうはひたすら見ないようにしていたが、何をしようとしても、タン、タン、タンという音が気になる。コープが、EE社のエリトリアオフィスの床に仰向けに転がって、テニスボールを天井にぶつけてはキャッチしているのだ。左手で。何千回やる気だ、というほど。
コープの説明によれば、右利きなので、左を鍛えているということだった。
四ヵ月前、二人がパートナーを組んだ当日にこれが始まった時、トムはコープがただの嫌がらせでやっているに違いないと決めこんだ。その後、もうプロフェットと組んでいるわけじゃないのだ、と気付いて、その考えをあらためた。コープは裏表のない、まともな男だ。そして、コープを選んだのはトム自身だ。それも自ら。
EE社で働き出して六ヵ月、そしてもう二人目のパートナー。トムにとっては珍しいことではない。ただ今回は、トム自身の選択。人生にずっとつきまとってきた呪いのせいではなく。
プロフェットと組んだ二週間。彼らは戦い——互いと、敵と——そして当然のように、トムのせいでプロフェットは殺されかけた。それでも足りないと言わんばかりに、次には二人とも殺されかけた。
しまいに、フィルはトムに選べと迫った——プロフェットかコープか、と。
(そして、今ここにいる……)
コープと組んだ直後、トムは数回だけ、プロフェットにメールを送った。二通ばかりあたりさわりない短い返事が来たが、後になってそれはプロフェットが誰にでも返している挨拶がわりの文面だと知った。やがて、それすら来なくなった。
タン、タン。
だが、プロフェットがEE社を辞めた——話によっては辞めさせられたという説もあるが——と知った時、トムがふたたびあの男に会えるチャンスは、恐ろしいほど小さくなった。もし、二度と会えなかったら?
その時になって、怒りに満たされた。
「生きてるか死んでるかくらい知らせてくれてもいいだろう」
トムはくり返しコープにそう愚痴った。
コープは毎度、心配なんかいらないと言うのだった。
「プロフェットの心配をするより相手の心配をしろよ。あいつは
殺られるより
殺る側だ」と半ば肩をすくめ、笑って。「ま、時々、本当にあいつを殺してやりたくもなるけどな。ああ、やっぱり心配した方がいいか?」
「安心できたよ、どうも」
トムはそうつぶやき、コープはただプロフェットと長いつき合いの人間らしく肩を揺らして流す。
「どこにいようが、あいつは今ごろ誰かの神経を擦り切れさせているだろうさ」
今、コープはそう言いながら手を一時も休めることなく天井へテニスボールを投げつけている。
トムは溜息をつく。コープに言われた瞬間に頭をよぎったのが、それならここで
俺の神経をすり減らしていてくれ——というものだったから、救いがない。無意識の手で、革のブレスレットをいじった。プロフェットにこれを付けられた時からの手癖だ。その間も心に流れていくのはあの任務、地下ファイトのリング、戦い、プロフェットが撃たれた瞬間……。
「そうだ、なあ、マルの番号知らないか?」
テニスボールが斜めにはね返る。トムは飛んで来たボールをひょいとかわした。
「マルって、つまり……いわゆる、マルか?」
問い返すコープに、トムはボールを投げ返してやる。
「何人もいるのかよ? 黒髪、タトゥ、口がきけない、態度がデカい。知ってるマルか?」
コープが鼻を鳴らし、またボールを天井に投げつけはじめる。
「イカレ野郎のマルだろ。この世のすべてのマザーファッカーどもの中でも堂々の一位だね、プロフェットもてっぺんに近いが、マルはてっぺんどころか突き抜けちまってる。銀張りの箱に詰めてセメントで固めて地下に埋めてやりたい、地球の裏まで届くくらい深い穴にな。たのむからあのネジの外れたクソイカレ野郎とは同じ地上にはいたくない、そいつが俺のマルへの見解だ」
タン、タン。
「マルが嫌いなのか?」
コープは肩をすくめた。
「別に」
タン。
トムは溜息をついて聞いた。
「あいつと接触できるか?」
タン。
「C4爆薬付きの三メートルの棒ごしだろうと、ごめんだね」
ナターシャなら何とかしてくれるかも、と思ったが、社内の皆に片っ端からトムがいかに情けない状態なのか知らせてやることもない。それでなくとも充分に無様だ——プロフェットに毎日メールをして、時々はスケッチまで添付したりなんかして、まるで恋の病か。
タン。
だがプロフェットへメールを書くのは、エリトリアに来て一週間目くらいから、トムの一日を締めくくる儀式になった。どんな日であろうと書いていると落ちついたし、あの、彼と断絶しようと必死の男に、まだつながっている気分にもなれた。
(俺は、たしかにお前を手放したかもしれない。だが先に切ったのはお前からだ。お前はただ、はっきりそうと言わなかっただけで)
その言葉を、トムはメールに書きはしなかった。少なくとも、すぐには。もっと仕事に関する内容にとどめたメールにした。コープについて。自分の日々について。
だが何通かメールを出した後では、もう、言ってやりたいことを何でも書いた。なんとかあの男を文章で口説こうとし、守れないかもしれない約束をしようとした。まったく、何の進歩もない。プロフェットと組んだ間に学んだことがあるとすれば、約束がいかに危険なものであるかだというのに——する価値のある約束ほど。
そして今、プロフェットから一言の返事もなく四ヵ月がすぎ、あの男に会いたいならメールだけじゃ駄目だとトムは悟っていた。フィルが休暇を許可してくれさえすれば、もっと……だがフィルは、任務と絶え間ない訓練の連続でわざとトムを仕事漬けにしているようで、プロフェットを探しに行くことなど考える暇すらなかった。
フィルは、すべてお見通しの男だ。だからトムは不満を呑みこみ、割り当てられた任務をこなして信用を築いた。
コープは、トムと組むのを嫌がらない。
コープは、まだ生きている。
つまりは——トムの理屈では——プロフェットがトムの凶運の連鎖を断ち切っていった。
プロフェットは間違いなく、
何かを壊していった。くそったれが。コープを選んだのはトム自身だが、プロフェットが戻ってきてその壊れたピースを元通りに直してほしいと祈らずにはいられない。
「ハリケーンが上陸しそうだな」
コープがそう言い、ボールのリズムを中断して、頭の上のテレビを指した。この男は一日中こうやってテレビを逆さまに見ている。トムが必要以上に心配しないですむよう、音を消して。だが気象学者によれば、このハリケーンはこの八月末、かつてカトリーナが襲った日に数日遅れてニューオーリンズを直撃する。
