恋のしっぽをつかまえて

    L・B・グレッグ



■1 短くすませろ

  ジャン・リュック・パピノー彫刻作品展示会
  ニューヨーク州ニューヨーク市
  ピーター・シュトルマンギャラリー
  四月二十八日 金曜日 一七:〇〇~二〇:〇〇


 オープニングパーティは盛況で、僕はご機嫌だった。──シェプ・マクナマラが、新しい髪形と見事な日焼けの肌を見せびらかしながら、ギャラリーにぶらぶら入ってくるまでは。
 その瞬間、僕は、マティーニに浮いていたオリーブを吸いこんでいた。グラスをあやうく取り落としかける。飲み物を両手につかんでうろついているシェプの姿を凝視した。二杯とも自分用に違いない。まずタダ酒を両手でひっつかむところがあいつらしい。
 ゴホゴホと咳き込みながら、オリーブの除去を試みたが、肺がはち切れそうだった。
 いつの間にかシェプの姿も消えている。
 あいつ、一体ここに何をしに来た?
 僕はまた咳き込んだ。さらに、もっと強く。
「手を貸そうか、シーザー?」
 半裸のバーテンダー、ブランドンがかけてきた声に首を振り、よれよれの紙ナプキンで口を押さえ、死に物狂いで咳をくり返した。鼻水が出て、涙で目の前もぼやける。オリーブはびくともしない。優雅に吐き出そうとしたが、オリーブの実はつっかえたか、根付きでもしたように動かなかった。
「両腕をお上げなさいな」
 示唆したのは、マロリー・アルブライトだ。今夜、何としても印象づけなければならない相手だが、当の彼女は真紅の唇を心配そうに引きしめて、高級な眼鏡ごしにこっちを見つめていた。
「ほら、横隔膜が上がるでしょ」
 彼女は胸を張ると、ほっそりとした右手を肋骨の上にのせ、わざわざご自分の横隔膜を上げてみせてくれた。黒髪が揺れ、顎の下でするどくはねる。
 いつもならジョークのひとつも返せただろう。だが今は、喘ぎ、ぜいぜいと喉を鳴らして、僕は握った拳でむなしく胸を叩いた。実はまったく動かない。
 テーブルをとびこえてきたブランドンに、いきなり平手で背中をどやしつけられた。体がマロリーの方へつんのめり、僕の口からぽんと飛び出したオリーブは、彼女のグラスへ一直線にとびこんでいった。
 オリーブがぽちゃんとしぶきをあげても、むき出しの腕にジンがとび散っても、マロリーは眉一つ動かさなかった。彼女が平然と手で合図すると、ペーパーナプキンを山と抱えたウェイターが駆けつける。さらに、ありがたくも新しいマティーニを僕とマロリーに手渡してくれたが、ウェイターの左手の銀のトレイは、ニューヨーク市長ブルームバーグの胸像の方へと危険に傾いていた。
 僕のオリーブに一顧だにくれることなく、マロリーはそのグラスをトレイに戻した。眼鏡ごしに、じっとこっちを見る。
「大丈夫? 大惨事は回避できた?」
「ええ。本当に失礼しました」
 僕は慌ただしく口元をカクテルナプキンで拭うと、新品のジャケットの襟元も拭った。こっそりとあたりをうかがって、シェプの姿を人ごみに探す。それとヤツのいまいましいいとこのポピーを。
 ポピーは約束した──いや誓ったのだ。僕のイベントには、絶対にシェプを呼ばないと!
 カフスをぴんと引っぱる。マティーニをあおり、神経と喉を落ちつかせようとした。現在地からはシェプやポピーの姿は確認できない。足がむずむずした。シェプのそばにはいたくないし、ポピーを叩き殺しに行きたい。
 マロリーは、まだこちらを観察している。
「呼吸はできる?」
 礼儀正しくうなずき返し、僕はかすれ声を押し出した。
「大丈夫です、ご心配ありがとう、マロリー」慎重に咳払いをする。「オリーブが間違ったところにつっかえたみたいで」
 まるで僕の人生のように。
 二十八歳にして人生行き止まり、稼ぎは雀の涙。こんなギャラリーではなくデパートの男性服売り場か、最悪、父さんや兄貴と一緒にレストランで働いた方が、ずっと稼げる筈だ。アート業界は、下っ端は食っていけない仕組みになっている。
 マロリーがじっと考えこんだ。
「前に、私の知り合いが桃の種を喉につまらせちゃってね……スミス大学の子だった。食道についた傷からバクテリアに感染したのよ。髄膜炎を発症して、死ぬところだった。時には危険なものよ、喉に擦過傷なんか作らなかったわね?」
 擦過傷?
「いいえ、ちょっときまりが悪いだけで。バクテリアなんかはジンが退治してくれるでしょ、オリーブは柔らかいし。ご心配なく、マロリー」
「気にすることないわ。誰だって変なものを口に入れることがあるもの。喉に詰まらないようにゆっくりやればいいのよ」
 マティーニを傾けながら、マロリーはコメディアンのハワード・スターンの胸像へ向かって、ユーモアたっぷりに微笑みかけた。
 完全に返事に詰まった僕を、ニヤついたブランドンが小声で茶化した。
「シーザーは、しゃぶる練習はたっぷりしてるよな」
 ブランドンに向けて『クビにされたいか』という視線を向けると、ウインクが返ってきたものの、彼はおとなしく口をつぐんだ。見事な大胸筋をオイルか何かでてらてら光らせているが、ギャラリーの明るい照明の下ではさすがのブランドンも年齢の衰えが明らかだった。白髪は染めても目尻のしわは隠せない。
 まあこいつは皺があったって、男らしさが二割増しになるだけだが。「ブランドン、バーテンの仕事に戻ってろよ」
 マロリーは、ブランドンの言葉を聞こえなかったかのように流した。
「素敵なオープニングね、シーザー。素晴らしい仕事ぶりだわ。あのジャンの……色々な……あれを、ここまでまとめあげて」
 その口ぶりは、『色々なゴミ』という言葉を、育ちのよさから思いとどまったように聞こえた。
「これなら、買い手もつくことでしょうね。たっぷりのジンも助けになるわ」
「ええ、ジンならじゃぶじゃぶと。願わくば、これで財布のヒモがゆるんでくれれば」
 どうしても、客たちに作品を売りつけなければならないのだ。ギャラリーの上司のためではない。像の作者であるジャン・リュックのためでもない。僕自身のためだ。僕の人生のため。誇りはしないが、もっといい職のためなら、上司やジャン・リュックにだっていくらでも便乗してやる。
 今夜こそ、まさにその夜。
 ギャラリーは、酔いの回ったアート愛好家であふれかえっていた。まさに計画通り。控えめだが気持ちを盛り上げる音楽、素晴らしい料理、ありあまる酒。それに加えて、上半身裸のウェイターたち。男女問わず客の目を楽しませようと、ポピーと僕で計画したのだ。
 そして僕の最終目的は、未来の上司となる女性の賞賛を勝ち取ることだった──アルブライトギャラリーの、マロリー・アルブライト。
 目の前のご当人はまだ何もご存知ないが、彼女のアシスタントは月曜日に辞表を出すのだ。どうして知っているかって? 二週間前、そのステフ当人が──彼女が仕切った立食イベントで──僕を物陰に引っぱって行って『ヘマをやらかさなきゃ実入りのいい仕事に就けるよ』と耳打ちしたからだ。
 今夜、僕の計画はうまく進んでいた筈だった。
 あのオリーブまでは。
 消えたシェプを探して、僕は周囲を見回す。時が巻き戻せるものなら、オリーブであいつの頭を狙ってやるものを。
 マロリーは新しいグラスを上品に傾け、ふちに口紅の跡を赤く残した。きっちりと、グラスの脚だけをつまむように持っている。
「これじゃコストが相当かかったでしょう? 予算内におさまったのかしら?」
「何とか、ツテをたよって」
 曖昧にごまかしたが、本当だ。家族も友達も、二度とこっちの顔など見たくないかもしれない。
「素晴らしいわ。ピーターはあなたの実力をわかってないわね」
「ピーターは親切な上司ですよ」ささいな嘘。
「そう、彼が親切でないと思った時には私に知らせてね。あの人の目をさまさせてあげるから」
 マロリーは僕の手に軽く手を重ねると、黒いイブニングドレスの後ろ姿は優雅に立ち去った。
 僕はまた、ギャラリーをきょろきょろと見回した。ブランドンがバーカウンターの後ろの定位置に戻って、ボトルを華麗に投げながらカクテルをこしらえていた。
「ブランドン、ポピーを見たら、話があると伝えてくれ。どんな用事があっても、すぐ僕のところに来いと」
 ブランドンはオリーブをピックで突き刺し、宙に放った。見事にカクテルグラスで受け止める。「ふうん? ポピーになんか伝言は?」
「今のが伝言なんだけど」
「あー。そうか」
 僕はキッチンに向かった。
 通路から五歩も行かないうちに、背中をバシッと叩かれて、前によろめく。
「わっ、すみません!」
 グラスを握りしめ、客の誰かにのしかかって体勢を立て直しながら、僕は満面の笑みを顔にはりつけた。部屋のどこかからカシャカシャッとシャッターの音。
 目の前では、芸術家のジャン・リュック・パピノー──この夜の主役が立ち、酔っ払ってふらついていた。どこかでシャツを脱ぎ捨ててきたらしいが、裸の上半身に、蝶ネクタイだけが残っている。乳首のピアスが、ギャラリーの照明にギラッと光った。
 四十歳にしてはいいカラダだ。だが、一体何だってそんな格好を?
 ジャン・リュックの笑みはしまりがなく、目の焦点は合ってない。そろそろジンを節約するべき頃合いかもしれない。
「シーザー・ロマノ、何てすばらしい夜だあ!」とジャン・リュックが嬉しそうに叫ぶ。
「ええ、おめでとう。評論家を少なくとも六人は見かけましたよ」さて、この芸術家をどうしたものか。「あなたの名前も売れそうですね」
「はっ、名前なんざどうでもいいんだよ。モノだよ、モノが売れりゃカネが入るだろ、なっ?」
「ええと、何ですって?」
 僕はかすれた喉で言った。ジャン・リュックは酔っぱらっている。その筈だ。
「ほらほら──ゲンナマってやつさ。カネがいるんだよ」
 ジャン・リュックが、世界共通の金を数える仕種で、親指を人さし指の先で何度もすべらせてみせた。金によだれを垂らした芸術家ほど目にうるわしいものはない。まったく。
 それから彼はじろじろと僕を眺めた。
「喉をどうかしたか? カエルみたいな声だぞ」
「夜は冷えるから……」
「何か喉に詰まってんじゃねえのか」ジャン・リュックは自分のグラスを僕につき出した。「酒で潤せよ」
「ジャン、しゃんとして下さい。お客様の相手をして、ご機嫌を取るんです。うまくいけば皆があなたの作品を買って、ハンプトンのお屋敷の玄関や広間に飾ってくれるかもしれませんよ」言ってる自分でもさっぱりわからない。僕は下町のブルックリン生まれで、セレブご用達のハンプトンなど無縁だ。「あなたはムーブメントを作らなきゃ! 視野を大きく持つんです、売り上げだけではなく──」
「家賃が溜まってりゃ視野が小さくもなるさ、坊や。しかも別れた妻が、子供の歯を矯正するから金をよこせと言ってきてなあ」
 まあ、金に困る気持ちはよくわかる。
 返す言葉を見つけられないでいるうちに、僕の前妻ならぬ元彼が、またドアの向こうを通りかかった。しかも今回のシェプは──半裸のウェイターと仲良く連れ立ってやがった。
 シェプの奴は、パーティ用にすっかりめかしこんでいた。黒のデニムに、鮮やかなサファイアブルーのカシミアのVネック。目立つシルバーバックルのベルトに黒いカウボーイブーツを合わせた、カウボーイスタイルだ。
 カウボーイが笑わせる。『乗っかる』より『乗られる』方が好きなくせに。
 シェプのプラチナブロンドは、頭上の照明を受けてほとんど白く輝いていた。相変わらず、グラスを二つ、両手に握りしめている。
 彼がドア口の向こうから、ちらっとこちらを見た。カラメル色の目がジャン・リュックをとらえ、それから、僕を見た。
 あいつを追い払わないと!