ルイジアナ州で育ったトムは、嵐にはそれなりに慣れている。そうは言っても、ニューオーリンズに住む叔母が心配で気がおかしくなりそうだった。叔母は皆と同じだ——あのカトリーナの被害の後でさえ。立ち直り、気丈に耐え、移住など考えもしない。それでもデラは心臓が悪いし、ハリケーンは予報に反して勢力を拡大しており、トムは心配だった。エリトリアにいながら。
だがハリケーンの到着まで五日ある。五日もあれば、どんなことだって起こり得る。
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件名:ハリケーン
お前ならどうするかなんてわかってる。何だろうとお前を止められない。今フィルが俺を心配してるのもそれだろう、仕事を放り出そうなんてしたらクビだって脅された。俺のかわりに叔母に電話までして、たしかめてくれた。叔母は食料も備えも充分で、問題ないだろうとフィルも保証した。それで安心できりゃいいんだろうけど、くそ、どうしても不安が消えないんだ。ああ、とっとと笑えよ。また「ケイジャン」とか「ブードゥー」とか言ってるんだろ、聞こえてるよ。
あの沼沢地は俺の故郷だ。あそこで戦い方を覚えた。帰るたび、今度は前とは違うだろうって期待して——でも何も変わらないのさ。イカれてるだろ、な? 同じことを何度もくり返して、違う結果が出るのを期待するなんて。
あそこは俺にとって危険な場所だ、プロフ。なのにどうしても引き戻される。フィルが俺に帰る許可をくれないのはありがたいことなのか。できればそう信じたいよ。
とにかく、コープは元気だ。これで四ヵ月、俺のパートナーは俺の呪いで撃たれもせず大怪我もしてない。細かい任務をちょいちょいこなしに出てる割にいい記録だろ。コープは色々教えてくれる。辛抱強い。彼女の話を山ほどしてくる。あの二人がテレフォンセックスしてる間、俺はヘッドホンをしてる。
そんな時、お前のことを思い出す、プロフ。まあ、ほかの時もだけどな。でもお前が一番なつかしくなるのはこの時だ。それも、お前がベッドの中で合格だったからってだけじゃなく。
トムは光るディスプレイの前に座り——ヘッドホンを着けて——これを送るのはやめようか、と思う。これで一二二通目のメールだ(そう、数えているとも)。返事ひとつなしで。だが結局そのメールを送信し、この世界のどこかにいる宛先までたどりついてくれるよう祈った。
■2
(二十四時間後)
ブルーが、半分だけ開いた窓から勢いよくとびこんできた。
四階の窓から。
プロフェットはあきれ顔をした。ブルーは、ロープのハーネスの下にジーンズと長袖のサーマルシャツ——全身もちろん黒い——を着てこのクソ暑い中で黒いニット帽までかぶり、自分がテーブルすれすれをかすめたことにもまるで動じていない。死にかけたかもしれないというのに。
「網戸が破れたぞ」
プロフェットはブルーに指摘する。どうしてドアから入ってこない、とブルーに問うのは、どうして世界を創造したと神に問うのと同じだ——何か文句でも?と言い返されるだけ。プロフェットが誰にでも投げつけるのと同じ答えが。
「
お前のお友達はクソッたれだよ」
ブルーがそうプロフェットに言い放ちながら、帽子をむしり取った。
「どうしてミックがクソッたれな時だけ
俺の友達になるんだ?」
「そりゃ——」
ブルーは言葉をとめ、携帯を引っぱり出し、どこかにかけた。ボサボサの髪に指を通しながら、一瞬置いて電話口にしゃべりかける。
「今ちょうど、プロフェットの家に押し入ったところだよ。いいや、説教なんかされてない。危険だとかも、一言も言われてないし。断る、電話を変わる気はないね。話したきゃ自分でかけてこいよ」
電話を一方的に切ると、ブルーは勝ち誇ったように手を上げ、言った。
「よし、じゃあ腹ごしらえだ」
プロフェットの携帯が鳴り出す。
「俺の分もいいか」プロフェットはブルーの背中に声をかけ、ミックからの電話に出た。「パパ、ママ、お願いだから喧嘩はやめて」
『お前だってトムと、お互い逃げ出さずに喧嘩してりゃ——』
ミックの言葉をさえぎる。
「俺は今回、ブルーの肩を持つぞ」
『ブルーが何でキレてんのかもまだ聞いてないだろ?』
「関係ねえ」
『経験則からいくと、関係あるんだよ』
「そんなもっともらしい言葉を使うと頭痛がしてこねえか?」
「あいつまた“経験則”って言ってんじゃねえだろうな」
キッチンから戻ってきたブルーが割りこむ。プロフェットは彼にたずねた。
「俺のメシは?」
「今、湯を沸かしてる」
ブルーは、切れ、と手ぶりで命じる。
プロフェットは電話を切った。ミックは怒り狂うだろうが、それが狙いなのだ。
「てめえもわかってるだろうが、あいつすぐ来るぞ」
ブルーはシャツを脱ぎ、ロープ、帽子、シャツ、と点々と床に残していく。キッチンでプロフェットが追いついた時にはブルーはコーラを手にしており、もう一度携帯に目をやってからポケットにつっこんだ。
「ああ、わかってるよ」
だから、ブルーは逃げられるのだ。ミックが必ず追いかけてくると知っているから。その単純きわまりない事実が、プロフェットを半ば圧倒する。
もっとも、ミックにもブルーにも、邪魔な過去のしがらみはないのだ。とにかくプロフェットほどには。
「最近目ぼしいもんは盗ってきたか?」
「色々とね」
ブルーの目がクリスマスを迎えた子供のようにキラッと光る。でかい鍋に向き直って、放りこんであったパスタをかき混ぜた。
「レトルトだけど、いいよね。トマトもないのな」
「あんまり家に戻ってないんでな」
「みたいだね」
そのブルーの口調に、プロフェットはひるんだが、何も言わなかった。あんまりどころか、一時間でもこうして家に帰る時間ができただけで驚きだ。
プロフェットがリビングに戻って十分後、ブルーが彼にパスタの皿を手渡し、チーズとソーダをコーヒーテーブルに置いた。「いいカウチだな」とほめる。
プロフェットはうなずいて同意した。なにしろこいつを頂いてくるのに、最近はえらい手間がかかる。最後の時など、キリアンはカウチを警報システムにつないでいやがった。疑り深いスパイ野郎が。なのにキリアンはどこかへ消え、カウチをプロフェットに預けていった。
あの男を嫌ってやりたかった。あの男を思い浮かべるだけで腹が立つくらいに警戒しておきたい。いや、警戒はしているのだ。だがあいつに腹は立たないし、その理由が今いちわからない。
結局、プロフェットはキリアンと連絡を取りつづけていたが、仕事上の距離は保った。
まあ、おおよそは。キリアンの動きをつかんで——そしてあの男を忙しくして——おく必要があるからだと自分に言い聞かせながらも、あの嘘つき野郎に惹かれるものがあるのはプロフェット自身否定しきれなかった。
(奴となら、何もややこしくないからだろ?)
そう、セックスだけですむ。その後は、殺し合いか? どちらかからの。それ以上は何もない——プロフェットの方は。キリアンの方では? それこそ知るか。
だがそのキリアンも、もうマルに投げておいた。そんな仕事すら楽しめるくらいサディスティックなマルに。
キリアンの存在を頭から追い出し、ブルーと一緒にゆるい沈黙の中でパスタを食った。ここ最近食ったどんな飯よりうまかった。なにしろ味がついている。生きるため、味など無視して、ただ燃料として胃に食い物をつめこんできた日々だった。
三杯のパスタをたいらげたブルーは——まだガキのような食欲だ——、プロフェットが三杯目にかかった時、カウチにもたれて言った。
「じゃあ、あんたとトムは……」
プロフェットはギリッと歯を嚙んだ。
「
俺とトムなんてどこにもねえよ」パスタをフォークに巻きつける。「質問を変えろ」
ブルーはその警告を無視した。
「あいつが、あんたをパートナーにしたがらなかったからって、あんたとヤリたくねえってわけじゃないんだろ?」
彼の目が、プロフェットがコーヒーテーブルに気ままに散らかしっぱなしにしたスケッチのプリントアウトを見て、また戻った。
「あんたもそういう関係が好きだと思ってたんだけどなあ」
「またミックに電話してほしいか?」
「ミックの話じゃ、あんたは恋に落ちて、怖くなったんだってさ」
「あいつが? そう言ったのか?」
「そうじゃないけど」ブルーは、多少はきまり悪そうに、そう認めた。「俺と出会った時、あんたからそう言われたってミックに聞いたよ。あんた本人にも同じセリフが当てはまるんじゃねえの」
「とっとと窓から出てけ」
「あんた、ちょろすぎ」ブルーがせせら笑った。「で、何で帰ってきたわけ? 下の階のスパイのため、ハリケーンのため?」
「どっちも違う」プロフェットは苛々と身じろいだ。「それとな、俺の問題を世界中が知ってやがんのかよ?」
「違えよ、あんたにかけらでも興味を持ってあげてる奴だけさ」
ブルーにぴしゃりと言い返され、こんな口の達者なガキとあっという間に仲良しになったなんて我ながらどうかしてると、プロフェットはうんざりする。
そして、思い出す——このガキがミックを救おうと、すべてを賭けたことを。すべてを——自分自身も含めて——賭けられる奴は、プロフェットの中ではそれだけで合格だ。それにガキと言っても本当のガキでもなし。
プロフェットは皿を押しやった。
「どうせ知ってんだろうけどな、俺の電話をハックしてんだろ? とにかくキリアンが、今夜、ここに来る」
ブルーが眉を上げた。
「ここって、この部屋じゃねえぞ。この建物の、奴の階にだ。奴も住んでる建物だからな」
初めて、二人が同じ建物に同時に滞在するわけだ。
この間の倉庫は別にしてだが。あれは数に入らない。
ブルーが含みのある口調で言った。
「へーえ」
「黙ってろ」
ふと目をやると、プロフェットのスーツケースからカウチのそばまで砂の跡がついていた。砂は、彼の行く至るところについてくる。
(少なくともこいつだけは俺を見捨てねえってことか)
プロフェットが鼻を鳴らすと、ブルーは奇妙な目つきで彼を見て、たずねた。
「んじゃスパイのためでもハリケーンのためでもないなら、どうして帰ってきたんだよ?」
そう、どうしてだ?
——ランドローヴァーのカップホルダーに入った携帯が鳴った。古い車で、国外での極秘作戦ではお気に入りの車だ。電話をつかみ、番号を見たプロフェットは、相手の正体と、求めるものを一瞬で悟る。
『次の仕事の話がある』
「で?」
窓の外では、終わったばかりの任務の対象である科学者が、飛行機の搭乗準備をしていた。二度と家族にも友人にも会えまい。
『潜入任務だ。受けるなら、その飛行機に乗れ』
プロフェットは、のびすぎの髪が邪魔にならないよう頭を包むバンダナに手を走らせた。突如として、ランドローヴァーの車内がいやに暑い。
「いくらだ?」
電話の向うの男が笑った。
『今よりは高い』
たしかに笑うだろう。プロフェットには金など必要ない。下らない問いだった。ただ、運命の決断を引きのばすだけの。
「期間は?」
『一年。連絡はすべて断て。対象は三人の科学者。生死に関わらず支払う』
「俺のメリットは?」
『大金のほかにか?
CIAへ戻る道だ。もし誰が関わっているか、CIAが知れば——』
プロフェットは笑う。その声は車内にはね返り、今となってはあまりに久々の響きに、喉がぐっと詰まった。
「戻りたかないさ。それとな、言っとくが、奴らはとっくに知ってるよ」
『だが、何か望みがあるんだろ。こんなことを続けているからには』
飛行機のほうへ目をやる——ここへ無事つれてきた男はすでに乗りこみ、パイロットは扉のそばに立って、入り口とプロフェットを交互に指した。
乗るか、そるか。
こんな誘いが来るだろうとわかっていた——ある意味では、それを待ってせっせと働きつづけてきた。受けるかどうかはさして重要な決断ではない。これは証明なのだ。自分に——自分自身に、CIAのクソどもに、世の中という世の中に、プロフェットこそ科学者連中の身柄を預かるのに最適な存在だと示す。彼にはそのための知恵と、度胸と、良心というヤツがあるからだと……そう、求めていたのはそれだ。金なんかどうでもいい。組織に戻る気などかけらもない。
昨夜、
隠れ家で待機しながら、隣の部屋から任務対象者のいびきが響く中で、プロフェットはやっとトムのメールを読んだ——千通か一万通かと思うようなそれを、残らず。どうせ言い訳だらけで「この方がお互いのためだ」とかなんとか御託を並べているだけだろうと思いながら、それで読んだのだ。読めば訣別できるだろうと。次の仕事の誘いが来れば——来るのはわかっていた——その時には一つ残らず、そして一人残らず、捨てていけるだけの覚悟を決めようと。
メールを読んだのは、最大の、そして最悪の、失敗だった。
「ベッドの中で、合格、だと……?」
今、電話口にうなりながら、プロフェットはまんまと——きっとトムの思惑通りに——挑発されているのを自覚する。
電話の向こうの男が言った。
『それは答えになってない』
「俺には答えさ」
プロフェットはまばたきし、やっとブルーに答えた。
「仕事が片付いたから帰ってきたんだ」
「へえ?」ブルーが腕組みする。「よりにもよってどうして俺に嘘をつくかね。俺は本音を言うぜ、まだ俺は盗み癖が抜けねえってな。ミックが追いかけてくるのもわかってる、ってな」
ブルーはあまりにも正直で、プロフェットは彼の方を見ることさえできない。それが伝わったのか、情けをかけて、ブルーはそれ以上何も言ってこなかった。そのうちまた言うだろうが。それに正直、今こうして哀れまれるのも、いい気分はしない。
「ミックと働くのはどんな感じだ? あれだ、ミックに見せびらかそうとついどこかの家に押し入っちまうのは別にしてな」
ブルーが肩をすくめた。
「ざっくり言って、凄えいい感じ」
「だろうな。お前には合うだろうと思ったよ」プロフェットは間を置く。「ミックを大目に見てやれよ、な? あいつはお前が心配で——」
「あいつ、組むパートナーには元々こんなに厳しいのかよ?」
「決まったパートナーは一度もいなかった」
「あんたと同じか」
「そうだ」
「理由も同じ?」
「俺もミックも一人で働くのが好きなのさ」
「それって、背中を守りたい誰かがいるとそれが自分の弱点になるからか?」
ブルーが問いかける。真剣な問いだった。
「ああ、そういうことだな。だがミックにとって、お前はそれだけの価値があるんだ。わかってんな?」
ブルーはうなずき、皿を見下ろして、頬を紅潮させていた。この一年はブルーにとってきつい一年だった——姉を失い、殺されかかり、犯罪からも(ほとんど)足を洗い、そして、恋に落ちた。