「申し訳ないですが失礼します、ケータリング業者ケーターに用があって」
「お、ポピーか? すげえイイ女だよなありゃ! マジで」
 ジャン・リュックが胸の高さのあたりで、まるで両手でノブを回すような──女性の胸にあるノブを──下品な仕種をした。写真を撮られていないかと、僕は周囲を盗み見る。ジャン・リュックの手つきはあけすけで、こんなところを撮られたら明日の記事がえらいことだ。
 ジャン・リュックは、まるで共犯者のような目つきでウインクをよこした。「あのオッパイ、俺のブロンズで作りたいねえ。涎が出そうなお宝だ。完璧な調和。お前さんにあっちのシュミもあるとは知らなかったね」
「あっちの趣味でもこっちの趣味でも関係ないでしょう」僕は固い声で言い返した。「ではポピーとカナッペについて打ち合わせがありますので失礼。たのむから勘弁して下さいよ、彼女は友達なんです。あなたはシャツを見つけて、服を着て、愛想を振りまいて! その格好じゃまるでウェイターですよ。来てくれた皆に、いい印象を与えて下さい」
「これでも印象悪いかね?」
 ジャン・リュックは自信満々に筋肉を隆起させてみせた。両乳首にはバカでかいリングピアス。
 確かに、印象深かった。その点、異論はない。
 からからと笑うと、ジャン・リュックの手入れされてないもじゃもじゃの髪が、顔の周囲で気ままに揺れた。おまけに彼は、グラスのジンのほとんどを僕のとっておきの靴にぼたぼたとこぼす。
「わかったわかった、ロマノ。でも話が終わったら、お前のカワイイお友達をこっちによこしておくれよ」
 ウインクしてきた。
「考えときます」
 我がカワイイお友達、か。彼女について思いをはせた──シェプのいとこの、ポピーについて。
 僕にとってポピーは、親友どころか、妹と同じと言っていい存在だ。シェプと僕との恋人関係が最後の鉄槌で崩壊した後、ポピーは僕に、もう絶対にあいつの顔を見ないですむようにしてあげる!と誓ってくれた。
 そして、僕も彼女に約束した。グリニッジの上流階級のご令嬢、その気になれば最高に金持ちの旦那を射止められるポピー・マクナマラ──そんなお嬢様ですら、ニューヨークの町なら特別扱いされずに溶けこめると。彼女はケータリングの仕事をしたかったが、金持ちの両親から大反対されていたのだ。僕は彼女が起業する力になると誓った。
 それから、続く数年、ポピーは実にうまくやっていた。それどころか今じゃ僕の何倍も稼いでのけている。見事なルックスと、引けを取らない料理の腕のおかげだ。
 ゲストをよけながら、僕はぐいぐいと前に進んだ。客たちは、上半身裸のウェイターたちの盆から贅沢な軽食を次々つまんでは、ジンをがぶ飲みし、げらげら笑っている。芸術について語り合っている様子はない。
 ギャラリーの中は、美術批評家、美術バイヤー、知り合い、そしてタダ酒目当ての連中であふれかえっていた。移動するのも難しい。いきなり目の前に現れたカメラマンが、僕の顔めがけてバシャッとフラッシュを焚いた。しかもそいつは階段をよろよろ上りながら、壁にゴツッとバッグをぶつけていく。僕が今週塗り直したばかりの壁に、黒い汚れをこびりつけて!
 廊下を渡った北のサロンは、今出てきたばかりの部屋よりさらに混んでいた。
 ジャン・リュック・パピノーが製作した立体オブジェが、シンプルな台座に据えられてずらりと並んでいる。ジャン・リュックが作るのは人間の胸像で、そのほとんどが、ピカピカした珍妙な男の装飾品をパズルのように組み合わせて作られていた。カラフルなコンドーム、靴のバックル、趣味の悪いタイクリップ、カフリンクス、時計のバンド──ジャン・リュックは、その器用な手が引っつかめる物なら、何でも使って人物オブジェをこしらえるのだ。
 像たちは、奇妙に生々しかった。
 用心深く、そうっと首をのばして、僕はシェプの姿がないかあたりを確かめた。
 ジンをすすりながら、行き交う人々の顔をじっと眺める。
 あいつはどこだ?
 見つけたとして、シェプをどうするか。まだ決めかねていた。ニューヨークから蹴り出せればいいのだが──ああ、いとこのジョーイなら、それを実行できる誰かを紹介してくれるかもしれない。ジョーイがヤバい道から足を洗って法学部に入学した今となっては、確実とは言えないが。まあ、僕一人でも、シェプをここから穏便に蹴り出すぐらいは何とかなるさ。
 その時、男が一人、トイレから歩み出してきた。
 刑事コロンボまがいのだぶついたコートと、しわしわのベージュのドレスシャツ、それにチェック模様のフランネルのネクタイ。雰囲気で、警官だと一発でわかった。背が高く、筋肉質で、コショウをふったように薄い無精ひげが強靭な顎に散っている。瞳も髪も、僕と同じぐらいに黒く、やはりイタリア系の血を引いているようだった。
 全身に水滴がまぶされ、彼はまつ毛まで滴に濡れていた。トイレの洗面台で水浴びしていたわけでなければ、外からやって来たばかりなのだろう。霧雨はまだやんでいないらしい。ブルックリンまでの帰り道が今日は長そうだ。
 閉じたトイレのドアが、男のコートを噛みこんだ。男は向き直ろうとしてぎくしゃく動く。
 僕は、ドアからコートを解放してやると、握手の手を差し出した。
「シーザー・ロマノです。はじめまして」
 男は無表情にこちらを見つめた。「捜査官のダン・グリーンだ」
 握手が交わされる。僕の手を握りこんだ長い指はあたたかく、力がこもっていたが、無神経な強さではなかった。
 まるで僕を知っているかのように、彼がひとつうなずく。
 ギャラリーを訪れたということは、本当にこっちを知っているのかもしれない。それどころかもしかしたらジャン・リュックのファンだったりして──うわ、そりゃ素晴らしい。ファンだって! 見たところ、エッシャーの版画だろうが犬のカレンダーだろうが気にしなさそうな男だが。いやいや、偏見か。
 相手が誰であろうと、愛想をふりまくために、僕は給料をもらっているのだ。そんなわけで僕は努力を続けた。
「今夜は楽しんでいただけてますか?」
 彼が少し風変わりな微笑を返した。「今夜のどの部分かな?」
「どの、と言われましても、ジャン・リュック・パピノーの作品展示ですが」
「ああ、あれは素晴らしいね……値段が」
「おっと、業界の方ではないみたいですね。全部の作品を見ましたか? 上の階にも作品が展示されていますのでどうぞ。買う必要などありませんし、大体、ほかのお客様もほとんどはご覧になるだけで、ギャラリーで作品を眺めて楽しんでいかれるのが目的なんですよ」
 声がかすれてきた。声帯がカラカラで、今は酒より水が必要だ。
 ジンのグラスを廊下のテーブルに置くと、僕はギャラリーのパンフレットを手に取った。パンフレットを渡しながら、男の手がただ大きいだけでなく、折り重なるような白っぽい傷に覆われているのに気付く。薬指には結婚指輪。
 視線に気付くと、彼はゆったりした仕種でその手をコートのポケットにしまいこんだ。
 僕らは一瞬、お互いを推し量っていたが、ふと彼が、一番近くにある作品に向けて、ひとつうなずいた。シンガーソングライター兼俳優やプロデューサーでもあるカリスマ、ジャスティン・ティンバーレイクの胸像だ。ほぼ実物大。銀メッキの時計バンドやら、カフリンクスやらバックルやらモール飾りやらが、ゴチャゴチャと、いびつにまとめ上げられている。ジャスティン・ティンバーレイクの両目は、ギラリと光るスウォッチの文字盤。
 作品に添えられたカードには一言、『歳月人を待たず』とあった。
 僕は全部の作品を確認したし、自分の手でこの展示カードに文字を打ち、ラミネートもした。その僕でも、つい苦笑しそうだった。
「これは……興味深いな」彼も真面目な顔を保とうとしていたが、危ういものだ。  
 うかつなことを言わないよう、注意深く言葉を選んだ。
「ええ。少なくとも、話のネタにはいいでしょう?」
それきり黙ってジャスティンティンバーレイクに思いをはせながらたたずむ僕らの周囲を、ウェイターやギャラリーの客がざわざわと行き交っていった。
 ふと、音楽が邪魔な気がした。
 ブランドンが派手な足取りで通りすぎ、タキシードパンツに包まれた尻を振りながらキッチンにとびこんでいった。バーの物資を補給しに行ったのだろう。グリーン捜査官は、キッチンのスイングドアが閉まるまでは、黙って眺めていた。
「──いつも、裸のスタッフに酌をさせているのか?」
「裸とはほど遠いですよ。彼はモデルです。あのブランドンもほかのケータリングスタッフも、服が少々足りないぐらいでは風邪も引きませんよ。慣れたもんです。当人たちも記事に入れてもらえるかもって喜んでますし。展覧会用にジャン・リュックが製作した胸像たちの、装飾的なスタイルに対して、人間の裸の筋肉はいい対比になるだろうとうちのケーターと私で考えたんです」
 でまかせに聞こえるが、何と本当のことだ。
 だが刑事はかけらも信じた様子はなかった。
「労働基準にふれてないのか? 健康上の悪影響は?」
「フーターズの女の子より着てますよ、刑事さん」
 彼は抑えた微笑を見せた。「そうだな。俺もフーターズの方が居心地がいい」
 そうかい。
「少なくともここはジンがタダですけどね。では、私はケーターに用があるので失礼します。お会いできてよかった」
「待て」
 彼がさっと制止の腕をのばし、その手は、僕の胸すれすれでとまっていた。でかい男のくせにあまりにも動きが早い。僕はぎょっと凍りついた。
 はあ? 何だ? もう話題も尽きたというのに、どういうつもりだこの男?
 彼は咳払いして、手をおろした。
「うむ。ミスター・ロマノ、君は一体ここで何の仕事をしているんだ? 気になってな」
「まあ理想を言うなら、この瞬間、ケーターに会っているのが私の仕事です。片付けないといけない仕事はね」僕は切り返した。「仕事は、お客の誰もが楽しく、何のトラブルもおこらないようはからうことですよ。ほかに何かご用がおありですか?」
「気になってたんだ。君は訪れるゲストを皆、知り合いのように名前で呼んでいたし、このパーティを取り仕切っているようだったからな」
 まさか、見張ってた?
 警戒心がわいて、僕はキッチンの方へ一歩動き、男から距離を取った。
「ええ。そんなもんです。上司の体面を保つために作品も売らなきゃいけないし、パーティもうまく回さないといけないし、お客様の名前は全部覚えておかなきゃならないんです。招かざる客以外はね」
 言いながら、無邪気に顔を見てやった。
「ここには友人につれてこられてね」と彼は平然と返した。
 はいはい。どうせ無料の酒と食べ物目当てだろうが。
「はあ、ええ、お二人とも楽しんでいただけるように願ってます。では失礼して──本当にケーターに会わないとならないので」
「彼女は君の友達か? ポッシュ・ノッシュのケーター。よく一緒に仕事をするのか? あの娘は、ニューヨーク中のギャラリーに出入りしているようだが」
 古くさい格好の刑事は探るような視線を僕に向け、僕は動きをとめた。
「ええ。ポピーとは一緒に学校に行った仲ですが……」
 これは普通の会話じゃない。彼は──まるで捜査のようにこっちをつついている。勘ぐりすぎかもしれないが、瞬時にしてこっちのガードも堅くなっていた。
「パーティをご計画なら彼女の連絡先をお知らせしますよ、刑事さん。では、ゆっくりとお楽しみ下さい」
 おしゃべりはここまでだ。
「わかったよ」彼は人の多い通路をちらっと見回した。「後でまた、君と話ができるかな。そっちに時間があれば──だが?」
 僕はまばたきした。
 マジか。
 突如として光が差したかのように、一連のこいつのおかしな行動に説明がついた──この男は、僕に誘いをかけているのだ。
 このギャラリー始まって以来の快挙!
 僕はつい、ファッション街でジョーイが見つけてきてくれた小洒落たジャケットを見下ろした。新品のジャケットのおかげでいっぱしのやり手に見えているのだろうか? 戻る視線で、刑事の足元の傷だらけの靴から、よれよれの服に隠された引き締まった見事な体をたどり、輪郭のくっきりした顔まで、じろじろと眺め上げる。この男、ゲイなのだろうか?
 彼は動じることなく、平然と見返してきた。
 いつのまにかお互いの距離がじりじりと狭まるにつれ、男の目が次第に暗い色をおび、僕の顔が熱くほてり出す。無躾で、無礼で、不適切──まさにこの瞬間、僕らはお互い、失礼さではいい勝負だった。
 ウェイターがバタバタとそばを通り抜ける。それで僕らの間に張りつめていたものが──何かはわからないが──粉々に砕けた。
 僕は、ほとんど飛びのくように距離を取っていた。
「ええとっ……多分、その……またの機会にっ……」
「わかった」
 刑事は名刺を手渡してきた。どうせ後で捨てるだろうがとりあえず受け取ると、彼がまたひとつうなずく。
 僕は背を向けて歩き出した。視線が追ってきているのを感じて、遠ざかりながら肌がざわざわした。
 ナンパとは!
 それもギャラリーのパーティで。もしこの瞬間、シェプが過去の亡霊のごとくふらふらほっつき歩いているのでなければ、おもしろがる余裕もあっただろうに。
「シーザー」
 呼ばれて、ぱっと振り向いた。
 丁度、上司のピーターが、階段を優雅に降りてくるところだった。
 ピーターのタキシードには皺ひとつなく、銀髪はたっぷりのジェルで固められ、ピカピカに磨かれたグッチの靴が照明を鏡のように反射していた。人当たりよく、洗練されて、背が高く均整が取れた体つき。まさにピーターこそ、絵に描いたような『ジェントルマン』だ。
 相変わらず、おこぼれ狙いの取り巻きに取り巻かれ、ピーターも彼らも自分たちの登場シーンに酔っているようだった。取り巻きがお行儀よく会釈し、僕も会釈を返した。お互い、お上品に。
 礼儀が肝心だ。いかに昼間の顔を知っている相手でも、今夜は丁寧にもてなさなければ。なにしろ僕はピーターのアシスタントにすぎないのだ──ほんのちょっぴり、魅力的ではあるかもしれないが!
「ここにいたのか」
 いたのかって、自分の方こそ豪華な二階に引きこもって、まがいもののセレブと半裸のウェイターの群れにちやほやされてただけのくせに。
 いや、駄目だ。一階をまかされていたのは僕だし、それが仕事だ。僕は己の態度をあらためた。
「ピーター。ええ、僕を見つけてくれたとは、すごいですね」
「ほらほら、シーザー。ふくれっ面をするなよ」
 僕はぐっと飲みこみ、それから声を押し出した。
「何かご用でしょうか?」
「二階に、興味を持ってくれた客がいてね。ジャン・リュックを上によこしてくれないか」
「それはやめた方がいいと思いますけど……」
 ピーターがぐっと身を近づけ、僕は後ずさりしたい衝動をこらえた。馬鹿でかいひしゃくでコロンを浴び直してきたとか? 鼻腔の中がコロンの匂いでねばねばしそうだ。サンダルウッドと、何か……鼻を刺激する匂い。クレンザー?
 ピーターが語り続けていた。
「素晴らしい人出だな。日曜のアート欄はまちがいなくいただきだろう。"ピーター・シュトルマンのギャラリーパーティ大・爆・発!”」
「あんまりその見出しは……」
 彼に肩をばんばん叩かれながら、僕は口で呼吸していた。なされるがまま、ピーターの自画自賛に聞き入る。毎度のことだ。
「やってくれたな! 君の給料を上げてやりたいくらいだが、まあそれはまた今度」
「いつでも上げてもらってかまいませんけど」
「喉をどうかしたか? ダース・ベイダーみたいな声だぞ」
 取り巻きがクスクス笑った。
「ちょっと……ありまして」
 僕はまたジンを流し込んだ。酔ってぶっ倒れる前に水を見つけないと。
 鶏のピーナッツソースがけをトレイにのせたウェイターが通りがかり、ピーターが二切れ取ったが、僕は遠慮した。
 肉の串で武装したピーターは、ごちそうを武器のように構えて、北のサロンへ突入する。愛情たっぷりに叫んだ。
「おお! 見ろよ、時の人、ジャン・リュックだ!」
 やばい、この二人がそろうと何をしでかすかわからない。
 視界のはじで、例の刑事が銀のトレイからマッシュルームの蟹肉詰めをかっぱらうのが見えた。次の瞬間、キッチンのスイングドアが開き、向こうにプラチナブロンドの髪がちらっとのぞく。
 ポピー!
 彼女はキッチンにいたのだ──そりゃそうだ。当たり前だ。
 僕はくるっと身を翻すと、勢いよくキッチンのドアにつっこんだ。
 キッチンの中は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。ウェイターたちが食器洗い機にグラスを放りこんでは、補充されたお盆を手に、ドアの外へすっとんで消える。ポピーは一心不乱に銀のトレイへオードブルを扇型に盛り付けていた。
 彼女のプラチナブロンドはいつも通りヘッドバンドできっちりとまとめられていて、バンドのラベンダー色が目と服の色に揃っている。白いエプロンをまとったポピーの姿は、詐欺と言ってもいいぐらいに無垢で、すっかり不思議の国のアリス。
 開けた冷蔵庫の前には、バーテンのブランドンが立って、中をあさっていた。ダイエットコーラを掘り出す。ポピーのアシスタントのレイチェルもそこにいた。レイチェルは──僕にはさっぱり呑み込めなかったが、どうやら彼女は、でかいオーブンをレンチでぶん殴っているように見えた。
 甲高くまくしたてる。
「このボケ、動けったら!」
 やってきたウェイターが空の盆をまた一枚積み、ポピーが盛りつけてあるトレイを彼に手渡した。
「何でもいいからどうにかしてよね」
 ポピーに言われて、レイチェルははあっと息を吐き出すと、殴っていたオーブンのドアを開けた。
「新しいのを買おうって言ったじゃなあい。なのにさあ。買わないからー」キャスターのついた機械をぐるっと回し、レイチェルはオーブンの後ろをしげしげ眺める。「温かい料理はぱぱっと全部出しちゃって、デザートで締めちゃうってのはどうかしら?」
「じゃあこっち来て盛りつけ手伝ってよ。サービングもやってもらうことになるかも」
「ん。なら靴を変えないとねー。コレじゃちょっと高すぎるわ」
 レイチェルの言葉に、十センチヒールのブランド靴へ全員の視線が集中した。
 僕はブランドンを肘で押しのけ、冷蔵庫からペリエをひっつかむ。「なあ、ポピー」
 ポピーは手もとめずに応じた。
「今はぜっったい無理、シーザー! 忙しいの。あんたを愛してなきゃこんな無茶苦茶はごめんよ。たかり屋はもう入れないで! 客がもっと増えたら、あんたにも脱いでウェイターをやってもらうからね!」
 そこではたととまって、僕にニヤリと笑いかけた。
「それもいいわねえ。カラダも締まってるし、ちょびっとの胸毛付きのイタリアン──最っ高! こっちも助かるってもんよ。保温用のオーブンがやられちゃって、このままじゃお客の腹につめこむ前に料理がみんな冷めちゃうわ。こんなに大勢来るなんてあんた全然言ってなかったじゃない!」
 ウェイターたちの、責めるような視線が僕に突き刺さった。
 レイチェルまで僕を見ている。魅力的な目つきだった。グラマーで愛らしい彼女を見るたびに、僕は目のパッチリしたお色気アニメキャラを連想してしまう。
 レイチェルが甲高くしゃべり出すと、なおさらアニメっぽくなった。
「そうなのお? この子やせっぽっちに見えるけど。シーザー、シャツを脱いでみてよ。腹筋見せて! こんだけ忙しきゃ目の保養もしたいわあ」
「お断り。なあポピー、どういうことだ? シェプがいたぞ」
「飲みすぎてるんじゃないの? あいつがいるわけないわよ、どこかにお祝いに行ったもの。先週、ドラマの試作版パイロットフィルムが誰かの目に留まったとかで、何だったか……子供向けの番組だか何かそんなのよ。そんでお仲間とクラブに繰り出してったわ。ねえ、手伝わないならここから出てってくれない? たのむから。悪いけど気が散るの!」
 僕はペリエを一口飲み、ポピーを見つめた。彼女はギリギリの様子だった。
 ウェイターたちは僕らを交互に見比べ、レイチェルさえも口をつぐんだ。
「確かにシェプだったんだ。ハンドモデルのアンドレをつれてサロンをうろうろしてた。水浴びする気かってぐらいジンをかかえて」
「さっさとトレイを持って仕事に戻りなさいあんたたち! お飾りのために雇ったんじゃないわ!」ポピーがスタッフ達に金切り声を浴びせる。彼らは、料理を手に手に一斉にドアの向こうへなだれ出していった。「空のトレイはほかにないの?」
「ポピー──」
「何よ!」
「シェプに確かめてくれ。メールして、ここから出てけって言ってやって」
「ああいいわ、やっとくわ。レイチェル、これを盛りつけて。ブランドン、あんたはここで何やってんの? さっさとバーに戻ってよね!」
「ライムがちょっと足りなくなってて、ボス」
 ブランドンはせこせことプラスティックのボトルを冷蔵庫の中からかき集めると、ドアの向こうにすっとんで消えた。
「いい人なんだけどねえ。この手のことにはそろそろ年を取りすぎよね。もう四十五だって……」
「ポピー、勘弁してくれ」僕はぴしりとさえぎった。「シェプにうろうろされたら仕事に集中できない。こっちの気が散るし、あいつはウェイターといちゃついて邪魔してるんだぞ」
「わかったって。あいつがここにいるわきゃないけどね、何度も言うけどさ」ポピーはエプロンで手を拭い、ポケットからこぶりなピンクの携帯電話を取り出した。「今メールするから、ちょっと落ちつきなさいな」
 僕はライムを一切れボトルに押し込み、ペリエを一口飲んだ。
 喉にしみる──うっ。まさか。喉に擦過傷が?
 きしみを上げてスイングドアが開き、また一人、ウェイターがとびこんでくる。開いたドアの向こうにはシェプが立ち、ポピーのメールに携帯で返信している最中だった。
 シェプは、いつの間にかセーターを脱いでいた。しかもこの男、下着も何も着ていない。
「どうして、上、裸なんだ……」
 僕の、恐怖の波動がキッチンから伝わったに違いない。シェプが顔を上げ、僕らの視線がぴったりと合った。
 唇の片端がぴくりと動き、奴はウインクした──ウインク!
 まるで仲良しの二人のように。恋人同士のジョークか何かのように。
 一体何がおもしろいんだ貴様は!
 シェプの引き締まった腰に、ぴちぴちの服を着た娘が腕を絡ませて、シェプが微笑みを浮かべた瞬間、キッチンのスイングドアがバタンと閉まった。
「げえええ」
 ポピーが呟いた。
「本当だ。ありゃシェプだわ、あらららら。ここで何してんだろ?」
 僕は塗り立ての壁にスイングドアを叩きつけ、キッチンからとびだした──拳を固め、尻に力をこめ、勿論顎もぐっとくいしばって。
 背後からポピーの声が聞こえた。
「ありゃあキレたわね。見た、レイチェル?」
 シェプは突っ立ったまま、締まりなくにやにや笑って、無頓着にジンをすすっていた。裸の胸板は、どういうわけかすっかりオレンジ色に焼けていたが、実に見事な筋肉だった。本物のアーティストが彫り上げた作品に見えるくらいだが、実際は金に物を言わせた結果に違いない。最近じゃ、お抱えの個人トレーナーぐらいいるんだろうし。
 それを思うと、さらに頭に来た。こっちは祖母の家の客間に居候して、駄菓子のポップターツを食べ、週に四日は父さんからもらったピザでしのいでいるというのに。こいつは、人生の栄光を謳歌しているのだ。
 二十八歳にして栄光のチャンスをつかんだ俳優、シェプ・マクナマラ。
 その男が、ここで何を? 自分の成功を見せびらかしに来たとでも?
 僕の勇猛果敢な突進に気付いたのは、ポピーとレイチェルだけだった。そもそも、廊下にはびっくりするほど人がいなかった。
 不吉だ。
 一方、ピーターとジャン・リュックがいる筈の南のサロンは、消防法に違反しているんじゃないかと思うくらい、収容人数を遙かに超過していた。軽く見積もってもサロン内に百人以上の人間がぎゅうぎゅうにつめこまれ、廊下にあふれ出した人波が北のサロンまで数珠繋ぎになっているのが、シェプの背後に見えた。
 どういうことだ? ジャン・リュックが『即興彫刻ショー』でも開いているとか。いやいやありえない。
 昔の男を怒鳴りとばす意欲満々で突進したというのに、そのシェプの肩ごしに、ジャン・リュックの姿が見えた。アーティストは、己の彫刻について難解なご高説をかましている最中ではなかった。
 ……嘘だろ?
 南のサロンにいる全員がトップレスだった──少なくとも、男は全員。
 脱がない方がマシなのばっかり。
 シェプは僕が何か切り出すのを待っていた。というか、何か言ってほしそうだった。何でだ。だが目に映った光景に、僕はすっかり意識を奪われていた。
 神様、一体あそこで何が? とにかくこれ以上、誰ひとり、もう一枚たりとも脱ぎませんように!
 カメラのフラッシュがバシャッと光るたびに部屋中が白く輝き、音楽はバカでかく、曲までアートギャラリーらしからぬものに変わっていた。
 鳴り響いているのは──まさか、ラップミュージック?