ブルーの肩をポンと叩き、プロフェットが立ち上がって皿をキッチンへ運ぼうとしていた時、ブルーの問いがとんできた。
「いつニューオーリンズへ向かうんだ?」
「行かねえよ」
「そうか」
ブルーはあっさりうなずいたが、ぼそっと呟いた。
「そいつを俺が信じると思ってんならこの男は見た目以上の阿呆だよな」
「てめえには躾が必要みたいだな?」
「それは、俺の仕事だ」
階段の下から響いてきたミックの声に、ブルーの肩がぎくりとこわばった。
「やべえ」と呟く。
「ピンチだな?」
プロフェットが声を投げた時にはすでにブルーは立ち上がり、シャツと帽子を身につけ、プロフェットですら感心するほど見事な手際でロープのハーネスを装着し終えていた。
窓の縁で、半ば体を外に垂らしてプロフェットに言う。
「あいつを少し引きとめといてくれたら礼をするよ」
「金なら足りてる」
ブルーが、ポケットからごそごそと取り出した小さな袋をプロフェットに放ってきた。開けると、中に入っていたのは古い金の指輪で、緑の石には
聖甲虫が掘りこまれていた。
「どこからくすねてきやがった」
「そりゃ、ほら、その辺さ」
ブルーはまるで、そんなものあちこちに落ちてるじゃないか、と言いたげに手を振った。
「エジプトの発掘品だろ?」
「かもね」
「ブルー……」
「お土産グッズだってことにしとくよ、あんたがそれでいいなら」
プロフェットは指輪をジーンズのポケットにしまった。
「ミックはお前を逃がさねえぞ」
「そりゃ、最後にはね」
ブルーが、まるでタトゥのサンタクロースのように視界からさっと消え、同時に、ミックが部屋にとびこんで来た。
「お前に家の鍵を渡した記憶はねえんだけどな」
プロフェットがミックに言葉を投げつける。
「自分に都合の悪いことは忘れちまうからだろ」
そう言い返して、ミックが前へ突き進み、いつでも好きな時に窓から消えられるというのは案外いいものかもしれないな、と遅まきながらプロフェットも気付いたのだった。
■3
ミックがブルーを追って出ていってからたかだか二十時間もしない頃、プロフェットの古いシボレー・ブレイザーはルイジアナの陽光の下を走り、車内の床のどこかでは時おり軍の
認識票がチャラチャラと鳴っていた。時にはプロフェットの足元で、時には後部座席の下あたりで。たまに運転席のシートの下に引っかかって何週間も消えていたかと思うと、またいきなり現れるのだ。
十年以上になるのに、一度もアクセルやブレーキに引っかかったことはない。ジョンの葬式の朝、プロフェットは車内にこのドッグタグを放りこみ、それきり一度たりともふれていない。
別に、迷信とか何かを信じてるわけじゃないが。
車の窓を下げ、サンルーフも開け放って、のびすぎの髪を風が抜け、顔を陽光が照らす感覚を楽しんだ。音楽をガンガン鳴らしながらのろい車をどんどんかわして、その間も警察車両の気配に目を光らせる。その甲斐あって、通常二十一時間以上の道のりを十八時間足らずに縮めた。
ほとんどの警察関係者がハリケーン対策で駆り出されていたのも助かった。プロフェットもそのハリケーンのせいでここまでやって来たわけだが。嵐から逃げるのではなく、嵐に向かって、目立たないトレーラーを車の後ろに引いて。トレーラーに積まれているのは発電機二台。それに食糧。水。武器。現金。生きのびるのに充分な物資と、必要ならばトレーラーに人を乗せて避難できるだけの広さ。
ニューオーリンズの一画、フレンチ・クオーターは洪水には比較的強い。そなえるべきは、飲料水の不足と電力喪失だ。それと略奪。
州兵は、住民に市外への脱出を命じていた。強制力のある避難指示。それでも住民の半数が無視する。その居残った半数のうち、さらに半数は事態が悪化した頃に救いを求め、残りのいくらかはもう助けようがない頃に救いを求めることになる。
だが、驚くほどの数の人々が、最後まで頑として救いを求めない。彼らにとっては、ただこの地で生きるか死ぬかだ。トムの叔母もその一人。この
沼沢地の郡内に、トムの親族はほかにも暮らしているのかもしれないが、とにかくトムが案じていたのはこの叔母のことだけだった。
指先がハンドルをはじく中、ジャクソン・ブラウンの〈ドクター・マイ・アイズ〉が大音量で鳴り出した。
「ふざけてんのかてめェ」
プロフェットはそう呟きはしたが、お気に入りの曲なのでそのまま流す。自分のことなら、どことも知れぬ地へ旅立つ直前、ドクターに定期の目の診察を受けてきた。
また次の予約を入れないと、とは思うが、けっ、医者に何ができる。診察によれば彼をいずれ盲目にする遺伝性疾患はすでに兆しが出はじめているそうだし、暮らしに影響を及ぼすほどになれば、医者より早く自分が気付く。
車列のスピードが落ち、プロフェットは検問に目を留めた。検問が設置されているということは、その先はニューオーリンズだ。断続的に停まっては進む間、携帯を見るとキリアンからのメッセージが届いていた。
〈俺から逃げてるのかな?〉
プロフェットが荷作りして出ていった一時間後のテキストだった。なにしろ、ブルーに告げた言葉とは裏腹に、プロフェットとキリアンは会う予定になっていたのだ。彼の部屋で。あの、キリアンのカウチで。
「てめえからじゃねえよ。俺自身からさ」
プロフェットは口の中で呟く。検問が近づいた。〈ハリケーン〉と一言打ち返す。
〈君の部屋に?〉
クソ野郎。
〈ルイジアナだよ〉
〈ルイジアナに家族でもいるのかな〉
いい加減にしやがれ。
〈トムの家族だ。あいつの叔母の様子を見に行く〉
〈トムの家族は君には関係ないだろう。トムも君には関係ない〉
正しすぎるほど正しい。
「それでも、こっちをボロ布のごとく捨ててくれた男のために車を走らせてるってわけだよ」
プロフェットは自分にうんざりして首を振り、キリアンに返事もせず携帯をカップホルダーに放りこんだ。
戦闘服姿の州兵が、大股につかつかと車へ歩みよった。
「州外からだね」
プロフェットにそう怒鳴る。
「ああ」
「すみませんが、州外の住人を中には入れられない。引き返してくれ」
元海兵隊員だ。上腕に入った鷲と地球と蛇のタトゥがなくとも、立ち姿でプロフェットにはわかっただろう。軍の身分カードをチラつかせようかと思ったが、やめておいた。もう充分、自分にうんざりしているのだ。キリアンとの会話のせいで、特に。
かわりにFBIの偽身分証を示した。
「ほら、これで通らせてもらえるか?」
返事も待たず、古いランドローヴァーでさっさとバリケードを抜け、バックミラーには目も向けずにアクセルを吹かした。
まずはプロフェットの一点先取。対して、この世界はゼロ。
それでもどうせ、母なる自然はすぐに本性を剝き出しにするつもりなのだろうし、あっという間にこんなスコアはひっくり返される。
だが地獄から、プロフェットは這い出してきた。トムのメールを命綱に。ギリギリだった、のかもしれない。あと少しでも深くへ沈んでいたら——どんなメールでも届かないほど、何も救えないほど遠くへ。
そうするつもりだったのだ。当たり前だ。深く潜って、地上のすべてを忘れるつもりだった。今だって、まだそっち側に行ける。プロフェットが来ることなど誰も知らないのだから、このまま消えてもいい。だが良心がそれを許さない。
クソッたれな、忌々しい、良心というヤツ。ナイフで心から切り取れるものなら、そうしてやりたい。
すでにプロフェットは、今の自分は誰かの——
民間人に限らずどんな人間相手でも——そばにいられる状態じゃないと、自分を説き伏せようとした後だ(明らかに負けたわけだが)。今、その人間たちに会おうと車を走らせ、このニューオーリンズに、フレンチ・クオーターへと向かっている……トムの裕福な叔母、デラの元へ。
彼女はプロフェットのことを知っているのだろうか?