 ひるみつつ、僕はさっきの刑事を探した。これが公共わいせつ罪に当たるのかどうか、正直よくわからない。正確に言わせてもらえば、ジャン・リュックはまだ黒いちっちゃなブリーフを残してはいる。だがそのブリーフは、神が不平等に与えたもうた、何とも見事なアレをちゃんと隠せるしろものではなく──
 部屋の向こう側から、ダン・グリーン刑事の黒い目がこちらをじっと見ていた。彼は壁にもたれかかり、がっしりした胸の前で、やはりたくましい腕を組んでいる。よれよれのコートは脱ぎ、オリーブを複数飾った透明のカクテルを左手に持っていた。
 刑事の視線はまっすぐ僕に据えられていた──ジャン・リュックや、彼のケツまるだしのパンツでも、シャツを脱ぎ捨てた半裸の客たちでも、露出過剰なウェイターたちの姿でもなく。勿論、やかましい音楽や、無料のごちそうに注意をそらされることもなく。
 彼は、僕だけを鋭く見つめていた。
 その眉が物問いたげに持ち上がって、僕は首が熱くなるのを感じた。
 これが新品のジャケットの威力か。どんどん着なきゃ。
「シーザー。元気だったか?」
 シェプが握手に手をさし出してきたが、その手を、僕は叩き払った。ダン・グリーン刑事から視線を引きはがすと、波打つような群衆の盛り上がりをにらむ。昔の男のそばをつかつか通りすぎ、人ごみに体をねじこむようにして部屋の中へこじ入った。
「うっわあ……」
 呻きがこぼれる。
 ジャン・リュック・パピノーが、バーカウンターの上でとびはねながら、卑猥に尻を振っていた。
 そばではハンドモデルのアンドレがうっとりした表情で、ぶらぶらするシロモノを見つめている。ジャン・リュックのはデカい──誰もその点だけは反論できまい。
 半裸のアートコレクターたちが揺れ踊り、部屋はまるで坩堝のようだった。
 きょろきょろとマロリー・アルブライトを探すと、彼女は正面の窓のそばに立ち、音楽のリズムに合わせてぎこちなく頭を揺らしながら、手拍子を叩いていた。ジャン・リュックを見やるマロリーの顔は笑顔で、新たな一面に興味をかきたてられているようだ。
 神様ありがとう。僕には悪夢だが、少なくともマロリーは楽しんでくれている。
 これはちょっとしたハプニングなのだと、彼女に説明しておかなくては──
「シーザー」
 オレンジ色の手が僕の肩をつかんだ。僕は肩を回してシェプの手を外す。ヤツの息は濃い酒の臭いがして、こっちの目に涙がにじむほどだった。
「おおおアレ見ろよすっげえな、何分か前にはあいつまだ着てたんだがな。いいぞ! 全部脱いじまえ!」
「その口をとじろ」
「なあ、お前にこんなイカしたパーティ開く才能があるとはな。お前も変わったな。いい感じに見えるぞ」
 僕はまばたきした。「それ、前はいい感じに見えなかったってことか?」
「違う、違うって!」
 シェプはグラスの酒をがぶ飲みした。どんだけ飲んだんだ、こいつ。 
「つまり、お前はこのパーティを取り仕切ってるみたいだし? このパーティはちょー刺激的だし? そこんとこお前っぽくないって言うかさあ」
「ここまで刺激的なものになる予定はなかったんでね。シェプ、これは展覧会のオープニングパーティなんだ。サプライズなし。酒で打ち解けてもらって──作品を買ってもらうためのものだ」
「ふうん? こんなに山ほどジンを飲んだのは、お前のいとこのティナの結婚式以来だよ。ティノ叔父さんが自分の酒屋から酒を調達してくれたやつ。あれもすげえ夜だったな!」
「今日のジンも、叔父さんが実費で用意してくれたんだ」ティノとヴィトは僕の叔父たちで、家族のためなら助力を惜しまない。「なあ、後にしてくれるか? ジャン・リュックがイチモツのピアスを見せびらかし始める前にテーブルから引きずり下ろさなきゃ」
 僕が冗談を言っているとでも思ったのか、シェプはげらげら笑い出した。
 まずは上司のピーターをつかまえて、今夜、少しでも売り上げがあったかどうか確かめないと。それから興奮状態の客をなだめて、ここから追い出さないと。このパーティが、何て言うか、こう──乱交パーティか何かに突入する前に。
 僕はシェプの返事を待たず、ピーターの位置を目で確かめると、彼の銀髪と半裸の取り巻きめがけてまっすぐ突っこんだ。
 途中で振り返った時には、シェプの姿は人込みにまぎれてもう見えなかった。
 ミステリアスな刑事、ダン・グリーンの姿も、どこかに消えていた。


■2 トラブルのしっぽ


 地下鉄を西四丁目駅で降りると、僕はまずパン屋に入って、トリプルショットのラテと甘いアーモンドペストリーを買いこんだ。
 今日は、あらゆるドーピングが必要だ。
 時刻は土曜の朝十時、なのに酒がまだ残っていて、とっておきのカシミアセーターに毛穴から蒸発していくジンがしみこんでいく。ニューヨークの気温は十五度、霧雨は上がっていたが、歩道はぬかるんだままだ。コーネリア通りのぼさぼさの街路樹の先端には新たな赤い蕾がふくらんでいて、景色を少し明るくしていた。
 春──気取ってなかなかやって来ようとしなかった季節が、ついにニューヨークの近くまで訪れつつある。まったく、やっとだ。
 ギャラリー正面の石段をのぼると、僕は、繊細な縁飾りのガラスドアをのぞきこんた。ピーターが所有するこの建物は宝石のように美しく、かつてはテラスハウスとして使われていたのだが、いまだに旅行者の目を惹きつけずにはおかない魅力を放っていた。鉄製の渦巻き模様や、パイナップルのような膨らみがついた支柱、とがった屋根、淡い煉瓦の壁。
 そして勿論、正面には上品な金色でギャラリー名が入っている──『ピーター・シュトルマンギャラリー』。
 歪みガラスごしに、玄関ホールはぼやけて見えたが、昨夜の乱痴気騒ぎの残りはきちんと片付けられているようだった。ポピーと、彼女の従える一群──ガタイよし・見栄えよし・カネなしの男性モデルたち──がいい仕事をしてくれたようだ。
 僕は鍵を開けて中へ入った。
 ギャラリーは静かで、すべてがあるべき場所に収まっているものの、どことなく、二日酔いのくたびれた雰囲気が漂っていた。当然だが、酒蔵のような匂いもたちこめている。
 まあとにもかくにも、昨夜で胸像が十二体売れたのだし、これでどこかの幸運な歯医者もジャン・リュックの息子の矯正代金を払ってもらえるだろう。一晩で、かかったコストは値引きされたジンが何ケースか。
 神様どうか、朝の陽光の元で、誰かが思い直して購入をキャンセルしてきたりしませんように。
 のばした手が、セキュリティパネルの上でとまった。
 赤く光る筈の作動ライトが不吉に暗い。ピーターめ──また、セキュリティをセットし忘れたのだ。
 肩ごしに、からっぽのホールを見やる。今朝は、さすがにホールの床板にも擦り痕が目立つ。
 ピーターは最後に建物を出た筈で、多分真夜中近くだっただろうが、まったく、あいつは自分の財産に安全装置をかけ忘れたのだ。電話をかけて文句を言うべきところだったが、彼はサンタフェ行きの飛行機に乗るためにラガーディア空港にいる頃だ。それに、まだべろべろに違いない。
 僕は背後でドアの鍵をしめた。建物内に危険な気配は感じなかったし、十一時のオープンまでにすませておかなければならないことが山ほどある。まず運送業者に電話をしてあの胸像を箱詰めにしなければならないし、目を通さなければならない書類もあるし、ギャラリーのレジュメも最新版に書き換えないと……
 上司のピーターはあと数日、出かけていて戻る予定はなく、相変わらず祖母の遺産をのどかに費やしている。ジャン・リュックの胸像に関する仕事を片付けてギャラリーを元の軌道に戻すのは、僕一人の裁量にまかされている。
 その時、頭上からギシッときしむ音がして、僕はドキリとした。
 一体何だ……?
 天井をじっと見上げる。
 昨夜、なだめすかした客たちに服を着せ、タクシーに次々と押しこんだ後、僕はギャラリー内をひととおり見回った。だが──ピーターは、帰る前のチェックをしたのだろうか? 彼はすっかりへべれけで、ホールに立ってゆらゆらしながら、僕に「帰っていい」と言ったのだ。
「仕事は終わった、ここはもういいぞ」
 その時、彼の腕にしがみついていたのが、大きなドット模様の赤いストレッチドレスに身を包み、例のそびえ立つようなハイヒールを履いたレイチェルだった。谷間の深い胸は今にもブラからはみ出しそうだし、口紅はきっちり塗り立て。一目で、彼女がまた馬鹿なことをしようとしているのがわかった。
 救いの手をさしのべてみる。
「レイチェル、一緒にタクシーを割り勘して帰らないか?」
「だいじょーぶよお、心配しないでえぇ、シーザー」
 彼女はピーターの腕をかかえこんで、まつ毛をぱちぱちさせてみた。
 常にジェントルマンでいらっしゃるボスは、彼女の胸元に向かってにやついた。
「タクシーなら後でちゃんと呼んであげるよ、お嬢さん。おうちはアッパーイーストサイドかね?」
 彼女が首を振ると、白い顔を囲む髪のウェーブが上下にはねた。
「スタテンアイランドよ」
 アッパーイーストサイドなんか、とてもケータリングスタッフの給料じゃ住めるわけないのに、何故わざわざ聞くかな。
 そんなわけで、僕はギャラリーを後にした。そしてボスはスタッフにセクハラを仕掛けるのに忙しく、セキュリティのセットを忘れた、と。
 ギャラリーの中は、完全な静寂に戻っていた。もしかしたら床板が膨張してパキッと鳴ったとか、それだけのことだったのかもしれない。何でもないのかも。
僕はジャケットを脱いだが、背中側にべったりとへばりついていた白い猫の毛をしみじみ見つめた。もしセーターにも猫毛が付いてたら、祖母ナナにはっきり言わなきゃ。
 ジャケットの毛をつまんで取りながら、警備会社に通報するかどうか迷った。もしかしたらピーターはセキュリティをセットして帰ったのかもしれないし、それなら、これは非常にマズい状況と言える。
 だがきっと──勘ぐりすぎだ。ただのピーターのかけ忘れだろう。セキュリティ解除のコードを知っているのはピーターと僕だけだし、侵入者がギャラリーを荒らしたようには見えなかった。
 僕はホールのクローゼットにジャケットをしまいこむと、不安を、糸くずや猫の毛とまとめて払い落とした。
 広いギャラリーは薄闇にどんよりと沈んでいた。照明のスイッチを入れてから、トイレとキッチンの間にはさまれた自分の小さなオフィスへ向かう。
 優先事項その一──まず、コーヒーを淹れるべし。
 ドアノブに手をかけようとしたまさにその時、真上で、天井がドシンと音を立てて揺れた。
 気のせいじゃなかった。
 本当に侵入者が? 盗むような物なんてろくにないのだが。大体、泥棒というのはもっと何か──こそこそしているものじゃないだろうか? それにほら、ちゃんと金目の物がある場所を狙ったり?
 やっぱりネズミか?
「もしもーし? 誰かぁ?」
 いや、こんなんじゃ駄目だ。ちゃんと僕だって心得はあるのだ。父親からもそれなりに仕込まれてきたし。
 大股に戻ると、僕はクロークのクローゼットから傘をひっつかみ──立派な野球バットとはいかないがどうせ間に合わせだ──、しのび足で階段をじりじりとのぼりつつ、スラックスの尻ポケットから携帯電話を引っぱり出した。
 階段の一番上で足をとめ、首を傾けて、耳をすます。
 神秘的なほどに静かで、少し暖かすぎるくらいだった。暗闇にしっかりと目を慣らす。
 二階の内装は、なめらかな白い壁と艶のある淡い木目調で、間取りはおおよそ一階と似通っていた。一階でキッチンになっている位置は二階ではピーターのオフィスになっていたが、この週末、そのオフィスはがっちり閉ざされている。
 二階の廊下を見回した。
 半分ほど先の床で、何かが動いていた。
 ネズミ? そうは見えない。
 もしかしたら、住人が飼っている猫でも迷いこんだとか? この上の三階と四階は住居用になっているのだ。五階には、ピーターが自分のプライベートコレクションを保管しているが、その部屋に上がるには彼のオフィスを通っていかないとならない。
 僕は、傘をかざしながらそうっと前に進んだ。もぞもぞと動く塊に視線が吸い寄せられる。
 塊は人間の足だった。裸足、大きな指、関節が角張った足。
 ──二本の足がトイレの扉口からつき出していた。
 夕べはそんなもの、なかった筈だ。
 僕は前ににじり寄りながら、傘を上に振りかぶった。裸足の指がぴくぴくと動き、それから、男子トイレの床のあたりで、呻き声が震える。
 トイレに足を踏み入れた僕を、消化済みのジンの悪臭が待ちかまえていた。
「げっ……!」
 そこにのびていたのはシェプだった。呻きながら、痙攣している。狭い化粧室の白タイルの床に、素っ裸で倒れていた。
 ライトをつけると、シェプが、まるで夜行性の齧歯類か何かのようにびくっと怯んだ。奴の顔は一晩分の無精ひげに覆われ、剥き出しのペニスには腕時計がはめられていた。
 ……これはこれは。
「シェプ、ここで一体何してるんだお前?」
「ううっ……消してくれ……」
 彼の皮膚には鳥肌が立っていた。僕は奴の太腿を靴の爪先でつつく。
「起きろよ。ここから出てけって」
 便器の方へ頭を転がし、彼は具合が悪そうだった。相変わらず、全身しっかりとオレンジ色に焼けているおかげで、顔色は読みとれなかったが。
 具合が悪いのは当然の報いだ。気を失うまで飲んだに違いない。今のこいつはこんな生活に浸ってるのか?
 どうやってここに潜りこんだ?
 パンツはどこだ?
「シェプ。起きろって」
 ゆさぶると、シェプは血走った目を開けた。
「やめろ……明かりを消してくれ。網膜が焼ける……」
 僕はトイレのライトを消し、振り上げていた傘を下ろした。代わりに廊下の明かりをつけると、狭い化粧室の中もぼんやりと照らされた。通りに面した窓からも、弱々しい陽の光が差し込んできている。
「どこか痛むのか?」
 シェプがもごもごと答えた。
「頭だけだ……」
「頭を打ったのか?」
 嫌悪感の下に、後ろ向きながら、ちょっとだけ心配が芽生えた。
 頭を動かして、シェプはまた苦悶の声をこぼした。仕方ない。僕は膝をつき、スプレー缶で塗ったようなオレンジ色の肌と鍛えられた見事な長身を意識から締め出しながら、シェプの頭蓋に傷やコブがないかどうか確認した。マロリー・アルブライトならここで、トイレでのおぞましい死亡事件について語り出すところに違いなかったが、僕は口を閉じたままでいた。
 シェプの髪が指の間を流れていく。そのプラチナブロンドはポピーと同じほど淡い色で、手ざわりもやわらかい。だが奴の息は、下水管から吹き出してくるような臭いだった。
 僕は身を引いて踵に座り、彼のペニスと、時計を見つめた。
 一体何をやらかしたんだこいつは?