トムの過去について、プロフェットはFBI時代と保安官事務所にいた頃の公式記録くらいしか知らないが、そのわずかな分だけでも、怒りをかき立てられるには充分だった。そして、今のプロフェットの頭の状態では、怒りの対象である連中に近づくのは危険だ。
四ヵ月前、地下ファイトのリングの上で、トミーは誰と戦っていた? 家族の誰かだろう。かつて、まだそれと知らぬ頃にプロフェットは、同じ憤怒をジョンの中にも見てきた。そして今……トムが子供時代どんな目に遭ってきたか知りながら、それを見殺しにしてた相手と会うのは……。
もう一人のキャロル・モース。キャロルは息子のジョンの怒りを知りながら、踏みこんで手をさしのべようとはしなかった。
もう一人のジュディ・ドリュース。何ひとつできない、からっぽな母親。
そんなことばかり考えながら、プロフェットはデラ・ブードロウの家の前に車を乗り入れたが、エンジンは切らなかった。
古いがすみずみまで手入れされ、磨かれた家だ。金のある奴が住んでいるのは間違いない、ここはニューオーリンズでも金持ちの住む辺り。そしてプロフェットはその家の前で、シートに座ったまま、車から下りることも、家の玄関へ近づくこともできないでいる。
トムの叔母を助けにここに来る、その先のことはろくに考えていなかった。だが問題はここからだ。プロフェットは、トムの叔母を助けねば。トムの言葉が彼を救ったように。
〈俺は、悪いとは思ってない。俺は、お前を守ろうとしただけだ。
だが、お前のそばにいた方が、もっとお前を守れたのかもしれない。やっと、それがわかってきた。
ほかにもわかったことがある。遅すぎることなんて、何もない。何だろうと。〉
今はその言葉だけでやっていける。きっと。プロフェットはやっとエンジンを切り、車を下り、玄関ポーチへと歩いていった。
ここでなら楽に暮らせただろうに、トムは
沼沢地の中の地区で育った。この上等なフレンチ・クオーターではなく。そんなトムがどうして、身を守るための金には困ってなさそうなこの叔母を心配する?
玄関をノックすると、返事のかわりに胸元にショットガンを突きつけられていた。銃身を見下ろし、次にそれをかまえている女を見る。可愛い女だ。洗練されている。そして、手にしたショットガンをしのぐ危険な猛々しさを、その年齢になってもにじませていた。
(それでも、あんたはトミーを守らなかった)
今は怒りを凍りつかせ、トムの体の傷痕も、あの憤怒のことも心からしめ出す。押し殺せない分の怒りは、ハリケーンへそなえるエネルギーに向ければいい。
「そのやり方は間違ってるぞ」
「あんた、自分の胸にショットガンつきつけられてるってのに、あたしのやり方が間違ってるって言ってるのかい?」
「ああ」
「どう間違ってるって?」
「近けりゃいいってもんじゃない」
一瞬でデラからショットガンを取り上げると、プロフェットはその銃把を彼女へさし出した。
「距離を置いた方が、俺の動きに対応しやすいんだ」
デラは驚きに目を見開いたが、すぐ立ち直った。ショットガンをひったくる。
「なるほどね。じゃ、もう一度ノックしな。やり直しといこうか」
「それより、俺はあんたのハリケーンの準備を整える方に時間を使いたいね」
デラは首を傾け、彼をじろじろ眺めた。
「うちの甥の友達かい?」
「トムとは一緒に仕事をしていた」
「質問をはぐらかしたね。あたしが気がつかないとでも?」
プロフェットが眉を上げると、デラは首を振った。
「トムからあんたが来るとは聞いてないよ」
携帯をかざして、プロフェットはトムからのメールの山を見せ、本当によく知った仲だと証明しにかかった。
「俺の名前はプロフェットだ。これはトムのメールアドレス。な?」
「てっきりあの子は仕事で忙しくしてるもんだと思ってたら、あんたとメールする暇はあったみたいだね」
デラは冷ややかな声で言った。
「ようこそ、プロフェット。トレーラーなんか何のためにひっぱってきた? うちに引越すつもりかい?」
「物資用だ。あんたがここから避難するなら、別だが?」
「避難なんかしたこともない、これからも御免だね。それにうちにも備えはあるよ。初めてのハリケーンってわけじゃなし」
「俺の物資にはかなわないさ」
デラが、通れと言うように横へのき、その瞬間、もう引き返せないと悟ったわずかな躊躇の後、プロフェットは足を踏み出した。
家の中も、外と同じく、小洒落ていた。プロフェットの頭を、トムの住んでいたあのアパート——EE社の本部近くの古いヴィクトリア様式の家の半分がよぎり、あの殺風景さは、トムがこの家に焦がれる反動なのかとふと思う。
「嵐の中、誰か一緒にいてくれる相手はいるのか?」
聞きながら、プロフェットは携帯型酸素濃縮器をもっと奥へ運びこんだ。
「ロジャーとデイヴに三階を貸してるからね。あの二人とここで十年一緒に住んでるけど、嵐の時は両方とも役立たず」
「聞こえてるよ」
その声より早く、プロフェットは階段を下りてくる男に気づいていた。デラがうんざり顔になる。
「プロフェット、彼がロジャー。プロフェットはトムの友人でね——物資を持ってきてくれたんだ、どんなにひどい嵐が来てもあたしたちを守ってくれる」
「そうなのかね?」とロジャーがたずねた。
「全力は尽くす」
答えながら、プロフェットはロジャーと握手を交わした。
ロジャーは七十歳手前というところだろう。こちらはきっとデイヴだろうが、男がもう一人すぐ後ろにいた。二人とも今でもハンサムだ。デイヴの方が背が高く細身で、ロジャーは声がでかい。他人の目の前でも、堂々と互いの手を握っている点がプロフェットは気に入った。
二人の手を一瞥したプロフェットに気付いて、ロジャーが言った。
「三十年、こいつと一緒なのさ」
プロフェットは九年間、ジョンを知っていた——最初から最後まで親友として、うち四年間は恋人として。戦友、そして秘密を共有する相手。時にプロフェットはジョンを愛し、時にその正反対だった。長いつき合いというのは、きっとどこもそんなもんだろう。
「君はそれほど長く一人の相手と一緒にいるのがどんな感じなのか、聞かないんだね」ロジャーが指摘した。「それはつまり、君が現在か過去にそういうつき合いを経験し、答えなど知っているか、もしくは生まれつきそうした関係に向いているかだ」
「こいつの哲学めかした長話は勘弁してやってくれ——当人はよかれと思って言ってるつもりが、この始末でね」デイヴがわざとらしく声をひそめた。「もう酔っ払ってるし」
「ハリケーンが怖いんだよ」とロジャーが応じる。
「我々には彼がついている」デイヴがプロフェットを指した。「何かを怖がるような男に見えるか?」
「うむ、どうだね? いや、答えはいらない」ロジャーが片手を上げた。「僕はもっとワインがほしいよ」
そりゃあいい、ハリケーンを乗りきる名案だ——前後不覚に酔っ払う。プロフェットに言わせれば、死へのいい近道。
ロジャーが話を続ける。
「君は、じゃあトムの同僚か。それで、可愛い彼女か奥さんは、君がこんなところまで来ても嫌な顔をしないのかね?」
トムの顔が目の前にチラついたせいで、笑い返すのに思いのほか苦労した。だがすぐ「可愛い」という文脈で連想されて怒り狂うトムを思い浮かべ、心が軽くなる。
「今のところひとり身でね」
二人とも、それ以上聞きはしなかった。プロフェットが
異性愛者だと思っている。大体の場合、そう思われる。プロフェットはそれを気に入っていた——自分のことを悟られるのは好きではない、ただそれだけの理由から。
それに、他人を不意打ちするのも大好きだ。
デイヴが溜息まじりに言った。
「質問攻めにする前に彼に仕事をさせようじゃないか、僕らを救ってもらえるように」
ロジャーが、プロフェットに向けてワイングラスをかかげてみせた。
デラに、二階の寝室を使えと言われ、プロフェットは室内をざっとあらためた。ここで眠るつもりはなく、せいぜい行動の基点にする程度だろうが、デラにそうは言わなかった。水の上を逃げ出すような羽目になった場合にそなえて二階に持ちこんだ折りたたみのゴムボート、エンジン、オールのことも黙っていた。
それから、仕事にとりかかった。一日中iPodでクラシック・ロックをガンガン鳴らし、話しかけてこようとするデラやロジャーやデイヴを聞こえていないふりでかわした。思っていた通り、まだだ——まだ、プロフェットは戻れていない。戦場から。こんな普通の世界には。いずれ慣れるだろうが、ハリケーンが来るほうが早い。プロフェットの遠くをさまよう目つきに気づいたのかどうか、三人ともそれほどしつこく話しかけようとはしなかった。
彼とではないが、
彼の話なら三人で少ししていた。プロフェットには聞こえていないと思って。デラはトムのことが心配だと呟く。それ以外、三人ともプロフェットの邪魔はしなかった。全体に、彼らは協力的で、おとなしかった。
プロフェットの満足がいくほど準備をきっちり整えるまで、一日の残りと、さらに一晩かかった。まず発電機を載せる土台を築き、セメントが固まる間にほかの作業を片づけていく。
食糧や物資はすべて屋内へ運びこむ。プロフェットの車は家の裏手に、木や電話線から充分離して、いざとなれば避難に使える場所に停めた。ラジオ、電池、もしもの時のための懐中電灯、そして水。すべて準備万端。
「近所の連中は?」
作業の途中で、プロフェットはそうたずねた。デラが小馬鹿にした顔をする。
「ほとんど避難してるよ。ルールに従う連中ばかりでね」
ルールは大事だ、とはとても真顔で言えそうになく、プロフェットはただ黙っていた。
やっと、発電機を家の配電盤に接続した。幸いにも配電盤は家ほど古くはない——そうだったら役に立たないところだった。それでもプロフェットは過負荷にならないよう、重要なものを中心に配線をつないだ。
その頃になると雨も激しさを増し、風も急激に強まり、予報通りのハリケーンの接近を告げる。0600時には、プロフェットはキッチンテーブルに向かって座り、何枚もの地図とノートパソコンに囲まれて、もしもの時のための避難計画を複数練っていた。カーナビは使えまい。プロフェットの車には——EE社のおかげさまで——強力かつ高精度のGPSが取り付けられているが、非常時には何ひとつまともに動くと期待しない方がいい。さらに、デラの服用薬に目を通し、充分足りているのを確認した上、いざとなれば追加も手配できるよう何本か電話をかけておいた。手を抜けない問題だ。
朝がのろのろとやってくる。デラがふらっとキッチンへ入ってた。彼女が、プロフェットが作り置きしておいたポット一杯のコーヒーを自分のカップに注いでいる間、プロフェットは目ひたすらの前の作業に没頭していた。
顔を上げもしない彼のそばに、デラがサンドイッチとレモネードの入ったグラスを置いた。作業中にエナジーバーをかじってソーダを飲んでいたが、たしかに最高の朝食ではない。
「忙しくてな」と言い訳する。
「本当、助かるよ。でもあんたを空きっ腹のまま働かせとくわけにはね」
トムが殴られるのは放っておいたくせに?