「大丈夫だろ。まあ多分。大体は。モノに時計がはまってるけど。最近お気に入りのプレイか何かか、シェプ? まったく、警察に通報するところだったんだぜ。もうちょっとで本当に通報するところだった」
「ところ、だった、か……」
 シェプは何回かまばたきしたが、やっと視線を合わせられるくらいに目を開けた。それから僕の言ったことが脳まで届いたらしく、彼は、うなだれているペニスを見下ろした。
「何だってこんなとこにこんなもんが……?」
「お前の服はどこだ?」
 彼が身につけている唯一の装飾品については、それ以上観察しないようにする。
「うわっ! 俺の服はどこだ!?」
 シェプが両手で慌てて股間を隠した。
 まだ酔ってるな。
「ここで待ってろ、ちょっと探してくるから」僕はペーパータオルを濡らして手渡した。「ほら、顔を拭け。顔色が青いよ。オレンジ色だけど」
 シェプは何とか身を起こそうとしたが、ほとんどその瞬間、また床にのび、喉に何度も唾を呑みこみながら呻いた。
「吐きそうだ……」
「そりゃよかった」
 自分の気分の悪さは自分で何とかすればいいさ。僕は彼を置いて、二階フロアに服を探しに出かけることにした。
 任務遂行に向かう僕の背を、我がゲストの嘔吐の音が追ってきた。腹よりも深く、足の爪先からすべてを吐き戻すような音で、大学寮で一緒にすごした夜、よく聞きなじんだ音だった。とは言っても、その頃も、シェプの飲みすぎを周囲が知っていたわけではない。普段は違うのだ。奴は秘密を守るのに必死で、アルコールで自制を失うことすら恐れていた。
 それが、何を考えてこんなことに? ピーターがギャラリーの鍵をかけた時、シェプは一体どこに隠れてた?
 僕はサロンと備品の棚をのぞき、女性トイレまでのぞいた。奴のジーンズか──せめて下着ぐらいはないかと期待して。収穫ゼロ。一階に降りてあちこち見て回ったが、やはり何もなかった。キッチンから、テーブルクロスを一枚ひっつかんで戻る。
 シェプはトイレの蓋に座りこんで両手に顔をうずめ、両膝をきっちり締め、急所をペーパータオル一枚で覆っていた。どういうわけか、そんな状態でも、新しい髪形がやたらと格好よく見える。
「シーザー?」
「ああ。これで何とかしろ」
 縁をかがった一・五メートルのモスリンをばさっとかけてやる。
「誰かに電話して、ズボンとか……靴とか、持ってきてもらえないのか?」
「んー……。エージェントに頼めるかもしれないけど、俺、ここにいたことは誰にも知られたくないんだよ」
 そう、シェプは顔を上げた。大きく目を見開いた、お得意のお願いポーズ。
 僕は目をそむけた。
 こいつは本業の役者だし、このシーンは散々見せられてきた。
 視線はつい、シェプが手洗いに置いた腕時計の方に吸い寄せられていた。シェプがお決まりの芝居の声を使って僕に懇願し始めた。
「本当なんだよ。誰にも、こんなところにいたことを知られるわけにいかない。俺はデカい契約をつかんでて……だから──記者に悪いことを書かれたり……スキャンダルはまずい」
「へえ、ほう、スキャンダル? たとえばどんな?」
 ──この時計、見覚えがある。
「なあ、これお前のか?」
 僕は時計をすくいあげた。見るからに壊れている。バンドが曲がらない。バンドの間にアレの毛がはさまっているから──いや、違う、接着剤で固定されているからだ。
「え? いや、そんなモンがどこからやって来たのか、さっぱりわからないよ」
「お前さ、夕べここで──僕の仕事場で、誰かと寝たんじゃないのか? 男か、女?」
 沈黙。
「それとも両方か?」
「そんなんじゃない……俺は──あれだ、その、そんなことは──してないんだよ」
「してないって? 男としてない、それとも女としてない?」
 彼はひるんだ。
「俺は今は、女とデートしてるんだ」
 ぬけぬけと嘘をつく。そんな嘘はお見通しだ。大体、いとこのポピーの方からもネタは割れてるのだ。
「夕べ、乳首にピアスした女の子、いなかったか?」シェプが希望の表情を浮かべて言い出した。いつもストレートのふりをしてきた自分が、昨夜を境に突如として本物のストレートになれたとでも思っているのだろうか。馬鹿。「マジで覚えてないんだって、誓うよ。ただ、もしかしたら……ああ、男だったかもな……? 背が高くて、上半身裸? そんで蝶ネクタイかなんかしてたような? お前は夕べ何を着てたっけ?」
 僕は冷たい一瞥をくれた。
「それは僕じゃないよ。お前が言ってるのは、昨日のウェイター全員の格好だ。あとほとんどの客と、彫刻家のジャン・リュックにも当てはまる。そりゃ覚えがあるだろ。髪の色はどんなだった?」
「あの女……、男……は……」シェプはまさしく苦悶の形相を浮かべていた。「……わからない。何だかふわふわした感じで……」
 僕は奥歯をギリッと噛んだ。
「髪形が? それともふわふわしてるのは記憶か? お前に言っとくけどな、シェパード・マクナマラ。お行儀よくしてなけりゃならない誰かさんにしては──」大きなクエスチョンマークを指で作ってみせる。「しくじったぞ。夕べは至るところにカメラマンがいたんだぜ」
 彼はうなだれて、両手に顔をうずめた。
「どうしてこんなことになったか、わからないんだ。俺は……お祝いに出かけたんだ。ドラマの試作パイロット版にOKが出て本編が決まってさ、ありゃほんとすげえ大金が動くんだよ。もう何か無茶苦茶で……」
「ああ、お前がここに転がってるのを見りゃ、滅茶苦茶さはよくわかる。とにかく、おしゃべりしてても服は出てこない。お前の部屋のスペアキー、ポピーも持ってたよな?」僕はポピーの番号に電話をかけた。呼び出し音が何回か鳴って、留守番電話に直行すると「すぐ電話してくれ」と電話口に凄んだ。
「ああ。だけどポピーは勘弁してくれ、顔を合わせたくない」
 何を言うのだこの男は。「じゃあ残念なお知らせだ。お前には服が要るぞ」
「エステルになら電話してもいい──俺のエージェントだよ」
「ほらよ」
 僕は自分の電話を手渡す。シェプが冷たいタイルに裸足でつっ立って、肩回りに巻き付けたテーブルクロスをお手製トーガにしようと結んでいる間に、歩き出した。通りの角にあるアーバンアウトフィッターズまで行って安売りのジーンズを買ってくることもできたが、くそったれ、こいつのためには絶対御免だ。こっちは仕事中なのだ。
「シンクの下にマウスウォッシュがあるから口をゆすいどけよ」
 おおむね、マウスウォッシュは彼のためと言うより自衛のためだった。このままじゃ、あいつの息で床のワックスが剥げ落ちる。
 キッチンに行くと、僕はポットにコーヒーを沸かした。ぶくぶくとコーヒーが泡立ち出し、スイングドアを抜けて廊下に戻った瞬間、突然、あの腕時計をどこで見たのか思い当たった。
 ジャスティン・ティンバーレイク──
 一連のジャン・リュック・パピノーの作品の中でも、鳴り物入りの一作。ヴィト叔父さんが必要経費だけで刷ってくれたカタログの表紙も飾った──あの作品だ。
 その胸像が。今や、台座の上から姿を消していた。
 一体どうして気付かなかった?
「シェパード……!」
 そのまま数秒立ち尽くし、からっぽの台座を凝視していたが、僕は息せききって廊下を駆け出した。ギャラリーを一寸刻みに見て回る──北のサロン、南のサロン、それから男性トイレ──
 恐慌に朦朧としたまま建物をぐるりと一周した。パニックに陥るわけにはいかない。これには絶対、ちゃんとした、もっともらしい説明が何かつけられる筈だ。
 その筈だ。
 自分のオフィスにとびこんだ。貧弱な机の上には、昨夜のゲストが残した何枚かの名刺と、ピーターが優雅な筆致で記入して、きっちりと積んでおいた送り状のほかには何もない。ジャスティンティンバーレイクの行方についての手がかりは何もなかった。どの胸像が誰に売られたのか、どう支払われるのか、いつ配達するかのメモだけ。ドナルド・トランプ、デレク・ジーター、ブルームバーグ、ルディ、ライリー・アルブライト、ハワード・スターン……その全員が売約済みで、値段も記録されている。
 僕は書類の山の上にメモを放り出すと、十秒ばかりの間、ハアハアと過呼吸をくり返した。
 JTの胸像には、一万五千ドル以上の値がついている──
 役に立たない方向にさ迷い始めた思考にストップをかける。
 途端、猛烈に腹が立ってきた。
 ひとつとばしに階段をかけのぼり、段の途中でシェプにつっこむ。「おいシーザー、落ちつけって、俺は具合が悪い──」
「夕べ一体何をやらかした!?」
 シェプは、お手製のトーガを握り拳でたぐりよせながらぶつぶつ呟いた。「わからないんだって。それはもう言ったろ、いい加減にしてくれよ……」
「ふざけんな、ジャスティン・ティンバーレイクが行方不明だ。しかもそのパーツがお前のモノにくっついてたんだよ!」
 彼は、言われている意味がわからない様子だった。
「……あの時計か? あれがあの彫刻だか何だかのパーツだったってのか?」
「ああ、あれがあの彫刻だか何だかのパーツだったんだ」そっくりそのまま返してやる。「お前、夕べ、あの胸像を壊したのか? そうとしか考えられないんだが」
「俺は──」シェプは両手で頭をかかえた。心からの悔恨にも見えるし、シェイクスピアの『オセロ』の真似事のようでもある。「──水を一杯もらえないか?」
 残念、ただの自己陶酔タイムだったようだ。「像をどこにやった? 一万五千ドルの価値はある代物だぞ」
 彼は信じがたいという表情で、ばっと頭を上げた。「冗談だろ? ジャン・リュックのシロモノがそんなに高いわけない。いやいや、本人に聞いてみろよ」
「どこにやった!」
「知らねえよ。大声出すな。黒板をかきむしってるみたいな声だぞ、シーザー……ちょっとは落ちつけって」
 こいつを階段から突き落としてやりたい衝動がこみあげてきて、僕は歯がきしむほど顎を噛みしめた。
 どすどすと足を踏み鳴らしながらオフィスに戻り、ギャラリー宛のメッセージが残ってないかどうか確認する。メールは何もなし。ギャラリーのメールアカウントを携帯電話で見ながら、ここまでわかった事実を検討した。
 客の誰かがジャスティン・ティンバーレイクを現金払いで買いこんだ、それならありえるだろうか? 払った後……車に乗せて自宅にお持ち帰りした?
 たのむから、そうであってくれ。
 だが、それならそうとピーターが書き残していくだろう。今朝も、僕の机に色々なメモは残されていたんだし。
 もしかしたら、あの彫刻をピーター本人が持っていったとか? ニューメキシコ行きに持参して? 夕べの彼はべろべろだったから、何だってやりそうだ。
 ピーターに確認を取るまで、とりあえず待つか。
 僕は、裏道に面した小さな窓を眺めながら、どうすればいいのかと悩んだ。絞り込んだ候補は二つ。
 (A)警察に電話。(B)ピーターに電話。
 通報して警察沙汰にすれば、無料でギャラリーの宣伝にもなる。どうせ、夕べのオープニングパーティのおかげで、すでに東海岸一帯のブログでうちのギャラリーについて書きたてられていてもおかしくないし──だが、通報すれば、ピーターは癇癪をおこすに違いない。ギャラリーの信用も落ちる。
 ピーターは、『まず私の指示を仰ぎたまえ』と言うだろう。疑いなく。
 僕はデスクの表面で指を鳴らした。
 大体、行方知れずのジャスティン・ティンバーレイクについて、僕に責任があるわけじゃない。僕のミスではないのだから、気をもむことは何もない筈だ。セキュリティをセットし忘れたのは僕じゃないのだ。
 上司に指をつきつけてそう言い放ち、このギャラリーを辞め、もっと麗しい(そしてきっと金払いもいい)マロリー・アルブライトの下で働き始めることだって、可能性としてはアリだ。彼女ならきっと翼の下に僕を受け入れて庇護してくれるだろう。それどころか、たまにはクリエイティブな仕事への口出しを許してくれたりするかもしれない──オーバーワーク気味のケーターやロングアイランドの美術運搬業者の相手なんかより、もっとマシな仕事が回ってくるかも! ピーターなんか、自分で料理をケータリングして自分で作品を運搬すればいいのだ。九万ドルをつぎこんだ僕の学歴も、これでやっと報われるというもの。
 だが、もしシェプが誰かに乱暴されて服や持ち物を奪い取られたんだとすれば──それが事実だったら──そしてそれが、ポピーのケータリングスタッフの仕業だったら、そのダメージは、ポピーを傷つける。
 彼女を見捨てていけるわけがない。
 窓の外はすべてが明るく輝かしく見えた。道ばたの、ゴミであふれ返った小型のゴミ収集容器は別だが。
 ふっと、とんでもない考えがひらめいた。
 ひょっとしたら──もしかしたら、シェプと新しいお友達はJTの胸像を壊してしまって、ゴミ箱に隠したとか?
 だったら僕にも直せる。ちょっとの接着剤と、ちょっとのフラワーアレンジメント用針金、それで誰にもバレずにすむ。何ブロックか先の画材屋で材料は揃うし、ちょちょいのちょいで済む──そんなもんだろう?
 魅惑的なコーヒーの香りに背を向けると、裏口の掛け金を外して、僕は外へ歩き出した。コーヒーは一仕事片付けてからだ。そのくらいのご褒美は必要だ。
 目を細めながら、昼の陽光の下へと出た。
 悪臭漂うゴミ回収箱へ道を渡っていく僕を、裏道に座りこんだホームレスの二人組が眺めていた。
 茶色の、大きなゴミ回収箱。その中は多種多様なねばねばと、害虫と、微生物と、病原菌とに満ちていた。もし中に入ろうものなら……いや無理だ、不可能だ。ゴミ箱に入るなんてありえない。ありえなさすぎる。
「やあ」僕はホームレスに手を振った。「中で探し物をしてくれたら、二〇ドル出す?」
「ふざけんなよてめェ、おいらはそんなトコ入らねェよ」
 赤いニット帽をかぶり、薄汚れたチェックのバッファロージャケットを着こんだホームレスが、僕を笑いとばした。そばにいる連れをつっつく。
 第二の男は、すすけたコートを着込んでしゃがみこんでいた。彼はうなずき、読んでいた本から顔を上げた。二人は段ボールの上に肩を並べて座り、まるでテレビのモーニングショーでも眺めるように僕をじいっと眺めていた。彼らの間に鎮座しているのは、昨夜のパーティのためにティノ叔父さんに安く融通してもらったジンの瓶で、もうほとんどからっぽだ。
 僕はゴミ収集箱の蓋をバタンと開けはしたが、そこで今日着ているカシミアのセーターを見下ろし、顔をしかめた。ブルーミングデールズのセールで買ったセーターなのだ。なけなしの給料でしのいでいる僕にとって、このセーターはタンスの中で一番上等の服だった。正直、服にこだわる方ではないのだが、やわらかなVネックで、バターのようなクリーム色のセーターにはしみひとつない。これを着たままゴミ箱の悪臭の中を探し回れって?
「五〇ドル」
 僕は、値を吊り上げた。五〇ドルなど持ってないが、シェプなら払える筈だ。このセーターを賭けてもいい。
「六〇」彼は素手で鼻をかむと、泥色になったズボンになすりつけた。
「そんな……交渉するつもりか? 六〇ドルなんか持ってないよ」
「いいセーター着てるなぁ? カシミアかい?」
 僕は腕組みして、目を細めた。「交渉には応じない。ちょっと登っていって、中に時計で作られたオブジェ作品がないかどうか見てくれるだけで、五〇ドルだ」
「ありゃあ。いーや、んなもんはあの中にゃなかったな。十分ぐらい前に見た時にゃ」
「もう入ってみたんだ?」
 彼はうなずいた。「夕べの馬鹿騒ぎの残りのケーキがいくつかあったさね。ジョゼフもちょっくら、何か、飲みもんをめっけてな」
「昨夜、このドアから誰かが出ていったのを見なかったか?」
 僕は石段と、ギャラリーのキッチンへ続くあけっぱなしのドアを指さした。
「何人かいたさね。バンに何か積んどった。デカい箱かかえた男もいたなぁ。そいつは随分遅くに、車に乗っかってった」
 ほほう。いい情報。「どんな見た目だった?」
「白人さ。シャツなしで、蝶ネクタイをしとったよ」
 またそれか!
「髪の色は? 背の高さは?」
「んぁ? 背ぇ高くて、締まってて、野球帽をかぶってた。暗くてそんだけしかわからねェ。五〇ドルくれんのかくれねえのか?」
「自分で中に入ったんじゃないか」
 とは言え、僕は彼に十ドル払った。僕の今日のランチ代と、地下鉄の切符代だ。
「その男を見たのは何時ごろだった?」
「夕べさ。なっ、ジョゼフ?」
 ジョゼフというのは、段ボールの寝床に座ってロマンス小説を読んでいるもう一人のホームレスの名前らしい。彼はうなずいた。
「うんにゃ。俺が思うに、夜中ちいとすぎた頃でねえかな」のんびりと答える。「キャプテンが、あいつはすっぱだかだっつってたな」
「ちげえよ。見せつけてやがるっつったんだよ」
 キャプテン? それがこっちの男の名前か。
「そいつはどんな車に乗ってた?」
「タクシーさ。黄色いやつで、ベコベコへこんでた」
 これはもう、警察に通報するべき事件だろう。
 だがかわりに、僕は作者のジャン・リュックに電話をかけた。留守電につながる。続いて上司のピーターにもかけた。これも留守電だったが、こっちにはメッセージを残した。「ピーター、作品に関して確認したいことがあります。すぐ電話して」
 それから早足に中へ戻ったが、キッチンでゆったりくつろいでいるシェプ・マクナマラの姿を目にして、僕は思わず立ちどまった。
 ゴージャスな姿と同じぐらい、コーヒーカップをつかんだシェプの手も美しく、お手軽に腰に巻き付けられただけのテーブルクロスが見事なドレープを見せていた。僕のコーヒーカップで、僕のコーヒーを飲んでいる。まるでミケランジェロのタビデ像を思わせる、見事に彫り上げられたような姿。ダビデ像のように体毛もつるつるだ。
 しかしやっぱりわからないのが──
「何でお前、オレンジ色をしてるんだ、シェプ?」
「エステルさ。彼女が取ってきた仕事で──『ミスター・ポッターのララバイ』ってやつ──俺の肌がもっと陽に焼けてた方がいいって話になってな、それでさ」彼はくつろいだ笑みを浮かべた。「多分、俺の髪を明るく見せるためじゃないかな?」
「いやお前はでっかいウンパルンパにしか見えないよ」
 シェプはくすっと笑った。「どおも。まあ、何日かのうちに落ちつく筈なんだよ。ぱっと見、ビックリしちゃうだろ?」
 怒りがふつふつと再沸騰してきた。
「いつまでも酔っ払ってないで、さっさと出てってくれないか。仲良くおしゃべりしてる場合じゃないんだ。夕べ一緒にいたのが誰だったのかも思い出せよな。通りにいる連中の話だと、夜中に誰かが裏口から出てったらしい」
 シェプの手が腹をすべり、テーブルクロスの下で割れた筋肉をさすった。コーヒーをすすりながら、カウンターにもたれかかり、おなじみの『朝食を食べる男』そのままのポーズを取る。こいつは一度か二度、いや一ダースぐらいはシリアルのCMに出演してきた筈だ。いや勿論、見るたびに数えていたりなんかはしないが。
 何より最低の現実は、オレンジ色で、二日酔いで、ゲロみたいな臭いを漂わせているというのに、それでもシェプがスターに宿命づけられた者特有の華麗さを失っていないというところだ。僕だって、こいつから何か売りつけられれば、何でも買ってしまうだろう。すでに、山ほど試して懲りていなければ。
「俺は何も覚えてないよ、シーザー。ただ……わかるだろ、誰にも、俺が男と──なんてこと、知られるわけにはいかないんだ。今はまだ言えない。せめて番組が始まるまで。それか、第一クールが終わるまではさ」
「そおおおおおおかい」
 不機嫌に言い返していた。
 前に全部聞いたセリフだ。せめてクリスマスがすぎてから。せめて春休みまで待ってくれ。卒業したら。復活祭の後なら……
「僕は警察に通報するよ」
「何だって!?」
 ガチャンとカップを下ろしたシェプからは、魅力の薄皮がべろりと剥がれ落ちていた。
「いや、駄目だ……駄目だ、早まらないでくれ、シーザー」
「早まる? 僕の仕事がかかってるんだぞ!」
「俺の人生もかかってる!」
「昨日の客の中に、刑事が一人いたんだ。彼に電話してもいい。グリーン刑事」
 言いながら僕は、あの男の引き締まった、知ったかぶったような笑顔と、こちらを探るような視線を思い出していた。
 しかし彼から渡された名刺は、かえりみることなく捨ててしまった。早まったか。
「……だってなあ、お前が通報すれば、警察は事件の報告書を作るだろお、そうしたら俺の名前が調書にのっかって、そしたらさあ……」
「お前だけの問題じゃない。夕べ、お前が僕のギャラリーで引っかけたお相手が、うちの物を盗んでいったんだよ! この自己中め」
「そう決まったわけじゃないだろ……」
「決まってるね。まず大体、お前が自己中なのは決まりだし」
 コーヒーポットで奴を殴りつける前に、僕の携帯電話が鳴った。ポピーからだ。
「ポピー、シェプのズボンかなんかをちょっとここまで持ってきてくれないか?」
『今どこ? 何で? あっ、ちょっとやめてよね、まさかあいつと寝た? いくら何でもそんな馬鹿なことはしなかったでしょ?』
 彼女の声は甲高かった。その背後で、何か呟く低い声が聞こえる。
「勿論そんなことしてないさ。僕だって馬鹿じゃない」
 少なくとも、昔ほどはね。
 シェプはカップボードを開け、何かをがさがさと探し回っていた。奴の姿はさらに色づいていた。肌が、まぶしいほど鮮やかなオレンジ色になっている。
「シェプが夕べのゲストとセックスした後、ここでのびちゃってさ。誰かはわからないけどそのお相手がご親切にもこいつの服を盗んで置き去りにしてった」
シェプが吐き捨てた。「どうもありがとう! おかげで後でこっぴどく言われるさ。鎮痛剤タイレノール置いてないのか?」
 僕は首を振った。「どこにいるんだ、ポピー? 誰かと一緒? 男?」
『今日はお店はお休みにしたのよ』
 彼女は用心深い返事を返してきた。誰かの声がまた、背後で何かを呟く。お、隠し事の匂い。
「休みにするなんて聞いてないけど」
『今朝決めたんだもの……あのね、週末いっぱいいないから。車をパーキングロットに停めたままなんだけど、私の家まで動かしといてくれる? 二日分も払いたくないのよ。鍵はデスクの引き出しにあるから』
「ポピー。うちの作品が──」
 シェプが勢いよく首をぶるぶると振った。「彼女には言うな!」
 僕は片手を上げた。「何だって?」
『待ってよ。まだあいつそこにいるの?』
「ああ、だからズボンのために電話したんだ。ちょっと待っててくれ」
 シェプがすがりつくようにたたみかけた。「たのむよ。今はやめてくれ。とにかく黙っててくれ。たのむから!」
「まともな理由を言ってみろよ」
 彼はあまりにも焦りまくっていて、大きな目でいつもの芝居をする余裕もない。
「とにかく俺の仕事がかかってるんだ! たのむよ、俺、お前を手伝うからさ。誓って手伝う!」
「ポピーに嘘をつけって? また昔のようにか、シェプ?」
「今度の仕事ばっかりはポシャるわけにはいかないんだ。一日だけでいいから! 夕べここで働いてたウェイター全員に、俺が電話で確認するよ、なっ? ゲストの方もまかせてくれ。絶対手伝うから。相手が誰かも思い出すよ! そしたら多分、夕べ何が起こったのかも思い出せるさ──」
 こいつの言い分をまともに考慮し始めた自分がいささか信じがたかったが、二日酔いのシェプは汗をかき、自分の関与がポピーや誰かにバレやしないかと、心底すくみ上がっていた。僕よりもずっと。
「じゃあ……一日だけだぞ。ただし、上司には報告しないと」
 彼はほっとうなずいた。「もし警察に通報しなきゃいけないようなことになったら、たのむから、俺の名前は出さないでくれ」
「いい加減に大人になれよ、シェプ。もう二十八だろ?」
 それから僕は電話に向かって返事をした。
「車は家に動かしとく」
 彼女の仕事場のスペアキーは、まさにこういう緊急事態のために僕のキーホルダーにぶら下がっているのだ。
『シーザー、シェプのこと、ごめんね。昨日のオープニングパーティに来るなんて考えてもみなかった。あいつは馬鹿よ』
「うん。知ってる」
『でもホントにホントなの? あいつが今、ギャラリーに素っ裸でいるって?』
「今この瞬間もキッチンにいるよ。テーブルクロスを着てる。オレンジ色で、ゲロみたいに臭う」
 シェプは後ろにもたれかかりながら僕を不安そうに見ていた。彼のトーガはぎりぎり腿まで届くぐらいで、右の脇の下で布が割れている。腰のあたりで布をつかまえてはいたが、うっかり動かれると全部がまた丸見えになってしまいそうだった。毛がなくてでかいアレまで、全部。
 ポピーが声をひそめた。
『シェプには私の声、聞こえてる?』
「今? いいや」
 彼女は激しい声で、
『あんたのギャラリーでセックスですって? つまりあんたが仕事してる鼻先で誰かをひっかけてそいつとヤっちゃったってこと? ちょっと待ってよ、相手は女なの? まあどうでもいいけど──そんでそのまま、あんたが朝出勤するまで出ていかずに居座ってたってわけ? ああああ、ほんっとにあいつらしいわ。まさにらしいわ。あの根性悪!』
「ああ、本当に。その一言に尽きる。もういいよ」
『ほんとにほんとにごめんね。夕べ、私もあいつを探したのよ。でも見つからなくて、帰ったんだと思って……さもなきゃ放り出してやったわよ。後片づけと、あのウェイターたちをまとめなきゃいけなくてとにかく滅茶苦茶で、それから後は……全部積み込んで、家に帰ったわ』
 向こう側でまた何か低い声がして、ポピーが電話口を手で押さえた。ぼそぼそとこもった会話があってから、『もう切るね』
「ちょっと待って。夕べ、何か物が壊れたのに気がつかなかったか?」
『いいえ、壊れたのはあのムカつくオーブンだけ──あとグラスがいくつか割れたかも。何で? 何か壊しちゃったの?』
「かもしれない。また後で。ポピー、コンドーム使えよ!」
 僕は電話を切った。
 シェプが心をこめて言った。「ありがとう!」
「お前のためじゃないから礼はいらない。フロントドアの横にクロークがあるから、何か着るものがないかどうか見てこいよ」
 僕は自分にコーヒーを注ぎ、砂糖を二杯半加え、それから自分のオフィスに戻った。
 ちっぽけな部屋だが、ありがたいことに窓はある。生き生きとしたフィロデンドロンの葉に日の光がふりそそいでおり、青々とした葉群れがそろそろ床につきかかっていた。
 希望をこめてあたりを見回した。JTの送り状が、本棚の下かなんかに落ちてないだろうか?