そう聞き返してやりたかったが、いかにプロフェットでもそこまで無神経ではない。口を出すかわりに口につめこむサンドイッチがある今は。
デラが慎重にたずねてくる。
「トムと、あんたは……?」
「仕事で組んだことがある」
プロフェットの返せる、最大限の真実。
デラはテーブルをはさんだ向かいに座り、まるでプロフェットの心を読みとって挑むかのように、肩をいからせた。
「それなら、今は?」
プロフェットは、言い返す声から怒りを消しきれなかった。
「俺は、あいつの足の裏を見た」
あれについて口にしたのも初めてなら、まともに考えたのも初めてだ。心のどこかに押しこめるかわりに、まっすぐ向き合おうとしたのは。
トムの肉体の傷のほとんどはタトゥに隠されていたが、足だけは……足の裏に残る、煙草を押しつけられた痕は、隠しようがなかった。
プロフェットにその火傷を見られたのを、トムもわかっていた筈だ。だがトムは何も言わなかったし、プロフェットもまた、わかりきったことをわざわざ問いただしはしなかった。
「あたしも、見たよ」
デラはそっと憤怒をはらんだ静かな口調で、応じた。
「あたしが、あの子を救急病院に運びこんだ。間に合わなくて、傷が残ってしまったけれどね」
プロフェットの声は、抑えきれない濃い嘲笑をにじませていた。
「ああ、そうだな。傷が残っちゃまずいよな」
怒りを殺すのにはもう疲れた。あれこれ隠そうとしたのが、いつでもトラブルの始まりだ。
デラがまばたきした。
「よくお聞き、坊や——自分が何もかもご存知なんて面はするもんじゃないよ」
「充分には知ってるさ」
デラはふうっと息をつく。何か、ケイジャンの悪態だろう言葉を呟いてから、プロフェットへ言った。
「トムはうちに来ちゃ、また戻っていった。少年時代、ずっとそうだった。あたしはあの子の父親の妹でね、兄とはあまり仲良くないが。兄さんには、あたしは
沼沢地に住むにはお高くとまりすぎてるって言われてたよ。そうかもしれないし、あたしは暴力が嫌いなだけなのかもしれないけどね。トムの母親もあそこにゃなじめなかった」
プロフェットの視線の先で、デラの手が華奢なティカップをあやういほど握りしめていた。
「あんたは、どうしてあたしがトムをここに引き留めておかなかったのかって思ってるだろうね」
「それか児童保護サービスや役所に通報するとかな」
じっと、デラがプロフェットを見つめる、その両目に怒りがはじけたかと思うと、刺々しい声で吐き捨てた。
「プロフェット、あんたに説明してやる義理は何もないけどね、でもひとつ言っといてやろう。あたしは、独身の女だ。トムの親族には違いないけど、あの頃はひとり身の女じゃ
家族とは認められなかった。まともな家族とはね。そんな時代さ。間違えんじゃないよ、あたしはトムにここにいてほしかったんだ。うちのドアは、いつもあの子のために開いてた」
デラがテーブルを指ではじいた。
「あの子の父親だって、トムがどこにいようが気にしちゃいなかった。あそこにくり返し戻っていったのは、トム本人だ。まるで、ここに来ちゃ、充分なだけ回復して、また嵐の中につっこんでいくみたいにね」
プロフェットは傷だらけのテーブルを見下ろすと、いつの間にか両拳を握りしめていた自分に気付いた。
「ああ、そいつはいかにもトミーらしい話さ」
「あの子がトミーって呼ばれてんのは初めて聞いたけど、いいね」デラの口調がやわらいだ。「どうしてトムが、まるで罰みたいに、あんなことに耐えようとしてたのか、あたしにはわからない。そんな必要はないって言ってやったし、あの子もちゃんとわかってくれた筈なのに」
「頭で
理解はしている、そういうことだ、デラ。同じじゃない」
デラがのばしてきた手で拳を包まれて、プロフェットはやっと指の力を抜いた。
「そうか、あんたたち二人はかなり似た者同士なんだね」
「あんたもブードゥーごっこのお仲間かよ?」
「違うよ、ただあんたが自分の怒りをそれほどうまく隠せてないだけ」
「ああ、あいつに関しちゃな」プロフェットは一息置く。「ブードゥーかどうかはともかく、あんたは俺のことを知ってるな? EE社で、何があったかも」
デラはプロフェットの手から自分の手を引くと、サンドイッチを指した。プロフェットがサンドイッチを一口かじると、やっと質問に答える。
「ああ。トムから電話があったよ。一生で一番つらい決断をしたと思う、と言ってた。その決断が正しいと感じてるのか、とたずねると、あの子は、苦しいと言った。苦しいってことは、正しい筈だと」
デラはぎゅっと唇を左右に引く。
「だから、間違った決断だって苦しく感じられるもんだ、と言ってやったよ。そろそろその違いを覚える頃合いだってね」
「俺のほうも、そう簡単な男じゃないもんでな」
「みたいだねえ」ニッと笑って、デラがコーヒーに口をつけた。「あんたの家族は?」
「母親だけだ。あまり会わない」
「会いたくないから、それとも仕事で忙しいから?」
「仕事のせいにしてるがな」話を変えた。「トムは、あんたのことを心配してたぞ」
「あの子はいつもあたしを心配するのさ。一人でいすぎるってね。うちの下宿人たちがいい友達になってくれたから、それで充分なのに」
ここでロジャーが、芝居がかった囁きをプロフェットに耳打ちした(プロフェットはロジャーの接近に最初から気付いていたが)。
「デラには誰かがついてないと。でも頑固すぎてね、いつまでも結婚しないままで——」ここでデラが、ロジャーに向けて指を振る。「その上、コウモリみたいにやたら耳がいいときた」
「あたしは頑固じゃないよ。ただコナーがね、あんまりいい相手じゃないから」
「コナーはいい男だろ」ロジャーが言い返す。「いい男ってのはいつだろうといい相手じゃないか」
「もう三十年もこんなつき合いが続いてんだよ。その間、そういう話にならなかったってことはさ……」
デラは手を振って、語尾を濁した。
プロフェットがたずねる。
「コナーは今、どこだ?」
「たまに連絡があるけど」デラが肩をすくめる。「腰の落ちつかない人でね。下手に期待すると、こっちが傷つく。だからあたしもあの人のことは放っとくってわけ」
デラの表情はつらそうだった。それだけ長い年月をすぎてまだ彼女がその男を愛しているのは明らかで、プロフェットの胸が少し苦しくなる。
二人のそばを離れ、プロフェットは裏の屋根つきのポーチへ出ていった。雨も風も吹きこんでくるが、かまわずに携帯を手に座る。画面の番号を凝視しながらも、通話のボタンを押すのを拒んで。
月ごとに、怖さが増す。母が何と言ってくるかはわかっているのに。薬への不満、病院への文句。だがその前に、プロフェットを探して男がまた電話してきたと言ってくるに違いない。
プロフェットは、母の電話番号を変えるような手間はかけなかった。連中が母をわずらわせているということは、まだプロフェットを見つけられていないということだ。
それに、母の通話やネット接続はあちこちの中継点を経由するよう設定してあるので、母の居場所をつきとめられる心配もない。母親を人質にされるようなことは避けたい。母を預かってもらっている施設も、医者も、同じように充分に通信を保護されていた。
ついに、プロフェットは通話ボタンを押し、呼出音が鳴る間、息をつめた。
母は『遅いじゃないか』と言って出た。
「四分だけだろ」
『何分だろうが遅いもんは遅い』
プロフェットは編み椅子に頭をもたせかけ、何も言わなかった。顔や首を汗がつたい落ちる——ここの湿気はひどいもんだし、この湿気に体を慣らすには、ひたすら慣れるしかない。
『なんだい、今度はあたしと口もききたくないってのかい?』
「そんなことは言ってない」
『あいつからまた電話あったよ。あんたはどこにいるって』
プロフェットの胃がぐっと締まる。
「それで、なんて答えた?」
『ここにゃいないって。どこにいるか知らないって。それからクソッたれって言ってやったよ』