 カーペットに膝をつき、もう五回目の確認を行ってみる。
 シェプがドア口にやってきた。僕のジャケットを着込んでいたが、丈が足りていない。僕の背が低いわけではないが、イタリア系で六フィート──一八三センチ──を越す人間は多くないし、僕自身、この一生の間にはそこまで届きそうにない。
 椅子にどさっと腰を沈めた瞬間、僕の携帯電話が鳴り出した。アーティストのジャン・リュック・パピノーからだ。
 たっぷり一口分のコーヒーを飲んでから、電話に出た。
「もしもし」
『シーザーか?』
「ジャン、お早うございます。今朝の調子はどうですか?」
 本当は叫びたいぐらいだった。行方不明のジャスティン・ティンバーレイクの頭はそちらに!?
 だが、僕は目をとじて、奇跡を祈った。
『いいよ。ずっといいねえ、なんせカネが川みたいにざぶざぶ流れこんできてるからな!』
「そうですね。夕べの成功、おめでとうございます。とてもよかった」
『ああ、ほんとさ。そんでだな、マロリーと夕べ話してな、そしたらあの女がやっとこさ折れてくれて、一緒に展覧会をやることになったんだ。ニューヨークをテーマにした現代美術のナイトイベントでな、社会相関性?そんなことを何か言ってたな。その手のデタラメを。だからな、オブジェを二つ、パリネラんとこまで運んでくれ──どっかに送っちまう前に、な? そこで写真を撮ってもらっといてくれ』
「僕がですか? それは厳密には職務内では──」
『ピーターから電話があるから、そっちで聞いてくれ。夕べあいつともあれこれご相談したのさ。お前さんが帰った後でな』
 何故そんな大事なことをピーターは書き残していかないのだ。
「わかりました。運ぶのはどれですか?」何が来るか予感があったので、僕は息をつめて待った。「プリンターから出した作品写真なら山ほどあるので、もしかしたらその中から選んで──」
『いや、彼女がほしいのは専門家キュレーターの視点からの写真だ。そいつじゃ役に立たん』
「わかりました、言っただけです。どの作品を? ブルームバーグ? それならニューヨークとの社会相関性的にもいいと思いますが」
『いや。それじゃおもしろくも何ともない、だろ? あれは頼まれもんだしな。マロリーは、ジャスティン・ティンバーレイクがいいってさ』
「うっ……でも……彼は……ニューヨーク出身じゃありませんよ」
『どうでもいいさ。あの女がボスだ。俺は売れりゃあ何だってかまわんよ』
 僕は咳払いをした。シェプが入り口に立って僕を見つめ、一言洩らさず聞き入っていた。
「マロリーの希望ですか……」
『ああ。ティンバーレイクとドナルド・トランプの二つな。運送屋をそっちによこして梱包させるよ。今日はどうだ?』
「無理──無理です! ええと……明日も忙しいので……水曜の朝一にしましょう、どうしてもって言うなら。僕は、月曜と火曜は休みなので。それで、あの、夕べ、作品のどれかを持ち帰りませんでしたか? それか、誰か、家に持って帰った人とかいませんでした?」
 何て馬鹿な質問だろう。
『誰かに持って帰ってほしかったねえ。なあ、ドナルド・トランプを買った幸運な野郎な、そいつのところにまだ送っちまうなよ。ティンバーレイクの方は誰かがほしがったら売りつけてやってかまわねえが、マロリーの件が終わるまでブツはこっちで押さえとくんだ』
「わかりました……はあい……」何だかうちのおばあちゃんのような話し方になってきた。「そうします。ほかに、売買契約は……僕が知っておくべき、売上げとか、その、何か──ありました、か?」
 しどろもどろになるのが自分でも嫌だった。ストレスがかかると、この難儀な癖がひょっこり出てきてしまう。
『一体どうしたよ? まだ酔っぱらってんのか? 夕べはサイコーのパーティだったな、シーザー。マジでイカしてた、またたのむよ。俺の次の結婚式とかな。そのうちに』
 今度はウェディングプランナーか?
「あの、僕は別にパーティをやるのが仕事ってわけじゃ──」
 ぶちっ。ジャン・リュックが電話を切った。
 ──何てこった。
「……シェプ、僕のジャケットを脱げ。あとお前のエージェントに電話して、三十分以内にここから追い出されるって知らせろ。三十分たったら僕は出かけるぞ」
「一体何をそんなに苛々してんだよ?」
 憤慨して、僕はまた宙に両手を振り上げた。「お前本気でそれ言ってんのか?」
「ああそれそれ、好きなんだよ。お前のその手の動き」シェプは僕を真似て腕を振り上げる。「”命が惜しけりゃ忘れろ!”」
「そんなことしてないだろ!」
 その時ギャラリーの電話が鳴り出して、僕らは二人でその電話を見つめた。
「シュトルマンギャラリーです」
 僕は電話口にぼそぼそっと答えながら、イタリアン独特の大仰なハンドジェスチャーをこらえた。ただひとつだけ、中指を使うジェスチャーは別だが。その指はシェプに向けてやった。
『シーザー? 私よ、マロリー・アルブライト』
 ああ、勿論、彼女からの電話に決まっている。
 僕はだらりと手をおろした。背すじをのばして座り、マロリーの洗練されたいかにも上流っぽい物言いを真似る。
「おはようございます、マロリー。今日のご機嫌はいかがですか?」
『上々よ、おかげさまで。夕べはとてもおもしろかったわ。楽しい時間をすごせてよかった。ジャンから話は聞いた?』
「ええ。たった今、話したばかりなんですが。あなたがドナルド・トランプのオブジェを使うと聞きました。それと、マル、その話なんですが──」最大限、説得力を持たせようとがんばった。「どうせならもう一つは連続殺人犯の”サムの息子”のオブジェを使うってのはどうでしょう? 色々と……凝縮されてる作品ですし。それに、犯行はニューヨークだったので都市色も出せますし、それに……使われてるパーツも……特に首のあたりを構成するバックルなんか、ニューヨークの司法の勝利を象徴していると言えますし──」
『いいえ、ティンバーレイクを使うわ。もっと値段を上げてもあれなら売れるわよ。ショーの核になるオブジェになる。あのねえ、そんなお題目、いくら言っても耳にタコができてるから私には効かないわよ』
 僕は弱々しく言った。「もちろん、おっしゃる通りにしますとも」
『私の知り合いの女の子のいとこがあいつとデートしてたのよ──あの、”サムの息子”とね。ほんとにむごたらしい話だわ』
「……そうでしょうね」
 マロリーのアシスタントのステファンが本当に月曜の朝一で辞表を出してくれれば、万事うまく転がるかもしれない。僕は新しい職にありつける。JTの胸像は自分で探してもいいし、誰かに探してもらってもいい。
 そこでまた、ダン・グリーン刑事の顔を思い出した。
 だが今回は、刑事よりも私立探偵の方がいいかも。今どきまだどこかにいるだろう、私立探偵のひとりやふたり?
 僕はシェプを見やった。彼は眉を上げ、キッチンへ入っていった。
『水曜の朝に会いに来て頂戴。十時半、それでいい? ステファンは午前中外しているけれども。あとあなたのお友達のケーターの電話番号がほしいのだけれど、メールで送ってくれるかしら? 前にもらったのをなくしてしまったようでね』
 彼女のやわらかく抑えていた口調が、きびきびしたものに切り替わった。
「わかりました。やっておきます」
 ポピーはすでに手が回らないほどの仕事を抱えこんでいるが、たとえ僕自身が料理を運ぶ羽目になったって、マロリーのご注文とあれば応えなくては。
 実際、やってやれないわけでもないしな。
「お望みのものがあれば、何なりと。ご存知でしょうけど」
『ありがたいわね』
 彼女は電話を切った。
 これで水曜まで時間は稼げた。JTを何とか見つけられる──筈だ。
 僕は引き出しを開けると、バターラム味キャンディの袋と、ジャン・リュック・パピノーの作品カタログを引っぱり出した。カタログの表紙からは、奇妙に精緻なジャスティン・ティンバーレイクの顔がセクシーに僕を見つめ返している。
 キャンディを口に放りこみ、ペンをつかんだ。昨夜、僕が帰った後、ここに残っていたメンバーのリストを作ろう。
 大したリストではなかった。ジャン・リュック、ポピー、ピーター、後はケータリングスタッフのレイチェル、ブランドン、アンドレ……それと、シェプか。
 ほかにウェイターが何人か、残っていたかもしれない。それと、マロリー。確認していかないと。
「今のマルって誰だ?」
シェプが戸口にまた姿を見せる。どうやら僕の冷蔵庫からかすめとってきたらしいブドウを、手いっぱいにつかんでもぐもぐと食べていた。今度はテーブルクロスをスカート風に巻き付けていて、まるで映画『300スリーハンドレッド』のエキストラのようだ。
 彼は、例によって親しげな微笑を浮かべていて、心臓がドキリとするぐらい美しかった。どうせこれも演技なのだ。そんなのはわかっていた。バターラムキャンディをなめながら、飴を含んだ僕の口元が引きつる。
 その瞬間、頭上のどこかで甲高い音が鳴り出した。
 シェプと僕は凍りつき、お互いへの不信感がよみがえったかのように相手を凝視する。
 それは携帯電話の呼び出し音だった。
 スカートをはためかせ、シェプが全力で走り出す。チャラチャランと、小さいくせに強気な音がまた鳴り、僕はどたどたと階段を突進していくシェプの足音を聞きながら椅子にもたれた。図体はでかいわ慌てふためいてるわで、実にやかましい。奴が手すりのあたりをバタバタと探し、廊下を手で叩き回っているのが聞こえてきた。
 オフィスに吊られたフィロデンドロンの葉がゆらゆらと揺らいだ。
「どこだ!?」
 シェプがわめく。
 何かが、カタカタと床の上をすべっていった。
 どうしてあいつは最初から自分の携帯に電話してみなかったかな。
 シェプに関することとなるといつでもそうだが、僕はふっと疑り深くなる。携帯の呼び出し音がとまり、シェプがしゃべる低い声が聞こえてきたが、内容は聞き取れなかった。奴への猜疑心だけでなく、それをしのぐほどの強い怒りがこみあげてきて、心底うんざりする。お気に入りの飴の味まですっかり台無しだ。
 僕はごくりと唾を呑み込むと、こっそりと、廊下で盗み聞きしやすい位置を探した。
「ああ。わかってる。わかってるよ。そうする。いや、やってない。ちゃんとわかってるって……」
 シェプの声音は、誰かを言いくるめようとしている時のもので、僕がさんざん身にしみている響きだった。
 階段の方へそっと忍び足で向かう──が、ギャラリーの正面のドアを誰かがコンコンと叩いて、僕は立ちすくんだ。
 今度は何だ?
 二階にいる筈のシェプは静かに息を殺していて、僕は奥歯を噛んだ。隠れるのはあいつのお得意だ。毎週土曜の五時になると、司祭から身をひそめる僕の父親並みである。
 空の台座の上の壁にぶら下がった、額縁つきの鏡で、僕はまず自分の格好をチェックした。悪くない。顔つきは締まっているし輪郭はくっきり、顎もなめらかでひげもない。ペストリーの残りも歯についていない。目はいささか充血気味だったが、目薬で何とかセーフ。
 僕はギャラリーの入り口へ向かった。
 ドアに行きつくかなり手前から、誰が待っているのか見えていた。ダン・グリーン捜査官だ。何というタイミング。
 どういうことかわからないが、男は昨夜よりも背が高く、肩幅まで広く見えた。朝の陽光がさし、その黒髪は深い赤の色味を帯びていた。
 彼は、そこに立って僕を待っていた。ミントグリーンのポロシャツを着て、濃いサングラスをかけている。『ストーカー』という単語がふと頭をよぎらないでもなかったが、僕はその考えを追い払った。この男には、何か目当てがあるのだ。
 僕に気があるのも確かだろうし、それもここに現れた理由のひとつかもしれない。だが、捜査の一環なのはまずまちがいない。賭けてもいい。
 僕はドアを開けたが、ドア枠の上部に手を置いて、彼が入ってくるのを防いだ。「お早う、刑事さん」
「いや、ダンと呼んでくれ」
 二階に身をひそめたシェプの恐怖が、頭上からずしりと伝わってくる気がした。
「わかりました、ダン。何か用ですか? ギャラリーは十一時まで開かないんですよ」
 彼はサングラスを外して、表情のない目で僕を見た。「もう、十一時半だが」
 僕は腕時計を見た。正確には十一時三十八分。
「あっ。ええと、はい! どうぞ、入って。ええ」
 床板にやわらかな足音を響かせながら、ダンはギャラリーへ入ってきた。僕とすれちがう時に鼻をうごめかせ、彼は唇をぴくりとさせて、奇妙な浅い笑みを見せた。この男、えくぼがある。
「甘い匂いがするな?」
「飴ですよ。ライフセイバーの、バターラム味」僕も彼についてギャラリーの奥へ歩いていく。「それで、刑事さん。何かこちらでお役に立てることが?」
 こっそりと階段を盗み見たが、シェプの姿は消えていた。まあ当然だろう。僕自身、今はどこかに隠れたい。
 ダン・グリーンは僕の質問を無視した。
「ダンだ、そう呼んでくれ。夕べは大したパーティだったな、ミスター・ロマノ」
 彼の声が、まだ半分眠ったようなギャラリーに反響した。音をやわらげるためには何か音楽をかければいいのだが、もうすでに今日はギャラリーを開けないと決めていた。この連中を追い出したら、僕もすぐに出かけなければ。ポピーの車をくすねて、夕べここにいたウェイター全員に電話をかけて、シェプと寝たのが誰かつきとめてやるのだ。まあ、全員がお相手かもしれないが。シェプの記憶があれじゃあね。
 ダンはまだ世間話を続けようとしていた。
「ちょっと近くまで来てな。ついでに、ここに寄って君に少し話を聞くのもいいかと」
 白々しすぎるだろ。
「そうなんですか? 何について?」
 僕はまた彼を横目で見た。この男の存在は……あるいは──もしかしたら──『使える』だろうか? 何と言っても警官だ。脅威となるか救いの手となるかはともかく、もしジャスティン・ティンバーレイクが見つかってハッピーエンドに落ちつけさえすれば、僕は何だっていい。
 僕は咳払いをして、人当たりのいい有能な仕事人格を表に出した。
「夕べの展示会はいかがでしたか? おかげ様で、大勢の方に喜んでいただけまして。それとも、捜査のことで何かご用でしょうか?」
 彼はまるで謙遜するような小さな笑いを喉の奥でたて、僕は頭の中でアラームが鳴るのを感じた。
 ──こいつは嘘をつこうとしている。
 額にかすかな皺が現れて、それからダン・グリーンはまた微笑した。そうすると少し若く見えた──大体、三十代後半ぐらいという感じだ。昨日とはすっかり印象が変わっていて、鮮やかな変化にこちらが落ちつかなくなるほどだった。
 僕はちらりと見おろした。今日は、左手に指輪もない。
「いや。捜査じゃないよ。このギャラリーに興味があってね、いつもはどんな様子なのか。それにあのアーティスト、ジャン・リュック・パピノーにもな。夕べパンフレットはもらったが、できれば作品カタログがほしい。昨日はそれどころじゃなかったんだ。色々あったからな」
「ええ、本当に。結果的にはフーターズよりおもしろかったでしょう? じゃあ、カタログがご希望ですね。ええ、勿論、わかりました」
この・・ギャラリーに興味が? うちのギャラリー限定で? 一体どういうことだ?
 ギャラリーの電話が鳴り出した。
「失礼、刑事さ──ダン。電話に出ないと」僕は廊下の電話を取った。「シュトルマンギャラリーです」
『あいつは何だ?』シェプが、二階のどこかから囁きかけてきた。
「ご用件は?」
 北サロンの入り口に立って行儀よく距離を保ったままの刑事を、僕はちらっと盗み見た。こわばった笑みを投げる。
『そいつはレポーターか記者か何かか?』
 芝居がかった囁きなのに、どういうわけかシェプの声は大声で命令しているかのように高圧的に響いた。さすがに役者だ。ダン・グリーンも奴の演技力を見習った方がいい。本当に。
「いいえ。どなたか、ご存知の方に連絡はつかないんですか?」
 別の言葉にすると──さっさと服を着て、こっちを手伝いやがれ。
『はあ? いいや。なあ、シーザー、今そこにいるのはレポーターかパパラッチか何かじゃないよな?』
「まさか本気で言ってませんよね? 違います」
 電話を切った僕を、刑事が好奇心丸出しの目つきで見ていた。
「間違い電話でしたよ」
「みたいだな」
 ダンは何気ない足取りでぶらぶらと南のサロンをうろつきながら、あらゆる細部を目に焼き付けている様子だった。ジンの残り香はまだ濃く漂っていたが、部屋は片付けられている。ジャン・リュックがブリーフ一枚で踊った昨夜とは違って、陽光の元で、サロンはその威厳を取り戻していた。
 大リーガー、デレク・ジーターの胸像をじろじろ眺めているダンを、僕は目で追った。彼なら、何か僕が見落とした証拠を見つけ出せるのだろうか? この男がここにいる本当の理由は?
 そばについていった方がいいのかどうかもわからず、どっちつかずの気持ちを抱えたまま、やむなく僕は廊下に立ったままでいた。
 今朝の彼は、夕べほど人畜無害には見えなかった。日の光の元で見る彼は、夕べのように古くさくもなければ、よれよれでもない。ポロシャツとジーンズ姿の全身が力強さを放っていた。足元にはバイカーブーツを履いている。
 うさんくさいほどのタフ・ガイ。しかもいかがわしいほど魅力的ときてる。
 僕はそのままそこで待った──建物はオーブンの中のように暖かく、自分のセーターに包みこまれて、蒸されている気分になってくる。パニックのあまり何かの発作でも起こしかかっているのだろうか。
 僕は今から消えたオブジェを探し出し、シェプをこのギャラリーから脱出させ、電話で皆に事情を聞き、ポピーのトラックを移動させないとならないのだ。新しい就職先も手に入れないと。いつかは祖母と一緒に暮らしているあの家から出て、独り立ちもして──
 道に迷いそうだ。今必要なのはナビゲーターだ。
 僕は袖をまくりあげ、肩を回し、決心を固めると、刑事へ向かって一歩踏み出した。彼なら、どうするべきか道筋を教えてくれる筈だ。
 だが二階から聞こえてきた物音に、またぎょっとして立ちどまった。
 シェプが堂々と階段を降りてくる。
 奴はもう、スカートを履いてはいなかった。驚いたことに服を着ていた。
 プラチナブロンドはいささか乱れていたが、それでもブラッド・ピットが若い頃よりハンサムに見えるくらいだ。青いセーター、二〇〇ドルのジーンズ、蛇革のブーツ──まったく、宇宙は不条理だよ。少なくとも彼はまだオレンジ色のままだったが、そうでなければまさに圧倒的されそうな姿だった。
「シーザー」
 シェプはカリスマ的な笑みを浮かべた。サロンにいるダンの方をチラッと見ると、第三者への説明をわざわざつけ足す。
「トイレを使わせてくれて、どうもありがとう」
「……どういたしまして」
 それから、シェプは刑事に向けて軽くうなずいた。
 二人がお互いに相手を品定めしているような、奇妙な感覚が僕の背を走った。刑事はシェプが誰なのか探ろうとしているし、シェプはこの男と寝たことがあるかどうか思い出そうとしている。
 シェプが真心をこめて続けた。
「さて、俺はもう行かなきゃ。コーヒーごちそうさま」
 あつかましくも、こいつは僕の手を握ると、肩をぱんぱんと叩いた。拳で叩いてくればやり返せたものを。
「今こっちも手が空くよ。シェパード、そこのオフィスでちょっと待っててくれないか?」僕は吐き捨てた。手伝うと言っただろうが。「一体どこにあったんだ──?」
 シェプが囁き返した。「ゴミ箱。携帯も」
 僕は彼の服にざっと目を走らせた。ズボンの尻にペーパータオルがひっついている。わざわざ指摘してやる気にはなれなかった。
 前髪がはらりと落ちて、シェプはそれを目の上から払おうと手を上げる。
 ダンがふっと思い当たった様子で微笑し、目尻に皺がよった。
「ああ、君はシリアルのCMに出ていたな? テレビで見たよ」
 いかなる状況下においても目立ちたがり屋のシェプは、笑みを返した。「ああ。そちらは?」
 もしかしたら、シェプはすでにダンが何者なのか──警官だと──知っていたりしないだろうか? 昨夜、二人がここで顔を合わせていたとか? シェプと寝て姿をくらましたのが、この刑事だという可能性だってある。夕べ、大体同じぐらいの時間に、二人とも姿を消しているし。
 僕は二人を見比べた。ダンは、赤丸急上昇中の俳優を目の前にしてもなんら感銘を受けた様子はなかった──だがもしかしたらそれだって、昨夜の彼らに親密なコトがあった証拠と言えなくもない。僕の記憶によれば、酔っぱらって半分萎えたシェプというのは、近づいたら後悔するしかないものなのだ。
「この男じゃなかったか?」
 僕は、口をとじたままシェプに囁いた。
 シェプは耳も貸さずに僕を押しのけ、握手の手をのばして前に歩み出た。とにかく目の前にいる物静かで注意深い男の、傷のある手を握りしめたくてたまらないらしい。僕らの失礼なひそひそ声の内緒話と、シェプの人参のような肌色について、ダンがどう思っているのかは不明だ。
 二人はお互いに名乗り合い、それからシェプは『捜査官』という言葉を聞くや、切りつけられたような表情で僕の方へぱっと向き直った。
「警察はなしだって言ったろ?」
 ダンが僕の目を見て、くっきりした眉を上げた。「仕事でここに来たわけではないが。ただのウィンドウショッピングみたいなもんだ。何かあったのか?」
「いいえ、シェパードの、権力に対する怖がり方がちょっと異常なだけです。あとこいつ、制服も苦手なんで」
「何をわけわからないこと言ってんだ、シーザー?」シェプがダンに向き直った。「いや、俺はダンという刑事役をテレビでやったことがあるんだよ。なあ、ちょっと凄くねえ? 俺たちの両方ともが”ダン刑事”だってさ!」
 くすくす笑う。僕はいたたまれなくなってきた。
「別に、警官だからどうだってわけじゃなくてさ──」携帯が鳴り出し、シェプはそれをじっと見た。「この電話に出ないと。エージェントのエステルからの電話だ。絶対大切な話だ。じゃ、また後でな!」
 奴はフロントドアから外に出ていき、僕は口を半開きにしたまま、段を駆け下りて道に飛び出していく背中を見送った。後ろ姿にひらひらとペーパータオルをなびかせながら、シェプがタクシーに手を上げる。
「それで、彼は一体何なんだ?」
 僕は鼻を窓ガラスに押し当てて、そのままダンと一緒に、シェプが携帯電話に何かを怒鳴ってタクシーにとびこむのを見ていた。一度も振り返りやしない。
「……あいつは俳優ですが」
「だな。どういうわけでオレンジ色に?」
「ウンパルンパをやるんで」
 刑事は小さな笑いをこぼした。思わず、こらえきれなかった笑いのようだった。
「それで……ダン、一体ご用件は──その、色々とあって、僕は……ええと、片付けなければならない用事が、あるもので……」
 道路の風景には興味を失った様子で、ダンは後ろにもたれかかった。「いつもこうなのか? 今、この建物にいるのは君だけだろ?」
「ええ」何だその質問は。「週末は大体一人ですよ。上司がお出かけしてない時は別ですが」
「よくわかった」
 何がどうわかったって?
「ええ、そんな感じで」
 僕は何の意味もない相づちを打ち、ダンにカタログを手渡した。ジャスティン・ティンバーレイクの、時計でできた、生気のない色とりどりの目が表紙から見上げている。
「これでいいですか?」
 彼はドア口にのんびりとよりかかったままだった。「実を言うと、ぐるっと案内してくれるとありがたい。君の時間のある時にでも、いいかな?」
「え?」
 僕は息を呑んだ。この男は本気だ。
「ええと、今日は無理……ですが。明日、また来てもらえますか」
 何がお望みかはともかく、何であれ今はそんな暇はない。
 ダンは壁を押して離れると、ポケットから出したサングラスをかけた。鼻の上でまっすぐに直してから口をひらく。
「そうしよう。明日、たのむよ」




--続きは本編で--

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