勝ち誇った声だった。
「それでいい。悪いな、母さん」
はあっと、ひどく苛ついた溜息が聞こえた。
『ここは嫌なんだよ』
毎回、同じことを言う。結局プロフェットもまた、いつもと同じように聞き返す。
「どうしてだ?」
『薬をちゃんとくれないんだよ』
少なくとも母は規定量の薬はきっちり投与されている。毎週医者と話して確認済みだ。
「必要な分はもらってるだろ」
『いつもじゃない。忘れたりするんだよ。お前は一度も忘れたりしなかったのに』
そう、忘れたことなどなかった。そう言われて、気分は良くなるどころかもっと悪くなる。
「じゃあ、俺から言っておくよ、それでいいな? 俺がどうにかする」
いつも、何だろうと、どうにかしてきたように。
■4
ハリケーンの辺縁の雨が、まるでパンチングバッグを打つ拳のように濁った音を立てて家中に叩きつけてきた。混沌がニューオーリンズへゆっくり迫ってくるにつれ、世界は停止していく。
BGMのように、ウェザーチャンネルが同じ情報をくり返している。何時間か前に寝室へ引き上げたデラがつけっ放しにしていった。ロジャーとデイヴももう上へ行った。二人はプロフェットにつき合って徹夜の番をすると申し出たのだが、プロフェットがさっさと眠るよう指示したのだった。
とにかく、これだけ家の準備を固めても、この地を嵐の怪物が呑みこんだが最後、何が起きるかわからない。最悪の事態が起きるのは、きっと明け方。いつもそうだ。電話線は切れ、道は水没し、おまけに毎度のごとく嵐を追い回す命知らずの馬鹿ども、考えなしの連中。奴らに説教するのは、ブルー相手に「あちこち登るな」というようなものだ。プロフェットはブルー相手にそんな無駄なことはしたこともない。
嵐が家を包み、窓を雨水が洗い、わずかな外の景色をかき消す。
手首が痛んだ。この痛みが止まる時、嵐が到着する。何故なら、気圧が最悪になった瞬間、すべての痛みが消えるからだ。
そこにあるのは、ただ圧倒的な破滅——それがプロフェットの人生の縮図だ。
落ちつきなく、プロフェットはアーミーグリーンのカーゴパンツのポケットに両手をつっこんで裸足で一階をうろつき回った。本でも読むかと思ったが、こんな時の定番の本でさえ今の頭には入らない。
家が揺れ、空を稲妻が照らし、まさにスーダンに引き戻されたよう。少しの間、プロフェットはリビングで凍りついていた。
(いつ視力を失うかなんて、もう大した話じゃない。どうせその頃には、仕事なんてできないほどボロボロになってるだろうさ……)
次の閃光がよぎり、プロフェットはまたたく……こんなふうにして始まるのかもしれない、と思いながら。父親は、目のことについて一度も話そうとしなかった。祖父も。二人とも、最悪の事態を迎える前に自殺した。
プロフェットも同じ道を選ぶと思われているのだろうか? ドリュース家の男たちは代々その伝統に従ってきた。ああ、プロフェットからしてみても、そう悪くない選択に思える。
トムも、きっとその方が楽になる。
だがそれを思うだけで切りつけられるようで、痛みを否定もできずに、プロフェットはただあの男への思いを丸ごと否定した。そうやって心を固め、やっとこの家へ来た。任務のひとつであるかのように見なし、それだけに集中して。
心の平穏など、どこにあるかもわからぬものをこの旅で求めているわけじゃない。そんな奇跡は、いい加減、もうあきらめた方がいいのだろう。だがプロフェットの奥底にある何かがそれを許さず、血の匂いを嗅ぎつけたサメのごとく、飢えにつき動かされて求めつづけている。
「サメってのは泳ぎつづけてないとダメなんだとさ。眠ってる時も、ずっと。知ってたか?」
ジョンが、プロフェットにそう言った。
「知るか」
ぼそっと呟き、プロフェットは顔を上げまいと拒んだ。彼につきまとう、しゃべって歩き回る、過去の亡霊など見てやるものか。サディークの罠へつっこんでからこっち、忙しすぎてフラッシュバックとも縁がなかった。
(現実が地獄なら、わざわざフラッシュバックを見る必要もないってだけだろ?)
「そうさ、お前はまったく心おだやかな男さ。ハルみてえにな?」とジョンが続ける。
「てめえの皮肉を聞いてる暇はねえ」
プロフェットは目の前の壁に視線を据え、雨を乱す風につれて揺らぐ影のパターンを見つめた。
だが、ハルについてのジョンの言葉は正しい——ハルは一見、おだやかな男に見えた。ジョンですらその印象に惑わされていたようだったし、プロフェットも余計なことは何も言わずにいた。
「本気で、俺が何も気がついてねえと思ってたのかよ?」
今、ジョンからそう問いかけられ、それでもプロフェットはかつての親友で恋人の幽霊のほうを見るなと己を制する。
真実は、ハルはまさにこの地上でも最高に怒れる男だった。FBIやCIAからちやほやされるようになる前からそんな男だったのかどうか、プロフェットの知るところではないが。だがハル・ジョーンズという男の存在は、FBI、CIA、国土安全保障省がそろって仲良く手を組んだ数少ないプロジェクトのひとつであった。核物理学の専門家で、核爆弾のトリガーの製造法を知る彼は、皆がコントロールに必死の
道具、そしてリスクであった。
CIAがやらかすまでは。あれで、すべてが駄目になった。FBIにも国土安全保障省にもまだ、あの大失態があってなお、プロフェットがCIAへの所属を選んだことに納得していない連中がいる。プロフェットは言い訳もできなかった。あれしか選択肢がなかったのだとは。彼の仲間——友人となった男たちをまとめて救うために。
目下のところ、その連中は皆、世界の至るところに散らばってしまっているが。最後にプロフェットがチェックした時、つまり数時間前には。そして全員、プロフェットにムカついている。
要するに、いつも通り。まったくもって心安らぐ。それでもフラッシュバックはやってくる。プロフェットは眠ってもいないのに。いや、起きている時のフラッシュバックのほうがマシか? 起きていても自分を取り戻せないなら、眠りの間は絶望的だろう。
両手を前に出す。まるで、部屋にある筈のリアルで揺るがぬものをつかめれば——デラの半円形のソファとか、ヴィクトリア朝の家具とか——現実に戻れて、目の前にどこまでも果てしなく広がっている砂漠が消え失せるのではないかというように。
「四時間だ」
ジョンが声をかけてきた。プロフェットの足の下で、地面は揺れているようで、これは嵐のせいで車の揺れではないといくら言い聞かせても無駄だった。
恐る恐る顔を向けると、すぐ隣にハルが座って、顔を引きつらせ、この旅にもうくたびれ果てていた。
四時間で通過は悪くない——いい調子で走っていたのだ、あの時までは。1543時までは。何もかもがぶっ壊れるまでは。
「俺はこんなことしたくねえんだよ」プロフェットはハルにそう言う。「もうやらねえ」
ハルの目はただプロフェットを通りすぎ、その向こうにあるものを見つめていた。銃声。上り斜面にさしかかる。
ジョンがただ銃を乱射する。プロフェットも位置につき、援護したが、車のラジエーターが吹き飛ぶ。残りのSEALsのチームは——彼らの援護は——もういない。
「あいつらを見失っちまった」
ジョンが言う。車で引き返すのは不可能。無線での連絡は危険すぎる。
あれを最後に、隊の連中が全員そろったことは一度もない。
「仕組まれてたんだ」
ジョンが言った。
ハルがプロフェットの銃をむしり取ろうとしたが、プロフェットは彼を押し戻し、座席にハルを押さえつけた。
「下らねえことすんじゃねえ!」
「罠だったんだろ? なのに俺を殺すのか!」
ハルがわめく。死を受け入れたくないのだ、まだ。一体、己の死を歓迎する者がいるだろうか?
誰かがプロフェットの家系図をじっくり見たならば、いる、と答えてくるかもしれない。
--続きは本編で--